2019年9月2日月曜日

認識が改まる喜びを ~東京交響楽団 第670回定期演奏会

●東京交響楽団 第670回定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

これは私事ゆえにどうにもできなかったのだけれど、昨シーズンはノット&東響の演奏をほぼ聴けず、ようやく昨年12月のヴァレーズ、R.シュトラウス公演で復帰できたばかりであることをはじめにおことわりさせてもらう。以前のように「このコンビはリハでこんな感じで、ゲネプロでこう、それなのにコンサートでは!」と取材に基づいて書けるわけではないのです。そうして間が入ってしまっているうちに、いくつかの録音もリリースされ、テレビでも演奏会が放送されて、私ごときの出番はなくなったので、今はそうですね…あえて言うなら「心の友」って感じでしょうか…(ジャイアニズム)。

もちろん、過去拝見したリハーサルは今も鮮明に思い出せるし(なんなら過去の記事も読んでください、どうぞ)、そこから作品によって、暗譜かどうかによって、などの要素からの類推はできるかもしれない。リハーサル開始早々に流れを整え、音色やフレーズ、リズムへの配慮を徹底させ、互いに聴きあうよう促す数日の濃密なコミュニケーション(こんなリハーサルを作業とは言いたくない、そんな思いがあるので何度も取材させていただいたのですね。その意図が伝わっていなければそれは私が悪いので、今更ですがお詫びします)。そして出来上がりを確認するはずの、通し演奏で終わるはずのゲネプロでまた新たな刺激をオーケストラに与えるマエストロ、全力で応えるオーケストラ。このプロセスを経てコンサートを迎える、場合によっては複数回違う演奏を繰り広げる…そんな関係がもはや短くもない時間続いているのだから、ある意味では安定してきたのだろうけれど、いつでも新たな可能性を開き続けているノット&東響に「安定」の言葉は似合わない。私たち聴き手が期待して高揚感をもってホールに向かうように、ノット&東響の各位も緊張感と期待感をもってコンサートに臨んでくれている。事前に取材していなくてもそう確信できるくらいに、今回の演奏会でも貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

…いやまだ文章を終わらせてはいけません、まったく今回の演奏会の話をしていない。

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私が今シーズンの東響定期で一番の注目と期待をしていたこのコンサートは、まず簡単に結論だけ書くならば一言、圧巻、であった。前後半それぞれに聴きどころがあり、新鮮な発見があり、今後への期待があった。

前半に演奏されたブリテンの協奏曲で、独奏者は多彩な表現を尽くし、オーケストラは端正に作品の姿を示す、協奏曲演奏の理想形のひとつだっただろう。そのサウンドの充実ぶりは、録音だけではなかなか感じ取れないブリテン作品の色彩を明確に示すものとなった。
以前録音で聴いたダニエル・ホープはどこか線の細い音が気になる、手放しではほめにくいヴァイオリニストだったが、実演で聴く彼は美音より表現を追究する音楽家だった。楽器の特性やアーティキュレーションを積極的に攻めるので、結果として響きそのものが不安定に聴こえる、録音ではそれがどこか技量の不安定に感じられてしまっていたのだった。こういうことがあるので音楽家を録音だけで評価してはいけないのである(自戒)。
スコアを用意して指揮したノット監督のもと、東響の作り出したサウンドの充実は感心するしかないものだった。即興性控えめ(=リスク少なめ)のノット&東響の実力は、もはやここまで来ているのだ。弦や木管の繊細な表現には十分すぎるほど評価を受けている東響だけれど、力強さが求められる局面でももう不足感はない。であれば後半は…と期待は高まる。

そして後半のショスタコーヴィチは、これまでのノット&東響のアプローチがそうだったように、この作曲家を呪縛し続ける「大きな物語」の見立てによるドラマ、時代に即した解釈から解き放って、より実存的、パーソナルなドラマとして示してくれた。
ノット監督の積極的なコミュニケーションはいつものことだが、そのアイディアは豊富でかつ楽譜からのものだから妥当なアプローチだ。そしてこの日驚かされたのは、なにより監督からの挑発を受けた東京交響楽団の内声、低弦の充実ぶりだ。以前に聴いたノット&東響の演奏よりも格段にコミュニケーションが濃厚に、しかし自然に行われるようになっていて、その結果定評のある木管セクション同様に各声部がそれぞれに主張するようになり、アンサンブルはより音楽的説得力を持つようになっている。これを成長と言わずしてなんと言おうか。

2ヶ月前にウルバンスキと第四番を演奏したばかりの東響は、第五番でも聴き手の、いや私のショスタコーヴィチ観を揺さぶってきた。これらの演奏を受けてなら、「ショスタコーヴィチはマーラーに大きく影響を受けている」と、私だって思う。得心、である。

今後私がこの曲を、ショスタコーヴィチ作品を聴くとき、プラウダ批判や革命20年のこと、映画「戦艦ポチョムキン」から少し離れて自由になれる、ような気がしている。旧ソヴィエトの歴史に左右された天才、そんな作曲家の物語から離れたところで成立しうる音楽としてのショスタコーヴィチ作品。つい日頃成立史や時代から作品を捉えてしまうところがある私としては、こういう予想外は大歓迎である。こうして自分のそれまでの認識とは違うアプローチによって、自分自身も新たな作品像をイメージできるようになるのだから。


(と言いながら、ここで「戦艦ポチョムキン」を貼る私である)

そんなわけでこの日、演奏された両曲ともに作品への、演奏された音楽家の皆さんへの認識が改められるという、貴重な経験となった。本当にありがたいことである。こうなると、なんですかね、5>10>15だけではなく、ノット&東響のショスタコーヴィチ全集なんて考えてしまうんですけど、どうなんでしょう名案じゃないですかね(提案ではなく要求)。

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なお。最初に紹介したときに書いたとおり、この演奏会は首都圏では一度しかなくチケットも完売していた(新潟定期でも披露されているが、きっとよかったのだろう…二日目のノット&東響…りゅーとぴあ…)。私も脳内でリピートはできるのだが、言葉であの演奏を描くことはちょっと遠慮したい(ここまで無理筋だと挑む気も起きないので)。

だが幸いなことに、この演奏会は東京交響楽団の配信サーヴィス「TSO MUSIC & VIDEO SUBSCRIPTION」ですでに配信されている。数多くのマイクも立てられていたこの日の演奏はCD(SACDハイブリッド)としてもリリースされる。どちらを選んでも正解です、ぜひ、とだけ申し上げておく。



ああそうそう、私事ですが、ひとつご案内。リハーサルの取材などはオファーいただるなら調整の上対応したいと思っております(宣伝か)。ではまた。

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