2019年12月13日金曜日

竹中亨「明治のワーグナー・ブーム ~近代日本の音楽移転」の話、と

さて読んだ本の話を。



ちょっとタイトルからの予想とは違った。もっとドタバタした感じを予想していたし、もっと無理やりな受容史をどこか想像していたのだなあ、とこの肩透かし感から思い当たるけれど、そんな先入観も仕方のないものなんですよう、と少し言い訳から始めたい。

たとえば。「モオツァルト」という有名な評論がある。まあ、名著と他人の評価に乗ってしまってもいいんですけど、今の目ではちょっと厳しいところも多い。”上演されてもモーツァルトのオペラを音だけで聴くわ”とかのくだりは本当にキツい。もっとも当時、戦後日本で良いオペラの上演を期待するほうが確かに夢想しすぎではあるので、気持ちは汲んであげられなくもない、とも思うけれど、ここまで評価されている本でも時代には囚われざるを得ないのだ、ということは指摘したい。
そう、時代の制約というのはいつでも誰にでもあるのである。私だって今のYouTubeやスポーティファイの、またはオンラインラジオ配信時代の人から見れば(なんであの人これ聴いてないの不勉強だよね)と思われていることだろう。そう、CD世代なんてもう時代遅れで情報量勝負なんかしたら勝ち目がないのである。もっともそんな勝ち負けなんてどうでもいいのだけれど。

え〜つまりですね、戦後ですら、冷戦期ですら、21世紀になってすら…どの時代だってそれぞれの制約あって音楽を受容している、そういう認識をまず前提に置きたい。そういう話です、回りくどくてすみませんね。技術が発達した今も時代の制約はある、ましてや明治期においておや。文明が開化する前の時代からの洋楽受容、ドタバタしないほうがおかしいと思うのですよ。まして、モオツァルトですらオペラ体験は諦められていた時代の「ワーグナーブーム」ですよ?ドタバタだったり無理やりじゃないと考えるほうが難しくないですか?(正当化)タイトルからは、そんな面白おかしい本なのかなって想像したんですよね。

ですが本書はそういうドタバタなエピソードや、明治期の”ざんぎり頭を叩いてみれば”的風刺を集めたものではなく、まっとうな研究成果でした。副題の「近代日本の音楽移転」をていねいに追い、歴史的経緯をきちんと読み手に認識させるものです。その中で紹介されるエピソードも悲喜こもごものドラマを感じさせるもので、個人的には大河ドラマ「いだてん」のスタイルでドラマにしてほしいくらいに興味深い。欧州文化との対峙ということであれば、スポーツより音楽のほうが先行しているわけですし。
そうですね、前半は考えるとして、後半の主人公は小澤征爾さんで「ボクの音楽武者修行」をベースにするのはどうですか。なにより映像化されれば音楽もつくから映えると思います。コンクールをクライマックスにできるから「のだめカンタービレ」「蜜蜂と遠雷」に続け!ってなもんですよ!!…もっとも、考証がすっごく大変になりますけど…(えっ本気だったの)

ちなみに。本書のタイトルが示す「ワーグナーブーム」、なんと音はほとんど聴かないで、それでも流行ったというなかなか味わい深い現象なのでした。気になった方は本書を、ぜひ。


そしてクレメンス・クラウスのワーグナーが私の最近のマイブーム(©みうらじゅん)。クラウスがあと数年でも生きていたら、いろいろ違ったんじゃあないか、なんて思う今日このごろ。

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さて。せっかく名前を出したので、ここでいよいよ最終回を迎える「いだてん ~東京オリンピック噺~」の話をします。傑作です。

いつも書いている通り、私は来年の世界的大運動会をスルーします。ここでは何も書きませんし、Twitterなどでも言及しない、できるだけ開催期間には都内にも行きません(なぜならフェスタサマーミューザKAWASAKI 2020があるから←運動会関係ないじゃんねえ!)。
そんな私はこのドラマにどう向き合ったかといえば、初期の「タイトルロゴのトリスケルが気持ち悪い」(横尾忠則のデザインでそう反応できる初さがちょっとうらやましい)だの「来年のための広告かよったく」「この視聴率…」なんて世評とは無縁に、初回から今に至るまでずーっと楽しく見てきました。もっとも初回を見るまでは私も(実際のオリンピックのためのもんだったら引くなあ…)と思ってました。しかし凝りまくった初回の構成に魅了されて、それ以降は録画してでも見逃さずここまで伴走してきました。楽しかったなあ…

大河ドラマについて、私はそんなに熱心な視聴者ではなかったのですが「龍馬伝」以降はたぶんほとんどのエピソードを見ているはず、です。その前だと仲間由紀恵見たさに…いやその話はいいか。それ以降だと「平清盛」は本当に、最高に面白かったですよね(再放送されてほしい。ちゃんと見ればわかってもらえると思うので)。
一年かけてひとつの大きいドラマを描ける大河ドラマという枠は、うまく使えば凄まじいものにもなりうるし、まあそれほどではなくても長く見ていればそれなりの愛着は湧くものです。そんな私でも無理だった作品は(自重)。余談の余談はこのへんで。

ここで紹介した本もそうですが、そもそも開拓者の話は先が見通せずに苦労することの連続でございます。そのドラマが現在進行形で描かれるなら、成功物語の中の過去のエピソードとして語られるそれとは違い、上手く進まない試行錯誤の繰り返しだってありましょう。
たとえば本作、前半の金栗四三時代を「よく知らない人の、あまり楽しくもない話」と見る人もいたでしょう。だがしかし彼の、また天狗倶楽部たちの時代になされた苦闘があったからこそ、ドラマは1964東京オリンピックに到れる、そう宮藤官九郎はじめ制作陣は考えた、のだろう。
実際のオリンピックはまだ知らないが高邁な理想を世界と共有する国際人(で何より面白い人)嘉納治五郎、走ることだけが得意な金栗四三、その二人を軸としつつ有名無名の人々を虚実ないまぜにしながら(壮絶なほどに”実”の分量が多いのが「いだてん」の凄いところで困ったところでもあるだろう)、狂言回しに後の古今亭志ん生を配して時代を活写しつつ明治から大正へ、そして第二部の主人公、田畑政治が激動の昭和を生き抜いて1964年に至る遠い道の、その始まりをまず用意した。
初参加のストックホルムから戦後の復帰まで、先行者たちの苦労と成功と巨大な失敗があって1964があり、それとどう関係するかはよく知らないが2020が待っている。来年のそれが、「いだてん」に描かれた先行者たちの苦闘を無に帰してしまわなければいいと思う気持ちはあるが、大運動会そのものの回避を決めている私には関係のないことである。諸行無常。

一年見てきた中でも、忘れがたい場面はカイロでのIOCでなんとか東京開催を取り付けたあとの帰路、船中でまだ外交官の平沢和重と嘉納治五郎が「一番面白かったこと」を語りあったところだ。私の中では完全に「神々の黄昏」の終盤、ジークフリートの昔語りに重なってしまって、もう楽しげな話を笑顔でしている二人を見ながら泣けて泣けて仕方がなかった。
このエピソードの前、嘉納先生は多忙に過ぎて”いだてん”のことすらすぐには思い出せない状態で、ある意味で自分の過去を裏切っていた。また田畑が問うとおり開催に向けて活動するオリムピックを「これがあなたが世界に見せたい日本なのか」と信頼する身内に否定されてしまっている、恐ろしいほどの孤独の中にあった。それでも恐れず前進を続けた英雄は、裏切り者に刺されたのではないけれど前を向いたままに亡くなってしまった。宮藤官九郎が描出し役所広司が演じ、スタッフが作り上げた嘉納治五郎は最後の瞬間まで楽しさを基準に物事を捉える痛快児のまま退場していった。こんな英雄の、最後の回顧を死亡フラグなんて安い言葉で収めたくはない。



さて、少しだけ音楽的思いつきも書いておきましょう。まずはこの場面を御覧ください。



開会宣言に続いて演奏される、公募で採用された今井光也によるこのファンファーレ、映画では強調されませんけれど「東京オリンピック ファンファーレ マーチ」とかで検索すればもっと鮮明に全曲聴くことができます。適当なものがなかったのですみません。

で、ですね、このファンファーレのあとに古関裕而作曲のマーチが続く、というのが演奏会などでは一般的なものなんですけれど。
どうだろう、このファンファーレのあとに「いだてん」テーマ曲を演奏するのは。行進なんかじゃあ収まらない、大好きなものへと駆け出す思いが意外にハマるんじゃないかなあ。最終回を前に、そんなことを考えている私なのでした。

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