2017年5月30日火曜日

読みました:ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」

こんにちは。千葉です。
読み終わった本の話です、とはいえ割と前に読んだものですが。




あとがきの引用ってのは如何にも「読んでないけど書評するぜ」みたいで好きじゃないんですが(笑)、上下巻700ページにも及ぶ本書について一番詳しい人のまとめですから、ここではささやかな禁を破って紹介させていただきますよ。訳者あとがき、685ページから。

ショック・ドクトリンが実際に適用された例として、クラインはピノチェト将軍によるチリのクーデターをはじめとする七〇年代のラテンアメリカ諸国から、イギリスのサッチャー政権、ポーランドの「連帯」、中国の天安門事件、アパルトヘイト後の南アフリカ、ソ連崩壊、アジア経済危機、9・11後のアメリカとイラク戦争、スマトラ沖津波、ハリケーン・カトリーナ、セキュリティー国家としてのイスラエル……と過去三五年の現代史を総なめにするごとく、広範囲にわたるケースを検証していく。(後略、引用終わり)

何か大きな出来事が起きると、そのタイミングに合わせて「本当は議論が必要なのだけれど、今その議論には時間が割きにくい」大きいテーマが政治スケジュールに登ることがあります。ほら、例えて言うならあれですよ、言葉は悪いけど火事場泥棒。
それをただの巡り合わせと見ることもいいだろうし、本書が指摘する「ショック・ドクトリン」として実施されていることもあるでしょう。それぞれの可能性を認識した上で、私は本書の指摘を”陰謀論”と簡単に退けることには同意しません。
というより、ショック・ドクトリンを実施できる側は、この言葉を知っていなくともこの手法を採用することがあるからです。反対者の思考停止の隙を突く、というのは常套手段であり、時として詐欺師の手法ではありますが気づかれなければ効果的なものでもあるわけです。ただ、それができるのは体力資力人材に余裕があるサイドだけだから(何か事が起きた時、被害にあっている当事者はもちろん、被害者の手助けをする人たちも時間や資力などリソースを奪われるわけですから)、変事にあっても粛々と物事をすすめる人たちに対しては安定感より警戒感をこそ持つべきだと考えるわけです。

強力なエンジンは魅力的です、それはかつて未来派が憧れた時代から変わってない。でも個々人が守られるためにはブレーキのほうがよっぽど重要です。「ショック・ドクトリン」はブレーキを無視して全開で走るエンジンにすべてを委ねてしまう契機としての惨事、という視点をいまは歴史となった具体的事例で示してくれていますが、それはいつでもどこでもありうるものだという認識を持つことには意味があるだろう。その認識を新たにしたことでした。



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以下短くない余談です。この本を読んでいたので、この映画が上映前から気になっていたんですよ。



今はもうレンタル店でも旧作扱いでしょうから、気になる方にはぜひ見ていただきたいと思います。映画のタイトルはシンプルこの上ない、「NO」です。

この映画は実話を元に作られており、その舞台は1988年のチリ、悪名高きピノチェト時代の終わり頃のこと。もちろん、現実にはピノチェトの時代は続いていてこの映画に描かれた出来事の最中には”末期”という認識は持てないのだから、今この時をなんとか生き延びなければならない、それがまずは大前提。
ピノチェト政権の信任継続を問う国民投票が近く実施されることが決まり「投票までの27日間、政権支持派「YES」と反対派「NO」それぞれに1日15分のPR ができるテレビ放送枠が許され」(映画公式サイト「ストーリー」より)、さて反対派は如何に戦ったか、というのがこの映画のドラマです。主人公は広告クリエーターのレネ。彼にはこの選挙が茶番にしか思えず、始めはまったく気乗りしなかったのだが…とお話は進みます。

ピノチェト政権は再選を阻まれてチリは民政に移行して現在があるのだからこの選挙で反対派は勝利するのですけれど(酷いネタバレ←えっと)、条件はどう考えてもいいものではない。強権ではあるけれど長く続いてきた政府には相応の裏打ちがあるのだから、それに対抗するのは容易ではありません。
投票に際して正面からテーマを際立たせて訴える?それとも?そのアプローチがどういうものだったかはぜひ映画で見ていただくとして、これは私には選べない手段ではあるけどなるほどな、と思わされた次第でした。
もちろん、映画という形で表現された以上、フィクションはフィクションなのだけれど(厳密に言うならばドキュメンタリーもルポルタージュも誰かの編集が入ってしまう時点で”生”の事実ではありえないのですが)、チリという国が冷戦の終わりにピノチェト軍政を終わらせることができたことの意味を考える契機にはなるのではないかと。

…個人的な感慨も少し。私は残念ながら広告屋でも活動家でもないけれど(笑)、そう遠くない時期にこの映画が描くような投票をさせられるだろう、と感じているものですからまったくもって他人事とは思えないものでしたよ。
チリではいちおうのフェアな選挙であるための担保があったけれど(広告時間の制限はなかなかフェアなものだと思います)、今私たちが住んでいるこの国で行われる可能性が高い国民投票は、どうも広告についての規定が相当に緩いものになっているようですから、さてどうなるでしょう。TVの広告や番組、新聞の紙面のように一方通行のメディアに片方の見解だけが載り(豊富な資金を集めてくるでしょうからね)、反論の声はなかなか届かない。そんなディストピア的熱狂が予想できてしまって、私はあまり明るい見通しは持てないでいます。
こういう言い方はフェアではないなと思うのだけれど、私はもうそんなに若くないので国がどう変わってしまってもそれまでに生きた時間のほうが長かった、ということになるでしょう。ボンクラでもなんとか生きてこられたいわゆる戦後日本を私はそれほど否定しないのだけれど、その体制は終わる可能性が見えてきています。その先にあるのがなんなのか、想像はつくけどそれが現実になることのインパクトや体験させられる事ごとはその日が来ないとわからない。私は来てほしくないと思う未来の姿はピノチェト時代のそれにも似ているように思うし、もっと率直にそっくりなものは少し歴史を振り返れば、ね。という。未だ来ていないものについてうだうだ言っても仕方ないのだけれど、私としては現在の延長がそう見えるな、という感慨を抱かせる読書と映画鑑賞でした。というお話。

辛気臭い感じの話が長くなったので最後に一曲どうぞ。


…まあ、この曲もピノチェト時代に書かれた曲なんですけどね、と言いつついい加減長いからこれでおしまい。
ではまた、ごきげんよう。

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