2018年11月30日金曜日

「ファウスト」の話の続き

(承前)
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。

さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。

リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)

なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。

さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。

・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」

・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調

※アルファベットはてきとう(嘘)

こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。

さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。

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グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。

まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。

続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。

シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。

グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。

そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。

最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。

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で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。

本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。

東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で

この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。

来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。

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