2018年12月16日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
フルート:甲藤さち(東京交響楽団首席奏者)
管弦楽:東京交響楽団
ヴァレーズ:
密度21.5(無伴奏フルートのための)
アメリカ(1927年改訂版)
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」 作品40
本当に久しぶりのノット&東京交響楽団、本当に久しぶりのミューザ川崎シンフォニーホール。私は帰ってきた!とかふざける余裕もなく会場入りした私が、客席で最初に見たのは上手端に置かれた「底抜けの太鼓に紐を通した、知らない人には楽器に見えないもの」(リンク先参照)。ああこれだよこれがヴァレーズだよ、と思いつつそこから目を転じて舞台全体を見れば、16型の弦に五管編成の団員入場を待ちかまえるみっしりと埋まったステージだ。そう、この日二曲目に演奏されるエドガー・ヴァレーズの「アメリカ」は常軌を逸した大編成オーケストラの作品なのだ。
しかしその前に置かれたのは同じヴァレーズの、フルート・ソロによる「密度21.5」であり、この二作は連続して演奏されるという。さて演奏場所はどうするのか、続けてと言うがどのように…などと思ううち楽員各位が入場し、チューニングの後ノット監督が拍手に迎えられて入場する。
いつもなら白く輝くミューザのステージで演奏が始まるところ、照明が落とされてソリストの甲藤さちにスポットライトが当たり、無伴奏フルートによるモノドラマのような、また何かの呪文のような音楽が三分程度暗い場内に響く。最後にひときわ強くクレッシェンドして曲が終わり、明るくなる場内には先ほどまでのソロ・フルートのこだまのように、アルトフルートの少し太い、暗めの音が特殊奏法のハープを伴って鳴り始める。あたかも先ほどのフルートが一人めの巫女だったように、今また集団による新たな祈祷が始まったようにすら思えてくる…と、いつもならこういうことは書かないように、私にはオカルト趣味はそんなにないのだけれど、ヴァレーズの作品にはそうした儀式的な身振りが特徴としてある。それも、この日の二作に限らず多くの作品に見受けられるので、たまには筆を滑らせておこう。
「アメリカ」冒頭の、アルトフルートのフルートよりは低く、ファゴットよりは高い音で紡がれる旋律は、直接にではないが「牧神の午後への前奏曲」から「春の祭典」へ、という20世紀音楽の流れを意識させる。この二作によって橋をかけるつながりが導くは、同じ作曲家が描き出す極小と極大の、音響の博覧会だ。(ヴァレーズがブリュッセル万博に作品を提供していることを、こう書いてから思い出した)
肝心の演奏は、と言えば「アンサンブル・アンテルコンタンポランのマエストロ」としてのキャリアを思い出させるノリノリのノット監督の指揮を、それに前に聴いたとき以上に見事にショックなく追従していく巨大な東京交響楽団の演奏に、存分に楽しませていただきました。予習の際にこの曲のスコアを追うだけで四苦八苦した私には、あの自在なドライヴは想像の遥か上の、圧倒される経験でありました。
…もっとも。私の前の席に座っていらした人生の大先輩は、幾度となく首を振ったり退屈そうにしていました。お気持ちはわからないこともないです。はい。
ヴァレーズについては、私は幸いなことに比較的親しみがあった。打楽器アンサンブルの「イオニザシオン」を友人知人たちが演奏したのを聴いたことがあって以来興味を持って、ケント・ナガノやリッカルド・シャイーの録音に親しんできたからいまさら驚きはしない。最初に目にしたライオンズ・ロアーだってよく知っている…とか、たまには訳知り顔で言ってみたいものだ(笑)。この大編成管弦楽が作り出す神秘の瞬間や上限が見えない轟音の前で、平静でいるほうがつまらないよ。いや本当にね。
ひとつ前半については書いておかねばならないことがある。このプログラムをミューザ川崎シンフォニーホールで聴くことができる幸福に、どれだけの方が気づかれただろう?
フルートが一人で音を紡ぐときも会場が大きすぎて表情が聴き取れなかったりしない、五管編成のオーケストラ、特にも10人以上の打楽器奏者が全力でクレッシェンドしても残響は乱反射したりしない、トゥッティの響きは混濁せず聴き分けることができる。こんな特別なホールでヴァレーズの代表作を体験できた皆様は幸いである。
かなりの無沙汰をしてしまった身では僭越とは存じますが、私からそう申し上げておきたい。
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そして後半は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ご記憶の方も多いだろう、以前ノット&東響がパーセルとリゲティを前半において「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏したプログラムのことを。(リンク先参照)
あの時期にスイス・ロマンド管弦楽団の芸術監督にも就任したマエストロ、ローザンヌではパーセル&リゲティから「英雄の生涯」につなぐプログラムにしていて、はてそれはどちらが正解なのか…などと思ったのを私は覚えている。その時の私達は聴けなかったノット監督の「英雄の生涯」は果たしてどんな音楽なのか、その疑問にようやく答えが出せる機会が来た、ともいえよう。もちろんオーケストラも違うし、演奏時期もけっこう離れたものだから、そして何よりノット監督のことだから、また違う演奏だったろう、とは思うのだけれど。私はこのプログラムの二日目を聴いたわけだから初日のものとはまた違うのだろう。
…この前振りを言い訳がましいと思う方もいるとは思うが、即興的なアイディアをその時どきの演奏に盛り込むノット監督の、そしてそれに全力で応える東響の場合どうしてもこの前置きは必要なのだ。そのうえで申し上げる、この日の「英雄の生涯」は私には「ティル・オイレンシュピーゲル」より明瞭な筋書きのある、言葉のないドラマとして受け取れる演奏だった。そしてまだ若い作曲家の自画像は、作曲後10年くらいの作品まで使い続けられる手法、アイディアを惜しまず注ぎ込んだ、押しも押されもせぬ代表作なのだ、と確信できる音楽だった。
まず前者から書いていこう。交響詩はそもそもがプログラムありきで描写的に作られるもの、それでも、たとえば「ツァラトゥストラ」がわかりやすいかといえばそうでもないし、先ほど名前を出した「ティル・オイレンシュピーゲル」がそう簡単かと言えばそうでもない。「ティル」は演奏時間が短くて次々とエピソードが進み、主人公の死と冗談めかした復活といったわかりやすさがある分、わかった気にさせられている、だけなのではないか?
対してこの日の演奏で示された「英雄の生涯」は、私にはシュトラウスの示すストーリー、英雄物語に完全に一致したものに思えた。意気揚々たる英雄が登場し、批評的敵との緒戦があり、妻との語らいがあり、敵との本格的な戦闘に勝利、老いて引退して終わるという筋書きを、これだけ得心したのは初めての経験だった。
普通に見れば大編成の「英雄の生涯」のオーケストラは、前半に比べれば打楽器も半分以下になり(五人もいるのに!!!)、洗練された管弦楽の技法が次々に繰り出されるさまは、標題やストーリーが付与されていても、実際にはある種の“オーケストラのための協奏曲”として演奏され、聴かれることを今更ながら再認識させられるもの。演奏精度にこだわる方は、きっと冒頭しばらくのズレを気にしたかもしれないが、いくつもの流れがまとまって大きな川となっていくような冒頭の推進力はなかなか捨てがたい魅力があった。
それに続く「英雄の敵」からはより安定した音楽となったが、この日の演奏の白眉はやはり伴侶であるコンサートマスター(水谷)と英雄(ノット監督とオーケストラ)の対話が明瞭に展開された「英雄の伴侶」だろう。この場面はもはや「シェエラザード」をきちんと劇化したかのごときわかりやすさとなるほどに、ヴァイオリンが語ればオーケストラが応え、オーケストラが先に語れば食い気味に自論をヴァイオリンが打ち込んでくる、そんな夫婦の姿すら見えるようだ。演奏会前に水谷氏のツイートを見て少し頭に留め置いた予想よりも、はるかに“英雄と妻との対話”として音楽が届いた。
断言できるのは、監督は今日とはまた違うアプローチで来るということ。それを全て受け止めたいと思いますし、リハの際に言われたことを伴侶のソロでもっと突っ込んでやってみたいと思います✨— 水谷 晃 / Akira Mizutani (@mizutani_akira) 2018年12月15日
「僕をもっと振り回してくれ。」
本当に音楽の中を生きていらっしゃる方です😅
その甘い時間も終わり、遠くで敵の声が聞こえ始めてからの「戦場」は、前半のヴァレーズとはまったく違う大オーケストラの技工の祭典。そんな側面あればこそ、多くの音楽家たちが「オケコン」としてこの曲を演奏するのだけれど、この日の演奏ではモティーフの出入り、音響の押し引きを戦場での戦いになぞらえて描き出した。途中から、進軍ラッパが聴かれなくなり兵士を煽り付けた太鼓も止みがちになっていく流れからの英雄の勝利への展開は圧倒的、その後はもはや余生である、と言いたくなるほどであった。
なお、自分が昔遊びでさらってみては「どう吹けばいいのよこれ」と思っていたバリトンとバステューバによる不穏なファンファーレは老いや衰えの到来を告げる不吉なファンファーレとして、いわば死神の役どころだったのだと得心した。それは、ある種の異様さがなければならないわけである、とようやく理解できたが、私がこの先テューバを吹くことはないだろうし、この曲を吹くことはもっとないだろう。残念である。
では後者、代表作としての側面について。
この作品に「業績」として、それまでのシュトラウス作品の引用が多々あることはご存知の通りだ。だが、この日の演奏からは、この作品を書いた当時はまだ存在しなかった「薔薇の騎士」が、「家庭交響曲」が、「アルプス交響曲」が…などなど、聴こえてきたのは私だけではないだろう。作曲家がこれから向かう先を示したマニフェストであり、その方向にどれだけ自信を持っていたかと示す自己の英雄化だったのだろう。それだけの身の詰まった音楽としてこの曲を経験できたのは初めてのことだった。この音楽が持つ可能性として、どこまでもドラマに寄り添った読みを示したジョナサン・ノットに、その意図を汲んで音響として示してくれた東京交響楽団に、そしてそのすべてを聴き手に届けてくれたミューザ川崎シンフォニーホールに感謝である。なお、この演奏は収録されていたとのことなので、多くの人に聴いてもらえる可能性があるのは喜ばしいことである。もっといいのは、より多くの人がミューザ川崎シンフォニーホールに足を運ぶことではあるが、ご無沙汰していた私が言うのは僭越の極みだから言えない(けど書いた)。
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さて、最後にツァラトゥストラ」とこの曲、どちらが…という話。両方聴くことができて、それぞれに楽しめたから、私たちが聴けた東響の方が正解じゃないかな!(笑)ボケはさておいて、私は聴けなかったのだけれど、つい先日に「フィガロの結婚」全曲の演奏を経たからこその、この演奏だったのでは、と私は想像する。よりドラマに対して想像力が開かれた状態の指揮者とオーケストラからなら、ここまで雄弁でドラマティック(正しくこの言葉を使える喜び)な音楽が紡ぎ出されたのだろうと想像する。この明瞭なドラマと、リゲティとパーセルによる開かれた問いが調和したのか、それとも哲学者の問いをさらに掛け合わせるべきだったのか。それは受け取った側で個々に考えることである。そんな問いを投げかけてくれるノット&東響に、心からの感謝を申し上げてこの稿を終える。