●東京フィルハーモニー交響楽団 10月定期公演
2019年10月
17日(木)19:00開演 会場:東京オペラシティ コンサートホール
20日(日)15:00開演 会場:Bunkamura オーチャードホール
21日(月)19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール
指揮:ミハイル・プレトニョフ
テノール:イルカー・アルカユーリック
男声合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ビゼー:交響曲 ハ長調
リスト:ファウスト交響曲 S.108
ゲーテの「ファウスト」をめぐる音楽作品の話は、これまで何度もしてきた。マーラー、ベルリオーズ、そして残念ながらグノーの歌劇には触れられなかったけれど、この秋にはまだもう一つの大作が待っていた※。それがリストによる管弦楽と男声合唱、声楽、そしてオルガンを用いた「ファウスト交響曲」である。取り上げるのは数々の秘曲を実際の音として我々に示してくれた、そしてピアニストととしてリスト作品を深く理解するミハイル・プレトニョフ、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団だ。独唱はイルカー・アルカユーリック、合唱は新国立劇場合唱団と、作品の真価を示してくれるだろう布陣は整っている。初日の公演も好評だった模様で期待も高まるばかり、残り二公演を楽しむ準備はできている、こと私に関しては。
※歌曲のリサイタルなどをきちんと見ていけば、もっともっと多くの演奏会があっただろう、ということは触れておくけれど、最近はそこまで情報をチェックできていないのである。ご容赦のほど。
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だが、率直に言ってしまうならばこの曲の実演を体験できるとは思っていなかった、という個人的な告白をしておこう。というのは…
そもそも管弦楽曲ではリストの人気はそう高いとは言えず(ベルリオーズやワーグナー受容において、この凹みはけっこうなマイナス要素ではないかと思っている※)、数多くの交響詩の中で有名な「前奏曲」は歴史的な扱いにくさもあってか今は”往年の名曲”としてときどき取り上げられるに過ぎない、数多あるオーケストラのための小品のひとつでしかない。歴史的な経緯はもちろん、リストが悪いわけではないのだけれど…
2005年のマエストロとロシアナショナル響による同曲。今聴いてみて、もう少し演奏されてもいいような気がするけれど、ラマルティーヌの詩とかチェックするのも大変だから、仕方ないのかな。文学が絡むと、私のような者もひと作業増えるし、とは思います。ものぐさですみません…
そんな「あまり人気のない作曲家(ごめんなさいあくまでもオーケストラでの話です)」の大編成作品、しかも有名だけれど大部で読了するのもたいへんな原作付き、しかもその原作へのアプローチは「三人の登場人物の描写」で長大な戯曲を描き出そうという非常に独特なもの。この作品が人気になるにはそうですね、ディ●ニーがSFX使いまくって「ファウスト」第二部までをきちんと魅力的な映画に仕立て上げて、そこで使われるくらいでしょうか…それでも大人気作品になってどこのオーケストラも取り上げるような作品には、ならないかなあ…
※せっかくの機会なのでどうですか、こんな動画でリストの交響詩をまとめて聴いてみては。
ありがとうブリリアントクラシックス。
ここまで言いよどんでしまうようなところがある曲なのに、実はこの作品は録音なら意外になされているのでした。今ではもういくら分厚くしても出版できないだろう、私が昔愛読したCDカタログには、ショルティにバーンスタイン、バレンボイムにムーティなどステレオ録音からデジタルに移行するくらいの頃のものが載っていたので、自分にとっては一音も聴いていないのになんとなく知っている曲のひとつ、だったくらいには存在感があった。その後もインバル、ラトル、シャイーにイヴァン・フィッシャーなどの著名指揮者はこの作品を取り上げたから、そのうちに録音では聴くようになって今に至っている。
ちなみにこの人はベルリン・フィルの定期に呼ばれてまでこの曲を演奏している。好きなんだねえ…
この作品は、第一部の三人の登場人物を三つの楽章でそれぞれに描写し、第三楽章の終盤にスケルツォからの移行部を経て全巻の幕切れにあたる神秘の合唱を歌い上げて終わる、本当に独特な交響曲だ。だから仮にあなたがあらすじだけで「ファウスト」を知っていて、それぞれの登場人物像を持っていないならば、この作品は何をしたいのかわからないかもしれない。
だが、キャラクター描写においてはベルリオーズやワーグナーの影響が明瞭だから(特にも合唱の入りの直前の部分、きっとどなたもよくご存知の響きに気づくだろう)、プレトニョフと東京フィルが奏でる響きに耳を澄ますなら何かしらの貴重な認識が得られよう。
また、この作品は同じ題材を取り上げたマーラー(第八番との対比はなかなか興味深いが、マーラーはこの作品を演奏してはいないようだ)、ショスタコーヴィチなど後世への影響でも知られている※。「交響詩作曲家による交響曲」という捉え方をするならリヒャルト・シュトラウスの前身として見ることもできよう。音楽史的にも相当に独特な位置を占める作品だ、と言えるだろうか。
※ショスタコーヴィチの第一〇番は、DSCHモティーフによる自画像とほか二人の人物描写だ、とする説があります。
そんな独特な作品を、録音や楽譜のみで理解するのはなかなか容易ではない、音楽家ならぬ我が身であればなおのこと。それなりの時間録音を聴く形で付き合ってきた作品だけれど、未だに芯を捉えられた気がしていない。だからこうして、実演で体験できる機会が訪れることはまさに望外の喜び、想定外の好機、なのだ。
私のこんな思いは、ここまで書いてきたとおり非常に個人的なものなのでどなたかに共有していただこうとは思わないのですけれど、この作品のユニークさは本物ですし、コンサートで取り上げられることは本当に希少なのです。ですから残り二回の公演、ここまでの文中に少しでも気になるポイントがあった方にはこの機会を逃されませぬよう、とご案内させていただきます。
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なお。前半に演奏されるビゼーの交響曲は、NYCBの演目としても有名な、ジョージ・バランシン振付の「シンフォニー・イン・C」でも知られる作品です。「カルメン」「アルルの女」ほどのポピュラリティはないけれど、古典的な四楽章形式の交響曲として非常に親しみやすい作品です。
現在も初期の習作的扱いがされているし、そもそも作曲されてもビゼー生前には演奏されなかった作品であることを思い出してみれば、この日のプログラムでもプレトニョフは「十分にその価値を知られていない作品をきちんとプレゼンテーションする」いつもの姿勢を貫いているのだ、と気づくわけです。今回もまた、勉強させていただきます。と、そんな落語家の弟子のような気持ちで私は会場に伺おうと思っております。皆様も、ぜひ。
2019年10月20日日曜日
2019年10月11日金曜日
東京交響楽団 2020年シーズンラインナップ記者会見開催!
本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年を祝って演奏された「グレの歌」の記念碑的な演奏の記憶も冷めぬ10月8日(火)、ホールの市民交流室を会場に来る2020年シーズン、ノット&東響のシーズン7、2020年主催公演ラインナップを発表する会見が行われた。
すでに多くの音楽ファンが注目しているところではあるけれど、この日も冒頭に大野順二 楽団長が「現役時代、ワーグナーの全幕演奏はぜひ取り組みたい、しかしなかなか実現できないものだった」と語り始めたところから、やはり定期公演で取り上げるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が中心的な話題となった。もちろん、現在は新国立劇場での上演を担当することもあるわけだが、演奏会形式などで多くのオペラ作品を上演する中で「いつかワーグナーを、万全の形で」という思いが楽団にあったことは強く伝わった。
続いて話し始めたノット監督は「まだ「グレの歌」が抜けていない」と笑いながらも、来る「トリスタンとイゾルデ」上演について多面的に語ってくれた。ダ・ポンテ三部作以来となるコンサート形式での上演については「ドラマを言葉で紡いでくれる歌手が近くにいるコンチェルタンテ上演は好きです。以前取り上げた作品、たとえば「ジークフリート」では題名役の歌手がオーケストラに向かって歌い出し、その場が歌手とオーケストラの対話のようになったこともありました」として、演奏会形式で音楽家同士が近い距離で上演することのメリットを語る。
シェーンベルク作品にも色濃く残るワーグナーの影響を示せること、東響と「グレの歌」を経験する中で、mf、mpのような音量で歌手を支えながら音楽的に表現することを学べたこと、監督が語ったそれらは音として私たち聴衆にも届けられることだろう。
ノット監督とのプログラミングに大きな役割を果たす辻 事務室長からも「ノット監督はご子息にトリスタンと名付けるほどこの作品を愛している」というエピソードが紹介され、「トリスタン」はノット&東響がいつかは取り上げなければいけない作品だと考えていたことが明かされる。ノット監督との長期契約のち折返しに差し掛かる来年取り上げるこの作品への、楽団全体の期待、高揚感が強く感じられた。「浄夜」「グレの歌」を経験したノット&東響が取り組む「ペレアスとメリザンド」と、ノット監督最愛の作品の一つ「トリスタンとイゾルデ」のコラボは、これまでの7シーズンの蓄積が響き合う一つの頂点を形作ることだろう。
***********
それ以外の演奏会については、チャイコフスキーの交響曲第六番、そして日本人作曲家の作品について興味深いエピソードが語られたので紹介しよう。
東響ファン、ミューザ川崎シンフォニーホールのファンの間で話題の「Take a Risk!」Tシャツに何度も何度もサインしながらノット監督はこう思ったのだという。「こんなにも多くの人たちが自分たちの演奏を聴いて、こんなに喜んでくれているのに自分は来場してくれる皆さんのことを何も知らないな…」と。そこでファンとのちょっとした懇親会を開いて、生の聴き手からリクエストを求めたのだという。そこで聞かれた「マエストロのロシア音楽が聴きたい」という声に答えて、けっして短くはないキャリアの中で一度も演奏したことがなかった(!)チャイコフスキーの「悲愴」を取り上げることにしたというのだ。もちろんノット監督だから、プログラムはオール・チャイコフスキーのようなものにはならず、ムソルグスキーからベリオを経てチャイコフスキーに至る、という民族性を軸にした独特で興味深いものになったわけだが。
また同じ懇親会では辻氏からもう一つ興味深い話があった。ノット監督と日本人作曲家の作品を取り上げること自体は以前にも行っているし(細川俊夫、藤倉大)、酒井健治は「コンポージアム」の際に審査員としてノット監督が見出した面もあるからすぐに提案は受け入れられた。しかし矢代秋雄のピアノ協奏曲についてはノット監督も知らない曲であり、はじめは乗り気ではなかったのだそうだ。しかしその会で直接話す機会を持てたファン各位が矢代作品を熱くプッシュしてくれたこともあって、来シーズンの演奏が決まったのだという。どなたかは存じ上げないけれど、そのノット&東響ファンの方々に感謝と、連帯の挨拶をさせていただきたい。「新しい作品もいいけれど、日本クラシック音楽の歴史を作ってきた、礎となる方の作品をノット監督の指揮で取り上げられることはとてもありがたく思っている」と語る辻氏に、まったくもって心の底から同意である。矢代秋雄とブルックナーがノット監督の元で出会うとき、果たしてそれはどのように響くのか。期待しかない、と申し上げよう。
この日の会見場には、記念碑的演奏が終わってどこか抜けたような雰囲気もあったけれど(いや私だけかもしれない)、もちろん第6シーズンはまだまだ進行中だ。会見の翌日からは週末の定期演奏会&名曲全集のリハーサルも始まる、という。ノット監督の三ヶ月連続登場はまだ始まったばかり、これからもアイヴス&シューベルト、ベルク+マーラー、そして第九と注目の公演が連続する。「東響2019」もまだまだ目が離せないし、 #東響2020 はノット&東響の黄金時代の到来を更に多くの聴衆に知らしめるものになる。本日の会見を受けて私はそう感じている。
(後日、写真の追加、若干の追記を予定しています)
***********
いくつか余録。
「#東響2020」はもっと皆さんで使って国内のオーケストラ、クラシック音楽仲間でもっと盛り上がっていければ、とのことでした。私もこれからは積極的に使っていこうと思います。
また、この会見で「明日からリハーサル開始」と語っていた週末の演奏会については、10/12(土)定期公演の中止が東京交響楽団からアナウンスされています。日曜日の公演については現時点では開催の予定とのことですが、来場を予定されている皆様におかれましては、ホームページやSNSで情報収集されることをお勧めします。もちろん、何よりもまずご自身とご家族の安全に配慮なさってくださいませ。
今度こそ最後に、追加の主催公演として、「サエグサシゲアキ80s」が発表された。「逆襲のシャア」!!!!!!!!!!!!!と、私からはエクスクラメーションマーク連打で反応させていただく。
いくらでも語ってくれそうな勢いのノット監督。
すでに多くの音楽ファンが注目しているところではあるけれど、この日も冒頭に大野順二 楽団長が「現役時代、ワーグナーの全幕演奏はぜひ取り組みたい、しかしなかなか実現できないものだった」と語り始めたところから、やはり定期公演で取り上げるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が中心的な話題となった。もちろん、現在は新国立劇場での上演を担当することもあるわけだが、演奏会形式などで多くのオペラ作品を上演する中で「いつかワーグナーを、万全の形で」という思いが楽団にあったことは強く伝わった。
続いて話し始めたノット監督は「まだ「グレの歌」が抜けていない」と笑いながらも、来る「トリスタンとイゾルデ」上演について多面的に語ってくれた。ダ・ポンテ三部作以来となるコンサート形式での上演については「ドラマを言葉で紡いでくれる歌手が近くにいるコンチェルタンテ上演は好きです。以前取り上げた作品、たとえば「ジークフリート」では題名役の歌手がオーケストラに向かって歌い出し、その場が歌手とオーケストラの対話のようになったこともありました」として、演奏会形式で音楽家同士が近い距離で上演することのメリットを語る。
シェーンベルク作品にも色濃く残るワーグナーの影響を示せること、東響と「グレの歌」を経験する中で、mf、mpのような音量で歌手を支えながら音楽的に表現することを学べたこと、監督が語ったそれらは音として私たち聴衆にも届けられることだろう。
ノット監督とのプログラミングに大きな役割を果たす辻 事務室長からも「ノット監督はご子息にトリスタンと名付けるほどこの作品を愛している」というエピソードが紹介され、「トリスタン」はノット&東響がいつかは取り上げなければいけない作品だと考えていたことが明かされる。ノット監督との長期契約のち折返しに差し掛かる来年取り上げるこの作品への、楽団全体の期待、高揚感が強く感じられた。「浄夜」「グレの歌」を経験したノット&東響が取り組む「ペレアスとメリザンド」と、ノット監督最愛の作品の一つ「トリスタンとイゾルデ」のコラボは、これまでの7シーズンの蓄積が響き合う一つの頂点を形作ることだろう。
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それ以外の演奏会については、チャイコフスキーの交響曲第六番、そして日本人作曲家の作品について興味深いエピソードが語られたので紹介しよう。
東響ファン、ミューザ川崎シンフォニーホールのファンの間で話題の「Take a Risk!」Tシャツに何度も何度もサインしながらノット監督はこう思ったのだという。「こんなにも多くの人たちが自分たちの演奏を聴いて、こんなに喜んでくれているのに自分は来場してくれる皆さんのことを何も知らないな…」と。そこでファンとのちょっとした懇親会を開いて、生の聴き手からリクエストを求めたのだという。そこで聞かれた「マエストロのロシア音楽が聴きたい」という声に答えて、けっして短くはないキャリアの中で一度も演奏したことがなかった(!)チャイコフスキーの「悲愴」を取り上げることにしたというのだ。もちろんノット監督だから、プログラムはオール・チャイコフスキーのようなものにはならず、ムソルグスキーからベリオを経てチャイコフスキーに至る、という民族性を軸にした独特で興味深いものになったわけだが。
また同じ懇親会では辻氏からもう一つ興味深い話があった。ノット監督と日本人作曲家の作品を取り上げること自体は以前にも行っているし(細川俊夫、藤倉大)、酒井健治は「コンポージアム」の際に審査員としてノット監督が見出した面もあるからすぐに提案は受け入れられた。しかし矢代秋雄のピアノ協奏曲についてはノット監督も知らない曲であり、はじめは乗り気ではなかったのだそうだ。しかしその会で直接話す機会を持てたファン各位が矢代作品を熱くプッシュしてくれたこともあって、来シーズンの演奏が決まったのだという。どなたかは存じ上げないけれど、そのノット&東響ファンの方々に感謝と、連帯の挨拶をさせていただきたい。「新しい作品もいいけれど、日本クラシック音楽の歴史を作ってきた、礎となる方の作品をノット監督の指揮で取り上げられることはとてもありがたく思っている」と語る辻氏に、まったくもって心の底から同意である。矢代秋雄とブルックナーがノット監督の元で出会うとき、果たしてそれはどのように響くのか。期待しかない、と申し上げよう。
この日の会見場には、記念碑的演奏が終わってどこか抜けたような雰囲気もあったけれど(いや私だけかもしれない)、もちろん第6シーズンはまだまだ進行中だ。会見の翌日からは週末の定期演奏会&名曲全集のリハーサルも始まる、という。ノット監督の三ヶ月連続登場はまだ始まったばかり、これからもアイヴス&シューベルト、ベルク+マーラー、そして第九と注目の公演が連続する。「東響2019」もまだまだ目が離せないし、 #東響2020 はノット&東響の黄金時代の到来を更に多くの聴衆に知らしめるものになる。本日の会見を受けて私はそう感じている。
(後日、写真の追加、若干の追記を予定しています)
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いくつか余録。
「#東響2020」はもっと皆さんで使って国内のオーケストラ、クラシック音楽仲間でもっと盛り上がっていければ、とのことでした。私もこれからは積極的に使っていこうと思います。
また、この会見で「明日からリハーサル開始」と語っていた週末の演奏会については、10/12(土)定期公演の中止が東京交響楽団からアナウンスされています。日曜日の公演については現時点では開催の予定とのことですが、来場を予定されている皆様におかれましては、ホームページやSNSで情報収集されることをお勧めします。もちろん、何よりもまずご自身とご家族の安全に配慮なさってくださいませ。
今度こそ最後に、追加の主催公演として、「サエグサシゲアキ80s」が発表された。「逆襲のシャア」!!!!!!!!!!!!!と、私からはエクスクラメーションマーク連打で反応させていただく。
2019年10月5日土曜日
かってに予告編 ノット&東響 シェーンベルク:「グレの歌」
●ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年記念公演 シェーンベルク:グレの歌
2019年10月5日(土)、6日(日) 15:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァルデマール:トルステン・ケール
トーヴェ:ドロテア・レシュマン
山鳩:オッカ・フォン・デア・ダムラウ
農夫:アルベルト・ドーメン
道化師クラウス:ノルベルト・エルンスト
語り:サー・トーマス・アレン
合唱:東響コーラス(合唱指揮 冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団
ジョナサン・ノットと東京交響楽団がこれまで演奏してきた作品の一つの集大成であり、また未来へもつながる選曲となる作品が、彼らが本拠地として日々音楽を作り、披露しているミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年記念として演奏される、特別な機会である。そんな側面から少し書いてみよう。
まずはノット&東響が初期の共演から演奏してきているマーラー作品、シュトラウス作品との関係を一つの視点として示そう。オーケストラの可能性は時代を追ってどんどんと拡張されて、第一次世界大戦前にいくつかの頂点となる作品を生み出している。「グレの歌」の成立時期を見れば、否応なくマーラーの第二番、第八番と同時期の作品として見ることになるだろう。※
※初演は1913年だからマーラーなら第八番以降の作品となるが、着手事態は世紀の転換期なので先行する「声楽入り管弦楽大作」となると第二番を参照しないわけにはいかない。「グレの歌」はその成立からして扱いが難しい曲なのである。
今回の公演はミューザ川崎シンフォニーホールの15周年を祝うものではあるのだが、これまでの記念公演ではマーラー作品を取り上げてきた流れから、離れることになったわけだ。だがこれは来シーズン以降に向けて大きな可能性を開き、未来へと続いていくものになっていると私見している。
マーラー、シュトラウスなどの後期ロマン派作品と同様にノット&東響が注力してきたのは、新ウィーン楽派の作品群だ。ノット監督が得意とする現代の作品まで届く視野を、東響は以前から持っていたけれど、そのスタンスは彼の就任、そして積極的な演奏活動によってより鮮明になった。これまでの「ワルシャワの生き残り」「ルル」組曲、そして今年演奏予定の「三つの管弦楽曲」と、時代的にも音響的にも響き合う「グレの歌」は、現在のノット&東響の最良の美点を示してくれるものになるだろう。(もちろん、東響コーラスの充実も見逃せないところだ)
そして題材的にも、結果として未来への可能性を示している。来年演奏される”「トリスタンとイゾルデ」+「ペレアスとメリザンド」”は「グレの歌」とも共通する、伝説的物語を題材にした不幸な愛、そして救済の物語だ。ノット監督がこれを意識していないわけもなく、彼による謎掛けが、数年がかりで披露されるのだと言えなくもない(個人的には、夜の歌(セレナーデ)故に誤った愛称で呼ばれる第七番をこれから、「愛の妙薬」的に展開する「トリスタン」的なプロットを感じる第五番を来年演奏することも併せて考えたい)。
太陽讃歌で圧倒的に終わる作品が呼び込んでしまっただろうか、今年最後の暑さの中で開幕する「グレの歌」、様々な観点から注目なのである。
*************
そしてこれは個人的な意見。ここで挙げてきた作品群の源流には、間違いなくベルリオーズの大作群があるだろう。オペラならありえる大編成に大仕掛け、また「レクイエム」のような機会音楽ならば(また革命の時代だからこそ)許された巨大な編成、それらを交響作品に持ち込んでしまった彼の存在がなければ、「グレの歌」もない。
…来シーズンの予定にはないけれど、その先にはもしかしてノット&東響のベルリオーズも展開されるのだろうか。っていうか聴きたいなあ。きっと、この二年がかりの大企画の先に、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がありうると思うのですけれど。古典派とロマン派をつなぐリンクとして。個人的リクエストで本稿はおしまい。
※追記。
10/5の初日公演を聴いてまいりました。この文章で挙げた作品群との関係が強く感じられましたが、実演で聴いたらいくつか書き足しておきたくなりました。
シェーンベルクの自作では「五つの管弦楽曲」を聴いておくと、この作品の繊細なのに過剰すぎる音色の追求も理解しやすく思えます。また、第一部の輝かしさからは、ノット&東響の出会いの作品、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」が聴こえたように思います。二人の作曲家の個性の違いも含めて。画家シェーンベルクと、デザイナーのラヴェル、とでも言いますか。もし二度目三度目を聴けるならば、さらに理解が深まりましょうに、どうにも惜しいことです。
こんな後悔をしないためにぜひ、明日時間を作れる皆様はミューザ川崎シンフォニーホールに行くべきです。迷う時間なんてもうありませんよ。
2019年10月5日(土)、6日(日) 15:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァルデマール:トルステン・ケール
トーヴェ:ドロテア・レシュマン
山鳩:オッカ・フォン・デア・ダムラウ
農夫:アルベルト・ドーメン
道化師クラウス:ノルベルト・エルンスト
語り:サー・トーマス・アレン
合唱:東響コーラス(合唱指揮 冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団
ジョナサン・ノットと東京交響楽団がこれまで演奏してきた作品の一つの集大成であり、また未来へもつながる選曲となる作品が、彼らが本拠地として日々音楽を作り、披露しているミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年記念として演奏される、特別な機会である。そんな側面から少し書いてみよう。
まずはノット&東響が初期の共演から演奏してきているマーラー作品、シュトラウス作品との関係を一つの視点として示そう。オーケストラの可能性は時代を追ってどんどんと拡張されて、第一次世界大戦前にいくつかの頂点となる作品を生み出している。「グレの歌」の成立時期を見れば、否応なくマーラーの第二番、第八番と同時期の作品として見ることになるだろう。※
※初演は1913年だからマーラーなら第八番以降の作品となるが、着手事態は世紀の転換期なので先行する「声楽入り管弦楽大作」となると第二番を参照しないわけにはいかない。「グレの歌」はその成立からして扱いが難しい曲なのである。
今回の公演はミューザ川崎シンフォニーホールの15周年を祝うものではあるのだが、これまでの記念公演ではマーラー作品を取り上げてきた流れから、離れることになったわけだ。だがこれは来シーズン以降に向けて大きな可能性を開き、未来へと続いていくものになっていると私見している。
マーラー、シュトラウスなどの後期ロマン派作品と同様にノット&東響が注力してきたのは、新ウィーン楽派の作品群だ。ノット監督が得意とする現代の作品まで届く視野を、東響は以前から持っていたけれど、そのスタンスは彼の就任、そして積極的な演奏活動によってより鮮明になった。これまでの「ワルシャワの生き残り」「ルル」組曲、そして今年演奏予定の「三つの管弦楽曲」と、時代的にも音響的にも響き合う「グレの歌」は、現在のノット&東響の最良の美点を示してくれるものになるだろう。(もちろん、東響コーラスの充実も見逃せないところだ)
そして題材的にも、結果として未来への可能性を示している。来年演奏される”「トリスタンとイゾルデ」+「ペレアスとメリザンド」”は「グレの歌」とも共通する、伝説的物語を題材にした不幸な愛、そして救済の物語だ。ノット監督がこれを意識していないわけもなく、彼による謎掛けが、数年がかりで披露されるのだと言えなくもない(個人的には、夜の歌(セレナーデ)故に誤った愛称で呼ばれる第七番をこれから、「愛の妙薬」的に展開する「トリスタン」的なプロットを感じる第五番を来年演奏することも併せて考えたい)。
太陽讃歌で圧倒的に終わる作品が呼び込んでしまっただろうか、今年最後の暑さの中で開幕する「グレの歌」、様々な観点から注目なのである。
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そしてこれは個人的な意見。ここで挙げてきた作品群の源流には、間違いなくベルリオーズの大作群があるだろう。オペラならありえる大編成に大仕掛け、また「レクイエム」のような機会音楽ならば(また革命の時代だからこそ)許された巨大な編成、それらを交響作品に持ち込んでしまった彼の存在がなければ、「グレの歌」もない。
…来シーズンの予定にはないけれど、その先にはもしかしてノット&東響のベルリオーズも展開されるのだろうか。っていうか聴きたいなあ。きっと、この二年がかりの大企画の先に、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がありうると思うのですけれど。古典派とロマン派をつなぐリンクとして。個人的リクエストで本稿はおしまい。
※追記。
10/5の初日公演を聴いてまいりました。この文章で挙げた作品群との関係が強く感じられましたが、実演で聴いたらいくつか書き足しておきたくなりました。
シェーンベルクの自作では「五つの管弦楽曲」を聴いておくと、この作品の繊細なのに過剰すぎる音色の追求も理解しやすく思えます。また、第一部の輝かしさからは、ノット&東響の出会いの作品、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」が聴こえたように思います。二人の作曲家の個性の違いも含めて。画家シェーンベルクと、デザイナーのラヴェル、とでも言いますか。もし二度目三度目を聴けるならば、さらに理解が深まりましょうに、どうにも惜しいことです。
こんな後悔をしないためにぜひ、明日時間を作れる皆様はミューザ川崎シンフォニーホールに行くべきです。迷う時間なんてもうありませんよ。
三人三様、充実の極み ~東京フィルハーモニー交響楽団 2020シーズンプログラム
来年からシーズンを1月に開幕するものとする東京フィルハーモニー交響楽団の、主催公演プログラムが発表された。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
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首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
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首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
2019年10月4日金曜日
メメント・モリ ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回
●東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回
2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団
J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24
とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。
演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。
なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。
************
個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。
「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。
結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。
オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。
************
この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。
2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団
J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24
とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。
演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。
なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。
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個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。
「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。
結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。
オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。
************
この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。
ケーススタディ、のようなもの:「クローズアップ現代+」の話
情報すべてを知りうる立場に立ちうる、と思ってしまうのが現代の怖いところで。何かのニュースを見て、自分で手持ちの知識や情報と照らして作り上げたストーリィが真である、と信憑することはとても容易い。フォローする/される関係で作られるSNSでの情報に多く触れていれば尚さらだ、基本的に自分が選んだ情報だけが入ってくるように作られたソースでしかない、そんな制約は思い出さないのが日常なのだから。
ただし。そういう場所を”戦場”に変えたがっている人は少なくない。選挙戦くらいならまだかわいいもんだ、その目的もなさんとすることもわかっているのだから。それが歴史…まあいいや、前提はこのくらい。
*************
こんな前振りをしてからでもないと、ニュースの検証というのもしにくいのである。自分が出向いて取材をする話ではないから(それができる、とは申し上げません)、いわゆる”大使館”方式、公開された情報を積み上げるのが、市井の個人としては手堅いやり方になるだろう。
●NHK報道巡り異例「注意」 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期
スクープに敬意を表して毎日新聞にリンクしてあります。こういうときに有料記事なのは痛いのですけれど。
記事をきちんと読んでいただいてもいいし(有料ですが)、ニュースを追われている方はとっくにご理解されているものと思うけれど、この件を整理するとこうなる。
「クローズアップ現代+」、2018年4月24日に「郵便局が保険を“押し売り”!? ~郵便局員たちの告白~」という回を放送する
→8月放送を目指して続編制作のため、情報提供を求める動画を7月に掲載
→日本郵政から7/11にNHK会長あてに「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」として削除を申し入れ
→「クローズアップ現代+」、日本郵政からの協力が得られないことから続編制作を延期、動画を削除。日本郵政には「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と説明、しかし郵政側はこの発言を「ガバナンスに問題」として問題視
→10月、日本郵政はNHK経営委員会に接触、日本郵政の意を汲んで会長に厳重注意、文書を送付
→11月、NHK会長、事実上の謝罪文を日本郵政に提出
つまり、番組の内容を「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」と感じた日本郵政が、番組宛てではなく会長にまず抗議したことから始まっている。この時点ですでにやり方がおかしいのだけれど、それを番組は正当に拒否している(しかし続編の制作は延期された)。この時点で日本郵政が事実関係をきちんと確認して内情を精査、あり方を正していればよかったのに、会長からの”謝罪”を引き出すことに注力して経営委員会というNHKの中でも局の外側にある集団に接触して会長に圧力をかけた、というのが今回報じられた件だ。
これについて「圧力によって番組が、報道が捻じ曲げられた、公共放送なにやってんだ」という話を多く見かけているのだが、こう整理すると批判の順番がおかしく感じられる。
まずは今は広く問題として理解されているかんぽ生命の問題があり、それを報じた番組を(内容の否定によってではない形で)撤回させようとした運営の日本郵政の問題がある。もし昨年4月の「クローズアップ現代+」が事実でない内容だったのであれば、そこできちんと否定すればよかった話だった、しかしそうではなく経営側に”働きかける”(今でも圧力だとは思っていないそうだ、日本郵政)ことで謝罪のようなものを勝ち取った。それが今回、日本郵政が勝ち取った唯一の勝点だ。
しかしそんなもので事実関係が覆るわけもなく、今年の6月以降はかんぽ生命の強引な”不適切”契約が広く報じられ、問題視されるに至って事態は現在も進行中だ。そして被害者が増えたことを思えば遅れ馳せにはなってしまったが、番組はこの件をきちんと追い続けていた。
→「クローズアップ現代+」、「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」として今年の7月31日に”続編”を放送
取材不十分で取り上げられるテーマではない、という認識があったからこそ昨年の続編放送は見送られたのだろう、この「検証1年」の内容を見るとそう理解できる。このページでは番組内容に加えて関連記事などもきちんと公開しているので、もし昨年4月の番組の時点で「クローズアップ現代+」に問題があったと思われる方はご一読して判断してほしい。いくら面倒に思われても、その面倒くさい手順を踏まないで行われる番組に対するすべての批判は、まったくの無意味なので。
と、経緯を見てきたところで私なりの現時点での認識を。
この件で、「経営委員会さえ味方につけられればNHKの報道を捻じ曲げられる」ような話はもちろん大問題だ。だからまず批判されるべきは自らの信頼を悪用して異常な契約を結ばせていた、そしてそれを糊塗せんと経営委員会に接触した日本郵政、次にはそれに同調したNHKの経営委員会の無思慮が批判を受けるべきだろう(毎日新聞の報道を受けて発表されたコメントは、如何にも問題を理解していない者の言だ)。
こう理解した上で番組を批判するならば、「続編が遅かったばかりに、悪質な契約を結ばせられた被害者が増えてしまった」くらいしか思いつかない。その無力感は番組制作者が一番認識しているだろうに、と思う私にとっては、こんなことを書くのは気が重いところなのだけれど。
この会見、YouTubeには全体もありました。さすがにそこまでは…
最後にひとつ、あまり言及されていないように思うので私からひとつ指摘を。日本郵政とNHKは、ラジオ体操をつうじて長年の協力関係があります。だからこそ、日本郵政は番組を黙らせたかったのでしょう、まるで”スポンサー”であるかのように。
*************
「いじめられる側にも問題が」「騙される奴が悪い」「扇情的な服でも着てたんでしょ」などなど、なにか事あれば捻ったつもりで本筋を捉えそこねたご高説を見かけてはげんなりする昨今、私からはひとつだけお願いしてこの記事を終わろうと思う。続報は各自追ってくださいませな。
この記事で書きたかったことは、実はひとつだけ。
お願いだから、順番を間違えないでほしい、問題を捉え損ねないでほしい。頼むからいじめとかする奴を正当化しないで、詐欺的行為をうっかり認めてしまわないで、性的犯罪をした側に立って被害者を責めないで。
これが普通になってくれればいい、そう希望しなければならないことが、実は一番残念な私だ。
ただし。そういう場所を”戦場”に変えたがっている人は少なくない。選挙戦くらいならまだかわいいもんだ、その目的もなさんとすることもわかっているのだから。それが歴史…まあいいや、前提はこのくらい。
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こんな前振りをしてからでもないと、ニュースの検証というのもしにくいのである。自分が出向いて取材をする話ではないから(それができる、とは申し上げません)、いわゆる”大使館”方式、公開された情報を積み上げるのが、市井の個人としては手堅いやり方になるだろう。
●NHK報道巡り異例「注意」 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期
スクープに敬意を表して毎日新聞にリンクしてあります。こういうときに有料記事なのは痛いのですけれど。
記事をきちんと読んでいただいてもいいし(有料ですが)、ニュースを追われている方はとっくにご理解されているものと思うけれど、この件を整理するとこうなる。
「クローズアップ現代+」、2018年4月24日に「郵便局が保険を“押し売り”!? ~郵便局員たちの告白~」という回を放送する
→8月放送を目指して続編制作のため、情報提供を求める動画を7月に掲載
→日本郵政から7/11にNHK会長あてに「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」として削除を申し入れ
→「クローズアップ現代+」、日本郵政からの協力が得られないことから続編制作を延期、動画を削除。日本郵政には「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と説明、しかし郵政側はこの発言を「ガバナンスに問題」として問題視
→10月、日本郵政はNHK経営委員会に接触、日本郵政の意を汲んで会長に厳重注意、文書を送付
→11月、NHK会長、事実上の謝罪文を日本郵政に提出
つまり、番組の内容を「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」と感じた日本郵政が、番組宛てではなく会長にまず抗議したことから始まっている。この時点ですでにやり方がおかしいのだけれど、それを番組は正当に拒否している(しかし続編の制作は延期された)。この時点で日本郵政が事実関係をきちんと確認して内情を精査、あり方を正していればよかったのに、会長からの”謝罪”を引き出すことに注力して経営委員会というNHKの中でも局の外側にある集団に接触して会長に圧力をかけた、というのが今回報じられた件だ。
これについて「圧力によって番組が、報道が捻じ曲げられた、公共放送なにやってんだ」という話を多く見かけているのだが、こう整理すると批判の順番がおかしく感じられる。
まずは今は広く問題として理解されているかんぽ生命の問題があり、それを報じた番組を(内容の否定によってではない形で)撤回させようとした運営の日本郵政の問題がある。もし昨年4月の「クローズアップ現代+」が事実でない内容だったのであれば、そこできちんと否定すればよかった話だった、しかしそうではなく経営側に”働きかける”(今でも圧力だとは思っていないそうだ、日本郵政)ことで謝罪のようなものを勝ち取った。それが今回、日本郵政が勝ち取った唯一の勝点だ。
しかしそんなもので事実関係が覆るわけもなく、今年の6月以降はかんぽ生命の強引な”不適切”契約が広く報じられ、問題視されるに至って事態は現在も進行中だ。そして被害者が増えたことを思えば遅れ馳せにはなってしまったが、番組はこの件をきちんと追い続けていた。
→「クローズアップ現代+」、「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」として今年の7月31日に”続編”を放送
取材不十分で取り上げられるテーマではない、という認識があったからこそ昨年の続編放送は見送られたのだろう、この「検証1年」の内容を見るとそう理解できる。このページでは番組内容に加えて関連記事などもきちんと公開しているので、もし昨年4月の番組の時点で「クローズアップ現代+」に問題があったと思われる方はご一読して判断してほしい。いくら面倒に思われても、その面倒くさい手順を踏まないで行われる番組に対するすべての批判は、まったくの無意味なので。
と、経緯を見てきたところで私なりの現時点での認識を。
この件で、「経営委員会さえ味方につけられればNHKの報道を捻じ曲げられる」ような話はもちろん大問題だ。だからまず批判されるべきは自らの信頼を悪用して異常な契約を結ばせていた、そしてそれを糊塗せんと経営委員会に接触した日本郵政、次にはそれに同調したNHKの経営委員会の無思慮が批判を受けるべきだろう(毎日新聞の報道を受けて発表されたコメントは、如何にも問題を理解していない者の言だ)。
こう理解した上で番組を批判するならば、「続編が遅かったばかりに、悪質な契約を結ばせられた被害者が増えてしまった」くらいしか思いつかない。その無力感は番組制作者が一番認識しているだろうに、と思う私にとっては、こんなことを書くのは気が重いところなのだけれど。
この会見、YouTubeには全体もありました。さすがにそこまでは…
最後にひとつ、あまり言及されていないように思うので私からひとつ指摘を。日本郵政とNHKは、ラジオ体操をつうじて長年の協力関係があります。だからこそ、日本郵政は番組を黙らせたかったのでしょう、まるで”スポンサー”であるかのように。
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「いじめられる側にも問題が」「騙される奴が悪い」「扇情的な服でも着てたんでしょ」などなど、なにか事あれば捻ったつもりで本筋を捉えそこねたご高説を見かけてはげんなりする昨今、私からはひとつだけお願いしてこの記事を終わろうと思う。続報は各自追ってくださいませな。
この記事で書きたかったことは、実はひとつだけ。
お願いだから、順番を間違えないでほしい、問題を捉え損ねないでほしい。頼むからいじめとかする奴を正当化しないで、詐欺的行為をうっかり認めてしまわないで、性的犯罪をした側に立って被害者を責めないで。
これが普通になってくれればいい、そう希望しなければならないことが、実は一番残念な私だ。
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