2018年12月31日月曜日

飽くなき音響の追求、そして「交響詩」の真髄 〜ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第143回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第143回

2018年12月16日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
フルート:甲藤さち(東京交響楽団首席奏者)
管弦楽:東京交響楽団

ヴァレーズ:
  密度21.5(無伴奏フルートのための)
  アメリカ(1927年改訂版)
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」 作品40

本当に久しぶりのノット&東京交響楽団、本当に久しぶりのミューザ川崎シンフォニーホール。私は帰ってきた!とかふざける余裕もなく会場入りした私が、客席で最初に見たのは上手端に置かれた「底抜けの太鼓に紐を通した、知らない人には楽器に見えないもの」(リンク先参照)。ああこれだよこれがヴァレーズだよ、と思いつつそこから目を転じて舞台全体を見れば、16型の弦に五管編成の団員入場を待ちかまえるみっしりと埋まったステージだ。そう、この日二曲目に演奏されるエドガー・ヴァレーズの「アメリカ」は常軌を逸した大編成オーケストラの作品なのだ。

しかしその前に置かれたのは同じヴァレーズの、フルート・ソロによる「密度21.5」であり、この二作は連続して演奏されるという。さて演奏場所はどうするのか、続けてと言うがどのように…などと思ううち楽員各位が入場し、チューニングの後ノット監督が拍手に迎えられて入場する。
いつもなら白く輝くミューザのステージで演奏が始まるところ、照明が落とされてソリストの甲藤さちにスポットライトが当たり、無伴奏フルートによるモノドラマのような、また何かの呪文のような音楽が三分程度暗い場内に響く。最後にひときわ強くクレッシェンドして曲が終わり、明るくなる場内には先ほどまでのソロ・フルートのこだまのように、アルトフルートの少し太い、暗めの音が特殊奏法のハープを伴って鳴り始める。あたかも先ほどのフルートが一人めの巫女だったように、今また集団による新たな祈祷が始まったようにすら思えてくる…と、いつもならこういうことは書かないように、私にはオカルト趣味はそんなにないのだけれど、ヴァレーズの作品にはそうした儀式的な身振りが特徴としてある。それも、この日の二作に限らず多くの作品に見受けられるので、たまには筆を滑らせておこう。

「アメリカ」冒頭の、アルトフルートのフルートよりは低く、ファゴットよりは高い音で紡がれる旋律は、直接にではないが「牧神の午後への前奏曲」から「春の祭典」へ、という20世紀音楽の流れを意識させる。この二作によって橋をかけるつながりが導くは、同じ作曲家が描き出す極小と極大の、音響の博覧会だ。(ヴァレーズがブリュッセル万博に作品を提供していることを、こう書いてから思い出した)



肝心の演奏は、と言えば「アンサンブル・アンテルコンタンポランのマエストロ」としてのキャリアを思い出させるノリノリのノット監督の指揮を、それに前に聴いたとき以上に見事にショックなく追従していく巨大な東京交響楽団の演奏に、存分に楽しませていただきました。予習の際にこの曲のスコアを追うだけで四苦八苦した私には、あの自在なドライヴは想像の遥か上の、圧倒される経験でありました。
…もっとも。私の前の席に座っていらした人生の大先輩は、幾度となく首を振ったり退屈そうにしていました。お気持ちはわからないこともないです。はい。

ヴァレーズについては、私は幸いなことに比較的親しみがあった。打楽器アンサンブルの「イオニザシオン」を友人知人たちが演奏したのを聴いたことがあって以来興味を持って、ケント・ナガノやリッカルド・シャイーの録音に親しんできたからいまさら驚きはしない。最初に目にしたライオンズ・ロアーだってよく知っている…とか、たまには訳知り顔で言ってみたいものだ(笑)。この大編成管弦楽が作り出す神秘の瞬間や上限が見えない轟音の前で、平静でいるほうがつまらないよ。いや本当にね。

ひとつ前半については書いておかねばならないことがある。このプログラムをミューザ川崎シンフォニーホールで聴くことができる幸福に、どれだけの方が気づかれただろう?
フルートが一人で音を紡ぐときも会場が大きすぎて表情が聴き取れなかったりしない、五管編成のオーケストラ、特にも10人以上の打楽器奏者が全力でクレッシェンドしても残響は乱反射したりしない、トゥッティの響きは混濁せず聴き分けることができる。こんな特別なホールでヴァレーズの代表作を体験できた皆様は幸いである。
かなりの無沙汰をしてしまった身では僭越とは存じますが、私からそう申し上げておきたい。

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そして後半は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ご記憶の方も多いだろう、以前ノット&東響がパーセルとリゲティを前半において「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏したプログラムのことを。(リンク先参照)
あの時期にスイス・ロマンド管弦楽団の芸術監督にも就任したマエストロ、ローザンヌではパーセル&リゲティから「英雄の生涯」につなぐプログラムにしていて、はてそれはどちらが正解なのか…などと思ったのを私は覚えている。その時の私達は聴けなかったノット監督の「英雄の生涯」は果たしてどんな音楽なのか、その疑問にようやく答えが出せる機会が来た、ともいえよう。もちろんオーケストラも違うし、演奏時期もけっこう離れたものだから、そして何よりノット監督のことだから、また違う演奏だったろう、とは思うのだけれど。私はこのプログラムの二日目を聴いたわけだから初日のものとはまた違うのだろう。

…この前振りを言い訳がましいと思う方もいるとは思うが、即興的なアイディアをその時どきの演奏に盛り込むノット監督の、そしてそれに全力で応える東響の場合どうしてもこの前置きは必要なのだ。そのうえで申し上げる、この日の「英雄の生涯」は私には「ティル・オイレンシュピーゲル」より明瞭な筋書きのある、言葉のないドラマとして受け取れる演奏だった。そしてまだ若い作曲家の自画像は、作曲後10年くらいの作品まで使い続けられる手法、アイディアを惜しまず注ぎ込んだ、押しも押されもせぬ代表作なのだ、と確信できる音楽だった。

まず前者から書いていこう。交響詩はそもそもがプログラムありきで描写的に作られるもの、それでも、たとえば「ツァラトゥストラ」がわかりやすいかといえばそうでもないし、先ほど名前を出した「ティル・オイレンシュピーゲル」がそう簡単かと言えばそうでもない。「ティル」は演奏時間が短くて次々とエピソードが進み、主人公の死と冗談めかした復活といったわかりやすさがある分、わかった気にさせられている、だけなのではないか?
対してこの日の演奏で示された「英雄の生涯」は、私にはシュトラウスの示すストーリー、英雄物語に完全に一致したものに思えた。意気揚々たる英雄が登場し、批評的敵との緒戦があり、妻との語らいがあり、敵との本格的な戦闘に勝利、老いて引退して終わるという筋書きを、これだけ得心したのは初めての経験だった。
普通に見れば大編成の「英雄の生涯」のオーケストラは、前半に比べれば打楽器も半分以下になり(五人もいるのに!!!)、洗練された管弦楽の技法が次々に繰り出されるさまは、標題やストーリーが付与されていても、実際にはある種の“オーケストラのための協奏曲”として演奏され、聴かれることを今更ながら再認識させられるもの。演奏精度にこだわる方は、きっと冒頭しばらくのズレを気にしたかもしれないが、いくつもの流れがまとまって大きな川となっていくような冒頭の推進力はなかなか捨てがたい魅力があった。
それに続く「英雄の敵」からはより安定した音楽となったが、この日の演奏の白眉はやはり伴侶であるコンサートマスター(水谷)と英雄(ノット監督とオーケストラ)の対話が明瞭に展開された「英雄の伴侶」だろう。この場面はもはや「シェエラザード」をきちんと劇化したかのごときわかりやすさとなるほどに、ヴァイオリンが語ればオーケストラが応え、オーケストラが先に語れば食い気味に自論をヴァイオリンが打ち込んでくる、そんな夫婦の姿すら見えるようだ。演奏会前に水谷氏のツイートを見て少し頭に留め置いた予想よりも、はるかに“英雄と妻との対話”として音楽が届いた。


その甘い時間も終わり、遠くで敵の声が聞こえ始めてからの「戦場」は、前半のヴァレーズとはまったく違う大オーケストラの技工の祭典。そんな側面あればこそ、多くの音楽家たちが「オケコン」としてこの曲を演奏するのだけれど、この日の演奏ではモティーフの出入り、音響の押し引きを戦場での戦いになぞらえて描き出した。途中から、進軍ラッパが聴かれなくなり兵士を煽り付けた太鼓も止みがちになっていく流れからの英雄の勝利への展開は圧倒的、その後はもはや余生である、と言いたくなるほどであった。
なお、自分が昔遊びでさらってみては「どう吹けばいいのよこれ」と思っていたバリトンとバステューバによる不穏なファンファーレは老いや衰えの到来を告げる不吉なファンファーレとして、いわば死神の役どころだったのだと得心した。それは、ある種の異様さがなければならないわけである、とようやく理解できたが、私がこの先テューバを吹くことはないだろうし、この曲を吹くことはもっとないだろう。残念である。

では後者、代表作としての側面について。
この作品に「業績」として、それまでのシュトラウス作品の引用が多々あることはご存知の通りだ。だが、この日の演奏からは、この作品を書いた当時はまだ存在しなかった「薔薇の騎士」が、「家庭交響曲」が、「アルプス交響曲」が…などなど、聴こえてきたのは私だけではないだろう。作曲家がこれから向かう先を示したマニフェストであり、その方向にどれだけ自信を持っていたかと示す自己の英雄化だったのだろう。それだけの身の詰まった音楽としてこの曲を経験できたのは初めてのことだった。この音楽が持つ可能性として、どこまでもドラマに寄り添った読みを示したジョナサン・ノットに、その意図を汲んで音響として示してくれた東京交響楽団に、そしてそのすべてを聴き手に届けてくれたミューザ川崎シンフォニーホールに感謝である。なお、この演奏は収録されていたとのことなので、多くの人に聴いてもらえる可能性があるのは喜ばしいことである。もっといいのは、より多くの人がミューザ川崎シンフォニーホールに足を運ぶことではあるが、ご無沙汰していた私が言うのは僭越の極みだから言えない(けど書いた)。

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さて、最後にツァラトゥストラ」とこの曲、どちらが…という話。両方聴くことができて、それぞれに楽しめたから、私たちが聴けた東響の方が正解じゃないかな!(笑)ボケはさておいて、私は聴けなかったのだけれど、つい先日に「フィガロの結婚」全曲の演奏を経たからこその、この演奏だったのでは、と私は想像する。よりドラマに対して想像力が開かれた状態の指揮者とオーケストラからなら、ここまで雄弁でドラマティック(正しくこの言葉を使える喜び)な音楽が紡ぎ出されたのだろうと想像する。この明瞭なドラマと、リゲティとパーセルによる開かれた問いが調和したのか、それとも哲学者の問いをさらに掛け合わせるべきだったのか。それは受け取った側で個々に考えることである。そんな問いを投げかけてくれるノット&東響に、心からの感謝を申し上げてこの稿を終える。

2018年12月20日木曜日

圧倒的な光に屈する悪魔の物語、として~東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

アッリーゴ・ボーイトが生涯に完成させたオペラはこれだけ、という「メフィストーフェレ」は自分の過去の音盤に関する記憶を手繰ってもバーンスタインのプロローグ、ムーティの全曲録音くらいしか出てこない。だからレアな作品だ、と言い切ってしまうなら、私はバッティストーニから厳しく反論されることになる。詳しくは東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを見ていただくとして、簡単に言ってしまえばこのオペラはそこまで演奏頻度が低いわけではない、のだ。確かにレコーディングだってちゃんと調べれば少ないとも言えない(パヴァロッティ、ドミンゴのファウストがあるのは、ある意味「彼らなら、ある時期何でも録音されていた」ということかとは思う)。またこの作品は映像映えするからなのか、最近の舞台の映像ソフトだってあるし、この演奏会と同時期にはMETが上演していたりもした。なるほど、この作品はそこまでレアではない。…もっともそれは「日本の外では」という話。我々日本のクラシック音楽好きは、昨今こんなにマーラーの第八番を聴くことができるのに、他の作曲家による「ファウスト」による作品群になかなか触れられない。グノーやボーイトが上演されないのはオペラの作品選択は多すぎるほど多い事柄が関わるものだから一概に良し悪しでは語れないが、そうしたある種の偏重は認識しておこう。
そういう風潮や傾向に挑む勇気が、そして自身が読み込んだ作品の力を信じる強い意志が、アンドレア・バッティストーニにはある(もちろん、その強い意志を受け入れる東京フィルハーモニー交響楽団にも、だ)。有名作を上演するのと並行してマスカーニの「イリス(あやめ)」を演奏会形式ながら上演した彼の、そうした趣向・指向については先日の定期のときにコンサート・レパートリーでも同様、と少し書いたので割愛。ここでも少しだけ書いておくなら、近現代の作品に強いマエストロが耳慣れない曲を取り入れることでコンサートのプログラムを新鮮なものに変化させるように、バッティストーニはイタリアの知られざる作品を取り上げることでよく知られた作品の意外な立ち位置を知らせたり、同時代の作品の近さ遠さを音で示してくれている、と考えている。今回の「メフィストーフェレ」にしても、昨年の「オテロ」、今年の「アイーダ」との歴史的・人間関係的位置関係を思わずにはいられないし、…これ以上は後にしよう、いつまでも本題に入れない。”私はどう聴いたか、この作品をどう体験したか”こそが拙文の本題である。なお、ボーイトの「メフィストーフェレ」、そしてその原作ゲーテの「ファウスト」についても書くとこの文がいつまでも終わらないことになるので過去記事を参照いただくようお願いしたい。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

2018年11月18日(日)15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ

メフィストーフェレ (バス):マルコ・スポッティ
ファウスト (テノール):アントネッロ・パロンビ
マルゲリータ/エレーナ (ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ/パンターリス(メゾ・ソプラノ):清水華澄
ヴァグネル/ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団  他

ボーイト:歌劇『メフィストーフェレ』(演奏会形式)

最初に総論を手短かに書く。すでにかなり長いけれど。
ゲーテが伝説から汲み取ったファウスト伝説のエッセンスをアッリーゴ・ボーイトがオペラという制約の中でギリギリまで汲み取って作られたオペラが「メフィストーフェレ」、その作品を”原作の抜粋”ではなく”原作から生まれた、凝縮され構成されたひとつの体験”として読み解いたアンドレア・バッティストーニと東京フィル、キャスト各位と演出補のチームが提示してくれた舞台、であった。三時間強の長丁場ながら、弛みや成り行き任せの瞬間はなく一気呵成に終幕までたどり着き、私たち聴き手を圧倒してくれた。こう書くと若さと勢いに任せた演奏だったように見えてしまうがそうではない。作品の多様な性格を表情で、サウンドで示しつつあれよあれよと展開していくドラマ運びに、迷いがなかったことを言いたいのだ。
プロローグとエピローグで作品の外枠を固めたボーイトの創意ゆえ、このオペラでは「ファウスト」が持つ“神と悪魔の遊戯的闘争の物語”としての側面が強められている。エピローグでの福音を改心の支えとするファウストなど、原作とは異なるアプローチに戸惑われる方ももちろんいただろうと思う。しかしこれはあくまでもゲーテの「ファウスト」ではなくボーイトの「メフィストーフェレ」、死を受け入れるその時まで励み努めた一人の人間の物語ではなく、神に挑んだ悪魔の物語なのだ。私はこの演奏を聴いて、そう理解した。ファウストはあくまでも神と悪魔に操られる存在であるのだから、悪魔が敗北した後の「救済されるファウスト」の物語はここには必要がない、ボーイトはそう判断したから、あの有名な「神秘の合唱」は書かれなかった。またひとつ、疑問が解けた気分である。

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日曜の昼に善男善女が集ったオーチャードホールの客席につけば、ステージはピット上にまで大きく張り出して、前方にはスペースがある。サイズとしてはそれほど大き過ぎもしないオーケストラの後ろに合唱団の席、その上にはスクリーンが用意されている。編成もそこまで大きいわけではない、といってもそれは14型程度の弦セクションの話(16型だったかもしれない。最近年のせいだが目が悪くなって、このあたりいささか自信がない)。大量の管打楽器、少年少女たちも加わる合唱は作曲された時代を考えればかなりの大編成のもの。バンダは舞台裏でもステージでも演奏するため、合唱の横に席がある、と見て取れる。
かつてのオペラ・コンチェルタンテを思い出すまでもなく、東京フィルがこのホールでオペラを演奏するためならば演出がつきものだ。定期演奏会でありながら、そのドラマを存分に表現しようという挑戦的な試みを長年続けていた東京フィルならではの、音楽を、その物語をより客席に伝わりやすくするための最小限ながら考えられた演出だった。パンフレットにある菊池裕美子氏の役職が”演出コーディネーター”とされているのは、バッティストーニとの共同作業だったから、なのだろう(「イリス」では演出もバッティストーニだったことを想起しよう)。

とまず舞台の話を始めたのは、最小限の照明だけが灯されたステージで始まった演奏、この作品ではもっとも有名なプロローグが始まってすぐ稲光を思わせる光の演出が非常に印象的だったからだ。この一つの演出が、この作品は題名が示すとおりの悪魔の物語であるのと同時に、神の物語でもあることが示されたと感じたからだ。ここから「魔笛」の三人の童子を想起した私は、”もしかしてバッティストーニの中ではロッシーニ&シューベルトによるプログラムと「メフィストーフェレ」とはつながっていたのかもしれない”などとも考える。考え過ぎ、気のせいかもしれないけれど。
舞台が進む中で照明の演出のみならず舞台上方のスクリーンに映される映像、会場各所で活躍した助演を交えてこのオペラをより伝わるものにしようと試みた姿勢を、私は積極的に評価したいと思う。「ファウスト」を読んでいたとしても、私たちはみなこの作品の”初心者”だったのだから。なお、助演の古賀豊は鬼火として客席に現れたりマルグレーテの幻影を殺したりと、文字にするといささか物騒な活躍をして(笑)この演奏会をオペラにする、文字通りの一助となっていた。

音楽の話に移る。バッティストーニと東京フィルがこの日聴かせた演奏は、バッティストーニらしい張りのある、よく伸びるサウンドでボーイトの唯一の完成されたオペラの魅力を存分に伝えてくれた。バッティストーニが導けば鳴らしやすいとは言い難いオーチャードホールでも東京フィルは見事に輝いた。あえて難を言うならば、特にプロローグとエピローグがあまりに輝かしかったものだから、悪魔という闇の存在が少々消されてしまった感がなくはない、ということだろうか(笑)。
もっとも。私はこの作品の題が「ファウスト」ではない理由を、ボーイトがスカピリアトゥーラとして挑戦的だった自分の投影としているからではないかと考えるのだが、こうして神のご威光によって敗北するドラマとして「メフィストーフェレ」を体験することで、どうしても後年反抗の対象の一人だったはずのジュゼッペ・ヴェルディと和解・協業したスカピリアトゥーラたちのことを思ってしまう。「アイーダ」でのギスランツォーニ、「シモン・ボッカネグラ」「オテロ」そして「ファルスタッフ」でのボーイト。“父親”としてのヴェルディともども、なにか考えさせられてしまう縁がここに現れた、というのは後付にすぎるのだけれど。

オペラ指揮者・バッティストーニの技はこの日も冴えに冴えた。改訂されたとはいえ短いとは言えないこのオペラが一気呵成に上演されたかのように感じられたのは枠組みを明示した作品の構成の妙もあるだろうけれど、歌手とのやり取りでちょっとした間の悪さが生じない彼の技が大きく貢献していた。まだ発表されていない彼の次のオペラは果たして何か、期待せずにはいられない。
彼の指揮のもとの東京フィルハーモニー交響楽団の充実ぶりは、皆様ご存知のとおりである。このオペラ二日目ということもあっただろうけれど、集中力高く破綻なく、確信に満ちた音で彼らのマエストロに応えきってみせた。

キャストでは、題名役のマルコ・スポッティはこの日体調不良だったとも聞いたが、バスを主役とした数少ない作品での晴れ舞台を見事にこなした。
急な代役にもかかわらず熱唱を聴かせたアントネッロ・パロンビ(ジャンルーカ・テッラノーヴァから変更)のファウストは、”このオペラはファウストの物語ではない”という私の読みを裏切るほどの存在感を示した。ヴェリズモ・オペラにも近いかと思わせる熱い歌唱には、この作品がドイツ由来であることを忘れさせるほどの力があった。
マリア・テレーザ・レーヴァは初来日でのマルゲリータ/エレーナでの出演だったが、特に前者の第三幕のアリアで聴かせた。トラウマ的経験を経た彼女の不安定なあり方を示しながら、キャラクターの芯の強さを同時に表現した歌唱はお見事、19世紀の「ファウスト」が第一部を中心に受容されたことも理解できるほど、だった。
新国立劇場合唱団はプロローグ、エピローグの輝かしさも見事だったが、第一幕の復活祭の群衆の場面でさすがの存在感を示した。世田谷ジュニア合唱団は音楽の流れを任される場面でも臆すことなくよく歌い、公演の成功に大きく寄与した。

最後に。本文の繰り返しになるけれど、作品については以前の記事(その一 その二)を参照いただくようお願いしたい。ゲーテの「ファウスト」について何度も書くなんて底なしの度胸、私にはないもので。本当にね。
…とは思ったが、実演に触れることで喚起される思考というのは間違いなくあるものだから、ボーイトの作品、オペラについてということで最後に記しておく。

先日の記事でこの作品が想起させるものとして「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」の名を挙げたが、実演を聴いてさらにいくつかの作品との関係性が気になった。もしかすると無理筋かもしれないが、先行作として意識された可能性のあるもの、純然たるシンクロニシティ、後世への影響などなどを想像させる作品名をあげたい。
プロローグあとの第一幕の復活祭と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の類似は時代的な近さ、作曲家たちの関係性を嫌でも考えてしまうものだ。また、第二幕と「ラ・ボエーム」第二幕はダブルデートというか、二組のカップルの場というか、場面の提示における手付きの水準で近さを感じた。そして古代の美女たちと関わる第四幕は「ホフマン物語」を思わせるものだった。
このあたりのことも、きっと世界のどこかには論文があるのだろうな、と思いつつ探せていない私であります。たぶん、捜索の果てに見つかる論文はイタリア語で書かれているんじゃあないかなあ…

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この日は、16日にすでに行われたサントリーホールでの公演の好評を知った上で渋谷に向かったのだが、「渋谷は怖いところだ」と直前にニュースで見たので(おい)、護身用に悪魔のコスチュームでもドンキで買おうかと思ったら(嘘)、渋谷のドンキは自分が知っている場所から少し離れたところに移転していて驚いた。もはや浦島太郎である。これからしばらくこのシリーズ続きます(そうなんだ)。

さてこの長い文に最後までお付き合いいただきました皆さまに、そして私にも朗報です。来る12月21日(金)に、NHK FMの番組「オペラ・ファンタスティカ」にて、私が聴いたオーチャードホールの公演の2日前の演奏会、サントリーホール公演が放送されます。若きマエストロは演奏会場によって演奏の仕方を変えるのかどうか、ちょっと気になるところなので確認しなくてはと思う次第。放送は14時からですので、皆さま何らかの手を打ってぜひお聴きくださいませ。

では今日はこのへんでよかろうかい(特に意図はなし←と書くことで何かがにじむスタイル)。

2018年12月7日金曜日

”汲めども尽きぬ泉”に再び出会えた喜び ~東京フィルハーモニー交響楽団 第121回オペラシティ定期シリーズ

いろいろあってコンサートから遠のいていた私ですが、アンドレア・バッティストーニの指揮に久しぶりに触れることができて、大いに嬉しく思った、と最初に書いておく。しみじみ。

その機会となったのは、実に彼らしい「近い時代に違う場所で活躍した、似たところのある才能」の作品を並べた俯瞰的なプログラムの演奏会。ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)、フランツ・シューベルト(1797-1828)とその生没年を並べるといささか生きた時代に開きがあるようにも見えるが(ロッシーニは明治維新の年まで生きていた!とかつい話を拡げたくなりますがそこは自重で)、彼は後半生を作曲家として生きなかったので、早逝したシューベルトと活動時期はそう変わらない。そしてなにより二人共に「歌」を作ることにおいて並外れた才能を示した、という共通点がある。得意分野もかたやオペラ、かたや歌曲とつい分けて考えてしまうけれど、シューベルトもオペラは書いているのだし、ロッシーニだって歌曲も作っている。シューベルトなら交響曲が、と思うかもしれないけれど語源にさかのぼってシンフォニア(序曲)ならロッシーニの得意中の得意、何曲もの音楽的に充実した”小交響曲”が作られていることは誰もが知っている、その充実ぶりはバッティストーニと東京フィルがいつも示してくれている。ここにある”無意識の区分け”を見直してみませんか?そんな提案含みのプログラムと、私は受け取った。
…とはいえ、俯瞰するだけなら年表と地図を広げれば私でもこのくらいはできる(自慢にもならない当たり前の事実)、それをバッティストーニがどう音として聴かせてくれるか、そのアイディアは説得的だったか。評するのなら言うべきことはそれに尽きる。

では以下に、当日の演奏をどう私が聴いたのかを記そう。なお、この日の弦セクションの編成は前半後半とも同じ12型(10型かもしれない)で、このあたりにもバッティストーニの問題意識は徹底されていたように思う。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第121回オペラシティ定期シリーズ

2018年11月12日(月) 19:00開演 東京オペラシティ コンサートホール

ロッシーニ:
  歌劇『アルジェのイタリア女』序曲
  歌劇『チェネレントラ』序曲
  歌劇『セビリアの理髪師』序曲
シューベルト:交響曲第八番 『ザ・グレート』

前半のロッシーニ序曲三曲については、曲目だけを見ればバッティストーニと東京フィルらしい…で済ませてしまうこともできるだろう。これまでもロッシーニやヴェルディの序曲をまとめて取り上げてきた彼らが、知名度の異なる三曲を並べてロッシーニの多彩なアイディアを示す、というのはもはや彼らの「名刺」ともなっているのだから。しかし「過去に取り上げた作品を改めて演奏する際にも、単なる繰り返しにならないようにしたい」と以前語っていたバッティストーニのこの日の演奏をそれで片付けるのは、あまりに惜しい。
それぞれの作品の持つ響きを、時には最高に洗練させて時には野卑になることを恐れずスコアに書かれた音楽を実現しつつ、聴かせどころを見事に作り上げる手腕ある演奏家にかかれば曲ごとの個性を際立たせつつ、随所に新鮮な響きを作り出してくれる。そんな演奏であってみれば、”旧知の曲”だからと退屈させられる暇などないのだ。

特にもアリア並みに長いソロに顕著だが、木管楽器群の饒舌さには何度となく驚かされた。オーボエ、クラリネットの活躍にはいくらでも拍手を贈りたい(ちゃんと会場でも拍手しましたよ)。
ただし。裏に回って大変なことをさり気なくこなしている弦セクションの皆さまの献身を、文章でうまくお伝えできない自分を歯がゆく思わないではない。造形を崩さずにここぞというところでは迷いなくアクセルを踏み込むバッティストーニのテンポで、ロッシーニの忙しくも楽しい音楽を実現しているのは間違いなく彼の棒によく反応する弦セクションなのだとわかっているのだけれど。これは私の側の課題、ですね。

そして後半のシューベルトは、これまでの彼の演奏で比べるならば、やはり時代的に近いベートーヴェンに近い音楽として描いた、と言えるだろう。この音楽に秘められていた力強さの顕現に、繰り返されるモティーフを活かすリズムへの配慮に、かつて聴いた独特でありながら説得的な第五番を思い出させられた。
しかしそれでいて細部はまったく独特な演奏だった、と言うしかない。この日のコンセプトでもあっただろうロッシーニのような語りものとしての性格も強く示されるし、楽章の頂点を刻印するように鳴り響く金管楽器の輝かしさはマーラーやブルックナーにも通じる圧倒的なものだった。このやり方は一般的なシューベルト理解からは遠いかもしれないが実に魅力的で、私は身を任せて圧倒された。
…こう書くと力押し一辺倒の演奏だったように思われるかもしれないがまったくそんなことはなく。随所に彼独自の読みが光る、刺激的な演奏だった。惜しむらくはその表現がいささか意外で、一度聴いただけでは言語化しにくい部分があった(もちろん「私には」、である)。そして演奏には前半のロッシーニほどの精度はなかったこともあり、この日の演奏が彼らの”ゴール”ではないと感じたことも書いておこう。これから繰り返し「グレート」を、シューベルトを取り上げてくれるならまた従来のイメージと違う音楽が体験できそうな、そんな予感を抱かせてくれた。
※私はそこまで演奏精度にこだわる方ではないと思うけれど、このコンビネーションならばもっと、と感じた場面もなくはなかった、ということで申し上げておく。

シューベルトにおけるMVPはやはり三本のトロンボーンだろう。ベートーヴェンの、そして「魔笛」の楽器をこれでもかとばかりに自在に使ったシューベルトのアイディアを、バッティストーニは最大限まで読み取り、信頼する東京フィルの三人の奏者に託した。託されたトロンボーンセクションは、ちょっとした協奏曲よりも大変だったのではないかと思わせられる変幻自在の活躍ぶりと言えた。たしかに、この曲はそれまでのシューベルト作品より「大きい」ものだが(以前、私は「この編成でそのまま初期ブルックナーを演奏できる」と書いた、思う)、ここまでトロンボーンが活躍していたとは思わなかった。一般的には抑えめの音量で響きの味付けとされるようなところも旋律やモティーフとして明示され、結果音楽は違う顔を随所で見せた。私の認識しているシューベルト前後の交響曲で、ここまでトロンボーンが活躍する例を思い出せないほどの活躍には、かつて趣味で金管楽器を吹いていた者として頭が下がる。序盤から最後の和音まで続くこれだけの大仕事、なかなかできることではない。いま一度ここで拍手、である。

しかし前後半あわせた全体でみるなら、木管セクションの饒舌さがこの日の演奏をより華麗なものにし、また説得的にしたのは疑いようもない。特にもロッシーニの音楽の軽さとスピード感を表現したオーボエとクラリネットの首席が作り出すシューベルト得意のタロガトー風の響きも美しく、コンサート全体を通じて作品の持つ可能性を存分に示してくれた。

…このコンサート一度では、私が感じたこの印象も勘違いかもしれない、そんな迷いも実はなくはない。だからここでリクエストとして書いておこうと思う。バッティストーニと東京フィルのシューベルト、もしかすると新しい「名刺」になれるかもしれないので、この先もどんどん取り上げてほしい。いわゆるピリオドアプローチとは違う、しかし説得的なシューベルト像が生まれる可能性だってきっとある、私はそう感じた。
最後に私事。この公演から数日が経ってこの記事に着手してから、会場に響いた音楽が脳内でループしはじめたのには驚いた。このあとから効いてくる余韻は何だったのだろう(笑)。

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さて10月の「アイーダ」巡演、そして11月のこのコンサートのあとにはこのコンサート、そして注目の「メフィストーフェレ」(レビューはもう少しお待ちを)、「魅惑のオペラ・アリア・コンサート」を大成功させたバッティストーニと東京フィル。このあともさらに怒涛の公演が続くのでこの機会にリストアップしておきましょうそうしましょう。

・2019 1/19 フレッシュ名曲コンサート マーラー 交響曲第8番 新宿文化センター 大ホール

新年には、まず私が熱望していた、マーラーの後期作品!(個人的希望なのか)
第一番の録音が好評だったことは知っているけれど、彼のクリアでよく鳴る音で「マーラーの、できたら五番以降の作品が聴きたい」と以前お話を伺った際にリクエストしてたんですよ、私。恥知らずですみません。とはいえ、まさかそれが第八番になろうとは!なんたる僥倖!!!!(!増量してみた)
バッティストーニと東京フィルにとっては「ファウスト」つながりの作品を間を置かず演奏できる貴重な機会になることは間違いない、そしてその貴重さは私たち聴き手にとっても同様である。僥倖、でありましょう。
(…にしてもこのところ、第八番多すぎじゃないですかね?とか言いたい気持ちもあるけれど。八番大好きなんですけど。)

・2019 1/23、25、27 東京フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会

そして新年最初の定期演奏会は物語の音楽化を三つ集めたプログラム。語り上手なマエストロ、日本で一番オペラを上演しているオーケストラが自らを主役として描き出すドラマは、聴く前から刺激的であるだろうことはわかる、しかしその衝撃のほどは聴いてみるまではわからない、この日の「グレート」が予想できなかったように。

にしても、である。著作の中でストコフスキーにも触れていたバッティストーニが「魔法使いの弟子」を選ぶのはわかる、またロシア音楽を愛好する彼が”ロシア流のオーケストラによる音物語”の最高峰とも言えるだろう絢爛な「シェエラザード」を、気心のしれた東京フィルと演奏したいのも理解できる。
しかしなんだ、ザンドナーイはどんな曲だ。ほんとに。いまどき断片さえもYouTubeで見つけられない曲とかなかなかないぞ。そのあたりの事情は、東京フィルのサイトで読める彼のインタヴューが面白いので、興味のある方はぜひご一読を。”ザンドナーイ・ルネッサンス”、もしかして東京から始まっているのかもしれませんよ?

そして。あえて時系から飛ばしていましたが、今年の大晦日に開催されるコンサートは全国対応だよ!恒例の東急ジルヴェスターコンサート、指揮はアンドレア・バッティストーニ!オケは当然東京フィルハーモニー交響楽団!カウントダウン曲はこのコンビネーションがこの秋全力で取り組んだばかりの「アイーダ」!!
BSテレ東なら全国どこででも見られちまうんで、「アイーダ」で虜になった各地の皆さんも、先日客演して得意の「カヴァレリア・ルスティカーナ」で圧倒された九州の皆さんも、もちろん首都圏で東京フィルとの演奏会を聴かれたみなさんも感動を新たにする好機でございますぜ。(民放テレビっぽく煽ってみた←なにか誤解があるようだ)
チケットは当然の完売でしょうから(チャレンジしたい方はしてみてもいいでしょう…って、まだ受付中なのかな?)、であればお茶の間でじっくりと見て聴いてやろうじゃあありませんか。私は録画で、かもしれないのですけれど…

…などと予定をまとめてきましたが、私は感動が新鮮なうちに「メフィストーフェレ」のレヴューを書かなければ、です。次にあの作品の実演に触れる機会はないだろうなあ、と思いながら、脳内ではロッシーニとシューベルトに代わって延々とプロローグとエピローグのファンファーレが鳴り響き、雷鳴が轟いていますよ(笑)。では次の記事でお会いしましょう。