2012年3月28日水曜日

経歴って見えにくいね~アンドレ・クリュイタンスの場合

こんにちは。千葉です。

この前知ったことなのですが、3月26日はアンドレ・クリュイタンス(1905-1967)とピエール・ブーレーズ(1928-)のお誕生日なのだとか。芸風の異なる、フランス音楽で印象的な演奏をしたマエストロが同じ誕生日、という奇遇、あるものなんですね。


と書いてから少し考える。お二人ともバイロイトに登場した「ラテン系」のマエストロ、ですね。



ブーレーズについてはまあ、「実験劇場」でもあるバイロイトの挑戦の一環と見るのがいいかもしれないのだけれど、ことクリュイタンスの場合は、そうではない、のかな?などとこの数日考えてしまっているのです。

1964年の伝説的な来日公演については、今では録音である程度までは知ることができます。当時の聴衆がどう聴いたか、という部分はそれこそ後に彼らが日本ではどのように受け容れられてきたか、から察せられるでしょね。今でも「(クリュイタンス&パリ音楽院管の)ラヴェルは長くスタンダードとして君臨してきた」とか(レーベルが書く内容か?)とか、「ラヴェルのスペシャリストとみなされがちなクリュイタンス」(某ショップ。あのう、それは凄い決めつけですね…ベートーヴェンの交響曲全集が意外なものであると強調したいがために、だとしてもそれはどうか)など。ええ、ええ。わかっています、この演奏の素晴らしさ、パリ音楽院管の魅力は。千葉だってクリュイタンスにミュンシュ、マルティノンとEMIレーベルの誇るフランス音楽録音には思い入れがありますし。





でもさあ、いい加減そういうシンプルな見方はやめませんか、少なくとも初心者ではないだろう関係各位だけでも。アンドレ・クリュイタンスの経歴を見れば、パリ音楽院管弦楽団との仕事はたしかに金字塔と言いうるものだろうけれど、そのキャリアの少なくない部分はオペラ・ハウスでの活動であるし。録音にしても、オペラの名盤だってかなりのものですよ?




ここにリンクを貼った「カルメン」に「ホフマン物語」、どちらも千葉の愛聴盤です。録音はいささか古いけれど、そんなハンデを感じさせないほど音楽がダイレクトに伝わるように感じます。特に「カルメン」、オペラコミークの上演スタイル通り、レチタティーヴォではなくセリフで劇がいいテンポで進んでいく快感はもう!個人的にはカルロス・クライバーのDVDよりも好いですね、千葉は。そうそう、カルロスといえば「ホフマン物語」についてはクリュイタンスの盤が良いな、という感想を残していたとか。気が合うねえ、カルロス!(おい)

クリュイタンスのキャリアを気にするようになったきっかけはもちろんそのフランス音楽なのだけれど(パリ音楽院管弦楽団との録音、ドビュッシーが殆どないところがまた、飢餓感を煽ったと申しましょうか)、彼のベートーヴェンを聴いて、先ほど挙げたようなオペラを聴いて、「スペシャリスト」なんて枠に収めて考えるのは無礼にあたるのではないか、と感じてからであるように思われます。



当時聴いたのは全集ではなく、彼の録音をまとめた「artist profile」なるコンピレーション盤二枚組に収められた交響曲第六番でしたね、そういえば。「ベルリン・フィル最初のベートーヴェン交響曲全集」だから、などと考えず、ただその演奏を聴いてこれはいいな、と思った。そこから「フランス音楽専門の人」なんて見方をやめていくことができた、のかなあなんて思っております。もちろん、フランス音楽も素晴らしいのだけれど(オネゲルの第三番、あれはほんとうに素晴らしい!!)、ピアニスト・ショスタコーヴィチとの共演などもある当時最新のレパートリーに対して開かれた、オペラにシンフォニーに舞台にと幅広い活躍をした有能なマエストロのひとり、なのではないかな、と。

良きにつけ悪しきにつけ、戦後から高度経済成長期あたりまでに来日公演を行った演奏家の評価、その来日公演に影響されているのではないかな、と感じています。そして、オペラ公演としての来日が困難であるが故に、活動の経歴を考えるときにコンサート指揮者としての仕事を中心に考えてしまいがちだ、ということも。あとはまあ、時代の風潮や思潮との関係も、無視できない。ううん、書きだすとものすごく普通なんですけどね、けっこう意識して言挙げしないといけないんじゃないかな、なんて思っているのです最近は。

これから折に触れて、思いつくたびこういうことも書くだろう、と思っております。アメブロの方では他のお題に絡めて書いていたようなことも多いんですけど(コンドラシンとオーマンディ、冷戦下の変な評価…とか)、まとめておかないと何を気にしているのかが見えにくいですし、ね。

ともあれ、本日はここまで。まずはどれでも聴いてみてくださいな、アンドレ・クリュイタンスの録音を。それこそラヴェルでも、問題ないどころか千葉もオススメいたしますから(笑)。ではまた。




SACDになってどんな音で聴けるのだろうか、と思いつつまだ買ってない、彼らの「ダフニスとクロエ」。他のラヴェル録音は通常CDから買い換えるのもどうかな、と思って様子見中ですが、これだけ何故か持ってないんです。なんだろう、モントゥーやミュンシュで満足しちゃってるから、でしょうか(笑)

2012年3月20日火曜日

ヴェンゲーロフが10月に来日するそうです

こんにちは。千葉です。

えっと、先ほどフリーペーパーの「ぶらあぼ」を流し読みしておりましたら、この10月にマキシム・ヴェンゲーロフの来日公演が行われる由の告知が、P.128のいわゆる二色の、地味な広告で掲載されておりまして。
10/5に京都コンサートホール、10/6に昭和女子大学人見記念講堂、同一プログラムの模様。「クロイツェル」と無伴奏パルティータの第二番では、どちらがメインになるんでしょうねえ…
(広告の曲目掲載順は上からヘンデル→ベートーヴェン→バッハ)

公演概要についてはリンク先でご確認いただくとして(同じソースによる情報と確認済み)。千葉も存じあげない主催者様でいらっしゃいますので、オフィシャルサイトなどは見当たらないものですから、千葉の責任で見たまんま先行受付の情報を転載しておきます。こっちは個人のサイトなので(笑)。

以下広告より書き起こし。間違っていないとは思いますが、よろしければ念のため最新の「ぶらあぼ」 2012年4月号のP.128をご確認いただければ幸いであります。

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先行受付案内 魔弓・完全復活!
肩の故障から5年ぶりのカムバック

マキシム・ヴェンゲーロフ(ヴァイオリン)
ピアノ=イタマール・ゴラン

ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第四番 ニ長調
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第九番 「クロイツェル」
J.S.バッハ:無伴奏パルティータ第二番

10/5(金) 7:00PM 京都コンサートホール
10/6(土) 6:30PM 東京/人見記念講堂

S:10,000円 A:8,500円 B:7,000円 C(P):5,000円

主催者先行受付 MVチケットの件名で…下記をお知らせ下さい

FAX:050-3712-9556 Mail:(千葉註:ここはリンクとさせていただきます)

1.カタカナ氏名 2.携帯電話 3.FAX or メールアドレス
4.希望公演(京都 or 東京) 5.希望券種(S~C) 6.枚数

主催:Flagship Japan 050-3633-6951

※下記チケットセンターでも取り扱い(千葉註:先行受付なのか、一般発売なのかは判断できかねましたため、ここの記載場所を変えて主催者表記と入れ替えてあります)

京都コンサートホール 075-711-3231
東京文化会館 03-5685-0650

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以上、見つけてしまった情報のご案内でした。詳しくは主催者さまにご確認くださいね~(というか、これ以上のことはわかりませぬ)。では。

※情報更新です!

10/5京都公演は、既に発売されているとのこと!京都コンサートホールは店頭、電話にオンラインと各種の受付をしておりますので、ご希望の方はぜひ、お早めに!

10/6東京公演は、3/25(日) 10:00より発売とのこと。先行ではなく、先着の一般発売です!東京文化会館チケットセンターはオンラインでも販売しますので、ご登録されていない方は今のうちにどうぞ!

2012年3月19日月曜日

いざ終わりとて

こんにちは。千葉です。

開幕戦、面白かったですね!

…あ、別のブログに書く内容でした、F1は(笑)。
でもせっかくだから書いておきましょう、今年はあまりテレビ放送への苦情を書かないで済みそうです。もちろん、フルサイズでレースを流せない編成はどうかと思うし、「薔薇の騎士」の途中のどこに切れ目があるのよ?じゃないけど決勝レースにも切れ目はないのにCM入れざるを得ない。それはあるのだけれど、定評のあるCS放送版をベースに*放送してくれるのだから、それはそれで尊重すべきかなと。スポーツや芸術、一回性が大事なんだから演出とかかってにしないでいただきたいわ、と思う千葉としては許容範囲の第一戦の放送でした。

*あっちはあっちで、有料放送にもかかわらず何故かアナウンサがいちいち新人だったりする(結果、解説陣がお怒りになる(笑)ケースを何度見たことか)。どうもねえ、こういう「釣った魚にほにゃらら」ってのは、好きになれない態度ですわ、ワタクシ。

こっちに書こうと思ったのもテレビ絡みのお話。先日ニュースとして知ったタイミングでも取り上げています、N響アワーが3月いっぱいで終了する件、であります。
あと二回の放送を残すのみとなった今日、Twitterのタイムラインを眺めると千葉も含めて少なからぬ人たちがこの番組を観て、その終了を惜しんでいるのがわかります。もちろん、千葉が作った自分のタイムラインにはそういう人が多くて当たり前ではあるのだけれど、皆さまがそれぞれに自分にとっての「N響アワー」について書かれているのを見ると、これだけの「財産」を失うことの大きさ、本当にわかっているのかねといま一度言わずにはおれませぬ。

それはさておき。今日はそういう話じゃなくて。
本日冒頭に流れたホルスト・シュタインとのワーグナー、あまりに立派な演奏で驚いたんですよ、千葉は。マエストロが楽劇全体が手の裡にあればこその自然な起伏を活かした劇的な音楽の流れを導けば、それに応えてオーケストラは自信みなぎるサウンドを繰り出す。ああそう、かつて彼の指揮で聴いたバンベルク響もこんな音だった…ような気がする(笑)、と言いたくなるほどに堂々たる演奏、あれはなんなんだろう?
個人的には20世紀後半の演奏スタイルの一つとしての「ドイツ風」というフィクション(今の千葉にはそう見える演奏スタイルです)を、彼らが心から信じている、そこに迷いがないからこその力強さがあるのかな、と考えて納得しておりますが、あれは昨今の技量の向上したとされる都内のオーケストラからもそうは出てこないタイプの音なんじゃないかなあ…

そしてその後に部分的に流れたこの演奏を見て、ちょっと思うところをさらっと。



マタチッチのブルックナー、誰とは申しませんが某評論家氏の熱烈なる推薦もあってある種カルト的な雰囲気すら感じなくもない人気のある演奏ですね。実際、先ほどのシュタインとの演奏などにも感じられる「ドイツ風」の音作り、いささかの無骨さは感じるし、傷もあるのだけれど訴求力のある演奏だと思います、千葉も。ただし、おそらく音だけで聴いたら傷やオーケストラの非力が感じられてしまって「それほどの名盤ですか?」と思われることもあるんじゃないかな…

そう思っていながら、千葉はこの演奏を名演だと思っています。と言いますのは。
このオーケストラ、何が困るってその実力を本当に出し切った演奏というのがですね、えっとゴニョゴニョ。時には指揮者が気に入らないとむにゃむにゃ。合わせが酷いとか音程がどう、なんて技術レヴェルの話ではなくて(そういう部分では特定のセクションを除けば大きい穴はない、はずです)、いわゆる共感力を感じさせない演奏が多いように思うのです。聴きに行った実演でも、テレビやラジオで流れたものでもけっこう…いわゆるキャラとしてクール・ビューティ路線なのかもしれませんけれど(笑)、千葉は笑顔が可愛いタイプがいいなあ(おーい)。冗談はともかく。

こと演奏をまとめるだけならお手の物、のはずのこのオーケストラが(実際、ポディウムに立ったマエストロの評判は良いようですからね)、ここまで踏み込んで演奏した、キャラとはかけ離れているのにそれでもさらに「向こう側へ」と手を伸ばした、まさにロマン派的な演奏がこれなんじゃないかしら?と吉田先生風に思うわけです、ワタクシ。
強奏は美しさを保てないほど、弱音はいささか心もとないほどに小さく演奏される、自身の限界を踏み越えるほどのリスクを犯して、それでも損なわれない何ものかと、この演奏において彼らが信じていることが伝わってくる。そこに、ブルックナーが希求し続けた何ものか、マタチッチが理解している何ものかが重なりあい、このオーケストラにしては異色の名演が生まれ、それは人々に語り継がれ、そして今なお記録の形で多くの人に触れられ続けているのではないか。

実演なんて、多かれ少なかれ傷はありますもの、それに演奏会の日だけ実力以上の演奏ができるわけじゃないんだから技量の底が見えてしまうこともあるでしょうよ。だけれど、そこにそういう事実関係の水準では終わらない何かが聴き取れる、受け取れるのではないかと思うから、批評や評論の形で受け取ったものについて語ろうとする。あまり多くを宇野功芳氏から受け取ってきた覚えはないのだけれど、ことこの演奏についてはそんな宇野氏の思いさえ感じられるほど、この団体としては「常軌を逸した」名演だった、ということなのではないかな。そんなことを考えさせられた、残り一回のN響アワーでした。

おそらく、この番組の終了は各方面に小さくないダメージを与えることでしょう。地方自治体の長が嬉々として文化事業への補助金カットを誇るようなご時世ですからなおのこと。でもその困難をどう乗り越えるのか、受け手としても考えてみたいと思っています。「安全神話」みたいに一億総懺悔させられるのもたまりませんからね。まあ、自分としては見たもの聴いたものについて、好悪に終わらない見解を出していくことくらいしかできませんけれど…

ともあれ、今日のところはこれにて。ではまた。



最終回にこれ、放送してくれませんかねえ…(我欲全開)

2012年3月12日月曜日

「戦争レクイエム」が気になる今日この頃


こんにちは。千葉です。


実はちょっと前から「小澤征爾の現在を考えるよ、お人柄とか本人の言葉によるんじゃなくてもっと演奏スタイルの変遷を考慮していくべき!」なんて文章を書いてたんです。しかしながら水戸室内管弦楽団の定期公演への出演後の極度の疲労を契機にまた体調を崩されてしまってさらには小澤征爾音楽塾の公演自体をキャンセルと、マエストロの体調を気遣う雰囲気の中で「小澤征爾論」的なものは出すに出せないと言うか、うかつに出すのもちょっとあたりをはばかるような感じになってしまって。何も、その文章でマエストロの音楽をただの好悪で腐そうとしているわけではないのだから仕上げて堂々と出せばよかったのだけれど、遠慮しているうちにこんなことになる、そしてそもそものお題から別のことにいろいろと思いを馳せてしまったものだから、いけません。

そんな具合に迷いはあるのだけれど、そのとっかかりだけは忘れてしまわないように今のうちに書いておこうかな、と思うわけです。
長い前ふりをした(笑)、書きかけの本論はブリテンの「戦争レクイエム」をめぐって、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ他の演奏によるものと、同じレーベルの伝説的自作自演とを並べることで見えること、あるんじゃないかな、という内容です。ゆるくご期待いただければ幸いです(笑)。



では以下、思いつきの数々を。

・バーンスタインとブリテン

この曲に馴染んでからみると、バーンスタインの声楽入り大作である「ミサ曲」(1971)、交響曲第三番「カディッシュ」(1963)などの作品、そもそもこの作品抜きには考えにくいもの、に思えるんですね。いやはや、不明を恥じるところであります。
同じく英語圏の20世紀の作曲家として、十二音技法にはじまるいわゆる前衛的手法には向かわなかった作曲家として、その嗜好の共通する個人として。少なくない共通点がありながら、彼の膨大な録音の中でブリテンは管弦楽入門と歌劇「ピーター・グライムズ」からの抜粋などほんの僅かばかり。えっと、それは裏読みをしてみると解釈が通っちゃうような気が…
作曲家としては生涯自らの手による「本物のオペラ」を求めたバーンスタイン、ブリテンの作品を重ねて見ることで何かの別の絵が見えるかも?とか、つい考えてしまうのです。これはバーンスタイン自身の文章なんかも参照してみないと追いきれないお題なので、やるとすればけっこう先でしょうねえ…



・オネゲルとブリテンの並行性、同時代性?

これは本当に思いつき。二人とも20世紀前半から活躍し、前衛とは言えない作風で比較的広く同時代に受け容れられた作曲家。ブリテンの「戦争レクイエム」に対して、オネゲルには聖書を題材としたオラトリオなどの作品、「火刑台上のジャンヌ」があり、そこからは20世紀の宗教観のようなものが、見えるかな?
オネゲルの交響曲第二番(1941)、第三番(1945)と、ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエム(1940)との関係の有無?などなど、並べて見るとちょっと気になる要素がある、ような…
「戦争レクイエム」の影響からショスタコーヴィチの交響曲第一四番が作られたような影響関係もあるのだから、相応に考えてみてもよさそうな気がします。もちろん、「そんな時代…」というだけのこと、かもしれないのだけれど。これは展開、できるのかなあ(笑)。



・明確な、といっていいほどのプロットの存在、それはあたかも壮大な観念的ドラマ、なので

この作品、小澤征爾とSKOがかつてシェーンベルクの「グレの歌」で試みたようセミステージ上演もありだと思います。というか、おそらく「グレの歌」よりもいい上演になるんじゃないかな、とか思っています。もちろん死者のためのミサ曲を舞台化するのだから、かなりの覚悟と準備が要るでしょうね(笑)、その上異様に大掛かりな舞台になる上に(映像で観念論をやるのは大変でしょう、きっと)、演奏だけで受け取れる人には無用なものになりかねないので、公演の失敗は目に見えているという。やれやれ(笑)。

この作品の構成で、聖書の詩句とオーデンの詩句を対比させてどうこう、まではすぐわかりますが、その対比は通常の典礼文で構成されるレクイエムが示す祈りのドラマとは別の絵柄を導いていると思うのです。歴史を背負っている、改変など考えにくい確立した硬いテキストである典礼文に対して、オーデンの創作による詩文はいかにも柔らかく、不確かな目の前の惨劇をどの様に受け止めるのか、と問い続ける。ベル・エポックのあとに現れてしまった巨大な力による破壊の影響の大きさが強く感じられ、そしてそこからは巨大すぎる力に直面させられた兵士たちに現れたというシェル・ショックなどの精神的外傷のことなど想起せずにはいられない。
このような対比がこの作品における並びにて示されたとき、その意図は多大なる戦争被害という不条理を与えた(あの宗教ではそういうことになる、ならざるを得ない)神への異義申立てから仮初めの和解に至るドラマだ、とはっきり言ってしまってもいいと思うのだ。
そのために二重化されたオーケストラ(フル編成の典礼文と室内オーケストラによるオーデンの詩文)、配置まで含めて設計された声楽の扱い(特にも児童合唱の「天の声」としての超越性)、道具立てからも明々白々じゃないか。

と思うので。映像的な演出をすることに、それ程の困難はないような気がしているのです。カーニヴァル的な道具立ての目立つ「ジャンヌ」とかより、よっぽど求心的な舞台になるような気がします。ただし、先ほども書いたとおり、非常に簡素で観念的な舞台になる、蛇足と思われる可能性も高いものである、という弱点の方がまあ、大きいんですけどね(笑)。

とかなんとか、いろいろな角度からブリテンの「戦争レクイエム」についていろいろと考えてしまっているのさ、というお話でした。本来のお話はまた、近日ということで。ごきげんよう。

2012年3月6日火曜日

今日は誕生日、そして明日は命日!(…)


こんにちは。千葉です。

今日は大好きな旧ソヴィエト、そして亡命前後からヨーロッパ各国で活躍したマエストロ、キリル・コンドラシンのお誕生日が今日である、とTwitterで知らされてまず確認にWikipediaに行ってみました。
なるほど、1914年3月6日の生まれでいらっしゃる。で、えっと。1981年3月7日が命日。……二日連続で記念日とは何というコンドラシン濃度の高い日でございましょう、それじゃあ仕方がない、千葉がかってに大恩を感じているマエストロの話をしましょう、そして遺された録音を聴きましょうそうしましょう(いそいそ)。

どの様に恩を感じているかは話せば長いことながら、煎じ詰めれば「旧ソヴィエト音楽への先入観を壊していただいた」ことに集約できます。劣悪なマスタリングで損なわれていたメロディア録音のショスタコーヴィチ、それをさらに残念なものにしてしまっていたBMG盤や、ソヴィエト崩壊直後の「出稼ぎ」としか評しようのないいくつかのオーケストラ来日公演によって、そしていわゆる「爆演」なる言葉で特殊なものとしてもてはやされる独特な受容の在り方、それらがあまり意識的ではなかったけれど旧ソヴィエト、その後のロシアの音楽家への偏見を形作っていました。
ですが、きまぐれで図書館から借りた国内盤K2リマスタリングの文字が踊るショスタコーヴィチ、忘れもしない交響曲第一二番&一五番の録音の鮮明鮮烈なこと、そしてその音で聴く、一般に失敗作とされることも多い第一二番の圧倒的な説得力たるや!
あとになって知るのですが、日本はいわゆるビクター(変遷が複雑で追い切れません)が良質のマスターを入手して、世界的にもいい音質でメロディア録音を楽しめていたとか。なるほど、リヒテルといいムラヴィンスキーといい、ちゃんと来日してくれた演奏家の人気が高いわけだ(この辺、ちょっと思うところがあるのだけれど別の話ゆえまたいずれ)。

実際にはその前にコンセルトヘボウ管との録音でコンドラシンの演奏を聴いてはいたけれど(「シェエラザード」!名盤です!)、西側のオーケストラとの仕事ではどこまでが指揮者の個性でどこからがオーケストラの持ち味なのか、どうにも判別しがたくて評価保留になっていたんです。コンセルトヘボウ管がまた、どんなに煽られても過剰な表出には向かわない引き締まったサウンドが持ち味でしたから(今は、そうでもない。と言わざるを得ないのは、一般的な人気を考えればまあ仕方がないことなんでしょうね)、厳しいと言ってもいいほど端正に磨き上げられた音楽からは「この演奏が素晴らしいね!」ということしか伝わらない、という(笑)。
ですが、この自ら鍛え上げたモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との録音からはもう、その何処をとってもコンドラシンの音楽と見るしかないでしょう、その力強さたるや!(二回目)

そこからはソヴィエト時代、亡命後を気にせず録音を買い求めましたよ、とはいえその真価に気づくのがいささか遅すぎて、今はなきPhilipsレーベルでリリースされたコンセルトヘボウ管との放送録音のシリーズはほとんど入手できなかったわけですが…

ということでマエストロの演奏、まず聴いてみようか、と思われましたらこれです。入門ということでならこれ以外ありません。



ですが今日千葉が聴いたのはこちら、最近リリースされた放送録音、バーデンバーデン&フライブルクSWR交響楽団とのマーラーの交響曲第六番、です。



コンドラシンは第二番、第八番を除いたマーラーの交響曲を録音していますが*、残念ながらショスタコーヴィチの全集とは違ってオーケストラはモスクワ・フィルだけではありません。モスクワ放送響と思われる団体(第五番)、そして現在のサンクトペテルブルク、というよりかつてのレンフィル、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(第六、第七番)に、モスクワ・フィルとの録音を合わせた選集が数年前に再発されましたね。本当はその前に国内でリリースされたものが欲しかったけど…(以下マニアさんの繰り言につき自粛)客演の演奏と自らのオーケストラとの録音、どうしても違いますからね…

*大地の歌、かつては「交響曲だよだってそう書いてあるじゃん」派だったのですが、今は前島良雄さんの著作で指摘されている通りの「交響曲とみなすこともできるだろう連作歌曲だね」派に転向しました。裏切り者と笑わば笑え、であります。
そもそも、あの「第九の迷信」説には首を傾げていましたので、自分の中では大きい変更ではない、つもりなのですが。

そこで、というわけではないけれど、この録音の登場はありがたいものでした。いわゆる手兵ではないけれど、早すぎる晩年のマエストロが受け入れられていたドイツ語圏のオーケストラを指揮したマーラー、コンセルトヘボウ管との録音が少ないことを併せて考えれば貴重なのです。バイエルン放送響のポストを得て、新たなる時代を始めるところ、だったのですが…

1981年1月の複数の演奏会によると思われるこの録音、さすがに放送局のマスターからのリリースですから音がいい。
それに加えて、一般的にはそれ程でもないかもしれないのだけれど、なかなかの美音が素敵なんですよ、というのはモスクワ・フィルやレニングラード・フィルと比べるから、かな?(笑)ロシアのオーケストラにしかない、原色のにぎやかさはそれで素敵なのだけれど、いささか「マーラー的」ではなかったか、などと思わされたりいたしますです。
そしてコンドラシンとオーケストラが作り出す音楽の強いこと、強いこと。「悲劇的」なんて愛称(好意的にそう受け取ることにしています)、そして「自伝的」「予言的」なる流布された風説とは関係のない、力感あふれる展開、そして圧倒的なカタルシスをもたらすドラマがここでは展開されています。ニーチェが言うところの、ギリシャ的根源まで踏まえて悲劇的、というならまだ理解できなくもない、かな(嫌味っぽいな)。どの演奏でもいい、マーラーの中でも最も振幅の大きいドラマが描かれる楽章の一つであるこの交響曲の終楽章を聴いて、なおもノイローゼがどうとか死に怯えた作曲家とか言ってしまう人、この演奏を聴いて少し落ち着いてくださいな。
いや、この苛烈な演奏を聴いて落ち着くのは無理がありますか(笑)

ソレルチンスキーにマーラーの方へと導かれたショスタコーヴィチ作品に大きな貢献をしたマエストロの、日本ではいささか軽んじられている感が否めないマーラー録音。千葉もはじめは敬遠したクチなので偉そうなことは申しませんけれど、せっかくなのでその最高のもののひとつであろうこの録音から聴いてみては如何でしょう?神経質だの線が細いだの、イメージがイメージを再生産するお決まりの言説ループから聴き方を解き放てる、かもしれませんよ?

なお。明日はきっとマエストロのショスタコーヴィチ作品を聴くと思います。第四番、第十三番でしょうね、うんうん。

そんなわけで本日はここまで、ごきげんよう。


2012年3月3日土曜日

発注、急いで!(妄想)


こんにちは。千葉です。

大河ドラマ、子供の頃には歴史に興味が薄かったからあまり見た記憶がありませぬ。岩手県南出身ゆえ半ば地元ということで「独眼竜政宗」はけっこう見たような、あとは地元なのにスルーしてしまった「炎立つ」「義経」、なんてのもありましたね、ちゃんと見ていないので感想は申しようもないのだけれど(笑)。
しかし近年、こっちに出てきてからは毎年それなりにたのしく見ていまして、「功名が辻」とか熱心に見た、ような(もちろん仲間さま目当てで)。あとは「龍馬伝」、あれは楽しめました。映像的にも新鮮だったし(いわゆる大河風の小綺麗な映像、ダメなんです。その点昨年の以下自重)佐藤直紀によるサントラもいい意味でクセのあるものでしたから。史実云々、描き方云々の不満を持つほどに幕末に詳しくもなければ思い入れもないので(笑、というか維新どうこうを恥ずかしげもなく自分の政治活動で口走る連中、まったく信用していません)それなり以上の作りであればまあ、楽しめると思います。NHKのドラマ部門、その実力はある程度信頼できますしね(若干の保留がつくのは、去年とか一昨々年のことがあるので…)。

でもねえ、スタッフの本気の全力だとは思いつつ、「坂の上の雲」はダメでした。特に、大変申し上げにくいのだけれど、自分には久石譲の音楽が合わなくて。こう言っては申し訳ないのだけれど、いささか自己模倣がすぎたのでは…
内容的には、大学生の頃にいわゆる左寄りの方面で警戒を促しつつよく言われていた「戦争肯定がどうこう」といった部分は、むしろ「こんな思考で戦争をしちゃいけないに決まってんだろ」「この延長線上に20世紀の絶対戦争を行えると思うなんて無謀にもほどがある」としか思えませんでしたねえ…坂の上の雲を目指していたこと、その成果を否定しようとは思わないけれど、いま現在を生きる私たちはその帰結であるところの帝國の破綻を知っているのだから、感情的にはともかく理性的には一定以上の批判を込めてあの時代を捉え返す必要があるのではなくて?

…と、話がそれました。いつものことですが(笑)。やおらこんな話をはじめたのはこのサントラを聴いたから、なのです。




はい、今年の大河ドラマのサウンドトラック、早々にリリースされたんですね。赤黒の強烈なコントラストのせいでちょっと気づいていなかったのですが、いわゆるDENON、コロンビアからのリリースだったんですね、これ。
演奏はテーマ曲が井上道義指揮NHK交響楽団に舘野泉ほか、サウンドトラックが藤岡幸男指揮東京フィルハーモニー交響楽団ほかの演奏。凄いですね、このメンツだと普段であれば積極的に聴くことなどありえない(笑)。ミッキーこと井上道義氏を除くと実演で聴こうとしない団体に演奏家が並んでます(舘野泉さんはご縁がなくて…)。いや、合わないと思っている人たちもそう回数を聴いたわけではないから個々のつっこんだ評価は控えますが。
とか言いつつではありますが、サウンドトラックの録音っていわゆる「盛った」音に、実際以上に以下自重になっている場合が多くて、この盤自体はなかなか気持ち良く聴ける音になっています。ときどき、あのオーケストラの悪癖が顔を見せそうになるけど…

音楽そのものは、ドラマをご覧の方ならすでにお聴きになられたとおり、ワイルドな曲から子供の歌(テーマ曲にも入れられているあれ、ですね)、雅楽風の曲などと幅のある曲調で、ドラマ抜きでもなかなか愉しめる一枚でした。最近では珍しくなったいわゆる「現代音楽」の作曲家、シリアスな音楽の領域で活動している吉松氏ではありますが、そもそもの作風が聴きやすいと言えるほどのものでしたから、ドラマが気に入った方はお聴きいただいても損はいたしますまい。そう、話題の兵庫県知事はここをお読みではありますまいし(笑)。

千葉の感想としては、吉松氏が尊敬していらっしゃるだろう先達、名をあげれば武満徹に黛敏郎、早坂文雄などを思わせる劇伴ならではのケレンのあるサウンドに感心した、という感じかな。そうそう、吉松氏といえば忘れてはいけない冨田勲氏へのトリビュートのように思える響きも随所に感じられました。オーケストラというパレットを存分に使って楽しんでいる作曲家が見えるようであります(笑)。

で、ですね。こっからは妄想です(笑)。主張の強い映像にけっして負けていないこの音楽ですが、オーケストラの各楽器をかなりソリスティックに扱った曲が多いんですね、嬉しいことに千葉の楽器であるテューバも!最近はあまり楽器を吹いていないのだけれど、ちょっと出してみようかと思うほどです。相変わらず影響されやすいですね、この人は(笑)。
こうもですね、各楽器の特性を活かした音楽を聴かされ、かつそれが大河ドラマの放送のたび日本中で聞かれているかと思うと、ただのサウンドトラックとして終わらせてしまうのがいかにももったいない。日本を代表する現代の作曲家の作品で、クラシックを普段聞いていない人にも届く=ある程度耳に馴染むだろう音楽を、ある意味で使い捨てだなんて。※

※もちろん、吉松隆の音楽を好んで聴く人たちはドラマが終わっても音楽単品を楽しむだろうし、多くはないかもしれないけれどサントラ好きの人もいらっしゃるでしょう。でもそれは映画音楽などでも同様だろう、視聴者の数には見合わない少数になるだろう、ということを申し上げたいのであります。

そこで提案です。吉松先生、早々にサウンドトラックからの抜粋によるオーケストラ向け交響組曲と、吹奏楽版のテーマ音楽を出版されませんか?というのもですね…

その昔、千葉が吹奏楽少年だったころ、吹奏楽雑誌の付録に「独眼竜政宗」のテーマ音楽吹奏楽版があって、大喜びで演奏したのを覚えています。あれは池辺晋一郎先生ですね、インパクトの強い名曲だったかと。近い時期に三枝成彰氏の「宮本武蔵」のテーマ音楽が「オーヴァーチュア・ファイヴ・リングス」としてコンクール課題曲となったりもして、吹奏楽者と大河ドラマってそれなり以上の親和性があったと思うんですよ。しかし近年はそういう話も聞かず。

音楽って、聴き込むだけでも十分に楽しめる、それこそジャンルを問わず時代を問わず、これだけの膨大な蓄積に加えて年々新作が生まれているのだから、その全てを享受することなど人の身には不可能です。だから聴けるものを、聴きたいものを聴けばそれでいい。ではなくて、むしろ、それだけの数から幸いにも出会えたものは大事にしてほしいなって思うのです。吹奏楽に限らず、自分の手で演奏する経験は否応なく作品を自身に取り込んで他者を近しいものに感じるいい経験だと思いますし(現代の聴く人と演奏する人の分離は、仕方がない面もあるにせよ、音楽受容の在り方としてはやはり偏ったものだ、と言わざるをえないでしょう、いま現在の自分が楽器を触れていないのでこの言葉はそのまま自分に跳ね返ってくるわけですが)。
そして交響組曲を希望するのはですね、やはりとっかかりという面からの考えが大きいです。ドラマを楽しんだ人は少なからずその音楽に好感を持つでしょう、というありがちな計算ですね(笑)。それだけならこれまでも、地方での演奏会などでよく取り上げられていましたし、サウンドトラックを集めた様な企画でも大河ドラマの音楽は演奏されてきたでしょう。ですが「平清盛」は吉松隆ですよ?普通の演奏会に入れても全く問題のない曲目になってくれることでしょう、それこそ20世紀前半の数多くのバレエ音楽がそうなっているように。なにより、サントラでのオーケストラの音色を最大限活かした作りを考えると、サントラから編まれる組曲はいわば現代の管弦楽入門として使えると思うんです。いいと思いませんか、パーセルの主題じゃなくて大河ドラマから生まれてきた管弦楽入門。アウトリーチ的なプログラムに入れる時は楽器紹介をすればいい、その必要がなければ吉松隆の劇付随音楽として結構の通った組曲として扱えばいい。かなり拡がりをもちうる作品になれると思うのです。シンプルな古典と組合せても面白いし、ロマン派と並べてみても面白い。いいと思うんですけど、
どうですか音楽専門出版社さんとか
機先を制して発注されてみては?

(長々書いておいてアレなのですが、吉松さんはけっこう著作権管理をきっちりされている印象があるので、交響組曲はともかく吹奏楽版は広く演奏されるかたちにはならないかな、などと現実的な落としどころも見えてしまうような)

以上、王家(笑)に蝦夷とされ、終いには鎌倉源氏に滅ぼされた地の出身者としては平家も王家もせいぜい頑張ってくださいな、と思っていることを最後に告白して(笑)おしまいです。ではまた。


追記。

幸福な例外として、今川監督版の「ジャイアントロボ」から天野正道氏の「GR」シリーズが登場し広く演奏されている、というものがあることを思い出しました。
しかしながら、千葉がアニメ好きであってもその受容の広がりにおいて限定的であることは否定できないし、吹奏楽コンクールの自由曲として多く演奏されていることを新聞紙面で見かけなければ天野作品のことは知らなかったでしょう、元吹奏楽青少年だったのに。
昨今のサントラ、上手い具合に折衷的なものが多くて、作品の出来と相まって興味深いものもあるのだけれど、流石に「平清盛」&吉松隆のようなものはない、はず。問題は突破力、なのです。
その昔の「赤毛のアン」&三善晃(主題歌のみ、サントラは彼の弟子筋)、「未来少年コナン」&池辺晋一郎のようなケース、あってもいいと思うんですけどね…なお、この追記部分に「劇伴専門の作曲家では」どうのこうの、という話をしているつもりはありません。菅野よう子とか、神前暁に菅野祐悟などなど、千葉も好きですし。クロスオーヴァー的なものの在り方、なかなか難しいものだと日々思うものであります。以上よけいな補足でした。