2019年9月26日木曜日

これは「生きものの記録」なのか

ここは自分のブログなので、クラシック以外のことも気の向くまま書くことにしました。「なんだこいつ」と思ったらすぐ閉じてくれて結構ですよ。

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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。


私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。

※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。

あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。

ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。

この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。

こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。

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2019年9月21日土曜日

かってに予告篇 ~東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回

●東京交響楽団 第673回定期演奏会川崎定期演奏会 第71回

2019年9月
  21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
  22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112

交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。

今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。

簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。

●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演



●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)

聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。

1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)

1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲

1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)

1957・Op.112初演※

※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。

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プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。

いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。

※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。

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なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。

追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。

交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。

これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。

ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。

2019年9月3日火曜日

もはや新時代の”召喚” ~東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

2019年4月21日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:小山実稚恵
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ウォルトン:戴冠式行進曲『王冠』
モーツァルト:ピアノ協奏曲第二六番 ニ長調 K.537 『戴冠式』
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36

曲目を見れば、王冠→戴冠→「闘争」(最後のものだけ私見)と並び、わかりやすく新時代を勝ち抜くプログラム。その読みはあまりに直球じゃないのか、と思われるかもしれないけれど、広告でも「時代は〜」と銘打っていたのだから、新シーズンの開幕と「新王の時代」の始まりを一どきに祝おう、というのがコンサート全体を通しての趣意と見るべきだろう。もちろん、そんな「あらすじ」の範疇に収まらないのがバッティストーニと東京フィルの演奏会なのだけれど。

冒頭に演奏されたウォルトンの行進曲はジョン・ウィリアムズ作品にも通じるきらびやかさ、この演奏なら「スター・ウォーズ」一作目の最後に流れても違和感がないほどで、このアプローチはバッティストーニ特有の「後世にこう影響したのでは?」という指摘含みに思える。この定形を守りつつも意外な転調が印象的な作品では、バッティストー二が指揮するときの東京フィル独特のクリアなサウンドがよく映えた。

モーツァルトでのバッティストーニは、なめらかに歌うピアニストにつけた、共演者としてのアプローチだったように思う。だがそこにも随所にバッティストーニのアイディアは活かされていた。オーケストラと言うよりも「指揮者付きの室内楽」にまで編成を絞ったり、ヴィブラートをきっちりかけた弦楽器によく歌わせたりとあまり”今風”ではない音はなかなか興味深いものだったので、願わくば今度は協奏曲や序曲じゃなく、交響曲でお願いしたい。一曲じっくり、バッティストーニのモーツァルトを聴いてみたくないですか皆様(そうか、モーツァルトならオペラって手があるか…←気づいちゃった人)。

メインのチャイコフスキーだが。これはバッティストー二が今までで一番、彼自身を投影した演奏だったのではないか。どこをとっても彼自身を感じさせる、パーソナルな感情が爆発した音楽だった。Bravo.

彼のオペラ演奏や協奏曲での伴奏ぶりを一度でも経験した方なら、彼のバランス感覚がとても強いものであることを知っているだろう。いかに音楽が熱を持ってもサウンドや様式感、構成への配慮を失うことはない。たとえば同じチャイコフスキーでも「悲愴」がそうだったように、どれだけ熱い演奏をしていても、そこでは知性が適切なハンドリングを行っている。もしかすると彼の身振りだって、没入したように見えるパフォーマンスかもしれない(いやそれは勘ぐりすぎなのだけれど)。
だが今回の第四番ではそうした配慮さえも乗り越えて、何よりも強く彼の施した「刻印」が感じられる演奏となった。どの一音を取り出しても彼の解釈が込められた、かつてこの曲で聴いたことがないほどに劇的な演奏だった。1月の「シェエラザード」よりも濃厚な表情付が徹底していた、といえば1月定期を聴かれた方にも想像いただけるだろうか。一楽章冒頭、あのファンファーレの重さから気乗りしないワルツの足取りの重さ、その繰り返しで高揚していく音楽と、言葉にすれば作品通りのことをきちんとしているわけなのだけれど、音楽は十分に配慮された響きを超えてなによりも感情を、ドラマを伝えてくるのだ。暴風吹き荒れるかのごとき第一楽章のあとは物憂げな第二楽章、例によって管楽器のソロが見事なのである。個人的には「快速のピチカート・スケルツォ」にするのかな、と予想していた第三楽章は意外と落ち着いたテンポ設定で、オーケストラのアンサンブルを誇示するようには響かず、むしろバレエの一場面のように表情豊かな演奏が繰り広げられる。
「三楽章がああならどうするんだ、終楽章?」とか思うスキもなく全力疾走で始まるフィナーレの激しさたるや、まさに炎のごとし。「これがイタリア人がこの表情記号から感じるアレグロ・コン・フオコか!」とその場で得心できるわけもなく、激流に翻弄された私である。民謡を用いた第二主題はどこか鄙びた雰囲気もあるはずなのに、それ以上の切迫感が聴き手を煽り続け、その緊張の頂点で第一楽章のファンファーレが帰ってきてしまう。嗚呼。しばしの落胆のあとの狂乱をどう受け取ったものか、混乱したまま全力疾走で駆け抜けるコーダは言葉にはならないが圧巻(言葉にしないほうがいいのだと今は思っている)、場内を圧倒して交響曲は終わった。これが、バッティストーニが愛するチャイコフスキーなのだ。

※あとでスコアを確認しておいたが、第三楽章は「Allegro」、ここでそれほど極端な表現は求められていないのである。なるほど。アレグロの第三楽章と、フィナーレの疾走感の対比は楽譜どおりのものと、いくら自己を投入していても、そこに明確な根拠があるあたりがバッティストーニだなあ、と思う私だ。

大喝采に答えてのアンコールに「威風堂々」第一番の短縮版、(もしかしてこのオーケストラだから、名曲アルバムヴァージョン?)なんてことは終演後に思いついたことです(笑)。あまりに激しいチャイコフスキーに翻弄されて、コンサートの「あらすじ」を忘れかけていた私たちに本筋を思い出させてくれる「ドラマのエンドロール」のようでもあったけれど、私としては今シーズンのバッティストーニが「イギリス音楽、やる気なんです」という意思表示と受け取りたい。9月の定期では「惑星」を演奏することももちろんだが、恒例となりつつある新宿文化センターでの1月公演で取り上げるのもウォルトンの「ベルシャザルの饗宴」なので!
この展開をみて、まずは本丸を押さえて進めるのがバッティストーニ流のレパートリィ拡張法なのかな…なんてことをぼんやり思い、次にまた彼の演奏を聴く機会を楽しみに思いながら帰路につく、幸せなコンサートだった。

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さてまもなく始まるバッティストーニと東京フィルの9月は、まずKバレエとの「カルミナ・ブラーナ」で始まる。まる一ヶ月以上にわたり、彼らは何かしらの舞台に登場してくれるので、ここで簡単にその日程をまとめてみよう(詳細はそれぞれのリンク先でどうぞ)。

●Kバレエ「カルミナ・ブラーナ」 (9/4、5)

●東京フィルハーモニー交響楽団 長岡特別演奏会(9/7)

●休日の午後のコンサート 「バッティストーニの感謝祭」(9/8)

●第925回サントリー定期(9/13)

●響きの森クラシック・シリーズ Vol.69(9/14)会場:文京シビックホール 

●横浜音祭り2019 オープニング・コンサート(9/15)

●第926回 オーチャード定期演奏会(9/22)

そして月が明けるとこの公演が待っている。このリハーサルが始まるためなのだろう、9月中旬からの公演数減少は。

●東京二期会 プッチーニ「蝶々夫人」(新制作 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場との共同制作) 10/3〜6(東京・上野)10/13(横須賀)


と、言うわけでバッティストーニと東京フィルの、8つもの会場を渡り歩いて一ヶ月半も続く、熱すぎる残暑が始まろうとしています。間もなく始まる「カルミナ・ブラーナ」から東京二期会の「蝶々夫人」横須賀まで、皆勤される猛者はいらっしゃるのでしょうか…(どこかが密着取材して映像ドキュメンタリーとか作ればいいのに)などと思いつつ本稿はおしまい。

2019年9月2日月曜日

認識が改まる喜びを ~東京交響楽団 第670回定期演奏会

●東京交響楽団 第670回定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

これは私事ゆえにどうにもできなかったのだけれど、昨シーズンはノット&東響の演奏をほぼ聴けず、ようやく昨年12月のヴァレーズ、R.シュトラウス公演で復帰できたばかりであることをはじめにおことわりさせてもらう。以前のように「このコンビはリハでこんな感じで、ゲネプロでこう、それなのにコンサートでは!」と取材に基づいて書けるわけではないのです。そうして間が入ってしまっているうちに、いくつかの録音もリリースされ、テレビでも演奏会が放送されて、私ごときの出番はなくなったので、今はそうですね…あえて言うなら「心の友」って感じでしょうか…(ジャイアニズム)。

もちろん、過去拝見したリハーサルは今も鮮明に思い出せるし(なんなら過去の記事も読んでください、どうぞ)、そこから作品によって、暗譜かどうかによって、などの要素からの類推はできるかもしれない。リハーサル開始早々に流れを整え、音色やフレーズ、リズムへの配慮を徹底させ、互いに聴きあうよう促す数日の濃密なコミュニケーション(こんなリハーサルを作業とは言いたくない、そんな思いがあるので何度も取材させていただいたのですね。その意図が伝わっていなければそれは私が悪いので、今更ですがお詫びします)。そして出来上がりを確認するはずの、通し演奏で終わるはずのゲネプロでまた新たな刺激をオーケストラに与えるマエストロ、全力で応えるオーケストラ。このプロセスを経てコンサートを迎える、場合によっては複数回違う演奏を繰り広げる…そんな関係がもはや短くもない時間続いているのだから、ある意味では安定してきたのだろうけれど、いつでも新たな可能性を開き続けているノット&東響に「安定」の言葉は似合わない。私たち聴き手が期待して高揚感をもってホールに向かうように、ノット&東響の各位も緊張感と期待感をもってコンサートに臨んでくれている。事前に取材していなくてもそう確信できるくらいに、今回の演奏会でも貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

…いやまだ文章を終わらせてはいけません、まったく今回の演奏会の話をしていない。

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私が今シーズンの東響定期で一番の注目と期待をしていたこのコンサートは、まず簡単に結論だけ書くならば一言、圧巻、であった。前後半それぞれに聴きどころがあり、新鮮な発見があり、今後への期待があった。

前半に演奏されたブリテンの協奏曲で、独奏者は多彩な表現を尽くし、オーケストラは端正に作品の姿を示す、協奏曲演奏の理想形のひとつだっただろう。そのサウンドの充実ぶりは、録音だけではなかなか感じ取れないブリテン作品の色彩を明確に示すものとなった。
以前録音で聴いたダニエル・ホープはどこか線の細い音が気になる、手放しではほめにくいヴァイオリニストだったが、実演で聴く彼は美音より表現を追究する音楽家だった。楽器の特性やアーティキュレーションを積極的に攻めるので、結果として響きそのものが不安定に聴こえる、録音ではそれがどこか技量の不安定に感じられてしまっていたのだった。こういうことがあるので音楽家を録音だけで評価してはいけないのである(自戒)。
スコアを用意して指揮したノット監督のもと、東響の作り出したサウンドの充実は感心するしかないものだった。即興性控えめ(=リスク少なめ)のノット&東響の実力は、もはやここまで来ているのだ。弦や木管の繊細な表現には十分すぎるほど評価を受けている東響だけれど、力強さが求められる局面でももう不足感はない。であれば後半は…と期待は高まる。

そして後半のショスタコーヴィチは、これまでのノット&東響のアプローチがそうだったように、この作曲家を呪縛し続ける「大きな物語」の見立てによるドラマ、時代に即した解釈から解き放って、より実存的、パーソナルなドラマとして示してくれた。
ノット監督の積極的なコミュニケーションはいつものことだが、そのアイディアは豊富でかつ楽譜からのものだから妥当なアプローチだ。そしてこの日驚かされたのは、なにより監督からの挑発を受けた東京交響楽団の内声、低弦の充実ぶりだ。以前に聴いたノット&東響の演奏よりも格段にコミュニケーションが濃厚に、しかし自然に行われるようになっていて、その結果定評のある木管セクション同様に各声部がそれぞれに主張するようになり、アンサンブルはより音楽的説得力を持つようになっている。これを成長と言わずしてなんと言おうか。

2ヶ月前にウルバンスキと第四番を演奏したばかりの東響は、第五番でも聴き手の、いや私のショスタコーヴィチ観を揺さぶってきた。これらの演奏を受けてなら、「ショスタコーヴィチはマーラーに大きく影響を受けている」と、私だって思う。得心、である。

今後私がこの曲を、ショスタコーヴィチ作品を聴くとき、プラウダ批判や革命20年のこと、映画「戦艦ポチョムキン」から少し離れて自由になれる、ような気がしている。旧ソヴィエトの歴史に左右された天才、そんな作曲家の物語から離れたところで成立しうる音楽としてのショスタコーヴィチ作品。つい日頃成立史や時代から作品を捉えてしまうところがある私としては、こういう予想外は大歓迎である。こうして自分のそれまでの認識とは違うアプローチによって、自分自身も新たな作品像をイメージできるようになるのだから。


(と言いながら、ここで「戦艦ポチョムキン」を貼る私である)

そんなわけでこの日、演奏された両曲ともに作品への、演奏された音楽家の皆さんへの認識が改められるという、貴重な経験となった。本当にありがたいことである。こうなると、なんですかね、5>10>15だけではなく、ノット&東響のショスタコーヴィチ全集なんて考えてしまうんですけど、どうなんでしょう名案じゃないですかね(提案ではなく要求)。

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なお。最初に紹介したときに書いたとおり、この演奏会は首都圏では一度しかなくチケットも完売していた(新潟定期でも披露されているが、きっとよかったのだろう…二日目のノット&東響…りゅーとぴあ…)。私も脳内でリピートはできるのだが、言葉であの演奏を描くことはちょっと遠慮したい(ここまで無理筋だと挑む気も起きないので)。

だが幸いなことに、この演奏会は東京交響楽団の配信サーヴィス「TSO MUSIC & VIDEO SUBSCRIPTION」ですでに配信されている。数多くのマイクも立てられていたこの日の演奏はCD(SACDハイブリッド)としてもリリースされる。どちらを選んでも正解です、ぜひ、とだけ申し上げておく。



ああそうそう、私事ですが、ひとつご案内。リハーサルの取材などはオファーいただるなら調整の上対応したいと思っております(宣伝か)。ではまた。

これぞ、真髄 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

2019年3月23日(土) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番 イ長調 K.219
ショスタコーヴィチ:交響曲第四番 ハ短調 Op.43

かつて首席客演指揮者として東響でも活躍してくれたウルバンスキだけれど、実は私はタイミングが合わず今回初めてその演奏に触れた。才能ある若い指揮者が特に欧州でポストを得ると、なかなか日本に来られなくなるというのは皆様もよく感じていらっしゃるでしょうけれど、ええ、私の場合彼がそのタイミングで聴きそびれていた一人なのです。NDRオケとの来日も行けませんでしたし…
録音などでは聴いていても、いろいろとお話はうかがっていても(過去の共演の際の興味深いエピソードなど、教えていただいたのは、もしかすると「早く聴いておけって」というアオリだったろうか(笑)。いや考え過ぎかもしれませんが)、やはり実演でないとわからないことは多いものです。終演後、早々に団の方に「早く次呼んでくださいね」とお願いに行ったことを最初に書いておきます。返事がどうだったかは、…ご想像におまかせします。なお、この日は三階席で聴きました。

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まず前半に置かれたモーツァルトの協奏曲から。編成は8型で意外にも弦は向かって左からVn1>Vn2>Vc>Vaと並ぶ通常(または20世紀)配置。ザルツブルク時代の曲なので管楽器はオーボエとホルンしかなく、この小編成で、しかも三階席でどんな音がするものか、十分に楽しめるだけの音が来てくれるか不安がなかったわけではない。しかしチューニングが始まってみれば音はちゃんと届くし、音の伸びも感じられる。これなら、と思ううちソリストと指揮者が入場、オーケストラの序奏のワンフレーズで杞憂は解消され、ありがたいことに残響感も十分だ。ソリストの音も、フレーズにアーティキュレーションにテンポにと、多彩なアイディアがきちんと聴き届けられるのだから文句のあるはずがない。このホール、席によってかなり印象が異なりますね、というのがミューザ不在の数カ月の経験からのアドヴァイスです。まあ、次がいつになるのか、まったくわかりませんけど…

さて演奏の話に戻ります。10代でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれたというヴェロニカ・エーベルレ、さてその腕前のほどは?なんて様子見めいた気持ちは、演奏開始早々になくなってしまった。その音楽は鮮やかであり、自在である。アーティキュレーションを鋭く立てて語る部分と、レガートで存分に歌う部分とのコントラストも見事なものだし、技術的にも非常に高いレヴェルで安定している。小編成で聴かせる東響のモーツァルトが悪いはずもないのだが、指揮台に乗らずソリストとオーケストラをそそのかすように刺激するウルバンスキのもと、エーベルレはくるくると表情が変わる見事な「若きモーツァルト」を聴かせてくれた。特に感心したのはフィナーレ。ロンドをただの繰り返しにしないアイディアの多彩さももちろん素晴らしいのだけれど、この作品の愛称をもたらした「トルコ風」の部分、コル・レーニョの打楽器的効果にソリストの奔放な歌い回しが上手く噛み合って、モーツァルトがこんなにもロマ風に聴こえたのは収穫だった。愛称の由来を超えていく演奏なんてなかなか出会えるものじゃあない。彼女なら弾き振りでもいけるんじゃないか…?モーツァルト・マチネとか来ません?などと思ったりもしたけれど、軽やかに歩きながら指揮したウルバンスキの存在感もまたよし。良いモーツァルトを堪能した。

アンコールに演奏されたプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからの第二楽章は、モーツァルトとはまた違う、濃厚な表現が実に魅力的なもの。そう遠くない時期にまた東響に来てほしいものだ、それこそスケジュールが取れなくなる前に、定期的に来演するパターンができるまで。そうそう、次は是非、ソリストに優しく、何より音楽家の可能性を増大させるミューザ川崎シンフォニーホールで。

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休憩を挟んでステージを眺めればみつしりと並んだ大編成管弦楽。思えば私の2019年はここまで東響のモーツァルト以外は16型ばっかりである(笑)。変則の四管、打楽器9人、壮観である。しかし問題は編成ではなく音楽だ、表現だ。当たり前の話である。
ということで例によって結論を書く。もしかするとオペラと定期と連日の公演で若干徹底しきれなかった部分はあったかもしれない(この時期の東響のスケジュールをみるだけで私は気が遠くなる)。しかしそれでも、しなやかで強い音楽としてショスタコーヴィチの問題作が提示された。この演奏ならば先日の予告で書いた「天才が無邪気なまでにその才能を披瀝した作品」と評することができる。ありがたいことだ。

実はこの作品を”マーラー的”と評することに、私は長いこと違和感を持っていた。たしかに”長編”でコントラストが鮮烈である点に近さがあっても、求心的でシーケンシャルなマーラーと発散的でコラージュ的なショスタコーヴィチのヴェクトルの違いがより気になるからだ。第一から第三までのショスタコーヴィチの交響曲を追っていればなおのこと、マーラーとは語り方が違いすぎる、のではないのか。成立に諸説ある作品だが※1936年に成立したままの作品が現状演奏されているものだとするならば、直前の大成功作である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になるべき作品だったのではないか、とこの日の演奏を聴くことで思い当たった。女性のドラマとして示された「マクベス夫人」、男性のドラマとして示されるはずだった交響曲第四番。

※陰謀論に近い説があります。復活蘇演の時期の作風に近いので、パート譜からスコアに起こす際に手を入れたのではないか、とかいう。その補強にかつては現行版とはまったく別の序奏が挙げられていましたが、それは今回の解説にもあったとおり「破棄された草稿」と見るべきだと思うので、まあ、ネタということで。

交響曲第四番が、その後名誉回復の一作となった「第五番とそうかけ離れた内容の作品ではない」という指摘は昨今よくされる。なるほど、過剰な部分を抑えて形式を整えて、四楽章形式でフォルテッシモで終われば…なんて口では言えても、具体的な想像はそう簡単ではないのだけれど、ときどき作曲家の手癖故か直接に似たような雰囲気を醸すところはある。だがしかし、第五番は”本筋”が誰にも聴き取れるように書かれているのに対し、第四番は交響曲第三番までの、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」までの初期ショスタコーヴィチの集大成として、もはや”本筋”があるのかどうかすら疑問に感じるほどに過剰な脇筋が展開される音楽だ。だがしかし喜ぶべし、この日の演奏ではいくら脇道を全力で疾走したり、迷子になったように立ち止まったりしていても、この曲は第三楽章のクライマックス、音響的頂点に至るためにある、そう本筋が示された。敗北して終わるドラマ、ということではマーラーの交響曲第六番にも通じるドラマを想定して捉え直してみるべきなのか。そんなふうに思わせてくれたウルバンスキと東響に感謝したい。

足元も軽やかにこの複雑な作品を捌いていくウルバンスキ、それに応える東響のコンビネーションは彼がポストにある/ないなど関係なく密接なもので、印象的な場面はいくつもあった。たとえばこの日の演奏は冒頭から高い集中を見せていたが、第一楽章のあの狂乱のフーガは最初の頂点となった。トップスピードで始まって、その速度を全力でキープするオーケストラ、そして気を緩めずそれ以上を求め続ける指揮者の姿にはどこか異様な気配すらあった。その整然とした狂気あってこそこの作品だ、ショスタコーヴィチ音楽の愛好者として演奏を聴きながら内心ガッツポーズしていた私である。第二楽章の普通のスケルツォ風に始まりながら、どうにも収まりの悪い(けど楽しい)拍子が変わり続ける展開もむしろ楽しむように演奏するウルバンスキと東響。そして前述のフィナーレだ。民謡風の鄙びた雰囲気から始まって、その多彩すぎるアイディア、オーケストレーション、展開の目まぐるしさがこうも力強く表現されるこの演奏であれば、ショスタコーヴィチがかつてどれだけ「危険な天才」だったかがわかろうというものだ。その危険さは形を変えて残っていくのだけれど、「マクベス夫人」と第四番で見せるそのヤバさは別格である。ロシア革命が生み出した最強の天才は、しかしこの路線を突き詰めることはなかった。それがよかったかどうかはもう誰にもわからないけれど、現在の私たちはこの作品があってそれ以降の作品があることをよく知っている。第五番以降の作品を聴くとき、どこかにこの作品の残響を探してみる、そんなショスタコーヴィチの楽しみ方もあるだろう、そんなふうに思わされたウルバンスキと東響の見事な第四番だった。

…そうだ、昔新国立劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を聴いたとき、オーケストラは東京交響楽団だったのではなかったか。また上演してくれないだろうか、それこそウルバンスキを招いて(無理です、スケジュール的に←オチ)。

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ウルバンスキが次にいつまた来てくれるものか、それはスケジュールを差配するエージェントのみぞ知ることなので(哀しいけどこれが現実です)ここで書けることは何もないのだけれど、この日見事なモーツァルトを聴かせたヴェロニカ・エーベルレは9月に再度来日します。東京都交響楽団札幌交響楽団との共演にリサイタル武生国際音楽祭2019に、と存分にその魅力を示してくれることでしょう。詳しくは招聘元のサイトで日程をご覧くださいませ。