●東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回
2019年9月
21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112
交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。
今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。
簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。
●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演
●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)
聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。
1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)
1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲
1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)
1957・Op.112初演※
※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。
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プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。
いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。
※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。
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なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。
追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。
交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。
これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。
ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。
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