2019年3月8日金曜日

表現力の限界に挑み、勝利した ~東京フィルハーモニー交響楽団 第914回サントリー定期シリーズ

いささか旧聞にしてしまった遅筆を恥じつつ、早速本題に入ります。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第914回サントリー定期シリーズ

指揮:アンドレア・バッティストーニ
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

デュカス:交響詩『魔法使いの弟子』
ザンドナーイ:『白雪姫』
リムスキー=コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』

最初に演奏された「魔法使いの弟子」だが、もしかすると、2019年最初の定期演奏会、その最初の曲ということでさすがのバッティと東京フィルにも手探りの部分があったかもしれない。序盤、管楽器のソロがうまく届いてこないあたりにどうにも引っかかる(このホールにときどき感じることではあるので、問題は会場の音響面であるようにも思う)。
そんな引っかかりがあったとはいえ、音楽が進むに連れてじわじわと魔法が暴走(ファンタジー系の深夜アニメみたいな言い方)していくさまは、某ネズミさんよりもどこかチャップリンが「モダン・タイムズ」で描いたテクノフォビアにも届く射程があるように思えてくる(ゲーテにはその視点、視野があると思う)。バッティストーニが採用した「速めのテンポを指示のないところでは緩めない」アプローチが、そんな感触をもたらしたのかもしれない。また、そのインテンポでの進行を優先させた演奏は高まり続ける緊張感を生むのみならず、リズムの愉しさを存分に示すものだ。その語りに「この曲はたしかに交響的ではあるけれど、何よりスケルツォなんですよ」と言われたように思う。そして彼らしい美しいピアノの透明感には1897年の作品らしい、繊細なサウンドの妙を堪能できた。
ソリストでは、やはり大活躍するファゴットセクションを挙げるべきだろうけれど、バッティストーニが起立させたグロッケンシュピールの活躍にも大きい拍手を贈りたい。昨年の私の”復帰戦”となったヴィオッティとの演奏会で、ドビュッシーで無双されていたのと同じ方であったろうか(プレイヤー各位のお名前チェックに無頓着ですみません。なお、無双は大げさに言っているのではありません)。

さて続いては、会場のほとんどの人が初めて聴いたザンドナーイの「白雪姫」。この曲、いまやどんな曲でも見つけられそうに思える某チューブでさえ断片すら見つけられないという、今どき珍しい「秘曲」なのだ。こうした作品を取り上げる際のバッティストーニの真摯なアプローチには、いつも感心させられる。自身作曲をするからこその自然なリスペクトなのかもしれないが、過去にレスピーギ、ロータ、そしてザンドナーイの作品に示してきた献身は、この日も存分に発揮された。
さてそんな秘曲ザンドナーイの「白雪姫(Biancaneve)」は、松本學氏の解説によれば、1939年に「管弦楽のためのあるお伽噺の印象」として作曲されたというバレエ音楽にもとづいた、五曲からなる組曲だ。冒頭第一曲はクラリネットが白雪姫の歌をライトモティーフ的に提示したあとはストーリーを追えるように作られている。森で迷う白雪姫は小人たちの家にたどり着く、しかしリンゴで命を落とす姫を悼む鐘、そこに王子が駆けつけて大団円へ、とご存知のストーリーが展開されるわけだ。だが某1937年制作のアニメ映画(というかそのチャーチル、ハーライン、スミスによる音楽)とは違い、ノンシュガーで甘くない音楽なので聴いて感じる印象はかなり違い、バレエ音楽として作られたこの作品は、大人向けのファンタジーだった。
演奏は、エピソードをそのまま描くスタイルで聴きやすい、プロコフィエフやマルティヌー、コダーイと同様のお話に寄り添った音楽を書いた作曲家が20世紀の半ばのイタリアにもいたと示したと言えるだろう。問題は唯ひとつ、この経験を深める術がないことである。もしかして、もう何作か取り上げたあとに録音するのだろうか、バッティストーニ。そんな日が来ることを期待させる演奏が「ジュリエッタとロメオ」に続いて行われたことを素直に喜びたい。

さてメインのリムスキー=コルサコフの代表作。スコアをざっと読めば、「二管編成のオーケストラでできること、全部やってみた!」(何チューバーだ)みたいな曲であることがすぐにわかる。それを読み込んだバッティストーニと東京フィルは、その要求をこなした上で「俺たちならここまでできますよ!」と、ある種のオーケストラのための協奏曲として演奏してくれた。もちろん、このコンビネーションがドラマ的な側面をないがしろにするわけもなく…ということで、演奏の細部まで踏み込んで書く。

この日は16型の大編成だったのだけれど、個人的には(二管編成には大きすぎないかな…)なんて思っていたのだ。だがしかし、休憩明けてメンバーが入場してきた最後に登場したテューバが、ザンドナーイのそれとは違う大きめの楽器(B♭管かC管)だったところで(ああそういうことですか)と心の中で膝を打った。シャハリヤール王の威圧的な主題を大きく示すとか、あそこであれで、ここで…なんて思いを巡らす前に巨大な音塊がホールを満たす。そう、そういうことですよ。
第一楽章はテンポの揺らし方や明確に特徴的な強弱があっても、それでもきっちりした「普通に良い演奏」だったと思う。それが変わったのは、アタッカで始められた第二楽章の、ヴァイオリンとハープの対話が終わってファゴットが歌い始めたときのことだった。いわゆる楽譜どおりの、譜割を大事にした演奏とは対極的な、伸縮自在のソロが彼女から始まったのだ。ソリストをじっと見据えて、小さく指示を出すバッティストーニはまるでオケピットの中で歌手に指示を出す時のよう、それに応えたソリストはやりすぎを恐れないというより「表現しないで埋没すること」を恐れてでもいるかのように、登場するソロの面々がそれぞれグイグイと前に出てくる。そんな積極的な表現が聴かれた第二楽章以降、この作品のドラマ性がどんどんと強調されて、私たちも王と同じようにシェエラザードの語りにどんどんと引き込まれていくことになるのだ。嗚呼各楽器のソリストたちは姫の声色だったのか、なんて思わされながら聴けばこの曲の繰り返しの多さも気にならない、どころか納得なのである。
音楽的に作曲者が示した多彩なサウンド的要求をこなした上でドラマを示す、そんな多面的なアプローチが成功していたからだろう、この日の演奏はこの曲をよーく知っている、何度も聴いた人にさえ何度となく新鮮に響いたはずだ。ちょっとした強弱やバランス、テンポの推移やオーケストレーションの明示、などなど…だが、先ほども書いたようにこれらは楽譜から読み出されたものだ。私はこういうアプローチを”楽譜通り”と呼ぶことに抵抗を感じない。この、オーケストラが持つ可能性を存分に示したこの演奏は、音によるドラマでありながら”オーケストラのための協奏曲”として響いた。
この作品に関しては、私は長年に渡ってキリル・コンドラシンがコンセルトヘボウ管を指揮した、引き締まった直線的な演奏を好んできたが、それとはまったく違う方向のこの日の演奏もまたひとつの”正解”として受け取った。幸いなことである。
*なお、一部に楽譜の改変があったことは、さすがに「楽譜通り」とは言いませんよ、ええ。一楽章のトロンボーン&テューバのクレッシェンド、三楽章終わりのオクターヴ上げなどなど。演奏の伝統の中でそういうアプローチが果たしてきた意味を軽視するものではありませんが。関係あるようなないような話は後述。

こと演奏そのものについて書き残すべきは、やはりソリスト各位の活躍ということになるだろう。とはいえ”合奏協奏曲”であってみれば、ほとんどの首席奏者にあらためて喝采を送らなければならなくなるのだが、見事な演奏への感謝として順にあげていこう。
もちろん、はじめに挙げるべきは三浦彰宏コンサートマスターである。シェエラザード姫の語りの地の文であり、暴虐で知られる王を籠絡する手練手管であり、なによりヴァイオリンの技工の粋を集めた長大なソロの連続であるこの作品で求められる役割を、期待以上の水準で音にしてくれた。そして「魔法使いの弟子」でも活躍した木管セクションの即興スレスレにまで攻めたソロの連続は、この作品を”おなじみのアレ”扱いさせない、強い表現力と集中力があった。…フルートのソロが抑え気味だったように思えるのは、上述した語り手である姫の声色が収まるところがソプラノの、フルートとヴァイオリンの音域だからなんだと理解していますよ。奔放なまでに攻めまくる若手たちの演奏を受けてまとめる意図もあったかもしれませんけど(笑)。
セカンド・トロンボーンが活躍することで知られるこの曲で、そのソロに合いの手を入れた場面ほかでのトランペットの技術的精度には心底感心した。この曲ではあまり言及されないポイントかもしれないが、この曲の速いタンギング要求はなかなかのもので(スネアドラムがトランペットセクションの横にいたのは偶然ではない)、それをセクションで合わせるのは数多くの録音でも失敗しているのである。この日の演奏ではそんなことはなく、安心して楽しませていただけた。
管弦が標準的な二管編成なのだが、打楽器は多彩に用いられている。前二曲でも活躍した各位の仕事にも拍手を、そしてヴァイオリンに寄り添ったハープに最後に拍手を。ここでは挙げられなかった各位も含めて、アンサンブルのすべての皆様の力で、合奏協奏曲としての「シェエラザード」が成立したのだと感じている。

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そしてこれは雑感に類いする話。
バッティストーニの演奏からは、その作品が後世に与えた影響が聴こえてくる瞬間があって、その作品だけに完結しない視野をもって演奏しているんだな、ということが感じられることが多い。以前聴いた「春の祭典」の絶妙なバランスからは、初めて「あっここはそのままブラスロックなのか」と思えた瞬間があったのはご記憶の方もいらっしゃるのではないか(いや、そう感じなかった方も多いとは思いますが)。
ザンドナーイの作品から同時代の作曲家たちを想起したこともそうだけれど、この日の「シェエラザード」もいくつもの(作曲当時の)未来へ与えた影響を感じて、実に興味深く思った次第だ。たとえば第三楽章からはラフマニノフの旋律美が(ポルタメント気味に弾かせたのは意図的だろう)、第四楽章からは「火の鳥」、「ペトルーシュカ」のストラヴィンスキーが聴こえる瞬間があった。海の描写はドビュッシーを思わせて、とリムスキー=コルサコフという、ロシアの巨人の存在感を今更に感じ取った次第である。作品の持つ可能性を、時代の相に置いて捉え直すバッティストーニの知性に拍手を贈りたいと思う私である。

さてそんな彼が編んだこのプログラム。配布されたパンフレットに掲載された松本氏の解説では”文学に基づく交響詩”として、音楽による物語プログラムという側面を強調していた。いや、その着眼が妥当だしまっとうなのですが、個人的には第三楽章の、現代では甘すぎるかもしれない旋律の歌わせ方に、「もしかして、ストコフスキーへのリスペクトが裏テーマなのでは?」なんて勘ぐってしまった。
ザンドナーイの作品について書いたとおり、バッティストーニはとても誠実に作品と向き合うのだが、その一方で20世紀の巨匠たちへのリスペクトも隠さないところがある(彼の著作参照。面白いですよ)。冒頭に置かれた「魔法使いの弟子」はもちろん映画「ファンタジア」を想起させるけれど、そこから導き出すべきは演奏を担当したストコフスキーの存在だったのでは?「シェエラザード」も彼の得意曲だったのだし……なーんて、あえて邪推してみました。もしこの勘ぐりに理があると思われた方、もはやパブリックドメインの彼の演奏を聴いて検証してみてくださいませ、ザンドナーイ作品以外はどこにでもありますから(自分でやりなさい)。おあとがよろしいようで。

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