もう今日の公演なので、私の都合で仕上げが少し荒いかもしれませんが例のやつをば。
●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回
2019年5月12日(日) 14:00開演 会場:カルッツかわさき
指揮:飯森範親
バリトン:ヴィタリ・ユシュマノフ◆
児童合唱:川崎市立坂戸小学校合唱団(合唱指揮:中島はるみ)♥
合唱:東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)★
管弦楽:東京交響楽団
ボロディン:だったん人の娘たちの踊り、だったん人の踊り(オペラ「イーゴリ公」より)◆★
ムソルグスキー:はげ山の一夜(オペラ「ソローチンツィの市」1880年版)◆♥★
チャイコフスキー:大序曲「1812年」♥★
カリンニコフ:交響曲第一番
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「だったん人の踊り」「1812年」、それも合唱付きといえば、一昔前なら録音の良さを誇示するが如き”スペクタキュラー・アルバム”の定番だった。そこにムソルグスキーの「はげ山の一夜」が収められるのは自然なことだ、演奏効果の高いロシア管弦楽曲の定番としてよく知られた作品なのだから。だがしかし、それが「合唱・声楽付き」だとしたら?一般によく知られた「はげ山の一夜」は、作曲者の没後にリムスキー=コルサコフが編曲したもので、最近では作曲者自身が完成させていた「原典版」も演奏される機会が増えた、そこまでならご存知のかたも少なくないのではないかと思う。だがこれらには合唱も独唱も用いられていない。では今回演奏されるのはいったいどういう版なのか?
これがよく知られた版ですね。
ご存知の人はご存知の通り、ムソルグスキーはなかなか作品を完成させられない人だった。着想を得てある程度まで作られながら、完成に至らないばかりに知られていない作品のなんと多いことか、そんな彼のキャリアが後年の研究でどんどんと知られてきている。こと「はげ山の一夜」にしても、未完のオペラにその萌芽があるけれど未完のまま放棄、その後原典版(1867)が作られながら初演されず(初演は1968年、100年以上が過ぎてからのこと)、没後の1886年にリムスキー=コルサコフによる編曲版でこの作品はようやく音になり、その後は高く評価されて現在に至っている、というのが比較知られたこの作品の歴史だ。この作品をもっとも世に知らしめたのは先日「なつぞら」でも登場した映画「ファンタジア」(1940)だろう(ドラマ本編では当該部分は登場していません)。ここではリムスキー=コルサコフ版をさらにストコフスキーが編曲した版が用いられている、と指摘するだけにこの文章では留めますが、せっかくなので皆さんこの機会に全篇見てください。そうそう、リムスキー=コルサコフ版なら「スケバン刑事2」でも…いやそういう話はもういいですねすみません。
(先日の放送でパブリック・ドメインだと気がついたので貼ってみる。どきどき)
閑話休題。
では、今回演奏される合唱も独唱もついた「はげ山の一夜」とはなんなのか。それは曲目にもある通り、オペラ「ソローチンツィの市」(かつて「ソロチンスクの定期市」と訳されていた、1870年代に取り組んだ未完の作品)に転用されたものだ。1868年の原典版に声楽を付与しただけではなく、「若者の夢」というオペラの一場面を形作るものなのだという。原典版とリムスキー=コルサコフ版をつなぐ「ミッシング・リンク」としても興味深い、作曲者による”別解”が音になる、貴重な機会となることだろう。洗練されたリムスキー=コルサコフの仕事でもなく、野卑だからこそ力強く輝く原典版とも違う第三の「はげ山」は、きっと我々の知らない「壮観」を描き出してくれることだろう。
第14回東京音楽コンクール声楽部門で第2位を獲得し、各地の演奏会で活躍するヴィタリ・ユシュマノフ、おなじみの東響コーラスとともに共演するのは川崎市立坂戸小学校の合唱団だ。ただの「地元の子供たちの晴れ舞台」と侮るなかれ。この子たち、実は昨年のNコンで銅賞(第3位)に輝いているのだ。きっと見事な共演を果たして私たち聴き手を驚かせてくれることだろう。
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ここでメインの作品がチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフなら、堂々たる直球の「スペクタキュラー・コンサート」なのだけれど、今年度内には150回を越えようという回数を重ねてきた「名曲全集」はひと味もふた味も違う。最後に演奏されるのはヴァシリー・カリンニコフの交響曲第一番 ト短調(1894-1895、初演1897)なのだ。
カリンニコフは1866年に生まれて1901年にわずか34歳で亡くなった作曲家だ。ロシアに限って世代でみればチャイコフスキー(1893没)よりは後の、グラズノフ(1865生)やラフマニノフ(1873生)に近い。もっとも、同世代の二人ほどの時間は彼にはなかったのだが。NHK交響楽団のサイトにある解説(リンク先)を一読するだけでも辛くなるほどに厳しい生涯は、山田天陽くんのモデルとされる神田日勝のそれを想わせる(「なつぞら」脳の恐怖)。一般的に言うならゴッホとかでしたねすみません。
今回演奏される第一番、作曲年代で同時代の作品を見ていけばどうなるか。マーラーなら交響曲第二番から第三番、シュトラウスは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはかく語りき」と交響詩の時代。ドビュッシーなら「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルはまだ駆け出しで初期のピアノ曲を書いているころだ。二週間しか生まれが違わないシベリウスなら「クッレルヴォ」で名声を得て、しかしまだ最初の交響曲は登場していない。そんな時代を不遇の才能は生きた。シューベルトよりは長生きだ、なんてなんの慰めにもならないほどの短い生涯を。
しかしソヴィエト時代にも彼の作品は細々とではあるけれど演奏され、録音されてきた。その中心的な作品がこの交響曲だ。最近では山田和樹も録音しているこの作品に、この機会に多くの方が出会えるならば幸いなことだ。その出会いが良きものとなるよう、飯森範親と東響の好演に期待しよう。
この作品はこんな大御所も演奏されているんです、実は。
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本当は「だったん人の踊り」がちゃんと「だったん人の娘たちの踊り」から始まることとかも書いておきたかったのですが時間切れ。お詫びということでもありませんが、最後に「スペクタキュラー・プログラム」について書いた文章にふさわしい映像を貼っておきますね。ではまた。
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