2018年12月31日月曜日

飽くなき音響の追求、そして「交響詩」の真髄 〜ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第143回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第143回

2018年12月16日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
フルート:甲藤さち(東京交響楽団首席奏者)
管弦楽:東京交響楽団

ヴァレーズ:
  密度21.5(無伴奏フルートのための)
  アメリカ(1927年改訂版)
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」 作品40

本当に久しぶりのノット&東京交響楽団、本当に久しぶりのミューザ川崎シンフォニーホール。私は帰ってきた!とかふざける余裕もなく会場入りした私が、客席で最初に見たのは上手端に置かれた「底抜けの太鼓に紐を通した、知らない人には楽器に見えないもの」(リンク先参照)。ああこれだよこれがヴァレーズだよ、と思いつつそこから目を転じて舞台全体を見れば、16型の弦に五管編成の団員入場を待ちかまえるみっしりと埋まったステージだ。そう、この日二曲目に演奏されるエドガー・ヴァレーズの「アメリカ」は常軌を逸した大編成オーケストラの作品なのだ。

しかしその前に置かれたのは同じヴァレーズの、フルート・ソロによる「密度21.5」であり、この二作は連続して演奏されるという。さて演奏場所はどうするのか、続けてと言うがどのように…などと思ううち楽員各位が入場し、チューニングの後ノット監督が拍手に迎えられて入場する。
いつもなら白く輝くミューザのステージで演奏が始まるところ、照明が落とされてソリストの甲藤さちにスポットライトが当たり、無伴奏フルートによるモノドラマのような、また何かの呪文のような音楽が三分程度暗い場内に響く。最後にひときわ強くクレッシェンドして曲が終わり、明るくなる場内には先ほどまでのソロ・フルートのこだまのように、アルトフルートの少し太い、暗めの音が特殊奏法のハープを伴って鳴り始める。あたかも先ほどのフルートが一人めの巫女だったように、今また集団による新たな祈祷が始まったようにすら思えてくる…と、いつもならこういうことは書かないように、私にはオカルト趣味はそんなにないのだけれど、ヴァレーズの作品にはそうした儀式的な身振りが特徴としてある。それも、この日の二作に限らず多くの作品に見受けられるので、たまには筆を滑らせておこう。

「アメリカ」冒頭の、アルトフルートのフルートよりは低く、ファゴットよりは高い音で紡がれる旋律は、直接にではないが「牧神の午後への前奏曲」から「春の祭典」へ、という20世紀音楽の流れを意識させる。この二作によって橋をかけるつながりが導くは、同じ作曲家が描き出す極小と極大の、音響の博覧会だ。(ヴァレーズがブリュッセル万博に作品を提供していることを、こう書いてから思い出した)



肝心の演奏は、と言えば「アンサンブル・アンテルコンタンポランのマエストロ」としてのキャリアを思い出させるノリノリのノット監督の指揮を、それに前に聴いたとき以上に見事にショックなく追従していく巨大な東京交響楽団の演奏に、存分に楽しませていただきました。予習の際にこの曲のスコアを追うだけで四苦八苦した私には、あの自在なドライヴは想像の遥か上の、圧倒される経験でありました。
…もっとも。私の前の席に座っていらした人生の大先輩は、幾度となく首を振ったり退屈そうにしていました。お気持ちはわからないこともないです。はい。

ヴァレーズについては、私は幸いなことに比較的親しみがあった。打楽器アンサンブルの「イオニザシオン」を友人知人たちが演奏したのを聴いたことがあって以来興味を持って、ケント・ナガノやリッカルド・シャイーの録音に親しんできたからいまさら驚きはしない。最初に目にしたライオンズ・ロアーだってよく知っている…とか、たまには訳知り顔で言ってみたいものだ(笑)。この大編成管弦楽が作り出す神秘の瞬間や上限が見えない轟音の前で、平静でいるほうがつまらないよ。いや本当にね。

ひとつ前半については書いておかねばならないことがある。このプログラムをミューザ川崎シンフォニーホールで聴くことができる幸福に、どれだけの方が気づかれただろう?
フルートが一人で音を紡ぐときも会場が大きすぎて表情が聴き取れなかったりしない、五管編成のオーケストラ、特にも10人以上の打楽器奏者が全力でクレッシェンドしても残響は乱反射したりしない、トゥッティの響きは混濁せず聴き分けることができる。こんな特別なホールでヴァレーズの代表作を体験できた皆様は幸いである。
かなりの無沙汰をしてしまった身では僭越とは存じますが、私からそう申し上げておきたい。

*************

そして後半は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ご記憶の方も多いだろう、以前ノット&東響がパーセルとリゲティを前半において「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏したプログラムのことを。(リンク先参照)
あの時期にスイス・ロマンド管弦楽団の芸術監督にも就任したマエストロ、ローザンヌではパーセル&リゲティから「英雄の生涯」につなぐプログラムにしていて、はてそれはどちらが正解なのか…などと思ったのを私は覚えている。その時の私達は聴けなかったノット監督の「英雄の生涯」は果たしてどんな音楽なのか、その疑問にようやく答えが出せる機会が来た、ともいえよう。もちろんオーケストラも違うし、演奏時期もけっこう離れたものだから、そして何よりノット監督のことだから、また違う演奏だったろう、とは思うのだけれど。私はこのプログラムの二日目を聴いたわけだから初日のものとはまた違うのだろう。

…この前振りを言い訳がましいと思う方もいるとは思うが、即興的なアイディアをその時どきの演奏に盛り込むノット監督の、そしてそれに全力で応える東響の場合どうしてもこの前置きは必要なのだ。そのうえで申し上げる、この日の「英雄の生涯」は私には「ティル・オイレンシュピーゲル」より明瞭な筋書きのある、言葉のないドラマとして受け取れる演奏だった。そしてまだ若い作曲家の自画像は、作曲後10年くらいの作品まで使い続けられる手法、アイディアを惜しまず注ぎ込んだ、押しも押されもせぬ代表作なのだ、と確信できる音楽だった。

まず前者から書いていこう。交響詩はそもそもがプログラムありきで描写的に作られるもの、それでも、たとえば「ツァラトゥストラ」がわかりやすいかといえばそうでもないし、先ほど名前を出した「ティル・オイレンシュピーゲル」がそう簡単かと言えばそうでもない。「ティル」は演奏時間が短くて次々とエピソードが進み、主人公の死と冗談めかした復活といったわかりやすさがある分、わかった気にさせられている、だけなのではないか?
対してこの日の演奏で示された「英雄の生涯」は、私にはシュトラウスの示すストーリー、英雄物語に完全に一致したものに思えた。意気揚々たる英雄が登場し、批評的敵との緒戦があり、妻との語らいがあり、敵との本格的な戦闘に勝利、老いて引退して終わるという筋書きを、これだけ得心したのは初めての経験だった。
普通に見れば大編成の「英雄の生涯」のオーケストラは、前半に比べれば打楽器も半分以下になり(五人もいるのに!!!)、洗練された管弦楽の技法が次々に繰り出されるさまは、標題やストーリーが付与されていても、実際にはある種の“オーケストラのための協奏曲”として演奏され、聴かれることを今更ながら再認識させられるもの。演奏精度にこだわる方は、きっと冒頭しばらくのズレを気にしたかもしれないが、いくつもの流れがまとまって大きな川となっていくような冒頭の推進力はなかなか捨てがたい魅力があった。
それに続く「英雄の敵」からはより安定した音楽となったが、この日の演奏の白眉はやはり伴侶であるコンサートマスター(水谷)と英雄(ノット監督とオーケストラ)の対話が明瞭に展開された「英雄の伴侶」だろう。この場面はもはや「シェエラザード」をきちんと劇化したかのごときわかりやすさとなるほどに、ヴァイオリンが語ればオーケストラが応え、オーケストラが先に語れば食い気味に自論をヴァイオリンが打ち込んでくる、そんな夫婦の姿すら見えるようだ。演奏会前に水谷氏のツイートを見て少し頭に留め置いた予想よりも、はるかに“英雄と妻との対話”として音楽が届いた。


その甘い時間も終わり、遠くで敵の声が聞こえ始めてからの「戦場」は、前半のヴァレーズとはまったく違う大オーケストラの技工の祭典。そんな側面あればこそ、多くの音楽家たちが「オケコン」としてこの曲を演奏するのだけれど、この日の演奏ではモティーフの出入り、音響の押し引きを戦場での戦いになぞらえて描き出した。途中から、進軍ラッパが聴かれなくなり兵士を煽り付けた太鼓も止みがちになっていく流れからの英雄の勝利への展開は圧倒的、その後はもはや余生である、と言いたくなるほどであった。
なお、自分が昔遊びでさらってみては「どう吹けばいいのよこれ」と思っていたバリトンとバステューバによる不穏なファンファーレは老いや衰えの到来を告げる不吉なファンファーレとして、いわば死神の役どころだったのだと得心した。それは、ある種の異様さがなければならないわけである、とようやく理解できたが、私がこの先テューバを吹くことはないだろうし、この曲を吹くことはもっとないだろう。残念である。

では後者、代表作としての側面について。
この作品に「業績」として、それまでのシュトラウス作品の引用が多々あることはご存知の通りだ。だが、この日の演奏からは、この作品を書いた当時はまだ存在しなかった「薔薇の騎士」が、「家庭交響曲」が、「アルプス交響曲」が…などなど、聴こえてきたのは私だけではないだろう。作曲家がこれから向かう先を示したマニフェストであり、その方向にどれだけ自信を持っていたかと示す自己の英雄化だったのだろう。それだけの身の詰まった音楽としてこの曲を経験できたのは初めてのことだった。この音楽が持つ可能性として、どこまでもドラマに寄り添った読みを示したジョナサン・ノットに、その意図を汲んで音響として示してくれた東京交響楽団に、そしてそのすべてを聴き手に届けてくれたミューザ川崎シンフォニーホールに感謝である。なお、この演奏は収録されていたとのことなので、多くの人に聴いてもらえる可能性があるのは喜ばしいことである。もっといいのは、より多くの人がミューザ川崎シンフォニーホールに足を運ぶことではあるが、ご無沙汰していた私が言うのは僭越の極みだから言えない(けど書いた)。

*************

さて、最後にツァラトゥストラ」とこの曲、どちらが…という話。両方聴くことができて、それぞれに楽しめたから、私たちが聴けた東響の方が正解じゃないかな!(笑)ボケはさておいて、私は聴けなかったのだけれど、つい先日に「フィガロの結婚」全曲の演奏を経たからこその、この演奏だったのでは、と私は想像する。よりドラマに対して想像力が開かれた状態の指揮者とオーケストラからなら、ここまで雄弁でドラマティック(正しくこの言葉を使える喜び)な音楽が紡ぎ出されたのだろうと想像する。この明瞭なドラマと、リゲティとパーセルによる開かれた問いが調和したのか、それとも哲学者の問いをさらに掛け合わせるべきだったのか。それは受け取った側で個々に考えることである。そんな問いを投げかけてくれるノット&東響に、心からの感謝を申し上げてこの稿を終える。

2018年12月20日木曜日

圧倒的な光に屈する悪魔の物語、として~東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

アッリーゴ・ボーイトが生涯に完成させたオペラはこれだけ、という「メフィストーフェレ」は自分の過去の音盤に関する記憶を手繰ってもバーンスタインのプロローグ、ムーティの全曲録音くらいしか出てこない。だからレアな作品だ、と言い切ってしまうなら、私はバッティストーニから厳しく反論されることになる。詳しくは東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを見ていただくとして、簡単に言ってしまえばこのオペラはそこまで演奏頻度が低いわけではない、のだ。確かにレコーディングだってちゃんと調べれば少ないとも言えない(パヴァロッティ、ドミンゴのファウストがあるのは、ある意味「彼らなら、ある時期何でも録音されていた」ということかとは思う)。またこの作品は映像映えするからなのか、最近の舞台の映像ソフトだってあるし、この演奏会と同時期にはMETが上演していたりもした。なるほど、この作品はそこまでレアではない。…もっともそれは「日本の外では」という話。我々日本のクラシック音楽好きは、昨今こんなにマーラーの第八番を聴くことができるのに、他の作曲家による「ファウスト」による作品群になかなか触れられない。グノーやボーイトが上演されないのはオペラの作品選択は多すぎるほど多い事柄が関わるものだから一概に良し悪しでは語れないが、そうしたある種の偏重は認識しておこう。
そういう風潮や傾向に挑む勇気が、そして自身が読み込んだ作品の力を信じる強い意志が、アンドレア・バッティストーニにはある(もちろん、その強い意志を受け入れる東京フィルハーモニー交響楽団にも、だ)。有名作を上演するのと並行してマスカーニの「イリス(あやめ)」を演奏会形式ながら上演した彼の、そうした趣向・指向については先日の定期のときにコンサート・レパートリーでも同様、と少し書いたので割愛。ここでも少しだけ書いておくなら、近現代の作品に強いマエストロが耳慣れない曲を取り入れることでコンサートのプログラムを新鮮なものに変化させるように、バッティストーニはイタリアの知られざる作品を取り上げることでよく知られた作品の意外な立ち位置を知らせたり、同時代の作品の近さ遠さを音で示してくれている、と考えている。今回の「メフィストーフェレ」にしても、昨年の「オテロ」、今年の「アイーダ」との歴史的・人間関係的位置関係を思わずにはいられないし、…これ以上は後にしよう、いつまでも本題に入れない。”私はどう聴いたか、この作品をどう体験したか”こそが拙文の本題である。なお、ボーイトの「メフィストーフェレ」、そしてその原作ゲーテの「ファウスト」についても書くとこの文がいつまでも終わらないことになるので過去記事を参照いただくようお願いしたい。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

2018年11月18日(日)15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ

メフィストーフェレ (バス):マルコ・スポッティ
ファウスト (テノール):アントネッロ・パロンビ
マルゲリータ/エレーナ (ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ/パンターリス(メゾ・ソプラノ):清水華澄
ヴァグネル/ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団  他

ボーイト:歌劇『メフィストーフェレ』(演奏会形式)

最初に総論を手短かに書く。すでにかなり長いけれど。
ゲーテが伝説から汲み取ったファウスト伝説のエッセンスをアッリーゴ・ボーイトがオペラという制約の中でギリギリまで汲み取って作られたオペラが「メフィストーフェレ」、その作品を”原作の抜粋”ではなく”原作から生まれた、凝縮され構成されたひとつの体験”として読み解いたアンドレア・バッティストーニと東京フィル、キャスト各位と演出補のチームが提示してくれた舞台、であった。三時間強の長丁場ながら、弛みや成り行き任せの瞬間はなく一気呵成に終幕までたどり着き、私たち聴き手を圧倒してくれた。こう書くと若さと勢いに任せた演奏だったように見えてしまうがそうではない。作品の多様な性格を表情で、サウンドで示しつつあれよあれよと展開していくドラマ運びに、迷いがなかったことを言いたいのだ。
プロローグとエピローグで作品の外枠を固めたボーイトの創意ゆえ、このオペラでは「ファウスト」が持つ“神と悪魔の遊戯的闘争の物語”としての側面が強められている。エピローグでの福音を改心の支えとするファウストなど、原作とは異なるアプローチに戸惑われる方ももちろんいただろうと思う。しかしこれはあくまでもゲーテの「ファウスト」ではなくボーイトの「メフィストーフェレ」、死を受け入れるその時まで励み努めた一人の人間の物語ではなく、神に挑んだ悪魔の物語なのだ。私はこの演奏を聴いて、そう理解した。ファウストはあくまでも神と悪魔に操られる存在であるのだから、悪魔が敗北した後の「救済されるファウスト」の物語はここには必要がない、ボーイトはそう判断したから、あの有名な「神秘の合唱」は書かれなかった。またひとつ、疑問が解けた気分である。

************

日曜の昼に善男善女が集ったオーチャードホールの客席につけば、ステージはピット上にまで大きく張り出して、前方にはスペースがある。サイズとしてはそれほど大き過ぎもしないオーケストラの後ろに合唱団の席、その上にはスクリーンが用意されている。編成もそこまで大きいわけではない、といってもそれは14型程度の弦セクションの話(16型だったかもしれない。最近年のせいだが目が悪くなって、このあたりいささか自信がない)。大量の管打楽器、少年少女たちも加わる合唱は作曲された時代を考えればかなりの大編成のもの。バンダは舞台裏でもステージでも演奏するため、合唱の横に席がある、と見て取れる。
かつてのオペラ・コンチェルタンテを思い出すまでもなく、東京フィルがこのホールでオペラを演奏するためならば演出がつきものだ。定期演奏会でありながら、そのドラマを存分に表現しようという挑戦的な試みを長年続けていた東京フィルならではの、音楽を、その物語をより客席に伝わりやすくするための最小限ながら考えられた演出だった。パンフレットにある菊池裕美子氏の役職が”演出コーディネーター”とされているのは、バッティストーニとの共同作業だったから、なのだろう(「イリス」では演出もバッティストーニだったことを想起しよう)。

とまず舞台の話を始めたのは、最小限の照明だけが灯されたステージで始まった演奏、この作品ではもっとも有名なプロローグが始まってすぐ稲光を思わせる光の演出が非常に印象的だったからだ。この一つの演出が、この作品は題名が示すとおりの悪魔の物語であるのと同時に、神の物語でもあることが示されたと感じたからだ。ここから「魔笛」の三人の童子を想起した私は、”もしかしてバッティストーニの中ではロッシーニ&シューベルトによるプログラムと「メフィストーフェレ」とはつながっていたのかもしれない”などとも考える。考え過ぎ、気のせいかもしれないけれど。
舞台が進む中で照明の演出のみならず舞台上方のスクリーンに映される映像、会場各所で活躍した助演を交えてこのオペラをより伝わるものにしようと試みた姿勢を、私は積極的に評価したいと思う。「ファウスト」を読んでいたとしても、私たちはみなこの作品の”初心者”だったのだから。なお、助演の古賀豊は鬼火として客席に現れたりマルグレーテの幻影を殺したりと、文字にするといささか物騒な活躍をして(笑)この演奏会をオペラにする、文字通りの一助となっていた。

音楽の話に移る。バッティストーニと東京フィルがこの日聴かせた演奏は、バッティストーニらしい張りのある、よく伸びるサウンドでボーイトの唯一の完成されたオペラの魅力を存分に伝えてくれた。バッティストーニが導けば鳴らしやすいとは言い難いオーチャードホールでも東京フィルは見事に輝いた。あえて難を言うならば、特にプロローグとエピローグがあまりに輝かしかったものだから、悪魔という闇の存在が少々消されてしまった感がなくはない、ということだろうか(笑)。
もっとも。私はこの作品の題が「ファウスト」ではない理由を、ボーイトがスカピリアトゥーラとして挑戦的だった自分の投影としているからではないかと考えるのだが、こうして神のご威光によって敗北するドラマとして「メフィストーフェレ」を体験することで、どうしても後年反抗の対象の一人だったはずのジュゼッペ・ヴェルディと和解・協業したスカピリアトゥーラたちのことを思ってしまう。「アイーダ」でのギスランツォーニ、「シモン・ボッカネグラ」「オテロ」そして「ファルスタッフ」でのボーイト。“父親”としてのヴェルディともども、なにか考えさせられてしまう縁がここに現れた、というのは後付にすぎるのだけれど。

オペラ指揮者・バッティストーニの技はこの日も冴えに冴えた。改訂されたとはいえ短いとは言えないこのオペラが一気呵成に上演されたかのように感じられたのは枠組みを明示した作品の構成の妙もあるだろうけれど、歌手とのやり取りでちょっとした間の悪さが生じない彼の技が大きく貢献していた。まだ発表されていない彼の次のオペラは果たして何か、期待せずにはいられない。
彼の指揮のもとの東京フィルハーモニー交響楽団の充実ぶりは、皆様ご存知のとおりである。このオペラ二日目ということもあっただろうけれど、集中力高く破綻なく、確信に満ちた音で彼らのマエストロに応えきってみせた。

キャストでは、題名役のマルコ・スポッティはこの日体調不良だったとも聞いたが、バスを主役とした数少ない作品での晴れ舞台を見事にこなした。
急な代役にもかかわらず熱唱を聴かせたアントネッロ・パロンビ(ジャンルーカ・テッラノーヴァから変更)のファウストは、”このオペラはファウストの物語ではない”という私の読みを裏切るほどの存在感を示した。ヴェリズモ・オペラにも近いかと思わせる熱い歌唱には、この作品がドイツ由来であることを忘れさせるほどの力があった。
マリア・テレーザ・レーヴァは初来日でのマルゲリータ/エレーナでの出演だったが、特に前者の第三幕のアリアで聴かせた。トラウマ的経験を経た彼女の不安定なあり方を示しながら、キャラクターの芯の強さを同時に表現した歌唱はお見事、19世紀の「ファウスト」が第一部を中心に受容されたことも理解できるほど、だった。
新国立劇場合唱団はプロローグ、エピローグの輝かしさも見事だったが、第一幕の復活祭の群衆の場面でさすがの存在感を示した。世田谷ジュニア合唱団は音楽の流れを任される場面でも臆すことなくよく歌い、公演の成功に大きく寄与した。

最後に。本文の繰り返しになるけれど、作品については以前の記事(その一 その二)を参照いただくようお願いしたい。ゲーテの「ファウスト」について何度も書くなんて底なしの度胸、私にはないもので。本当にね。
…とは思ったが、実演に触れることで喚起される思考というのは間違いなくあるものだから、ボーイトの作品、オペラについてということで最後に記しておく。

先日の記事でこの作品が想起させるものとして「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」の名を挙げたが、実演を聴いてさらにいくつかの作品との関係性が気になった。もしかすると無理筋かもしれないが、先行作として意識された可能性のあるもの、純然たるシンクロニシティ、後世への影響などなどを想像させる作品名をあげたい。
プロローグあとの第一幕の復活祭と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の類似は時代的な近さ、作曲家たちの関係性を嫌でも考えてしまうものだ。また、第二幕と「ラ・ボエーム」第二幕はダブルデートというか、二組のカップルの場というか、場面の提示における手付きの水準で近さを感じた。そして古代の美女たちと関わる第四幕は「ホフマン物語」を思わせるものだった。
このあたりのことも、きっと世界のどこかには論文があるのだろうな、と思いつつ探せていない私であります。たぶん、捜索の果てに見つかる論文はイタリア語で書かれているんじゃあないかなあ…

************

この日は、16日にすでに行われたサントリーホールでの公演の好評を知った上で渋谷に向かったのだが、「渋谷は怖いところだ」と直前にニュースで見たので(おい)、護身用に悪魔のコスチュームでもドンキで買おうかと思ったら(嘘)、渋谷のドンキは自分が知っている場所から少し離れたところに移転していて驚いた。もはや浦島太郎である。これからしばらくこのシリーズ続きます(そうなんだ)。

さてこの長い文に最後までお付き合いいただきました皆さまに、そして私にも朗報です。来る12月21日(金)に、NHK FMの番組「オペラ・ファンタスティカ」にて、私が聴いたオーチャードホールの公演の2日前の演奏会、サントリーホール公演が放送されます。若きマエストロは演奏会場によって演奏の仕方を変えるのかどうか、ちょっと気になるところなので確認しなくてはと思う次第。放送は14時からですので、皆さま何らかの手を打ってぜひお聴きくださいませ。

では今日はこのへんでよかろうかい(特に意図はなし←と書くことで何かがにじむスタイル)。

2018年12月7日金曜日

”汲めども尽きぬ泉”に再び出会えた喜び ~東京フィルハーモニー交響楽団 第121回オペラシティ定期シリーズ

いろいろあってコンサートから遠のいていた私ですが、アンドレア・バッティストーニの指揮に久しぶりに触れることができて、大いに嬉しく思った、と最初に書いておく。しみじみ。

その機会となったのは、実に彼らしい「近い時代に違う場所で活躍した、似たところのある才能」の作品を並べた俯瞰的なプログラムの演奏会。ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)、フランツ・シューベルト(1797-1828)とその生没年を並べるといささか生きた時代に開きがあるようにも見えるが(ロッシーニは明治維新の年まで生きていた!とかつい話を拡げたくなりますがそこは自重で)、彼は後半生を作曲家として生きなかったので、早逝したシューベルトと活動時期はそう変わらない。そしてなにより二人共に「歌」を作ることにおいて並外れた才能を示した、という共通点がある。得意分野もかたやオペラ、かたや歌曲とつい分けて考えてしまうけれど、シューベルトもオペラは書いているのだし、ロッシーニだって歌曲も作っている。シューベルトなら交響曲が、と思うかもしれないけれど語源にさかのぼってシンフォニア(序曲)ならロッシーニの得意中の得意、何曲もの音楽的に充実した”小交響曲”が作られていることは誰もが知っている、その充実ぶりはバッティストーニと東京フィルがいつも示してくれている。ここにある”無意識の区分け”を見直してみませんか?そんな提案含みのプログラムと、私は受け取った。
…とはいえ、俯瞰するだけなら年表と地図を広げれば私でもこのくらいはできる(自慢にもならない当たり前の事実)、それをバッティストーニがどう音として聴かせてくれるか、そのアイディアは説得的だったか。評するのなら言うべきことはそれに尽きる。

では以下に、当日の演奏をどう私が聴いたのかを記そう。なお、この日の弦セクションの編成は前半後半とも同じ12型(10型かもしれない)で、このあたりにもバッティストーニの問題意識は徹底されていたように思う。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第121回オペラシティ定期シリーズ

2018年11月12日(月) 19:00開演 東京オペラシティ コンサートホール

ロッシーニ:
  歌劇『アルジェのイタリア女』序曲
  歌劇『チェネレントラ』序曲
  歌劇『セビリアの理髪師』序曲
シューベルト:交響曲第八番 『ザ・グレート』

前半のロッシーニ序曲三曲については、曲目だけを見ればバッティストーニと東京フィルらしい…で済ませてしまうこともできるだろう。これまでもロッシーニやヴェルディの序曲をまとめて取り上げてきた彼らが、知名度の異なる三曲を並べてロッシーニの多彩なアイディアを示す、というのはもはや彼らの「名刺」ともなっているのだから。しかし「過去に取り上げた作品を改めて演奏する際にも、単なる繰り返しにならないようにしたい」と以前語っていたバッティストーニのこの日の演奏をそれで片付けるのは、あまりに惜しい。
それぞれの作品の持つ響きを、時には最高に洗練させて時には野卑になることを恐れずスコアに書かれた音楽を実現しつつ、聴かせどころを見事に作り上げる手腕ある演奏家にかかれば曲ごとの個性を際立たせつつ、随所に新鮮な響きを作り出してくれる。そんな演奏であってみれば、”旧知の曲”だからと退屈させられる暇などないのだ。

特にもアリア並みに長いソロに顕著だが、木管楽器群の饒舌さには何度となく驚かされた。オーボエ、クラリネットの活躍にはいくらでも拍手を贈りたい(ちゃんと会場でも拍手しましたよ)。
ただし。裏に回って大変なことをさり気なくこなしている弦セクションの皆さまの献身を、文章でうまくお伝えできない自分を歯がゆく思わないではない。造形を崩さずにここぞというところでは迷いなくアクセルを踏み込むバッティストーニのテンポで、ロッシーニの忙しくも楽しい音楽を実現しているのは間違いなく彼の棒によく反応する弦セクションなのだとわかっているのだけれど。これは私の側の課題、ですね。

そして後半のシューベルトは、これまでの彼の演奏で比べるならば、やはり時代的に近いベートーヴェンに近い音楽として描いた、と言えるだろう。この音楽に秘められていた力強さの顕現に、繰り返されるモティーフを活かすリズムへの配慮に、かつて聴いた独特でありながら説得的な第五番を思い出させられた。
しかしそれでいて細部はまったく独特な演奏だった、と言うしかない。この日のコンセプトでもあっただろうロッシーニのような語りものとしての性格も強く示されるし、楽章の頂点を刻印するように鳴り響く金管楽器の輝かしさはマーラーやブルックナーにも通じる圧倒的なものだった。このやり方は一般的なシューベルト理解からは遠いかもしれないが実に魅力的で、私は身を任せて圧倒された。
…こう書くと力押し一辺倒の演奏だったように思われるかもしれないがまったくそんなことはなく。随所に彼独自の読みが光る、刺激的な演奏だった。惜しむらくはその表現がいささか意外で、一度聴いただけでは言語化しにくい部分があった(もちろん「私には」、である)。そして演奏には前半のロッシーニほどの精度はなかったこともあり、この日の演奏が彼らの”ゴール”ではないと感じたことも書いておこう。これから繰り返し「グレート」を、シューベルトを取り上げてくれるならまた従来のイメージと違う音楽が体験できそうな、そんな予感を抱かせてくれた。
※私はそこまで演奏精度にこだわる方ではないと思うけれど、このコンビネーションならばもっと、と感じた場面もなくはなかった、ということで申し上げておく。

シューベルトにおけるMVPはやはり三本のトロンボーンだろう。ベートーヴェンの、そして「魔笛」の楽器をこれでもかとばかりに自在に使ったシューベルトのアイディアを、バッティストーニは最大限まで読み取り、信頼する東京フィルの三人の奏者に託した。託されたトロンボーンセクションは、ちょっとした協奏曲よりも大変だったのではないかと思わせられる変幻自在の活躍ぶりと言えた。たしかに、この曲はそれまでのシューベルト作品より「大きい」ものだが(以前、私は「この編成でそのまま初期ブルックナーを演奏できる」と書いた、思う)、ここまでトロンボーンが活躍していたとは思わなかった。一般的には抑えめの音量で響きの味付けとされるようなところも旋律やモティーフとして明示され、結果音楽は違う顔を随所で見せた。私の認識しているシューベルト前後の交響曲で、ここまでトロンボーンが活躍する例を思い出せないほどの活躍には、かつて趣味で金管楽器を吹いていた者として頭が下がる。序盤から最後の和音まで続くこれだけの大仕事、なかなかできることではない。いま一度ここで拍手、である。

しかし前後半あわせた全体でみるなら、木管セクションの饒舌さがこの日の演奏をより華麗なものにし、また説得的にしたのは疑いようもない。特にもロッシーニの音楽の軽さとスピード感を表現したオーボエとクラリネットの首席が作り出すシューベルト得意のタロガトー風の響きも美しく、コンサート全体を通じて作品の持つ可能性を存分に示してくれた。

…このコンサート一度では、私が感じたこの印象も勘違いかもしれない、そんな迷いも実はなくはない。だからここでリクエストとして書いておこうと思う。バッティストーニと東京フィルのシューベルト、もしかすると新しい「名刺」になれるかもしれないので、この先もどんどん取り上げてほしい。いわゆるピリオドアプローチとは違う、しかし説得的なシューベルト像が生まれる可能性だってきっとある、私はそう感じた。
最後に私事。この公演から数日が経ってこの記事に着手してから、会場に響いた音楽が脳内でループしはじめたのには驚いた。このあとから効いてくる余韻は何だったのだろう(笑)。

*************

さて10月の「アイーダ」巡演、そして11月のこのコンサートのあとにはこのコンサート、そして注目の「メフィストーフェレ」(レビューはもう少しお待ちを)、「魅惑のオペラ・アリア・コンサート」を大成功させたバッティストーニと東京フィル。このあともさらに怒涛の公演が続くのでこの機会にリストアップしておきましょうそうしましょう。

・2019 1/19 フレッシュ名曲コンサート マーラー 交響曲第8番 新宿文化センター 大ホール

新年には、まず私が熱望していた、マーラーの後期作品!(個人的希望なのか)
第一番の録音が好評だったことは知っているけれど、彼のクリアでよく鳴る音で「マーラーの、できたら五番以降の作品が聴きたい」と以前お話を伺った際にリクエストしてたんですよ、私。恥知らずですみません。とはいえ、まさかそれが第八番になろうとは!なんたる僥倖!!!!(!増量してみた)
バッティストーニと東京フィルにとっては「ファウスト」つながりの作品を間を置かず演奏できる貴重な機会になることは間違いない、そしてその貴重さは私たち聴き手にとっても同様である。僥倖、でありましょう。
(…にしてもこのところ、第八番多すぎじゃないですかね?とか言いたい気持ちもあるけれど。八番大好きなんですけど。)

・2019 1/23、25、27 東京フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会

そして新年最初の定期演奏会は物語の音楽化を三つ集めたプログラム。語り上手なマエストロ、日本で一番オペラを上演しているオーケストラが自らを主役として描き出すドラマは、聴く前から刺激的であるだろうことはわかる、しかしその衝撃のほどは聴いてみるまではわからない、この日の「グレート」が予想できなかったように。

にしても、である。著作の中でストコフスキーにも触れていたバッティストーニが「魔法使いの弟子」を選ぶのはわかる、またロシア音楽を愛好する彼が”ロシア流のオーケストラによる音物語”の最高峰とも言えるだろう絢爛な「シェエラザード」を、気心のしれた東京フィルと演奏したいのも理解できる。
しかしなんだ、ザンドナーイはどんな曲だ。ほんとに。いまどき断片さえもYouTubeで見つけられない曲とかなかなかないぞ。そのあたりの事情は、東京フィルのサイトで読める彼のインタヴューが面白いので、興味のある方はぜひご一読を。”ザンドナーイ・ルネッサンス”、もしかして東京から始まっているのかもしれませんよ?

そして。あえて時系から飛ばしていましたが、今年の大晦日に開催されるコンサートは全国対応だよ!恒例の東急ジルヴェスターコンサート、指揮はアンドレア・バッティストーニ!オケは当然東京フィルハーモニー交響楽団!カウントダウン曲はこのコンビネーションがこの秋全力で取り組んだばかりの「アイーダ」!!
BSテレ東なら全国どこででも見られちまうんで、「アイーダ」で虜になった各地の皆さんも、先日客演して得意の「カヴァレリア・ルスティカーナ」で圧倒された九州の皆さんも、もちろん首都圏で東京フィルとの演奏会を聴かれたみなさんも感動を新たにする好機でございますぜ。(民放テレビっぽく煽ってみた←なにか誤解があるようだ)
チケットは当然の完売でしょうから(チャレンジしたい方はしてみてもいいでしょう…って、まだ受付中なのかな?)、であればお茶の間でじっくりと見て聴いてやろうじゃあありませんか。私は録画で、かもしれないのですけれど…

…などと予定をまとめてきましたが、私は感動が新鮮なうちに「メフィストーフェレ」のレヴューを書かなければ、です。次にあの作品の実演に触れる機会はないだろうなあ、と思いながら、脳内ではロッシーニとシューベルトに代わって延々とプロローグとエピローグのファンファーレが鳴り響き、雷鳴が轟いていますよ(笑)。では次の記事でお会いしましょう。

2018年11月30日金曜日

「ファウスト」の話の続き

(承前)
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。

さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。

リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)

なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。

さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。

・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」

・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調

※アルファベットはてきとう(嘘)

こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。

さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。

************

グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。

まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。

続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。

シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。

グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。

そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。

最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。

************

で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。

本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。

東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で

この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。

来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。

2018年11月16日金曜日

「ファウスト」、読んでみた! ~若しくは森鷗外訳「ファウスト」を読みて思ふこと

それはまだ暑かったころのこと、「ああ、11月には「メフィストーフェレ」の全曲が演奏されるのか…」と気づき、ゲーテの「ファウスト」を読むのはどうだろうか、と思い立った。レアなんて表現では足りない、まず実演にはお目にかかれない音に聴けないと思っていた作品を聴くことができる、かもしれない。そんなタイミングでもなければ手が出しにくい大著に、何年ぶりかはもはや思い出せないほどの時を隔てて行った再読を、ついこの前ようやく終わった。公演前に間に合ったのは幸いなことである(笑)。


実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。

大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。

その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。

当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。



鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。

ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。

(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。

そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)

これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。

さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。

もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。

個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。

…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。


役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)

**************

これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。

ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。

私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。

また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。


2018年11月14日水曜日

訃報 佐山雅弘(ジャズピアニスト)

ジャズピアニストの佐山雅弘氏が本日14日に亡くなられた、との報を、ミューザ川崎シンフォニーホールのサイトで知った。
佐山氏のサイトを拝見すると9月には公演を行えていて、だが今月上旬には2つキャンセルがあった、けれど今週16日にはアドバイザーを務めるミューザ川崎シンフォニーホールでの公演を予定されていた。今月26日には65歳の誕生日を迎えるところだった。

***************

ミューザ川崎シンフォニーホールとは開館前から少々のご縁がある。とは言いつつもこの”縁”の始まりはお仕事上のことなので詳しくは書きにくい(正直、もう昔話だからいいんじゃないかなと思う気持ちもある)。開館前に内覧会で一度ミューザの音を経験し、仕事は開館後もしばらく続いた、そして仕事を変えてからは一人の聴き手として演奏会を楽しんだり、ライターとしてあれこれの公演を紹介して今に至っている。ここ最近はホールになかなか伺えていなくてなんとも不甲斐なく、いろいろと口惜しい思いをしているのだが。
そんな私が少しばかり知っているあのホールの昔話を、アドバイザーを開館前から務めてくれた佐山氏への合掌の代わりに書いておこうと思う。

今でこそホールのフランチャイズ・オーケストラとして声望を高め続ける東京交響楽団とともに評価を高め、また世界から来演する音楽家たちの称賛を受けて世界有数の名ホールと評価されているミューザ川崎シンフォニーホールだが、その音が体験される前にはそこまでの期待値はなかったように思う。実際、当時の同僚たちは昔の川崎のイメージを引き合いに出してからかったりもしていたし、”東京”を名に冠するオーケストラが川崎をフランチャイズにすることにも少々の混ぜっ返しがあった。いまでは東響とミューザ川崎シンフォニーホールのコンビネーションはもはや切り離すことができない、と言ってしまえるからこんなポジティヴでもない話にも触れられるのだが。
開館公演にありがちな(失礼)「第九」ではなくマーラーを、それも第二番ではなく第八番を選んだのは当時としてはかなり挑戦的な試みだったし、それは私も含めた音楽ファンに東響とミューザ川崎シンフォニーホールへの関心を掻き立てたものだ。大人数の合唱を要求する第八番の選曲には、「より多くの市民の参加を可能にするため」という公共ホールならではの事情もあっただろうけれど、2002年の時点で自らの「最初の音」としてあの交響曲を選んだホールはそれだけでも尊敬に値した。そしてホールと東京交響楽団は定期に加えて共同企画による「名曲全集」、そしてオペラも含むいくつかの特別演奏会で取り上げる作品を拡大して今に至っている。あの大地震の影響による休館もあったけれど、総じて素晴らしい歩みだ、と私は思う。

だが、である。私が手放しで喜んでいるということは、市民の多くは(なんかよくわかんないけど駅前にホールあるんでしょ)くらいに思っている、という可能性もある、というか高い。いやもっと酷くて(なんですかそれ)かもしれない(悲しい想像はここまで)。
どんな演奏会やイヴェントについてでも、なにかしら書かせてもらうような機会には、私みたいなのではなく「音楽が好きな人」にも届くようにと考えて書くわけだけれど、たとえば「フィガロの結婚」を短い文章で何も知らない人にどう紹介すればいい?けっこう詳しいクラシック音楽ファンでもその含意を察しにくいだろう、ヴァレーズとシュトラウスが並ぶプログラムなんてどうやってその面白さをお伝えしよう?(否定しているわけではない、どころか聴きたくて仕方がない、というのが私のスタンスです)

「実際に、会場に足を運んで体験してもらえれば」とは私のような末端も含めて誰もが思い、ときには口にする(こんなふうにね)。正直なことを言ってしまえば最後はそれしかない、と私は思う。だって会場で体験できることを事前に伝えることはできないし、体験した人もその経験を言葉で完全に再現できるわけがないのだから。それでも何かを書いて誰かに伝えるのは、そこで起きたことがどういう物事だったか、それを会場に消えていった響きの代わりに残しておきたいから。そのような出来事があったという事実だけでも残しておきたいから、そんなささやかな希望からだ。
それはきっと同好の士には届くかもしれない、でもコンサートやオペラを見たことも聴いたこともない、そういう人たちがコンサートホールに近づく契機はそのような行動の中にあるのか、ありうるのか。残念だが、接点を私が作り出すことは、ほぼできないだろう。

だが幸いなことに、大都市である川崎市はこのホールの運営にそれぞれに専門分野の異なる有力なアドヴァイザーを複数招くことができたから、開館以来いくつかの方向の異なる可能性を同時に示し、魅力的な発信を続けられた。招致時点で秋山和慶が率いていた東京交響楽団との歩みは前述の通りだが、たとえばピアニストの小川典子は自身の演奏だけではなく子どもたちとの交流をも用意した。ホール専任のオルガニストを選んだことで自慢の施設を有効に利用した。それらは疑いようもなくホールへの興味を引くことに成功し続けているだろう、しかしそれは予備軍も含めた「クラシック音楽を好きな人」が対象だ。もちろん市民の多数派はそうではない人たちだ(残念ではあるが潔く認めよう)、では市の施設としてより広い層に存在をアピールし、その魅力を知ってもらうにはどうすればいい?
そう考えたからかどうかはわからないが、ホールはジャズピアニストの佐山雅弘をアドヴァイザーに迎えた。彼自身の演奏、また彼が認めるミュージシャンたちの演奏をミューザ川崎シンフォニーホールで聴くことの素晴らしさを、彼はいくつもの企画で伝えてくれた。その功績には、感謝しか申し上げられない。
開館前の、彼の企画を実際に聴く前の私はその人選をうまく理解できなかったことを正直に告白する。素晴らしいコンサートホールとして、東響がいて外来公演もあって、ピアノにオルガン、室内楽もやるのだろうし、おそらくはアマチュアの公演などでもスケジュールは埋まっていくのだろう、声楽は、どうなのかな?…果たしてそこにジャズは、ポップス寄りの公演は入る場所あるの?と当時は怪訝に思ったわけだ。だが今なら上述のように、いくつかの方向性の一つとしてジャズを含むポピュラー寄りのプログラムは必要だったとわかる。実際、「プログラムに知らない曲が並んでいるとスイッチが入る」「名前だけ聞いたことがある作品が取り上げられるコンサートに興奮してしまう」私のような少数派ではない多くの聴衆に、佐山氏の企画は愛されてきた。
…だが、である。こと自分について言うならば「最高の音響で聴くジャズという贅沢」に少しくらいは思い当たるべきだったんじゃあないのか、と反省もしてしまう。自分の出身高校の近くに渾身のオーディオシステムが自慢の名の知れたジャズ喫茶があったのだから、自分はその魅力を知っていたじゃあないか。彼の企画による演奏会の客席で、どんなオーディオでも再生できないだろう、最高にリアルなサウンド(あたりまえだが、こう言うしかないのだ)に興奮した日に、ようやく気がついた自分の不明を恥じる次第である。

3日にわたって個性的なミュージシャンたちがミューザ川崎シンフォニーホールに登場した数年前のかわさきジャズに軽い疲労を感じつつも興奮したことを、私はつい最近のことのように思い出せる。そのかわさきジャズ開催中というこのタイミングでの佐山氏の訃報に、なんと申し上げたものかと迷った挙げ句に以上の駄文を認めさせていただきました。佐山さん、いくつもの素敵な公演をありがとうございました。最後にやはり、合掌を。

2018年11月11日日曜日

そう、おじいちゃんのため”だけ”の音楽じゃあない~「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」

ご無沙汰でした。
さて、アンドレア・バッティストーニの著作、ようやく読みました。音楽之友社から発売されている「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」、原題は「おじいちゃんのための音楽ではなく」(Google翻訳様によれば)。


手を出すには時間がかかったのに、いざ読み始めると読了まではあっという間、賞味一時間ちょっとで最後まで目が通ってしまう。「それはいくらなんでも雑なんじゃあないかい?」という声がどこかから聞こえるような気がするけれど、これは過去にインタヴューをさせてもらった私の特権的な有利があるかもしれない。だってここには、過去に彼に聞いたエピソードや考えが、より整理された形でまとめられているのだから。そうであってみればなんのことはない、これを読みにくく感じたなら私はただの大馬鹿者なのだ(笑)。
なお、このように私が感じた理由については、本書を既読の方には私の過去のインタヴュー(その一 その二 ※なんと二度も!ありがたい話である)も併せて読んでいただくと、それぞれサブテクストとしてよりお楽しみいただけるかもしれない(あ、インタヴューイの無能についての苦情はいらないです、皆様からお伺いするまでもないので…)。

冗談はさておいて、本書は彼自身のこれまでの歩みを振り返りながら、「彼が愛するクラシック音楽が今なお元気で生きている、新鮮なものでありうるのだ」、そんな思いを熱意を込めて、しかしなにより知的に綴ったものだ。
本書によってざっくり”クラシック音楽”と呼称される音楽の歴史や受容における知識がひと通り学べるのだから、立派な入門書としてクラシック音楽の門前で迷う初心者を助けてもくれるだろう。
また、先進的な姿勢を持ちつつ伝統を受け継ぐものとしてオペラの現場で活躍するマエストロの在り方が明確に示されているのも本書の魅力だ。オペラハウスという特別な場所で、オペラという”祝祭”がどのように作られるのか、そこで指揮者は何をしているのか、そもそもオペラとは何を目指すものなのか。彼にとっても我々にとっても幸いなことに、バッティストーニは伝統的なマエストロたちに導かれて伝統的なオペラハウスのやり方を体得し、そして同時に現代の音楽家として彼が愛する音楽をどのように聴衆に届けるのか、届けられるのかと日々試行錯誤を繰り返してくれている。我らがマエストロ小澤征爾が生涯のテーマとして取り組み続けている、カラヤン先生(本書でも少し言及されている)言うところの「オペラとシンフォニー、これが車の両輪だ」という言葉の意味を、クラシック音楽に詳しいと自認しているファンにさえも新鮮でわかりやすく教えてくれるのではないだろうか。

若くしてこんな魅力的な著作をも書いてしまう才能の、精力的な活躍の中心的な舞台のひとつに、日本を代表するオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団が選ばれていること、そして日本コロムビアから多くのレコーディングがリリースされていることは幸いである。これ以上は想像できないほどの真摯さと、才能ある若者らしい確信に満ちた直截なアプローチと、人懐っこいユーモアが同居する若き才能を”われわれのマエストロ”として迎えられているのだ、それを幸せと言わずしてなんと言うべきだろう?おそらくすでに何度か書いた(と思う)そんな感慨を、本書によって新たにした。

幸いなことに、アンドレア・バッティストーニは東京フィルとともに日本各地で「アイーダ」の巡演を行ったばかり、そして間もなく11月定期公演の指揮台に登場する。すでに公演に触れた方も本書には刺激されることだろう、そしてこれから公演に行かれる方も本書に興味を持てるだろう。どちらからバッティストーニに近づいても失望することはない、ということは保証させていただこう。 …当ブログの読者でいらっしゃる紳士淑女各位におかれましては、私のお墨付きにどの程度の意味があるか、などと考えたりされませんように。
>東京フィルハーモニー交響楽団 公式サイト(演奏会情報、チケット情報はこちらでご確認ください。各種特設ページも注目!)





*************

ここからは本書に触発されたエッセイのような何ものか。バッティと彼の本についてのみ興味のある方は読まなくても大丈夫です(何がか)。

これは私自身の反省ともなるのだが。日本のクラシック音楽受容においては、録音を中心にせざるを得なかったこともあったのだろう。年配の、すでに高名な音楽家たちをスタンダードとして受け入れることがどうしようもなくメインストリームとして存在してきた。それ故に、一般的には中年と評される年齢になっても「若造」「青い」「生煮え」などの雑な評価を平気でしてしまってきた過去がある、ように思う。自戒も込めて少々雑ではあるが決めつけておく。
だがそんなことを言っていたら、私たちに素晴らしい実演を届けてくれる可能性のある音楽家は、育つことができない、絶対に。誰もが認める圧倒的な存在による、特別で決定的な演奏しか認めないような世界で、それでも育ってくるような特別な才能だけを求めるような傲慢は、果たして聴き手に許されるだろうか?

これは自分がある程度の年齢になり、いつの間にか自分より年少の素晴らしい音楽家たちに感心させられる機会が増え始めて以来、折に触れて考え続けていることだ。たしかに、いま現在の彼らは”決定盤”を聴かせてくれないかもしれない、賛否が分かれるアプローチを採用していて評価に困ることもあるかもしれない。だがそこに明らかに輝かしい何かがある、忘れがたい瞬間が演奏の中にあった。そんな特別な瞬間を聴き手が受け取ることができないなら、それはそのまま「聴き手の私は、音楽という特別なコミュニケーションの場をまったく楽しめていません」という、なんとも哀しい告白になってしまうのではないだろうか?

こんなことを考えるとき、いつもクラウディオ・アバドが亡くなってすぐのことを想い出す。イタリア放送(RAI)は彼の晩年の演奏ではなく若き日の演奏を配信してその死を悼んだ。世界から尊敬を集めたマエストロが、いつ頃どのように見出されて我々が知る彼になっていったのか、今こそその生涯にわたるキャリアを思い出そう。RAIにそう教えられたような気がしたものだ。そのとき配信で聴いた若い頃の彼は少々尖すぎるかもしれないテンポ設定で、だが鮮やかに音楽を描き出していた、そこから生涯の最期に至るまで、あなたはどの時代の、どんな演奏をした彼に出会えましたか?そう問われたような気がしたものだ。そして私はようやく聴くことができた、最晩年の彼の演奏を思い出すのだった。

そこでまた、翻って我が国のことも考える。「今日の岩城は本当に熱かった!」「ハルビン時代の朝比奈はガツガツしてたもんだよ(本当か)」「ヤマカズ※は…」ずっとああですかね(笑)、などなど、そのときどきの反応があったはず。しかしその近さゆえ、私たちは彼らの変遷に気づけなかったり、そのときどきの演奏で満足してしまったりする。結果として音楽家のキャリアは最近の演奏に寄せて語られる平板なものになる、それを読むことで私たちの記憶は書き換えられていく…
(※昭和の方ですよもちろん)

そう、音楽家のキャリアに長く付き合うことは、そのときどきに彼や彼女(ら)が奏でた音楽をどのように受け取ったのか、その音楽はどのように誰かに届いたのか。そんな聴き手にとっての主体的な歴史の一ページでもありうる。イタリアの、いやきっとまた別の国の彼ら彼女らは、そんなふうに音楽家たちとつきあっていけることを知っているのだろう。それを伝統と呼ぶのであれば、その伝統に心からの尊敬と羨望を感じる。

本当に幸いなことに、アンドレア・バッティストーニはまだまだ若い。そんな彼がこれからのキャリアの中で、その時々にどんな音楽を聴かせてくれるのか、それは私たちにどのように響くのか。その体験それぞれは、私たち自身の生涯の一ページとして大切なものとなっていくだろう。…そんなふうに考えるくらいには、おじさんになりました、私。おじいちゃんにはまだ遠いですけど(笑)。
ん?まだ僕みたいな若手の演奏には抵抗がありますか?それではクラシック音楽が「おじいちゃんの音楽」になっちゃいますよ?私には、バッティがそう言って笑っているように思えてしまう。きっとそれは気のせいではない、と断言してこの項を終わる。

2018年9月14日金曜日

ウルトラセブンとシューマンの、特に奇妙ではない出会い~青山通「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」

今年は「ウルトラセブン放送から50年」ということで再放送やイヴェントなどが行われている。いいおじさんの年令になった私もさすがに本放送世代ではないのだけれど、昭和50年代のウルトラマンシリーズブーム(再放送や”事典”で猛烈に流行っていた時期があるのです)の直撃は受けているので放送されているとつい見てしまう。フィルムの質感、構図の妙(実相寺昭雄!)、ミニチュアの出来の良さ(サンダーバードに刺激を受けた、というのも納得の発進シークエンス!)、シナリオの含意(金城哲夫!)などなど、長年語られている作品だけに感心させられることは実に多い。いやもちろん子供向け作品である以上強引な面もあるのだけれど、30分枠でここまで実のある展開が描けるものか、と思わされることは多いのだ、それは有名ないくつかの回だけに限らない(あえてエピソードは挙げない、それらについての言及は大変だし、なにより私の手には余る)。もしかすると、そういう要素には幼少時にも直感的に気づけていたのかもしれない、だからセブンが好きだったのではないか、と思わされるのは、そこに流れる音楽の魅力には当時気づいていなかったと確信を持って言えるからだ。
ホルンを吹く人なら一度は演奏を試みるだろう有名なテーマ音楽や、超有名最終回のアレだけではないんですよ、音楽が刺激的なのは。おそらくは同時期の黛敏郎も試みていただろう電子音楽的なものや、モティーフこそテーマ曲だけれどロマン派そのものの展開などなど、大人になってクラシック音楽をよく聴いてきたからこそ気がつくものがある。なるほど、冬木透先生の熱心なファンが多くいらっしゃるわけであるし、コンサートも開催されるわけである。


※これが9年前のコンサート。うん、やりますよね、こんな音楽があるのだから。

そう気がついて最近再放送されている「帰ってきたウルトラマン」(テーマ曲はすぎやまこういちだが、サントラは冬木透のもの)、「ウルトラマンレオ」(これもサントラは冬木透だがテーマ曲は川口真。こちらについては作詞が阿久悠であることがよく知られているか)を見ればますますその思いは強まる。セブンからは少々劣る画面(キグルミの質の低下は幼少期から残念に思ってきたが、おとなになるとそれはもう、残酷なほどのギャップだと感じる)に乗り切れずにいるときに、ワーグナーやマーラーそのままの展開が聴こえてきたりするのはなかなか味わい深い感覚である。「冬木には教育的意図もあってこのようなサントラにしたのだ」という話を後に見かけて、そういえば「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会った当代一のヴィルトゥオーゾになりうるピアニストがいたな、とか思い出したり(変だな、私も初めてオペラアリアを聴いたのは「トムとジェリー」だったはずなのに、この差はなんだろう←言うな)。



実はここまでが前振り。相変わらず長くて嫌になりますね(笑)。本題は最近読んだ本の話。出たのはそうとう前で、確認したらもう絶版なんですけど…



「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」というタイトルは、端的に「私が読むべき本である」と示してくれているのだけれど、怠惰にも(いつか読むだろう)と思ってしまっていたのだ。よくない。反省。
本書は、先ほども少し触れた「超有名最終回のアレ」ことシューマンのピアノ協奏曲からクラシック音楽の世界へと足を踏み込んでいった青山通氏による、「音楽からみる映像作品ウルトラセブン論」であり、「ディヌ・リパッティ(共演はカラヤン)の演奏に至る探求の物語」であり、そこを入口に「より広くクラシック音楽に出会うためのガイド」であった。


※パブリック・ドメインになっている演奏を貼る行為は実に気楽で良い。だがそのあたりの権利の確認や配慮は常にされるべきであるのだ、と自戒しておこう。

今でこそ、私が「超有名」と書いてしまうように”あの演奏”がリパッティ盤であることは広く知られている。だがそのような認識は近年のものでしかなく、放送当時7歳の著者が自力でその回答にたどり着くなど私は想像もしていなかった(もっとも私の場合録画機が手に入ったのは相当に後年だから繰り返して放送を視聴するような経験自体が今でもあまり定着していないし、何より著者は東京の方であるという圧倒的優位はあるのだが)。その点だけでも大いに感心したし、冬木透へのインタヴューは読めただけでもありがたいと思えた(サウンドトラックの機能の仕方、映画を見るようになってからいろいろと考えるところがあるもので)。そのへんの話はまたおいおいと、機会を見て…

本書から私が得るべき教訓があるとすれば、「クラシック音楽への入口など到るところにあるし、先へと踏み込むかどうかなんてその人の興味の赴き方や縁によるものだ」という心構えのようなものだろう、きっと。正解なんてあるわけがないのだから、つまるところ芸術もまたコミュニケーションの在り方のひとつである以上。9月8日が「ウルトラセブン」最終回放送から50年の区切りに当たっていたことは本書の読了後に知った。本書との(今ごろの)出会いもまた、そういう縁なによってもたらされたのだ、などと戯言を最後につぶやいておこう。

なお。私にとってのクラシック音楽への入口は、ローカルNHK FMのポピュラー音楽を流していた(というか、歌謡曲とフォーク、せいぜいがシンガー・ソングライター(言わないねもう)のお歌をリクエストでかけていた)番組内で放送されたラヴェルのボレロなのだけれど、残念ながら録音などしていなかったからその演奏を繰り返し聴くことができたわけでもなければ、それがどの演奏かを突き止める執念もないため、あれが誰の指揮でどこのオーケストラの演奏だったのかまったく不明なままであり、それを気にせず今に至っている。
きっと演奏時間短めの演奏だったろうから、チェリビダッケでなかったことだけは確実なのだが(おいおい)まったくもって判然としないまま、普通にあれやこれやの演奏を楽しんでいる私なのであった。…本書を読むことで、どうしようもなく自分の残念さを再認識させられた次第でもあった。どんとはらい(ええ…)。


2018年9月10日月曜日

「犬の力」と言ってもペットの本じゃないし、「カルテル」と言っても経済小説じゃない

ドン・ウィンズロウは「キッズ・ストリート」に始まるシリーズの作者として認識していたものだから、映画「野蛮なやつら/SAVAGES」を見たときにはかなりの驚きがあった。オリヴァー・ストーンが”これ”の監督をしているのか、という要因も大きかったが、やはり語られる物語の暴力性に驚かされたのだ。チャラい若者たちが大麻栽培のヴェンチャーで成功してしまったばかりにメキシコの麻薬組織と敵対するはめになる…そんなストーリーは、ニール・ケアリーのシリーズからは本当に遠いところにあり、その距離が計りかねたのだ。


だが、このシリーズを読んでしまったあとでは「野蛮なやつら/SAVAGES」もまた彼の描く世界なのだ、とよくわかる。



「ブレイキング・バッド」を見てしまったのが、本書を読むきっかけの一つだったろうと思う。また、「BS世界のドキュメンタリー」でナルココリードの話を知ったこともそうだろう、またヨアン・グリロ「メキシコ麻薬戦争」を読んだためもある、と思う。それらを知るまでの自分の中の「麻薬戦争」はコロンビアなどの中南米がメインで、米墨国境のことなど何も知らない…とまでは言わないけれどリアリティの薄いものでしかなかった。もっとも、思い返せば「メキシコ国境の街で女子大生が警察署長に就任」なんてニュースには触れていた、はずなのだが。かくも対岸の火事とは像を結ばないものだ(一般化)。

と、前置きしてさて本書をどう紹介したものかと考える。公式サイト見るか、と思ったが驚きの文字数だったので引用では済ませられない(ここいらないよね)。では…
「犬の力」はDEAの捜査官アート・ケラーと麻薬カルテルの後継者となるアダン・バレーラ、この二人を軸に語られる30年にも及ぶ血みどろの抗争の群像劇、「ザ・カルテル」はその直接の続編でその後の彼らの因縁を終着点まで描ききる。なのでもし気になった方は必ず「犬の力」から読み進めてくださいね。その場合、流れる血の量も大変なことになりますけど、それが現実を映してしまっているのだから仕方がない…

メキシコ国境を問題視していたコンテンツに触れたのは先程挙げたものが最初ではないように思う。きっとプロレスのWWEだったと思う。不法移民狩りキャラにいつのまにか変わっていたあの人の名前、なんだっけ…(検索くらいしましょう)そして上記コンテンツに触れたのと、トランプが表舞台に出てきたのはそんなに変わらない時期だと思う。何がそこまで問題視されているのかわからなかった、だからいろいろと読んでみた、フィクションに触れてみた。そんな流れ。
そして認識せざるを得ない、たしかに麻薬戦争の頃のメキシコは恐ろしい。私のような真面目な()人間が生きていける気がしない。「もう今のメキシコはそうではない」と書けたらいいのだけれど、そういう明るい話も聞かない…生活を支える産業になっているが故に消されないカルテル、そしてカルテルにはなによりニーズがある。クスリを買う人たちがいて、それが多大な利益を産むからカルテルのビジネスは止まらない。
そんな社会で、果たして主人公が行うようなカルテルへの捜査、攻撃にどれほどの意味があるものか、つい考えてしまう。いや、抵抗しないことで悪に加担してはいけないのだが。また、「ザ・カルテル」で示される、アート・ケラーとカルテル(特に武装集団のセータ隊)が体現する「力での対立」とは別の道としての「女の平和」の可能性についても考え込んでしまう(これはもちろんアリストパネスのそれを参照したものだ、作中での扱いも)。作者は、本作をフィクションとして描きながら膨大な取材や現実の事件をそのまま想起させるように取り込んでいる。私が先程挙げた「女子大生が警察署長に」という出来事もそうだし、カルテルに取り込まれなかった女性市長が殺害された事件もだ。現実の市長は誘拐されて亡くなり、警察署長は逃亡したのだが、…むき出しの暴力が振るわれる世界の中で「女の平和」の可能性がどう展開されるものか、というあたりはぜひ本書で読んでいただきたい。ここでそれについて書かないのは、暴力に同じく暴力で立ち向かう男たちによる苛烈な展開と、暴力以外の可能性を命がけで探る女性たちの戦いとのコントラストは本書をより魅力的にしているものだと考えるから、私がリライトしてしまうべきではないと思うがゆえである。あと一点、個人的に最も震えたのが「ザ・カルテル」最終章の直前、タイトルが実現した瞬間だったことは書いておきたい。そこで物語が集約されて、あとはフィナーレまで駆け抜けるのみであった。拍手。

で、なのですが。本作はけっこう前に小説二作をひとまとまりの「ザ・カルテル」として映画化する、と報じられました。その後の情報がないまま現在に至った感があるのですが、これどうなってるのでしょうか。カルテルのご乱行の数々に殺伐とした振舞い、荒んでいく人心などなどがこれでもかと描かれてしまう映画になるでしょうから、楽しみにしているとはちょっと言いにくいのですけれど、見たいんですよね。リドリー・スコット監督だとかディカプリオ主演だとか、断片的な情報しか日本語だと探せない。作者のサイトに行っても特段のリリースがない。Youtubeをさがしてもまだトレイラー的なものも見当たらない。もしかすると、次の情報はそれなりにできあがった、本物の予告編の形を取っているのかもしれない、そこからは一気に映画も公開されるのかもしれない。まあぼんやりと待ちますから、いいんですけど。

メキシコのあの人とかあの地域とか(明示は差し控えたい)、見る目が変わっちゃって申し訳なく思うほどに壮絶な”現実を映すフィクション”、と私は受け取りました。その結果、あの人その人のキャリアについてとか、リゾート地がどうこうとか、超高級とか上流なんて言われるたぐいの階層そのものが怖くなったので、私はやはりカジノ解禁は良くなかったと考える次第ですよ。バックドアを作っちゃ駄目なんです、社会って。メキシコのそれは大量の金銭と暴力による事実上の是認だけど、本邦のそれは法としてバックドアを作ってしまったことになる。手法はどうあれ、バックドアを有効に使えるのは、後ろ暗いお金を山ほど持ってる人たちになるわけで。
…まあいいです、この話はこれでおしまい。ではまた。

片山杜秀の作り方 ~片山杜秀「クラシックの核心」



片山杜秀といえば近現代クラシック音楽に通暁してしかも日本の近現代にも一家言ある存在として、もはや「当代一の博学の一人」と思ってしまうのだが、考えてみればいわゆるクラシック音楽のメインストリームとされる演奏家や作曲家について詳しく論じているところは見かけない。せいぜいが新聞に載っている演奏会評でたまに「へえこの人がこの演奏会担当なんだ」と思うことがあるくらい。だからそのような「普段は彼が語らない領域」について語っているという点で、本書は貴重な一冊と言えるだろう。以下の目次を見てもらえれば、私の言いたいことも伝わるかと思う(リンク先より引用)

1. バッハ 精緻な平等という夢の担い手
2. モーツァルト 寄る辺なき不安からの疾走
3. ショパン メロドラマと゛遠距離思慕゛
4. ワーグナー フォルクからの世界統合
5. マーラー 童謡・音響・カオス
6. フルトヴェングラー ディオニュソスの加速と減速
7. カラヤン サウンドの覇権主義
8. カルロス・クライバー 生動する無
9. グレン・グールド 線の変容
(引用終わり)

伊福部昭の人であり、戦前戦中の日本についての学者である片山杜秀が語るバッハとは、ショパンとは、カラヤンとは。彼について少しでも知識があればそのミスマッチ感故に内容が気になるところではないかと思う。どこから、何から語り始めるのか?対象の歴史的位置づけから、もしくは人物像の描写から?「別冊文藝」に連載された本書は意外なところから話を起こす。なんと本書は、片山杜秀その人の育ちやら音楽との出会いなど、個人史をとっかかりにした、語り物なのだ。

最近、いわゆる「自分語り」と言われるものへの嫌悪をときおり見かけるのだが、古の告白体小説に近いこの手法はむしろ話者が自分のバイアスを予め示すことで持論の限界を暗に示すという、捨て身に近い。「ああお前はそういう奴だな」と切り捨てたければそれでかまわない、と宣言しているようなものなのだから。(むしろデータの照合みたいに演奏を評価してしまう発想について思うところがあるのだが、それは流石に本書と関係ないので割愛)自分語りは話のイントロとして汎用性が高く、ケーススタディとして割り切れればわざわざ忌避するほどのものでもない。だがその語り手があの片山杜秀であれば話は別だ。そう思いませんか皆さん。あの博学がどんな時代にどう育って、あの片山杜秀になるのか、気になりませんか。私は気になったから読んだわけです。

昭和38年生まれの彼が語るクラシックとの出会いは、読んでいただくのがいいと思うのだけれど、実に普通に昭和の子どもたちがテレビやラジオで音楽に出会ってしまうパターンなのだ。テレビドラマで使われていたあれやそれやで音楽に出会う、なんて話はある意味普遍的ですらあって、近年ならピアニストのラン・ランが「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会ったケースあたりも思い浮かぶ。(ちなみに私がオペラアリアを初めて聴いたのも「トムとジェリー」だと思う←自分語り)

だがそこからの展開力と言うか掘り下げる力というか、そういったものが異様に強いのだ、彼の場合。その展開力に最も感心したのが8. カルロス・クライバーの章だ。誰だって「カルロスには父エーリヒの影響が強く」くらいのことは言うものだ、だがそれがどのような影響であり、それによってカルロスはどのように育ったのか、その育ちは彼の演奏にどのように現れたのか。これらをカルロスの楽曲へのアプローチやリハーサルでの振舞いなどに絡めて読み解くあたりは実にスリリングで読み応えがある。
ここから私が得るべき教訓は。「入口としての自分語りは問題じゃない、むしろそこからどこまで掘れるのか広げられるのか、その過程で本旨を失わずにいられるのか」、であろう。それこそが留意されるべきだし、そうでなければ語る意味がないな、などとつい我が身を省みてしまったことでありました(自分語り←しつこい)。”ある対象についての語り”を集めた本書は、なにより読みやすい、しかも対象がクラシック音楽の主流(だったもの、かもしれない)なので、片山杜秀入門として読まれてもいいかもしれない。私は”少しお兄さんの世代が如何にクラシック音楽に出会ったのか”という物語としても楽しく読みました。

以上、ではまた。

2018年9月8日土曜日

セイジ・オザワ松本フェスティバル、2019年のプログラムを発表

9月7日に全日程を終了したセイジ・オザワ松本フェスティバルが、来年夏の開催予定を発表した。以下Facebook参照。



詳しくはリンク先を確認してほしいが、以下がポイントとなるだろう。

・2015年以来にSKOによるオペラを上演、作品はチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。指揮にはファビオ・ルイージを迎える。
・今年は出演できなかった小澤征爾は、オーケストラコンサートに登場の予定。共演に内田光子を迎える。

他の公演についてなど、詳細はまた後日の発表となる。なおフェスティバルの公式サイト上では、記事作成時点でまだリリースを掲示していない。


2018年9月7日金曜日

巧みなりヴィオッティ~東京フィルハーモニー交響楽団 第910回サントリー定期シリーズ

こんにちは。千葉です。

かなり更新していなかった間、コンサートにもほとんど伺っていませんでした。で、こちらが本当に久しぶりにライヴに伺ったレヴューになります(厭なチェーン店的言い回し)。公演からしばし時間が空いてしまったことはブランクということでご容赦願えましたら幸いです。

**************

カラヤン広場に立って思う、サントリーホールはいつ以来?おそらく改装後は来てないと思うんですよね、私。酷暑のなか訪れたコンサートはこちら。

◆東京フィルハーモニー交響楽団 第910回サントリー定期シリーズ

2018年7月19日(木)

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
ピアノ:小山実稚恵 ※

ラヴェル:
  道化師の朝の歌
  ピアノ協奏曲 ト長調 ※
ドビュッシー:
  牧神の午後ヘの前奏曲
  交響詩『海』(管弦楽のための交響的素描)

自分のクラシック聴きとしての原点でもある近代フランス音楽プログラム、久しぶりに実演に触れるには最適の機会かと考えました次第。
で、最初に感想を書いてしまうならば満足できる素晴らしい演奏に存分に刺激されて、少しの間耳栓なしで帰路につける幸せに浸らせていただけました。脳内でそこここの印象的な部分や音楽の流れそのもの、彼の指揮を反芻して楽しめる幸せ、これがコンサートの美味しいいただき方ですよ、とブランクの人のくせに申し上げておきたい。ぼっち参戦だったから誰とも話せなかった、ってのはもちろんありますけど(笑)。

****************

さてプログラムは前半がラヴェル、後半がドビュッシーという時代的には少々逆順気味にはなるけれど、ともに20世紀初頭のフランス音楽を代表する二人の作品による、ある意味「名曲プログラム」。では若き指揮者はそこで何を聴かせてくれるのか、存分に楽しませていただくのみである。かつて東響と演奏した「ラ・ヴァルス」は劇的な演奏だったが、今回は。


※ちなみにこちらは東響との共演以前から本人のチャンネルにある「ラ・ヴァルス」の演奏動画。名刺代わりに置いてあるところを見ると得意曲なんですね。

東京フィルは若い指揮者だからと軽んじたりしない、それはバッティストーニとのコンビネーションですでに周知の通り。だからこの日も若者の意図を汲み、高い集中力で名曲を新鮮な響きで聴かせてくれたそう、新鮮だった。「若者を評して新鮮とか終わってんなこの人」とか言わないように(笑)。演奏している音楽がどんな姿を現すべきか明確なヴィジョンを持つマエストロの指揮から、それに応えるオーケストラから随所で驚かされる楽しい裏切りの連続、充実の名曲コンサートであった。

さて具体的に見てみよう。まずは一曲目の「道化師の朝の歌」は、ヴィオッティがピアニストとして演奏しているかのような自在な表現が特徴的。速めのテンポにオフビートのアクセントを強調したピチカートのアンサンブルで始まった音楽は合わせ優先のおとなしい音楽とは程遠い、ドラマを描くことを目的としていることを一音目で明確に示すもの。そこからの道行きを一本調子にせず、自然に起伏をつけて酔漢の朝帰りを描き出す技は若者らしからぬもの(ジジくさい言い方)。ちょっとしたスケッチのような作品からドラマを導き出せるのはオペラでも順調にキャリアを積むマエストロの腕、だろうか。
先日放送されたカメラータ・ザルツブルクとの演奏(セルゲイ・ハチャトゥリアンとのベートーヴェン)でも繰り返しをただの繰り返しにしない豊富なアイディアと妥当な処理の両立に感心したものだけれど、それは作品が新しい時代のものになっても変わることはない。とても「機能が高い」のだ、このマエストロ。

二曲目は長い舞台転換を挟んで演奏されたピアノ協奏曲 ト長調。トリッキィでキッチュなこの作品のソリストには小山実稚絵が招かれた。1930年の、彼のキャリアの中で最もジャズに接近したラヴェルを”ロマンティックな協奏曲”として演奏するソリストに合わせたか、ジャズコンボ(ポール・ホワイトマンのバンドのようなそれ)でもいけるだろう、この曲にしては大きめのストリングス(とあえて言いたい)でシンフォニックな表現に寄せた演奏と言えるだろう。だがこのミスマッチもまたこの作品の持つまた別の可能性を示すもの、そしてそれを破綻させずに描出した演奏、という評価になるだろうか。第二楽章で大きめの編成のストリングスがピアノに寄り添い、小山の真摯な歌がソリストとオーケストラが響き合った瞬間がこの共演の白眉だった。
アンコールに小山がドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を持ってきたのは、これが彼女の得意曲であること以上に、この日のプログラムの前後半に架橋する意図があったのだろう。彼女の繊細でよく歌うピアノが、仕掛けに満ち満ちたラヴェルから繊細で穏やかなドビュッシーを予告して、コンサートの前半が終わる。

※個人的には若い指揮者は”ラヴェルの協奏曲のトリッキィでキッチュな”性格を前面に出すのでは?と予想していたので少々肩透かしの感もなくはなかった。この予想がそう大きく外れてもいなかったな、と感じたのは帰宅してこの演奏を探し当てたときのこと。ヴィオッティ、若いのに共演者に応じた表現のカードを手元に何枚も隠し持ってるってことですよ、これ。



さて後半はドビュッシーの名作二曲。まずは静かに、しかし大きく時代を画した名曲「牧神の午後への前奏曲」なのだが、ステージに団員が揃ってまず驚かされる。この室内楽的な作品に、次の作品で要求されるフルサイズの16型の弦五部が揃っていたのだから。この編成ならばワーグナーもかくやと言わんばかりの豊満で雄弁な音になるのか?といえばさにあらず。冒頭のフルートソロを邪魔しないよう細心の注意を払ってヴィブラートを控えめに奏で出す低弦のひそやかさたるや。全曲を通じて緩むことのない演奏は、角のない響きなのに起伏を持ち、雄弁でいて押し付けがましくない。聴き慣れたこの作品から思いがけない美しさが現れる瞬間がいくつもあり、何度も何度も聴いたこの曲が新鮮な姿を現してくる。…これが20代の指揮者がやることなのか?と問わざるを得まい、これだけの表現をされてしまっては。明確な意図を持って描き出される細部の一つひとつに目を耳を刺激され、遅いテンポでも緩まない、煽り立てても下品にならない。作品の細部まで配慮したアプローチで名曲の真価を見事に現してくる。脱帽である。(白旗をあげるおじさんの感想)。

そして最後の「海」、これがまた。ドビュッシーの大規模な作品としては最後の方のものであるこの作品で、この日の最大編成となり、ここでヴィオッティは東京フィルの力を解き放つのだ。と言ってもここで示されるのはもちろんワーグナー流のトゥッティによる力ではない、ドビュッシーならではの細かいモティーフの積み重ねや楽器同士の精妙なアンサンブル、音楽の方向を見据えて溜めこまれた力の狙いすました開放なのだ。その頂点に、曲目解説で永井玉藻氏が言及していた”問題の”第三楽章のファンファーレを持ってくるあたり、彼の読みと仕掛けはなかなか腹の座ったものなのだ。作品の改訂をめぐって演奏者によって評価が分かれるこの場面、ファンファーレなしなら”無言のにらみ合いの緊張感”とあるところ、彼はトランペットとホルンに輝かしく力強く演奏させることでこの局面を一つのドラマの場面に作り変えてしまったのだ。それに続く大団円はまさに暗雲が晴れていくかのような眩しさで私を圧倒した。脱帽である。

ヴィオッティに導かれた東京フィルの好演は見事なもので、ラヴェルの異国風味やユーモアをことさらに強調する前半、控えめで繊細にドビュッシー特有の隠し味として活躍した後半どちらも過不足のないものだった。ヴィオッティが立たせたフルートをはじめとする木管各位、トランペットにホルンなどは素晴らしかったが、隠れたMVPを挙げるならばそれは打楽器群だろう。耳をそばだててようやくそれとわかるアンティークシンバルなどのほんの僅かな味付けから、フォルテッシモで鳴り響くティンパニ、バスドラムまで見事な活躍揃いだったが、私としてはグロッケンシュピールの妙技に大いに感心した。チェレスタで演奏されることも多い波の飛沫を表すようなパッセージを見事に楽しませてくれて、特に第二楽章を鮮烈なものにしてくれた。

残念ながら評判の良かった「トスカ」は聴くことができなかった私だけれど、この東京フィルとの演奏を聞けばさもあろうと納得できた一夜となった。前回彼を聴いた演奏会とはかなり異なる印象を受けたのだけれど、それはオーケストラの違いなのか作品由来なのか、それとも彼がこの数年でどんどんと成長しているのか。ぜひともその変化を見届けていきたいと思える指揮者に、この夜ロレンツォ・ヴィオッティはなった。…今頃か、と言われてしまうと返す言葉もないのだが。

幸いなことに彼は今後も来日公演が予定されている、作品が違えば、オーケストラが違えば、会場が違えば…その時どきにまた興味深い音楽を聴かせてくれるだろうロレンツォ・ヴィオッティ、ぜひ機会を見つけてその音楽に触れてほしいと感じた一夜だった。


2018年9月6日木曜日

東京交響楽団の新シーズンを見てみよう(その二:おなじみの面々、そして~編)

大変な災害が続いております。各地の皆さまのご無事をお祈り申し上げます。

**************

(承前)

2018年9月4日、東京交響楽団の2019-2020シーズンのプログラムについて話を続けよう。前回は音楽監督を務めるジョナサン・ノットが指揮する演奏会について紹介したが、今回はオーケストラのポストを担うある意味おなじみの面々、そしてポストには就いていないけれど客演を繰り返して聴衆にもおなじみの日本人指揮者たちの演奏会を取り上げる。

**************

このくくりで紹介すると唯一の非日本人となってしまう桂冠指揮者ユベール・スダーンの6月の演奏会をまずは紹介しよう(定期演奏会6/15、名曲全集6/16)。
現在の好調の礎を築いたスダーンは、近年の来演では一線を画した選曲で存在感を示している。来るシーズンにはノット監督以外にも時代を超えた選曲による興味深いプログラムが多数見受けられるのだが、今回スダーンが選んだのはシューマンとチャイコフスキー、ロマン派の作曲家たちなのだ。シューマンはかつて交響曲チクルスもあった、そして二人の作曲家が取り上げたバイロンのドラマにより形どられるプログラムの構成は巧みなものだし、マンフレッドの人物造形におけるゲーテの「ファウスト」との相互影響を思えば、彼のプログラムを追うことでその確たる一貫性は確認できる。
だがそれ以上に、その独自路線には、まるで”彼の時代が今も続いていたら…”というifを感じさせるものがある。モーツァルトの演奏で調性感を明示できるオーケストラになり、近代の作品までを十分にこなせるようになった彼の時代を思い出そう、それを進めた先にはロマン派に強い東響が、21世紀のモダン楽器オーケストラのあるべき姿として見えていたのかもしれない。そんな夢想をしてしまうのは、私の中にまだ彼の時代の音が残っているから、なのだろう。70代のスダーンが示す、20世紀から地続きの”現在のオーケストラ”像に期待してしまうのだ。

70代、と年齢でくくるつもりはないのだけれど、次はスダーンの前任者であり同じく桂冠指揮者である秋山和慶(現在77歳)のコンサートを紹介する。齢を重ねてなお健在の秋山は新シーズン開幕公演となる2019年4月定期(4/21)、そして「名曲全集」の第九公演(12/14)、そして恒例のニューイヤーコンサート(2020/1/5)と、節目節目の公演に登場する。中でも注目されるのは、新シーズンの開幕を飾るコンサートだろう。なによりそのプログラムの若々しさときたら!メシアン(1908-1992)、ジョリヴェ(1905-1974)、ルシュール(1899-1979)、イベール(1890-1962)と、20世紀のフランス音楽を集めたこのプログラムが今年喜寿を迎えた指揮者のものだと誰が思うだろう?またメシアンは初期の作品、残る三曲にオリエンタリズムの最後の輝きとも言えそうな作品を選ぶあたり、さすがとしか言いようがない。イベールの出世作にしてステレオ録音時代に特に人気を博した「寄港地」で終わるプログラムは、指揮者の企みとエンタテインメント性が両立するコンサートとなることだろう。脱帽である。

ガブリイル・ポポーフの交響曲第一番、ウド・ツィンマーマンの「白いバラ」と秘曲を日本初演してきた正指揮者の飯森範親は、新シーズンも我々に知られざる名曲を紹介してくれる。2020年1月の定期ではラッヘンマン、リーム、アイネムの作品とR.シュトラウスの「家庭交響曲」という、超重量級としか言いようのないプログラムで我々に再び挑む。
もっともそうした”挑戦”とは別に、「名曲全集」では東響コーラスとロシア名曲プログラム(5/12)、チェロの新倉瞳を迎えてのファジル・サイによる新曲&ラヴェル管弦楽名曲集(東京オペラシティシリーズ 2020/3/21)といった親しみやすいプログラムでも登場するので、身構えることなく充実した演奏を楽しませてくれることだろう。

新シーズンには、これまでも東響との共演を重ねてきた日本人指揮者たちも登場する。その演奏会を登場順に見ていこう。

まずは「名曲全集」に登場する沼尻竜典だ(11/10)。曲目はピアノ・デュオで世界的に活躍するユッセン兄弟を迎えてのモーツァルト、そしてショスタコーヴィチの交響曲第一一番だ。ショスタコーヴィチのこの作品が「名曲全集」に乗る時代が来たのかという個人的な感慨もあるのだが、そんなプログラムでも合わせ物にも大編成管弦楽の扱いにも長けた沼尻なら、という安心感が強い。ユッセン兄弟の息の合った演奏も注目しよう。


首席客演指揮者の大友直人は、「名曲全集」の大トリとして登場する(2020/3/8)。フランス音楽の名曲を集めたプログラムを、若きピアニストの紹介とホール専属のオルガニストと東響との共演の場とする、目配りはさすがヴェテランの仕事である。

**************

日本人マエストロたちと東響の共演は、サントリーホールでの「こども定期演奏会」でも楽しめる。角田鋼亮(4/14)、沼尻竜典(7/7)、下野竜也(9/8)、飯森範親(12/15)と東響、素敵なソリストたち、そして司会の坪井直樹(テレビ朝日アナウンサー)がチームとなって新シーズンも子どもたちにクラシック音楽の魅力を伝えてくれることだろう。
また、子どもたちへのアウトリーチプログラムとしてはこれも恒例の「0歳からのオーケストラ」がGW目前の4月27日に開催される。ズーラシアンブラスと東響による恒例のコンサートは、今年に続いて水戸博之が指揮する。ご家族揃って楽しめるコンサートとしておなじみだが、2019年は会場がカルッツかわさきに移るのでそこは注意しておこう。※

※「名曲全集」のはじめ二回の公演もカルッツかわさきで開催される。

さて、何人かの日本人客演指揮者の話題は次回最終回に持越しとして、ひとまずはここで終わらせていただこう。残る公演も共演者や曲目に趣向が凝らされたものばかり、ということのみ予告しておく。

2018年9月5日水曜日

東京交響楽団の新シーズンを見てみよう(その一:ジョナサン・ノット編)

2018年9月4日、東京交響楽団の2019-2020シーズンのプログラムが発表された。ミューザ川崎シンフォニーホールを本拠とし、ユベール・スダーンとの数々の演奏で声望を高め、現音楽監督ジョナサン・ノットとの欧州ツアーやレコーディングなどで音楽ファンの信頼を揺るぎないものにしつつあるオーケストラは、新シーズンに何を聴かせてくれるだろう、何を体験させてくれるだろう?その全貌を紐解くには否応なく文量が多くなるため、複数回に分けてそのプログラム、共演者を紹介してみたい。

なお、東京交響楽団の年間プログラムとしてリリースされたのは、サントリーホールでの定期演奏会(年10公演)、ミューザ川崎シンフォニーホールでの川崎定期演奏会(年5公演)、東京オペラシティコンサートホールでの東京オペラシティシリーズ(年5回)の主催公演シリーズ、そしてミューザ川崎シンフォニーホールでの「名曲全集」(年10公演、うち最初の二回のみカルッツかわさきで開催)、サントリーホールでの「こども定期演奏会」(年4回)の共催によるシリーズ、そして恒例となったズーラシアンブラスとの共演による「0歳からのオーケストラ」、年末の第九公演、そしてニューイヤーコンサートと盛り沢山なのだが、ここでは適宜指揮者や共演者に触れる中でコンサートを紹介する形を取る。何も加工されていない情報で十分である向きには、下記のリンク先で全プログラムをご覧になることをお勧めする。

>年間パンフレット(pdfファイルが開きます)



※これまで多くの困難を乗り越えてきた東京交響楽団の現在に至る歴史は、こちらのPVがコンパクトに紹介してくれている。東京交響楽団の歴史は、そのまま戦後日本の一つの側面を描き出す、興味深いものだ。

**************

新シーズンを見ていくのならば、まずはそのノット監督との演奏会から話を始めるべきだろう。東響の数多くのプロジェクトの中でも彼らのコンビネーションが6シーズン目を迎えてどこまで深化するのか、どこに向かおうとしているのか、それこそがまずは注目を集めるものとなるだろうから。そして今ではなんの曲を演奏しても話題を呼ぶノット&東響なのだから、ここでは奇を衒うことなく演奏会の時系列で順を追って紹介するのがいいだろう。

シーズン最初にノット監督が登場するのは5月の2つの公演だ。まずはサントリーホールでの定期演奏会、そして東京オペラシティシリーズの二公演、それぞれ異なる二つのプログラムが用意されている。

最初のコンサートは東京オペラシティシリーズ(5/18)、ヤン・ロビンの「クォーク」、そしてベートーヴェンの交響曲第七番他によるプログラムだ。残る一曲がどうなるとしても、多くの打楽器を含む大編成管弦楽と凝縮されたベートーヴェンとのコントラストは鮮烈なものになるだろう。
ソリストのエリック・マリア・クテュリエはアンサンブル・アンテルコンタンポランでも活躍するチェロ奏者だ。そんな彼ならば、1974年生まれの作曲家の作品も魅力的に演奏してくれることだろう。


その翌週にはサントリーホールでの定期演奏会でブリテンとショスタコーヴィチ、生前交流のあった二人の作品による20世紀音楽プログラムが披露される(5/25)。シーズン5でエルガーを取り上げたことが一つの契機になったのだろうか、マエストロは出身国の音楽により積極的になったようにも感じられる。また、ショスタコーヴィチは東京交響楽団が日本初演した作品も多く、キタエンコらロシアのマエストロたちと名演を繰り広げてきた作曲家だ。その最も知られた作品を、ノット&東響はどう聴かせてくれるだろうか。

続いての登場は7月、サントリーホールとミューザ川崎シンフォニーホールで披露されるプログラムこそはノット&東響の真骨頂と言えるだろう(7/20&21)。J.シュトラウスIIのワルツから「2001年宇宙の旅」でも知られるリゲティの「レクイエム」、タリスのアカペラ合唱曲を経てR.シュトラウスの「死と変容」に至るこのプログラムばかりはいくら言葉を尽くしてもその魅力を説明することはできないだろう。生と死を巡るドラマのようなものを想定することは可能だし、秩序と混沌のコントラストを予想することはできる。だがしかし、「考えるな、感じろ」ではないが、こればかりは「体験してみてほしい」としか言いようがない。
なお、このコンサートでリゲティとタリス、全く異なる性格の作品に取り組む東響コーラスにも注目だ。アマチュアだろうと聴き手だろうと「音楽家」に限界など存在しないのだ、と言っているかのような、チャレンジングなプログラムとなる。

さて、夏を挟んで10月からは三ヶ月連続でノット監督が登場する。
まず10月はアイヴスとシューベルト、そしてメインにブラームスのピアノ協奏曲第一番を置いたプログラム(定期演奏会10/12、「名曲全集」10/13)。方向、時代の異なる「答えのない問いかけ」を受けて後半のブラームスで開放される、そんな体験となるのだろうか?
ここでソリストに招かれるヴァーヴァラはノット監督自身がゲザ・アンダ国際ピアノコンクール(スイスで開催)で見出した才能という。若きブラームスの思い余った感もある協奏曲で彼女はどんなピアノを聴かせてくれるだろう?注目である。



続く11月には”ロマン派の極限”とも”転換期の爛熟”とも言えそうな、ベルクとマーラーによる濃密なプログラムが用意された(定期演奏会11/16、川崎定期演奏会11/17)。新ウィーン楽派の演奏がオーケストラの色彩感を引き出す上で重要と考えるノット監督のベルクは以前に演奏した「ルル」組曲でもお墨付き。そして定期的に取り上げてきたマーラー、シーズン6には第七番を演奏する。「大地の歌」まで網羅した交響曲全集を録音済みのノット監督のマーラー愛がうかがえようというものだ。今回はハンマーを用いる第六番ではなく、楽章ごとに曲想がまったく異なる第七番をベルクと並べるが、その意味は、効果は果たして。そんな選曲意図にも興味は尽きないところだが、このプログラムはオーケストラの演奏効果の高さも見逃せない。
そして同月の東京オペラシティシリーズでは、これとは対照的にリゲティ、R.シュトラウス、モーツァルトによる、室内楽的とも評せる作品が配されている(11/23)。大編成管弦楽の豪奢と室内楽的対話の妙、この対照的なオーケストラの可能性を示す二つのプログラムで、シュトラウスのソリストを務める荒絵里子(オーボエ)のみならず、東京交響楽団の奏者全員が技量の限界までを発揮して我々を魅了してくれることだろう。

そして12月は、このシーズンからノット監督が年末の第九公演に登場だ(12/28、29)。ベートーヴェン演奏となれば全身全霊をかけて作品に打ち込み、オーケストラにも多くを求める彼が第九を演奏する。序曲も協奏曲もなしのベートーヴェンの交響曲第九番、そこにはかえって年末結びの一番といった風格さえ感じられてしまう。入魂の演奏を期待しよう。

**************

さてノット&東響の多くの演奏会を紹介してきたが、個人的に最も注目したいのは、彼らにしては”普通”のコンサートプログラムに見える2019年5月の定期演奏会だ。ブリテンのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲第五番によるプログラムは一見すれば7月定期(サントリー&ミューザ)のような”ノット&東響にしかできないプログラム”ではない、かもしれない。しかしこれまでのノット&東響が取り上げてきたショスタコーヴィチ演奏がもたらした衝撃を考えると、この一度限りの演奏会がどうしても気になるのだ。
ショスタコーヴィチとブリテンの交友についてはご存知のかたも多いだろう、このプログラムにもそうした配慮がめぐらされているのは疑いようもない。大戦の、冷戦の時代に違う体制の世界を生きた作曲家たちを並べたプログラムは、かつての衝撃的な第一五番(リゲティのポエム・サンフォニックで開幕したあの!)のそれよりは穏当に、普通に見える。だがこれまでのショスタコーヴィチ演奏で、旧来語られ続けてきた”ソヴィエトの音楽家の物語”とは別のドラマを作品から導いてくれたノット&東響は、誰もがよく知る第五番でもきっと彼らにしかできないなにかを聴かせてくれるはずだ。そう、私の直観が強く叫んでいる。

もちろんすべての公演が注目されるべきノット&東響なのだけれど、私の言だけではそこまで心動かないならばぜひその演奏を聴いてみていただきたい、と思う。すでにリリースされている何枚かのCDもあるし、幸いなことに9月23日のEテレ「クラシック音楽館」ではノット&東響の4月の演奏会が全国に放送される。渾身の”マーラー&ブルックナーの未完成交響曲”によるプログラムは、私の言葉がいらないほどにその魅力を皆さまに届けてくれるものと確信している。

さて次回は東京交響楽団を支える指揮者たちの演奏会を取り上げる。スダーンや秋山、大友に飯盛といった面々、そして”常連”の日本のマエストロたちのプログラムをみていく予定だ。

>その二へ

2018年9月4日火曜日

クラシック音楽の日と聞いて

大変ご無沙汰しています。千葉です。
諸般の事情により活動休止しておりましたが、更新を再開しようと思います。折しも今日はクラシック音楽の日だそうですし※。外はなにか風さんビュービューで、しかも気圧の関係なのか頭が少し冴えませんけど(それはいつもか)。

※由来は語呂合わせらしいのですけれど、「クラシック」という単語を二つに割るそれは、まあなんと言うか…

休止中の出来事についても書き残したいことがあるので、随時更新・しかし頻度は期待しないでください、という感じで行く予定です。

では以上ご挨拶のみ。ごきげんよう。