2019年3月20日水曜日

補遺:そして1963年

11日間に4度もあの常軌を逸した作品が演奏されるお祭りも半ばを過ぎた。私は残念ながら明日から始まる後半には参戦できないが、作品成立時点をめぐる話の補足として、最後にひとつ記事を書く。そのお題は「交響詩曲はなぜ交響曲として蘇らなければならなかったか」「その時期にはどういう意味合いがあるのか」というものだ。

ジダーノフ批判(1948)から5年、スターリンが病没する。偶然にもその日、セルゲイ・プロコフィエフが亡くなり…という話は今回は割愛。スターリンの死は、「雪どけ」と言われる文化的締付けの緩和を招き、その先にスターリン批判(1956)が行われて、フレンニコフ率いるRAPM体制は変わっていなくても次第に社会主義リアリズムが強制してくる楽観主義や素朴さから離れた作品も作られ、鑑賞されていく。その端にはまたしてもショスタコーヴィチの久しぶりの交響曲第一〇番(1954)があり、ハチャトゥリアンの代表作としては「スパルタクス」(1954−56)も登場する。前に書いたとおり、革命40年の1957年にはショスタコーヴィチが交響曲第一一番で第一次ロシア革命を描き、それはあたかもスターリン以前への回帰を目指しているかのようだ。

だが1960年、ショスタコーヴィチは共産党への入党を受け容れる。「証言」などの書籍によれば、彼は本当のところとにかく嫌で厭で仕方のなかったことのようなのだが、その真偽は例によってわからない(もちろん、彼は体制の看板になりたいような人ではないだろうとは理解しているけれど)。ただ、この翌年に交響曲第一二番(1961)を書い(てしまっ)たことで、彼の評価は西側ではかなり落ちることになるが、彼のやることだから表に出てきた事象だけでもそう一筋縄ではいかない。第一二番からわずか2ヶ月後に、プラウダ批判を受けて初演を撤回した交響曲第四番(1936)の復活初演を実施しているのは、もしかして「もう自分も党員なのだから、堂々とやらせてもらう」という宣言なのではないか?更に翌年の1962年にはあの交響曲第一三番、「バビ・ヤール」が作られて、これまた大いに物議を醸すことになる…そして、更にその翌年にはついに封印された「交響詩曲」が交響曲第三番へと変更され、演奏される機会を得ていくことになるわけである。
興味深いのは、この段落で示した事実すべての後ろに、キリル・コンドラシンというマエストロの存在が見えるところだ。第四番の蘇演、第一三番の初演、そして「交響詩曲」のセッション録音(これはちょっと時期が離れて1969年)と、この時期のマエストロにインタヴューしたい。話が聞きたい。嗚呼。今回ハチャトゥリアンの作品に興味を持たれた皆さん、ぜひメロディア録音の交響曲第三番を聴いてみてください、ロシアのオーケストラの音が炸裂していますので。それとはまったく異なる個性のプレトニョフと東京フィルの演奏も、より楽しく反芻できますので。


ショスタコーヴィチの交響曲第四番、そういえば近く演奏されますよね(すっとぼけ)。

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なお、こうしてソヴィエトの音楽状況を見ていくとき、ついちょっと「スターリン(に代表される政治家)とショスタコーヴィチ」のような、直接的対立項で見てしまいがちだが(誰とは言わないが文学方面からの影響)、それでは抜け落ちるものが多すぎるように最近は感じている。それこそRAPMの存在は、プラウダでスターリンでジダーノフで…という政治と芸術の二項的語りでは捉えられなくなってしまうわけだし。そこで活躍してしまった、フレンニコフやムラデリのような、もはや音では聴かれない、政治的な活動によって名のみ残る作曲家たち。
そこで今回参照してほしいのが、川崎浹 早稲田大学 教育学部名誉教授のホームページにある「現代社会文化論」講義録だ。グールドの訪ソ(1957)、バーンスタイン&NYPによる「春の祭典」演奏(1959)、そしてストラヴィンスキーの「帰国」(1962)、ブーレーズ訪ソ(1964)、これらがスターリン没後のソヴィエトで起きていることが見て取れるこの講義、とても勉強になるっす。ショスタコーヴィチをめぐるあれこれの出来事やハチャトゥリアンによる「交響詩曲」という機会音楽から公的な性格を持つ交響曲第三番への変更などとこれらの外部からの刺激が同時期に起きていることは留意すべきではないだろうか。これらはいうなれば鉄のカーテンに隙間ができてきて、そこから互いの姿が見え始めた時代に起きたことごとなのだ。


そしてさらに世界史的に視点を広げれば、1953年の死去によってスターリンからフルシチョフへと指導者が変わり、それでも冷戦が激化して挙げ句キューバ危機が起きるのが1962年。それは「バビ・ヤール」が書かれる年で、そしてこの年フルシチョフは有名な「豚のしっぽ」発言をしてしまうのである。ルイセンコ学説への肩入れなどもあって文化的方面からネタにされがちなフルシチョフだが、アメリカ訪問時に「ディズニーランドに行けなかった!」と激怒したりするキャラクターのおかげでどうにも憎めないところがあるので、評価が難しい。ただ、私たちが彼を音楽面から見るならば、スターリン時代ほどの制約には感謝したい気持ちになる。いや、そこで生きるしかなかった人たちには、彼の時代もその後も、特段いい社会ではなかったのだろうけれど…


ともあれ、こんな時代に「交響詩曲」は交響曲第三番 ハ長調になりました、というお話はここまで。後半戦に参戦される皆さん、楽しんでね!では。


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