2018年11月11日日曜日

そう、おじいちゃんのため”だけ”の音楽じゃあない~「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」

ご無沙汰でした。
さて、アンドレア・バッティストーニの著作、ようやく読みました。音楽之友社から発売されている「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」、原題は「おじいちゃんのための音楽ではなく」(Google翻訳様によれば)。


手を出すには時間がかかったのに、いざ読み始めると読了まではあっという間、賞味一時間ちょっとで最後まで目が通ってしまう。「それはいくらなんでも雑なんじゃあないかい?」という声がどこかから聞こえるような気がするけれど、これは過去にインタヴューをさせてもらった私の特権的な有利があるかもしれない。だってここには、過去に彼に聞いたエピソードや考えが、より整理された形でまとめられているのだから。そうであってみればなんのことはない、これを読みにくく感じたなら私はただの大馬鹿者なのだ(笑)。
なお、このように私が感じた理由については、本書を既読の方には私の過去のインタヴュー(その一 その二 ※なんと二度も!ありがたい話である)も併せて読んでいただくと、それぞれサブテクストとしてよりお楽しみいただけるかもしれない(あ、インタヴューイの無能についての苦情はいらないです、皆様からお伺いするまでもないので…)。

冗談はさておいて、本書は彼自身のこれまでの歩みを振り返りながら、「彼が愛するクラシック音楽が今なお元気で生きている、新鮮なものでありうるのだ」、そんな思いを熱意を込めて、しかしなにより知的に綴ったものだ。
本書によってざっくり”クラシック音楽”と呼称される音楽の歴史や受容における知識がひと通り学べるのだから、立派な入門書としてクラシック音楽の門前で迷う初心者を助けてもくれるだろう。
また、先進的な姿勢を持ちつつ伝統を受け継ぐものとしてオペラの現場で活躍するマエストロの在り方が明確に示されているのも本書の魅力だ。オペラハウスという特別な場所で、オペラという”祝祭”がどのように作られるのか、そこで指揮者は何をしているのか、そもそもオペラとは何を目指すものなのか。彼にとっても我々にとっても幸いなことに、バッティストーニは伝統的なマエストロたちに導かれて伝統的なオペラハウスのやり方を体得し、そして同時に現代の音楽家として彼が愛する音楽をどのように聴衆に届けるのか、届けられるのかと日々試行錯誤を繰り返してくれている。我らがマエストロ小澤征爾が生涯のテーマとして取り組み続けている、カラヤン先生(本書でも少し言及されている)言うところの「オペラとシンフォニー、これが車の両輪だ」という言葉の意味を、クラシック音楽に詳しいと自認しているファンにさえも新鮮でわかりやすく教えてくれるのではないだろうか。

若くしてこんな魅力的な著作をも書いてしまう才能の、精力的な活躍の中心的な舞台のひとつに、日本を代表するオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団が選ばれていること、そして日本コロムビアから多くのレコーディングがリリースされていることは幸いである。これ以上は想像できないほどの真摯さと、才能ある若者らしい確信に満ちた直截なアプローチと、人懐っこいユーモアが同居する若き才能を”われわれのマエストロ”として迎えられているのだ、それを幸せと言わずしてなんと言うべきだろう?おそらくすでに何度か書いた(と思う)そんな感慨を、本書によって新たにした。

幸いなことに、アンドレア・バッティストーニは東京フィルとともに日本各地で「アイーダ」の巡演を行ったばかり、そして間もなく11月定期公演の指揮台に登場する。すでに公演に触れた方も本書には刺激されることだろう、そしてこれから公演に行かれる方も本書に興味を持てるだろう。どちらからバッティストーニに近づいても失望することはない、ということは保証させていただこう。 …当ブログの読者でいらっしゃる紳士淑女各位におかれましては、私のお墨付きにどの程度の意味があるか、などと考えたりされませんように。
>東京フィルハーモニー交響楽団 公式サイト(演奏会情報、チケット情報はこちらでご確認ください。各種特設ページも注目!)





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ここからは本書に触発されたエッセイのような何ものか。バッティと彼の本についてのみ興味のある方は読まなくても大丈夫です(何がか)。

これは私自身の反省ともなるのだが。日本のクラシック音楽受容においては、録音を中心にせざるを得なかったこともあったのだろう。年配の、すでに高名な音楽家たちをスタンダードとして受け入れることがどうしようもなくメインストリームとして存在してきた。それ故に、一般的には中年と評される年齢になっても「若造」「青い」「生煮え」などの雑な評価を平気でしてしまってきた過去がある、ように思う。自戒も込めて少々雑ではあるが決めつけておく。
だがそんなことを言っていたら、私たちに素晴らしい実演を届けてくれる可能性のある音楽家は、育つことができない、絶対に。誰もが認める圧倒的な存在による、特別で決定的な演奏しか認めないような世界で、それでも育ってくるような特別な才能だけを求めるような傲慢は、果たして聴き手に許されるだろうか?

これは自分がある程度の年齢になり、いつの間にか自分より年少の素晴らしい音楽家たちに感心させられる機会が増え始めて以来、折に触れて考え続けていることだ。たしかに、いま現在の彼らは”決定盤”を聴かせてくれないかもしれない、賛否が分かれるアプローチを採用していて評価に困ることもあるかもしれない。だがそこに明らかに輝かしい何かがある、忘れがたい瞬間が演奏の中にあった。そんな特別な瞬間を聴き手が受け取ることができないなら、それはそのまま「聴き手の私は、音楽という特別なコミュニケーションの場をまったく楽しめていません」という、なんとも哀しい告白になってしまうのではないだろうか?

こんなことを考えるとき、いつもクラウディオ・アバドが亡くなってすぐのことを想い出す。イタリア放送(RAI)は彼の晩年の演奏ではなく若き日の演奏を配信してその死を悼んだ。世界から尊敬を集めたマエストロが、いつ頃どのように見出されて我々が知る彼になっていったのか、今こそその生涯にわたるキャリアを思い出そう。RAIにそう教えられたような気がしたものだ。そのとき配信で聴いた若い頃の彼は少々尖すぎるかもしれないテンポ設定で、だが鮮やかに音楽を描き出していた、そこから生涯の最期に至るまで、あなたはどの時代の、どんな演奏をした彼に出会えましたか?そう問われたような気がしたものだ。そして私はようやく聴くことができた、最晩年の彼の演奏を思い出すのだった。

そこでまた、翻って我が国のことも考える。「今日の岩城は本当に熱かった!」「ハルビン時代の朝比奈はガツガツしてたもんだよ(本当か)」「ヤマカズ※は…」ずっとああですかね(笑)、などなど、そのときどきの反応があったはず。しかしその近さゆえ、私たちは彼らの変遷に気づけなかったり、そのときどきの演奏で満足してしまったりする。結果として音楽家のキャリアは最近の演奏に寄せて語られる平板なものになる、それを読むことで私たちの記憶は書き換えられていく…
(※昭和の方ですよもちろん)

そう、音楽家のキャリアに長く付き合うことは、そのときどきに彼や彼女(ら)が奏でた音楽をどのように受け取ったのか、その音楽はどのように誰かに届いたのか。そんな聴き手にとっての主体的な歴史の一ページでもありうる。イタリアの、いやきっとまた別の国の彼ら彼女らは、そんなふうに音楽家たちとつきあっていけることを知っているのだろう。それを伝統と呼ぶのであれば、その伝統に心からの尊敬と羨望を感じる。

本当に幸いなことに、アンドレア・バッティストーニはまだまだ若い。そんな彼がこれからのキャリアの中で、その時々にどんな音楽を聴かせてくれるのか、それは私たちにどのように響くのか。その体験それぞれは、私たち自身の生涯の一ページとして大切なものとなっていくだろう。…そんなふうに考えるくらいには、おじさんになりました、私。おじいちゃんにはまだ遠いですけど(笑)。
ん?まだ僕みたいな若手の演奏には抵抗がありますか?それではクラシック音楽が「おじいちゃんの音楽」になっちゃいますよ?私には、バッティがそう言って笑っているように思えてしまう。きっとそれは気のせいではない、と断言してこの項を終わる。

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