それはまだ暑かったころのこと、「ああ、11月には「メフィストーフェレ」の全曲が演奏されるのか…」と気づき、ゲーテの「ファウスト」を読むのはどうだろうか、と思い立った。レアなんて表現では足りない、まず実演にはお目にかかれない音に聴けないと思っていた作品を聴くことができる、かもしれない。そんなタイミングでもなければ手が出しにくい大著に、何年ぶりかはもはや思い出せないほどの時を隔てて行った再読を、ついこの前ようやく終わった。公演前に間に合ったのは幸いなことである(笑)。
実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。
大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。
その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。
当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。
鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。
ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。
(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。
そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)
これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。
さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。
もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。
個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。
…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。
役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)
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これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。
ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。
私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。
また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。
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