2012年5月13日日曜日

私、気になります!(可愛く言ってもムダだ)


こんにちは。千葉です。

現在、フランス音楽学習の一環としてこの本を読んでいます。




プーランクという作曲家、どうにも捉えがたいんですよね。吹奏楽でも演奏される洒脱な「フランス組曲」から彼の音楽を聴くようになったのだけれど、ピアノ曲と声楽曲が活動の中心にあるのではどうにも遠い。吹奏楽関連以外にクラシックを聴くようになってからは聴くものも増えましたし、バーンスタインを本格的に聴き始めてからはますます。
そんな中で聴いたのがプーランクの「グローリア」(1959-60)。たしか、ストラヴィンスキーの詩篇交響曲めあてで買った盤のカップリングだったような。その盤をはじめて聴いた時は戸惑ったことだけを覚えています、詩篇交響曲が独特な(笑)曲であることもそうだけれど、イメージの中にあったプーランクとはかなり違う感触に。(現在は入手困難みたいですね、明暗のコントラストが鮮烈だったと記憶してます)

その後、ピアノ曲や室内楽曲、バレエ音楽「牝鹿」なども聴くようにはなり、幸いなことにオペラ「人間の声」をジェシー・ノーマンの歌唱で聴く機会も持てて、その頃にはある程度の時代的「あたり」だけは付けられるようになっていたので相応に受け止めて(ノーマンの、歌唱どうこう以上の「存在の大きさ」には大いに感服させられましたが)。それでも、今になってもプーランクが掴めたような気は全くしない、のです。作風の幅はオペラ三作を見るだけでも相当のものですし(六人組に対するかつてのイメージは「ティレジアスの乳房」的な、いわゆる「軽妙洒脱」なものでした、と申し添えておきましょう。そんな一面に還元できるわけ、ないのにね)、その生涯についてもほとんど知らないままだなあ、と思いまして先ほどの本を読みはじめた次第。

でまだ読了していないのにこういうことをするのはどうかと思うし、こういう振舞いにはいささかの脇の甘さと、何より愚かしさを自分に対して感じてしまうところなのだけれど、それでもちょっと看過し難いもの、あるんです。
私は素人で基本的に無力な一個人だから(笑)、対象の書名を挙げずに「こういう書き方は嫌いだ!」ってあてこすろうかとも思いましたが、流石にそれは陰険すぎて自分に対して「こういう以下略」って書く羽目になりかねないので。


上掲書の冒頭に、プーランクの年譜があるのですが、その中に以下のような記載がございまして。以下抜き出して引用。

p.60
四二年
(中略)
六月、オネゲルの五十歳を祝う催しがパリで何度も開かれる。占領下、ドイツ音楽を敬愛しているプロテスタントのこのスイス人作曲家はなかなか羽振りが良いが、これはけっして偶然ではなかった。
(後略)

p.62
四四年
(中略)
八月十九日、抵抗の火蓋が切られ、二十五日、激しい戦闘の後、パリは解放された。アメリカ軍がやってきた日、プーランクは「窓に三色旗を掲げ、自室の楽譜棚には<人間の顔>のスコアを置いた」という。解放後しばらく、占領下では華々しく作品がとりあげられていたオネゲルの名がコンサートのポスターから消えてしまう。

(後略、引用終り)


まあ、事実関係を書くのはいいですよ、ええ。年譜だもんね、うんうん。
でもさあ、著作が対象としているのとは別の作曲家について、年譜でこうも意味ありげにちらっと触れて、あとは何もなかったように必要に応じて名前を挙げるだけ、ってのはどうなの。この文章だけを見ると、まるでドイツ占領下において優遇されたオネゲルには相応の問題があるのだ、と言われているような気がしてしまう、それで頭に血が上って読み進められなくなるくらいには、千葉はオネゲルの音楽が好きなんです。

そう、読書を通じて事実を知るとかそういうのは抜きにして、感情的に反発を感じて読み進めるのを一時止めちゃいまして。これがフランス人の文章ならありだと思う、でも当事者でもなければ当時を直接に知っているわけでもない日本人の著者がこういう物言い、していいものかしらん。占領という極限状況にあった人々の様々なあり方、こういうほのめかし程度の書き方、どうですか?旧ソヴィエトの芸術家たちを「党の宣伝役」と蔑んだ冷戦下の合衆国のような敵対関係ならまだしも※、20世紀の終わりに日本人がこういう断罪をするの、ありですか?

※最近読んだ本で、合衆国の共産党員芸術家忌避には赤狩りの記憶からくる過剰反応がある、ような気もしています。その本の感想はまた別途。

こういうところが嫌いなんですよ、20世紀のポストモダニスト。こういう語りでもって非限定的に対象「について」の語りを行うことを、倫理や道徳とは関係のないところで成立する「批評」だということにしたいのだろうけれど、その言説がメタレヴェルからの語りであることで生じる最終的な無責任性が漂わせる不愉快な臭気、書いている方は気にならないのかな。事実に対して超越的立場を取らず、語りそのものの不確定性の中で宙吊りでいることを自覚しつつ語ることで言説内部に矛盾を取り込むことでどうのこうの(今考えて適当に書きました、誰かの言の真似とかではありませんよ)、とか日記にでも書いておけばいいのに。

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ああああああすみません、自分で普段思っているのよりずっと、ポストモダニストのことが嫌いなようです、私。ソーカル事件なんか持ち出さなくても、好事家のお遊戯に見えてしまうもので。少なくとも、その手法の創始者はよくても模倣者たちは、もう。

えっと、ちょっと方向が違うところに向いちゃったのでここで一度切ります、前編ということで。後編ではあっと驚く展開が!(嘘予告)ではひとまずはこれにて。


Charles Munch Box - Berlioz; Franck; Brahms; etc/ Munch; PCO; etc [222357]


パブリックドメイン音源をまとめたこの四枚組に、まさに問題の時期である「1942年10月&1944年3月に収録された」とあるオネゲルの交響曲第二番が収録されています。終楽章にトランペットが鳴り響く以外は弦楽オーケストラ編成の曲ですから、この時期の録音でもけっこう聴けますよ。
ブロッホのヴァイオリン協奏曲(シゲティ独奏!)とか珍しい曲も収録されていて、ミュンシュの音楽が好きな方にはオススメです。




※部分で触れた本はこちら。バーンスタインが好きなら名前くらいは知っているだろうダンサーで振付師のロビンスの生涯を通して見えてくるアメリカ合衆国の姿、なかなか興味深いものです。

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