●東京交響楽団 第675回定期演奏会 / 川崎定期演奏会第72回
2019年11月
16日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
17日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
管弦楽:東京交響楽団
ベルク:三つの管弦楽曲 Op.6
マーラー:交響曲第七番 ホ短調
ありがたいことに、2019年は10月から三ヶ月連続で「ノット&東響」の演奏が聴ける。川崎市民である私には東京交響楽団は”我が街のオーケストラ”であり、そして東響は市が誇るミューザ川崎シンフォニーホールが本拠地なのだから、そこに音楽上の責任者が多く登場してくれるのはある意味自然なことではある。だが、この”自然”がなかなかにありがたい、有難いことなのだ。聴き手が願えば多忙なノット監督のスケジュールが開くわけではない…しかし今年、来年とノット監督はこの三ヶ月を東京交響楽団との時間に当ててくれる。それを喜ばないでいることなんて、私にできるわけがないじゃあありませんか。
ともあれ、この有難い三ヶ月も折り返しに来た。その中間点にあたる定期公演では、先月の「グレの歌」からの流れを意識したと思えるプログラムが披露される。シェーンベルクに大きい影響を与えたマーラーの交響曲をメインに、シェーンベルクに師事し、ともに十二音技法を開拓したベルクの、最も”マーラー的”な作品を前に置くプログラムはもはやそれだけでまったくスキのない、ある意味で完成されたものだ。20世紀初頭のウィーン音楽界が開いた”扉”を示し、そしてその道がどこにつながっていったかを一夜で示してくれることだろう。
正直な話、ここまで説明のいらないプログラムである以上、解題はそう必要ではないように思う。来場される皆様が、それぞれに予想し期待して各日の公演を楽しまれるのがよろしいでしょう。私からはただ一言、お聴き逃しなきよう、とのみ。
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とは言ってもそれで「予告」を名乗るのは気が引けますので、少々ここ最近の演奏会を踏まえて書いておきます(過去公演のレヴューが仕上がらない私をこれで許してもらおうとか、そういうことでは…)。
「現在東京交響楽団に所属している楽団員全員が舞台に乗った」というミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を見事な演奏で飾った「グレの歌」体験を経て、ノット&東響のサウンドはまた一段成熟した感がある。先日の台風のため、残念ながら定期公演は開催されなかった「問いを重ね、答えを探す」プログラムの冒頭、アイヴスで冒頭から弦が示した”無表情の表情”や、遅めのテンポでじっくりと問いながらも答えに至れないシューベルトの憂い気味の音色、そして若きブラームス作品の幅広い表現は、明らかに「グレの歌」以前の東響のサウンドから一歩も二歩も進化/深化した、より高められた表現力の賜物だった。
また、これは5月定期のときにも書いたことだが、東響のサウンドは日に日に充実の度合いを高めている。せっかくなので具体例をあげよう。
私は先日の名曲全集を前に、「第一一番の前の曲でもあるし」と思い、ノット&東響のショスタコーヴィチの第一〇番を聴き直してみた。あの欧州ツアーを前に披露されたショスタコーヴィチは少なくともその時点でのノット&東響の達成を示すものとして、価値あるレコーディングだと思ってきた、しかし今年に入って東響が披露してきたショスタコーヴィチ演奏、ウルバンスキとの第四、ノット監督と尾高忠明による第五、そしてつい先日の沼尻竜典との第一一番は、かつての東響の達成を超えている。上田仁以来のショスタコーヴィチ演奏の伝統は伊達ではないのだけれど、その蓄積に加えて明らかに音楽的に充実したショスタコーヴィチは、そのまま現在の東響の充実ぶりを映すものだった。
人が集まった集団のなすことだから、オーケストラの表現の進化/深化は、時には遅滞しときに長足の進歩を遂げたりと一定では進まないものだ。だが今の東京交響楽団は、ノット監督との演奏会のたびに数段飛ばしで階段を駆け上がるように表現を深め、その経験を客演陣ともわかちあって「どの演奏会に行っても興味深い経験ができる」状態にある。これを黄金期と言わずしてなんと言おうか。
そうした変化、成長を示す東響が、このスキのないプログラムを披露するのが11月の定期演奏会だ。幸いなことに、サントリーとミューザの二回も公演があるので、一人でも多くの都合の合う方が聴かれることを私は心から希望している。先ほども書いたとおり20世紀初頭のウィーン音楽のある側面を切り出した興味深いプログラムであり、それはそのままノット&東響のマーラー、新ウィーン楽派演奏の集大成であり、来年の「トリスタンとイゾルデ」に直接つながる演奏会となる。これを聴かないなんて、ありえない。
(なんとなく来日中の彼ら彼女らに敬意を示してみました)
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