2019年9月26日木曜日

これは「生きものの記録」なのか

ここは自分のブログなので、クラシック以外のことも気の向くまま書くことにしました。「なんだこいつ」と思ったらすぐ閉じてくれて結構ですよ。

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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。


私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。

※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。

あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。

ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。

この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。

こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。

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