さて読んだ本の話を。
ちょっとタイトルからの予想とは違った。もっとドタバタした感じを予想していたし、もっと無理やりな受容史をどこか想像していたのだなあ、とこの肩透かし感から思い当たるけれど、そんな先入観も仕方のないものなんですよう、と少し言い訳から始めたい。
たとえば。「モオツァルト」という有名な評論がある。まあ、名著と他人の評価に乗ってしまってもいいんですけど、今の目ではちょっと厳しいところも多い。”上演されてもモーツァルトのオペラを音だけで聴くわ”とかのくだりは本当にキツい。もっとも当時、戦後日本で良いオペラの上演を期待するほうが確かに夢想しすぎではあるので、気持ちは汲んであげられなくもない、とも思うけれど、ここまで評価されている本でも時代には囚われざるを得ないのだ、ということは指摘したい。
そう、時代の制約というのはいつでも誰にでもあるのである。私だって今のYouTubeやスポーティファイの、またはオンラインラジオ配信時代の人から見れば(なんであの人これ聴いてないの不勉強だよね)と思われていることだろう。そう、CD世代なんてもう時代遅れで情報量勝負なんかしたら勝ち目がないのである。もっともそんな勝ち負けなんてどうでもいいのだけれど。
え〜つまりですね、戦後ですら、冷戦期ですら、21世紀になってすら…どの時代だってそれぞれの制約あって音楽を受容している、そういう認識をまず前提に置きたい。そういう話です、回りくどくてすみませんね。技術が発達した今も時代の制約はある、ましてや明治期においておや。文明が開化する前の時代からの洋楽受容、ドタバタしないほうがおかしいと思うのですよ。まして、モオツァルトですらオペラ体験は諦められていた時代の「ワーグナーブーム」ですよ?ドタバタだったり無理やりじゃないと考えるほうが難しくないですか?(正当化)タイトルからは、そんな面白おかしい本なのかなって想像したんですよね。
ですが本書はそういうドタバタなエピソードや、明治期の”ざんぎり頭を叩いてみれば”的風刺を集めたものではなく、まっとうな研究成果でした。副題の「近代日本の音楽移転」をていねいに追い、歴史的経緯をきちんと読み手に認識させるものです。その中で紹介されるエピソードも悲喜こもごものドラマを感じさせるもので、個人的には大河ドラマ「いだてん」のスタイルでドラマにしてほしいくらいに興味深い。欧州文化との対峙ということであれば、スポーツより音楽のほうが先行しているわけですし。
そうですね、前半は考えるとして、後半の主人公は小澤征爾さんで「ボクの音楽武者修行」をベースにするのはどうですか。なにより映像化されれば音楽もつくから映えると思います。コンクールをクライマックスにできるから「のだめカンタービレ」「蜜蜂と遠雷」に続け!ってなもんですよ!!…もっとも、考証がすっごく大変になりますけど…(えっ本気だったの)
ちなみに。本書のタイトルが示す「ワーグナーブーム」、なんと音はほとんど聴かないで、それでも流行ったというなかなか味わい深い現象なのでした。気になった方は本書を、ぜひ。
そしてクレメンス・クラウスのワーグナーが私の最近のマイブーム(©みうらじゅん)。クラウスがあと数年でも生きていたら、いろいろ違ったんじゃあないか、なんて思う今日このごろ。
*************
さて。せっかく名前を出したので、ここでいよいよ最終回を迎える「いだてん ~東京オリンピック噺~」の話をします。傑作です。
いつも書いている通り、私は来年の世界的大運動会をスルーします。ここでは何も書きませんし、Twitterなどでも言及しない、できるだけ開催期間には都内にも行きません(なぜならフェスタサマーミューザKAWASAKI 2020があるから←運動会関係ないじゃんねえ!)。
そんな私はこのドラマにどう向き合ったかといえば、初期の「タイトルロゴのトリスケルが気持ち悪い」(横尾忠則のデザインでそう反応できる初さがちょっとうらやましい)だの「来年のための広告かよったく」「この視聴率…」なんて世評とは無縁に、初回から今に至るまでずーっと楽しく見てきました。もっとも初回を見るまでは私も(実際のオリンピックのためのもんだったら引くなあ…)と思ってました。しかし凝りまくった初回の構成に魅了されて、それ以降は録画してでも見逃さずここまで伴走してきました。楽しかったなあ…
大河ドラマについて、私はそんなに熱心な視聴者ではなかったのですが「龍馬伝」以降はたぶんほとんどのエピソードを見ているはず、です。その前だと仲間由紀恵見たさに…いやその話はいいか。それ以降だと「平清盛」は本当に、最高に面白かったですよね(再放送されてほしい。ちゃんと見ればわかってもらえると思うので)。
一年かけてひとつの大きいドラマを描ける大河ドラマという枠は、うまく使えば凄まじいものにもなりうるし、まあそれほどではなくても長く見ていればそれなりの愛着は湧くものです。そんな私でも無理だった作品は(自重)。余談の余談はこのへんで。
ここで紹介した本もそうですが、そもそも開拓者の話は先が見通せずに苦労することの連続でございます。そのドラマが現在進行形で描かれるなら、成功物語の中の過去のエピソードとして語られるそれとは違い、上手く進まない試行錯誤の繰り返しだってありましょう。
たとえば本作、前半の金栗四三時代を「よく知らない人の、あまり楽しくもない話」と見る人もいたでしょう。だがしかし彼の、また天狗倶楽部たちの時代になされた苦闘があったからこそ、ドラマは1964東京オリンピックに到れる、そう宮藤官九郎はじめ制作陣は考えた、のだろう。
実際のオリンピックはまだ知らないが高邁な理想を世界と共有する国際人(で何より面白い人)嘉納治五郎、走ることだけが得意な金栗四三、その二人を軸としつつ有名無名の人々を虚実ないまぜにしながら(壮絶なほどに”実”の分量が多いのが「いだてん」の凄いところで困ったところでもあるだろう)、狂言回しに後の古今亭志ん生を配して時代を活写しつつ明治から大正へ、そして第二部の主人公、田畑政治が激動の昭和を生き抜いて1964年に至る遠い道の、その始まりをまず用意した。
初参加のストックホルムから戦後の復帰まで、先行者たちの苦労と成功と巨大な失敗があって1964があり、それとどう関係するかはよく知らないが2020が待っている。来年のそれが、「いだてん」に描かれた先行者たちの苦闘を無に帰してしまわなければいいと思う気持ちはあるが、大運動会そのものの回避を決めている私には関係のないことである。諸行無常。
一年見てきた中でも、忘れがたい場面はカイロでのIOCでなんとか東京開催を取り付けたあとの帰路、船中でまだ外交官の平沢和重と嘉納治五郎が「一番面白かったこと」を語りあったところだ。私の中では完全に「神々の黄昏」の終盤、ジークフリートの昔語りに重なってしまって、もう楽しげな話を笑顔でしている二人を見ながら泣けて泣けて仕方がなかった。
このエピソードの前、嘉納先生は多忙に過ぎて”いだてん”のことすらすぐには思い出せない状態で、ある意味で自分の過去を裏切っていた。また田畑が問うとおり開催に向けて活動するオリムピックを「これがあなたが世界に見せたい日本なのか」と信頼する身内に否定されてしまっている、恐ろしいほどの孤独の中にあった。それでも恐れず前進を続けた英雄は、裏切り者に刺されたのではないけれど前を向いたままに亡くなってしまった。宮藤官九郎が描出し役所広司が演じ、スタッフが作り上げた嘉納治五郎は最後の瞬間まで楽しさを基準に物事を捉える痛快児のまま退場していった。こんな英雄の、最後の回顧を死亡フラグなんて安い言葉で収めたくはない。
さて、少しだけ音楽的思いつきも書いておきましょう。まずはこの場面を御覧ください。
開会宣言に続いて演奏される、公募で採用された今井光也によるこのファンファーレ、映画では強調されませんけれど「東京オリンピック ファンファーレ マーチ」とかで検索すればもっと鮮明に全曲聴くことができます。適当なものがなかったのですみません。
で、ですね、このファンファーレのあとに古関裕而作曲のマーチが続く、というのが演奏会などでは一般的なものなんですけれど。
どうだろう、このファンファーレのあとに「いだてん」テーマ曲を演奏するのは。行進なんかじゃあ収まらない、大好きなものへと駆け出す思いが意外にハマるんじゃないかなあ。最終回を前に、そんなことを考えている私なのでした。
2019年12月13日金曜日
2019年3月12日火曜日
その〇:まずは余談から
(承前)…と書いておきながら、まず書くのはハチャトゥリアンではなくショスタコーヴィチの話だったりする。それも、とある本の話から。余談ではありますが、お時間のある方はお付き合いくださいな。この回はスキップしても読めるように構成してますので「そんなの知ってるわ」と思われた方は次回へおすすみあそばせ。
ハチャトゥリアンの作品について考える中で必要に迫られて、もう本当に何年ぶりかわからない再読をしているんですよ「ショスタコーヴィチの証言」。編者はニコライ・ヴォルコフ、…そういう説明はいいですかね。この本、昔の読後の印象などほとんど忘れた今になって(おい)読み直せば、どうしたって看過できないヤバさがいろいろとあることに気付かさせられるのです。
率直に結論を書きます。本書を読めば、誰もがDSCHのことをこういう人としてイメージするだろう。京極堂もびっくりの博覧強記にして弁舌巧みすぎる作曲家。政治の裏にも、自分は属していないグループの動向にも精通し、それらを数時間のインタヴューの中で立て板に水とばかりに腹蔵なくヴォルコフに話してくれる、超絶話したがりの物知りさん。
…さすがにそれは、ねえ。作曲者に近い人ほど厳しく批判した、というのはまずそういうところが問題だったんじゃないかなあ、というのが、物書きの端っこの方に身を置くようになった私の一番の感想だ。どういうことか、といいますと。
端くれくらいの物書きさんとして思うに、これは「インタヴューで聴けた話(分量不明)」と「自分が整理して示した情報(かなりの量と推測される)」をショスタコーヴィチとヴォルコフ、つまり別の話者による文章として明示して分けずに、すべての情報と見解をショスタコーヴィチのものとしようと欲をかいた本だ、と考えるのだ。その結果、どうにも隠しようのない大穴として、上記のような珍妙なDSCH像ができあがってしまった。そう考えるのです。
読み進めるうちに、「もしかするとここは本人の言葉では」と思える部分と「誰だいこのジャーナリストさん」と言うしかない部分が交錯する、なんともおかしな文章であることに気がつくのだ。ヴォルコフが何度かのインタヴューはしていたということから考えれば、「本当なら文字起こしから編集段階で整理すべきところを、自分の発言も推測も印象も何もかもを作曲家が話した本当の発言(それがどれくらいの量かはわからない)として分離できないように収められた本」なんですよこれ。インタヴューを一人語りに構成したものとも違う、かなりたちの悪い作文で、これはよく受け取っても「事実をもとにしたフィクション」だ。それでは「偽書」だと言うしかないでしょ、「ショスタコーヴィチの証言」を名乗っているのだから。編者はきっと言うのだろう、「私はここまで話してもらえるほどに信頼を得ていたんです」と。だがそれを、どう信じればいいのか。彼に親しい人たちほどこの本をまともな「証言」とみなしていないというのに。DSCHのサインがある?文字起こしの段階だったのでは?なんて疑われることがないと、本気で思ったんですかねこの人。
*************
実はとあるフレーズの出典がこの本だったと思い出して、必要にかられて再読したのに過ぎない。私は学問を、学者を、その仕事を信用するので、本書を「偽書」とみなすようになって久しいので、せいぜいが「鉄のカーテンの向こうの雰囲気を教えてくれるかもしれない本」を積極的に再読することはない。ところどころにDSCHの言葉かもしれないフレーズがあるのがなんとも面倒ではあるが、それでもそう割り切るしかない、そういう本だ。
ただ。こうも思う。先ほども書いたが「鉄のカーテン」の向こうは知りようがなかった時期が、長く続いた。作品と公式なステートメントだけが届くうち、ソヴィエトが生んだ若き天才は大戦時に世界の英雄となり、しかしその後東側の看板に成り下がり、老いて枯れて死んだ。そんな彼への見方を覆してくれるこの本は、‘’使えた‘’だろうな、と。
東側の体制批判をしながらショスタコーヴィチの作品のうち評価できるものを是々非々で拾うには、本書はどこまでも使えた。彼の真意はこれなのだ、「だから」DSCHは評価されるべき。…なんとも、善意から出たのだとしても非常にたちの悪いねじれた発想なのだが、政治を芸術(ここはスポーツとか科学とか、様々に置換可能)を切り分けて考えるためについ導入してしまいがちな方便である。
ともあれ、本書を”使う”ことによってDSCHはソヴィエト共産党の看板から、また世界のある一時代を代表する作曲家になった。その功は認めてもいい、でもこれは偽書、またはフィクションだ。共産圏では地下出版でしか言えなかった”真実”もあった、本書もそのたぐいではないのか?本書には、お前も認めるとおり作曲家自身の言葉が含まれているように見えるし、ソヴィエト社会のある面を描き出しているのではないか?
先ほど書いた方便としての効能や、こんな疑問も持たれるだろうことがわかっていて、それでも偽書、またはフィクションだと言わせてもらおう。時代を、その空気を描く作品がなにかのまがい物でなかったらよかったのに、と私は思うのだ。一流のフィクションがショスタコーヴィチの堕ちたイメージを読み返させたのなら、きちんとした手続きを踏んだ書物が”真実”のショスタコーヴィチ像を示してくれたのなら、どんなによかったか。
今さら嘆いても仕方のないことではある。大衆小説が時代の空気を伝えることもあるのだから、私もここで”方便”として本書を少しだけ使おうと思う。ということで、余談はおしまい。(続きへ)
ハチャトゥリアンの作品について考える中で必要に迫られて、もう本当に何年ぶりかわからない再読をしているんですよ「ショスタコーヴィチの証言」。編者はニコライ・ヴォルコフ、…そういう説明はいいですかね。この本、昔の読後の印象などほとんど忘れた今になって(おい)読み直せば、どうしたって看過できないヤバさがいろいろとあることに気付かさせられるのです。
率直に結論を書きます。本書を読めば、誰もがDSCHのことをこういう人としてイメージするだろう。京極堂もびっくりの博覧強記にして弁舌巧みすぎる作曲家。政治の裏にも、自分は属していないグループの動向にも精通し、それらを数時間のインタヴューの中で立て板に水とばかりに腹蔵なくヴォルコフに話してくれる、超絶話したがりの物知りさん。
…さすがにそれは、ねえ。作曲者に近い人ほど厳しく批判した、というのはまずそういうところが問題だったんじゃないかなあ、というのが、物書きの端っこの方に身を置くようになった私の一番の感想だ。どういうことか、といいますと。
端くれくらいの物書きさんとして思うに、これは「インタヴューで聴けた話(分量不明)」と「自分が整理して示した情報(かなりの量と推測される)」をショスタコーヴィチとヴォルコフ、つまり別の話者による文章として明示して分けずに、すべての情報と見解をショスタコーヴィチのものとしようと欲をかいた本だ、と考えるのだ。その結果、どうにも隠しようのない大穴として、上記のような珍妙なDSCH像ができあがってしまった。そう考えるのです。
読み進めるうちに、「もしかするとここは本人の言葉では」と思える部分と「誰だいこのジャーナリストさん」と言うしかない部分が交錯する、なんともおかしな文章であることに気がつくのだ。ヴォルコフが何度かのインタヴューはしていたということから考えれば、「本当なら文字起こしから編集段階で整理すべきところを、自分の発言も推測も印象も何もかもを作曲家が話した本当の発言(それがどれくらいの量かはわからない)として分離できないように収められた本」なんですよこれ。インタヴューを一人語りに構成したものとも違う、かなりたちの悪い作文で、これはよく受け取っても「事実をもとにしたフィクション」だ。それでは「偽書」だと言うしかないでしょ、「ショスタコーヴィチの証言」を名乗っているのだから。編者はきっと言うのだろう、「私はここまで話してもらえるほどに信頼を得ていたんです」と。だがそれを、どう信じればいいのか。彼に親しい人たちほどこの本をまともな「証言」とみなしていないというのに。DSCHのサインがある?文字起こしの段階だったのでは?なんて疑われることがないと、本気で思ったんですかねこの人。
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実はとあるフレーズの出典がこの本だったと思い出して、必要にかられて再読したのに過ぎない。私は学問を、学者を、その仕事を信用するので、本書を「偽書」とみなすようになって久しいので、せいぜいが「鉄のカーテンの向こうの雰囲気を教えてくれるかもしれない本」を積極的に再読することはない。ところどころにDSCHの言葉かもしれないフレーズがあるのがなんとも面倒ではあるが、それでもそう割り切るしかない、そういう本だ。
ただ。こうも思う。先ほども書いたが「鉄のカーテン」の向こうは知りようがなかった時期が、長く続いた。作品と公式なステートメントだけが届くうち、ソヴィエトが生んだ若き天才は大戦時に世界の英雄となり、しかしその後東側の看板に成り下がり、老いて枯れて死んだ。そんな彼への見方を覆してくれるこの本は、‘’使えた‘’だろうな、と。
東側の体制批判をしながらショスタコーヴィチの作品のうち評価できるものを是々非々で拾うには、本書はどこまでも使えた。彼の真意はこれなのだ、「だから」DSCHは評価されるべき。…なんとも、善意から出たのだとしても非常にたちの悪いねじれた発想なのだが、政治を芸術(ここはスポーツとか科学とか、様々に置換可能)を切り分けて考えるためについ導入してしまいがちな方便である。
ともあれ、本書を”使う”ことによってDSCHはソヴィエト共産党の看板から、また世界のある一時代を代表する作曲家になった。その功は認めてもいい、でもこれは偽書、またはフィクションだ。共産圏では地下出版でしか言えなかった”真実”もあった、本書もそのたぐいではないのか?本書には、お前も認めるとおり作曲家自身の言葉が含まれているように見えるし、ソヴィエト社会のある面を描き出しているのではないか?
先ほど書いた方便としての効能や、こんな疑問も持たれるだろうことがわかっていて、それでも偽書、またはフィクションだと言わせてもらおう。時代を、その空気を描く作品がなにかのまがい物でなかったらよかったのに、と私は思うのだ。一流のフィクションがショスタコーヴィチの堕ちたイメージを読み返させたのなら、きちんとした手続きを踏んだ書物が”真実”のショスタコーヴィチ像を示してくれたのなら、どんなによかったか。
今さら嘆いても仕方のないことではある。大衆小説が時代の空気を伝えることもあるのだから、私もここで”方便”として本書を少しだけ使おうと思う。ということで、余談はおしまい。(続きへ)
2018年11月30日金曜日
「ファウスト」の話の続き
(承前)
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。
さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。
リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)
なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。
さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。
・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」
・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調
※アルファベットはてきとう(嘘)
こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。
さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。
************
グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。
まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。
続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。
シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。
グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。
そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。
最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。
************
で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。
本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。
東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で。
この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。
来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。
さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。
リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)
なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。
さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。
・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」
・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調
※アルファベットはてきとう(嘘)
こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。
さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。
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グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。
まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。
続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。
シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。
グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。
そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。
最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。
************
で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。
本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。
東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で。
この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。
来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。
2018年11月16日金曜日
「ファウスト」、読んでみた! ~若しくは森鷗外訳「ファウスト」を読みて思ふこと
それはまだ暑かったころのこと、「ああ、11月には「メフィストーフェレ」の全曲が演奏されるのか…」と気づき、ゲーテの「ファウスト」を読むのはどうだろうか、と思い立った。レアなんて表現では足りない、まず実演にはお目にかかれない音に聴けないと思っていた作品を聴くことができる、かもしれない。そんなタイミングでもなければ手が出しにくい大著に、何年ぶりかはもはや思い出せないほどの時を隔てて行った再読を、ついこの前ようやく終わった。公演前に間に合ったのは幸いなことである(笑)。
実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。
大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。
その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。
当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。
鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。
ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。
(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。
そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)
これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。
さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。
もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。
個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。
…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。
役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)
**************
これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。
ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。
私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。
また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。
実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。
大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。
その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。
当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。
鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。
ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。
(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。
そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)
これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。
さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。
もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。
個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。
…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。
役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)
**************
これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。
ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。
私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。
また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。
2018年11月11日日曜日
そう、おじいちゃんのため”だけ”の音楽じゃあない~「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」
ご無沙汰でした。
さて、アンドレア・バッティストーニの著作、ようやく読みました。音楽之友社から発売されている「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」、原題は「おじいちゃんのための音楽ではなく」(Google翻訳様によれば)。
手を出すには時間がかかったのに、いざ読み始めると読了まではあっという間、賞味一時間ちょっとで最後まで目が通ってしまう。「それはいくらなんでも雑なんじゃあないかい?」という声がどこかから聞こえるような気がするけれど、これは過去にインタヴューをさせてもらった私の特権的な有利があるかもしれない。だってここには、過去に彼に聞いたエピソードや考えが、より整理された形でまとめられているのだから。そうであってみればなんのことはない、これを読みにくく感じたなら私はただの大馬鹿者なのだ(笑)。
なお、このように私が感じた理由については、本書を既読の方には私の過去のインタヴュー(その一 その二 ※なんと二度も!ありがたい話である)も併せて読んでいただくと、それぞれサブテクストとしてよりお楽しみいただけるかもしれない(あ、インタヴューイの無能についての苦情はいらないです、皆様からお伺いするまでもないので…)。
冗談はさておいて、本書は彼自身のこれまでの歩みを振り返りながら、「彼が愛するクラシック音楽が今なお元気で生きている、新鮮なものでありうるのだ」、そんな思いを熱意を込めて、しかしなにより知的に綴ったものだ。
本書によってざっくり”クラシック音楽”と呼称される音楽の歴史や受容における知識がひと通り学べるのだから、立派な入門書としてクラシック音楽の門前で迷う初心者を助けてもくれるだろう。
また、先進的な姿勢を持ちつつ伝統を受け継ぐものとしてオペラの現場で活躍するマエストロの在り方が明確に示されているのも本書の魅力だ。オペラハウスという特別な場所で、オペラという”祝祭”がどのように作られるのか、そこで指揮者は何をしているのか、そもそもオペラとは何を目指すものなのか。彼にとっても我々にとっても幸いなことに、バッティストーニは伝統的なマエストロたちに導かれて伝統的なオペラハウスのやり方を体得し、そして同時に現代の音楽家として彼が愛する音楽をどのように聴衆に届けるのか、届けられるのかと日々試行錯誤を繰り返してくれている。我らがマエストロ小澤征爾が生涯のテーマとして取り組み続けている、カラヤン先生(本書でも少し言及されている)言うところの「オペラとシンフォニー、これが車の両輪だ」という言葉の意味を、クラシック音楽に詳しいと自認しているファンにさえも新鮮でわかりやすく教えてくれるのではないだろうか。
若くしてこんな魅力的な著作をも書いてしまう才能の、精力的な活躍の中心的な舞台のひとつに、日本を代表するオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団が選ばれていること、そして日本コロムビアから多くのレコーディングがリリースされていることは幸いである。これ以上は想像できないほどの真摯さと、才能ある若者らしい確信に満ちた直截なアプローチと、人懐っこいユーモアが同居する若き才能を”われわれのマエストロ”として迎えられているのだ、それを幸せと言わずしてなんと言うべきだろう?おそらくすでに何度か書いた(と思う)そんな感慨を、本書によって新たにした。
幸いなことに、アンドレア・バッティストーニは東京フィルとともに日本各地で「アイーダ」の巡演を行ったばかり、そして間もなく11月定期公演の指揮台に登場する。すでに公演に触れた方も本書には刺激されることだろう、そしてこれから公演に行かれる方も本書に興味を持てるだろう。どちらからバッティストーニに近づいても失望することはない、ということは保証させていただこう。 …当ブログの読者でいらっしゃる紳士淑女各位におかれましては、私のお墨付きにどの程度の意味があるか、などと考えたりされませんように。
>東京フィルハーモニー交響楽団 公式サイト(演奏会情報、チケット情報はこちらでご確認ください。各種特設ページも注目!)
*************
ここからは本書に触発されたエッセイのような何ものか。バッティと彼の本についてのみ興味のある方は読まなくても大丈夫です(何がか)。
これは私自身の反省ともなるのだが。日本のクラシック音楽受容においては、録音を中心にせざるを得なかったこともあったのだろう。年配の、すでに高名な音楽家たちをスタンダードとして受け入れることがどうしようもなくメインストリームとして存在してきた。それ故に、一般的には中年と評される年齢になっても「若造」「青い」「生煮え」などの雑な評価を平気でしてしまってきた過去がある、ように思う。自戒も込めて少々雑ではあるが決めつけておく。
だがそんなことを言っていたら、私たちに素晴らしい実演を届けてくれる可能性のある音楽家は、育つことができない、絶対に。誰もが認める圧倒的な存在による、特別で決定的な演奏しか認めないような世界で、それでも育ってくるような特別な才能だけを求めるような傲慢は、果たして聴き手に許されるだろうか?
これは自分がある程度の年齢になり、いつの間にか自分より年少の素晴らしい音楽家たちに感心させられる機会が増え始めて以来、折に触れて考え続けていることだ。たしかに、いま現在の彼らは”決定盤”を聴かせてくれないかもしれない、賛否が分かれるアプローチを採用していて評価に困ることもあるかもしれない。だがそこに明らかに輝かしい何かがある、忘れがたい瞬間が演奏の中にあった。そんな特別な瞬間を聴き手が受け取ることができないなら、それはそのまま「聴き手の私は、音楽という特別なコミュニケーションの場をまったく楽しめていません」という、なんとも哀しい告白になってしまうのではないだろうか?
こんなことを考えるとき、いつもクラウディオ・アバドが亡くなってすぐのことを想い出す。イタリア放送(RAI)は彼の晩年の演奏ではなく若き日の演奏を配信してその死を悼んだ。世界から尊敬を集めたマエストロが、いつ頃どのように見出されて我々が知る彼になっていったのか、今こそその生涯にわたるキャリアを思い出そう。RAIにそう教えられたような気がしたものだ。そのとき配信で聴いた若い頃の彼は少々尖すぎるかもしれないテンポ設定で、だが鮮やかに音楽を描き出していた、そこから生涯の最期に至るまで、あなたはどの時代の、どんな演奏をした彼に出会えましたか?そう問われたような気がしたものだ。そして私はようやく聴くことができた、最晩年の彼の演奏を思い出すのだった。
そこでまた、翻って我が国のことも考える。「今日の岩城は本当に熱かった!」「ハルビン時代の朝比奈はガツガツしてたもんだよ(本当か)」「ヤマカズ※は…」ずっとああですかね(笑)、などなど、そのときどきの反応があったはず。しかしその近さゆえ、私たちは彼らの変遷に気づけなかったり、そのときどきの演奏で満足してしまったりする。結果として音楽家のキャリアは最近の演奏に寄せて語られる平板なものになる、それを読むことで私たちの記憶は書き換えられていく…
(※昭和の方ですよもちろん)
そう、音楽家のキャリアに長く付き合うことは、そのときどきに彼や彼女(ら)が奏でた音楽をどのように受け取ったのか、その音楽はどのように誰かに届いたのか。そんな聴き手にとっての主体的な歴史の一ページでもありうる。イタリアの、いやきっとまた別の国の彼ら彼女らは、そんなふうに音楽家たちとつきあっていけることを知っているのだろう。それを伝統と呼ぶのであれば、その伝統に心からの尊敬と羨望を感じる。
本当に幸いなことに、アンドレア・バッティストーニはまだまだ若い。そんな彼がこれからのキャリアの中で、その時々にどんな音楽を聴かせてくれるのか、それは私たちにどのように響くのか。その体験それぞれは、私たち自身の生涯の一ページとして大切なものとなっていくだろう。…そんなふうに考えるくらいには、おじさんになりました、私。おじいちゃんにはまだ遠いですけど(笑)。
ん?まだ僕みたいな若手の演奏には抵抗がありますか?それではクラシック音楽が「おじいちゃんの音楽」になっちゃいますよ?私には、バッティがそう言って笑っているように思えてしまう。きっとそれは気のせいではない、と断言してこの項を終わる。
さて、アンドレア・バッティストーニの著作、ようやく読みました。音楽之友社から発売されている「マエストロ・バッティストーニの ぼくたちのクラシック音楽」、原題は「おじいちゃんのための音楽ではなく」(Google翻訳様によれば)。
手を出すには時間がかかったのに、いざ読み始めると読了まではあっという間、賞味一時間ちょっとで最後まで目が通ってしまう。「それはいくらなんでも雑なんじゃあないかい?」という声がどこかから聞こえるような気がするけれど、これは過去にインタヴューをさせてもらった私の特権的な有利があるかもしれない。だってここには、過去に彼に聞いたエピソードや考えが、より整理された形でまとめられているのだから。そうであってみればなんのことはない、これを読みにくく感じたなら私はただの大馬鹿者なのだ(笑)。
なお、このように私が感じた理由については、本書を既読の方には私の過去のインタヴュー(その一 その二 ※なんと二度も!ありがたい話である)も併せて読んでいただくと、それぞれサブテクストとしてよりお楽しみいただけるかもしれない(あ、インタヴューイの無能についての苦情はいらないです、皆様からお伺いするまでもないので…)。
冗談はさておいて、本書は彼自身のこれまでの歩みを振り返りながら、「彼が愛するクラシック音楽が今なお元気で生きている、新鮮なものでありうるのだ」、そんな思いを熱意を込めて、しかしなにより知的に綴ったものだ。
本書によってざっくり”クラシック音楽”と呼称される音楽の歴史や受容における知識がひと通り学べるのだから、立派な入門書としてクラシック音楽の門前で迷う初心者を助けてもくれるだろう。
また、先進的な姿勢を持ちつつ伝統を受け継ぐものとしてオペラの現場で活躍するマエストロの在り方が明確に示されているのも本書の魅力だ。オペラハウスという特別な場所で、オペラという”祝祭”がどのように作られるのか、そこで指揮者は何をしているのか、そもそもオペラとは何を目指すものなのか。彼にとっても我々にとっても幸いなことに、バッティストーニは伝統的なマエストロたちに導かれて伝統的なオペラハウスのやり方を体得し、そして同時に現代の音楽家として彼が愛する音楽をどのように聴衆に届けるのか、届けられるのかと日々試行錯誤を繰り返してくれている。我らがマエストロ小澤征爾が生涯のテーマとして取り組み続けている、カラヤン先生(本書でも少し言及されている)言うところの「オペラとシンフォニー、これが車の両輪だ」という言葉の意味を、クラシック音楽に詳しいと自認しているファンにさえも新鮮でわかりやすく教えてくれるのではないだろうか。
若くしてこんな魅力的な著作をも書いてしまう才能の、精力的な活躍の中心的な舞台のひとつに、日本を代表するオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団が選ばれていること、そして日本コロムビアから多くのレコーディングがリリースされていることは幸いである。これ以上は想像できないほどの真摯さと、才能ある若者らしい確信に満ちた直截なアプローチと、人懐っこいユーモアが同居する若き才能を”われわれのマエストロ”として迎えられているのだ、それを幸せと言わずしてなんと言うべきだろう?おそらくすでに何度か書いた(と思う)そんな感慨を、本書によって新たにした。
幸いなことに、アンドレア・バッティストーニは東京フィルとともに日本各地で「アイーダ」の巡演を行ったばかり、そして間もなく11月定期公演の指揮台に登場する。すでに公演に触れた方も本書には刺激されることだろう、そしてこれから公演に行かれる方も本書に興味を持てるだろう。どちらからバッティストーニに近づいても失望することはない、ということは保証させていただこう。 …当ブログの読者でいらっしゃる紳士淑女各位におかれましては、私のお墨付きにどの程度の意味があるか、などと考えたりされませんように。
>東京フィルハーモニー交響楽団 公式サイト(演奏会情報、チケット情報はこちらでご確認ください。各種特設ページも注目!)
*************
ここからは本書に触発されたエッセイのような何ものか。バッティと彼の本についてのみ興味のある方は読まなくても大丈夫です(何がか)。
これは私自身の反省ともなるのだが。日本のクラシック音楽受容においては、録音を中心にせざるを得なかったこともあったのだろう。年配の、すでに高名な音楽家たちをスタンダードとして受け入れることがどうしようもなくメインストリームとして存在してきた。それ故に、一般的には中年と評される年齢になっても「若造」「青い」「生煮え」などの雑な評価を平気でしてしまってきた過去がある、ように思う。自戒も込めて少々雑ではあるが決めつけておく。
だがそんなことを言っていたら、私たちに素晴らしい実演を届けてくれる可能性のある音楽家は、育つことができない、絶対に。誰もが認める圧倒的な存在による、特別で決定的な演奏しか認めないような世界で、それでも育ってくるような特別な才能だけを求めるような傲慢は、果たして聴き手に許されるだろうか?
これは自分がある程度の年齢になり、いつの間にか自分より年少の素晴らしい音楽家たちに感心させられる機会が増え始めて以来、折に触れて考え続けていることだ。たしかに、いま現在の彼らは”決定盤”を聴かせてくれないかもしれない、賛否が分かれるアプローチを採用していて評価に困ることもあるかもしれない。だがそこに明らかに輝かしい何かがある、忘れがたい瞬間が演奏の中にあった。そんな特別な瞬間を聴き手が受け取ることができないなら、それはそのまま「聴き手の私は、音楽という特別なコミュニケーションの場をまったく楽しめていません」という、なんとも哀しい告白になってしまうのではないだろうか?
こんなことを考えるとき、いつもクラウディオ・アバドが亡くなってすぐのことを想い出す。イタリア放送(RAI)は彼の晩年の演奏ではなく若き日の演奏を配信してその死を悼んだ。世界から尊敬を集めたマエストロが、いつ頃どのように見出されて我々が知る彼になっていったのか、今こそその生涯にわたるキャリアを思い出そう。RAIにそう教えられたような気がしたものだ。そのとき配信で聴いた若い頃の彼は少々尖すぎるかもしれないテンポ設定で、だが鮮やかに音楽を描き出していた、そこから生涯の最期に至るまで、あなたはどの時代の、どんな演奏をした彼に出会えましたか?そう問われたような気がしたものだ。そして私はようやく聴くことができた、最晩年の彼の演奏を思い出すのだった。
そこでまた、翻って我が国のことも考える。「今日の岩城は本当に熱かった!」「ハルビン時代の朝比奈はガツガツしてたもんだよ(本当か)」「ヤマカズ※は…」ずっとああですかね(笑)、などなど、そのときどきの反応があったはず。しかしその近さゆえ、私たちは彼らの変遷に気づけなかったり、そのときどきの演奏で満足してしまったりする。結果として音楽家のキャリアは最近の演奏に寄せて語られる平板なものになる、それを読むことで私たちの記憶は書き換えられていく…
(※昭和の方ですよもちろん)
そう、音楽家のキャリアに長く付き合うことは、そのときどきに彼や彼女(ら)が奏でた音楽をどのように受け取ったのか、その音楽はどのように誰かに届いたのか。そんな聴き手にとっての主体的な歴史の一ページでもありうる。イタリアの、いやきっとまた別の国の彼ら彼女らは、そんなふうに音楽家たちとつきあっていけることを知っているのだろう。それを伝統と呼ぶのであれば、その伝統に心からの尊敬と羨望を感じる。
本当に幸いなことに、アンドレア・バッティストーニはまだまだ若い。そんな彼がこれからのキャリアの中で、その時々にどんな音楽を聴かせてくれるのか、それは私たちにどのように響くのか。その体験それぞれは、私たち自身の生涯の一ページとして大切なものとなっていくだろう。…そんなふうに考えるくらいには、おじさんになりました、私。おじいちゃんにはまだ遠いですけど(笑)。
ん?まだ僕みたいな若手の演奏には抵抗がありますか?それではクラシック音楽が「おじいちゃんの音楽」になっちゃいますよ?私には、バッティがそう言って笑っているように思えてしまう。きっとそれは気のせいではない、と断言してこの項を終わる。
2018年9月14日金曜日
ウルトラセブンとシューマンの、特に奇妙ではない出会い~青山通「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」
今年は「ウルトラセブン放送から50年」ということで再放送やイヴェントなどが行われている。いいおじさんの年令になった私もさすがに本放送世代ではないのだけれど、昭和50年代のウルトラマンシリーズブーム(再放送や”事典”で猛烈に流行っていた時期があるのです)の直撃は受けているので放送されているとつい見てしまう。フィルムの質感、構図の妙(実相寺昭雄!)、ミニチュアの出来の良さ(サンダーバードに刺激を受けた、というのも納得の発進シークエンス!)、シナリオの含意(金城哲夫!)などなど、長年語られている作品だけに感心させられることは実に多い。いやもちろん子供向け作品である以上強引な面もあるのだけれど、30分枠でここまで実のある展開が描けるものか、と思わされることは多いのだ、それは有名ないくつかの回だけに限らない(あえてエピソードは挙げない、それらについての言及は大変だし、なにより私の手には余る)。もしかすると、そういう要素には幼少時にも直感的に気づけていたのかもしれない、だからセブンが好きだったのではないか、と思わされるのは、そこに流れる音楽の魅力には当時気づいていなかったと確信を持って言えるからだ。
ホルンを吹く人なら一度は演奏を試みるだろう有名なテーマ音楽や、超有名最終回のアレだけではないんですよ、音楽が刺激的なのは。おそらくは同時期の黛敏郎も試みていただろう電子音楽的なものや、モティーフこそテーマ曲だけれどロマン派そのものの展開などなど、大人になってクラシック音楽をよく聴いてきたからこそ気がつくものがある。なるほど、冬木透先生の熱心なファンが多くいらっしゃるわけであるし、コンサートも開催されるわけである。
※これが9年前のコンサート。うん、やりますよね、こんな音楽があるのだから。
そう気がついて最近再放送されている「帰ってきたウルトラマン」(テーマ曲はすぎやまこういちだが、サントラは冬木透のもの)、「ウルトラマンレオ」(これもサントラは冬木透だがテーマ曲は川口真。こちらについては作詞が阿久悠であることがよく知られているか)を見ればますますその思いは強まる。セブンからは少々劣る画面(キグルミの質の低下は幼少期から残念に思ってきたが、おとなになるとそれはもう、残酷なほどのギャップだと感じる)に乗り切れずにいるときに、ワーグナーやマーラーそのままの展開が聴こえてきたりするのはなかなか味わい深い感覚である。「冬木には教育的意図もあってこのようなサントラにしたのだ」という話を後に見かけて、そういえば「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会った当代一のヴィルトゥオーゾになりうるピアニストがいたな、とか思い出したり(変だな、私も初めてオペラアリアを聴いたのは「トムとジェリー」だったはずなのに、この差はなんだろう←言うな)。
実はここまでが前振り。相変わらず長くて嫌になりますね(笑)。本題は最近読んだ本の話。出たのはそうとう前で、確認したらもう絶版なんですけど…
「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」というタイトルは、端的に「私が読むべき本である」と示してくれているのだけれど、怠惰にも(いつか読むだろう)と思ってしまっていたのだ。よくない。反省。
本書は、先ほども少し触れた「超有名最終回のアレ」ことシューマンのピアノ協奏曲からクラシック音楽の世界へと足を踏み込んでいった青山通氏による、「音楽からみる映像作品ウルトラセブン論」であり、「ディヌ・リパッティ(共演はカラヤン)の演奏に至る探求の物語」であり、そこを入口に「より広くクラシック音楽に出会うためのガイド」であった。
※パブリック・ドメインになっている演奏を貼る行為は実に気楽で良い。だがそのあたりの権利の確認や配慮は常にされるべきであるのだ、と自戒しておこう。
今でこそ、私が「超有名」と書いてしまうように”あの演奏”がリパッティ盤であることは広く知られている。だがそのような認識は近年のものでしかなく、放送当時7歳の著者が自力でその回答にたどり着くなど私は想像もしていなかった(もっとも私の場合録画機が手に入ったのは相当に後年だから繰り返して放送を視聴するような経験自体が今でもあまり定着していないし、何より著者は東京の方であるという圧倒的優位はあるのだが)。その点だけでも大いに感心したし、冬木透へのインタヴューは読めただけでもありがたいと思えた(サウンドトラックの機能の仕方、映画を見るようになってからいろいろと考えるところがあるもので)。そのへんの話はまたおいおいと、機会を見て…
本書から私が得るべき教訓があるとすれば、「クラシック音楽への入口など到るところにあるし、先へと踏み込むかどうかなんてその人の興味の赴き方や縁によるものだ」という心構えのようなものだろう、きっと。正解なんてあるわけがないのだから、つまるところ芸術もまたコミュニケーションの在り方のひとつである以上。9月8日が「ウルトラセブン」最終回放送から50年の区切りに当たっていたことは本書の読了後に知った。本書との(今ごろの)出会いもまた、そういう縁なによってもたらされたのだ、などと戯言を最後につぶやいておこう。
なお。私にとってのクラシック音楽への入口は、ローカルNHK FMのポピュラー音楽を流していた(というか、歌謡曲とフォーク、せいぜいがシンガー・ソングライター(言わないねもう)のお歌をリクエストでかけていた)番組内で放送されたラヴェルのボレロなのだけれど、残念ながら録音などしていなかったからその演奏を繰り返し聴くことができたわけでもなければ、それがどの演奏かを突き止める執念もないため、あれが誰の指揮でどこのオーケストラの演奏だったのかまったく不明なままであり、それを気にせず今に至っている。
きっと演奏時間短めの演奏だったろうから、チェリビダッケでなかったことだけは確実なのだが(おいおい)まったくもって判然としないまま、普通にあれやこれやの演奏を楽しんでいる私なのであった。…本書を読むことで、どうしようもなく自分の残念さを再認識させられた次第でもあった。どんとはらい(ええ…)。
ホルンを吹く人なら一度は演奏を試みるだろう有名なテーマ音楽や、超有名最終回のアレだけではないんですよ、音楽が刺激的なのは。おそらくは同時期の黛敏郎も試みていただろう電子音楽的なものや、モティーフこそテーマ曲だけれどロマン派そのものの展開などなど、大人になってクラシック音楽をよく聴いてきたからこそ気がつくものがある。なるほど、冬木透先生の熱心なファンが多くいらっしゃるわけであるし、コンサートも開催されるわけである。
※これが9年前のコンサート。うん、やりますよね、こんな音楽があるのだから。
そう気がついて最近再放送されている「帰ってきたウルトラマン」(テーマ曲はすぎやまこういちだが、サントラは冬木透のもの)、「ウルトラマンレオ」(これもサントラは冬木透だがテーマ曲は川口真。こちらについては作詞が阿久悠であることがよく知られているか)を見ればますますその思いは強まる。セブンからは少々劣る画面(キグルミの質の低下は幼少期から残念に思ってきたが、おとなになるとそれはもう、残酷なほどのギャップだと感じる)に乗り切れずにいるときに、ワーグナーやマーラーそのままの展開が聴こえてきたりするのはなかなか味わい深い感覚である。「冬木には教育的意図もあってこのようなサントラにしたのだ」という話を後に見かけて、そういえば「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会った当代一のヴィルトゥオーゾになりうるピアニストがいたな、とか思い出したり(変だな、私も初めてオペラアリアを聴いたのは「トムとジェリー」だったはずなのに、この差はなんだろう←言うな)。
実はここまでが前振り。相変わらず長くて嫌になりますね(笑)。本題は最近読んだ本の話。出たのはそうとう前で、確認したらもう絶版なんですけど…
「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」というタイトルは、端的に「私が読むべき本である」と示してくれているのだけれど、怠惰にも(いつか読むだろう)と思ってしまっていたのだ。よくない。反省。
本書は、先ほども少し触れた「超有名最終回のアレ」ことシューマンのピアノ協奏曲からクラシック音楽の世界へと足を踏み込んでいった青山通氏による、「音楽からみる映像作品ウルトラセブン論」であり、「ディヌ・リパッティ(共演はカラヤン)の演奏に至る探求の物語」であり、そこを入口に「より広くクラシック音楽に出会うためのガイド」であった。
※パブリック・ドメインになっている演奏を貼る行為は実に気楽で良い。だがそのあたりの権利の確認や配慮は常にされるべきであるのだ、と自戒しておこう。
今でこそ、私が「超有名」と書いてしまうように”あの演奏”がリパッティ盤であることは広く知られている。だがそのような認識は近年のものでしかなく、放送当時7歳の著者が自力でその回答にたどり着くなど私は想像もしていなかった(もっとも私の場合録画機が手に入ったのは相当に後年だから繰り返して放送を視聴するような経験自体が今でもあまり定着していないし、何より著者は東京の方であるという圧倒的優位はあるのだが)。その点だけでも大いに感心したし、冬木透へのインタヴューは読めただけでもありがたいと思えた(サウンドトラックの機能の仕方、映画を見るようになってからいろいろと考えるところがあるもので)。そのへんの話はまたおいおいと、機会を見て…
本書から私が得るべき教訓があるとすれば、「クラシック音楽への入口など到るところにあるし、先へと踏み込むかどうかなんてその人の興味の赴き方や縁によるものだ」という心構えのようなものだろう、きっと。正解なんてあるわけがないのだから、つまるところ芸術もまたコミュニケーションの在り方のひとつである以上。9月8日が「ウルトラセブン」最終回放送から50年の区切りに当たっていたことは本書の読了後に知った。本書との(今ごろの)出会いもまた、そういう縁なによってもたらされたのだ、などと戯言を最後につぶやいておこう。
きっと演奏時間短めの演奏だったろうから、チェリビダッケでなかったことだけは確実なのだが(おいおい)まったくもって判然としないまま、普通にあれやこれやの演奏を楽しんでいる私なのであった。…本書を読むことで、どうしようもなく自分の残念さを再認識させられた次第でもあった。どんとはらい(ええ…)。
2018年9月10日月曜日
「犬の力」と言ってもペットの本じゃないし、「カルテル」と言っても経済小説じゃない
ドン・ウィンズロウは「キッズ・ストリート」に始まるシリーズの作者として認識していたものだから、映画「野蛮なやつら/SAVAGES」を見たときにはかなりの驚きがあった。オリヴァー・ストーンが”これ”の監督をしているのか、という要因も大きかったが、やはり語られる物語の暴力性に驚かされたのだ。チャラい若者たちが大麻栽培のヴェンチャーで成功してしまったばかりにメキシコの麻薬組織と敵対するはめになる…そんなストーリーは、ニール・ケアリーのシリーズからは本当に遠いところにあり、その距離が計りかねたのだ。
だが、このシリーズを読んでしまったあとでは「野蛮なやつら/SAVAGES」もまた彼の描く世界なのだ、とよくわかる。
「ブレイキング・バッド」を見てしまったのが、本書を読むきっかけの一つだったろうと思う。また、「BS世界のドキュメンタリー」でナルココリードの話を知ったこともそうだろう、またヨアン・グリロ「メキシコ麻薬戦争」を読んだためもある、と思う。それらを知るまでの自分の中の「麻薬戦争」はコロンビアなどの中南米がメインで、米墨国境のことなど何も知らない…とまでは言わないけれどリアリティの薄いものでしかなかった。もっとも、思い返せば「メキシコ国境の街で女子大生が警察署長に就任」なんてニュースには触れていた、はずなのだが。かくも対岸の火事とは像を結ばないものだ(一般化)。
と、前置きしてさて本書をどう紹介したものかと考える。公式サイト見るか、と思ったが驚きの文字数だったので引用では済ませられない(ここいらないよね)。では…
「犬の力」はDEAの捜査官アート・ケラーと麻薬カルテルの後継者となるアダン・バレーラ、この二人を軸に語られる30年にも及ぶ血みどろの抗争の群像劇、「ザ・カルテル」はその直接の続編でその後の彼らの因縁を終着点まで描ききる。なのでもし気になった方は必ず「犬の力」から読み進めてくださいね。その場合、流れる血の量も大変なことになりますけど、それが現実を映してしまっているのだから仕方がない…
メキシコ国境を問題視していたコンテンツに触れたのは先程挙げたものが最初ではないように思う。きっとプロレスのWWEだったと思う。不法移民狩りキャラにいつのまにか変わっていたあの人の名前、なんだっけ…(検索くらいしましょう)そして上記コンテンツに触れたのと、トランプが表舞台に出てきたのはそんなに変わらない時期だと思う。何がそこまで問題視されているのかわからなかった、だからいろいろと読んでみた、フィクションに触れてみた。そんな流れ。
そして認識せざるを得ない、たしかに麻薬戦争の頃のメキシコは恐ろしい。私のような真面目な()人間が生きていける気がしない。「もう今のメキシコはそうではない」と書けたらいいのだけれど、そういう明るい話も聞かない…生活を支える産業になっているが故に消されないカルテル、そしてカルテルにはなによりニーズがある。クスリを買う人たちがいて、それが多大な利益を産むからカルテルのビジネスは止まらない。
そんな社会で、果たして主人公が行うようなカルテルへの捜査、攻撃にどれほどの意味があるものか、つい考えてしまう。いや、抵抗しないことで悪に加担してはいけないのだが。また、「ザ・カルテル」で示される、アート・ケラーとカルテル(特に武装集団のセータ隊)が体現する「力での対立」とは別の道としての「女の平和」の可能性についても考え込んでしまう(これはもちろんアリストパネスのそれを参照したものだ、作中での扱いも)。作者は、本作をフィクションとして描きながら膨大な取材や現実の事件をそのまま想起させるように取り込んでいる。私が先程挙げた「女子大生が警察署長に」という出来事もそうだし、カルテルに取り込まれなかった女性市長が殺害された事件もだ。現実の市長は誘拐されて亡くなり、警察署長は逃亡したのだが、…むき出しの暴力が振るわれる世界の中で「女の平和」の可能性がどう展開されるものか、というあたりはぜひ本書で読んでいただきたい。ここでそれについて書かないのは、暴力に同じく暴力で立ち向かう男たちによる苛烈な展開と、暴力以外の可能性を命がけで探る女性たちの戦いとのコントラストは本書をより魅力的にしているものだと考えるから、私がリライトしてしまうべきではないと思うがゆえである。あと一点、個人的に最も震えたのが「ザ・カルテル」最終章の直前、タイトルが実現した瞬間だったことは書いておきたい。そこで物語が集約されて、あとはフィナーレまで駆け抜けるのみであった。拍手。
で、なのですが。本作はけっこう前に小説二作をひとまとまりの「ザ・カルテル」として映画化する、と報じられました。その後の情報がないまま現在に至った感があるのですが、これどうなってるのでしょうか。カルテルのご乱行の数々に殺伐とした振舞い、荒んでいく人心などなどがこれでもかと描かれてしまう映画になるでしょうから、楽しみにしているとはちょっと言いにくいのですけれど、見たいんですよね。リドリー・スコット監督だとかディカプリオ主演だとか、断片的な情報しか日本語だと探せない。作者のサイトに行っても特段のリリースがない。Youtubeをさがしてもまだトレイラー的なものも見当たらない。もしかすると、次の情報はそれなりにできあがった、本物の予告編の形を取っているのかもしれない、そこからは一気に映画も公開されるのかもしれない。まあぼんやりと待ちますから、いいんですけど。
メキシコのあの人とかあの地域とか(明示は差し控えたい)、見る目が変わっちゃって申し訳なく思うほどに壮絶な”現実を映すフィクション”、と私は受け取りました。その結果、あの人その人のキャリアについてとか、リゾート地がどうこうとか、超高級とか上流なんて言われるたぐいの階層そのものが怖くなったので、私はやはりカジノ解禁は良くなかったと考える次第ですよ。バックドアを作っちゃ駄目なんです、社会って。メキシコのそれは大量の金銭と暴力による事実上の是認だけど、本邦のそれは法としてバックドアを作ってしまったことになる。手法はどうあれ、バックドアを有効に使えるのは、後ろ暗いお金を山ほど持ってる人たちになるわけで。
…まあいいです、この話はこれでおしまい。ではまた。
だが、このシリーズを読んでしまったあとでは「野蛮なやつら/SAVAGES」もまた彼の描く世界なのだ、とよくわかる。
「ブレイキング・バッド」を見てしまったのが、本書を読むきっかけの一つだったろうと思う。また、「BS世界のドキュメンタリー」でナルココリードの話を知ったこともそうだろう、またヨアン・グリロ「メキシコ麻薬戦争」を読んだためもある、と思う。それらを知るまでの自分の中の「麻薬戦争」はコロンビアなどの中南米がメインで、米墨国境のことなど何も知らない…とまでは言わないけれどリアリティの薄いものでしかなかった。もっとも、思い返せば「メキシコ国境の街で女子大生が警察署長に就任」なんてニュースには触れていた、はずなのだが。かくも対岸の火事とは像を結ばないものだ(一般化)。
と、前置きしてさて本書をどう紹介したものかと考える。公式サイト見るか、と思ったが驚きの文字数だったので引用では済ませられない(ここいらないよね)。では…
「犬の力」はDEAの捜査官アート・ケラーと麻薬カルテルの後継者となるアダン・バレーラ、この二人を軸に語られる30年にも及ぶ血みどろの抗争の群像劇、「ザ・カルテル」はその直接の続編でその後の彼らの因縁を終着点まで描ききる。なのでもし気になった方は必ず「犬の力」から読み進めてくださいね。その場合、流れる血の量も大変なことになりますけど、それが現実を映してしまっているのだから仕方がない…
メキシコ国境を問題視していたコンテンツに触れたのは先程挙げたものが最初ではないように思う。きっとプロレスのWWEだったと思う。不法移民狩りキャラにいつのまにか変わっていたあの人の名前、なんだっけ…(検索くらいしましょう)そして上記コンテンツに触れたのと、トランプが表舞台に出てきたのはそんなに変わらない時期だと思う。何がそこまで問題視されているのかわからなかった、だからいろいろと読んでみた、フィクションに触れてみた。そんな流れ。
そして認識せざるを得ない、たしかに麻薬戦争の頃のメキシコは恐ろしい。私のような真面目な()人間が生きていける気がしない。「もう今のメキシコはそうではない」と書けたらいいのだけれど、そういう明るい話も聞かない…生活を支える産業になっているが故に消されないカルテル、そしてカルテルにはなによりニーズがある。クスリを買う人たちがいて、それが多大な利益を産むからカルテルのビジネスは止まらない。
そんな社会で、果たして主人公が行うようなカルテルへの捜査、攻撃にどれほどの意味があるものか、つい考えてしまう。いや、抵抗しないことで悪に加担してはいけないのだが。また、「ザ・カルテル」で示される、アート・ケラーとカルテル(特に武装集団のセータ隊)が体現する「力での対立」とは別の道としての「女の平和」の可能性についても考え込んでしまう(これはもちろんアリストパネスのそれを参照したものだ、作中での扱いも)。作者は、本作をフィクションとして描きながら膨大な取材や現実の事件をそのまま想起させるように取り込んでいる。私が先程挙げた「女子大生が警察署長に」という出来事もそうだし、カルテルに取り込まれなかった女性市長が殺害された事件もだ。現実の市長は誘拐されて亡くなり、警察署長は逃亡したのだが、…むき出しの暴力が振るわれる世界の中で「女の平和」の可能性がどう展開されるものか、というあたりはぜひ本書で読んでいただきたい。ここでそれについて書かないのは、暴力に同じく暴力で立ち向かう男たちによる苛烈な展開と、暴力以外の可能性を命がけで探る女性たちの戦いとのコントラストは本書をより魅力的にしているものだと考えるから、私がリライトしてしまうべきではないと思うがゆえである。あと一点、個人的に最も震えたのが「ザ・カルテル」最終章の直前、タイトルが実現した瞬間だったことは書いておきたい。そこで物語が集約されて、あとはフィナーレまで駆け抜けるのみであった。拍手。
で、なのですが。本作はけっこう前に小説二作をひとまとまりの「ザ・カルテル」として映画化する、と報じられました。その後の情報がないまま現在に至った感があるのですが、これどうなってるのでしょうか。カルテルのご乱行の数々に殺伐とした振舞い、荒んでいく人心などなどがこれでもかと描かれてしまう映画になるでしょうから、楽しみにしているとはちょっと言いにくいのですけれど、見たいんですよね。リドリー・スコット監督だとかディカプリオ主演だとか、断片的な情報しか日本語だと探せない。作者のサイトに行っても特段のリリースがない。Youtubeをさがしてもまだトレイラー的なものも見当たらない。もしかすると、次の情報はそれなりにできあがった、本物の予告編の形を取っているのかもしれない、そこからは一気に映画も公開されるのかもしれない。まあぼんやりと待ちますから、いいんですけど。
メキシコのあの人とかあの地域とか(明示は差し控えたい)、見る目が変わっちゃって申し訳なく思うほどに壮絶な”現実を映すフィクション”、と私は受け取りました。その結果、あの人その人のキャリアについてとか、リゾート地がどうこうとか、超高級とか上流なんて言われるたぐいの階層そのものが怖くなったので、私はやはりカジノ解禁は良くなかったと考える次第ですよ。バックドアを作っちゃ駄目なんです、社会って。メキシコのそれは大量の金銭と暴力による事実上の是認だけど、本邦のそれは法としてバックドアを作ってしまったことになる。手法はどうあれ、バックドアを有効に使えるのは、後ろ暗いお金を山ほど持ってる人たちになるわけで。
…まあいいです、この話はこれでおしまい。ではまた。
片山杜秀の作り方 ~片山杜秀「クラシックの核心」
片山杜秀といえば近現代クラシック音楽に通暁してしかも日本の近現代にも一家言ある存在として、もはや「当代一の博学の一人」と思ってしまうのだが、考えてみればいわゆるクラシック音楽のメインストリームとされる演奏家や作曲家について詳しく論じているところは見かけない。せいぜいが新聞に載っている演奏会評でたまに「へえこの人がこの演奏会担当なんだ」と思うことがあるくらい。だからそのような「普段は彼が語らない領域」について語っているという点で、本書は貴重な一冊と言えるだろう。以下の目次を見てもらえれば、私の言いたいことも伝わるかと思う(リンク先より引用)。
1. バッハ 精緻な平等という夢の担い手
2. モーツァルト 寄る辺なき不安からの疾走
3. ショパン メロドラマと゛遠距離思慕゛
4. ワーグナー フォルクからの世界統合
5. マーラー 童謡・音響・カオス
6. フルトヴェングラー ディオニュソスの加速と減速
7. カラヤン サウンドの覇権主義
8. カルロス・クライバー 生動する無
9. グレン・グールド 線の変容
(引用終わり)
伊福部昭の人であり、戦前戦中の日本についての学者である片山杜秀が語るバッハとは、ショパンとは、カラヤンとは。彼について少しでも知識があればそのミスマッチ感故に内容が気になるところではないかと思う。どこから、何から語り始めるのか?対象の歴史的位置づけから、もしくは人物像の描写から?「別冊文藝」に連載された本書は意外なところから話を起こす。なんと本書は、片山杜秀その人の育ちやら音楽との出会いなど、個人史をとっかかりにした、語り物なのだ。
最近、いわゆる「自分語り」と言われるものへの嫌悪をときおり見かけるのだが、古の告白体小説に近いこの手法はむしろ話者が自分のバイアスを予め示すことで持論の限界を暗に示すという、捨て身に近い。「ああお前はそういう奴だな」と切り捨てたければそれでかまわない、と宣言しているようなものなのだから。(むしろデータの照合みたいに演奏を評価してしまう発想について思うところがあるのだが、それは流石に本書と関係ないので割愛)自分語りは話のイントロとして汎用性が高く、ケーススタディとして割り切れればわざわざ忌避するほどのものでもない。だがその語り手があの片山杜秀であれば話は別だ。そう思いませんか皆さん。あの博学がどんな時代にどう育って、あの片山杜秀になるのか、気になりませんか。私は気になったから読んだわけです。
昭和38年生まれの彼が語るクラシックとの出会いは、読んでいただくのがいいと思うのだけれど、実に普通に昭和の子どもたちがテレビやラジオで音楽に出会ってしまうパターンなのだ。テレビドラマで使われていたあれやそれやで音楽に出会う、なんて話はある意味普遍的ですらあって、近年ならピアニストのラン・ランが「トムとジェリー」でクラシック音楽に出会ったケースあたりも思い浮かぶ。(ちなみに私がオペラアリアを初めて聴いたのも「トムとジェリー」だと思う←自分語り)
だがそこからの展開力と言うか掘り下げる力というか、そういったものが異様に強いのだ、彼の場合。その展開力に最も感心したのが8. カルロス・クライバーの章だ。誰だって「カルロスには父エーリヒの影響が強く」くらいのことは言うものだ、だがそれがどのような影響であり、それによってカルロスはどのように育ったのか、その育ちは彼の演奏にどのように現れたのか。これらをカルロスの楽曲へのアプローチやリハーサルでの振舞いなどに絡めて読み解くあたりは実にスリリングで読み応えがある。
ここから私が得るべき教訓は。「入口としての自分語りは問題じゃない、むしろそこからどこまで掘れるのか広げられるのか、その過程で本旨を失わずにいられるのか」、であろう。それこそが留意されるべきだし、そうでなければ語る意味がないな、などとつい我が身を省みてしまったことでありました(自分語り←しつこい)。”ある対象についての語り”を集めた本書は、なにより読みやすい、しかも対象がクラシック音楽の主流(だったもの、かもしれない)なので、片山杜秀入門として読まれてもいいかもしれない。私は”少しお兄さんの世代が如何にクラシック音楽に出会ったのか”という物語としても楽しく読みました。
以上、ではまた。
2017年5月30日火曜日
読みました:ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」
こんにちは。千葉です。
読み終わった本の話です、とはいえ割と前に読んだものですが。
あとがきの引用ってのは如何にも「読んでないけど書評するぜ」みたいで好きじゃないんですが(笑)、上下巻700ページにも及ぶ本書について一番詳しい人のまとめですから、ここではささやかな禁を破って紹介させていただきますよ。訳者あとがき、685ページから。
ショック・ドクトリンが実際に適用された例として、クラインはピノチェト将軍によるチリのクーデターをはじめとする七〇年代のラテンアメリカ諸国から、イギリスのサッチャー政権、ポーランドの「連帯」、中国の天安門事件、アパルトヘイト後の南アフリカ、ソ連崩壊、アジア経済危機、9・11後のアメリカとイラク戦争、スマトラ沖津波、ハリケーン・カトリーナ、セキュリティー国家としてのイスラエル……と過去三五年の現代史を総なめにするごとく、広範囲にわたるケースを検証していく。(後略、引用終わり)
何か大きな出来事が起きると、そのタイミングに合わせて「本当は議論が必要なのだけれど、今その議論には時間が割きにくい」大きいテーマが政治スケジュールに登ることがあります。ほら、例えて言うならあれですよ、言葉は悪いけど火事場泥棒。
それをただの巡り合わせと見ることもいいだろうし、本書が指摘する「ショック・ドクトリン」として実施されていることもあるでしょう。それぞれの可能性を認識した上で、私は本書の指摘を”陰謀論”と簡単に退けることには同意しません。
というより、ショック・ドクトリンを実施できる側は、この言葉を知っていなくともこの手法を採用することがあるからです。反対者の思考停止の隙を突く、というのは常套手段であり、時として詐欺師の手法ではありますが気づかれなければ効果的なものでもあるわけです。ただ、それができるのは体力資力人材に余裕があるサイドだけだから(何か事が起きた時、被害にあっている当事者はもちろん、被害者の手助けをする人たちも時間や資力などリソースを奪われるわけですから)、変事にあっても粛々と物事をすすめる人たちに対しては安定感より警戒感をこそ持つべきだと考えるわけです。
強力なエンジンは魅力的です、それはかつて未来派が憧れた時代から変わってない。でも個々人が守られるためにはブレーキのほうがよっぽど重要です。「ショック・ドクトリン」はブレーキを無視して全開で走るエンジンにすべてを委ねてしまう契機としての惨事、という視点をいまは歴史となった具体的事例で示してくれていますが、それはいつでもどこでもありうるものだという認識を持つことには意味があるだろう。その認識を新たにしたことでした。
****************
以下短くない余談です。この本を読んでいたので、この映画が上映前から気になっていたんですよ。
今はもうレンタル店でも旧作扱いでしょうから、気になる方にはぜひ見ていただきたいと思います。映画のタイトルはシンプルこの上ない、「NO」です。
この映画は実話を元に作られており、その舞台は1988年のチリ、悪名高きピノチェト時代の終わり頃のこと。もちろん、現実にはピノチェトの時代は続いていてこの映画に描かれた出来事の最中には”末期”という認識は持てないのだから、今この時をなんとか生き延びなければならない、それがまずは大前提。
ピノチェト政権の信任継続を問う国民投票が近く実施されることが決まり「投票までの27日間、政権支持派「YES」と反対派「NO」それぞれに1日15分のPR ができるテレビ放送枠が許され」(映画公式サイト「ストーリー」より)、さて反対派は如何に戦ったか、というのがこの映画のドラマです。主人公は広告クリエーターのレネ。彼にはこの選挙が茶番にしか思えず、始めはまったく気乗りしなかったのだが…とお話は進みます。
ピノチェト政権は再選を阻まれてチリは民政に移行して現在があるのだからこの選挙で反対派は勝利するのですけれど(酷いネタバレ←えっと)、条件はどう考えてもいいものではない。強権ではあるけれど長く続いてきた政府には相応の裏打ちがあるのだから、それに対抗するのは容易ではありません。
投票に際して正面からテーマを際立たせて訴える?それとも?そのアプローチがどういうものだったかはぜひ映画で見ていただくとして、これは私には選べない手段ではあるけどなるほどな、と思わされた次第でした。
もちろん、映画という形で表現された以上、フィクションはフィクションなのだけれど(厳密に言うならばドキュメンタリーもルポルタージュも誰かの編集が入ってしまう時点で”生”の事実ではありえないのですが)、チリという国が冷戦の終わりにピノチェト軍政を終わらせることができたことの意味を考える契機にはなるのではないかと。
…個人的な感慨も少し。私は残念ながら広告屋でも活動家でもないけれど(笑)、そう遠くない時期にこの映画が描くような投票をさせられるだろう、と感じているものですからまったくもって他人事とは思えないものでしたよ。
チリではいちおうのフェアな選挙であるための担保があったけれど(広告時間の制限はなかなかフェアなものだと思います)、今私たちが住んでいるこの国で行われる可能性が高い国民投票は、どうも広告についての規定が相当に緩いものになっているようですから、さてどうなるでしょう。TVの広告や番組、新聞の紙面のように一方通行のメディアに片方の見解だけが載り(豊富な資金を集めてくるでしょうからね)、反論の声はなかなか届かない。そんなディストピア的熱狂が予想できてしまって、私はあまり明るい見通しは持てないでいます。
こういう言い方はフェアではないなと思うのだけれど、私はもうそんなに若くないので国がどう変わってしまってもそれまでに生きた時間のほうが長かった、ということになるでしょう。ボンクラでもなんとか生きてこられたいわゆる戦後日本を私はそれほど否定しないのだけれど、その体制は終わる可能性が見えてきています。その先にあるのがなんなのか、想像はつくけどそれが現実になることのインパクトや体験させられる事ごとはその日が来ないとわからない。私は来てほしくないと思う未来の姿はピノチェト時代のそれにも似ているように思うし、もっと率直にそっくりなものは少し歴史を振り返れば、ね。という。未だ来ていないものについてうだうだ言っても仕方ないのだけれど、私としては現在の延長がそう見えるな、という感慨を抱かせる読書と映画鑑賞でした。というお話。
辛気臭い感じの話が長くなったので最後に一曲どうぞ。
…まあ、この曲もピノチェト時代に書かれた曲なんですけどね、と言いつついい加減長いからこれでおしまい。
ではまた、ごきげんよう。
読み終わった本の話です、とはいえ割と前に読んだものですが。
あとがきの引用ってのは如何にも「読んでないけど書評するぜ」みたいで好きじゃないんですが(笑)、上下巻700ページにも及ぶ本書について一番詳しい人のまとめですから、ここではささやかな禁を破って紹介させていただきますよ。訳者あとがき、685ページから。
ショック・ドクトリンが実際に適用された例として、クラインはピノチェト将軍によるチリのクーデターをはじめとする七〇年代のラテンアメリカ諸国から、イギリスのサッチャー政権、ポーランドの「連帯」、中国の天安門事件、アパルトヘイト後の南アフリカ、ソ連崩壊、アジア経済危機、9・11後のアメリカとイラク戦争、スマトラ沖津波、ハリケーン・カトリーナ、セキュリティー国家としてのイスラエル……と過去三五年の現代史を総なめにするごとく、広範囲にわたるケースを検証していく。(後略、引用終わり)
何か大きな出来事が起きると、そのタイミングに合わせて「本当は議論が必要なのだけれど、今その議論には時間が割きにくい」大きいテーマが政治スケジュールに登ることがあります。ほら、例えて言うならあれですよ、言葉は悪いけど火事場泥棒。
それをただの巡り合わせと見ることもいいだろうし、本書が指摘する「ショック・ドクトリン」として実施されていることもあるでしょう。それぞれの可能性を認識した上で、私は本書の指摘を”陰謀論”と簡単に退けることには同意しません。
というより、ショック・ドクトリンを実施できる側は、この言葉を知っていなくともこの手法を採用することがあるからです。反対者の思考停止の隙を突く、というのは常套手段であり、時として詐欺師の手法ではありますが気づかれなければ効果的なものでもあるわけです。ただ、それができるのは体力資力人材に余裕があるサイドだけだから(何か事が起きた時、被害にあっている当事者はもちろん、被害者の手助けをする人たちも時間や資力などリソースを奪われるわけですから)、変事にあっても粛々と物事をすすめる人たちに対しては安定感より警戒感をこそ持つべきだと考えるわけです。
強力なエンジンは魅力的です、それはかつて未来派が憧れた時代から変わってない。でも個々人が守られるためにはブレーキのほうがよっぽど重要です。「ショック・ドクトリン」はブレーキを無視して全開で走るエンジンにすべてを委ねてしまう契機としての惨事、という視点をいまは歴史となった具体的事例で示してくれていますが、それはいつでもどこでもありうるものだという認識を持つことには意味があるだろう。その認識を新たにしたことでした。
****************
以下短くない余談です。この本を読んでいたので、この映画が上映前から気になっていたんですよ。
今はもうレンタル店でも旧作扱いでしょうから、気になる方にはぜひ見ていただきたいと思います。映画のタイトルはシンプルこの上ない、「NO」です。
この映画は実話を元に作られており、その舞台は1988年のチリ、悪名高きピノチェト時代の終わり頃のこと。もちろん、現実にはピノチェトの時代は続いていてこの映画に描かれた出来事の最中には”末期”という認識は持てないのだから、今この時をなんとか生き延びなければならない、それがまずは大前提。
ピノチェト政権の信任継続を問う国民投票が近く実施されることが決まり「投票までの27日間、政権支持派「YES」と反対派「NO」それぞれに1日15分のPR ができるテレビ放送枠が許され」(映画公式サイト「ストーリー」より)、さて反対派は如何に戦ったか、というのがこの映画のドラマです。主人公は広告クリエーターのレネ。彼にはこの選挙が茶番にしか思えず、始めはまったく気乗りしなかったのだが…とお話は進みます。
ピノチェト政権は再選を阻まれてチリは民政に移行して現在があるのだからこの選挙で反対派は勝利するのですけれど(酷いネタバレ←えっと)、条件はどう考えてもいいものではない。強権ではあるけれど長く続いてきた政府には相応の裏打ちがあるのだから、それに対抗するのは容易ではありません。
投票に際して正面からテーマを際立たせて訴える?それとも?そのアプローチがどういうものだったかはぜひ映画で見ていただくとして、これは私には選べない手段ではあるけどなるほどな、と思わされた次第でした。
もちろん、映画という形で表現された以上、フィクションはフィクションなのだけれど(厳密に言うならばドキュメンタリーもルポルタージュも誰かの編集が入ってしまう時点で”生”の事実ではありえないのですが)、チリという国が冷戦の終わりにピノチェト軍政を終わらせることができたことの意味を考える契機にはなるのではないかと。
…個人的な感慨も少し。私は残念ながら広告屋でも活動家でもないけれど(笑)、そう遠くない時期にこの映画が描くような投票をさせられるだろう、と感じているものですからまったくもって他人事とは思えないものでしたよ。
チリではいちおうのフェアな選挙であるための担保があったけれど(広告時間の制限はなかなかフェアなものだと思います)、今私たちが住んでいるこの国で行われる可能性が高い国民投票は、どうも広告についての規定が相当に緩いものになっているようですから、さてどうなるでしょう。TVの広告や番組、新聞の紙面のように一方通行のメディアに片方の見解だけが載り(豊富な資金を集めてくるでしょうからね)、反論の声はなかなか届かない。そんなディストピア的熱狂が予想できてしまって、私はあまり明るい見通しは持てないでいます。
こういう言い方はフェアではないなと思うのだけれど、私はもうそんなに若くないので国がどう変わってしまってもそれまでに生きた時間のほうが長かった、ということになるでしょう。ボンクラでもなんとか生きてこられたいわゆる戦後日本を私はそれほど否定しないのだけれど、その体制は終わる可能性が見えてきています。その先にあるのがなんなのか、想像はつくけどそれが現実になることのインパクトや体験させられる事ごとはその日が来ないとわからない。私は来てほしくないと思う未来の姿はピノチェト時代のそれにも似ているように思うし、もっと率直にそっくりなものは少し歴史を振り返れば、ね。という。未だ来ていないものについてうだうだ言っても仕方ないのだけれど、私としては現在の延長がそう見えるな、という感慨を抱かせる読書と映画鑑賞でした。というお話。
辛気臭い感じの話が長くなったので最後に一曲どうぞ。
…まあ、この曲もピノチェト時代に書かれた曲なんですけどね、と言いつついい加減長いからこれでおしまい。
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月25日木曜日
読みました:辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
こんにちは。千葉です。
これも読み終わった本のご紹介です。
●辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
以下に目次を引用します。
第1章 脚本(リブレット)が先か、音楽が先か
第2章 脚本に介入するプッチーニ —《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ
第3章 検閲と闘うヴェルディ —《リゴレット》とピアーヴェ
第4章 ロマン派を予言するドニゼッティ —《愛の妙薬》とロマーニ
第5章 性別を超えるロッシーニ —《チェネレントラ》とフェッレッティ
第6章 挑発を愉しむモーツァルト —《フィガロの結婚》とダ・ポンテ
終章 こうしてオペラは始まった
時代を遡る形で、古くて新しいテーマ「音楽が先か、言葉が先か」を実作にしたがって考える一冊です。プッチーニは「マノン・レスコー」で出会ったルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザとの協力関係を、ヴェルディでは検閲との戦いを「リゴレット」を中心に、…とそれぞれに軸となる作品の例に基づいて台本と作曲の関係を探っていく一冊はなかなかにスリリングです。創作のプロセスが持つ緊張感が持つ独特の面白さは、作曲家と作家の間の往復書簡の形などで知られているところですが(高名なところではリヒャルト・シュトラウスとフーゴ・フォン・ホーフマンスタールのそれは書籍としても知られていますね)、本書は事実関係を整理してコンパクトに教えてくれます。
原作、題材の選択や、作曲との順番などの進め方、それだけでも興味深いのですが、作品を構成するテクストがどのような困難に向き合って生み出されるのか、という創作のドラマとしても面白いですし、それが時代によってどう違うものかと比較するのも興味深いものと思いますので、気になった方にはぜひご一読をお薦めしたく。
なお、モーツァルト以前となると今度はリブレッティスト優位の時代となるのですが、そのあたりの話はまた勉強したときにでも。
ではまた、ごきげんよう。
これも読み終わった本のご紹介です。
●辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
以下に目次を引用します。
第1章 脚本(リブレット)が先か、音楽が先か
第2章 脚本に介入するプッチーニ —《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ
第3章 検閲と闘うヴェルディ —《リゴレット》とピアーヴェ
第4章 ロマン派を予言するドニゼッティ —《愛の妙薬》とロマーニ
第5章 性別を超えるロッシーニ —《チェネレントラ》とフェッレッティ
第6章 挑発を愉しむモーツァルト —《フィガロの結婚》とダ・ポンテ
終章 こうしてオペラは始まった
時代を遡る形で、古くて新しいテーマ「音楽が先か、言葉が先か」を実作にしたがって考える一冊です。プッチーニは「マノン・レスコー」で出会ったルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザとの協力関係を、ヴェルディでは検閲との戦いを「リゴレット」を中心に、…とそれぞれに軸となる作品の例に基づいて台本と作曲の関係を探っていく一冊はなかなかにスリリングです。創作のプロセスが持つ緊張感が持つ独特の面白さは、作曲家と作家の間の往復書簡の形などで知られているところですが(高名なところではリヒャルト・シュトラウスとフーゴ・フォン・ホーフマンスタールのそれは書籍としても知られていますね)、本書は事実関係を整理してコンパクトに教えてくれます。
原作、題材の選択や、作曲との順番などの進め方、それだけでも興味深いのですが、作品を構成するテクストがどのような困難に向き合って生み出されるのか、という創作のドラマとしても面白いですし、それが時代によってどう違うものかと比較するのも興味深いものと思いますので、気になった方にはぜひご一読をお薦めしたく。
なお、モーツァルト以前となると今度はリブレッティスト優位の時代となるのですが、そのあたりの話はまた勉強したときにでも。
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月22日月曜日
読みました:西澤保彦「さよならは明日の約束」
こんにちは。千葉です。
これまた読んだ本の話です。
●西澤保彦「さよならは明日の約束」
タック&タカチシリーズが一段落して、また水玉螢之丞さんが亡くなられてチョーモンインシリーズが再開される気配がなくなって(これは仕方がないと思う、さすがに…)、それでも多作な西澤保彦さんは次々新作を発表されていて、頭が下がるばかりです。
ひところ読書に時間を割けないために、その多作についていけていなかった私としてはゆるゆると追いつきたく思う所存であります。追いつけたそのころにはほら、タック&タカチシリーズの新作も出るかもしれないし(淡い期待)。
そう思って読んでみた本書は、西澤保彦らしくジジくさい男子と個性的な女子のコンビによるアームチェア・ディテクティブものです。ヒロインはアクティヴなキャラクターに設定されているから出不精だったりするわけではなく(笑)、この短編集で取り上げられる謎が過去に属するものだから、です。一冊の本を契機として見出される日常の謎に、西澤保彦ならではの対話を通じて迫っていくスタイルは、過去作を知らずとも充分に楽しめるものでしょう。二作目からお話の舞台となる喫茶店はどう考えても商いとして立ち行かない感じなのだけれど、マスターが語る過去はキィになっているし、彼が醸すひなびた感じがあればこその本作なので、そこはまあ、ということで(笑)。
詳しくは書きませんが、「男はつらいよ」シリーズや、サザンオールスターズの変遷について感じるのに近いものを感じて、「ああもうタック&タカチものは読めないかもなあ」と思ってしまったことは最後に書いておきます。
なお。もし初めて西澤保彦作品を読むという方にアドヴァイスするならば、珍名に早く慣れてしまえば何も難しいことはないよ、ということでしょうか。喫茶店のマスター梶本さんは割と普通の名字だけれど、他の登場人物は私にとっては馴染みのないものが多くてそこだけちょっと難儀しました(読み慣れていてもそうなんです、連作ではあるけれどシリーズとして構成されているわけではないので愛読者メリットみたいなものはありません)。気軽に是非読み始めて、名字に引っかかってもずんずん読み進めちゃえば楽しく読めることは保証しますよ。
そうそう、西澤保彦読者にはより面白い趣向が本作にはひとつ仕込まれています。最初期の作品をリサイクルして別の可能性を探られちゃうと、読み返したくなっちゃうじゃないですか「解体諸因」。
もっと西澤保彦作品が人気でないかなあ、映像化されないかなあって長年思っている私としては、近年のフジテレビによるドラマ化路線には期待せざるをえないし、もしくは「すべてがFになる」「六花の勇者」、「氷菓」や「ハルチカ」などミステリのアニメ化も増えている印象があるから夢を見ちゃうんですよねえ、「七回死んだ男」の映像化を。どこかやってくれませんか、あの偉大な一作を。ぜひ。
というリクエストを最後に瓶に入れてネットの海に流しておしまい。
ではまた、ごきげんよう。
これまた読んだ本の話です。
●西澤保彦「さよならは明日の約束」
タック&タカチシリーズが一段落して、また水玉螢之丞さんが亡くなられてチョーモンインシリーズが再開される気配がなくなって(これは仕方がないと思う、さすがに…)、それでも多作な西澤保彦さんは次々新作を発表されていて、頭が下がるばかりです。
ひところ読書に時間を割けないために、その多作についていけていなかった私としてはゆるゆると追いつきたく思う所存であります。追いつけたそのころにはほら、タック&タカチシリーズの新作も出るかもしれないし(淡い期待)。
そう思って読んでみた本書は、西澤保彦らしくジジくさい男子と個性的な女子のコンビによるアームチェア・ディテクティブものです。ヒロインはアクティヴなキャラクターに設定されているから出不精だったりするわけではなく(笑)、この短編集で取り上げられる謎が過去に属するものだから、です。一冊の本を契機として見出される日常の謎に、西澤保彦ならではの対話を通じて迫っていくスタイルは、過去作を知らずとも充分に楽しめるものでしょう。二作目からお話の舞台となる喫茶店はどう考えても商いとして立ち行かない感じなのだけれど、マスターが語る過去はキィになっているし、彼が醸すひなびた感じがあればこその本作なので、そこはまあ、ということで(笑)。
詳しくは書きませんが、「男はつらいよ」シリーズや、サザンオールスターズの変遷について感じるのに近いものを感じて、「ああもうタック&タカチものは読めないかもなあ」と思ってしまったことは最後に書いておきます。
なお。もし初めて西澤保彦作品を読むという方にアドヴァイスするならば、珍名に早く慣れてしまえば何も難しいことはないよ、ということでしょうか。喫茶店のマスター梶本さんは割と普通の名字だけれど、他の登場人物は私にとっては馴染みのないものが多くてそこだけちょっと難儀しました(読み慣れていてもそうなんです、連作ではあるけれどシリーズとして構成されているわけではないので愛読者メリットみたいなものはありません)。気軽に是非読み始めて、名字に引っかかってもずんずん読み進めちゃえば楽しく読めることは保証しますよ。
そうそう、西澤保彦読者にはより面白い趣向が本作にはひとつ仕込まれています。最初期の作品をリサイクルして別の可能性を探られちゃうと、読み返したくなっちゃうじゃないですか「解体諸因」。
もっと西澤保彦作品が人気でないかなあ、映像化されないかなあって長年思っている私としては、近年のフジテレビによるドラマ化路線には期待せざるをえないし、もしくは「すべてがFになる」「六花の勇者」、「氷菓」や「ハルチカ」などミステリのアニメ化も増えている印象があるから夢を見ちゃうんですよねえ、「七回死んだ男」の映像化を。どこかやってくれませんか、あの偉大な一作を。ぜひ。
というリクエストを最後に瓶に入れてネットの海に流しておしまい。
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月20日土曜日
読みました:麻耶雄嵩「あぶない叔父さん」
こんにちは。千葉です。
たまには小説も読むのです。仕事にもなんにも関係なく、ただミステリが好きなもので。
●麻耶雄嵩「あぶない叔父さん」
「貴族探偵」がまさかのドラマ化で盛り上がる麻耶雄嵩ファンの周回遅れとして(いちおうはメルカトル鮎シリーズなどを過去に愛読していましたが、ちょっと離れていました)、ようやく本書を読みました。
いやあ、麻耶雄嵩だったなあ…で感想を終わらせないとあれこれとネタバレしなくちゃいけなくなる、というかこれでも麻耶雄嵩を知っている人には先入観になる。いやドラマ「貴族探偵」をニ、三話見ていればわかることか…というつまらぬ逡巡を書いた上で。
タイトル通りの小説なんですよ、これ。少し真面目に連作短編の趣向を説明すれば「霧の深さが特徴の田舎町で暮らす高校生たちが遭遇する殺人事件、それを明かす主人公の叔父さん」という趣向が共通の、五つの短編が集められています。田舎の高校生の恋愛事情や、田舎ならではの人間関係などで味付けされているけれど、基本は小味な殺人事件を解決するミステリです。青春小説のテイストが強いかな…
ですが。叔父さんが危ない人なんですよ、本当に。以下本当にネタバレになります。
****************
真相の解明が、基本的に叔父さんの語りの形をとるのですが、その内容が問題で。
彼の語りを真とすれば、叔父さんは探偵じゃなくてあの。とツッコまざるをえない。
もしそれが甥を事件から遠ざけるための嘘だとすれば、事件は終わっていないことになってしまうわけで、それは小説としてどうなのか。”開かれた小説”どころか、そもそも閉じる気がないよ!(笑)っていう。
その辺、麻耶雄嵩だなあと笑って楽しめるか、なにこれ?って怒っちゃうか、何それ意味わかんないって引いてしまうか、反応が分かれるところだろうなあと感じた次第です。私は笑ってましたけど、人に薦めるかと言われるとこのような理由で迷います。そんな短編集でした。
****************
かつて話題に促されて「夏と冬の奏鳴曲」を読んで以来の、長いつきあいとなった麻耶雄嵩がまさかの月九でドラマ化、それも相当に原作を活かした/異化した作りのものが出てきている現実は、正直驚きです。ドラマ、アニメで森博嗣「すべてがFになる」を全力で押したことなども踏まえれば、「本格のフジテレビ」と言ってもいいかもしれない。
世紀の変わり目ころに講談社ノベルスを楽しんでいた私らみたいな人たちが制作側に回ったのだろうなあ、という世代論もできますけれど、かつてのミステリ好きの一人として、素朴に楽しませていただけて嬉しく思っています。願わくは、御手洗潔シリーズがまたTVで見られますように(映画に関してあったらしいトラブル以前の形で、ちゃんと石岡くんがいるやつを、ぜひ)。
では紹介のような個人的な感慨のようなものはこれにておしまい。ごきげんよう。
たまには小説も読むのです。仕事にもなんにも関係なく、ただミステリが好きなもので。
●麻耶雄嵩「あぶない叔父さん」
「貴族探偵」がまさかのドラマ化で盛り上がる麻耶雄嵩ファンの周回遅れとして(いちおうはメルカトル鮎シリーズなどを過去に愛読していましたが、ちょっと離れていました)、ようやく本書を読みました。
いやあ、麻耶雄嵩だったなあ…で感想を終わらせないとあれこれとネタバレしなくちゃいけなくなる、というかこれでも麻耶雄嵩を知っている人には先入観になる。いやドラマ「貴族探偵」をニ、三話見ていればわかることか…というつまらぬ逡巡を書いた上で。
タイトル通りの小説なんですよ、これ。少し真面目に連作短編の趣向を説明すれば「霧の深さが特徴の田舎町で暮らす高校生たちが遭遇する殺人事件、それを明かす主人公の叔父さん」という趣向が共通の、五つの短編が集められています。田舎の高校生の恋愛事情や、田舎ならではの人間関係などで味付けされているけれど、基本は小味な殺人事件を解決するミステリです。青春小説のテイストが強いかな…
ですが。叔父さんが危ない人なんですよ、本当に。以下本当にネタバレになります。
****************
真相の解明が、基本的に叔父さんの語りの形をとるのですが、その内容が問題で。
彼の語りを真とすれば、叔父さんは探偵じゃなくてあの。とツッコまざるをえない。
もしそれが甥を事件から遠ざけるための嘘だとすれば、事件は終わっていないことになってしまうわけで、それは小説としてどうなのか。”開かれた小説”どころか、そもそも閉じる気がないよ!(笑)っていう。
その辺、麻耶雄嵩だなあと笑って楽しめるか、なにこれ?って怒っちゃうか、何それ意味わかんないって引いてしまうか、反応が分かれるところだろうなあと感じた次第です。私は笑ってましたけど、人に薦めるかと言われるとこのような理由で迷います。そんな短編集でした。
****************
かつて話題に促されて「夏と冬の奏鳴曲」を読んで以来の、長いつきあいとなった麻耶雄嵩がまさかの月九でドラマ化、それも相当に原作を活かした/異化した作りのものが出てきている現実は、正直驚きです。ドラマ、アニメで森博嗣「すべてがFになる」を全力で押したことなども踏まえれば、「本格のフジテレビ」と言ってもいいかもしれない。
世紀の変わり目ころに講談社ノベルスを楽しんでいた私らみたいな人たちが制作側に回ったのだろうなあ、という世代論もできますけれど、かつてのミステリ好きの一人として、素朴に楽しませていただけて嬉しく思っています。願わくは、御手洗潔シリーズがまたTVで見られますように(映画に関してあったらしいトラブル以前の形で、ちゃんと石岡くんがいるやつを、ぜひ)。
では紹介のような個人的な感慨のようなものはこれにておしまい。ごきげんよう。
読みました:ヴォルフガング・シャウフラー「マーラーを語る」
こんにちは。千葉です。
読み終わった本のご紹介です。7月に向かって皆さんも読んでください!(変化球)
●ヴォルフガング・シャウフラー「マーラーを語る ~名指揮者29人へのインタビュー」
副題にありますとおり、29人の名指揮者たちへの、マーラーをめぐるインタヴューを集めたのが本書です。残念ながら本書の刊行前に亡くなられたブーレーズ、アバドやマゼール、そして現役ではメータ、ブロムシュテット、ジンマンのような高齢のマエストロたちから最年少はグスターボ・ドゥダメルまでの29人は”綺羅星の如き”とか紋切り型を口にしたくなるほど錚々たる面々です。そしてですね、なんと「uemahlerinterviews」というYouTubeチャンネルでは、本書に収められたすべてのインタヴューを見ることができます。なんて時代!
そのインタヴューは、いくつかのテーマを設けて行われたものです。それはまとめれば以下のようなもの。
・マーラーとの出会い
・具体的な演奏について
・マーラーが表現したものと20世紀の現実の関係
・マーラーが受けた影響、マーラーが与えた影響 等など…
※項目を正確に、そして全部見たい方は、書店や図書館でお手にとってはじめの数ページをご覧ください
中でもレナード・バーンスタインの影響について、また彼のアプローチについてかなりの紙幅を割いているのが、個人的には驚きでした。比較の問題ではありますが、西欧ではマーラー演奏は一度だって完全に消えたわけでもないだろうに、と思いまして。とは言いながら、やはり表立って「いける曲」扱いされるようになった契機としての”バーンスタインのマーラー”は大きかったのだな、という認識を得たようにも思います。旧全集、久しぶりに聴いてみますかね…
なお、意外なほど自伝的な部分については昔風の理解が多かったように感じます。さらにその自伝と作品を重ねるような見方も。つまるところ演奏を、出てきた音を聴いて判断するので何を言っていようと正直なところかまわないのですが、こうも”悲劇の人マーラー”像を読まされるのには正直辟易しました。偉そうですみません(笑)。
その中では、リッカルド・シャイーが言及していたイタリアの音楽学者Gastón Fournier-Facioの著作は、近年変わりつつある「精力的に活躍し、異例の速さで頂点を極めた当代最高の指揮者」「指揮者としての成功に伴って作曲についても広く受容されていった」という方向で書かれたもののように思えて興味が湧くものでした。邦訳、…出ませんよねえ(笑)。
****************
で、前振りの話に戻ります。えー、本書には我らがジョナサン・ノット東京交響楽団音楽監督も登場しているから、”7月までに”なんですね~おわかりですよね~(くだけすぎ)。
さて気を取り直して。ノット&東響のマーラーは第九、第八、第三と経験を重ねて来ました。今年7月に取り上げるのは交響曲第二番、「復活」です。本書に収められたインタヴューでもこの作品については触れられており、それはちょっと意外にも思える初めて演奏した際のエピソードです。いや、意外ではないのかな、これを考えれば…
ともあれ、よろしければこちらの動画をご覧ください、そして7月にはミューザ川崎シンフォニーホールで僕と握手!(懐かしいネタ←阿呆)
うんうん、ノット監督は全集指揮者だものね、ここに呼ばれる資格十分だよね、(東響でも全集になるまでやってくれないかな、チクルスやるなら何年後かな←やると決めつけてる)などと思いつつご紹介はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
※追記。書くかどうかとても迷ったのですが、気にしないのも変であるように思えますので。
あとがきで「小澤征爾へのインタヴューも行う予定だったが取りやめになった」という言及があるので彼がここに登場しないのはわかります。またタイミングの関係で、既に亡くなられたマエストロたちにはお話を伺いようがない。それもわかる、というか当然のことです。また、ニコラウス・アーノンクールのようにマーラー演奏とは縁がなかった方がいないことは仕方のないことです。
ですが、今なお現役で活躍されている二度の全集指揮者、エリアフ・インバルが本書に不在であることに、少なくない当惑が残りました。うーん。
読み終わった本のご紹介です。7月に向かって皆さんも読んでください!(変化球)
●ヴォルフガング・シャウフラー「マーラーを語る ~名指揮者29人へのインタビュー」
副題にありますとおり、29人の名指揮者たちへの、マーラーをめぐるインタヴューを集めたのが本書です。残念ながら本書の刊行前に亡くなられたブーレーズ、アバドやマゼール、そして現役ではメータ、ブロムシュテット、ジンマンのような高齢のマエストロたちから最年少はグスターボ・ドゥダメルまでの29人は”綺羅星の如き”とか紋切り型を口にしたくなるほど錚々たる面々です。そしてですね、なんと「uemahlerinterviews」というYouTubeチャンネルでは、本書に収められたすべてのインタヴューを見ることができます。なんて時代!
そのインタヴューは、いくつかのテーマを設けて行われたものです。それはまとめれば以下のようなもの。
・マーラーとの出会い
・具体的な演奏について
・マーラーが表現したものと20世紀の現実の関係
・マーラーが受けた影響、マーラーが与えた影響 等など…
※項目を正確に、そして全部見たい方は、書店や図書館でお手にとってはじめの数ページをご覧ください
中でもレナード・バーンスタインの影響について、また彼のアプローチについてかなりの紙幅を割いているのが、個人的には驚きでした。比較の問題ではありますが、西欧ではマーラー演奏は一度だって完全に消えたわけでもないだろうに、と思いまして。とは言いながら、やはり表立って「いける曲」扱いされるようになった契機としての”バーンスタインのマーラー”は大きかったのだな、という認識を得たようにも思います。旧全集、久しぶりに聴いてみますかね…
なお、意外なほど自伝的な部分については昔風の理解が多かったように感じます。さらにその自伝と作品を重ねるような見方も。つまるところ演奏を、出てきた音を聴いて判断するので何を言っていようと正直なところかまわないのですが、こうも”悲劇の人マーラー”像を読まされるのには正直辟易しました。偉そうですみません(笑)。
その中では、リッカルド・シャイーが言及していたイタリアの音楽学者Gastón Fournier-Facioの著作は、近年変わりつつある「精力的に活躍し、異例の速さで頂点を極めた当代最高の指揮者」「指揮者としての成功に伴って作曲についても広く受容されていった」という方向で書かれたもののように思えて興味が湧くものでした。邦訳、…出ませんよねえ(笑)。
****************
で、前振りの話に戻ります。えー、本書には我らがジョナサン・ノット東京交響楽団音楽監督も登場しているから、”7月までに”なんですね~おわかりですよね~(くだけすぎ)。
さて気を取り直して。ノット&東響のマーラーは第九、第八、第三と経験を重ねて来ました。今年7月に取り上げるのは交響曲第二番、「復活」です。本書に収められたインタヴューでもこの作品については触れられており、それはちょっと意外にも思える初めて演奏した際のエピソードです。いや、意外ではないのかな、これを考えれば…
ともあれ、よろしければこちらの動画をご覧ください、そして7月にはミューザ川崎シンフォニーホールで僕と握手!(懐かしいネタ←阿呆)
うんうん、ノット監督は全集指揮者だものね、ここに呼ばれる資格十分だよね、(東響でも全集になるまでやってくれないかな、チクルスやるなら何年後かな←やると決めつけてる)などと思いつつご紹介はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
※追記。書くかどうかとても迷ったのですが、気にしないのも変であるように思えますので。
あとがきで「小澤征爾へのインタヴューも行う予定だったが取りやめになった」という言及があるので彼がここに登場しないのはわかります。またタイミングの関係で、既に亡くなられたマエストロたちにはお話を伺いようがない。それもわかる、というか当然のことです。また、ニコラウス・アーノンクールのようにマーラー演奏とは縁がなかった方がいないことは仕方のないことです。
ですが、今なお現役で活躍されている二度の全集指揮者、エリアフ・インバルが本書に不在であることに、少なくない当惑が残りました。うーん。
2017年5月18日木曜日
読みました:デイヴィッド・マシューズ「ベンジャミン・ブリテン」
こんにちは。千葉です。
これも読み終わった本のご紹介です。
●デイヴィッド・マシューズ「ベンジャミン・ブリテン」
20世紀最大の音楽家の一人、と言っていいでしょうベンジャミン・ブリテン(1913-1976)について、自分は知っているような知らないようなところがあるな、と前から感じていました。
幾つかの作品はスコアも入手して見ているし、その音楽を聴いた経験なら子どもの頃に授業で聞かされた「青少年のための管弦楽入門」から現在まで数十年にもなろうとしている。ショスタコーヴィチやロストロポーヴィチとの交流や、ピーター・ピアーズとの生涯に渡る関係は知っている、でも彼のキャリアにおいて大きい要素であるオペラは、代表作の「ピーター・グライムズ」以外は明確に認識できていないように感じる、さらに作品の年代がどうも…
そんな私が読むべき本でした、デイヴィッド・マシューズによるブリテンの評伝は。
WWI開戦の前年に生まれ、ベトナムが長い戦争の後統一された年に亡くなったベンジャミン・ブリテンが、どんな時代をどのように生きたのか、そのときどきにどの作品を作ったのか。200ページほどでそれを一望できるコンパクトな本書は、私より詳しい人にはブリテンの生涯について整理ができて、私のように彼に詳しくない人にはブリテンを正しくその時代に定位できる、そしてそもそもブリテンについてよく知らない方には最良のガイドとして、彼の作品へのアプローチを助けてくれることでしょう。
神童として早くから活躍を始め、フランク・ブリッジやアーサー・ベンジャミンに導かれ、マーラーやベルク、シェーンベルクを”発見”して熱狂し、…そんな若き日から、「ポール・バニヤン」(1941)、そして何より「ピーター・グライムズ」(1945)に始まるオペラ時代、そして「戦争レクイエム」(1962初演)で誰もが認める作曲家に、そんな彼の生涯のアウトラインに肉をつけてくれる本書に、私から付け加えるべきことはありません。
…だとあまりにそっけないので、以下にいくつかの動画を貼っておきますね。いちおうは年代順、権利的にOKなものだけで用意しました(と書くことで、そうではないものを示唆する質の悪い言い方)。
本書の末尾には充実した年表、作品リストが添えられておりますので、それを参照してから読むのもいいかもしれません。20世紀音楽の、いわゆる”前衛”ではない作曲家では最も活躍した一人について、没後40年だった昨年のうちにもっと聴けていれば…と思う気持ちはありますが、なにきっとこの先もっと演奏されることでしょうよええ。本書を読んでの認識で次に彼の音楽を体験できる日が来ますように、と祈っておきます、できたらオペラが聴けたら嬉しいな。
「青少年のための管弦楽入門」ってブリテンの代表作として紹介するのはちょっとアレだよね、と長年感じていたことを告白してご紹介はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
これも読み終わった本のご紹介です。
●デイヴィッド・マシューズ「ベンジャミン・ブリテン」
20世紀最大の音楽家の一人、と言っていいでしょうベンジャミン・ブリテン(1913-1976)について、自分は知っているような知らないようなところがあるな、と前から感じていました。
幾つかの作品はスコアも入手して見ているし、その音楽を聴いた経験なら子どもの頃に授業で聞かされた「青少年のための管弦楽入門」から現在まで数十年にもなろうとしている。ショスタコーヴィチやロストロポーヴィチとの交流や、ピーター・ピアーズとの生涯に渡る関係は知っている、でも彼のキャリアにおいて大きい要素であるオペラは、代表作の「ピーター・グライムズ」以外は明確に認識できていないように感じる、さらに作品の年代がどうも…
そんな私が読むべき本でした、デイヴィッド・マシューズによるブリテンの評伝は。
WWI開戦の前年に生まれ、ベトナムが長い戦争の後統一された年に亡くなったベンジャミン・ブリテンが、どんな時代をどのように生きたのか、そのときどきにどの作品を作ったのか。200ページほどでそれを一望できるコンパクトな本書は、私より詳しい人にはブリテンの生涯について整理ができて、私のように彼に詳しくない人にはブリテンを正しくその時代に定位できる、そしてそもそもブリテンについてよく知らない方には最良のガイドとして、彼の作品へのアプローチを助けてくれることでしょう。
神童として早くから活躍を始め、フランク・ブリッジやアーサー・ベンジャミンに導かれ、マーラーやベルク、シェーンベルクを”発見”して熱狂し、…そんな若き日から、「ポール・バニヤン」(1941)、そして何より「ピーター・グライムズ」(1945)に始まるオペラ時代、そして「戦争レクイエム」(1962初演)で誰もが認める作曲家に、そんな彼の生涯のアウトラインに肉をつけてくれる本書に、私から付け加えるべきことはありません。
…だとあまりにそっけないので、以下にいくつかの動画を貼っておきますね。いちおうは年代順、権利的にOKなものだけで用意しました(と書くことで、そうではないものを示唆する質の悪い言い方)。
本書の末尾には充実した年表、作品リストが添えられておりますので、それを参照してから読むのもいいかもしれません。20世紀音楽の、いわゆる”前衛”ではない作曲家では最も活躍した一人について、没後40年だった昨年のうちにもっと聴けていれば…と思う気持ちはありますが、なにきっとこの先もっと演奏されることでしょうよええ。本書を読んでの認識で次に彼の音楽を体験できる日が来ますように、と祈っておきます、できたらオペラが聴けたら嬉しいな。
「青少年のための管弦楽入門」ってブリテンの代表作として紹介するのはちょっとアレだよね、と長年感じていたことを告白してご紹介はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
2017年5月17日水曜日
読みました:辻田真佐憲「日本の軍歌」
こんにちは。千葉です。
また読み終わった本のご紹介です。珍しく多読モードです。
●辻田真佐憲「日本の軍歌 ~国民的音楽の歴史」
「軍歌を見れば、日本がわかる」を題されたWeb連載をお読みいただければ、だいたいのところは本書の言わんとする事が伝わるのではないでしょうか。もちろん、アウトラインはあくまでアウトライン、本書の情報量はそれだけに収まるものではありません。新書ながら「軍歌」に絞ってその誕生から戦後の小休止、そして現在にもある可能性としての「軍歌」まで考えさせてくれる一冊でした。
新聞社の企画として「海道東征」のリヴァイヴァルが進められている現在のうちに、本書を読むなり上述の連載コラムを読むなりしてそれぞれに考えておくのもいいかもしれません(「海道東征」コンサートのアンコールでは本書でもその成り立ち、受容が語られる「海ゆかば」が歌われていると聞きますし)。国民的アイドルが「キミとボクの物語」として新世紀軍歌を歌いだしてからではもう考える時間はないでしょうから。
柄にもない予言はこのへんで止めておきましょう。ではまた、ごきげんよう。
また読み終わった本のご紹介です。珍しく多読モードです。
●辻田真佐憲「日本の軍歌 ~国民的音楽の歴史」
「軍歌を見れば、日本がわかる」を題されたWeb連載をお読みいただければ、だいたいのところは本書の言わんとする事が伝わるのではないでしょうか。もちろん、アウトラインはあくまでアウトライン、本書の情報量はそれだけに収まるものではありません。新書ながら「軍歌」に絞ってその誕生から戦後の小休止、そして現在にもある可能性としての「軍歌」まで考えさせてくれる一冊でした。
新聞社の企画として「海道東征」のリヴァイヴァルが進められている現在のうちに、本書を読むなり上述の連載コラムを読むなりしてそれぞれに考えておくのもいいかもしれません(「海道東征」コンサートのアンコールでは本書でもその成り立ち、受容が語られる「海ゆかば」が歌われていると聞きますし)。国民的アイドルが「キミとボクの物語」として新世紀軍歌を歌いだしてからではもう考える時間はないでしょうから。
柄にもない予言はこのへんで止めておきましょう。ではまた、ごきげんよう。
2017年5月16日火曜日
読みました:フランツ・バルトロメイ「この一瞬に価値がある ~バルトロメイ家とウィーン・フィルの120年」
こんにちは。千葉です。
読み終わった本のご紹介です。
●この一瞬に価値がある ~バルトロメイ家とウィーン・フィルの120年
三代にわたってウィーン国立歌劇場、そしてウィーン・フィルで活躍する音楽家一家の三代目バルトロメイ(その書き方いけない)による一族の歴史を語る本です。それはそのまま、当事者による120年以上にわたるウィーンの音楽史の一コマでもあるわけです。これは本当に興味深いものでした。
初代はクラリネット奏者として、ボヘミアのチェコ語地域からウィーンに転じてマーラーの時代に(!!)国立歌劇場、そしてフィルハーモニーで活躍することになります。ちなみにマーラーはドイツ語地域の出身なので、同胞意識ではなく演奏の技量において選ばれたと考えていいでしょうね。彼の系譜がオッテンザマー父子にまで続く、ウィーンのクラリネット演奏の伝統を作っているというのですから、生ける歴史なのです、バルトロメイ家は。
二代目はヴァイオリニストとしてフィルハーモニーの副団長をも務め、後ウィーン交響楽団の監督としても活躍されたという異色のキャリアの持ち主です。その演奏活動、キャリアも興味深いのですが、彼の場合はその生きた時代が二つの大戦に、そして冷戦期に重なるものだから否応なく歴史をめぐる物語としても読めてしまうのが、彼個人には本当に大変だったろうと思いつつも興味深く勉強になります。たとえば、彼が敗戦直前にウィーンを離れていたことをもってナチ党員排斥の対象として選ばれてしまうあたり、トーマス・マンやエーリヒ・コルンゴルトに対する戦後の反応を思い出させられるものです。もっと大物のナチ党員も所属しているのに(戦後も!!)、入団のため一時的に入党した彼が団を追われる羽目になるのだから、戦後処理とは悩ましいものです。そのあたり興味のある方はぜひ本書をご覧ください。
そして著者である三代目、チェリストのフランツ・バルトロメイは1970年代から2012年までウィーン国立歌劇場、そしてフィルハーモニーで活躍されたわけですから、彼の活動時期は日本のクラシック音楽ファンが「ウィーン・フィルハーモニーの演奏」として聴いてきたもののほとんどの時代をカヴァーすることでしょう。カラヤンが来たり来なかったり(笑)した結果ベームが復帰して、またバーンスタインがよく来るようになって、たまーにカルロス・クライバーが登場して…といった時代から、サー・サイモン・ラトル、ニコラウス・アーノンクールらとの仕事までを当事者として振り返ってくれています。本書のタイトルもまたアーノンクールの言葉で、バルトロメイ氏がもっとも感銘を受けたものだと言うのですから本当に最近までご活躍された方なのだと思わざるを得ません。
そんな彼が語るマエストロたちの話は実に興味深く(以下繰り返し)。
さらに繰り返しになりますが、私ごときがどうこう書くより、興味のある方には本書を読んでいただくのが一番いいと思いますので、紹介はこれでおしまいです。最後にフランツ・バルトロメイの演奏をお楽しみくださいませ。
ではまた、ごきげんよう。
読み終わった本のご紹介です。
●この一瞬に価値がある ~バルトロメイ家とウィーン・フィルの120年
三代にわたってウィーン国立歌劇場、そしてウィーン・フィルで活躍する音楽家一家の三代目バルトロメイ(その書き方いけない)による一族の歴史を語る本です。それはそのまま、当事者による120年以上にわたるウィーンの音楽史の一コマでもあるわけです。これは本当に興味深いものでした。
初代はクラリネット奏者として、ボヘミアのチェコ語地域からウィーンに転じてマーラーの時代に(!!)国立歌劇場、そしてフィルハーモニーで活躍することになります。ちなみにマーラーはドイツ語地域の出身なので、同胞意識ではなく演奏の技量において選ばれたと考えていいでしょうね。彼の系譜がオッテンザマー父子にまで続く、ウィーンのクラリネット演奏の伝統を作っているというのですから、生ける歴史なのです、バルトロメイ家は。
二代目はヴァイオリニストとしてフィルハーモニーの副団長をも務め、後ウィーン交響楽団の監督としても活躍されたという異色のキャリアの持ち主です。その演奏活動、キャリアも興味深いのですが、彼の場合はその生きた時代が二つの大戦に、そして冷戦期に重なるものだから否応なく歴史をめぐる物語としても読めてしまうのが、彼個人には本当に大変だったろうと思いつつも興味深く勉強になります。たとえば、彼が敗戦直前にウィーンを離れていたことをもってナチ党員排斥の対象として選ばれてしまうあたり、トーマス・マンやエーリヒ・コルンゴルトに対する戦後の反応を思い出させられるものです。もっと大物のナチ党員も所属しているのに(戦後も!!)、入団のため一時的に入党した彼が団を追われる羽目になるのだから、戦後処理とは悩ましいものです。そのあたり興味のある方はぜひ本書をご覧ください。
そして著者である三代目、チェリストのフランツ・バルトロメイは1970年代から2012年までウィーン国立歌劇場、そしてフィルハーモニーで活躍されたわけですから、彼の活動時期は日本のクラシック音楽ファンが「ウィーン・フィルハーモニーの演奏」として聴いてきたもののほとんどの時代をカヴァーすることでしょう。カラヤンが来たり来なかったり(笑)した結果ベームが復帰して、またバーンスタインがよく来るようになって、たまーにカルロス・クライバーが登場して…といった時代から、サー・サイモン・ラトル、ニコラウス・アーノンクールらとの仕事までを当事者として振り返ってくれています。本書のタイトルもまたアーノンクールの言葉で、バルトロメイ氏がもっとも感銘を受けたものだと言うのですから本当に最近までご活躍された方なのだと思わざるを得ません。
そんな彼が語るマエストロたちの話は実に興味深く(以下繰り返し)。
さらに繰り返しになりますが、私ごときがどうこう書くより、興味のある方には本書を読んでいただくのが一番いいと思いますので、紹介はこれでおしまいです。最後にフランツ・バルトロメイの演奏をお楽しみくださいませ。
ではまた、ごきげんよう。
2017年3月27日月曜日
読みました:佐伯茂樹「名曲の暗号」「楽器の歴史」
こんにちは。千葉です。
読了した本のご紹介。
●「名曲の暗号」
●「楽器の歴史」
出版社は違いますが、著者はどちらも佐伯茂樹さん。トロンボーンを東京藝大で学び、現在の肩書は「古楽器演奏家・音楽評論家 東京ヒストリカルブラス主宰」とありますとおり、管楽器に本当に詳しい人、というイメージで長くその著作や解説に触れてきた佐伯さんの本を、まとめて読むと発見がまた多いのですよ。
まず「名曲の暗号」(2013)から読んだのですが、こちらは副題に「楽譜の裏に隠された真実を暴く」とあるように、楽譜を手がかりにふだんは見逃されがちな作品に内包されたメッセージを読み解くものです。テューバの人だった私には常識であるところの「どうしてドヴォルザークは”新世界より”で、ほんの数小節のためにテューバを用いたのか」であるとか、「ラヴェルはどうしてあんな高域でテューバにソロを書いたのか」などの疑問、少し楽器をやっていれば何かしらあると思うんです。そういう素朴な疑問から、ちょっとした指示に隠された意図を読み解き、作品像を新たにしてくれる一冊なんです。
特にも私はマーラーが大好きなので、本書で佐伯さんが本職のトロンボーンにまつわる興味深い話を示してくれることが実に示唆的に思えてなりません。直接には第二章、「名曲に隠された死の概念を知ろう」が、マーラーのオーケストレーションを読む上で実に示唆的なんです。そもそもが教会の楽器として長く用いられてきたトロンボーンによるアンサンブルは、それ自体が「エクワーレ」として死と結びついたものなんです。
作品の中でトロンボーン・アンサンブルが印象的な活躍をするマーラーの曲、と言った時思い出す曲はありませんか皆さん。そう、私事になりますが先日上岡&新日本フィルの公開リハーサルを拝見し、音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏を聴き、そして昨晩パーヴォ&N響の演奏が放送されたばかりの交響曲第六番ですよ。その終楽章の楽器法は実に明確にトロンボーンの含意を活用したものになっているんです。英雄的なホルンに対して死を告げるトロンボーン(とテューバ)、そこからさらに踏み込んでトランペットを黙示録的戦いを告げるものと意味づけてみてもいいかもしれない。
とかですね、私をしてこのような妄想に駆り立てる面白い情報がこれでもか、と掲載されているんです。「エクワーレ」からブラームスの第二番がその曲調とは違う性格を秘めている、とか「魔笛」序曲は前半と後半で描く世界が違う、とかどうです、面白くないですか?
…面白そうに思っていただけないとしたらそれは私の伝え方がいけないせいです、こういう話に興味のある方が読んでつまらないはずのない一冊なんです「名曲の暗号」。ただし、あとがきで佐伯さんも書かれていますが基本的に管楽器を切り口としていますので、弦楽器について解釈の切り口を求める方には物足りないかもしれない、また管楽器について最低限の知識がないと読みにくいかもしれない。というお断りは私からもしておきます。
そしてもう一冊、「楽器の歴史」(2008)は”カラー図解”と銘打たれているとおり豊富な写真で楽器の歴史、変遷を教えてくれます。特に興味深いのは第2章「この時代はこんな楽器で演奏していた」と題された章、ここではバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ラヴェルの時代とウィーン・フィル特有の楽器をアンサンブル単位にまとめて紹介することで、いわゆるピリオド楽器アンサンブルの編成を教えてくれるのです。すっごく私得!(笑)
なにせ「古楽器」とかいう雑な言い回しでくくられる「作曲された時代の楽器、奏法で演奏する」アプローチはもはやWWI頃まで来ていますから、その言葉に内包されるものもあまりにも多くなってしまっている。バッハの時代の楽器でワーグナーを演奏することは面白い音を導けたとしてもそれは遊びの範疇を出られない。たとえばベートーヴェンとブラームスの違いを捉えるときに、フランス革命前後の奏法の変化を想定しなければあまり意味がない。などなど、同時代アプローチをする際に踏まえておくべき事柄は実に多いのです。もちろん、普通の意味での”歴史”も含めて。いわゆる古楽器演奏について最も重要な「どんな楽器で演奏されたのか」について、これだけコンパクトで視覚的に理解できる本はなかなかありません。アーノンクールの著作を読むのもいいけれど(いや読んでおくべきだと思うけれど)、アンサンブルのイメージを視覚的に持つことは意味があると思います。
こういう動画もいいですね。ありがたいありがたい。
****************
ちなみに楽器の変遷についての本はいろいろとありますので、気になった本目についた本を手に取られればそれぞれに面白い話に出会えると思いますが、私が最近知って得心したのは「絵画に書かれてきた楽器は、当時のそれをそのまま描出したものだった」という話です。天使のラッパがスライドトランペットだったり、ヘンテコな形の弦楽器に見えていたものが当時実在した特徴的な楽器だったりする、というエピソードは何で読んだのだったかな…
歴史を知るとよりクラシック音楽は面白いっすよ、とか偉そうなことを申し上げるガラでもございませんが、ここで紹介した二冊は間違いなくクラシック音楽を違う角度から見せてくれることでしょう。なお、かつてテューバを吹いていた私は「フレンチテューバとチンバッソ吹いてみたい」と思い、現在遊びでトランペットを吹く私は「長管トランペットでマーラーさらってみたい」、とか思った次第です。
では今日はこんなところです。ごきげんよう。
※追記。「名曲の暗号」で紹介されている、ラヴェルによる自作自演のボレロ、これは確かにいろいろ考えなきゃいかんですわ。トロンボーンソロ、この時点で”ジャズ風”の演奏をどうしたらいいのか本当に苦労されてます。
(これを踏まえると、ラトル&CBSOの録音の意味がわかる、ような気がしてきました)
読了した本のご紹介。
●「名曲の暗号」
●「楽器の歴史」
出版社は違いますが、著者はどちらも佐伯茂樹さん。トロンボーンを東京藝大で学び、現在の肩書は「古楽器演奏家・音楽評論家 東京ヒストリカルブラス主宰」とありますとおり、管楽器に本当に詳しい人、というイメージで長くその著作や解説に触れてきた佐伯さんの本を、まとめて読むと発見がまた多いのですよ。
まず「名曲の暗号」(2013)から読んだのですが、こちらは副題に「楽譜の裏に隠された真実を暴く」とあるように、楽譜を手がかりにふだんは見逃されがちな作品に内包されたメッセージを読み解くものです。テューバの人だった私には常識であるところの「どうしてドヴォルザークは”新世界より”で、ほんの数小節のためにテューバを用いたのか」であるとか、「ラヴェルはどうしてあんな高域でテューバにソロを書いたのか」などの疑問、少し楽器をやっていれば何かしらあると思うんです。そういう素朴な疑問から、ちょっとした指示に隠された意図を読み解き、作品像を新たにしてくれる一冊なんです。
特にも私はマーラーが大好きなので、本書で佐伯さんが本職のトロンボーンにまつわる興味深い話を示してくれることが実に示唆的に思えてなりません。直接には第二章、「名曲に隠された死の概念を知ろう」が、マーラーのオーケストレーションを読む上で実に示唆的なんです。そもそもが教会の楽器として長く用いられてきたトロンボーンによるアンサンブルは、それ自体が「エクワーレ」として死と結びついたものなんです。
作品の中でトロンボーン・アンサンブルが印象的な活躍をするマーラーの曲、と言った時思い出す曲はありませんか皆さん。そう、私事になりますが先日上岡&新日本フィルの公開リハーサルを拝見し、音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏を聴き、そして昨晩パーヴォ&N響の演奏が放送されたばかりの交響曲第六番ですよ。その終楽章の楽器法は実に明確にトロンボーンの含意を活用したものになっているんです。英雄的なホルンに対して死を告げるトロンボーン(とテューバ)、そこからさらに踏み込んでトランペットを黙示録的戦いを告げるものと意味づけてみてもいいかもしれない。
とかですね、私をしてこのような妄想に駆り立てる面白い情報がこれでもか、と掲載されているんです。「エクワーレ」からブラームスの第二番がその曲調とは違う性格を秘めている、とか「魔笛」序曲は前半と後半で描く世界が違う、とかどうです、面白くないですか?
…面白そうに思っていただけないとしたらそれは私の伝え方がいけないせいです、こういう話に興味のある方が読んでつまらないはずのない一冊なんです「名曲の暗号」。ただし、あとがきで佐伯さんも書かれていますが基本的に管楽器を切り口としていますので、弦楽器について解釈の切り口を求める方には物足りないかもしれない、また管楽器について最低限の知識がないと読みにくいかもしれない。というお断りは私からもしておきます。
そしてもう一冊、「楽器の歴史」(2008)は”カラー図解”と銘打たれているとおり豊富な写真で楽器の歴史、変遷を教えてくれます。特に興味深いのは第2章「この時代はこんな楽器で演奏していた」と題された章、ここではバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ラヴェルの時代とウィーン・フィル特有の楽器をアンサンブル単位にまとめて紹介することで、いわゆるピリオド楽器アンサンブルの編成を教えてくれるのです。すっごく私得!(笑)
なにせ「古楽器」とかいう雑な言い回しでくくられる「作曲された時代の楽器、奏法で演奏する」アプローチはもはやWWI頃まで来ていますから、その言葉に内包されるものもあまりにも多くなってしまっている。バッハの時代の楽器でワーグナーを演奏することは面白い音を導けたとしてもそれは遊びの範疇を出られない。たとえばベートーヴェンとブラームスの違いを捉えるときに、フランス革命前後の奏法の変化を想定しなければあまり意味がない。などなど、同時代アプローチをする際に踏まえておくべき事柄は実に多いのです。もちろん、普通の意味での”歴史”も含めて。いわゆる古楽器演奏について最も重要な「どんな楽器で演奏されたのか」について、これだけコンパクトで視覚的に理解できる本はなかなかありません。アーノンクールの著作を読むのもいいけれど(いや読んでおくべきだと思うけれど)、アンサンブルのイメージを視覚的に持つことは意味があると思います。
こういう動画もいいですね。ありがたいありがたい。
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ちなみに楽器の変遷についての本はいろいろとありますので、気になった本目についた本を手に取られればそれぞれに面白い話に出会えると思いますが、私が最近知って得心したのは「絵画に書かれてきた楽器は、当時のそれをそのまま描出したものだった」という話です。天使のラッパがスライドトランペットだったり、ヘンテコな形の弦楽器に見えていたものが当時実在した特徴的な楽器だったりする、というエピソードは何で読んだのだったかな…
歴史を知るとよりクラシック音楽は面白いっすよ、とか偉そうなことを申し上げるガラでもございませんが、ここで紹介した二冊は間違いなくクラシック音楽を違う角度から見せてくれることでしょう。なお、かつてテューバを吹いていた私は「フレンチテューバとチンバッソ吹いてみたい」と思い、現在遊びでトランペットを吹く私は「長管トランペットでマーラーさらってみたい」、とか思った次第です。
では今日はこんなところです。ごきげんよう。
※追記。「名曲の暗号」で紹介されている、ラヴェルによる自作自演のボレロ、これは確かにいろいろ考えなきゃいかんですわ。トロンボーンソロ、この時点で”ジャズ風”の演奏をどうしたらいいのか本当に苦労されてます。
(これを踏まえると、ラトル&CBSOの録音の意味がわかる、ような気がしてきました)
2017年3月23日木曜日
読みました:中川右介「国家と音楽家」
こんにちは。千葉です。
簡単にですが、読了した本のご紹介を。
中川右介 著 「国家と音楽家」
かつて「クラシックジャーナル」誌の編集長としても活躍された中川右介(敬称略ですみません)の、気になっていた2013年の本をようやく読みました。「デジタル録音なら新しい方だよね」と思ってしまう程度の時代感覚なので、こういうことはよくあるんです、すみません…
読み終わってどう紹介するかと考えて出した結論は「目次を見ていただくのが、この本の内容をイメージしていただく一番いい方法だ」というもの。以下、七つ森書館のサイトから章題のみ引用します。
・第1章 独裁者に愛された音楽
・第2章 ファシズムと闘った指揮者
・第3章 沈黙したチェロ奏者
・第4章 占領下の音楽家たち
・第5章 大粛清をくぐり抜けた作曲家
・第6章 亡命ピアニストの系譜
・第7章 プラハの春
・第8章 アメリカ大統領が最も恐れた男
・エピローグ 禁じられた音楽
20世紀は戦争の世紀、とはご存知「映像の世紀」でも繰り返し語られるモティーフですが、それは音楽から見ても実感できることです。WWIがなければ、もしかしたら大編成管弦楽は「春の祭典」や「グレの歌」を超えて肥大化していたかもしれない、でも現実はそうではなく小編成の室内楽的な音楽に移行した。WWIIがなければ、もしかすると「音価と強度のモード」は展開されず「十二音技法からはこんな徒花も数多く生まれたかもしれません」なんて音楽史もありえた、かもしれない(一説ですが、戦後の秩序希求の中でセリエリズムは発展した、なんて話があるのです)。
でも現実には二つの大戦があり、その後も長く冷戦が、地域紛争が続いたのが20世紀でした。いや、冷戦が終わってもペルシャ湾岸で、そして中東の各地で戦争は続いている、それは忘れてはならないのですが、今はその話ではないので深入りはしません。
そういう時代に、文化はいつも以上に社会と関係せざるを得ない。予算的なことはそれこそ教会や貴族のお抱え時代からあったし、モーツァルトが切り開いた「フリーランス音楽家」時代以降はより明確な拘束として存在していますし、思潮的なものの影響はそれこそオペラの題材を見るだけでもある程度は見て取れるでしょう。
私も少し(サバ読み)生きていた20世紀は、それが実に顕著でした。そこには大きい戦争が影響した、と考える人に、この本が面白くないわけはないのです。ナチスの時代にドイツ、オーストリアの音楽家がどのような苦労をしたか。マーラーともライヴァル関係にあったアルトゥーロ・トスカニーニがその晩年どれだけ長くファシズムと戦わなければならなかったか。西欧国家の中では特にねじれた20世紀を過ごしたスペイン、いやカタルーニャ出身の名チェリスト、パブロ・カザルスの生涯の数奇なること如何許か。ドミトリ・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチはどうやってあの時代を生き延びたか。などなど、WWIIを中心に20世紀を生きた音楽家たちを、その時代の相において捉えなおす一冊です。
もちろん、音楽の演奏解釈において、時代性にのみ注目するのはバランスの悪い判断です。まずは音楽、楽譜から行われるべきですけれど、作曲者を取り巻く時代が無視できないことは昔の作品でも現在の作品でも同様です。時代が遠ければ遠いほど生活も環境も違うし、楽器や奏法も違う、作曲における前提、イディオムについての理解解釈において大きい要素です。ですが、作曲者という人間が生きているその時代に拘束されるのは、私たちがいまこうして生きているのと同じことです。それも、自国が戦場となっている状況はさぞ影響が大きかったことでしょう。たとえば本書では軽くしか触れられていないショスタコーヴィチの交響曲第七番ですが、大祖国戦争と切り離して考えることは難しい、先日少し話題になった「小林多喜二と共産党」を切り離すのが難しいように。その時代に作曲家を、作品を置くことで見えること、少なくないのです。
本書はそんなことに思いを馳せる契機となるでしょうし、何より多くの音楽家たちがどう生きたかをコンパクトに教えてくれる大著です。この形容は矛盾しているように見えるかも知れませんが、約350ページの本文に本当に多くの情報が入れ込まれていますので、少なくとも私の偽らざる実感であることは申し上げておきたく思います。
トスカニーニによるショスタコーヴィチの交響曲第七番はパブリックドメインなので、安心して貼ることができますね!(笑)
なお、本書のエピソード群の中で、今年のシーズンから生誕100年への取り組みが始まるレナード・バーンスタインについての言及が多くあったことを大いに喜んだことを、かつてバーンスタインの音楽に深甚な影響を受けたものとして告白しておきます。
では本の紹介はこれにて。ごきげんよう。
簡単にですが、読了した本のご紹介を。
中川右介 著 「国家と音楽家」
かつて「クラシックジャーナル」誌の編集長としても活躍された中川右介(敬称略ですみません)の、気になっていた2013年の本をようやく読みました。「デジタル録音なら新しい方だよね」と思ってしまう程度の時代感覚なので、こういうことはよくあるんです、すみません…
読み終わってどう紹介するかと考えて出した結論は「目次を見ていただくのが、この本の内容をイメージしていただく一番いい方法だ」というもの。以下、七つ森書館のサイトから章題のみ引用します。
・第1章 独裁者に愛された音楽
・第2章 ファシズムと闘った指揮者
・第3章 沈黙したチェロ奏者
・第4章 占領下の音楽家たち
・第5章 大粛清をくぐり抜けた作曲家
・第6章 亡命ピアニストの系譜
・第7章 プラハの春
・第8章 アメリカ大統領が最も恐れた男
・エピローグ 禁じられた音楽
20世紀は戦争の世紀、とはご存知「映像の世紀」でも繰り返し語られるモティーフですが、それは音楽から見ても実感できることです。WWIがなければ、もしかしたら大編成管弦楽は「春の祭典」や「グレの歌」を超えて肥大化していたかもしれない、でも現実はそうではなく小編成の室内楽的な音楽に移行した。WWIIがなければ、もしかすると「音価と強度のモード」は展開されず「十二音技法からはこんな徒花も数多く生まれたかもしれません」なんて音楽史もありえた、かもしれない(一説ですが、戦後の秩序希求の中でセリエリズムは発展した、なんて話があるのです)。
でも現実には二つの大戦があり、その後も長く冷戦が、地域紛争が続いたのが20世紀でした。いや、冷戦が終わってもペルシャ湾岸で、そして中東の各地で戦争は続いている、それは忘れてはならないのですが、今はその話ではないので深入りはしません。
そういう時代に、文化はいつも以上に社会と関係せざるを得ない。予算的なことはそれこそ教会や貴族のお抱え時代からあったし、モーツァルトが切り開いた「フリーランス音楽家」時代以降はより明確な拘束として存在していますし、思潮的なものの影響はそれこそオペラの題材を見るだけでもある程度は見て取れるでしょう。
私も少し(サバ読み)生きていた20世紀は、それが実に顕著でした。そこには大きい戦争が影響した、と考える人に、この本が面白くないわけはないのです。ナチスの時代にドイツ、オーストリアの音楽家がどのような苦労をしたか。マーラーともライヴァル関係にあったアルトゥーロ・トスカニーニがその晩年どれだけ長くファシズムと戦わなければならなかったか。西欧国家の中では特にねじれた20世紀を過ごしたスペイン、いやカタルーニャ出身の名チェリスト、パブロ・カザルスの生涯の数奇なること如何許か。ドミトリ・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチはどうやってあの時代を生き延びたか。などなど、WWIIを中心に20世紀を生きた音楽家たちを、その時代の相において捉えなおす一冊です。
もちろん、音楽の演奏解釈において、時代性にのみ注目するのはバランスの悪い判断です。まずは音楽、楽譜から行われるべきですけれど、作曲者を取り巻く時代が無視できないことは昔の作品でも現在の作品でも同様です。時代が遠ければ遠いほど生活も環境も違うし、楽器や奏法も違う、作曲における前提、イディオムについての理解解釈において大きい要素です。ですが、作曲者という人間が生きているその時代に拘束されるのは、私たちがいまこうして生きているのと同じことです。それも、自国が戦場となっている状況はさぞ影響が大きかったことでしょう。たとえば本書では軽くしか触れられていないショスタコーヴィチの交響曲第七番ですが、大祖国戦争と切り離して考えることは難しい、先日少し話題になった「小林多喜二と共産党」を切り離すのが難しいように。その時代に作曲家を、作品を置くことで見えること、少なくないのです。
本書はそんなことに思いを馳せる契機となるでしょうし、何より多くの音楽家たちがどう生きたかをコンパクトに教えてくれる大著です。この形容は矛盾しているように見えるかも知れませんが、約350ページの本文に本当に多くの情報が入れ込まれていますので、少なくとも私の偽らざる実感であることは申し上げておきたく思います。
トスカニーニによるショスタコーヴィチの交響曲第七番はパブリックドメインなので、安心して貼ることができますね!(笑)
なお、本書のエピソード群の中で、今年のシーズンから生誕100年への取り組みが始まるレナード・バーンスタインについての言及が多くあったことを大いに喜んだことを、かつてバーンスタインの音楽に深甚な影響を受けたものとして告白しておきます。
では本の紹介はこれにて。ごきげんよう。
2017年1月15日日曜日
読みました:「孤独な祝祭 佐々木忠次」
こんにちは。千葉です。
年末年始に読み終えた本の感想です。
東京バレエ団を、そして日本舞台芸術振興会(以下、NBSと表記)を長年率いた佐々木忠次氏の評伝です。今年の四月末に亡くなられて、その訃報は世界が衝撃として受け止めたことでしょう。もしかすると、日本国内でのそれ以上に。
彼だからなし得た東京バレエ団の成長、そして数々の世界的な音楽家、ダンサー、振付師の招聘は本書の副題である”バレエとオペラで世界と闘った日本人”のままです。その戦いの生涯を、生い立ちから若き日の裏方仕事時代、そして今年に至る長い戦いの日々をこうして知ることで、どうしてもあれやこれやと考えてしまいます、それこそ自分の卑小さから現在のクラシック音楽受容のあり方まで。
どうしてそうなってしまうかと言えば、ひとつには佐々木氏が生涯になされたことの大きさがあるでしょう。佐々木氏が成し遂げた引っ越し公演の存在感の大きさはちょっと表現しにくいです。長年の取組かなって実現したミラノ・スカラ座の来日公演はカルロス・クライバーも愛好したたぐいの音盤(ストレートには書けません)でおなじみですし、リアルタイムの記憶ではウィーン国立歌劇場の「薔薇の騎士」は仙台から羨望の眼差しで見ていたものです(その直前のウィーン公演に、友人が卒業旅行で行ったと自慢されたときはさすがに温厚な私も以下八文字自粛)。
この「現地でも高い評価を受けた公演を最高レヴェルのキャスト、指揮者による上演で日本に持ってくる」スタイルを確立した偉業だけでも一人の生涯には大きすぎるほどの功績でしょう。そこに加えて東京バレエ団の現在に至る道程があるのだから、クラシック音楽界隈にいる私の生涯では何十回分に当たりますやら。と、つい我が身に引き当ててしまうのです。「日本のインプレサリオ」と呼ばれたほどの偉人であるのだから、自分と比べる必要など本当はないのだけれど、本書を読むとついそういう事を考えてしまう。思うに、本書が佐々木氏の生い立ちや若き日についていきいきと描写してくれているから、一個人としての佐々木氏を知ることができて、それゆえに自分個人と引き比べてしまうのでしょう。
そして現在を考えてしまうのは、佐々木氏の活躍した時代を見てしまえば否応なく、と言わざるを得ない。若き日の舞台監督、美術担当時代の同僚が栗山昌良氏や妹尾河童氏らであること、そしてその時期を踏まえれば、その時代は近年再評価が進む「三人の会」と同時期であることに気付かされます。音楽ファンとして、つい著名な作曲家や演奏家を軸に受容史を見てしまいがちなのだけれど、当然そこには彼らとともに舞台を作ったスタッフがいたわけで。そこで共有されていた理想、熱があったから、実際には知らない「あの頃」に輝きを感じてしまう※。かつて夢見られた最高の舞台へのヴィジョンを、今の私たちは共有できているのか?そう問わざるをえないのです。
※いまはその熱がない!なんて言いたいわけではないのです。おそらくは前提となる条件が違う時代をかんたんに比べてしまうのはいくらなんでもアンフェアですし。私たちは過去の時代に行われた試行錯誤の中の最良の部分だけを見て憧れてしまったりするし、現在の良くない部分に落胆するあまり美点に気づけなかったりする、そういうものなんだと思うっすよ。
おそらくは、そうならなかった現在への怒りが、佐々木氏晩年のエッセイなどに現れていたのだと思えば、かつてNBS NEWSに掲載されていたエッセイを毒舌的なそれとして消費してしまった自分の浅さが如何にも恥ずかしい。強すぎる正論の強さは時に笑いに転化するものではあるけれど、当時も本旨を取り違えていたとは思わないけれど、どうにも自分の力不足への反省になっちゃうんですよ。それだけ、佐々木氏の見ていた世界が高く美しかった、ということだとわかってはいるのですが。生きてるうちは精進するしかないですね、ええ。その程度しか学べないのかと言われると「はいごめんなさい」としか言えない小物の感想はそんなところでございます。
****************
この本を読んでいた年末年始、彼が育てた東京バレエ団は第31次海外公演として、ベルギーで「第九交響曲」の上演を行っていました。もう佐々木氏も、モーリス・ベジャールもいないけれど、記念碑的作品の里帰りを大成功させています。
佐々木忠次氏の生涯から千葉はこんなふうに、何か課題を受け取ったように感じていますが、きっと読まれた方それぞれに別の何かを受け取られることと思います。昨今ありがちな「日本すごい」的なものとはまったく違う、「佐々木忠次凄い」(敬称略)としか言いようのない彼の生涯を知って、そして東京バレエ団とNBSという彼が遺した事業と今後も長くつきあっていけるならば我々受け手も幸せであろう、そんなことをしみじみと感じる読後からしばらく経っての感想でありました。
※なお、本書を読み進める中で千葉がメモした内容も残しておきました。目次代わりにでもご参照ください>リンクはこちら
本日は前説も後説もなしでおしまいです。ではまた、ごきげんよう。
彼だからなし得た東京バレエ団の成長、そして数々の世界的な音楽家、ダンサー、振付師の招聘は本書の副題である”バレエとオペラで世界と闘った日本人”のままです。その戦いの生涯を、生い立ちから若き日の裏方仕事時代、そして今年に至る長い戦いの日々をこうして知ることで、どうしてもあれやこれやと考えてしまいます、それこそ自分の卑小さから現在のクラシック音楽受容のあり方まで。
どうしてそうなってしまうかと言えば、ひとつには佐々木氏が生涯になされたことの大きさがあるでしょう。佐々木氏が成し遂げた引っ越し公演の存在感の大きさはちょっと表現しにくいです。長年の取組かなって実現したミラノ・スカラ座の来日公演はカルロス・クライバーも愛好したたぐいの音盤(ストレートには書けません)でおなじみですし、リアルタイムの記憶ではウィーン国立歌劇場の「薔薇の騎士」は仙台から羨望の眼差しで見ていたものです(その直前のウィーン公演に、友人が卒業旅行で行ったと自慢されたときはさすがに温厚な私も以下八文字自粛)。
この「現地でも高い評価を受けた公演を最高レヴェルのキャスト、指揮者による上演で日本に持ってくる」スタイルを確立した偉業だけでも一人の生涯には大きすぎるほどの功績でしょう。そこに加えて東京バレエ団の現在に至る道程があるのだから、クラシック音楽界隈にいる私の生涯では何十回分に当たりますやら。と、つい我が身に引き当ててしまうのです。「日本のインプレサリオ」と呼ばれたほどの偉人であるのだから、自分と比べる必要など本当はないのだけれど、本書を読むとついそういう事を考えてしまう。思うに、本書が佐々木氏の生い立ちや若き日についていきいきと描写してくれているから、一個人としての佐々木氏を知ることができて、それゆえに自分個人と引き比べてしまうのでしょう。
そして現在を考えてしまうのは、佐々木氏の活躍した時代を見てしまえば否応なく、と言わざるを得ない。若き日の舞台監督、美術担当時代の同僚が栗山昌良氏や妹尾河童氏らであること、そしてその時期を踏まえれば、その時代は近年再評価が進む「三人の会」と同時期であることに気付かされます。音楽ファンとして、つい著名な作曲家や演奏家を軸に受容史を見てしまいがちなのだけれど、当然そこには彼らとともに舞台を作ったスタッフがいたわけで。そこで共有されていた理想、熱があったから、実際には知らない「あの頃」に輝きを感じてしまう※。かつて夢見られた最高の舞台へのヴィジョンを、今の私たちは共有できているのか?そう問わざるをえないのです。
※いまはその熱がない!なんて言いたいわけではないのです。おそらくは前提となる条件が違う時代をかんたんに比べてしまうのはいくらなんでもアンフェアですし。私たちは過去の時代に行われた試行錯誤の中の最良の部分だけを見て憧れてしまったりするし、現在の良くない部分に落胆するあまり美点に気づけなかったりする、そういうものなんだと思うっすよ。
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この本を読んでいた年末年始、彼が育てた東京バレエ団は第31次海外公演として、ベルギーで「第九交響曲」の上演を行っていました。もう佐々木氏も、モーリス・ベジャールもいないけれど、記念碑的作品の里帰りを大成功させています。
この喝采を聴いて感じたものを言葉にするならば、「何かを彼らから受け取ったと思うならば、何かの形で次に伝えるしかない」ということになりますでしょうか。それを彼ら彼女らのように理想的な形ではできないまでも、できることをするしかない。最近はそう思わされることが増えてきてそこに年齢を感じますが、それに見合わない非力がなんとも情けない…と、また反省に戻ってしまいました。それだけ大きい存在の方だったのだ、と千葉は感じているのだとご理解いただければ幸いです。【第九】そして熱いカーテンコー… pic.twitter.com/AD0wUCl1na— 東京バレエ団 (@TheTokyoBallet) 2017年1月7日
佐々木忠次氏の生涯から千葉はこんなふうに、何か課題を受け取ったように感じていますが、きっと読まれた方それぞれに別の何かを受け取られることと思います。昨今ありがちな「日本すごい」的なものとはまったく違う、「佐々木忠次凄い」(敬称略)としか言いようのない彼の生涯を知って、そして東京バレエ団とNBSという彼が遺した事業と今後も長くつきあっていけるならば我々受け手も幸せであろう、そんなことをしみじみと感じる読後からしばらく経っての感想でありました。
※なお、本書を読み進める中で千葉がメモした内容も残しておきました。目次代わりにでもご参照ください>リンクはこちら
本日は前説も後説もなしでおしまいです。ではまた、ごきげんよう。
2016年12月29日木曜日
読みました:辻田真佐憲「ふしぎな君が代」
こんにちは。千葉です。
今年はあまり本を読めなかったし、映画も見られなかった。「この世界の片隅に」でさえまだ見られていないし(まさか出身地での公開より遅くなっても見られぬとは)、意外なほどの好評を博している「ローグ・ワン」がいつ見られるかもわからないと来た。哀しい、貧乏が憎い。
本気の呪詛はさておいて、読み終わった本の話。
意欲的な本を何冊も著されているお若い方(ジジ臭い物言い)という印象が日に日に強まる辻田真佐憲氏の、できたら最近作を読みたかったのだけれどまずはこちらから。
自分は出身が蝦夷の地だから(というのは半分冗談だけれど)、大和朝廷の歴史や伝統を声高に言われてもピンとこない。自分のものとは思えないのでそれを誇れ大切にしろ、と言われても困る、っていうか明治以降で大きく国は変わってるけどどこを指してどこまでのスパンで語られる伝統なの?
…とか、気になりませんかそうですか。でも千葉は気になりましたし、今も気になる。特にも、本書が取り上げる「君が代」の話です。ある時期までは別に法で決まっていたわけでもないし、音楽の教科書の最終ページに載ってはいても授業で歌ったこともない。吹奏楽で吹くようになってようやくまともに認識した程度で、それでも”得賞歌とポジション的に変わらない”ようなぼんやりとしたものでしたよ。
その後教育テレビのエンディングテーマ曲だったことを知り、それでもまだピンとこない。もしかするとロサンゼルス・オリンピックで認識したんじゃないかなあ、あのときはソヴィエト、東欧勢がいなくて体操でメダルラッシュだったし(音楽的めばえのひとつに、あの大会の開会式があるような気が、ジョン・ウィリアムズ音楽の映画を見ているとときどきします。…いつも気になるんですけど、ホルストやワーグナーよりもヒンデミットっぽい部分が多いと思いませんかジョン・ウィリアムズ音楽とくに「E.T.」とか←話逸れすぎ)。
その後長じていく中で、先の戦争の経緯もあって国旗国歌にはいろいろな意見があることを知る、そして最初に書いたような違和感を感じる自分としてはなんとも、法整備と言われてもなんともなって思っているうちに新世紀を前に法が制定されて、いろいろありつつ今に至る、と。最近ですね、なんとか会議の初期の大成果があれだったと知ったのは。物事には歴史があるし、出来事の裏には企図した者がいる。ふむふむ。そうそう、「振り返れば奴がいる」が三谷幸喜の脚本だと知ったのはもっと最近ですね(それは関係ない)。
で、本書を読んでいろいろと明確になりました。やっぱりあれなんですよ、政治によって強調される「伝統」って、たいがいが明治までしか遡れない。いや、「遡らない」、でしょうかね。明治の時点で作られた国家観がそのまま「伝統」にすり替えられている、と言い換えてもいい。しかしそれは破綻に終わっているのだから、無条件に肯定するのはどうなのか、っていうか明るい面の話だけじゃなくて問題のある面も語ろうぜ廃仏毀釈とかさ、など言いたくなる気持ちはあるけれど、そのためには事実関係を整理しないとね。
と、考える千葉にはこういう本が本当にありがたい。詞はかなり以前まで遡れる「君が代」だけれど、かなりふわっとした成り行きで明治期に林廣守の音楽になって、戦争の時期に幾つかの作品とともにアレヤコレヤと使われて、結果戦後は忌避されてきた、でもバブル崩壊のころから国旗国歌法の制定を求める人達が活躍しはじめてどうのこうの。ちゃんと書けよ!と気になる方には「本を読んでね!」とお返ししましょう(笑)。明治の明るい側面のひとつとしての「我等如何にして近代國家と為りしか」の一面がわかる本ともいえましょう、試行錯誤の中で体裁を整えて国らしくなったプロセスは楽しめる、かな。
個人的には、最近日本人作曲家の再評価の流れが大戦時の作品にまで拡がっていく雰囲気に懸念を覚えています。明治の国家観は最終的に敗戦という形で否定されて終わっているのに、そこに無前提的に戻ろうという発想がどうにも理解できない。文字通り正確に「同じ轍を踏む」つもりだと言っているようなものですからね、これ。具体的な作曲家や作品名は挙げませんけれど、無邪気に「名曲だ」「感動的」とか言って受容してる場合じゃないです、ほんと。もしその作品に関わる可能性が出てきた時に、どうしたものかは今から考えておかないと…
最終的に自分の話にオチてしまうようではイカンな、と少し反省しつつもこの本の話はこれでおしまい、近いうちに「たのしいプロパガンダ」「大本営発表」と読んでおこうと思いました、辻田真佐憲氏の本。ということで、ごきげんよう。
自分は出身が蝦夷の地だから(というのは半分冗談だけれど)、大和朝廷の歴史や伝統を声高に言われてもピンとこない。自分のものとは思えないのでそれを誇れ大切にしろ、と言われても困る、っていうか明治以降で大きく国は変わってるけどどこを指してどこまでのスパンで語られる伝統なの?
…とか、気になりませんかそうですか。でも千葉は気になりましたし、今も気になる。特にも、本書が取り上げる「君が代」の話です。ある時期までは別に法で決まっていたわけでもないし、音楽の教科書の最終ページに載ってはいても授業で歌ったこともない。吹奏楽で吹くようになってようやくまともに認識した程度で、それでも”得賞歌とポジション的に変わらない”ようなぼんやりとしたものでしたよ。
その後教育テレビのエンディングテーマ曲だったことを知り、それでもまだピンとこない。もしかするとロサンゼルス・オリンピックで認識したんじゃないかなあ、あのときはソヴィエト、東欧勢がいなくて体操でメダルラッシュだったし(音楽的めばえのひとつに、あの大会の開会式があるような気が、ジョン・ウィリアムズ音楽の映画を見ているとときどきします。…いつも気になるんですけど、ホルストやワーグナーよりもヒンデミットっぽい部分が多いと思いませんかジョン・ウィリアムズ音楽とくに「E.T.」とか←話逸れすぎ)。
その後長じていく中で、先の戦争の経緯もあって国旗国歌にはいろいろな意見があることを知る、そして最初に書いたような違和感を感じる自分としてはなんとも、法整備と言われてもなんともなって思っているうちに新世紀を前に法が制定されて、いろいろありつつ今に至る、と。最近ですね、なんとか会議の初期の大成果があれだったと知ったのは。物事には歴史があるし、出来事の裏には企図した者がいる。ふむふむ。そうそう、「振り返れば奴がいる」が三谷幸喜の脚本だと知ったのはもっと最近ですね(それは関係ない)。
で、本書を読んでいろいろと明確になりました。やっぱりあれなんですよ、政治によって強調される「伝統」って、たいがいが明治までしか遡れない。いや、「遡らない」、でしょうかね。明治の時点で作られた国家観がそのまま「伝統」にすり替えられている、と言い換えてもいい。しかしそれは破綻に終わっているのだから、無条件に肯定するのはどうなのか、っていうか明るい面の話だけじゃなくて問題のある面も語ろうぜ廃仏毀釈とかさ、など言いたくなる気持ちはあるけれど、そのためには事実関係を整理しないとね。
と、考える千葉にはこういう本が本当にありがたい。詞はかなり以前まで遡れる「君が代」だけれど、かなりふわっとした成り行きで明治期に林廣守の音楽になって、戦争の時期に幾つかの作品とともにアレヤコレヤと使われて、結果戦後は忌避されてきた、でもバブル崩壊のころから国旗国歌法の制定を求める人達が活躍しはじめてどうのこうの。ちゃんと書けよ!と気になる方には「本を読んでね!」とお返ししましょう(笑)。明治の明るい側面のひとつとしての「我等如何にして近代國家と為りしか」の一面がわかる本ともいえましょう、試行錯誤の中で体裁を整えて国らしくなったプロセスは楽しめる、かな。
個人的には、最近日本人作曲家の再評価の流れが大戦時の作品にまで拡がっていく雰囲気に懸念を覚えています。明治の国家観は最終的に敗戦という形で否定されて終わっているのに、そこに無前提的に戻ろうという発想がどうにも理解できない。文字通り正確に「同じ轍を踏む」つもりだと言っているようなものですからね、これ。具体的な作曲家や作品名は挙げませんけれど、無邪気に「名曲だ」「感動的」とか言って受容してる場合じゃないです、ほんと。もしその作品に関わる可能性が出てきた時に、どうしたものかは今から考えておかないと…
最終的に自分の話にオチてしまうようではイカンな、と少し反省しつつもこの本の話はこれでおしまい、近いうちに「たのしいプロパガンダ」「大本営発表」と読んでおこうと思いました、辻田真佐憲氏の本。ということで、ごきげんよう。
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