2018年9月14日金曜日

ウルトラセブンとシューマンの、特に奇妙ではない出会い~青山通「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」

今年は「ウルトラセブン放送から50年」ということで再放送やイヴェントなどが行われている。いいおじさんの年令になった私もさすがに本放送世代ではないのだけれど、昭和50年代のウルトラマンシリーズブーム(再放送や”事典”で猛烈に流行っていた時期があるのです)の直撃は受けているので放送されているとつい見てしまう。フィルムの質感、構図の妙(実相寺昭雄!)、ミニチュアの出来の良さ(サンダーバードに刺激を受けた、というのも納得の発進シークエンス!)、シナリオの含意(金城哲夫!)などなど、長年語られている作品だけに感心させられることは実に多い。いやもちろん子供向け作品である以上強引な面もあるのだけれど、30分枠でここまで実のある展開が描けるものか、と思わされることは多いのだ、それは有名ないくつかの回だけに限らない(あえてエピソードは挙げない、それらについての言及は大変だし、なにより私の手には余る)。もしかすると、そういう要素には幼少時にも直感的に気づけていたのかもしれない、だからセブンが好きだったのではないか、と思わされるのは、そこに流れる音楽の魅力には当時気づいていなかったと確信を持って言えるからだ。
ホルンを吹く人なら一度は演奏を試みるだろう有名なテーマ音楽や、超有名最終回のアレだけではないんですよ、音楽が刺激的なのは。おそらくは同時期の黛敏郎も試みていただろう電子音楽的なものや、モティーフこそテーマ曲だけれどロマン派そのものの展開などなど、大人になってクラシック音楽をよく聴いてきたからこそ気がつくものがある。なるほど、冬木透先生の熱心なファンが多くいらっしゃるわけであるし、コンサートも開催されるわけである。


※これが9年前のコンサート。うん、やりますよね、こんな音楽があるのだから。

そう気がついて最近再放送されている「帰ってきたウルトラマン」(テーマ曲はすぎやまこういちだが、サントラは冬木透のもの)、「ウルトラマンレオ」(これもサントラは冬木透だがテーマ曲は川口真。こちらについては作詞が阿久悠であることがよく知られているか)を見ればますますその思いは強まる。セブンからは少々劣る画面(キグルミの質の低下は幼少期から残念に思ってきたが、おとなになるとそれはもう、残酷なほどのギャップだと感じる)に乗り切れずにいるときに、ワーグナーやマーラーそのままの展開が聴こえてきたりするのはなかなか味わい深い感覚である。「冬木には教育的意図もあってこのようなサントラにしたのだ」という話を後に見かけて、そういえば「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会った当代一のヴィルトゥオーゾになりうるピアニストがいたな、とか思い出したり(変だな、私も初めてオペラアリアを聴いたのは「トムとジェリー」だったはずなのに、この差はなんだろう←言うな)。



実はここまでが前振り。相変わらず長くて嫌になりますね(笑)。本題は最近読んだ本の話。出たのはそうとう前で、確認したらもう絶版なんですけど…



「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」というタイトルは、端的に「私が読むべき本である」と示してくれているのだけれど、怠惰にも(いつか読むだろう)と思ってしまっていたのだ。よくない。反省。
本書は、先ほども少し触れた「超有名最終回のアレ」ことシューマンのピアノ協奏曲からクラシック音楽の世界へと足を踏み込んでいった青山通氏による、「音楽からみる映像作品ウルトラセブン論」であり、「ディヌ・リパッティ(共演はカラヤン)の演奏に至る探求の物語」であり、そこを入口に「より広くクラシック音楽に出会うためのガイド」であった。


※パブリック・ドメインになっている演奏を貼る行為は実に気楽で良い。だがそのあたりの権利の確認や配慮は常にされるべきであるのだ、と自戒しておこう。

今でこそ、私が「超有名」と書いてしまうように”あの演奏”がリパッティ盤であることは広く知られている。だがそのような認識は近年のものでしかなく、放送当時7歳の著者が自力でその回答にたどり着くなど私は想像もしていなかった(もっとも私の場合録画機が手に入ったのは相当に後年だから繰り返して放送を視聴するような経験自体が今でもあまり定着していないし、何より著者は東京の方であるという圧倒的優位はあるのだが)。その点だけでも大いに感心したし、冬木透へのインタヴューは読めただけでもありがたいと思えた(サウンドトラックの機能の仕方、映画を見るようになってからいろいろと考えるところがあるもので)。そのへんの話はまたおいおいと、機会を見て…

本書から私が得るべき教訓があるとすれば、「クラシック音楽への入口など到るところにあるし、先へと踏み込むかどうかなんてその人の興味の赴き方や縁によるものだ」という心構えのようなものだろう、きっと。正解なんてあるわけがないのだから、つまるところ芸術もまたコミュニケーションの在り方のひとつである以上。9月8日が「ウルトラセブン」最終回放送から50年の区切りに当たっていたことは本書の読了後に知った。本書との(今ごろの)出会いもまた、そういう縁なによってもたらされたのだ、などと戯言を最後につぶやいておこう。

なお。私にとってのクラシック音楽への入口は、ローカルNHK FMのポピュラー音楽を流していた(というか、歌謡曲とフォーク、せいぜいがシンガー・ソングライター(言わないねもう)のお歌をリクエストでかけていた)番組内で放送されたラヴェルのボレロなのだけれど、残念ながら録音などしていなかったからその演奏を繰り返し聴くことができたわけでもなければ、それがどの演奏かを突き止める執念もないため、あれが誰の指揮でどこのオーケストラの演奏だったのかまったく不明なままであり、それを気にせず今に至っている。
きっと演奏時間短めの演奏だったろうから、チェリビダッケでなかったことだけは確実なのだが(おいおい)まったくもって判然としないまま、普通にあれやこれやの演奏を楽しんでいる私なのであった。…本書を読むことで、どうしようもなく自分の残念さを再認識させられた次第でもあった。どんとはらい(ええ…)。


2018年9月10日月曜日

「犬の力」と言ってもペットの本じゃないし、「カルテル」と言っても経済小説じゃない

ドン・ウィンズロウは「キッズ・ストリート」に始まるシリーズの作者として認識していたものだから、映画「野蛮なやつら/SAVAGES」を見たときにはかなりの驚きがあった。オリヴァー・ストーンが”これ”の監督をしているのか、という要因も大きかったが、やはり語られる物語の暴力性に驚かされたのだ。チャラい若者たちが大麻栽培のヴェンチャーで成功してしまったばかりにメキシコの麻薬組織と敵対するはめになる…そんなストーリーは、ニール・ケアリーのシリーズからは本当に遠いところにあり、その距離が計りかねたのだ。


だが、このシリーズを読んでしまったあとでは「野蛮なやつら/SAVAGES」もまた彼の描く世界なのだ、とよくわかる。



「ブレイキング・バッド」を見てしまったのが、本書を読むきっかけの一つだったろうと思う。また、「BS世界のドキュメンタリー」でナルココリードの話を知ったこともそうだろう、またヨアン・グリロ「メキシコ麻薬戦争」を読んだためもある、と思う。それらを知るまでの自分の中の「麻薬戦争」はコロンビアなどの中南米がメインで、米墨国境のことなど何も知らない…とまでは言わないけれどリアリティの薄いものでしかなかった。もっとも、思い返せば「メキシコ国境の街で女子大生が警察署長に就任」なんてニュースには触れていた、はずなのだが。かくも対岸の火事とは像を結ばないものだ(一般化)。

と、前置きしてさて本書をどう紹介したものかと考える。公式サイト見るか、と思ったが驚きの文字数だったので引用では済ませられない(ここいらないよね)。では…
「犬の力」はDEAの捜査官アート・ケラーと麻薬カルテルの後継者となるアダン・バレーラ、この二人を軸に語られる30年にも及ぶ血みどろの抗争の群像劇、「ザ・カルテル」はその直接の続編でその後の彼らの因縁を終着点まで描ききる。なのでもし気になった方は必ず「犬の力」から読み進めてくださいね。その場合、流れる血の量も大変なことになりますけど、それが現実を映してしまっているのだから仕方がない…

メキシコ国境を問題視していたコンテンツに触れたのは先程挙げたものが最初ではないように思う。きっとプロレスのWWEだったと思う。不法移民狩りキャラにいつのまにか変わっていたあの人の名前、なんだっけ…(検索くらいしましょう)そして上記コンテンツに触れたのと、トランプが表舞台に出てきたのはそんなに変わらない時期だと思う。何がそこまで問題視されているのかわからなかった、だからいろいろと読んでみた、フィクションに触れてみた。そんな流れ。
そして認識せざるを得ない、たしかに麻薬戦争の頃のメキシコは恐ろしい。私のような真面目な()人間が生きていける気がしない。「もう今のメキシコはそうではない」と書けたらいいのだけれど、そういう明るい話も聞かない…生活を支える産業になっているが故に消されないカルテル、そしてカルテルにはなによりニーズがある。クスリを買う人たちがいて、それが多大な利益を産むからカルテルのビジネスは止まらない。
そんな社会で、果たして主人公が行うようなカルテルへの捜査、攻撃にどれほどの意味があるものか、つい考えてしまう。いや、抵抗しないことで悪に加担してはいけないのだが。また、「ザ・カルテル」で示される、アート・ケラーとカルテル(特に武装集団のセータ隊)が体現する「力での対立」とは別の道としての「女の平和」の可能性についても考え込んでしまう(これはもちろんアリストパネスのそれを参照したものだ、作中での扱いも)。作者は、本作をフィクションとして描きながら膨大な取材や現実の事件をそのまま想起させるように取り込んでいる。私が先程挙げた「女子大生が警察署長に」という出来事もそうだし、カルテルに取り込まれなかった女性市長が殺害された事件もだ。現実の市長は誘拐されて亡くなり、警察署長は逃亡したのだが、…むき出しの暴力が振るわれる世界の中で「女の平和」の可能性がどう展開されるものか、というあたりはぜひ本書で読んでいただきたい。ここでそれについて書かないのは、暴力に同じく暴力で立ち向かう男たちによる苛烈な展開と、暴力以外の可能性を命がけで探る女性たちの戦いとのコントラストは本書をより魅力的にしているものだと考えるから、私がリライトしてしまうべきではないと思うがゆえである。あと一点、個人的に最も震えたのが「ザ・カルテル」最終章の直前、タイトルが実現した瞬間だったことは書いておきたい。そこで物語が集約されて、あとはフィナーレまで駆け抜けるのみであった。拍手。

で、なのですが。本作はけっこう前に小説二作をひとまとまりの「ザ・カルテル」として映画化する、と報じられました。その後の情報がないまま現在に至った感があるのですが、これどうなってるのでしょうか。カルテルのご乱行の数々に殺伐とした振舞い、荒んでいく人心などなどがこれでもかと描かれてしまう映画になるでしょうから、楽しみにしているとはちょっと言いにくいのですけれど、見たいんですよね。リドリー・スコット監督だとかディカプリオ主演だとか、断片的な情報しか日本語だと探せない。作者のサイトに行っても特段のリリースがない。Youtubeをさがしてもまだトレイラー的なものも見当たらない。もしかすると、次の情報はそれなりにできあがった、本物の予告編の形を取っているのかもしれない、そこからは一気に映画も公開されるのかもしれない。まあぼんやりと待ちますから、いいんですけど。

メキシコのあの人とかあの地域とか(明示は差し控えたい)、見る目が変わっちゃって申し訳なく思うほどに壮絶な”現実を映すフィクション”、と私は受け取りました。その結果、あの人その人のキャリアについてとか、リゾート地がどうこうとか、超高級とか上流なんて言われるたぐいの階層そのものが怖くなったので、私はやはりカジノ解禁は良くなかったと考える次第ですよ。バックドアを作っちゃ駄目なんです、社会って。メキシコのそれは大量の金銭と暴力による事実上の是認だけど、本邦のそれは法としてバックドアを作ってしまったことになる。手法はどうあれ、バックドアを有効に使えるのは、後ろ暗いお金を山ほど持ってる人たちになるわけで。
…まあいいです、この話はこれでおしまい。ではまた。

片山杜秀の作り方 ~片山杜秀「クラシックの核心」



片山杜秀といえば近現代クラシック音楽に通暁してしかも日本の近現代にも一家言ある存在として、もはや「当代一の博学の一人」と思ってしまうのだが、考えてみればいわゆるクラシック音楽のメインストリームとされる演奏家や作曲家について詳しく論じているところは見かけない。せいぜいが新聞に載っている演奏会評でたまに「へえこの人がこの演奏会担当なんだ」と思うことがあるくらい。だからそのような「普段は彼が語らない領域」について語っているという点で、本書は貴重な一冊と言えるだろう。以下の目次を見てもらえれば、私の言いたいことも伝わるかと思う(リンク先より引用)

1. バッハ 精緻な平等という夢の担い手
2. モーツァルト 寄る辺なき不安からの疾走
3. ショパン メロドラマと゛遠距離思慕゛
4. ワーグナー フォルクからの世界統合
5. マーラー 童謡・音響・カオス
6. フルトヴェングラー ディオニュソスの加速と減速
7. カラヤン サウンドの覇権主義
8. カルロス・クライバー 生動する無
9. グレン・グールド 線の変容
(引用終わり)

伊福部昭の人であり、戦前戦中の日本についての学者である片山杜秀が語るバッハとは、ショパンとは、カラヤンとは。彼について少しでも知識があればそのミスマッチ感故に内容が気になるところではないかと思う。どこから、何から語り始めるのか?対象の歴史的位置づけから、もしくは人物像の描写から?「別冊文藝」に連載された本書は意外なところから話を起こす。なんと本書は、片山杜秀その人の育ちやら音楽との出会いなど、個人史をとっかかりにした、語り物なのだ。

最近、いわゆる「自分語り」と言われるものへの嫌悪をときおり見かけるのだが、古の告白体小説に近いこの手法はむしろ話者が自分のバイアスを予め示すことで持論の限界を暗に示すという、捨て身に近い。「ああお前はそういう奴だな」と切り捨てたければそれでかまわない、と宣言しているようなものなのだから。(むしろデータの照合みたいに演奏を評価してしまう発想について思うところがあるのだが、それは流石に本書と関係ないので割愛)自分語りは話のイントロとして汎用性が高く、ケーススタディとして割り切れればわざわざ忌避するほどのものでもない。だがその語り手があの片山杜秀であれば話は別だ。そう思いませんか皆さん。あの博学がどんな時代にどう育って、あの片山杜秀になるのか、気になりませんか。私は気になったから読んだわけです。

昭和38年生まれの彼が語るクラシックとの出会いは、読んでいただくのがいいと思うのだけれど、実に普通に昭和の子どもたちがテレビやラジオで音楽に出会ってしまうパターンなのだ。テレビドラマで使われていたあれやそれやで音楽に出会う、なんて話はある意味普遍的ですらあって、近年ならピアニストのラン・ランが「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会ったケースあたりも思い浮かぶ。(ちなみに私がオペラアリアを初めて聴いたのも「トムとジェリー」だと思う←自分語り)

だがそこからの展開力と言うか掘り下げる力というか、そういったものが異様に強いのだ、彼の場合。その展開力に最も感心したのが8. カルロス・クライバーの章だ。誰だって「カルロスには父エーリヒの影響が強く」くらいのことは言うものだ、だがそれがどのような影響であり、それによってカルロスはどのように育ったのか、その育ちは彼の演奏にどのように現れたのか。これらをカルロスの楽曲へのアプローチやリハーサルでの振舞いなどに絡めて読み解くあたりは実にスリリングで読み応えがある。
ここから私が得るべき教訓は。「入口としての自分語りは問題じゃない、むしろそこからどこまで掘れるのか広げられるのか、その過程で本旨を失わずにいられるのか」、であろう。それこそが留意されるべきだし、そうでなければ語る意味がないな、などとつい我が身を省みてしまったことでありました(自分語り←しつこい)。”ある対象についての語り”を集めた本書は、なにより読みやすい、しかも対象がクラシック音楽の主流(だったもの、かもしれない)なので、片山杜秀入門として読まれてもいいかもしれない。私は”少しお兄さんの世代が如何にクラシック音楽に出会ったのか”という物語としても楽しく読みました。

以上、ではまた。

2018年9月8日土曜日

セイジ・オザワ松本フェスティバル、2019年のプログラムを発表

9月7日に全日程を終了したセイジ・オザワ松本フェスティバルが、来年夏の開催予定を発表した。以下Facebook参照。



詳しくはリンク先を確認してほしいが、以下がポイントとなるだろう。

・2015年以来にSKOによるオペラを上演、作品はチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。指揮にはファビオ・ルイージを迎える。
・今年は出演できなかった小澤征爾は、オーケストラコンサートに登場の予定。共演に内田光子を迎える。

他の公演についてなど、詳細はまた後日の発表となる。なおフェスティバルの公式サイト上では、記事作成時点でまだリリースを掲示していない。


2018年9月7日金曜日

巧みなりヴィオッティ~東京フィルハーモニー交響楽団 第910回サントリー定期シリーズ

こんにちは。千葉です。

かなり更新していなかった間、コンサートにもほとんど伺っていませんでした。で、こちらが本当に久しぶりにライヴに伺ったレヴューになります(厭なチェーン店的言い回し)。公演からしばし時間が空いてしまったことはブランクということでご容赦願えましたら幸いです。

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カラヤン広場に立って思う、サントリーホールはいつ以来?おそらく改装後は来てないと思うんですよね、私。酷暑のなか訪れたコンサートはこちら。

◆東京フィルハーモニー交響楽団 第910回サントリー定期シリーズ

2018年7月19日(木)

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
ピアノ:小山実稚恵 ※

ラヴェル:
  道化師の朝の歌
  ピアノ協奏曲 ト長調 ※
ドビュッシー:
  牧神の午後ヘの前奏曲
  交響詩『海』(管弦楽のための交響的素描)

自分のクラシック聴きとしての原点でもある近代フランス音楽プログラム、久しぶりに実演に触れるには最適の機会かと考えました次第。
で、最初に感想を書いてしまうならば満足できる素晴らしい演奏に存分に刺激されて、少しの間耳栓なしで帰路につける幸せに浸らせていただけました。脳内でそこここの印象的な部分や音楽の流れそのもの、彼の指揮を反芻して楽しめる幸せ、これがコンサートの美味しいいただき方ですよ、とブランクの人のくせに申し上げておきたい。ぼっち参戦だったから誰とも話せなかった、ってのはもちろんありますけど(笑)。

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さてプログラムは前半がラヴェル、後半がドビュッシーという時代的には少々逆順気味にはなるけれど、ともに20世紀初頭のフランス音楽を代表する二人の作品による、ある意味「名曲プログラム」。では若き指揮者はそこで何を聴かせてくれるのか、存分に楽しませていただくのみである。かつて東響と演奏した「ラ・ヴァルス」は劇的な演奏だったが、今回は。


※ちなみにこちらは東響との共演以前から本人のチャンネルにある「ラ・ヴァルス」の演奏動画。名刺代わりに置いてあるところを見ると得意曲なんですね。

東京フィルは若い指揮者だからと軽んじたりしない、それはバッティストーニとのコンビネーションですでに周知の通り。だからこの日も若者の意図を汲み、高い集中力で名曲を新鮮な響きで聴かせてくれたそう、新鮮だった。「若者を評して新鮮とか終わってんなこの人」とか言わないように(笑)。演奏している音楽がどんな姿を現すべきか明確なヴィジョンを持つマエストロの指揮から、それに応えるオーケストラから随所で驚かされる楽しい裏切りの連続、充実の名曲コンサートであった。

さて具体的に見てみよう。まずは一曲目の「道化師の朝の歌」は、ヴィオッティがピアニストとして演奏しているかのような自在な表現が特徴的。速めのテンポにオフビートのアクセントを強調したピチカートのアンサンブルで始まった音楽は合わせ優先のおとなしい音楽とは程遠い、ドラマを描くことを目的としていることを一音目で明確に示すもの。そこからの道行きを一本調子にせず、自然に起伏をつけて酔漢の朝帰りを描き出す技は若者らしからぬもの(ジジくさい言い方)。ちょっとしたスケッチのような作品からドラマを導き出せるのはオペラでも順調にキャリアを積むマエストロの腕、だろうか。
先日放送されたカメラータ・ザルツブルクとの演奏(セルゲイ・ハチャトゥリアンとのベートーヴェン)でも繰り返しをただの繰り返しにしない豊富なアイディアと妥当な処理の両立に感心したものだけれど、それは作品が新しい時代のものになっても変わることはない。とても「機能が高い」のだ、このマエストロ。

二曲目は長い舞台転換を挟んで演奏されたピアノ協奏曲 ト長調。トリッキィでキッチュなこの作品のソリストには小山実稚絵が招かれた。1930年の、彼のキャリアの中で最もジャズに接近したラヴェルを”ロマンティックな協奏曲”として演奏するソリストに合わせたか、ジャズコンボ(ポール・ホワイトマンのバンドのようなそれ)でもいけるだろう、この曲にしては大きめのストリングス(とあえて言いたい)でシンフォニックな表現に寄せた演奏と言えるだろう。だがこのミスマッチもまたこの作品の持つまた別の可能性を示すもの、そしてそれを破綻させずに描出した演奏、という評価になるだろうか。第二楽章で大きめの編成のストリングスがピアノに寄り添い、小山の真摯な歌がソリストとオーケストラが響き合った瞬間がこの共演の白眉だった。
アンコールに小山がドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を持ってきたのは、これが彼女の得意曲であること以上に、この日のプログラムの前後半に架橋する意図があったのだろう。彼女の繊細でよく歌うピアノが、仕掛けに満ち満ちたラヴェルから繊細で穏やかなドビュッシーを予告して、コンサートの前半が終わる。

※個人的には若い指揮者は”ラヴェルの協奏曲のトリッキィでキッチュな”性格を前面に出すのでは?と予想していたので少々肩透かしの感もなくはなかった。この予想がそう大きく外れてもいなかったな、と感じたのは帰宅してこの演奏を探し当てたときのこと。ヴィオッティ、若いのに共演者に応じた表現のカードを手元に何枚も隠し持ってるってことですよ、これ。



さて後半はドビュッシーの名作二曲。まずは静かに、しかし大きく時代を画した名曲「牧神の午後への前奏曲」なのだが、ステージに団員が揃ってまず驚かされる。この室内楽的な作品に、次の作品で要求されるフルサイズの16型の弦五部が揃っていたのだから。この編成ならばワーグナーもかくやと言わんばかりの豊満で雄弁な音になるのか?といえばさにあらず。冒頭のフルートソロを邪魔しないよう細心の注意を払ってヴィブラートを控えめに奏で出す低弦のひそやかさたるや。全曲を通じて緩むことのない演奏は、角のない響きなのに起伏を持ち、雄弁でいて押し付けがましくない。聴き慣れたこの作品から思いがけない美しさが現れる瞬間がいくつもあり、何度も何度も聴いたこの曲が新鮮な姿を現してくる。…これが20代の指揮者がやることなのか?と問わざるを得まい、これだけの表現をされてしまっては。明確な意図を持って描き出される細部の一つひとつに目を耳を刺激され、遅いテンポでも緩まない、煽り立てても下品にならない。作品の細部まで配慮したアプローチで名曲の真価を見事に現してくる。脱帽である。(白旗をあげるおじさんの感想)。

そして最後の「海」、これがまた。ドビュッシーの大規模な作品としては最後の方のものであるこの作品で、この日の最大編成となり、ここでヴィオッティは東京フィルの力を解き放つのだ。と言ってもここで示されるのはもちろんワーグナー流のトゥッティによる力ではない、ドビュッシーならではの細かいモティーフの積み重ねや楽器同士の精妙なアンサンブル、音楽の方向を見据えて溜めこまれた力の狙いすました開放なのだ。その頂点に、曲目解説で永井玉藻氏が言及していた”問題の”第三楽章のファンファーレを持ってくるあたり、彼の読みと仕掛けはなかなか腹の座ったものなのだ。作品の改訂をめぐって演奏者によって評価が分かれるこの場面、ファンファーレなしなら”無言のにらみ合いの緊張感”とあるところ、彼はトランペットとホルンに輝かしく力強く演奏させることでこの局面を一つのドラマの場面に作り変えてしまったのだ。それに続く大団円はまさに暗雲が晴れていくかのような眩しさで私を圧倒した。脱帽である。

ヴィオッティに導かれた東京フィルの好演は見事なもので、ラヴェルの異国風味やユーモアをことさらに強調する前半、控えめで繊細にドビュッシー特有の隠し味として活躍した後半どちらも過不足のないものだった。ヴィオッティが立たせたフルートをはじめとする木管各位、トランペットにホルンなどは素晴らしかったが、隠れたMVPを挙げるならばそれは打楽器群だろう。耳をそばだててようやくそれとわかるアンティークシンバルなどのほんの僅かな味付けから、フォルテッシモで鳴り響くティンパニ、バスドラムまで見事な活躍揃いだったが、私としてはグロッケンシュピールの妙技に大いに感心した。チェレスタで演奏されることも多い波の飛沫を表すようなパッセージを見事に楽しませてくれて、特に第二楽章を鮮烈なものにしてくれた。

残念ながら評判の良かった「トスカ」は聴くことができなかった私だけれど、この東京フィルとの演奏を聞けばさもあろうと納得できた一夜となった。前回彼を聴いた演奏会とはかなり異なる印象を受けたのだけれど、それはオーケストラの違いなのか作品由来なのか、それとも彼がこの数年でどんどんと成長しているのか。ぜひともその変化を見届けていきたいと思える指揮者に、この夜ロレンツォ・ヴィオッティはなった。…今頃か、と言われてしまうと返す言葉もないのだが。

幸いなことに彼は今後も来日公演が予定されている、作品が違えば、オーケストラが違えば、会場が違えば…その時どきにまた興味深い音楽を聴かせてくれるだろうロレンツォ・ヴィオッティ、ぜひ機会を見つけてその音楽に触れてほしいと感じた一夜だった。


2018年9月6日木曜日

東京交響楽団の新シーズンを見てみよう(その二:おなじみの面々、そして~編)

大変な災害が続いております。各地の皆さまのご無事をお祈り申し上げます。

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(承前)

2018年9月4日、東京交響楽団の2019-2020シーズンのプログラムについて話を続けよう。前回は音楽監督を務めるジョナサン・ノットが指揮する演奏会について紹介したが、今回はオーケストラのポストを担うある意味おなじみの面々、そしてポストには就いていないけれど客演を繰り返して聴衆にもおなじみの日本人指揮者たちの演奏会を取り上げる。

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このくくりで紹介すると唯一の非日本人となってしまう桂冠指揮者ユベール・スダーンの6月の演奏会をまずは紹介しよう(定期演奏会6/15、名曲全集6/16)。
現在の好調の礎を築いたスダーンは、近年の来演では一線を画した選曲で存在感を示している。来るシーズンにはノット監督以外にも時代を超えた選曲による興味深いプログラムが多数見受けられるのだが、今回スダーンが選んだのはシューマンとチャイコフスキー、ロマン派の作曲家たちなのだ。シューマンはかつて交響曲チクルスもあった、そして二人の作曲家が取り上げたバイロンのドラマにより形どられるプログラムの構成は巧みなものだし、マンフレッドの人物造形におけるゲーテの「ファウスト」との相互影響を思えば、彼のプログラムを追うことでその確たる一貫性は確認できる。
だがそれ以上に、その独自路線には、まるで”彼の時代が今も続いていたら…”というifを感じさせるものがある。モーツァルトの演奏で調性感を明示できるオーケストラになり、近代の作品までを十分にこなせるようになった彼の時代を思い出そう、それを進めた先にはロマン派に強い東響が、21世紀のモダン楽器オーケストラのあるべき姿として見えていたのかもしれない。そんな夢想をしてしまうのは、私の中にまだ彼の時代の音が残っているから、なのだろう。70代のスダーンが示す、20世紀から地続きの”現在のオーケストラ”像に期待してしまうのだ。

70代、と年齢でくくるつもりはないのだけれど、次はスダーンの前任者であり同じく桂冠指揮者である秋山和慶(現在77歳)のコンサートを紹介する。齢を重ねてなお健在の秋山は新シーズン開幕公演となる2019年4月定期(4/21)、そして「名曲全集」の第九公演(12/14)、そして恒例のニューイヤーコンサート(2020/1/5)と、節目節目の公演に登場する。中でも注目されるのは、新シーズンの開幕を飾るコンサートだろう。なによりそのプログラムの若々しさときたら!メシアン(1908-1992)、ジョリヴェ(1905-1974)、ルシュール(1899-1979)、イベール(1890-1962)と、20世紀のフランス音楽を集めたこのプログラムが今年喜寿を迎えた指揮者のものだと誰が思うだろう?またメシアンは初期の作品、残る三曲にオリエンタリズムの最後の輝きとも言えそうな作品を選ぶあたり、さすがとしか言いようがない。イベールの出世作にしてステレオ録音時代に特に人気を博した「寄港地」で終わるプログラムは、指揮者の企みとエンタテインメント性が両立するコンサートとなることだろう。脱帽である。

ガブリイル・ポポーフの交響曲第一番、ウド・ツィンマーマンの「白いバラ」と秘曲を日本初演してきた正指揮者の飯森範親は、新シーズンも我々に知られざる名曲を紹介してくれる。2020年1月の定期ではラッヘンマン、リーム、アイネムの作品とR.シュトラウスの「家庭交響曲」という、超重量級としか言いようのないプログラムで我々に再び挑む。
もっともそうした”挑戦”とは別に、「名曲全集」では東響コーラスとロシア名曲プログラム(5/12)、チェロの新倉瞳を迎えてのファジル・サイによる新曲&ラヴェル管弦楽名曲集(東京オペラシティシリーズ 2020/3/21)といった親しみやすいプログラムでも登場するので、身構えることなく充実した演奏を楽しませてくれることだろう。

新シーズンには、これまでも東響との共演を重ねてきた日本人指揮者たちも登場する。その演奏会を登場順に見ていこう。

まずは「名曲全集」に登場する沼尻竜典だ(11/10)。曲目はピアノ・デュオで世界的に活躍するユッセン兄弟を迎えてのモーツァルト、そしてショスタコーヴィチの交響曲第一一番だ。ショスタコーヴィチのこの作品が「名曲全集」に乗る時代が来たのかという個人的な感慨もあるのだが、そんなプログラムでも合わせ物にも大編成管弦楽の扱いにも長けた沼尻なら、という安心感が強い。ユッセン兄弟の息の合った演奏も注目しよう。


首席客演指揮者の大友直人は、「名曲全集」の大トリとして登場する(2020/3/8)。フランス音楽の名曲を集めたプログラムを、若きピアニストの紹介とホール専属のオルガニストと東響との共演の場とする、目配りはさすがヴェテランの仕事である。

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日本人マエストロたちと東響の共演は、サントリーホールでの「こども定期演奏会」でも楽しめる。角田鋼亮(4/14)、沼尻竜典(7/7)、下野竜也(9/8)、飯森範親(12/15)と東響、素敵なソリストたち、そして司会の坪井直樹(テレビ朝日アナウンサー)がチームとなって新シーズンも子どもたちにクラシック音楽の魅力を伝えてくれることだろう。
また、子どもたちへのアウトリーチプログラムとしてはこれも恒例の「0歳からのオーケストラ」がGW目前の4月27日に開催される。ズーラシアンブラスと東響による恒例のコンサートは、今年に続いて水戸博之が指揮する。ご家族揃って楽しめるコンサートとしておなじみだが、2019年は会場がカルッツかわさきに移るのでそこは注意しておこう。※

※「名曲全集」のはじめ二回の公演もカルッツかわさきで開催される。

さて、何人かの日本人客演指揮者の話題は次回最終回に持越しとして、ひとまずはここで終わらせていただこう。残る公演も共演者や曲目に趣向が凝らされたものばかり、ということのみ予告しておく。

2018年9月5日水曜日

東京交響楽団の新シーズンを見てみよう(その一:ジョナサン・ノット編)

2018年9月4日、東京交響楽団の2019-2020シーズンのプログラムが発表された。ミューザ川崎シンフォニーホールを本拠とし、ユベール・スダーンとの数々の演奏で声望を高め、現音楽監督ジョナサン・ノットとの欧州ツアーやレコーディングなどで音楽ファンの信頼を揺るぎないものにしつつあるオーケストラは、新シーズンに何を聴かせてくれるだろう、何を体験させてくれるだろう?その全貌を紐解くには否応なく文量が多くなるため、複数回に分けてそのプログラム、共演者を紹介してみたい。

なお、東京交響楽団の年間プログラムとしてリリースされたのは、サントリーホールでの定期演奏会(年10公演)、ミューザ川崎シンフォニーホールでの川崎定期演奏会(年5公演)、東京オペラシティコンサートホールでの東京オペラシティシリーズ(年5回)の主催公演シリーズ、そしてミューザ川崎シンフォニーホールでの「名曲全集」(年10公演、うち最初の二回のみカルッツかわさきで開催)、サントリーホールでの「こども定期演奏会」(年4回)の共催によるシリーズ、そして恒例となったズーラシアンブラスとの共演による「0歳からのオーケストラ」、年末の第九公演、そしてニューイヤーコンサートと盛り沢山なのだが、ここでは適宜指揮者や共演者に触れる中でコンサートを紹介する形を取る。何も加工されていない情報で十分である向きには、下記のリンク先で全プログラムをご覧になることをお勧めする。

>年間パンフレット(pdfファイルが開きます)



※これまで多くの困難を乗り越えてきた東京交響楽団の現在に至る歴史は、こちらのPVがコンパクトに紹介してくれている。東京交響楽団の歴史は、そのまま戦後日本の一つの側面を描き出す、興味深いものだ。

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新シーズンを見ていくのならば、まずはそのノット監督との演奏会から話を始めるべきだろう。東響の数多くのプロジェクトの中でも彼らのコンビネーションが6シーズン目を迎えてどこまで深化するのか、どこに向かおうとしているのか、それこそがまずは注目を集めるものとなるだろうから。そして今ではなんの曲を演奏しても話題を呼ぶノット&東響なのだから、ここでは奇を衒うことなく演奏会の時系列で順を追って紹介するのがいいだろう。

シーズン最初にノット監督が登場するのは5月の2つの公演だ。まずはサントリーホールでの定期演奏会、そして東京オペラシティシリーズの二公演、それぞれ異なる二つのプログラムが用意されている。

最初のコンサートは東京オペラシティシリーズ(5/18)、ヤン・ロビンの「クォーク」、そしてベートーヴェンの交響曲第七番他によるプログラムだ。残る一曲がどうなるとしても、多くの打楽器を含む大編成管弦楽と凝縮されたベートーヴェンとのコントラストは鮮烈なものになるだろう。
ソリストのエリック・マリア・クテュリエはアンサンブル・アンテルコンタンポランでも活躍するチェロ奏者だ。そんな彼ならば、1974年生まれの作曲家の作品も魅力的に演奏してくれることだろう。


その翌週にはサントリーホールでの定期演奏会でブリテンとショスタコーヴィチ、生前交流のあった二人の作品による20世紀音楽プログラムが披露される(5/25)。シーズン5でエルガーを取り上げたことが一つの契機になったのだろうか、マエストロは出身国の音楽により積極的になったようにも感じられる。また、ショスタコーヴィチは東京交響楽団が日本初演した作品も多く、キタエンコらロシアのマエストロたちと名演を繰り広げてきた作曲家だ。その最も知られた作品を、ノット&東響はどう聴かせてくれるだろうか。

続いての登場は7月、サントリーホールとミューザ川崎シンフォニーホールで披露されるプログラムこそはノット&東響の真骨頂と言えるだろう(7/20&21)。J.シュトラウスIIのワルツから「2001年宇宙の旅」でも知られるリゲティの「レクイエム」、タリスのアカペラ合唱曲を経てR.シュトラウスの「死と変容」に至るこのプログラムばかりはいくら言葉を尽くしてもその魅力を説明することはできないだろう。生と死を巡るドラマのようなものを想定することは可能だし、秩序と混沌のコントラストを予想することはできる。だがしかし、「考えるな、感じろ」ではないが、こればかりは「体験してみてほしい」としか言いようがない。
なお、このコンサートでリゲティとタリス、全く異なる性格の作品に取り組む東響コーラスにも注目だ。アマチュアだろうと聴き手だろうと「音楽家」に限界など存在しないのだ、と言っているかのような、チャレンジングなプログラムとなる。

さて、夏を挟んで10月からは三ヶ月連続でノット監督が登場する。
まず10月はアイヴスとシューベルト、そしてメインにブラームスのピアノ協奏曲第一番を置いたプログラム(定期演奏会10/12、「名曲全集」10/13)。方向、時代の異なる「答えのない問いかけ」を受けて後半のブラームスで開放される、そんな体験となるのだろうか?
ここでソリストに招かれるヴァーヴァラはノット監督自身がゲザ・アンダ国際ピアノコンクール(スイスで開催)で見出した才能という。若きブラームスの思い余った感もある協奏曲で彼女はどんなピアノを聴かせてくれるだろう?注目である。



続く11月には”ロマン派の極限”とも”転換期の爛熟”とも言えそうな、ベルクとマーラーによる濃密なプログラムが用意された(定期演奏会11/16、川崎定期演奏会11/17)。新ウィーン楽派の演奏がオーケストラの色彩感を引き出す上で重要と考えるノット監督のベルクは以前に演奏した「ルル」組曲でもお墨付き。そして定期的に取り上げてきたマーラー、シーズン6には第七番を演奏する。「大地の歌」まで網羅した交響曲全集を録音済みのノット監督のマーラー愛がうかがえようというものだ。今回はハンマーを用いる第六番ではなく、楽章ごとに曲想がまったく異なる第七番をベルクと並べるが、その意味は、効果は果たして。そんな選曲意図にも興味は尽きないところだが、このプログラムはオーケストラの演奏効果の高さも見逃せない。
そして同月の東京オペラシティシリーズでは、これとは対照的にリゲティ、R.シュトラウス、モーツァルトによる、室内楽的とも評せる作品が配されている(11/23)。大編成管弦楽の豪奢と室内楽的対話の妙、この対照的なオーケストラの可能性を示す二つのプログラムで、シュトラウスのソリストを務める荒絵里子(オーボエ)のみならず、東京交響楽団の奏者全員が技量の限界までを発揮して我々を魅了してくれることだろう。

そして12月は、このシーズンからノット監督が年末の第九公演に登場だ(12/28、29)。ベートーヴェン演奏となれば全身全霊をかけて作品に打ち込み、オーケストラにも多くを求める彼が第九を演奏する。序曲も協奏曲もなしのベートーヴェンの交響曲第九番、そこにはかえって年末結びの一番といった風格さえ感じられてしまう。入魂の演奏を期待しよう。

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さてノット&東響の多くの演奏会を紹介してきたが、個人的に最も注目したいのは、彼らにしては”普通”のコンサートプログラムに見える2019年5月の定期演奏会だ。ブリテンのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲第五番によるプログラムは一見すれば7月定期(サントリー&ミューザ)のような”ノット&東響にしかできないプログラム”ではない、かもしれない。しかしこれまでのノット&東響が取り上げてきたショスタコーヴィチ演奏がもたらした衝撃を考えると、この一度限りの演奏会がどうしても気になるのだ。
ショスタコーヴィチとブリテンの交友についてはご存知のかたも多いだろう、このプログラムにもそうした配慮がめぐらされているのは疑いようもない。大戦の、冷戦の時代に違う体制の世界を生きた作曲家たちを並べたプログラムは、かつての衝撃的な第一五番(リゲティのポエム・サンフォニックで開幕したあの!)のそれよりは穏当に、普通に見える。だがこれまでのショスタコーヴィチ演奏で、旧来語られ続けてきた”ソヴィエトの音楽家の物語”とは別のドラマを作品から導いてくれたノット&東響は、誰もがよく知る第五番でもきっと彼らにしかできないなにかを聴かせてくれるはずだ。そう、私の直観が強く叫んでいる。

もちろんすべての公演が注目されるべきノット&東響なのだけれど、私の言だけではそこまで心動かないならばぜひその演奏を聴いてみていただきたい、と思う。すでにリリースされている何枚かのCDもあるし、幸いなことに9月23日のEテレ「クラシック音楽館」ではノット&東響の4月の演奏会が全国に放送される。渾身の”マーラー&ブルックナーの未完成交響曲”によるプログラムは、私の言葉がいらないほどにその魅力を皆さまに届けてくれるものと確信している。

さて次回は東京交響楽団を支える指揮者たちの演奏会を取り上げる。スダーンや秋山、大友に飯盛といった面々、そして”常連”の日本のマエストロたちのプログラムをみていく予定だ。

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2018年9月4日火曜日

クラシック音楽の日と聞いて

大変ご無沙汰しています。千葉です。
諸般の事情により活動休止しておりましたが、更新を再開しようと思います。折しも今日はクラシック音楽の日だそうですし※。外はなにか風さんビュービューで、しかも気圧の関係なのか頭が少し冴えませんけど(それはいつもか)。

※由来は語呂合わせらしいのですけれど、「クラシック」という単語を二つに割るそれは、まあなんと言うか…

休止中の出来事についても書き残したいことがあるので、随時更新・しかし頻度は期待しないでください、という感じで行く予定です。

では以上ご挨拶のみ。ごきげんよう。