2018年9月10日月曜日

片山杜秀の作り方 ~片山杜秀「クラシックの核心」



片山杜秀といえば近現代クラシック音楽に通暁してしかも日本の近現代にも一家言ある存在として、もはや「当代一の博学の一人」と思ってしまうのだが、考えてみればいわゆるクラシック音楽のメインストリームとされる演奏家や作曲家について詳しく論じているところは見かけない。せいぜいが新聞に載っている演奏会評でたまに「へえこの人がこの演奏会担当なんだ」と思うことがあるくらい。だからそのような「普段は彼が語らない領域」について語っているという点で、本書は貴重な一冊と言えるだろう。以下の目次を見てもらえれば、私の言いたいことも伝わるかと思う(リンク先より引用)

1. バッハ 精緻な平等という夢の担い手
2. モーツァルト 寄る辺なき不安からの疾走
3. ショパン メロドラマと゛遠距離思慕゛
4. ワーグナー フォルクからの世界統合
5. マーラー 童謡・音響・カオス
6. フルトヴェングラー ディオニュソスの加速と減速
7. カラヤン サウンドの覇権主義
8. カルロス・クライバー 生動する無
9. グレン・グールド 線の変容
(引用終わり)

伊福部昭の人であり、戦前戦中の日本についての学者である片山杜秀が語るバッハとは、ショパンとは、カラヤンとは。彼について少しでも知識があればそのミスマッチ感故に内容が気になるところではないかと思う。どこから、何から語り始めるのか?対象の歴史的位置づけから、もしくは人物像の描写から?「別冊文藝」に連載された本書は意外なところから話を起こす。なんと本書は、片山杜秀その人の育ちやら音楽との出会いなど、個人史をとっかかりにした、語り物なのだ。

最近、いわゆる「自分語り」と言われるものへの嫌悪をときおり見かけるのだが、古の告白体小説に近いこの手法はむしろ話者が自分のバイアスを予め示すことで持論の限界を暗に示すという、捨て身に近い。「ああお前はそういう奴だな」と切り捨てたければそれでかまわない、と宣言しているようなものなのだから。(むしろデータの照合みたいに演奏を評価してしまう発想について思うところがあるのだが、それは流石に本書と関係ないので割愛)自分語りは話のイントロとして汎用性が高く、ケーススタディとして割り切れればわざわざ忌避するほどのものでもない。だがその語り手があの片山杜秀であれば話は別だ。そう思いませんか皆さん。あの博学がどんな時代にどう育って、あの片山杜秀になるのか、気になりませんか。私は気になったから読んだわけです。

昭和38年生まれの彼が語るクラシックとの出会いは、読んでいただくのがいいと思うのだけれど、実に普通に昭和の子どもたちがテレビやラジオで音楽に出会ってしまうパターンなのだ。テレビドラマで使われていたあれやそれやで音楽に出会う、なんて話はある意味普遍的ですらあって、近年ならピアニストのラン・ランが「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会ったケースあたりも思い浮かぶ。(ちなみに私がオペラアリアを初めて聴いたのも「トムとジェリー」だと思う←自分語り)

だがそこからの展開力と言うか掘り下げる力というか、そういったものが異様に強いのだ、彼の場合。その展開力に最も感心したのが8. カルロス・クライバーの章だ。誰だって「カルロスには父エーリヒの影響が強く」くらいのことは言うものだ、だがそれがどのような影響であり、それによってカルロスはどのように育ったのか、その育ちは彼の演奏にどのように現れたのか。これらをカルロスの楽曲へのアプローチやリハーサルでの振舞いなどに絡めて読み解くあたりは実にスリリングで読み応えがある。
ここから私が得るべき教訓は。「入口としての自分語りは問題じゃない、むしろそこからどこまで掘れるのか広げられるのか、その過程で本旨を失わずにいられるのか」、であろう。それこそが留意されるべきだし、そうでなければ語る意味がないな、などとつい我が身を省みてしまったことでありました(自分語り←しつこい)。”ある対象についての語り”を集めた本書は、なにより読みやすい、しかも対象がクラシック音楽の主流(だったもの、かもしれない)なので、片山杜秀入門として読まれてもいいかもしれない。私は”少しお兄さんの世代が如何にクラシック音楽に出会ったのか”という物語としても楽しく読みました。

以上、ではまた。

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