2019年5月25日土曜日

かってに予告篇 ~東京交響楽団 第670回 定期演奏会

ギリギリですみません!読んでください!(直球)

●東京交響楽団 第670回 定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00 開演
会場:サントリーホール 大ホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 op.47

※同プログラムは5/26 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館でも演奏されます。まだ間に合いますよ!!

ベンジャミン・ブリテンとドミトリー・ショスタコーヴィチは友人であった。作品を見ていくと相互の影響も感じられる二人の作品を一つのコンサートで取り上げるのは、大変ではあろうけれど実に妥当な選曲だ。そして彼らが生きた時代は二つの大戦をはさんだそれ、その中で彼らにはそれぞれのドラマがあり、その中で重要な作品を発表した。そして今回演奏されるのはひとつは戦争前夜の、また一つは戦争勃発の頃の作品なのだから「戦争と政治」でこのコンサートをまとめるのはまったくもって妥当なことだ。東京交響楽団の言うとおりである。

ではそれ以上書くことはない、のかといえばそうでもない。あえて違う角度からの予告を一つ、私が以前「今シーズン最も注目の公演」にあげたコンサートを前に書いてみるとしよう。

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まずは作曲者の生きた時代、作品の成立時期を整理する。

ベンジャミン・ブリテン(1913−1976) ヴァイオリン協奏曲(1939)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975) 交響曲第五番(1937)

曲順とは違うけれど、若干年長のショスタコーヴィチによる、少し先に成立した作品から見てみよう。
ショスタコーヴィチの交響曲を第四から第九まで「戦争交響曲」とくくったレーベルもあったことだから、戦争とこの交響曲を関連付けても問題はないとは思うが、より細かく見れば、この時期のショスタコーヴィチは平時にあって彼自身の戦いを、ソヴィエトの中で戦っていた。
時はまさにスターリンによる大テロルの時代、トゥハチェフスキィ元帥すら政府によって命を取られてしまう状況下だ(どう考えても不合理な判断なのに!)。そこで展開された「ムツェンスク郡のマクベス夫人」をめぐるプラウダ批判、そして初演すらできなかった交響曲第四番(その話は3月の公演に寄せて書きました)と、当時のショスタコーヴィチは「新しい社会を代表すべき若き天才として創り上げたスタイルの集大成となるべき作品を政府から名指しで批判される」という異常な状態にあった。この時点で彼の未来は、あしたはどっちだ!どころか、明日があるのかどうかすら怪しく思える危機的状況と言える。その状況を覆せるかどうか、それが彼の次なる”公的な作品”にかかってしまった状況からこの交響曲が生まれた。文字どおりに命がかかった状況で、このような傑作が生まれたことについて、ぜひNHKは特別番組を制作してほしい。「アナザーストーリーズ」とかでもいい。
公共放送ジョークはさておき、この作品は初演で大成功を収め、模範的な社会主義リアリズム音楽として称揚され、またソ連の崩壊後にはアイロニカルに捉えられ…と時代に翻弄されながらも受容され続けてきた。ヴォルコフの言う「強制された歓喜」とは何か、スコアのテンポ表示の問題は、…などのさまざまなテーマも踏まえた上で。
そうした公的な位置づけ、意味あいはこれまで私も書いてきたと思う。その路線だけであればわざわざ書くまでもない、予習にはこの動画でもどうですか?と貼って何かおしまいでもいい。そう、「素晴らしい作品です、ぜひ聴いてください」だけでもいいんだ。


(権利的に問題ないものということでこれを貼りました)

だが、今回の演奏を前に興味深い解説を拝見したので、その従来の説とはひと味違うアプローチを紹介したい。よその団体の解説で申し訳ないのだけれど、NHK交響楽団のサイトにある中田朱美の解説がそれである(リンク先参照)
今年になって、私はロシア・ソヴィエト音楽ばかり聴いているような気がするのだが、そうなると解説に中田朱美さんのお名前を拝見することが増えることになる。先日の交響曲第四番も彼女の解説で、その文章が妥当な中にも新鮮な情報の込められたもので、久しぶりに解説者の名前をチェックしたのでお名前を記憶した次第。ということでみなさんもこの解説をご覧ください
お読みにならなかった方のために簡単にまとめますと、この交響曲に「カルメン」からの引用があることは割と早い時期から知られていたが、それがもしかするとハバネラのように(失礼)ただの飾り、外挿された”エピソード”ではなく作品全体に関わるものだった可能性がある、という示唆を含んでいる学説の紹介なのだ。どうですか、ちゃんと読みたくなったら今からでも読んでくださいね
であれば、だ。この「社会主義リアリズム」の代表とも捉えられてきたこの作品が、第一〇番とも共通する自伝的な作品である、という可能性も想定できそうに思える。この説が成り立つのだとして、さんざん呼ばれてきた愛称の「革命」とはなんだったのか!と激昂するのもよし、しょせん愛称は愛称、音を聴こうぜ!と割り切るもよし、だろう。私個人は、ノット&東響が前に演奏したショスタコーヴィチが第一〇番、第一五番であることと、この解説から得た情報が響き合うように思えて、ついちょっといろいろと妄想してしまっているところである。それは予想して当たり外れがどうこうって話ではなく、曲が持ちうる可能性についての話なのでここには書きませんが。どうせ、ノット&東響のショスタコーヴィチは私たちの先入観など超えていくのですし。ここでは、過去二作の演奏を覚えている方も、私のように「ノット&東響のショスタコーヴィチ!キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」とプログラムを見た瞬間に叫んだ方も、いやこのコンビの音をまだ聴いていない皆様も、ようやくこのプログラムを音として聴ける日が来ましたよ、とのみ申し上げておきます。

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そしてベンジャミン・ブリテンのヴァイオリン協奏曲だ。代表作に「戦争レクイエム」がある一方でパーセルの主題による「青少年のための音楽入門」があるという作風の幅、一部例外を除いてあまり上演されないオペラをたくさん作曲していることは知られているだろうか。もしかすると大日本帝国から委嘱されたが受け取りを拒否されたあの曲や能「隅田川」に刺激されて「カーリュー・リヴァー」を作曲していることなど日本との不思議な縁で彼を知っていたりするだろうか。ないか。同時代の先鋭的な作曲家たちほど前衛的ではないのに独特の難しさのある音楽は、一度聴けば不思議に耳に残る、明確に彼独自の音がある作曲家と言えるだろう。そんな彼のヴァイオリン協奏曲は1939年、亡命先のカナダで作曲された。
この年にナチスがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まっているのだし、ブリテンは戦争の気配を避けて北米にいたのだから「戦争の時代」という大きな物語に寄せてこの作品を捉えるのはもちろん妥当なことだ。



だが彼個人の創作から見ていくと、また違うストーリーが見えてくる。この時期、世界は最悪の一歩前といえる状況なのに、ブリテンは次々と代表作を生み出しているのだ。こと協奏曲作品に限定してみても、ロストロポーヴィチの存在あって書かれたチェロ交響曲※を除くと大戦前後に集中していた作曲されている。物言えば、ではないけれど発言しにくい時代にブリテンは言葉によらず表現できる、独奏者という”声”を求めていた、と考えることもできようか。
それ以外のジャンルでは、声楽作品の「イリュミナシオン」「セレナード」もこの時期に、また前述の「シンフォニア・ダ・レクイエム」も1940年に書かれているわけで、なぜかこの厳しい時代にイギリスを離れたブリテンには創作上の黄金期が到来した、と言ってもいいだろう。帰国した後のことにはなるが、1945年にはあの「ピーター・グライムズ」が初演されて”20世紀の偉大なオペラ作曲家”としてのブリテンになるのだ、黄金期くらい言っても大げさではあるまい。

※この作品と作曲時期が近い「戦争レクイエム」を併置して「1960年代に捉え直されたWWII」という読み方も可能かもはしれない。さすがに先走り過ぎであるとは思うが。

この時点では、ブリテンにとってショスタコーヴィチはまだ知己のないひとりの先達で、それぞれが違う環境、違う場所でそれぞれの戦いをしていた。彼らが作品を介して互いに刺激し合うのはもう少し先の話である…のだけれど。ブリテンのヴァイオリン協奏曲がショスタコーヴィチの第一番に影響していたのではないか?パッサカリアを協奏曲に持ちこんだこと、独特なオーケストレーション…なんてことを考えてみるのも面白いかもしれない。今回は時間が尽きたのでこれ以上は話を広げないけれど。そう、能書きはこのへんまででもう十分すぎるだろう。今はノット&東響の紡ぐ音楽に期待を高めながら赤坂・六本木方面に向かうときである。皆様熱中症にはお気をつけて。



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おまけ。
中田朱美さんですが、7月下旬から2回シリーズで「ショスタコーヴィチ交響曲第5番解説」という講座を朝日カルチャーセンター新宿教室で開催されるそうです。如何ですか、本公演の復習に、フェスタサマーミューザKAWASAKI2019最終公演の予習に。

2019年5月12日日曜日

かってに予告篇 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回

もう今日の公演なので、私の都合で仕上げが少し荒いかもしれませんが例のやつをば。

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回

2019年5月12日(日) 14:00開演 会場:カルッツかわさき

指揮:飯森範親

バリトン:ヴィタリ・ユシュマノフ◆
児童合唱:川崎市立坂戸小学校合唱団(合唱指揮:中島はるみ)♥
合唱:東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)★
管弦楽:東京交響楽団

ボロディン:だったん人の娘たちの踊り、だったん人の踊り(オペラ「イーゴリ公」より)◆★
ムソルグスキー:はげ山の一夜(オペラ「ソローチンツィの市」1880年版)◆♥★
チャイコフスキー:大序曲「1812年」♥★
カリンニコフ:交響曲第一番

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「だったん人の踊り」「1812年」、それも合唱付きといえば、一昔前なら録音の良さを誇示するが如き”スペクタキュラー・アルバム”の定番だった。そこにムソルグスキーの「はげ山の一夜」が収められるのは自然なことだ、演奏効果の高いロシア管弦楽曲の定番としてよく知られた作品なのだから。だがしかし、それが「合唱・声楽付き」だとしたら?一般によく知られた「はげ山の一夜」は、作曲者の没後にリムスキー=コルサコフが編曲したもので、最近では作曲者自身が完成させていた「原典版」も演奏される機会が増えた、そこまでならご存知のかたも少なくないのではないかと思う。だがこれらには合唱も独唱も用いられていない。では今回演奏されるのはいったいどういう版なのか?

これがよく知られた版ですね。

ご存知の人はご存知の通り、ムソルグスキーはなかなか作品を完成させられない人だった。着想を得てある程度まで作られながら、完成に至らないばかりに知られていない作品のなんと多いことか、そんな彼のキャリアが後年の研究でどんどんと知られてきている。こと「はげ山の一夜」にしても、未完のオペラにその萌芽があるけれど未完のまま放棄、その後原典版(1867)が作られながら初演されず(初演は1968年、100年以上が過ぎてからのこと)、没後の1886年にリムスキー=コルサコフによる編曲版でこの作品はようやく音になり、その後は高く評価されて現在に至っている、というのが比較知られたこの作品の歴史だ。この作品をもっとも世に知らしめたのは先日「なつぞら」でも登場した映画「ファンタジア」(1940)だろう(ドラマ本編では当該部分は登場していません)。ここではリムスキー=コルサコフ版をさらにストコフスキーが編曲した版が用いられている、と指摘するだけにこの文章では留めますが、せっかくなので皆さんこの機会に全篇見てください。そうそう、リムスキー=コルサコフ版なら「スケバン刑事2」でも…いやそういう話はもういいですねすみません。


(先日の放送でパブリック・ドメインだと気がついたので貼ってみる。どきどき)

閑話休題。
では、今回演奏される合唱も独唱もついた「はげ山の一夜」とはなんなのか。それは曲目にもある通り、オペラ「ソローチンツィの市」(かつて「ソロチンスクの定期市」と訳されていた、1870年代に取り組んだ未完の作品)に転用されたものだ。1868年の原典版に声楽を付与しただけではなく、「若者の夢」というオペラの一場面を形作るものなのだという。原典版とリムスキー=コルサコフ版をつなぐ「ミッシング・リンク」としても興味深い、作曲者による”別解”が音になる、貴重な機会となることだろう。洗練されたリムスキー=コルサコフの仕事でもなく、野卑だからこそ力強く輝く原典版とも違う第三の「はげ山」は、きっと我々の知らない「壮観」を描き出してくれることだろう。

第14回東京音楽コンクール声楽部門で第2位を獲得し、各地の演奏会で活躍するヴィタリ・ユシュマノフ、おなじみの東響コーラスとともに共演するのは川崎市立坂戸小学校の合唱団だ。ただの「地元の子供たちの晴れ舞台」と侮るなかれ。この子たち、実は昨年のNコンで銅賞(第3位)に輝いているのだ。きっと見事な共演を果たして私たち聴き手を驚かせてくれることだろう。

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ここでメインの作品がチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフなら、堂々たる直球の「スペクタキュラー・コンサート」なのだけれど、今年度内には150回を越えようという回数を重ねてきた「名曲全集」はひと味もふた味も違う。最後に演奏されるのはヴァシリー・カリンニコフの交響曲第一番 ト短調(1894-1895、初演1897)なのだ。

カリンニコフは1866年に生まれて1901年にわずか34歳で亡くなった作曲家だ。ロシアに限って世代でみればチャイコフスキー(1893没)よりは後の、グラズノフ(1865生)やラフマニノフ(1873生)に近い。もっとも、同世代の二人ほどの時間は彼にはなかったのだが。NHK交響楽団のサイトにある解説(リンク先)を一読するだけでも辛くなるほどに厳しい生涯は、山田天陽くんのモデルとされる神田日勝のそれを想わせる(「なつぞら」脳の恐怖)。一般的に言うならゴッホとかでしたねすみません。

今回演奏される第一番、作曲年代で同時代の作品を見ていけばどうなるか。マーラーなら交響曲第二番から第三番、シュトラウスは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはかく語りき」と交響詩の時代。ドビュッシーなら「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルはまだ駆け出しで初期のピアノ曲を書いているころだ。二週間しか生まれが違わないシベリウスなら「クッレルヴォ」で名声を得て、しかしまだ最初の交響曲は登場していない。そんな時代を不遇の才能は生きた。シューベルトよりは長生きだ、なんてなんの慰めにもならないほどの短い生涯を。
しかしソヴィエト時代にも彼の作品は細々とではあるけれど演奏され、録音されてきた。その中心的な作品がこの交響曲だ。最近では山田和樹も録音しているこの作品に、この機会に多くの方が出会えるならば幸いなことだ。その出会いが良きものとなるよう、飯森範親と東響の好演に期待しよう。


この作品はこんな大御所も演奏されているんです、実は。

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本当は「だったん人の踊り」がちゃんと「だったん人の娘たちの踊り」から始まることとかも書いておきたかったのですが時間切れ。お詫びということでもありませんが、最後に「スペクタキュラー・プログラム」について書いた文章にふさわしい映像を貼っておきますね。ではまた。


2019年5月1日水曜日

フェスタサマーミューザKAWASAKI2019の聴きどころ その二 ~レア曲を聴く!

さてシリーズ第二回。もうセット券は買った、どうしても外せない単券も抑えた!そんなあなたにもこの紹介が楽しめるものになりますように(お祈り)。では本題。

より広く、市民に首都圏の音楽ファンにこの会場でコンサートを聴いてもらおうという「フェスタサマーミューザKAWASAKI」は、言ってみればおなじみの「名曲全集」を首都圏のオーケストラで一気に開催するような性格もある種のミッションとして持っている。公共ホールとして多くの人に聴いてもらうことを考えるなら妥当な判断だし、夏休みの昼間っから知らない曲を演奏してくれることに喜びを感じる私のような者()が少数派なのは至極ふつうのことでしかない。
それでも「せっかくのミューザで演奏する機会に」と意気込んでくれているのか、ここ最近ではなかなか実演では聴けない作品を用意してくれる団体も増えてきた。その積極的な選曲に応えたい、私は強くそう思うので、せめてもの助力としてここに動画も交えて作品の紹介をさせてもらおうと思う。

1.バリー・グレイの「サンダーバード」、リゲティのピアノ協奏曲 ノット&東響(7/27)

開幕公演からこれである。フェスタサマーで「実演でなかなか聴かれない作品を取り上げる」流れを作っている張本人のノット&東響(書いちゃった)、ブレないのである。「サンダーバード」はあのカウントダウンと出動シーンと「はい、パパ」と黒柳徹子さんと(以下略←おい)でおなじみのあの作品なので、ここで私が多くを語る必要はないかと思う。以前、広上淳一さんがレコーディングしたことを記憶している方も多いかな、と思うのでこの動画を貼っておきましょう。



この日の演奏ではもちろん、日本語のお歌はつかないと思うのでそこは期待されませんように。ご自身でお歌いになるのもアウトですよ。

むしろこのコンサートでなかなか聴けない作品として紹介すべきはリゲティのピアノ協奏曲だろう。いろいろ探していたら、4年前に福間洸太朗が作品の構成を示してくれている動画を見つけてしまった。せっかくなので皆さんガンガン再生してあげてください。


また、リゲティのピアノ曲に馴染みのない方はこれを聴いてみるといいかも。


もはや「ゲンダイオンガク」とかつて目の敵にされた”敵”の姿がぼやけてきた今、リゲティは取っ掛かりにいいと思いますよ。ノット&東響の演奏なら悪かろうはずもありませんし。

2.アランフェス協奏曲・エレキギターバージョン 渡辺香津美&川瀬・神奈川フィル(7/30)

アコースティック・ギターで大きな会場のコンサートを行うならば、どうしたってPAを使うことになる。ソロのリサイタルだってそうなのに、オーケストラと共演ともなれば使わないはずがない。録音でなら「増幅されない生の楽器の音でオーケストラに渡り合うギター」が実現できるから気にもならないのだけれど、実演ではどうしたってそんなことはできない、もしやりあえる音量をPAで鳴らしちゃったら今度は楽器の持つ個性が消えてしまう。そんなせめぎあいを抱えながら、「アランフェス協奏曲」を取り上げる演奏家たちは常にその時どきの回答を示してくれているのだ。
では今回、渡辺香津美と川瀬&神奈川フィルはどうするのか、ミューザは広いぞ?ここで彼らが今回出した答えは「エレキギターでオーケストラと共演する」であった。記者会見でサラッと発表されたこの一言で、私にとっては神奈川フィルのスペイン・プログラムは注目公演の上の方に駆け上りましたよ。イントロでギターが鳴り始めたその瞬間に、今回のアイディアが狙ったものが聴き手に届くはず。その瞬間こそがこういうチャレンジに立ち会うことの妙味、ですね。

3.ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」 高関・仙台フィル(8/4)

「グレイテスト・ショウマン」でも描かれた「地上最大のショウ」ことバーナムとベイリーのサーカス団の仕事の一つとこの作品が関係している、と言ってもあまり驚かれないかもしれないが(アメリカ時代のストラヴィンスキーに明確な傾向を求めることの無意味さ、たるや)、この作品は「象のバレエ」のために書かれました、と言ったらどうでしょう。しかも振付がバランシン。自分で事実を書き連ねていて、なんの話なのかわからなくなってくる、この感覚がストラヴィンスキーですね。
参考にご覧いただきたいのがこのドキュメンタリー。言葉はわからなくてもこの作品の特異さは伝わるでしょう。



小品ではありますが、なかなか実演では聴けない作品なのです。…だって最後の引用が、ねえ(笑)。仙台フィルのフェスタサマーへの登場がこの短いけれどインパクトのある曲で成し遂げられるのだと思うと、なにかの含意をかってに読みたくなりますがここでは自重で。

4.「レンミンカイネンの帰郷」、芥川也寸志:交響曲第一番 藤岡・東京シティ・フィル(8/6)

シベリウスの「レンミンカイネン」組曲はまるで演奏されないとも言い切れないくらいには取り上げられるけれど、この記事を書くためにYouTubeで探しても著作権的に問題ないものは多くない。「トゥオネラの白鳥」だけならまだしも。これなんかどうでしょう。




そして芥川也寸志の音楽といえば、「砂の器」のための音楽をはじめ、「八甲田山」などの映画音楽、「赤穂浪士」などのテレビのための仕事が近年のリバイバルであらためて注目されている。また、たとえば「交響管弦楽のための音楽」は近年吹奏楽編曲でも親しまれていたそうです、吹奏楽から遠のいて久しい私は知らなかった。


フェスタサマーにも出演する洗足学園音楽大学の、吹奏楽版のコンサートから、でした。前田ホールもご無沙汰して久しいなあ…(川崎市民の感慨)

「弦楽のためのトリプティーク」あたりもプロアマ問わず比較的演奏されている気がするけれど、交響曲となるとどうだろう。彼の番号付き交響曲は第一番だけ、あとはエローラ交響曲のみと、このあたり尊敬していたソヴィエトのシンフォニストたちとは違う。芥川の交響曲は多作されることはなかった。日本とソヴィエトの環境の違い、日本のクラシック界における彼の立ち位置、彼に求められたもの、彼がしたかったこと…たくさんの要素がそのようにしたのだろう、としか今のところ申しようもないのですが。
私には、彼の音楽には密入国するほどに敬愛し尊敬したショスタコーヴィチより、プロコフィエフへの近さを感じてしまうんですよね、言葉になりにくいところでの印象なんですけど。ショスタコーヴィチの「意図が読み切れない発言」よりもプロコフィエフの「意図が見えていて、まあ問題ない範囲かなって発言」に近いと言うか。よくわかりませんね、すみません。先ほどの動画の音楽のテイストが気に入っていただけたなら、きっと交響曲もお楽しみいただけると思います。

5.ショスタコーヴィチ4、5をフェスタサマーで、ミューザで!! ゲルギエフ・PMFオーケストラ(8/2)尾高・東響(8/12)

特別参加となるゲルギエフ&PMFオーケストラはいつも首都圏の公演に通常のコンサートの枠を超える大規模な演奏会を持ってきてくれる。お腹いっぱいになってもシェフが次の皿を山盛りで出してくる以上、聴き手もお腹のこともカロリーのことも忘れて最後まで食べなければならないのである。それならば、と「そうだ!どうせ大人数を乗せるんだから、大編成の曲を選べばいいんだ!」とマエストロが思ったのかどうかは知らないが(おい)、今回はショスタコーヴィチの最大規模の作品を持ってきてくれる。
もっともその交響曲第四番は、つい先日ウルバンスキ&東京交響楽団が見事な演奏を聴かせたばかりではある。世界から集まった若き才能が、ゲルギエフの指揮のもとミューザでどんな音楽としてこの作品を示してくれるか、期待しよう。…今さらなんですけど、こんな動画もありました。ウルバンスキ、やっぱりこの曲が好きなのねえ…(レヴューはもう少々お待ちください)

PMFオーケストラの公演から日を置かず、クロージングコンサートでは第五番が演奏される。本来は1936年、1937年と二年連続で発表されるはずだったこの交響曲を、この間隔で同じ会場で聴けることは貴重な体験となりうるだろう。
また、東京交響楽団目線で言えば、ご存知3月定期でウルバンスキと4番を演奏して、5月定期ではノット監督と5番を演奏してからのコンサートなのである。上田仁以来の伝統についても折々に触れてきたが、東響は偉大なショスタコーヴィチ・オーケストラでもあるのだ。3月、5月の公演がミューザではなかったことの残念さ、きっちり解消していただこうではありませんか。

以上、あえて「名曲」を回避して、自分にとっての「名曲」を探せるコンサートを選んでみました。フェスタサマーミューザKAWASAKI2019のチケット購入など詳しくはリンク先でどうぞ。

ではあと一回くらい、フェスタサマーの紹介をしようと思います。当然別の切り口で。ではまた。