2019年2月25日月曜日

すべての人の宿命を描くドラマとして ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第144回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第144回

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
独唱:森谷真理(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、福井 敬(テノール)、ジョン・ハオ(バス ※リアン・リから変更された)
合唱:東響コーラス(合唱指揮:安藤常光)
管弦楽:東京交響楽団

ヴェルディ:レクイエム(死者のためのミサ曲)

これはまためぐり合わせだな、と思わないでもない。残念ながら彼のオペラは聴きそこねたのだが(そのうち資料室でアウトラインだけでも確認するつもりではいる。入ってますよね?)、長くご無沙汰していた演奏会への復帰は彼の指揮したコンサートだった。そして2019年最初に触れる実演も彼の指揮である。ということで、こちらのコンサートを聴いた。これはこの作品についてよく言われるオペラというよりむしろ「ドラマ」だった、とまず書いておく。

前日のサントリーホールでの定期の好評をネットで見かけなかったわけもない私が、なんの期待もせずミューザ川崎シンフォニーホールに向かったわけではもちろんない。むしろ、昨年夏の目覚ましいラヴェルとドビュッシー(東京フィル、小山実稚絵との共演)の記憶が鮮明な私は、きっとこの日の聴衆の中でも相当ハードル高めの心づもりで臨んだ一人だろう。若い指揮者を見くびるなんて傲慢さなど、私はもう10年も前に捨ててしまっているのです(その契機はダニエル・ハーディングが与えてくれた、とか書いても脱線はしませんよ)。

さてヴェルディのこの作品を、”オペラ的”と言ってしまうのは、少々安易ではあるけれど、ヴェルディの手法的にあたりまえのことだとは思う。どうせならそんな雑な一般論ではなくて、むしろもっと踏み込んでいろいろ言ってみたくなる。ひとりヴェルディのキャリアを考えてもキリスト教的題材として初期の「ナブッコ」から「ロンバルディアの十字軍」(「イェルサレム」に改作)などがすぐ想起される。またこの曲の「ラクリモサ」はそのまま「ドン・カルロス」に用いられていた旋律であった。そりゃそうだ、宗教曲だからと自身がもっとも活躍したフィールドでの表現を使わないわけがないのだ。さらに「レクイエム」の作曲時期を考えれば否応なく直前の作である「アイーダ」を思い出すだろう、特にも「リベラ・メ」はもはや直接にサブテクストとして併せて聴くことを想定していたのではないか、なんて言いたくもなる。だってほら、無慈悲な石牢の底でラダメスを待つアイーダが歌える心情があるとするならば、この「リベラ・メ」以外にないのでは?などなど…

また別のことを考える。オペラ的と言われてしまった宗教作品と言うならば、あの「マタイ受難曲」だってそうだったことを考える(礒山雅「マタイ受難曲」参照)。厳かな儀式次第としての、穏やかな何かを求める人がいるのもわかる(宗教儀礼としてならば当然の要求でもある)。にしても、受け手を揺さぶる表現が批判されるとは何たる理不尽、と考えてしまわなくもない。
さて、こうしてバッハを思い出してから「レクイエム」を聴くならば、ソリストが沈黙を破る際には、多くの場面で弦楽合奏を伴うことに注目したくなる。もちろんその弦楽合奏は、「ヨハネ」「マタイ」のように神的なものの存在を示す光背として響くものではないが、典例文を儀礼上のものではなく”人”からの真摯な問いかけのように聴かせるこの作品では、また別の意味を持たされた「光背」ではありうるかもしれない。人間存在そのものの尊さと、それが失われる運命から逃れられない儚さを……とかなんとか、こじつけるのもありかもしれない。さらに踏み込んで読むならば、抗えないさだめに対峙せざるを得ない存在としての人間のドラマ。そうそう、以前チューリヒ歌劇場がこの作品をバレエとして上演したものが放送されましたよね。


そしてこれは私的な話だが。かつてこの作品でヴェルディを知った私は、また別の感慨を持つ。そのとき出会ったのはバーンスタイン没後すぐにリリースされた1970年のレコーディング(ちなみにむかーし昔にNHKでも放送されたという、教会での映像もありますね)、今のように「怒りの日」がどうしようもない使われ方をしていなかった頃のこと。その演奏に強い感銘を受けて、そこからようやく「椿姫」、「アイーダ」といった作品に触れていくようになるあたり、私の経験は順番やら案内人ならなにやらいつも何かがおかしい。独学者は知らずして獣道を歩くものなのよ(笑)。
それはさておいて、この作品を”人”一般のドラマとして受け取ったとき、私はバーンスタインの宗教的作品群を、なかでも「ミサ曲」のことを思い出す。この作品と同じ、名前のない登場人物たちの語りによって示される宗教儀式の形をしたドラマとして書かれた「ミサ曲」と、ヴェルディの「レクイエム」を結びつけるのは私だけかとは思うが、自分の中では割と細かいところまで整合している。というのは…と続けるのはさすがに話が逸れすぎるからまたの機会にでも。

……なかなか演奏の話が始まらないとお怒りの皆さんすみません。具体的な話は書いていないけれど、これがこの日の演奏を聴いた私の感想の、ある意味でメインの部分なのです。こんなふうにあれやこれやと思考を触発する、実に刺激的な演奏だった、ということをまず申し上げたい。若いけれどもすでに国際的なキャリアを重ね、日本でもコンサートにオペラにとその才能を示している彼が、ヴェルディの大作をひとつのドラマとして提示した、という理解こそがこの日の演奏を評する際に最初に言われるべきことだと考えるのです。

この作品のスコアを、冒頭の第一曲だけでも見てほしい、すぐにこの曲が淡々と進行する儀式などでは全くなく、口ごもり、思い悩み、それでも口を開くことをやめられない…そんな語りとして書かれていることがわかるだろう。はじめ言葉は途切れがちになり、音楽はすぐに沈黙へと戻っていく、しかしまた意を決して小さい声で歌い始める…そんな、祈りとも一概には言えない、想いの表明として第1曲は書かれている、ヴィオッティはそう示してくる。ソリストたちも自らの心情に正直に、率直な声を届けてくるこの作品が、ただの儀礼の音楽に収まるわけもないのだ(もっとも。そんな退屈な儀礼的音楽、なかなか聴けませんけどね。本当につまらないものは演奏もされないし、話題に登る機会もないので)。
そして続いては「怒りの日」。先ほども少し書いたが、この部分(それも冒頭から数分だけ)が有名になりすぎて”オペラ風のかっこいい曲”みたいに思われがちなのがあまりにも惜しい。お願いだから、CMで使用することを禁止する法律を制定してほしいと本気で思うほどだ(頭が残念な人の意見)。前曲とは違い、力強く前進する怒りの日は意志的に始まり、続くセクエンツァはそれぞれがドラマの場面のように示され、むき出しの感情をほとばしらせる独唱者たちはあたかも“美しい歌を犠牲にしてもこれだけは言わなければ”と覚悟している役を演じてでもいるのかと思わされるほどの切迫感だった。追い詰められた人間の、感情のすべてをさらけ出すかのような「怒りの日」。

この凄絶な、振幅の大きい「場面」のあと、自分が少々虚脱していたようにも思う。このあとの数曲は裁きの場に立ち会わされた緊張からの解放に、結果としてただ音に身を委ねてしまった、とでも言うか。美しい慰めに、疑念の影もない祈りに、何ものにも立ち向かわなくていい安寧に。しかしこの音楽はそれでは終われない。そもそもの始まりの曲として、マンゾーニのためのレクイエムのために書かれた「リベラ・メ」が待っている。あらためて裁きの場に向かう音楽はどのようにあるべきか、その問いに対する若い指揮者の答えはこの上なく意志的な、あえて言うなら勇敢なものだった。感情に任せず、楽譜から読み取ったコントラストを明確に示す若い指揮者、その音楽を実現していくオーケストラと声楽陣たち。この音楽に正面から取り組んでくれた音楽家たちに心からの感謝を。

終演後のカーテンコールでファゴットから立たせたのはむしろ当然のことだ、スコアを確かめればすぐにこのパートの重要性はわかるのだから。彼女をはじめとした、木管セクションの繊細な雄弁(伝わりますかこの感じ)はもはや東響の看板と言えるだろうけれど、こうも歌に負けない表現を聴かせてもらえると、作品の持つ深刻さから一瞬離れて嬉しくなってしまうものである。バンダも含めた金管の安定感、14型の弦の変幻自在と、厳しいと噂のリハーサル、そして初日公演をすでに乗り越えた東京交響楽団は好調だった。そうそう、場内に轟く大音声を聴かせながら皮を破らなかったバスドラムはじめとする打楽器がここまでクリアに力感を伴って聴けるのは、いつのながらのミューザの美点である。改修後もこの音の存在感が変わりませんように。

独唱は、先ほど書いたとおり声そのもの、歌自体の美しさではなく表現に対して献身的だった。リハーサルできっちり表情つけまで終わっていたのか、指揮は歌手のために多く指示を出さなかったのに、踏み込んだ歌唱を聴かせたと感じる。ソプラノ以外の、「ルクス・エテルナ」の三重唱で退場する三人が「アイーダ」を得意とする面々なのは偶然だとは思うが、対訳に目をやりながら聴けば(ステージが明るいミューザだからできることなので、他の会場ではお薦めしません)、それぞれに聖書の中のエピソードを想起させるように独唱が配されていることに気付かされた。オペラ的、もっと広くドラマ的な歌唱にはそんな若い指揮者の読みもあったのだろう、役名こそないけれど、この作品において独唱者はドラマの中の中心人物なのだと思いながら聴き進めた。そして最後、「リベラ・メ」で卓越した歌を聴かせてくれた森谷だけがそのキャリアからヴェルディのオペラは出てこないが、一番強い印象を残した。

場面ごとの鮮明な描き分けに俊敏に反応した東京交響楽団に負けず劣らない歌を聴かせ、大人数がもたらす存在感だけにとどまらなかった東響コーラスの集中力はどれだけ絶賛されてもいい。この作品は演奏する側も聴く側も、誰もが主役としてその問いを引き受けるべき作品なのだ、と示す大役を果たしたと感じた。長いフーガをこなしてみせた「サンクトゥス」の歌唱だけでも胸を張っていいだろう。

終演後のカーテンコールで、出演者各位が指揮者に盛大な拍手を贈ったことは、とにかくリハーサルが厳しいという噂の若い才能に対して、共演した各位がその才能を認めた徴であろう。19歳で初めて指揮した作品(!)に再び見える機会を得て、現在の持てる全力で音楽を導いた姿にはどこか余裕すら感じられて、これからの成長にますます期待したくなる(というのもおこがましいが)。これでヴェルディ、シュトラウス、ドビュッシー、ベートーヴェン、ラヴェルを聴いたわけだが(五十音順←おい)、次はそろそろ、あの、私の好きなあの人とかその人の音楽も取り上げてくれないかなあ…

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それを踏まえて最後に。これもまためぐり合わせだ、という話。
1/14に開催される二つのコンサートのあとに約半年ほどの改修期間に入るミューザ川崎シンフォニーホール。その再オープン後、最初に指揮者として東京交響楽団の前に立つのが誰かといえば、またしても彼、ロレンツォ・ヴィオッティなのである。演奏されるのはブラームスをシェーンベルクが編曲したもの、そしてドヴォルザーク、これもまた期待していいだろう。
男子三日会わざれば、ではないが半年後の彼もまた刮目すべき進化を遂げて現れることだろう、そしてこの素晴らしいホールの復活と東京交響楽団の健在をこのホールの聴衆に示してくれることだろう。と書いて、またハードルを上げてこの文を終わる。