2018年11月14日水曜日

訃報 佐山雅弘(ジャズピアニスト)

ジャズピアニストの佐山雅弘氏が本日14日に亡くなられた、との報を、ミューザ川崎シンフォニーホールのサイトで知った。
佐山氏のサイトを拝見すると9月には公演を行えていて、だが今月上旬には2つキャンセルがあった、けれど今週16日にはアドバイザーを務めるミューザ川崎シンフォニーホールでの公演を予定されていた。今月26日には65歳の誕生日を迎えるところだった。

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ミューザ川崎シンフォニーホールとは開館前から少々のご縁がある。とは言いつつもこの”縁”の始まりはお仕事上のことなので詳しくは書きにくい(正直、もう昔話だからいいんじゃないかなと思う気持ちもある)。開館前に内覧会で一度ミューザの音を経験し、仕事は開館後もしばらく続いた、そして仕事を変えてからは一人の聴き手として演奏会を楽しんだり、ライターとしてあれこれの公演を紹介して今に至っている。ここ最近はホールになかなか伺えていなくてなんとも不甲斐なく、いろいろと口惜しい思いをしているのだが。
そんな私が少しばかり知っているあのホールの昔話を、アドバイザーを開館前から務めてくれた佐山氏への合掌の代わりに書いておこうと思う。

今でこそホールのフランチャイズ・オーケストラとして声望を高め続ける東京交響楽団とともに評価を高め、また世界から来演する音楽家たちの称賛を受けて世界有数の名ホールと評価されているミューザ川崎シンフォニーホールだが、その音が体験される前にはそこまでの期待値はなかったように思う。実際、当時の同僚たちは昔の川崎のイメージを引き合いに出してからかったりもしていたし、”東京”を名に冠するオーケストラが川崎をフランチャイズにすることにも少々の混ぜっ返しがあった。いまでは東響とミューザ川崎シンフォニーホールのコンビネーションはもはや切り離すことができない、と言ってしまえるからこんなポジティヴでもない話にも触れられるのだが。
開館公演にありがちな(失礼)「第九」ではなくマーラーを、それも第二番ではなく第八番を選んだのは当時としてはかなり挑戦的な試みだったし、それは私も含めた音楽ファンに東響とミューザ川崎シンフォニーホールへの関心を掻き立てたものだ。大人数の合唱を要求する第八番の選曲には、「より多くの市民の参加を可能にするため」という公共ホールならではの事情もあっただろうけれど、2002年の時点で自らの「最初の音」としてあの交響曲を選んだホールはそれだけでも尊敬に値した。そしてホールと東京交響楽団は定期に加えて共同企画による「名曲全集」、そしてオペラも含むいくつかの特別演奏会で取り上げる作品を拡大して今に至っている。あの大地震の影響による休館もあったけれど、総じて素晴らしい歩みだ、と私は思う。

だが、である。私が手放しで喜んでいるということは、市民の多くは(なんかよくわかんないけど駅前にホールあるんでしょ)くらいに思っている、という可能性もある、というか高い。いやもっと酷くて(なんですかそれ)かもしれない(悲しい想像はここまで)。
どんな演奏会やイヴェントについてでも、なにかしら書かせてもらうような機会には、私みたいなのではなく「音楽が好きな人」にも届くようにと考えて書くわけだけれど、たとえば「フィガロの結婚」を短い文章で何も知らない人にどう紹介すればいい?けっこう詳しいクラシック音楽ファンでもその含意を察しにくいだろう、ヴァレーズとシュトラウスが並ぶプログラムなんてどうやってその面白さをお伝えしよう?(否定しているわけではない、どころか聴きたくて仕方がない、というのが私のスタンスです)

「実際に、会場に足を運んで体験してもらえれば」とは私のような末端も含めて誰もが思い、ときには口にする(こんなふうにね)。正直なことを言ってしまえば最後はそれしかない、と私は思う。だって会場で体験できることを事前に伝えることはできないし、体験した人もその経験を言葉で完全に再現できるわけがないのだから。それでも何かを書いて誰かに伝えるのは、そこで起きたことがどういう物事だったか、それを会場に消えていった響きの代わりに残しておきたいから。そのような出来事があったという事実だけでも残しておきたいから、そんなささやかな希望からだ。
それはきっと同好の士には届くかもしれない、でもコンサートやオペラを見たことも聴いたこともない、そういう人たちがコンサートホールに近づく契機はそのような行動の中にあるのか、ありうるのか。残念だが、接点を私が作り出すことは、ほぼできないだろう。

だが幸いなことに、大都市である川崎市はこのホールの運営にそれぞれに専門分野の異なる有力なアドヴァイザーを複数招くことができたから、開館以来いくつかの方向の異なる可能性を同時に示し、魅力的な発信を続けられた。招致時点で秋山和慶が率いていた東京交響楽団との歩みは前述の通りだが、たとえばピアニストの小川典子は自身の演奏だけではなく子どもたちとの交流をも用意した。ホール専任のオルガニストを選んだことで自慢の施設を有効に利用した。それらは疑いようもなくホールへの興味を引くことに成功し続けているだろう、しかしそれは予備軍も含めた「クラシック音楽を好きな人」が対象だ。もちろん市民の多数派はそうではない人たちだ(残念ではあるが潔く認めよう)、では市の施設としてより広い層に存在をアピールし、その魅力を知ってもらうにはどうすればいい?
そう考えたからかどうかはわからないが、ホールはジャズピアニストの佐山雅弘をアドヴァイザーに迎えた。彼自身の演奏、また彼が認めるミュージシャンたちの演奏をミューザ川崎シンフォニーホールで聴くことの素晴らしさを、彼はいくつもの企画で伝えてくれた。その功績には、感謝しか申し上げられない。
開館前の、彼の企画を実際に聴く前の私はその人選をうまく理解できなかったことを正直に告白する。素晴らしいコンサートホールとして、東響がいて外来公演もあって、ピアノにオルガン、室内楽もやるのだろうし、おそらくはアマチュアの公演などでもスケジュールは埋まっていくのだろう、声楽は、どうなのかな?…果たしてそこにジャズは、ポップス寄りの公演は入る場所あるの?と当時は怪訝に思ったわけだ。だが今なら上述のように、いくつかの方向性の一つとしてジャズを含むポピュラー寄りのプログラムは必要だったとわかる。実際、「プログラムに知らない曲が並んでいるとスイッチが入る」「名前だけ聞いたことがある作品が取り上げられるコンサートに興奮してしまう」私のような少数派ではない多くの聴衆に、佐山氏の企画は愛されてきた。
…だが、である。こと自分について言うならば「最高の音響で聴くジャズという贅沢」に少しくらいは思い当たるべきだったんじゃあないのか、と反省もしてしまう。自分の出身高校の近くに渾身のオーディオシステムが自慢の名の知れたジャズ喫茶があったのだから、自分はその魅力を知っていたじゃあないか。彼の企画による演奏会の客席で、どんなオーディオでも再生できないだろう、最高にリアルなサウンド(あたりまえだが、こう言うしかないのだ)に興奮した日に、ようやく気がついた自分の不明を恥じる次第である。

3日にわたって個性的なミュージシャンたちがミューザ川崎シンフォニーホールに登場した数年前のかわさきジャズに軽い疲労を感じつつも興奮したことを、私はつい最近のことのように思い出せる。そのかわさきジャズ開催中というこのタイミングでの佐山氏の訃報に、なんと申し上げたものかと迷った挙げ句に以上の駄文を認めさせていただきました。佐山さん、いくつもの素敵な公演をありがとうございました。最後にやはり、合掌を。

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