2019年3月13日水曜日

その三:「交響詩曲」、それは失敗したプロパガンダなのかそれとも

(承前)
さていよいよ、というところで引っ張ったアラム・ハチャトゥリアンの交響曲第三番 ハ長調 「交響詩曲」を巡る論考もいよいよ最終回。だが、この曲について書く前に、この作品と同時期に書かれたセルゲイ・プロコフィエフの交響曲第六番 変ホ短調 Op.111について書かせてほしい。戦時に書かれた第五番は作曲当時から大好評で演奏頻度も高い作品だが、第六番は近年まではそこまでの認知を得てこなかった。第五番が描く、トリッキィな面はあるにしても希望のある響きから一転、プロコフィエフはどこまでも内省的な音楽を展開し、その極点で世界が反転して超越に至るが如き独自の世界を創り出している。ムラヴィンスキーの指揮による初演は大成功し、スターリン賞も得ている。


折角の機会ですから、プロコフィエフも聴いてみてくださいませ。

戦後に陽から暗へ、と動いたプロコフィエフに対し、戦時に悲劇を描いたハチャトゥリアンは戦後に何を描いたか。その答えは、三管編成のオーケストラとオルガン、そして15本のトランペットによる、圧倒的な奔流だった。

オルガンを編成に加えた作品なら交響曲だって例がある、誰もがすぐにサン=サーンスやマーラーの作品を思い出すだろう。管弦楽作品や声楽曲だっていくらでも思い当たる。また、バンダを用いた交響曲だってマーラーがある(また君か)オペラなら当然のように用いられるものだ、それに管弦楽曲なら20世紀には例示に事欠くまい。大人数の金管楽器が活躍するものに限定してもヤナーチェクの「シンフォニエッタ」(1918)のような人気曲もある。だが、である。いくらなんでもそれらを併用し、しかもそれらがときにそれぞれに独立して活躍し、最終的に巨大な形容し難い何ものかを作り出す作品が他にあるだろうか?

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私がこの曲を最初に知ったのは吹奏楽編曲版だったから、その編成がもたらす効果についてはイメージするのも難しかった。なにせ、吹奏楽ではオルガンを使わないし()、コンクールには人数制限があるからトランペットの人数も限られてくる。それでもこの曲のインパクトは大きく、いまでも取り上げている団体があるようだ(このジャンルから離れて久しいもので…)。だが別の編成に移されて、本来あるべき楽器が削られたそれは言うならば黒岩涙香の翻案小説で西欧の小説を知るようなもの(それはそれで面白いのだけれど)。どうせなら、オリジナルを知りたい、人にも知ってほしい。だってそのほうが圧倒的に(自重)なのだから。
録音で聴くなら大好きなキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、またはフョードル・グリュシチェンコ指揮BBCフィルハーモニックの演奏をどうぞ。

前にも書いたとおり、1947年に革命30年を迎えた記念の作品としてこの作品は書かれた。その経緯を知った時私はこう思ったものだ、(党の要求に過剰に応えちゃったのかな…)と。ショスタコーヴィチが戦後自粛気味だったこともある、「森の歌」のような作品を求められたのかな…なんて思ったわけだ。しかしここまで見てきたとおり、戦中から戦後の時期にソヴィエトでは久しぶりに自由な創作が許されていたのだ、結果的にではあるとしても、悲劇を代価にして(ショスタコーヴィチは例外的に謹慎気味だったけれど)。ならばこの作品もまたプロコフィエフの交響曲第六番同様、ハチャトゥリアンが自らの意志で創り出したものとして捉えられるべきだ。

では”失敗したプロパガンダ”ではない、この作品の真意とは、その演奏効果とは…その答えはいまの私が出すのではなく、ミハイル・プレトニョフと東京フィルが、そしてその演奏を体験した皆さまが出すことになるだろう。わずか11日間に四度この作品が演奏されるような機会は、きっとこの先ない。また、それぞれに違う会場で演奏されることで、その日毎に違った表現が楽しめることだろう。私としてはぜひ、一人でも多くの方がこの常軌を逸した作品に実演で触れてくれることを希望する。

・3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン
3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール
3月21日(木・祝)15:00開演 Bunkamura オーチャードホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

・響きの森クラシック・シリーズ Vol. 67
3月23日(土)15:00開演 文京シビックホール

チャイコフスキー:スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op.82
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ

  交響曲第三番 「交響詩曲」

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演奏を聴く前に、いま私が考えているのは、プロコフィエフのそれと同様に創造上の制約から解放された作曲家が生み出した「ロシア・アヴァンギャルドの再来」だったのではないか、ということだ。かつてRAPMに、スターリンの共産党によって潰された奔放な創造が息を吹き返した時代に、ハチャトゥリアンが出した答えが音楽によるスプレマチズムの実現だった、と。
だが、戦争という悲劇によって生まれたこのユートピア的状況は長く続かない。ムラデリの歌劇「偉大なる友情」への批判に始まる「ジダーノフ批判」として知られる一連の”形式主義”攻撃が、戦中から1947年ころまで続いたこの状況を終わらせてしまう。プラウダ批判はまだ有効であると宣言され、プロコフィエフもハチャトゥリアンも、自粛していたショスタコーヴィチも批判されて、ありえたかもしれない新しい「ロシア・アヴァンギャルド」の可能性は消えた。後にジダーノフが死に、スターリンが死んでもここで否定されてしまった可能性が帰ってくることはなかった。ソヴィエトなき今、当事者ならぬ私たちはその後に書かれた作品にも親しんでいるし、制約があってもそのときどきに興味深い作品を生み出してくれた作曲家への敬意は変わらない。だが、ここで途絶した可能性について思いを馳せる時、死んだ子の歳を数えるような気持ちになる私である。
幸いなことに私たちにはポポーフの交響曲第一番を、ショスタコーヴィチの交響曲第四番を、そしてハチャトゥリアンの交響曲第三番「交響詩曲」を実演で聴く機会が与えられる時代を生きている。繰り返しになるが、一人でも多くの方がこの作品に、実演で触れてくれることを希望してこの稿を終わる。読了いただいた皆さまに、このシリーズで名前を挙げたすべての人に感謝を。

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