●東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回
2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団
J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24
とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。
演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。
なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。
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個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。
「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。
結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。
オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。
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この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。
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