●東京フィルハーモニー交響楽団 第1008回オーチャード定期演奏会
2024年11月17日(日) 15:00開演
会場:Bunkamura オーチャードホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ(首席指揮者)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
マーラー:交響曲第七番
季節外レノ暑サニモ仕事ノ疲労ニモマケズ、この前の日曜はなんとかオーチャード定期に遅刻せず入場し、彼が初めてマーラーの第七番を振る演奏会を聴くことができ、それについて演奏会から数時間後にTwitter(名称をまだあきらめてない)にこのように書いた。
まあ、冷静に読み返せば、あまりにも当たり前である。どんな演奏家だろうと同じ演奏が二回と成立することはない以上、誰のどんな演奏にもこんな言い方はあてはまる。また、東京フィルの定期については会場の違う三公演が連続的に行われるので、会場の違い(音響、日程、そして客層)でも違う音楽がその都度生起しているはず、なのだ。オペラなど声があるならBunkamuraが、あえてホールを満たすサウンドを求めてオペラシティが、いやいや王道のサントリーホールでしょうよ、などと考えてどの演奏会に行くべきか、皆それぞれに決めていらっしゃることでもあろう。そんなことはわかっていて、それでもこう書くのには、理由がもちろんある。
アンドレア・バッティストーニは、みなさま御存知の通り、作曲家でもある指揮者だ(さらにチェロも弾く)。その彼がマーラーを演奏することは「作曲家が指揮をすること」について、思いを馳せる最高の機会となりうるだろう、と思っていた。その時代最高の指揮者として活躍したマーラーは、自作を演奏するたび改訂を行った。その意味するところはすなわち、(自ら創り出した)スコアを読み込んだうえでも、リハーサルと公演において実際の音にしていく作業ではまた違う発見があった、ということだろう。バッティストーニがマーラーを指揮するならば、彼自身が意識せずともそのプロセスをたどることになるのでは?と考えていたからこそ(全日程聴くのが正解か)などと、わかっていても実現の難しい、さらには当たり前にしか思われないことを、彼が初めて第七番を演奏するこのシリーズの中日に当たる17日を聴いて、終演後仕事の合間に書いた次第だ。本当は、リハーサルからドキュメンタリーでも作るべきじゃあないのか、とまで強欲な私は思うのだけれど。
この日の演奏を聴いて、前々から感心させられているマエストロの美点に、あらためて何度も何度も感心させられたことをまず書いておきたい。彼の音楽は、その力強さや狂乱にも近づくほどの高揚でより評価を博していると思うけれど、私は最高に自然なコントロールの技と、彼独自の澄み切った音にいつも魅了される。以前に東京フィルと演奏し、録音も残っている「春の祭典」でもそうだったが、彼は変拍子が乱舞する場面でのテンポ変化だろうとオーケストラを迷わせるようなことをしない、確信を持って行くべき道を示す。その技量にこそ、彼が素晴らしいオペラ指揮者たる所以を感じるのだ。この日の演奏では、遅めのテンポで聴き手をじっくりと作品世界に導いた巨大な第一楽章、そして圧倒的な輝きを放つフィナーレに彼の能力の冴えが見えた。特にも終楽章、これはシンプルな主題による華やかな音楽に聞こえるけれど、実際のところは複数のテンポが交互に現れ、時には複数のエピソードが同時に進行しているかのような先行きが見えない構成だ。そんな音楽は、ともすればマーラーによって参照されただろうと主題から察せられる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第三幕の後半のような祝祭描写にしてしまえば失敗はしないだろう。しかしバッティストーニは、表現豊かな手の指示に加えて、彼独自の"ジャンプとまでは言えないくらいに小さく膝を使うテンポ指示"も駆使して音楽の適切な描きわけを行って、この作品の持つ可能性を開示してみせた。音楽の展開が袋小路に向かうかのような危険な瞬間も"本物の危機"として描いたうえで、さらにそれを乗り越えていく圧倒的な熱狂にまで導いた。お見事。そして二つの夜曲、この音楽からワーグナーより前のロマン派の作品を思わせる世界観を感じさせてくれたのは、彼の導く清澄なサウンドあってのものだろう。それでいて、たとえば第二楽章終盤、交響曲第九番の一楽章の終わりに先駆するようなセクションではその響きの独自性を際立たせるし、二つ目の夜曲で導入されているギター、マンドリンを魅力的に響かせる耳の良さは流石、と言うしかない。
そしてようやく「3日とも聴くべき」なのか、という話になる。この日オーチャードホールに響いた音楽は、オペラシティのよく響く残響の中で聴くものとは全く別のものだったろう、初台は初日でもあったし。初日ゆえの緊張感からしか聴き取れないものは必ずあるし、飽和しかねない響きと静謐のコントラストがきっとあの日の演奏にはあっただろう。企図されたもの、実際に出てきたもの、演奏する側がそれをどうしようとしているのか、その成否は。初日にあっただろうそれらの経験を踏まえて、彼ら彼女らはBunkamuraで二回目の演奏を披露してくれて、私は上記のように楽しんだわけである。東京フィルはホームとしているこのホールを一番うまく使えるオーケストラだから、この会場で時々感じてしまうこともある広さに対する不満のようなものは感じさせなかった。先ほども触れたがギターもマンドリンもちゃんと楽しめたし、その一方でフィナーレで鐘が乱打され管弦が絶叫していても混濁はさせない、さすがのフランチャイズ・オーケストラであった(実は私は東京フィルに関する限り、オーチャードホールでの演奏をお勧めしたい)。そして19日に行われるサントリーホールでの1009回定期、ここまでの二回の演奏を踏まえてより洗練もされるだろうし、さらに掘り下げた表現も追求されるものと思う。こうして音楽が変わっていくその変遷の中にこそ、きっとグスタフ・マーラーが作品を最終的な姿に仕上げていくプロセスが見える、はず。三公演中日の演奏を聴いて、仕事場に移動して休憩中の私の舌足らずを補足するとこうなりました。話が長くて申し訳ない。
東京フィルの輪郭の明確な力強いサウンドは、かつて取材なども含めて聴かせていただいた頃と変わらぬ安定感のあるもので、このタフな作品を最後まで輝かしく聴かせてくれた。特筆しておきたいのは、やはりホルンであろうか。ここまで出ずっぱりに近く、それでいて力強いサウンドをこのホールに響かせきることができるセクションとしての仕事ぶりに大いに感服した(趣味でこの楽器を吹くようになってから聴くと、もはや超人的とすら感じるパワーである。どうすればあの領域にたどり着くものか…)。あと一人感銘を受けたプレイヤーを挙げるなら、クラリネット首席のアレッサンドロ・ベヴェラリの、音楽的に多彩な表現を高く評価したい。ときに木管セクションのまとまりを、またときにはトランペットのエコーとして、そして牧歌的であったり鳥の鳴き声であったりとマーラーらしい多彩な楽器法の要求に存分に応え、常にそれ以上を提案し続けた彼に大きな拍手を送って、仕事のため喝采収まらぬ会場をあとにしたのだった。
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最後に余談。実は私、かつてインタヴューをさせていただいた際に、恥知らずにも「マエストロのマーラー聴きたいなー、五~七番あたりが良いですあなたの音にすっごく合うと思うので」とおねだりをしたことがある。こんな口調ではないけれど。そんなやり取りのことはマエストロが覚えていないことを願う(笑)けれど、東京フィルとの最初期の第一番のあと、新宿文化センターでの第八番に続いたのは録音もリリースされている第五番、そして今回の第七番なので、ここまでのところでも願望は2/3までかなってしまったのだった。本人の話では、まだ第六番については取り上げないようなので、それは先々の夢と思って待つことにしたい。きっとね、アンダンテ楽章の美しさと、終楽章の苛烈な展開に圧倒されることになると思うんだよね(うっとり)。バッティストーニの角笛交響曲も聴きたいけれど、早く交響曲第六番が聴ける日が訪れますように。ではこのあたりにて、ごきげんよう。
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あとおまけにもう一つ情報を。当初はこの三回のあと、すぐに新潟県は長岡市で本作を取り上げる予定があったバッティストーニと東京フィルですが、コンサートの日程が来年の1月18日に変更された、とのこと。プログラムは変更なし、ということですから、これはむしろ好機なのでは?今回の三度の演奏会を踏まえて、スコアに改めて取り組んで再演するんだからまた違ういいものになるに決まってますもの。長岡ってどうやって行くのかなあ…(大人なんだから自分で調べましょう)