かなり更新していなかった間、コンサートにもほとんど伺っていませんでした。で、こちらが本当に久しぶりにライヴに伺ったレヴューになります(厭なチェーン店的言い回し)。公演からしばし時間が空いてしまったことはブランクということでご容赦願えましたら幸いです。
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カラヤン広場に立って思う、サントリーホールはいつ以来?おそらく改装後は来てないと思うんですよね、私。酷暑のなか訪れたコンサートはこちら。
◆東京フィルハーモニー交響楽団 第910回サントリー定期シリーズ
2018年7月19日(木)
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
ピアノ:小山実稚恵 ※
ラヴェル:
道化師の朝の歌
ピアノ協奏曲 ト長調 ※
ドビュッシー:
牧神の午後ヘの前奏曲
交響詩『海』(管弦楽のための交響的素描)
自分のクラシック聴きとしての原点でもある近代フランス音楽プログラム、久しぶりに実演に触れるには最適の機会かと考えました次第。
で、最初に感想を書いてしまうならば満足できる素晴らしい演奏に存分に刺激されて、少しの間耳栓なしで帰路につける幸せに浸らせていただけました。脳内でそこここの印象的な部分や音楽の流れそのもの、彼の指揮を反芻して楽しめる幸せ、これがコンサートの美味しいいただき方ですよ、とブランクの人のくせに申し上げておきたい。ぼっち参戦だったから誰とも話せなかった、ってのはもちろんありますけど(笑)。
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さてプログラムは前半がラヴェル、後半がドビュッシーという時代的には少々逆順気味にはなるけれど、ともに20世紀初頭のフランス音楽を代表する二人の作品による、ある意味「名曲プログラム」。では若き指揮者はそこで何を聴かせてくれるのか、存分に楽しませていただくのみである。かつて東響と演奏した「ラ・ヴァルス」は劇的な演奏だったが、今回は。
※ちなみにこちらは東響との共演以前から本人のチャンネルにある「ラ・ヴァルス」の演奏動画。名刺代わりに置いてあるところを見ると得意曲なんですね。
東京フィルは若い指揮者だからと軽んじたりしない、それはバッティストーニとのコンビネーションですでに周知の通り。だからこの日も若者の意図を汲み、高い集中力で名曲を新鮮な響きで聴かせてくれたそう、新鮮だった。「若者を評して新鮮とか終わってんなこの人」とか言わないように(笑)。演奏している音楽がどんな姿を現すべきか明確なヴィジョンを持つマエストロの指揮から、それに応えるオーケストラから随所で驚かされる楽しい裏切りの連続、充実の名曲コンサートであった。
さて具体的に見てみよう。まずは一曲目の「道化師の朝の歌」は、ヴィオッティがピアニストとして演奏しているかのような自在な表現が特徴的。速めのテンポにオフビートのアクセントを強調したピチカートのアンサンブルで始まった音楽は合わせ優先のおとなしい音楽とは程遠い、ドラマを描くことを目的としていることを一音目で明確に示すもの。そこからの道行きを一本調子にせず、自然に起伏をつけて酔漢の朝帰りを描き出す技は若者らしからぬもの(ジジくさい言い方)。ちょっとしたスケッチのような作品からドラマを導き出せるのはオペラでも順調にキャリアを積むマエストロの腕、だろうか。
先日放送されたカメラータ・ザルツブルクとの演奏(セルゲイ・ハチャトゥリアンとのベートーヴェン)でも繰り返しをただの繰り返しにしない豊富なアイディアと妥当な処理の両立に感心したものだけれど、それは作品が新しい時代のものになっても変わることはない。とても「機能が高い」のだ、このマエストロ。
二曲目は長い舞台転換を挟んで演奏されたピアノ協奏曲 ト長調。トリッキィでキッチュなこの作品のソリストには小山実稚絵が招かれた。1930年の、彼のキャリアの中で最もジャズに接近したラヴェルを”ロマンティックな協奏曲”として演奏するソリストに合わせたか、ジャズコンボ(ポール・ホワイトマンのバンドのようなそれ)でもいけるだろう、この曲にしては大きめのストリングス(とあえて言いたい)でシンフォニックな表現に寄せた演奏と言えるだろう。だがこのミスマッチもまたこの作品の持つまた別の可能性を示すもの、そしてそれを破綻させずに描出した演奏、という評価になるだろうか。第二楽章で大きめの編成のストリングスがピアノに寄り添い、小山の真摯な歌がソリストとオーケストラが響き合った瞬間がこの共演の白眉だった。
アンコールに小山がドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を持ってきたのは、これが彼女の得意曲であること以上に、この日のプログラムの前後半に架橋する意図があったのだろう。彼女の繊細でよく歌うピアノが、仕掛けに満ち満ちたラヴェルから繊細で穏やかなドビュッシーを予告して、コンサートの前半が終わる。
※個人的には若い指揮者は”ラヴェルの協奏曲のトリッキィでキッチュな”性格を前面に出すのでは?と予想していたので少々肩透かしの感もなくはなかった。この予想がそう大きく外れてもいなかったな、と感じたのは帰宅してこの演奏を探し当てたときのこと。ヴィオッティ、若いのに共演者に応じた表現のカードを手元に何枚も隠し持ってるってことですよ、これ。
さて後半はドビュッシーの名作二曲。まずは静かに、しかし大きく時代を画した名曲「牧神の午後への前奏曲」なのだが、ステージに団員が揃ってまず驚かされる。この室内楽的な作品に、次の作品で要求されるフルサイズの16型の弦五部が揃っていたのだから。この編成ならばワーグナーもかくやと言わんばかりの豊満で雄弁な音になるのか?といえばさにあらず。冒頭のフルートソロを邪魔しないよう細心の注意を払ってヴィブラートを控えめに奏で出す低弦のひそやかさたるや。全曲を通じて緩むことのない演奏は、角のない響きなのに起伏を持ち、雄弁でいて押し付けがましくない。聴き慣れたこの作品から思いがけない美しさが現れる瞬間がいくつもあり、何度も何度も聴いたこの曲が新鮮な姿を現してくる。…これが20代の指揮者がやることなのか?と問わざるを得まい、これだけの表現をされてしまっては。明確な意図を持って描き出される細部の一つひとつに目を耳を刺激され、遅いテンポでも緩まない、煽り立てても下品にならない。作品の細部まで配慮したアプローチで名曲の真価を見事に現してくる。脱帽である。(白旗をあげるおじさんの感想)。
そして最後の「海」、これがまた。ドビュッシーの大規模な作品としては最後の方のものであるこの作品で、この日の最大編成となり、ここでヴィオッティは東京フィルの力を解き放つのだ。と言ってもここで示されるのはもちろんワーグナー流のトゥッティによる力ではない、ドビュッシーならではの細かいモティーフの積み重ねや楽器同士の精妙なアンサンブル、音楽の方向を見据えて溜めこまれた力の狙いすました開放なのだ。その頂点に、曲目解説で永井玉藻氏が言及していた”問題の”第三楽章のファンファーレを持ってくるあたり、彼の読みと仕掛けはなかなか腹の座ったものなのだ。作品の改訂をめぐって演奏者によって評価が分かれるこの場面、ファンファーレなしなら”無言のにらみ合いの緊張感”とあるところ、彼はトランペットとホルンに輝かしく力強く演奏させることでこの局面を一つのドラマの場面に作り変えてしまったのだ。それに続く大団円はまさに暗雲が晴れていくかのような眩しさで私を圧倒した。脱帽である。
ヴィオッティに導かれた東京フィルの好演は見事なもので、ラヴェルの異国風味やユーモアをことさらに強調する前半、控えめで繊細にドビュッシー特有の隠し味として活躍した後半どちらも過不足のないものだった。ヴィオッティが立たせたフルートをはじめとする木管各位、トランペットにホルンなどは素晴らしかったが、隠れたMVPを挙げるならばそれは打楽器群だろう。耳をそばだててようやくそれとわかるアンティークシンバルなどのほんの僅かな味付けから、フォルテッシモで鳴り響くティンパニ、バスドラムまで見事な活躍揃いだったが、私としてはグロッケンシュピールの妙技に大いに感心した。チェレスタで演奏されることも多い波の飛沫を表すようなパッセージを見事に楽しませてくれて、特に第二楽章を鮮烈なものにしてくれた。
残念ながら評判の良かった「トスカ」は聴くことができなかった私だけれど、この東京フィルとの演奏を聞けばさもあろうと納得できた一夜となった。前回彼を聴いた演奏会とはかなり異なる印象を受けたのだけれど、それはオーケストラの違いなのか作品由来なのか、それとも彼がこの数年でどんどんと成長しているのか。ぜひともその変化を見届けていきたいと思える指揮者に、この夜ロレンツォ・ヴィオッティはなった。…今頃か、と言われてしまうと返す言葉もないのだが。
幸いなことに彼は今後も来日公演が予定されている、作品が違えば、オーケストラが違えば、会場が違えば…その時どきにまた興味深い音楽を聴かせてくれるだろうロレンツォ・ヴィオッティ、ぜひ機会を見つけてその音楽に触れてほしいと感じた一夜だった。
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