2019年12月19日木曜日

かってに予告編 ~東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

2019年12月
  19日(木)19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  20日(金)19:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
  21日(土)19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:チョン・ミョンフン
独唱:吉田珠代(ソプラノ)、中島郁子(アルト)清水徹太郎(テノール)、上江隼人(バリトン)
合唱:新国立劇場合唱団、多摩ファミリーシンガーズ(児童合唱)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」
エルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」

間もなく迎える2020年1月から新たなシーズンを迎える東京フィルハーモニー交響楽団は、昨年から今年にかけてシーズンの区切りを変更するにあたり、この一年を平成から令和への改元を祝う、変化の一年を寿ぐシーズンとして位置づけるかのように演奏会を行ってきた。そんな”一連のシリーズ”を締めくくるためだろうか、年末の第九公演もまたその一環として独自のプログラムで開催される。

新シーズンも見据えれば、チョン・ミョンフンが東京フィルとオーケストラの中核的なレパートリィをあらためて取り上げることでさらなる高みを目指していることは容易に察せられよう。2020年シーズンには「カルメン」、ベートーヴェンとマーラーの第三番を演奏するチョン・ミョンフンと東京フィルがその直前に披露する「第九」が、通例通りの年末イヴェントに収まるだろうか、いやない。SNSで東京フィルが伝えてくれているリハーサルからの言葉からも、その見識、意気込みのほどが伝わってくる。


(コメント全文はFacebookでご覧ください)


さて、先日私が秋山と東響の第九について書いた際に言及したことを今一度思い出してほしい。「今年は、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演がある」、「過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない」。そう、この公演もその意味合いから見逃すことのできない公演のひとつ、なのだ。

チョン・ミョンフンは、かつて東京フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音しているが、それはある意味でオーケストラの”統合の象徴”のような意味合いがあった。今となっては「彼の指揮だから、当時の合併直後のオーケストラでもここまで登ることが出来た」という記録にも思える。バッティストーニと首席指揮者に迎え、プレトニョフや自身との演奏会でより充実を見せるオーケストラとなら、果たしてどこまで行けるのか。そんな私たちの期待は、そのままマエストロと東京フィルのものでもあるだろう。
東京フィルの演奏は、第九のあとにも恒例の東急ジルベスターコンサートやニューイヤーコンサート、そしてNHKニューイヤーオペラなどで聴くこともできるのだけれど、まずはこの機会を逃す手はない、と私は思う。10年以上も前のレコーディングとは比べようもない、今のチョン・ミョンフンと東京フィルだからできる「第九」を、どれだけ高い期待で迎えても裏切られることはない。そう私から断言しておこう

なお、今回第九のあとに演奏されるエルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」は、みなさんもよくご存知の作品の原曲である。そうそう、開幕公演のバッティストーニのコンサートではアンコールに演奏していたことを思い出すなら、チョン・ミョンフンがシーズンの締めくくりにこの曲を演奏することに一層の感慨があるだろう。加えて言及しておくならば、今年退位した、マエストロの音楽的友人である上皇ご夫妻への思いもここにはあるのだろう。この一年だけではなく、この何十年かへの思いを乗せた、特別な演奏会を私も気合を入れて聴かせていただこうと思う。


(余計なお世話とは思うけれど、今回演奏されるのはこの曲の原曲)

ということで、私にとってこれまで経験のない年末二回目の「第九」に向けて、期待は高まる一方である。先日の秋山と東響は14型だったが、チョン・ミョンフンと東京フィルはこの顔合わせのことだから大編成のモダン編成だと推測していいだろう。で、私の三回目の「第九」は…という話はまた次回に。ではまた。

※12/20のオーチャードホールでの公演は僅少ながらまだ残席があるとのことなので、この機会を逃したくない方は、ぜひ。

追記。
「第九のあとに別の曲を演奏する機会はもうないでしょう」とマエストロが語られた、という話をSNSでみました。さもありなん、とは思いますが、初日の好演を聴いたあとに私が「それなら」という思いでこれを聴いておりました。今年だからこそのプログラムに、この季節だから許されることとして。


2019年12月13日金曜日

かってに予告編 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

なにも、日本での「楽団のモチ代稼ぎ」というスタートにケチをつけたいわけでもなければ(諸説あります)、年中行事になってしまったことに批判的なのだよ、なんて強めの意志表示でも何でもなく、と前置きして。私には、年末に”第九”ことルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」を聴く習慣が、ない。たまに気が向いて録音を聴いたなら、その後はしばらく積極的に聴かないようにする、例年ならそのくらいの付き合い方をしている作品なのだ。なにせ扱いが難しい、ちゃんと聴いたら大変だし雑に聴くのは申し訳ない。

だが今年はそんなことを言っていられない。宗旨替えか、貴様ノンポリめ!…そんな罵倒を覚悟してでも(ないない)聴かねばならない、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演があるから、だ。過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない。こんな機会を前に、少しくらい日程が近いからなんだというのか。その最初の公演が、こちら。

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

2019年12月14日(日) 14:00開演

指揮:秋山和慶
ヴァイオリン:シャノン・リー(第7回仙台国際音楽コンクール第2位 ※最高位)
独唱:吉田珠代(ソプラノ) 中島郁子(メゾソプラノ) 宮里直樹(テノール) 伊藤貴之(バリトン)
合唱:東響コーラス(合唱指揮・冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団

ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第一番 ト短調 Op.26
ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」

秋山和慶と東京交響楽団の恒例イヴェント、「第九と四季」は昨年をもって終了した。だが今年も東響との第九は演奏される、それもミューザ川崎シンフォニーホールで。

この夏に、「フェスタサマーミューザKAWASAKI」の出張サマーミューザ@しんゆりで聴いたブラームスの第一番は、休館明け直後の「ミューザの日」で演奏されたサン・サーンスの抜粋は、秋山和慶の端正な造形を超える何かの一端を感じさせてくれたように、私は思っている。それが何なのか、きっと「名曲全集」でもう少し示されるのではないか。長年の結びつき、だけでは収まらない秋山と東響の現在、多くの方が体験してくれますように。

なお、この公演では前半にブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番が演奏される。ソリストは第7回仙台国際音楽コンクール最高位のシャノン・リー、招かれてミューザの舞台に初登場だ。



この動画で彼女の演奏をまず聴いてみるのもいいだろう。選曲がちょっとコンサートの前に聴くには向かない気もするけれど。


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あと一回は、いわゆる第九を聴くのが決まっているのでその予告も書くことになります。どうもチケットは完売した模様なのですけれど。ではまた。

竹中亨「明治のワーグナー・ブーム ~近代日本の音楽移転」の話、と

さて読んだ本の話を。



ちょっとタイトルからの予想とは違った。もっとドタバタした感じを予想していたし、もっと無理やりな受容史をどこか想像していたのだなあ、とこの肩透かし感から思い当たるけれど、そんな先入観も仕方のないものなんですよう、と少し言い訳から始めたい。

たとえば。「モオツァルト」という有名な評論がある。まあ、名著と他人の評価に乗ってしまってもいいんですけど、今の目ではちょっと厳しいところも多い。”上演されてもモーツァルトのオペラを音だけで聴くわ”とかのくだりは本当にキツい。もっとも当時、戦後日本で良いオペラの上演を期待するほうが確かに夢想しすぎではあるので、気持ちは汲んであげられなくもない、とも思うけれど、ここまで評価されている本でも時代には囚われざるを得ないのだ、ということは指摘したい。
そう、時代の制約というのはいつでも誰にでもあるのである。私だって今のYouTubeやスポーティファイの、またはオンラインラジオ配信時代の人から見れば(なんであの人これ聴いてないの不勉強だよね)と思われていることだろう。そう、CD世代なんてもう時代遅れで情報量勝負なんかしたら勝ち目がないのである。もっともそんな勝ち負けなんてどうでもいいのだけれど。

え〜つまりですね、戦後ですら、冷戦期ですら、21世紀になってすら…どの時代だってそれぞれの制約あって音楽を受容している、そういう認識をまず前提に置きたい。そういう話です、回りくどくてすみませんね。技術が発達した今も時代の制約はある、ましてや明治期においておや。文明が開化する前の時代からの洋楽受容、ドタバタしないほうがおかしいと思うのですよ。まして、モオツァルトですらオペラ体験は諦められていた時代の「ワーグナーブーム」ですよ?ドタバタだったり無理やりじゃないと考えるほうが難しくないですか?(正当化)タイトルからは、そんな面白おかしい本なのかなって想像したんですよね。

ですが本書はそういうドタバタなエピソードや、明治期の”ざんぎり頭を叩いてみれば”的風刺を集めたものではなく、まっとうな研究成果でした。副題の「近代日本の音楽移転」をていねいに追い、歴史的経緯をきちんと読み手に認識させるものです。その中で紹介されるエピソードも悲喜こもごものドラマを感じさせるもので、個人的には大河ドラマ「いだてん」のスタイルでドラマにしてほしいくらいに興味深い。欧州文化との対峙ということであれば、スポーツより音楽のほうが先行しているわけですし。
そうですね、前半は考えるとして、後半の主人公は小澤征爾さんで「ボクの音楽武者修行」をベースにするのはどうですか。なにより映像化されれば音楽もつくから映えると思います。コンクールをクライマックスにできるから「のだめカンタービレ」「蜜蜂と遠雷」に続け!ってなもんですよ!!…もっとも、考証がすっごく大変になりますけど…(えっ本気だったの)

ちなみに。本書のタイトルが示す「ワーグナーブーム」、なんと音はほとんど聴かないで、それでも流行ったというなかなか味わい深い現象なのでした。気になった方は本書を、ぜひ。


そしてクレメンス・クラウスのワーグナーが私の最近のマイブーム(©みうらじゅん)。クラウスがあと数年でも生きていたら、いろいろ違ったんじゃあないか、なんて思う今日このごろ。

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さて。せっかく名前を出したので、ここでいよいよ最終回を迎える「いだてん ~東京オリンピック噺~」の話をします。傑作です。

いつも書いている通り、私は来年の世界的大運動会をスルーします。ここでは何も書きませんし、Twitterなどでも言及しない、できるだけ開催期間には都内にも行きません(なぜならフェスタサマーミューザKAWASAKI 2020があるから←運動会関係ないじゃんねえ!)。
そんな私はこのドラマにどう向き合ったかといえば、初期の「タイトルロゴのトリスケルが気持ち悪い」(横尾忠則のデザインでそう反応できる初さがちょっとうらやましい)だの「来年のための広告かよったく」「この視聴率…」なんて世評とは無縁に、初回から今に至るまでずーっと楽しく見てきました。もっとも初回を見るまでは私も(実際のオリンピックのためのもんだったら引くなあ…)と思ってました。しかし凝りまくった初回の構成に魅了されて、それ以降は録画してでも見逃さずここまで伴走してきました。楽しかったなあ…

大河ドラマについて、私はそんなに熱心な視聴者ではなかったのですが「龍馬伝」以降はたぶんほとんどのエピソードを見ているはず、です。その前だと仲間由紀恵見たさに…いやその話はいいか。それ以降だと「平清盛」は本当に、最高に面白かったですよね(再放送されてほしい。ちゃんと見ればわかってもらえると思うので)。
一年かけてひとつの大きいドラマを描ける大河ドラマという枠は、うまく使えば凄まじいものにもなりうるし、まあそれほどではなくても長く見ていればそれなりの愛着は湧くものです。そんな私でも無理だった作品は(自重)。余談の余談はこのへんで。

ここで紹介した本もそうですが、そもそも開拓者の話は先が見通せずに苦労することの連続でございます。そのドラマが現在進行形で描かれるなら、成功物語の中の過去のエピソードとして語られるそれとは違い、上手く進まない試行錯誤の繰り返しだってありましょう。
たとえば本作、前半の金栗四三時代を「よく知らない人の、あまり楽しくもない話」と見る人もいたでしょう。だがしかし彼の、また天狗倶楽部たちの時代になされた苦闘があったからこそ、ドラマは1964東京オリンピックに到れる、そう宮藤官九郎はじめ制作陣は考えた、のだろう。
実際のオリンピックはまだ知らないが高邁な理想を世界と共有する国際人(で何より面白い人)嘉納治五郎、走ることだけが得意な金栗四三、その二人を軸としつつ有名無名の人々を虚実ないまぜにしながら(壮絶なほどに”実”の分量が多いのが「いだてん」の凄いところで困ったところでもあるだろう)、狂言回しに後の古今亭志ん生を配して時代を活写しつつ明治から大正へ、そして第二部の主人公、田畑政治が激動の昭和を生き抜いて1964年に至る遠い道の、その始まりをまず用意した。
初参加のストックホルムから戦後の復帰まで、先行者たちの苦労と成功と巨大な失敗があって1964があり、それとどう関係するかはよく知らないが2020が待っている。来年のそれが、「いだてん」に描かれた先行者たちの苦闘を無に帰してしまわなければいいと思う気持ちはあるが、大運動会そのものの回避を決めている私には関係のないことである。諸行無常。

一年見てきた中でも、忘れがたい場面はカイロでのIOCでなんとか東京開催を取り付けたあとの帰路、船中でまだ外交官の平沢和重と嘉納治五郎が「一番面白かったこと」を語りあったところだ。私の中では完全に「神々の黄昏」の終盤、ジークフリートの昔語りに重なってしまって、もう楽しげな話を笑顔でしている二人を見ながら泣けて泣けて仕方がなかった。
このエピソードの前、嘉納先生は多忙に過ぎて”いだてん”のことすらすぐには思い出せない状態で、ある意味で自分の過去を裏切っていた。また田畑が問うとおり開催に向けて活動するオリムピックを「これがあなたが世界に見せたい日本なのか」と信頼する身内に否定されてしまっている、恐ろしいほどの孤独の中にあった。それでも恐れず前進を続けた英雄は、裏切り者に刺されたのではないけれど前を向いたままに亡くなってしまった。宮藤官九郎が描出し役所広司が演じ、スタッフが作り上げた嘉納治五郎は最後の瞬間まで楽しさを基準に物事を捉える痛快児のまま退場していった。こんな英雄の、最後の回顧を死亡フラグなんて安い言葉で収めたくはない。



さて、少しだけ音楽的思いつきも書いておきましょう。まずはこの場面を御覧ください。



開会宣言に続いて演奏される、公募で採用された今井光也によるこのファンファーレ、映画では強調されませんけれど「東京オリンピック ファンファーレ マーチ」とかで検索すればもっと鮮明に全曲聴くことができます。適当なものがなかったのですみません。

で、ですね、このファンファーレのあとに古関裕而作曲のマーチが続く、というのが演奏会などでは一般的なものなんですけれど。
どうだろう、このファンファーレのあとに「いだてん」テーマ曲を演奏するのは。行進なんかじゃあ収まらない、大好きなものへと駆け出す思いが意外にハマるんじゃないかなあ。最終回を前に、そんなことを考えている私なのでした。

2019年12月9日月曜日

BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」

●BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」 (12/10 18:00~ 再放送予定)

ワーグナーを聴かせてトマト作り、と言われるとまずは信憑性に疑問を感じる「モーツァルトを聴かせて熟成させた」的なものを想起する。だからこの番組も疑似科学的な、半分ネタ的な話なんだと思って見始めた。まあ、ワーグナーが流れるなら守備範囲でもありましょうし。
だが見終わって言えるのは、このドキュメンタリーは高齢化日本でこそ広く見られてほしい、ということだ。過疎の地元を離れて大学で学んだ男が、地元に戻ってトマトを作り、そのトマトでソースを作り…と、この番組はそんなチャレンジの物語だった。そしてここで描かれていたのは高齢化の先に見える希望がない地域でどうやって未来を作るのか、ということだ。タイトルの含意は、そのどこにでもあり普遍性あるのエピソードの中に、ワーグナーの音楽もあった、というだけの話だった※。そして流れた音楽はワーグナーだけではなく、プッチーニやギリシャ音楽も流れるし、トマトを育てることと音楽との関係も語られている。なんでも、「味を求めるならワーグナーだが、収量を求めるならギリシャ音楽」なのだとか…(笑)



※しかしタイトルは原題も「When Tomates Met Wagner」なので、この邦題がツカミ狙いのものではないことを付記しておく。

ワーグナーを聴かせて無農薬トマトを育て、そのトマトでオーガニックフードを作って販売していく過疎の、高齢化の村。手作りの素朴で味のいいトマトソースは、その過程でビジネスに出会い、試行錯誤する。差別化のためチアシード入りソースを求められて試行錯誤する終盤はなかなか味わい深い。いい味の品を作れている自信はある、だがそれだけではニーズに応えられない。高齢化の村が現代のグローバルなビジネスに出会って戸惑うさまも、普遍性のある出来事だろう。そして何より、少子高齢化のこの国では、この村が示すものは決して絵空事ではありえない。劇場上映であればちょっと見に行きにくいかもしれないが、せっかく我れらが公共放送が放送してくれているので、ぜひ見てみていただきたい。その先の思考は、視聴した私たち、それぞれの仕事である。

>NHKオンライン BS世界のドキュメンタリー

2020-2021年度 ミューザ主催公演 ラインアップ発表

ミューザ川崎シンフォニーホールの次年度主催公演ラインナップが12月6日、発表された。すでに東京交響楽団の新シーズン公演として発表済みの「名曲全集」「モーツァルトマチネ」については別記事で詳報するため本稿では割愛(必要に応じて参照)する。最終日の「ほぼ日刊サマーミューザ」で告知済みの「フェスタサマーミューザKAWASAKI2020」(7月23日〜8月10日)も同様。

各公演について詳しくはリンク先でご覧いただくとして、やはりひとつ取り出して語られるべき焦点は秋の「スペシャルオーケストラシリーズ」になるだろうと思う。今年は10月にノット&東響の「グレの歌」を、そして11月にパーヴォ・ヤルヴィとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、アンドレス・オロスコ・エストラーダとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ズービン・メータとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が立て続けに登場する、これ以上はなかなか想像できない程の濃密さであったが2020年はどうか。結論を言ってしまえば喜ぶべし、来年もいずれ劣らぬ三つのオーケストラがミューザの舞台に登場してくれる。10月3日にサー・サイモン・ラトルとロンドン交響楽団、11月に入ってワレリー・ゲルギエフとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とバイエルン放送交響楽団(指揮者未定)のコンサートが予定されている。

ここでまず触れなければいけないのはバイエルン放送交響楽団について、だろう。印刷されたパンフレットや、リンク先でご覧になった方もお気づきのとおり、この公演はマリス・ヤンソンスの指揮で予定されていたものだ。聴衆からも音楽家の同僚たちからもますます尊敬を集めていたマエストロの訃報は多くの方がご存知のことと思う。ミューザ川崎シンフォニーホールのサウンドをこよなく愛してくれた、かつて「アルヴィド・ヤンソンスの息子」として、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団を率いる注目の若手として現れ、昨今では押しも押されもせぬ巨匠となった彼が、このホールに次に登場することはない。

12/7に訪れたミューザ川崎シンフォニーホールでは、彼の生前の写真を掲出してその死を悼んでいた。

「ミューザのような素晴らしいホールをこのオーケストラのために」と尽力していたさなかの死は無念であろうと想像する。また、PDFデータ版からマエストロの写真と予定されていた曲目を削除しなかったことからも察せられる、ミューザ川崎シンフォニーホールの無念も如何ばかりか。バイエルン放送交響楽団とコンセルトヘボウ管、ふたつのオーケストラと見事な演奏を、最高のホールで披露してくれた相思相愛とも言えたヤンソンスとミューザ川崎シンフォニーホールの関係は、予定されていた来年には続かなかった。もう彼のブラームスは聴くことが出来ない。奇しくも彼の亡くなった日の、一年後が公演予定日だった。


ヤンソンスと同様にこのホールを愛してくれている(そして地元にミューザのようなホールを作ろうと奔走している)サー・サイモン・ラトルが現在率いるロンドン交響楽団との初のミューザ公演に、マーラーの交響曲第二番を用意していたことに、なんとも言えない感慨を覚えるのは私だけではないだろう。ラトルにとって指揮者を目指すきっかけの一曲であり、愛するホールの聴衆に自らのパートナーを紹介するために選んだのがこの作品であることは想像に難くない。ラトルにとってもマーラーの第二番は特別な作品であるし、それを東京公演ではなくミューザに持ってきてくれることの意味はそれだけでも十分に重いものだ。ラトルとロンドン響の新時代が活気あることは前回の来日公演を会場で聴いて、また放送や録音などで見知っている方も多いことと思うので、この公演への期待はそれだけでも高いものとなる。長年のファンとしても、来年の最大の注目公演としてフォントを大きくして書いておきたい。
だが、このタイミングでこのプログラムが発表されることに、ついヤンソンスのことも考えてしまう。ベルリンを退任後にバイエルン放送響との録音もしているラトルが、彼の死を悼むために用意したプログラムではない、そんなことはわかっていてもつい考えてしまう。これはラトルとヤンソンス、現代を代表するマエストロたちがミューザに寄せてくれる愛がなせるめぐり逢わせ、なのだろうか。


今年はサマーミューザにPMFオーケストラと登場したゲルギエフがウィーン・フィルと何を聴かせてくれるかは調整中とのことだが、現在マリインスキー劇場管と素晴らしいチャイコフスキーを披露しているというマエストロがどんなプログラムで私たちを驚かせてくれるか、期待しよう。

なお、前述したとおりロンドン響(10月)からウィーン・フィルとバイエルン放送響(11月)の間には短くない空白があるように見えるが、この間にはノット&東響の「ペレアス」・「トリスタン」定期やモーツァルトマチネ(リゲティまで演奏!)、名曲全集(矢代秋雄!!ブルックナーの第六番!!!)もあるので、否応もなく充実した演奏会が二ヶ月も続いてしまうのである。サマーミューザと並ぶもう一つの”高峰”は、来年も相当な高みに私たちを導くことだろう。

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恒例のシリーズ公演の中で、大きめの変更が行われるのはランチタイム/ナイトコンサートだ。同じアーティストが趣向を凝らしたプログラムで昼・夜の二回公演で(しかも廉価で!)楽しませてくれていたこのシリーズは、新年度には基本的にランチタイムコンサートのみのシリーズとなり、一部の公演で別シリーズとして行われてきた「ワインBAR」シリーズとして併催される。また、ミューザ自慢のオルガンを披露する機会となるランチタイムコンサート(4、7、11、翌年3月)ではオルガンツアーも新設されて、日頃は見られないミューザの舞台裏を回れるということなので、ミューザファンの皆様には続報をお待ちいただきたい(来年1月に詳報予定とのこと)。

また、年明けて2020年1月から始まる「MUZAスペシャル・ナイトコンサート」の新シーズン(2020年6月~)も発表されている。スライド・モンスターズにナベサダのビッグバンド、ザ・キングズ・シンガーズと、日頃のミューザに登場する顔ぶれとは一味違う面々のサウンドがこのホールにどう響くか、注目しよう。

他にもいくつもスペシャル・コンサートが発表されたが、中でも注目したいのは聖金曜日の翌日にバッハ・コレギウム・ジャパンが披露してくれる「マタイ受難曲」だろう。残念ながらミューザ公演はないのだが、鈴木優人が東響とメンデルスゾーン版を披露した直後のタイミングで鈴木雅明がBCJとオリジナルのマタイを、ミューザで披露してくれる。あの劇的にすぎるとまで当時は評された作品がミューザでどのように響くものか、大いに期待したい。

そんなわけで、新シーズンもミューザ川崎シンフォニーホールはその響きに見合う、素晴らしい音楽家たちが続々と登場してくれる。一人でも多くの人に、その最高のサウンドを体験してほしいものだ、といつものように感じた私である。今シーズンの公演もまだまだ続くので、ぜひ川崎駅前のミューザ川崎シンフォニーホールに足をお運びいただきたい、と一人の市民として申し上げよう。

追記。公開後にバイエルン放送協会のこの動画を見つけた。冒頭メータ、ラトルと続くのがまた、何かのめぐり合わせに思えてしまうのだった。



2019年12月6日金曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

2019年12月
  7日(土)14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
  8日(日)14:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:マーク・ウィグルスワース
ピアノ:マーティン・ジェームズ・バートレット
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第二四番 ハ短調 K.491
マーラー:交響曲第一番 ニ長調

個人的な話で恐縮だが、12月定期に登場する二人の音楽家とはタイミングなど合わず、今回ようやく実演に触れられるだろう、という運びであることを申し上げておく。好評を受けての再登場、それ故に私もこうして”新しい”音楽家に出会えるわけである。皆さまのお声があって、東響がそれに応えてくれているおかげである。有難いありがたい。

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指揮のマーク・ウィグルスワースだが、私が彼の名を知ったのはあるディスクを新譜情報の中に見つけたときだったと思う。その盤はマーラーの「大地の歌」、しかしシェーンベルク/リーンの編曲による室内楽版、というもの。まだ男声二人による録音もそれほど多くはない頃に、このような謎の版※を選ぶ彼は何者なのか。そう思ってはみたけれど、その音を聴くには先立つものがなかったその頃のこと、私は名前のみ記憶して現在に至っている。

※ウィグルスワースの録音は1995年、それに先行してフィリップ・ヘレヴェッヘとアンサンブル・ミュジック・オブリークが録音していたことは後になって知り、その盤は今も愛聴している…という話は前にも書いた気がする。

そんな昔のことを思い出し、彼のサイトでディスコグラフィを確認してみれば何ということでしょう、実に私向きの曲ばかり録音していらっしゃる。東響への来演も五回目になるというのに何をしていたのか、と反省頻り、である。いや、いよいよ聴く機会が来たのだと、ポジティヴに捉えておこうか…



そしてもう一人、ピアニストのマーティン・ジェームズ・バートレットは、私がウィグルスワースという指揮者の名を知った頃に生まれたという、若き才能だ。もっぱら「オーケストラに客演してくれることでしか新しい独奏者に出会っていない」タイプの人間が、2018年3月に登場した際に聴き逃したのは実に惜しいことだった。場合によってはこれが生涯の痛恨時ともなりかねないほどに、彼はキャリアを順調に進めているようだ。アンドラーシュ・シフにマスタークラスに招かれ※、今年は初のCDもリリースし…と順風満帆で東響の公演に再登場してくれるわけだ。アーティスト写真として使われている写真と、CDジャケットの写真で相当に雰囲気が変わっているから、きっと今回登場する彼もより大人びた感じになっているのかな、などと想像する次第だ。

※ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでのマスタークラスはYouTubeで視聴できる。コミュニケーションの中で音楽が作られていくさまは実に興味深い。


…と、私にしては珍しく公演の紹介を人の話ばかりしているが、それもそのはず今回のプログラムはもはや王道ともいうべき「モーツァルトのピアノ協奏曲とマーラーの第一番」というもの、私ごときが掘り下げるまでもなく演奏会が楽しめよう、と思ってしまうからである。
もちろん、ここにも当然”企み”は存在している。まず「モーツァルト晩年の協奏曲を若き才能が」演奏し、「マーラー若き日の意欲作を円熟のマエストロが」演奏するという、あえてのミスマッチがここにはあらかじめ組み込まれている。そして、先日のノット監督とのマーラー、モーツァルトを経験した後でのこの二人の作品を東響がどう響かせるか、そして客演する二人の音楽家の個性は。幸い、12月定期は本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールとサントリーホールでの二公演が予定されているので、「初日だが本拠地」もしくは「二日目目のサントリー」、お好みでお選びいただくのもいいし、いっそ両日を聴き比べるのも楽しいだろう。昨今の東響は同じプログラムを重ねて演奏するたびに表現を深め、その都度新鮮な演奏を聴かせてくれることは約束されているのだから。