2019年9月26日木曜日

これは「生きものの記録」なのか

ここは自分のブログなので、クラシック以外のことも気の向くまま書くことにしました。「なんだこいつ」と思ったらすぐ閉じてくれて結構ですよ。

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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。


私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。

※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。

あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。

ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。

この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。

こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。

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2019年9月21日土曜日

かってに予告篇 ~東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回

●東京交響楽団 第673回定期演奏会川崎定期演奏会 第71回

2019年9月
  21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
  22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112

交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。

今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。

簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。

●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演



●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)

聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。

1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)

1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲

1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)

1957・Op.112初演※

※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。

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プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。

いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。

※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。

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なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。

追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。

交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。

これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。

ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。

2019年9月3日火曜日

もはや新時代の”召喚” ~東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

2019年4月21日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:小山実稚恵
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ウォルトン:戴冠式行進曲『王冠』
モーツァルト:ピアノ協奏曲第二六番 ニ長調 K.537 『戴冠式』
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36

曲目を見れば、王冠→戴冠→「闘争」(最後のものだけ私見)と並び、わかりやすく新時代を勝ち抜くプログラム。その読みはあまりに直球じゃないのか、と思われるかもしれないけれど、広告でも「時代は〜」と銘打っていたのだから、新シーズンの開幕と「新王の時代」の始まりを一どきに祝おう、というのがコンサート全体を通しての趣意と見るべきだろう。もちろん、そんな「あらすじ」の範疇に収まらないのがバッティストーニと東京フィルの演奏会なのだけれど。

冒頭に演奏されたウォルトンの行進曲はジョン・ウィリアムズ作品にも通じるきらびやかさ、この演奏なら「スター・ウォーズ」一作目の最後に流れても違和感がないほどで、このアプローチはバッティストーニ特有の「後世にこう影響したのでは?」という指摘含みに思える。この定形を守りつつも意外な転調が印象的な作品では、バッティストー二が指揮するときの東京フィル独特のクリアなサウンドがよく映えた。

モーツァルトでのバッティストーニは、なめらかに歌うピアニストにつけた、共演者としてのアプローチだったように思う。だがそこにも随所にバッティストーニのアイディアは活かされていた。オーケストラと言うよりも「指揮者付きの室内楽」にまで編成を絞ったり、ヴィブラートをきっちりかけた弦楽器によく歌わせたりとあまり”今風”ではない音はなかなか興味深いものだったので、願わくば今度は協奏曲や序曲じゃなく、交響曲でお願いしたい。一曲じっくり、バッティストーニのモーツァルトを聴いてみたくないですか皆様(そうか、モーツァルトならオペラって手があるか…←気づいちゃった人)。

メインのチャイコフスキーだが。これはバッティストー二が今までで一番、彼自身を投影した演奏だったのではないか。どこをとっても彼自身を感じさせる、パーソナルな感情が爆発した音楽だった。Bravo.

彼のオペラ演奏や協奏曲での伴奏ぶりを一度でも経験した方なら、彼のバランス感覚がとても強いものであることを知っているだろう。いかに音楽が熱を持ってもサウンドや様式感、構成への配慮を失うことはない。たとえば同じチャイコフスキーでも「悲愴」がそうだったように、どれだけ熱い演奏をしていても、そこでは知性が適切なハンドリングを行っている。もしかすると彼の身振りだって、没入したように見えるパフォーマンスかもしれない(いやそれは勘ぐりすぎなのだけれど)。
だが今回の第四番ではそうした配慮さえも乗り越えて、何よりも強く彼の施した「刻印」が感じられる演奏となった。どの一音を取り出しても彼の解釈が込められた、かつてこの曲で聴いたことがないほどに劇的な演奏だった。1月の「シェエラザード」よりも濃厚な表情付が徹底していた、といえば1月定期を聴かれた方にも想像いただけるだろうか。一楽章冒頭、あのファンファーレの重さから気乗りしないワルツの足取りの重さ、その繰り返しで高揚していく音楽と、言葉にすれば作品通りのことをきちんとしているわけなのだけれど、音楽は十分に配慮された響きを超えてなによりも感情を、ドラマを伝えてくるのだ。暴風吹き荒れるかのごとき第一楽章のあとは物憂げな第二楽章、例によって管楽器のソロが見事なのである。個人的には「快速のピチカート・スケルツォ」にするのかな、と予想していた第三楽章は意外と落ち着いたテンポ設定で、オーケストラのアンサンブルを誇示するようには響かず、むしろバレエの一場面のように表情豊かな演奏が繰り広げられる。
「三楽章がああならどうするんだ、終楽章?」とか思うスキもなく全力疾走で始まるフィナーレの激しさたるや、まさに炎のごとし。「これがイタリア人がこの表情記号から感じるアレグロ・コン・フオコか!」とその場で得心できるわけもなく、激流に翻弄された私である。民謡を用いた第二主題はどこか鄙びた雰囲気もあるはずなのに、それ以上の切迫感が聴き手を煽り続け、その緊張の頂点で第一楽章のファンファーレが帰ってきてしまう。嗚呼。しばしの落胆のあとの狂乱をどう受け取ったものか、混乱したまま全力疾走で駆け抜けるコーダは言葉にはならないが圧巻(言葉にしないほうがいいのだと今は思っている)、場内を圧倒して交響曲は終わった。これが、バッティストーニが愛するチャイコフスキーなのだ。

※あとでスコアを確認しておいたが、第三楽章は「Allegro」、ここでそれほど極端な表現は求められていないのである。なるほど。アレグロの第三楽章と、フィナーレの疾走感の対比は楽譜どおりのものと、いくら自己を投入していても、そこに明確な根拠があるあたりがバッティストーニだなあ、と思う私だ。

大喝采に答えてのアンコールに「威風堂々」第一番の短縮版、(もしかしてこのオーケストラだから、名曲アルバムヴァージョン?)なんてことは終演後に思いついたことです(笑)。あまりに激しいチャイコフスキーに翻弄されて、コンサートの「あらすじ」を忘れかけていた私たちに本筋を思い出させてくれる「ドラマのエンドロール」のようでもあったけれど、私としては今シーズンのバッティストーニが「イギリス音楽、やる気なんです」という意思表示と受け取りたい。9月の定期では「惑星」を演奏することももちろんだが、恒例となりつつある新宿文化センターでの1月公演で取り上げるのもウォルトンの「ベルシャザルの饗宴」なので!
この展開をみて、まずは本丸を押さえて進めるのがバッティストーニ流のレパートリィ拡張法なのかな…なんてことをぼんやり思い、次にまた彼の演奏を聴く機会を楽しみに思いながら帰路につく、幸せなコンサートだった。

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さてまもなく始まるバッティストーニと東京フィルの9月は、まずKバレエとの「カルミナ・ブラーナ」で始まる。まる一ヶ月以上にわたり、彼らは何かしらの舞台に登場してくれるので、ここで簡単にその日程をまとめてみよう(詳細はそれぞれのリンク先でどうぞ)。

●Kバレエ「カルミナ・ブラーナ」 (9/4、5)

●東京フィルハーモニー交響楽団 長岡特別演奏会(9/7)

●休日の午後のコンサート 「バッティストーニの感謝祭」(9/8)

●第925回サントリー定期(9/13)

●響きの森クラシック・シリーズ Vol.69(9/14)会場:文京シビックホール 

●横浜音祭り2019 オープニング・コンサート(9/15)

●第926回 オーチャード定期演奏会(9/22)

そして月が明けるとこの公演が待っている。このリハーサルが始まるためなのだろう、9月中旬からの公演数減少は。

●東京二期会 プッチーニ「蝶々夫人」(新制作 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場との共同制作) 10/3〜6(東京・上野)10/13(横須賀)


と、言うわけでバッティストーニと東京フィルの、8つもの会場を渡り歩いて一ヶ月半も続く、熱すぎる残暑が始まろうとしています。間もなく始まる「カルミナ・ブラーナ」から東京二期会の「蝶々夫人」横須賀まで、皆勤される猛者はいらっしゃるのでしょうか…(どこかが密着取材して映像ドキュメンタリーとか作ればいいのに)などと思いつつ本稿はおしまい。

2019年9月2日月曜日

認識が改まる喜びを ~東京交響楽団 第670回定期演奏会

●東京交響楽団 第670回定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

これは私事ゆえにどうにもできなかったのだけれど、昨シーズンはノット&東響の演奏をほぼ聴けず、ようやく昨年12月のヴァレーズ、R.シュトラウス公演で復帰できたばかりであることをはじめにおことわりさせてもらう。以前のように「このコンビはリハでこんな感じで、ゲネプロでこう、それなのにコンサートでは!」と取材に基づいて書けるわけではないのです。そうして間が入ってしまっているうちに、いくつかの録音もリリースされ、テレビでも演奏会が放送されて、私ごときの出番はなくなったので、今はそうですね…あえて言うなら「心の友」って感じでしょうか…(ジャイアニズム)。

もちろん、過去拝見したリハーサルは今も鮮明に思い出せるし(なんなら過去の記事も読んでください、どうぞ)、そこから作品によって、暗譜かどうかによって、などの要素からの類推はできるかもしれない。リハーサル開始早々に流れを整え、音色やフレーズ、リズムへの配慮を徹底させ、互いに聴きあうよう促す数日の濃密なコミュニケーション(こんなリハーサルを作業とは言いたくない、そんな思いがあるので何度も取材させていただいたのですね。その意図が伝わっていなければそれは私が悪いので、今更ですがお詫びします)。そして出来上がりを確認するはずの、通し演奏で終わるはずのゲネプロでまた新たな刺激をオーケストラに与えるマエストロ、全力で応えるオーケストラ。このプロセスを経てコンサートを迎える、場合によっては複数回違う演奏を繰り広げる…そんな関係がもはや短くもない時間続いているのだから、ある意味では安定してきたのだろうけれど、いつでも新たな可能性を開き続けているノット&東響に「安定」の言葉は似合わない。私たち聴き手が期待して高揚感をもってホールに向かうように、ノット&東響の各位も緊張感と期待感をもってコンサートに臨んでくれている。事前に取材していなくてもそう確信できるくらいに、今回の演奏会でも貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

…いやまだ文章を終わらせてはいけません、まったく今回の演奏会の話をしていない。

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私が今シーズンの東響定期で一番の注目と期待をしていたこのコンサートは、まず簡単に結論だけ書くならば一言、圧巻、であった。前後半それぞれに聴きどころがあり、新鮮な発見があり、今後への期待があった。

前半に演奏されたブリテンの協奏曲で、独奏者は多彩な表現を尽くし、オーケストラは端正に作品の姿を示す、協奏曲演奏の理想形のひとつだっただろう。そのサウンドの充実ぶりは、録音だけではなかなか感じ取れないブリテン作品の色彩を明確に示すものとなった。
以前録音で聴いたダニエル・ホープはどこか線の細い音が気になる、手放しではほめにくいヴァイオリニストだったが、実演で聴く彼は美音より表現を追究する音楽家だった。楽器の特性やアーティキュレーションを積極的に攻めるので、結果として響きそのものが不安定に聴こえる、録音ではそれがどこか技量の不安定に感じられてしまっていたのだった。こういうことがあるので音楽家を録音だけで評価してはいけないのである(自戒)。
スコアを用意して指揮したノット監督のもと、東響の作り出したサウンドの充実は感心するしかないものだった。即興性控えめ(=リスク少なめ)のノット&東響の実力は、もはやここまで来ているのだ。弦や木管の繊細な表現には十分すぎるほど評価を受けている東響だけれど、力強さが求められる局面でももう不足感はない。であれば後半は…と期待は高まる。

そして後半のショスタコーヴィチは、これまでのノット&東響のアプローチがそうだったように、この作曲家を呪縛し続ける「大きな物語」の見立てによるドラマ、時代に即した解釈から解き放って、より実存的、パーソナルなドラマとして示してくれた。
ノット監督の積極的なコミュニケーションはいつものことだが、そのアイディアは豊富でかつ楽譜からのものだから妥当なアプローチだ。そしてこの日驚かされたのは、なにより監督からの挑発を受けた東京交響楽団の内声、低弦の充実ぶりだ。以前に聴いたノット&東響の演奏よりも格段にコミュニケーションが濃厚に、しかし自然に行われるようになっていて、その結果定評のある木管セクション同様に各声部がそれぞれに主張するようになり、アンサンブルはより音楽的説得力を持つようになっている。これを成長と言わずしてなんと言おうか。

2ヶ月前にウルバンスキと第四番を演奏したばかりの東響は、第五番でも聴き手の、いや私のショスタコーヴィチ観を揺さぶってきた。これらの演奏を受けてなら、「ショスタコーヴィチはマーラーに大きく影響を受けている」と、私だって思う。得心、である。

今後私がこの曲を、ショスタコーヴィチ作品を聴くとき、プラウダ批判や革命20年のこと、映画「戦艦ポチョムキン」から少し離れて自由になれる、ような気がしている。旧ソヴィエトの歴史に左右された天才、そんな作曲家の物語から離れたところで成立しうる音楽としてのショスタコーヴィチ作品。つい日頃成立史や時代から作品を捉えてしまうところがある私としては、こういう予想外は大歓迎である。こうして自分のそれまでの認識とは違うアプローチによって、自分自身も新たな作品像をイメージできるようになるのだから。


(と言いながら、ここで「戦艦ポチョムキン」を貼る私である)

そんなわけでこの日、演奏された両曲ともに作品への、演奏された音楽家の皆さんへの認識が改められるという、貴重な経験となった。本当にありがたいことである。こうなると、なんですかね、5>10>15だけではなく、ノット&東響のショスタコーヴィチ全集なんて考えてしまうんですけど、どうなんでしょう名案じゃないですかね(提案ではなく要求)。

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なお。最初に紹介したときに書いたとおり、この演奏会は首都圏では一度しかなくチケットも完売していた(新潟定期でも披露されているが、きっとよかったのだろう…二日目のノット&東響…りゅーとぴあ…)。私も脳内でリピートはできるのだが、言葉であの演奏を描くことはちょっと遠慮したい(ここまで無理筋だと挑む気も起きないので)。

だが幸いなことに、この演奏会は東京交響楽団の配信サーヴィス「TSO MUSIC & VIDEO SUBSCRIPTION」ですでに配信されている。数多くのマイクも立てられていたこの日の演奏はCD(SACDハイブリッド)としてもリリースされる。どちらを選んでも正解です、ぜひ、とだけ申し上げておく。



ああそうそう、私事ですが、ひとつご案内。リハーサルの取材などはオファーいただるなら調整の上対応したいと思っております(宣伝か)。ではまた。

これぞ、真髄 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

2019年3月23日(土) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番 イ長調 K.219
ショスタコーヴィチ:交響曲第四番 ハ短調 Op.43

かつて首席客演指揮者として東響でも活躍してくれたウルバンスキだけれど、実は私はタイミングが合わず今回初めてその演奏に触れた。才能ある若い指揮者が特に欧州でポストを得ると、なかなか日本に来られなくなるというのは皆様もよく感じていらっしゃるでしょうけれど、ええ、私の場合彼がそのタイミングで聴きそびれていた一人なのです。NDRオケとの来日も行けませんでしたし…
録音などでは聴いていても、いろいろとお話はうかがっていても(過去の共演の際の興味深いエピソードなど、教えていただいたのは、もしかすると「早く聴いておけって」というアオリだったろうか(笑)。いや考え過ぎかもしれませんが)、やはり実演でないとわからないことは多いものです。終演後、早々に団の方に「早く次呼んでくださいね」とお願いに行ったことを最初に書いておきます。返事がどうだったかは、…ご想像におまかせします。なお、この日は三階席で聴きました。

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まず前半に置かれたモーツァルトの協奏曲から。編成は8型で意外にも弦は向かって左からVn1>Vn2>Vc>Vaと並ぶ通常(または20世紀)配置。ザルツブルク時代の曲なので管楽器はオーボエとホルンしかなく、この小編成で、しかも三階席でどんな音がするものか、十分に楽しめるだけの音が来てくれるか不安がなかったわけではない。しかしチューニングが始まってみれば音はちゃんと届くし、音の伸びも感じられる。これなら、と思ううちソリストと指揮者が入場、オーケストラの序奏のワンフレーズで杞憂は解消され、ありがたいことに残響感も十分だ。ソリストの音も、フレーズにアーティキュレーションにテンポにと、多彩なアイディアがきちんと聴き届けられるのだから文句のあるはずがない。このホール、席によってかなり印象が異なりますね、というのがミューザ不在の数カ月の経験からのアドヴァイスです。まあ、次がいつになるのか、まったくわかりませんけど…

さて演奏の話に戻ります。10代でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれたというヴェロニカ・エーベルレ、さてその腕前のほどは?なんて様子見めいた気持ちは、演奏開始早々になくなってしまった。その音楽は鮮やかであり、自在である。アーティキュレーションを鋭く立てて語る部分と、レガートで存分に歌う部分とのコントラストも見事なものだし、技術的にも非常に高いレヴェルで安定している。小編成で聴かせる東響のモーツァルトが悪いはずもないのだが、指揮台に乗らずソリストとオーケストラをそそのかすように刺激するウルバンスキのもと、エーベルレはくるくると表情が変わる見事な「若きモーツァルト」を聴かせてくれた。特に感心したのはフィナーレ。ロンドをただの繰り返しにしないアイディアの多彩さももちろん素晴らしいのだけれど、この作品の愛称をもたらした「トルコ風」の部分、コル・レーニョの打楽器的効果にソリストの奔放な歌い回しが上手く噛み合って、モーツァルトがこんなにもロマ風に聴こえたのは収穫だった。愛称の由来を超えていく演奏なんてなかなか出会えるものじゃあない。彼女なら弾き振りでもいけるんじゃないか…?モーツァルト・マチネとか来ません?などと思ったりもしたけれど、軽やかに歩きながら指揮したウルバンスキの存在感もまたよし。良いモーツァルトを堪能した。

アンコールに演奏されたプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからの第二楽章は、モーツァルトとはまた違う、濃厚な表現が実に魅力的なもの。そう遠くない時期にまた東響に来てほしいものだ、それこそスケジュールが取れなくなる前に、定期的に来演するパターンができるまで。そうそう、次は是非、ソリストに優しく、何より音楽家の可能性を増大させるミューザ川崎シンフォニーホールで。

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休憩を挟んでステージを眺めればみつしりと並んだ大編成管弦楽。思えば私の2019年はここまで東響のモーツァルト以外は16型ばっかりである(笑)。変則の四管、打楽器9人、壮観である。しかし問題は編成ではなく音楽だ、表現だ。当たり前の話である。
ということで例によって結論を書く。もしかするとオペラと定期と連日の公演で若干徹底しきれなかった部分はあったかもしれない(この時期の東響のスケジュールをみるだけで私は気が遠くなる)。しかしそれでも、しなやかで強い音楽としてショスタコーヴィチの問題作が提示された。この演奏ならば先日の予告で書いた「天才が無邪気なまでにその才能を披瀝した作品」と評することができる。ありがたいことだ。

実はこの作品を”マーラー的”と評することに、私は長いこと違和感を持っていた。たしかに”長編”でコントラストが鮮烈である点に近さがあっても、求心的でシーケンシャルなマーラーと発散的でコラージュ的なショスタコーヴィチのヴェクトルの違いがより気になるからだ。第一から第三までのショスタコーヴィチの交響曲を追っていればなおのこと、マーラーとは語り方が違いすぎる、のではないのか。成立に諸説ある作品だが※1936年に成立したままの作品が現状演奏されているものだとするならば、直前の大成功作である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になるべき作品だったのではないか、とこの日の演奏を聴くことで思い当たった。女性のドラマとして示された「マクベス夫人」、男性のドラマとして示されるはずだった交響曲第四番。

※陰謀論に近い説があります。復活蘇演の時期の作風に近いので、パート譜からスコアに起こす際に手を入れたのではないか、とかいう。その補強にかつては現行版とはまったく別の序奏が挙げられていましたが、それは今回の解説にもあったとおり「破棄された草稿」と見るべきだと思うので、まあ、ネタということで。

交響曲第四番が、その後名誉回復の一作となった「第五番とそうかけ離れた内容の作品ではない」という指摘は昨今よくされる。なるほど、過剰な部分を抑えて形式を整えて、四楽章形式でフォルテッシモで終われば…なんて口では言えても、具体的な想像はそう簡単ではないのだけれど、ときどき作曲家の手癖故か直接に似たような雰囲気を醸すところはある。だがしかし、第五番は”本筋”が誰にも聴き取れるように書かれているのに対し、第四番は交響曲第三番までの、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」までの初期ショスタコーヴィチの集大成として、もはや”本筋”があるのかどうかすら疑問に感じるほどに過剰な脇筋が展開される音楽だ。だがしかし喜ぶべし、この日の演奏ではいくら脇道を全力で疾走したり、迷子になったように立ち止まったりしていても、この曲は第三楽章のクライマックス、音響的頂点に至るためにある、そう本筋が示された。敗北して終わるドラマ、ということではマーラーの交響曲第六番にも通じるドラマを想定して捉え直してみるべきなのか。そんなふうに思わせてくれたウルバンスキと東響に感謝したい。

足元も軽やかにこの複雑な作品を捌いていくウルバンスキ、それに応える東響のコンビネーションは彼がポストにある/ないなど関係なく密接なもので、印象的な場面はいくつもあった。たとえばこの日の演奏は冒頭から高い集中を見せていたが、第一楽章のあの狂乱のフーガは最初の頂点となった。トップスピードで始まって、その速度を全力でキープするオーケストラ、そして気を緩めずそれ以上を求め続ける指揮者の姿にはどこか異様な気配すらあった。その整然とした狂気あってこそこの作品だ、ショスタコーヴィチ音楽の愛好者として演奏を聴きながら内心ガッツポーズしていた私である。第二楽章の普通のスケルツォ風に始まりながら、どうにも収まりの悪い(けど楽しい)拍子が変わり続ける展開もむしろ楽しむように演奏するウルバンスキと東響。そして前述のフィナーレだ。民謡風の鄙びた雰囲気から始まって、その多彩すぎるアイディア、オーケストレーション、展開の目まぐるしさがこうも力強く表現されるこの演奏であれば、ショスタコーヴィチがかつてどれだけ「危険な天才」だったかがわかろうというものだ。その危険さは形を変えて残っていくのだけれど、「マクベス夫人」と第四番で見せるそのヤバさは別格である。ロシア革命が生み出した最強の天才は、しかしこの路線を突き詰めることはなかった。それがよかったかどうかはもう誰にもわからないけれど、現在の私たちはこの作品があってそれ以降の作品があることをよく知っている。第五番以降の作品を聴くとき、どこかにこの作品の残響を探してみる、そんなショスタコーヴィチの楽しみ方もあるだろう、そんなふうに思わされたウルバンスキと東響の見事な第四番だった。

…そうだ、昔新国立劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を聴いたとき、オーケストラは東京交響楽団だったのではなかったか。また上演してくれないだろうか、それこそウルバンスキを招いて(無理です、スケジュール的に←オチ)。

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ウルバンスキが次にいつまた来てくれるものか、それはスケジュールを差配するエージェントのみぞ知ることなので(哀しいけどこれが現実です)ここで書けることは何もないのだけれど、この日見事なモーツァルトを聴かせたヴェロニカ・エーベルレは9月に再度来日します。東京都交響楽団札幌交響楽団との共演にリサイタル武生国際音楽祭2019に、と存分にその魅力を示してくれることでしょう。詳しくは招聘元のサイトで日程をご覧くださいませ。

2019年8月21日水曜日

「交響詩曲」に溺れた ~東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会

予告編を書いておいてアレなのですが、今年前半の積み残しがたくさんあります。なんとかまとまってきたので並行してこちらも公開させていただく関係で、サマーミューザの進行があまり早くならないことはご容赦くださいませ…

●東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン

3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

オーチャードの公演が日曜なら、私はまたこのプログラムを聴きに渋谷を訪れていたかもしれない。もはや私は「交響詩曲」のジャンキーである。…不穏な時事ジョークはこのへんで(※3月のネタだから微妙に古いし、なにかの作品で彼は復帰したようだ)。

前半にチャイコフスキー、後半にはハチャトゥリアンとロシア・ソヴィエトのメロディメイカー・プログラム(以前の記事参照)。指揮はピアニストとしても活躍を続けるミハイル・プレトニョフ。東京フィルハーモニー交響楽団とは特別客演指揮者として、ロシア・ソヴィエトの名曲秘曲、なんでもありの趣あるプログラミングを展開しているのはみなさんもご存知のとおりだ。今回は一曲目に短い管弦楽曲、そして協奏曲を挟んで交響曲をメインに据えた、一見するとオーソドックスなプログラムだが、…という絵解きは前に書きましたのでそちらを参照してください。

チャイコフスキーの作品の中でも国歌や民謡をそのまま取り込んだ、野趣あふれる「スラヴ行進曲」が、果たしてプレトニョフの元でどう響くのか?少々の疑問符を抱えたままの私に関係なく、力みなく始まった演奏は、低弦のイントロからして飾らない、自然な入りがそれだけで魅力的。引用される民謡をそれぞれに表情付け、多彩な音色で自然に音楽を高揚させて帝政ロシア国歌で頂点に導く運びもまた自然なもの、この作曲家の音がどれだけマエストロの手に馴染んだものであるかがそれだけで示されたと感じた。また、彼と東京フィルほどの関係ともなると音楽を大きく動かすにも音色を変えていくにも大きな動作はいらないようで、ちょっとした指示で歌い回しに強弱にテンポにと、自然に音楽が動いていくのが実に心地良い。旧ソヴィエト時代の演奏を自らの体験として知っていて、しかしそれとはまた異なるアプローチで作品の持つ可能性を示すマエストロに、一曲目でもう感服である。

二曲目に演奏されたヴァイオリン協奏曲のソリストとしてに招かれたユーチン・ツェンは前回(2015年)のチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門第2位(1位なし・最高位)の若き才能だ。なるほど、確実な技巧、フレーズの一つ一つへの創意で楽しませようという意志はよく伝わってきた。だがいかんせん今回聴いた演奏からは、彼がこの曲をどう捉えているのか、その全体像がまだ見えてこない感が惜しい。美音で技巧は万全、だがそれに加える何かがほしい。そう感じるのはわがままな希望かもしれないが、彼がチャイコフスキー・コンクールから世界に羽ばたいている最中なのだから、高望みを許してほしい。今回はまたプレトニョフと東京フィルが作り出した舞台で踊っただけに聴こえてしまったけれど、彼の音楽にはまたいつかまた触れられるだろうから、そのときに成長を感じさせてくれるなら、と思う。
オーケストラの音色は、一曲目より色彩感高くその美しさに聴き惚れてしまうものとなった。一曲目のロシアの、セルビアの土の色なのかどこか黒っぽい音に対して、中間色を上手く使った絵画のごとき落ち着きある響きは”西欧派”チャイコフスキーの演奏としては理想的なサウンドだったのではないだろうか。この音で交響曲もバレエも聴きたい、などと思う、なんのかんの言ってもチャイコフスキーの音楽が好きな私の感想でした。

さて後半は作曲者が変わってハチャトゥリアンだ。「スパルタクス」(1954-56)は、ジダーノフ批判のあとでの最大の成功作と言えるだろうバレエ音楽だ。剣奴スパルタクスの物語はスタンリー・キューブリックの(というか、カーク・ダグラスの)映画でご存知の方も多いだろうから詳しくは書かない。ここで演奏されるアダージョはスパルタクスとフリギアの愛の場面、勇壮な物語の中でもっとも印象的な場面の一つだろう。
ただ、プレトニョフと東京フィルの演奏ではおそらくバレエには向かないだろう、とは言わなければなるまい。指揮者の解釈や「舞台慣れしたオーケストラなのに!」などという批判ではもちろんなく、趣向を凝らされた細部、たとえばフレーズの伸縮や濃厚な表情付けが踊りとは合わなかっただろうから、という意味でのこと。指揮者とオーケストラが創り出した充実した音楽は、それだけで一場のドラマを描き出した。中間色の響きが美しかったチャイコフスキーと対比するように、ハチャトゥリアンはよりシャープな線と輝かしい光沢で、愛の場面を飾った。
強めに奏された低弦のピチカートとピアノの一打で愛の余韻を断ち切るようにアダージョが終わって、いよいよ交響曲第三番である。16型のオーケストラからバスクラリネットが退場、第3トランペット、さらに15人のトランペットが入場すると場内には不思議な高揚感が…いや、私は着席してすぐ(そうか、15人はステージ奥か…)と高まりまくっていたのですが。

短いクレッシェンドの序奏のあと、すぐに轟く15人のトランペッターの音は録音で聴くような暴力的なものとはならず(ある時代のある演奏を聴きすぎの感想)、今の若手世代の奏者たちの明るい響きが真っ直ぐに客席に届いてくる。細かくパート割されたトランペットは、ステレオ効果も面白く、抑えたテンポで端正にアンサンブルが形作られていく。その整った造形に油断していたわけではないのだけれど、トランペットの提示が一段落したところからはオルガンの大活躍が始まるのである。度肝を抜かれるのである。
ホール上部に大量のパイプを配したオルガンは、会場そのものを楽器として音の範疇にとどまらない振動を伝えてくる、ということは経験からも理屈としても知っている。だが、そのサウンドを会場の残響や家鳴りを効果として活かした数々の先行する作品のそれとは違う形で用いたのがこの作品だ。なにせいきなり猛烈な速度のパッセージから登場するのだから、その衝撃のほどはなお大きい。ちなみに、かなりの時間続くオルガン独奏のため非常に横長の楽譜を用意していたようなのだが、数ページにも及ぶ長大なソロを、それも連続する高速六連符なのだから、演奏するのが大変でないわけがない、しかし石丸由佳の後ろ姿からは苦労のほどが伝わらず、あたかも淡々と弾いているようだ。もちろんそんなはずはない、と思うが背中はそう語らない。なにせ、出てきた音を私が評するならばひとこと、「轟音の奔流」で済んでしまうほどの音が延々と続くのだから、無駄のない動きとの落差は相当のものなのだった。
聴き手がそんなオルガンに圧倒されているというのにトランペットも呼応してしばしトランペットとオルガンの大音量のアンサンブルが展開するのだから、この曲は本当に異形の作だと思う。速弾きのオルガンとトランペットのファンファーレ、二つのの音群はまとまるわけでも譲り合うわけでもない、力強いふた柱の音としてホールを埋めていく。
…王を象徴する楽器として用いられたトランペットと、「楽器の王」とも称されるパイプオルガンを並立させて独特なアンサンブルを作り上げた共産圏の作曲者、というのははたして何を考えていたのか、そんなことを轟音の中で思う私である…とは言いながらそんな物思いに浸れるような時間が長くあるわけもなく(あんなに音が多いのに、この曲は演奏時間30分もないのだ)、通常のオーケストラ(よくわからない物言い)が新たな主題を提示、オルガンとトランペットは一休みとなる。ここで弦楽器によって示される旋律が「スパルタクス」で示されるそれによく似ていることは、明らかにプレトニョフが仕掛けたことなのだろう。「スパルタクス」の時点ではまだ封印された作品だった「交響詩曲」を作曲者が大事にしていたことに気づかせてくれようと、マエストロはこのプログラミングしたのだろうか…ハチャトゥリアンが自作引用を意味付けに使うタイプではないからなおさら、この配慮は心に響く。オーソドックスに見えて選曲に表現にと、大技小技さまざまに織り込まれたプログラムなのだ。

交響曲に戻ろう。バレエのいち場面や民族色をも感じさせる旋律が高揚し、また沈静化していくと遠くにあのファンファーレが聞こえ、クラリネットの長大な速弾きのソロから始まる展開部、その先に五拍子の新たなリズム・モティーフが示されて音楽は新たな顔を見せてくる。とはいえ30分かからない作品はここからはまっすぐゴールへと向かう。提示された要素が編成を変え組合せを変えて連続して現れたその先に、たどり着くのは12/8拍子の異形のマーチ、そしてファンファーレが乱舞するコーダ、である。最後の長い長いクレッシェンドまで、マエストロはコントロールを失わず、しかし大きい起伏ある音楽を聴かせてくれた。感情移入によらない外在的な音作りということで、ピアニストらしい(最良の意味で)指揮だったと感じたのだが、今にして思えばロジデーストヴェンスキーにも通じるものがあった、かもしれない。相当にコントロールの効いた演奏ながら、最後のコーダで大きくテンポを落として明確に駄目を押すところに、マエストロの明確な個性が刻印されて、演奏は終わった。轟音の余韻の中、ついにこの曲を聴いたな、という充実感に浸らせていただいた。私には感謝の気持ちしかない。

事前にけっこう頑張って準備して(過去記事参照)、「交響詩曲」こと交響曲第三番が終わった時点で個人的にはもうお腹いっぱいだったのだけれど(実際帰り始めるお客様も少なくない。これは定期ならいつものこととも思うが…)、マエストロはきっと「いやいや皆さんの知らない曲で申し訳ない」とでも思ってくれたのだろう、アンコールとして同じ作曲家の「仮面舞踏会」から、ワルツを演奏してくれた。今ではおそらく日本で一番知られているハチャトゥリアン作品の一つと思われるこの作品を、ちょっとフィギュアスケートには合いにくいだろうトリッキィなテンポ・ルバートも交えて聴かせてくれて、初日は終わった。コース料理の最後にはデザートが必要なんだな、と理解して帰路につける幸せ。実演ならでは、ですよね。もう一度書いておこう、幸せでした、ありがとうございました。

さて、この日の演奏を聴くことで、この作品について以前私が示した二択、「失敗したプロパガンダ」と「再びのロシア・アヴァンギャルドの可能性」が、選択ではなく両方そのとおりなんだなと体感できたものだから、私はこのあと東京オペラシティでのコンサートにも行きました。すみません本当にジャンキーだったんです。それもダウナー系ではなくアッパー系のこの作品の中毒者ですから、それはもうきちんとあれもこれも認識して帰ってきたんですよ、ええ。

オペラシティでは配置が少し変わって、ステージ上にはオーケストラ、トランペットはオルガン奏者を挟んでいわゆるP席に左右の二群として並ぶ。二度目の演奏でより練れたアンサンブルはサントリーでの公演以上に積極的で、トランペット部隊にはここの音響を楽しんでいるような余裕すら感じられた。
この配置によって、音響的には一番上からオルガン(パイプの位置から音が来ますからね)、正面からはトランペット、そしてステージのオーケストラからと、音はより立体的に分離され、明瞭に聴き取れるようになる。天井が高いオペラシティの設計者に感謝しなくてはいけない。とは言いながら、会場のサイズとしては一回り以上小さくなるし、比較的残響の長いこの会場での演奏だから解像度優先の演奏にはならない。というか、そういう音楽ではない(笑)。長めの残響ながら音楽は聴き取れる、しかしその絡み具合が実に秀逸で、このホールでサウンドを作ることに長けた東京フィルの面目躍如と言えた。サントリーホールの少し余裕がある音もいいけれど、この曲の圧倒的な存在感という意味でならこちらの演奏が上だったかもしれない。

果たして次に聴く機会が訪れるものかどうか、正直に申し上げて疑問しかないわけだけれど、こうして私の「交響詩曲」月間は終了しました。…本当に、日程さえ合うならオーチャードホールと文京シビックホール、おそらくは電子オルガンでこの曲が奏でられたのだろう後半戦もお聴きしとうございました。…あと、叶うならミューザ川崎シンフォニーホールでも聴きとうございました…

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ミハイル・プレトニョフが次に東京フィルの指揮台に登場するのは10月。今度はロシア、ソヴィエトではなくフランスとハンガリーの(というか、リストの場合、あえて言うなら汎欧州だと思うが)二人の作曲家の交響曲を並べたプログラムだ。それにつきましてはまた、公演が近づいてからなにか書きましょう。とりあえず今の時点で言っておきたいのはただひとつ、「そろそろ「ファウスト」全部読んでもいい頃だと思いますよ!」ということだけです(笑)。ではまた。

2019年8月18日日曜日

PLAYBACK フェスタサマーミューザKAWASAKI2019…の予告

数日のご無沙汰でした。

さて。フェスタサマーミューザKAWASAKI2019の初日から最終日まで、連日予告編を書きました。すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょうけれど、私が予告を書くのは基本的に「自分が聴きに行く」ことが前提です。ですが今回、地元のお祭り(おい)のため禁を破っていくつか伺えない公演について書いています(時間がかぶっていた、所用など事情あったのだから仕方がないのですが)、それでも休演日と音大の皆さんの公演を除いて、連日なにかしら聴きました。二つの音大の皆さんにはテアトロジーリオ・ショウワと前田ホールで会えるから許してください。あと、しんゆりからでは移動不可だったため聴けなかった我らが公共放送響とは、テレビで会えますので(おーい)。

ええ、そんなわけですから期間中毎日のように川崎駅にほど近いミューザ川崎シンフォニーホールまで通っていました。通いましたとも。終わった今はもうヘロヘロです。暑さの中でも足裏から伝わる地熱が本当に辛くて、心底ホールに住みたかったのですが(切望)、もちろんそんなわけにもいかないので路線を乗り継いで連日通いました、ノット&東響のオープニングから、尾高忠明と東響によるクロージングまで。ただし今回、さすがにリハーサルは行けませんでしたし一日一公演限定でした、それ以上の体力は私にはなかった(笑)。

初日の終演後、なかなか帰る気になれずにこんな時間になってから撮りました。
実は私もこれを船の舳先のように感じて、二週間ちょっとの航海の安全を祈ったことでしたわ…

楽ではなかったけれど、一時期に同じ会場で、複数の音楽家の演奏を聴くことには大きなメリットがあったな、と感じています。ちなみにデメリットは「さすがにこれだけ聴くと心底疲れるっす」くらいなので、あえて言うまでもないでしょう(笑)。
演奏における条件が揃うことで、それぞれの音楽家が持っている音のイメージの違いが際立つものだ、と日々感じておりました。コミュニケーションスタイルの違い、身振り、表情…etc等など、それらすべてが同じ場に並ぶことで、比較する気がなくとも違いとして伝わってくる。
そうそう、ステージマナーもそうだ。入場から終演まで、これは無心に比べていました。書く機会もない話なのでここで書いておきますね。個人的にはコンサートマスターの入場タイミングで拍手するだけで良いんじゃないかな、と普段は思っているのですが、今回はメンバーが出揃うまで拍手が続く歓迎ムードで、私も抗わずにそれに参加しておりました。その出迎え方は、今回のフェスタサマーミューザの雰囲気を良いものにしていたと感じておりますよ。休館明けということもあったのでしょう、このホールで音楽を連日楽しめることのありがたみはいつも以上に感じていましたし。

本題に戻ります。もちろん、たとえばオーケストラそれぞれの音の違いは、複数の会場で、長い間を空けて聴いたとしてもわかるけれど(その程度のことなら放送でもわかる)、これだけの音響のホールで続けざまに聴くことは、嫌でも聴き比べの性格を持ってしまう。考えていなくても「昨日は…おとといはこうだったな」と頭をよぎる。そのときに聴いている個々の音楽はそれぞれに愉しんだ、そのうえで、どうしてもそういう感慨が残る、という話です。

自分としては、たとえ同じ曲を近い期間で聴くとしてもそういう比較を第一義とすることはありません。そんな私でも、こうも連日眼の前で力の入った演奏が展開されれば、厭でも思いますよ、「この指揮者とはこうなるのか」「その指揮にそう反応するの?」「そこで…」「あれは…」等など。そんなちょっとした発見や思いつき、感じ方が、いつかまた別の演奏をより面白く楽しませてくれる、私はこれまでの経験からそう信じている。今年のフェスタサマーミューザKAWASAKIは、そんな自分だけの“抽斗”をたくさん増やしてくれた。心から感謝します。
このメリットは、毎年変わらぬサマーミューザの魅力の一つと思えるので、来年も川向こうの世界的大運動会よりこっちのほうが楽しいですよ、と言っておこう。だって、こっちは冷房効いてますから、安全ですよ(おい)。

という冗談はさておき(よかった冗談なんだ)、イヴェント全体を振り返ったときの感想はこんな感じです。ではこれから、個別のコンサートについてのレヴューも書いていきます。結果として何故か今年多く聴いてきたロシア・ソヴィエト音楽の聴体験を深め、次につなげるもの※になったなと感じていますので、今年前半に聴いた演奏会のレヴューも並行して仕上げていきます。ご存知ですか皆さん、〆切のない文章って完成しないんですよ(怪談)。

※このあと、東京交響楽団はプロコフィエフの交響曲第四番(改訂版、9月にリオネル・ブランギエと)ショスタコーヴィチの第一一番(11月に沼尻竜典と)など、注目の演奏会を控えています。年明けてからになりますが、チャイコフスキーの第五番(2020年1月、ベン・グラスバーグと)もありますし。そのあたりはまた別途…

来年に向けてはそうですね、コンサートの映像配信とか放送とか検討されると面白いかなあ、と思い始めています。それこそ公共放送様が4K用のコンテンツとするのもよし、地元tvkが配信込みで担当するもよし、三方一両得なのでは。…なんて、ただの思いつきですけれど、仙台フィルの登場でひとつあり方が変わったフェスタサマーミューザ、どんどん攻めて成長してくれたらこんなに嬉しいことはありません。

さてPLAYBACKの本編は、聴いた公演のレヴューの形になります。もっとも、そのうち二つは公式に「ほぼ日刊フェスタサマーミューザ」に寄稿していますので、どう扱ったものか考え中ですが。そうそう、どちらも裏面掲載なので皆さんお手元の裏面もチェックしてね!(今さらか)。開幕公演がアレなので(いい意味で)、ちょっと手はかかると思いますが気長にお待ちいただければ幸いです(サマーミューザ以前の公演もいい加減お出ししたいので…)。
では予告はおしまい、また近日お会いしましょう。