(承前)…と書いておきながら、まず書くのはハチャトゥリアンではなくショスタコーヴィチの話だったりする。それも、とある本の話から。余談ではありますが、お時間のある方はお付き合いくださいな。この回はスキップしても読めるように構成してますので「そんなの知ってるわ」と思われた方は次回へおすすみあそばせ。
ハチャトゥリアンの作品について考える中で必要に迫られて、もう本当に何年ぶりかわからない再読をしているんですよ「ショスタコーヴィチの証言」。編者はニコライ・ヴォルコフ、…そういう説明はいいですかね。この本、昔の読後の印象などほとんど忘れた今になって(おい)読み直せば、どうしたって看過できないヤバさがいろいろとあることに気付かさせられるのです。
率直に結論を書きます。本書を読めば、誰もがDSCHのことをこういう人としてイメージするだろう。京極堂もびっくりの博覧強記にして弁舌巧みすぎる作曲家。政治の裏にも、自分は属していないグループの動向にも精通し、それらを数時間のインタヴューの中で立て板に水とばかりに腹蔵なくヴォルコフに話してくれる、超絶話したがりの物知りさん。
…さすがにそれは、ねえ。作曲者に近い人ほど厳しく批判した、というのはまずそういうところが問題だったんじゃないかなあ、というのが、物書きの端っこの方に身を置くようになった私の一番の感想だ。どういうことか、といいますと。
端くれくらいの物書きさんとして思うに、これは「インタヴューで聴けた話(分量不明)」と「自分が整理して示した情報(かなりの量と推測される)」をショスタコーヴィチとヴォルコフ、つまり別の話者による文章として明示して分けずに、すべての情報と見解をショスタコーヴィチのものとしようと欲をかいた本だ、と考えるのだ。その結果、どうにも隠しようのない大穴として、上記のような珍妙なDSCH像ができあがってしまった。そう考えるのです。
読み進めるうちに、「もしかするとここは本人の言葉では」と思える部分と「誰だいこのジャーナリストさん」と言うしかない部分が交錯する、なんともおかしな文章であることに気がつくのだ。ヴォルコフが何度かのインタヴューはしていたということから考えれば、「本当なら文字起こしから編集段階で整理すべきところを、自分の発言も推測も印象も何もかもを作曲家が話した本当の発言(それがどれくらいの量かはわからない)として分離できないように収められた本」なんですよこれ。インタヴューを一人語りに構成したものとも違う、かなりたちの悪い作文で、これはよく受け取っても「事実をもとにしたフィクション」だ。それでは「偽書」だと言うしかないでしょ、「ショスタコーヴィチの証言」を名乗っているのだから。編者はきっと言うのだろう、「私はここまで話してもらえるほどに信頼を得ていたんです」と。だがそれを、どう信じればいいのか。彼に親しい人たちほどこの本をまともな「証言」とみなしていないというのに。DSCHのサインがある?文字起こしの段階だったのでは?なんて疑われることがないと、本気で思ったんですかねこの人。
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実はとあるフレーズの出典がこの本だったと思い出して、必要にかられて再読したのに過ぎない。私は学問を、学者を、その仕事を信用するので、本書を「偽書」とみなすようになって久しいので、せいぜいが「鉄のカーテンの向こうの雰囲気を教えてくれるかもしれない本」を積極的に再読することはない。ところどころにDSCHの言葉かもしれないフレーズがあるのがなんとも面倒ではあるが、それでもそう割り切るしかない、そういう本だ。
ただ。こうも思う。先ほども書いたが「鉄のカーテン」の向こうは知りようがなかった時期が、長く続いた。作品と公式なステートメントだけが届くうち、ソヴィエトが生んだ若き天才は大戦時に世界の英雄となり、しかしその後東側の看板に成り下がり、老いて枯れて死んだ。そんな彼への見方を覆してくれるこの本は、‘’使えた‘’だろうな、と。
東側の体制批判をしながらショスタコーヴィチの作品のうち評価できるものを是々非々で拾うには、本書はどこまでも使えた。彼の真意はこれなのだ、「だから」DSCHは評価されるべき。…なんとも、善意から出たのだとしても非常にたちの悪いねじれた発想なのだが、政治を芸術(ここはスポーツとか科学とか、様々に置換可能)を切り分けて考えるためについ導入してしまいがちな方便である。
ともあれ、本書を”使う”ことによってDSCHはソヴィエト共産党の看板から、また世界のある一時代を代表する作曲家になった。その功は認めてもいい、でもこれは偽書、またはフィクションだ。共産圏では地下出版でしか言えなかった”真実”もあった、本書もそのたぐいではないのか?本書には、お前も認めるとおり作曲家自身の言葉が含まれているように見えるし、ソヴィエト社会のある面を描き出しているのではないか?
先ほど書いた方便としての効能や、こんな疑問も持たれるだろうことがわかっていて、それでも偽書、またはフィクションだと言わせてもらおう。時代を、その空気を描く作品がなにかのまがい物でなかったらよかったのに、と私は思うのだ。一流のフィクションがショスタコーヴィチの堕ちたイメージを読み返させたのなら、きちんとした手続きを踏んだ書物が”真実”のショスタコーヴィチ像を示してくれたのなら、どんなによかったか。
今さら嘆いても仕方のないことではある。大衆小説が時代の空気を伝えることもあるのだから、私もここで”方便”として本書を少しだけ使おうと思う。ということで、余談はおしまい。(続きへ)
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