こんにちは。千葉です。
本日、例によって若干斜め方向から(笑)新聞を読んでいたらこんな告知が。
《リヴァプール・オラトリオ公演中止のお知らせ》
気になって確認してみたらその時点ではサイトは更新されていませんでしたので、若干不審に思いつつもなんとなく了解して(できちゃうんです、できるところは)、しばしぼんやり考えました。まあ、出演者の健康じゃなくて主催者の事情、ってことはビジネス的判断からの撤退なのでしょう、それをどうこう言うつもりは全くございませぬ。正直に申し上げて、これを商いとして成功裏に終わらせる成算、あるのかなあとは先から思っていましたから。以前お世話になった方から、ポール・マッカートニーのこういう側面についてご教示いただいたことがありましたので、作品自体には興味はありました。録音や映像に積極的に当たるほどではない、弱い興味とでも言えばいいのかな…
でも自分はまあ聴きに行けませぬ(貧乏だから)。千葉はともかく(泣)、気になっていたのはこれだけの規模の公演、果たして誰が来ると考えて実現に漕ぎつけようというのかな、というマーケティング的な疑問でした。昔の経験を思い返すと、こういうクロスオーヴァーというかボーダーラインというのか、越境的な試みの公演って「間に落ちる」感が否めなかったんです。簡単に言ってしまえばお客様が…先ほど書いた「弱い興味」から先に進んでいただけないような感じがある、とでも申しましょうか。
その後お客様を開拓できているのかな、あたりがつかないままに動かすには話が大きいよね、くらいにぼんやりと意識していた公演だった、のですが。残念。
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なんとなく想像がついちゃうところの仕事みたいだから、ということで残念お疲れ様です、と思う気持ちもあるのだけれど、個人的にですね、「もしかしてこの作品は今のうちに演奏されておくべきなんじゃないかな」って考えもあったんです。「弱い興味」(しつこくてすみません)のほとんどは、そういう面からのものでした。
近年になって、1971年の初演当時は「これ見よがしで浅薄」「皮相とはったりの合成」等々さんざんに酷評された(両方、ショーンバーグの評です)クロスオーヴァーというかボーダーラインというか(しつこいよ)、としか言いようのないとある作品が近年最評価されてきているように思うから、なんです。
レナード・バーンスタインの折衷的作風がある意味で頂点を極めた作品、「ミサ曲」なんですが、近年こんなに録音や映像がリリースされていまして。ケント・ナガノにマリン・オルソップ、クリスティアン・ヤルヴィによる録音が次々に出てきたのには正直驚きました、自作自演盤と抜粋による録音しかなかった状態が本当に長かったですから。作曲家バーンスタインの評価にしても、彼自身がその指揮者としての名声を用いて自ら取り上げることで、なんとか黙殺からは脱したかな、くらいに思っていましたし。
個人的な記憶です。千葉がもう楽器吹くのをやめようかな、と思っていた大学生の頃に音楽の道に引き戻したエムパイヤ・ブラスがこの作品の初演メンバーである、というご縁からこの作品に興味を持って、その後部分的にはロストロポーヴィチによる三つの間奏曲などで部分的に知り、さらに入手した全曲を聴いて特に抵抗なく受け容れられたのを覚えています。タイトル通り曲自体は宗教曲の体で進行し、ミサの典礼文は作品の骨子を作っているけれど、この作品が描くドラマはその骨子、骨格との関係のゆらぎ、でしょうから、特に基督教の人でなくとも受け容れられる、近代人の自我のドラマだと思います。興味のある方はおそらく部分的になら動画サイトとかで視聴できると思いますよ、「bernstein mass」でどうぞ。
この作品に10年ほど先立つ、英語圏の特異な宗教音楽として思い出されるのが先日少し触れましたのがブリテンの「戦争レクイエム」。なかなか難儀な作品だし、容易な比較もどうかと思うのでここで簡単に取り上げてどうのこうのと言うつもりはありませんが、このタイミングなので一つだけリンクを貼って合掌しておきましょう。その話はまた後ほど。
本筋に戻ります。思うにですね、現時点でリヴァプール・オラトリオが傑作として相応の評価を受けているとは思わないし、何より千葉も未聴であります。そんな認識で何がどうのこうのと断定的なことはさすがに言えません。
ただ、こう思っているんです。バーンスタインの「ミサ曲」がそうであったように、多く演奏され広く聴かれる中で作品が受け容れられていく可能性はあるし、その中で冷戦が終わった1991年に発表されたこの作品が評価されていく可能性はある、と思っているのです。その一歩目になり得たかもしれない公演の中止を、そのありえたかもしれない可能性において残念に思うのだよワトスンくん。1971年の作品がその時代を離れて21世紀にそれなりに受容されるようになる、もしかして1991年の作品にもその時が来る、かもしれない。来ないかもしれない。その結果はわからないし、こうして機会が失われることでここから再評価が始まる世界線は消え失せました。残念。
時が経って、その時代のコンテクストや演奏スタイルなどが抜け落ちたところで捉え直され評価を受ける。なかなか不思議なことではあるけれど、千葉が思うに、同時代では見えないこと感じ取れないもの、「聴こえない」ものもある、のかも。冷戦の直後に作られた「リヴァプール・オラトリオ」、もしかして21世紀の今なら、また違う聴こえ方になる、かもよ?(繰り返しますが、未聴であります)
イージーリスニングに近いライトクラシックでは越えられないボーダーを超えることに成功したクロスオーヴァー的な作品は、キワモノじゃなくてエポックメイキングなものとして受容されえますからね、きっと。それに、一般に新しい作品は演奏され聴かれることで「成長」する、なんて言われますからね、これに懲りずに挑戦的な企画がまた行われますように、と無責任な外野としては期待しておきたいと思います。では今日はこのへんで、ごきげんよう。
でもね。そうやって再評価を受けたあと、大事にされるのは初演前後の、同時代性の強い録音だったりするわけで。なんとも悩ましいですね(笑)。
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