こんにちは。千葉です。
まだニュースを拾いはじめて二ヶ月も経っていないのに、もう何度目の訃報でしょうか。仕方がないことではあるのですが…
●Svenske stjärntenoren Nicolai Gedda död
あえて彼の生地の記事にリンクするのはわかりにくくはありますが、他にどの国の記事を参照したものか考えあぐねてしまいました。20世紀後半に幅広いレパートリィで活躍したテノール、ニコライ・ゲッダが亡くなったとのことです。91歳、大往生です。
手元の音源を確認したら、たぶん最初に彼の声を聴いた「蝶々夫人」(カラスとの共演)、「カルメン」(ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス)、「キリストの幼時」(クリュイタンス盤)などが出てきました。さらにチャイコフスキーのオペラが歌えて、バッハや歌曲でも活躍した、そんなテノールが他にいるのか、いたのかと考えてしまいます。
なにかの(権利的に問題のない)動画はないかと探してみましたら、medici.tvがこちらの動画を用意してくれていました。
****************
この素晴らしい声を聴いていたら思い出しました、彼の声を最初に聴いたのはバーンスタインの自作自演盤「キャンディード」でした。そうだ、そうだった。
バーンスタインも、あの盤で歌っていた歌手たちも引退したり亡くなっていたりと、こうしたニュースのたびに遠くなってしまうように感じますね、はあ。
それでもこっちは生きているので、日々読んだり聴いたり、書いたりです。かつてゲッダの声に出会えたように、これからも素晴らしいものに出会えますように。では本日はここまで、ごきげんよう。
2017年2月11日土曜日
2017年2月10日金曜日
METライブビューイング2016-2017 「ナブッコ」
こんにちは。千葉です。オペラの劇場上映をご紹介。
●METライブビューイング2016-2017 「ナブッコ」
これから上映を見ますので、レビューはそれ以降となりますが、退任が決まっているジェームズ・レヴァインと、本来の声域とも言えるバリトン歌手として第二のキャリアを謳歌しているプラシド・ドミンゴの共演は貴重なものとなってしまいました。私と同世代のクラシック音楽ファンであれば、それこそ”定番のコンビネーション”として親しんできた彼らの共同作業が終わる日がそう遠くないうちに来ることに、多かれ少なかれ感慨があるのではないかと想像します。
幸い、昨年12月に上演された現地での公演評を見る限りではいい舞台になった模様ですから、まずは上映を楽しんでこようと思っております。スケジュールなどは公式サイトでご確認くださいませ。
こんな動画もありましたので、興味のある方はぜひご覧ください。レーザーディスクや来日公演で親しんできた彼ら、こんなおじいさんになっておりました。長く楽しく生きてくださいますよう。
●レヴュー
ネブカドネザル二世による「バビロン捕囚」を元にしたオペラ「ナブッコ」(1842初演/展開は史実とは異なります)は、若きヴェルディの出世作。最後の作品「ファルスタッフ」まで喜劇オペラを封印したほどの苦杯をなめた「一日だけの王様(偽のスタニスラオ)」からの復活を、そしてイタリアのオペラを代表する作曲家へと彼を押し上げた史劇オペラには、彼の後の作品へとつながる要素が多く見いだせるまさに出発点です。生涯オペラ化を夢見た「リア王」を思わせる親子描写(二人の娘と老親の関係は、後に「リゴレット」でより突き詰められ、結果として「リア王」を断念させることになる)、合唱を活かした群像劇(「アイーダ」、そして「オテロ」で完成の域に届くそれの萌芽はこの作品にも見いだされる)、それになにより力強い音楽そのものが素晴らしい。有名すぎてときどきありがたみを忘れそうになる合唱曲「行け、想いよ、黄金の翼に乗って」の他にも聴きどころが多いし、なにより序曲からして素晴らしい。
イライジャ・モシンスキーの演出は、読み替えなど全くなしの直球勝負で実にこのオペラハウスらしいもの(いや、往年の、かな)。METの巨大な舞台(とおそらくはバジェット)を活かして複数面を持つ巨大なセットを中心に据え、回り舞台でヘブライの神殿とバビロニア王国の宮殿、そして牢屋を実物で示すのだから、豪華な衣装や合唱の人数(これ重要)と相まって映像的に楽しめます、それこそテクニカラーのその昔の史劇映画で見たような世界として。近年ではミュージカルの演出家によるポップな舞台や、前回のロベール・ルパージュのようなリアリズムとは違う手法も採られるMETですが、私の世代だとオットー・シェンクやフランコ・ゼッフィレッリの重たい舞台がこの劇場のイメージなもので、この舞台はしっくり来てしまいますね(笑)。
でもこの舞台について話すなら、とにかくプラシド・ドミンゴとジェイムズ・レヴァインについてでしょう。長年の共演の、ひとまずの区切りになるのだろうこの舞台、二人のキャリアの最終盤であることを否応なく感じさせられながらも、その確かな実力に感嘆させられた次第です。
ドミンゴは声域こそバリトンになってもあの声のままだし(笑)、真偽定かならぬ噂ではローレンス・オリヴィエが「俺みたいな演技しやがって、そのうえ歌うとかずるいだろう」なんて言ったとも言われる演技は衰えるわけもなく。はじめのうちはあの声なのに高い音域まで登らないことに違和感がなくはなかったけれど、今は第二のキャリアを楽しむドミンゴが健在であるだけで嬉しく思えます。彼の演技あればこそ、「リア王」に通じるヴェルディのドラマ作りが伝わろうというものですよ。
そして病の影響もあるのでしょう、レヴァインの動作自体は昔のようにはいかなくなっている、けれど最も多くこの劇場で指揮をしてきたマエストロであればこその呼吸の確かさは流石としか言いようもなく。序曲などで見られる部分的な傷などはインタヴューの中で彼が語っていたとおり気にしても仕方がない(かつての演奏と比べるのは残酷かもしれません、まとまりがよく切れのいい演奏が特色でしたから)、ドラマが動くあの感覚を今もなお持ち続けて、病を得てなお活躍されるレヴァインには頭を下げるしかないのです。
(願わくは、彼らの実演を長く聴かれた幸運な方々にはその魅力のほどをですね、多く言葉として残していただければな、と思う次第です。実演でしかわからない部分、いくら録音や映像収録が発達しても残るものと認識しておりますので、ぜひ…)
ドラマを動かす大きい役どころのアビガイッレを歌ったリュドミラ・モナスティルスカは幕間のインタヴューでこの役を難しくないと言ってしまえる余裕ある歌唱で聴かせましたし、イズマエーレのラッセル・トーマスは出番が限定された不思議な役どころ※ながらきっちり歌った印象です。フェネーナは明らかに劇中の役どころと出番のバランスが悪い変な役ではありながら、ジェイミー・バートンはきっちり出番をこなした。ザッカーリアのディミトリ・ペロセルスキーは声域が合っていなかったのが惜しまれるけれど(最低域が鳴らなかったのはどうにも…)、容姿がいいからいいのかな…(笑)
※「マクベス」でもそうなのだけれど、ヴェルディは彼自身を投影したバリトンの主役を用意した時、テノールに仕事をさせてあげない印象があります(笑)
そんなわけで、初期作品にして後期の作品にまで通じるものを多く内包する「ナブッコ」、METの上演は大いに楽しみましたよ。
…パレスチナを舞台にした「サムソンとデリラ」とか見たばかりなので、もう少し攻撃的でもいいかな、とか読替するならどの時代かなどんな設定ならいけるだろう?とか考えてしまいましたけど(笑)。
ではこれにて更新終了、ごきげんよう。
●METライブビューイング2016-2017 「ナブッコ」
これから上映を見ますので、レビューはそれ以降となりますが、退任が決まっているジェームズ・レヴァインと、本来の声域とも言えるバリトン歌手として第二のキャリアを謳歌しているプラシド・ドミンゴの共演は貴重なものとなってしまいました。私と同世代のクラシック音楽ファンであれば、それこそ”定番のコンビネーション”として親しんできた彼らの共同作業が終わる日がそう遠くないうちに来ることに、多かれ少なかれ感慨があるのではないかと想像します。
幸い、昨年12月に上演された現地での公演評を見る限りではいい舞台になった模様ですから、まずは上映を楽しんでこようと思っております。スケジュールなどは公式サイトでご確認くださいませ。
こんな動画もありましたので、興味のある方はぜひご覧ください。レーザーディスクや来日公演で親しんできた彼ら、こんなおじいさんになっておりました。長く楽しく生きてくださいますよう。
●レヴュー
ネブカドネザル二世による「バビロン捕囚」を元にしたオペラ「ナブッコ」(1842初演/展開は史実とは異なります)は、若きヴェルディの出世作。最後の作品「ファルスタッフ」まで喜劇オペラを封印したほどの苦杯をなめた「一日だけの王様(偽のスタニスラオ)」からの復活を、そしてイタリアのオペラを代表する作曲家へと彼を押し上げた史劇オペラには、彼の後の作品へとつながる要素が多く見いだせるまさに出発点です。生涯オペラ化を夢見た「リア王」を思わせる親子描写(二人の娘と老親の関係は、後に「リゴレット」でより突き詰められ、結果として「リア王」を断念させることになる)、合唱を活かした群像劇(「アイーダ」、そして「オテロ」で完成の域に届くそれの萌芽はこの作品にも見いだされる)、それになにより力強い音楽そのものが素晴らしい。有名すぎてときどきありがたみを忘れそうになる合唱曲「行け、想いよ、黄金の翼に乗って」の他にも聴きどころが多いし、なにより序曲からして素晴らしい。
イライジャ・モシンスキーの演出は、読み替えなど全くなしの直球勝負で実にこのオペラハウスらしいもの(いや、往年の、かな)。METの巨大な舞台(とおそらくはバジェット)を活かして複数面を持つ巨大なセットを中心に据え、回り舞台でヘブライの神殿とバビロニア王国の宮殿、そして牢屋を実物で示すのだから、豪華な衣装や合唱の人数(これ重要)と相まって映像的に楽しめます、それこそテクニカラーのその昔の史劇映画で見たような世界として。近年ではミュージカルの演出家によるポップな舞台や、前回のロベール・ルパージュのようなリアリズムとは違う手法も採られるMETですが、私の世代だとオットー・シェンクやフランコ・ゼッフィレッリの重たい舞台がこの劇場のイメージなもので、この舞台はしっくり来てしまいますね(笑)。
でもこの舞台について話すなら、とにかくプラシド・ドミンゴとジェイムズ・レヴァインについてでしょう。長年の共演の、ひとまずの区切りになるのだろうこの舞台、二人のキャリアの最終盤であることを否応なく感じさせられながらも、その確かな実力に感嘆させられた次第です。
ドミンゴは声域こそバリトンになってもあの声のままだし(笑)、真偽定かならぬ噂ではローレンス・オリヴィエが「俺みたいな演技しやがって、そのうえ歌うとかずるいだろう」なんて言ったとも言われる演技は衰えるわけもなく。はじめのうちはあの声なのに高い音域まで登らないことに違和感がなくはなかったけれど、今は第二のキャリアを楽しむドミンゴが健在であるだけで嬉しく思えます。彼の演技あればこそ、「リア王」に通じるヴェルディのドラマ作りが伝わろうというものですよ。
そして病の影響もあるのでしょう、レヴァインの動作自体は昔のようにはいかなくなっている、けれど最も多くこの劇場で指揮をしてきたマエストロであればこその呼吸の確かさは流石としか言いようもなく。序曲などで見られる部分的な傷などはインタヴューの中で彼が語っていたとおり気にしても仕方がない(かつての演奏と比べるのは残酷かもしれません、まとまりがよく切れのいい演奏が特色でしたから)、ドラマが動くあの感覚を今もなお持ち続けて、病を得てなお活躍されるレヴァインには頭を下げるしかないのです。
(願わくは、彼らの実演を長く聴かれた幸運な方々にはその魅力のほどをですね、多く言葉として残していただければな、と思う次第です。実演でしかわからない部分、いくら録音や映像収録が発達しても残るものと認識しておりますので、ぜひ…)
ドラマを動かす大きい役どころのアビガイッレを歌ったリュドミラ・モナスティルスカは幕間のインタヴューでこの役を難しくないと言ってしまえる余裕ある歌唱で聴かせましたし、イズマエーレのラッセル・トーマスは出番が限定された不思議な役どころ※ながらきっちり歌った印象です。フェネーナは明らかに劇中の役どころと出番のバランスが悪い変な役ではありながら、ジェイミー・バートンはきっちり出番をこなした。ザッカーリアのディミトリ・ペロセルスキーは声域が合っていなかったのが惜しまれるけれど(最低域が鳴らなかったのはどうにも…)、容姿がいいからいいのかな…(笑)
※「マクベス」でもそうなのだけれど、ヴェルディは彼自身を投影したバリトンの主役を用意した時、テノールに仕事をさせてあげない印象があります(笑)
そんなわけで、初期作品にして後期の作品にまで通じるものを多く内包する「ナブッコ」、METの上演は大いに楽しみましたよ。
…パレスチナを舞台にした「サムソンとデリラ」とか見たばかりなので、もう少し攻撃的でもいいかな、とか読替するならどの時代かなどんな設定ならいけるだろう?とか考えてしまいましたけど(笑)。
ではこれにて更新終了、ごきげんよう。
2017年2月9日木曜日
2/15(16)、25「読響シンフォニックライブ」放送
こんにちは。千葉です。放送情報ですよ。
●読響シンフォニックライブ 2017年2月
放送日:2017年2月 日本テレビ 15日(水) 26:29~(16日(木) 2:29~)/BS日テレ 25日(土) 7:00~
出演:
司会:松井咲子
指揮:小林研一郎
管弦楽:読売日本交響楽団
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36
(2016年12月3日 パルテノン多摩 大ホールにて収録)
多摩センター駅から坂を登った先にある、ちょっとKING OF PRISMを想い出させる外観を持つ(おいおい)パルテノン多摩で昨年から開催されている「読響パルテノン多摩名曲シリーズ」の公演から、コンサートのメイン曲を全曲放送ということですね。今年は交響曲第五番を演奏されるようなので、このシリーズではチャイコフスキーの後期三大交響曲を取り上げますよ、ということなのでしょう。
小林研一郎さん、近年は演奏が変わったなんて感想を横目で拝見しつつも実演で聴く機会を作れていませんので、そろそろなんとかしないといけませんかしら…と思っていた私には好機であります。
なお。この番組、曲中にCMを入れないことに大いに好感していますので、紹介するこちらもサーヴィスしてこの記事ではリンク多めでお送りしています。キンプリはあまり関係ないけど(笑)。
以上簡単なお知らせでした。ではまた。
●読響シンフォニックライブ 2017年2月
放送日:2017年2月 日本テレビ 15日(水) 26:29~(16日(木) 2:29~)/BS日テレ 25日(土) 7:00~
出演:
司会:松井咲子
指揮:小林研一郎
管弦楽:読売日本交響楽団
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36
(2016年12月3日 パルテノン多摩 大ホールにて収録)
多摩センター駅から坂を登った先にある、ちょっとKING OF PRISMを想い出させる外観を持つ(おいおい)パルテノン多摩で昨年から開催されている「読響パルテノン多摩名曲シリーズ」の公演から、コンサートのメイン曲を全曲放送ということですね。今年は交響曲第五番を演奏されるようなので、このシリーズではチャイコフスキーの後期三大交響曲を取り上げますよ、ということなのでしょう。
小林研一郎さん、近年は演奏が変わったなんて感想を横目で拝見しつつも実演で聴く機会を作れていませんので、そろそろなんとかしないといけませんかしら…と思っていた私には好機であります。
なお。この番組、曲中にCMを入れないことに大いに好感していますので、紹介するこちらもサーヴィスしてこの記事ではリンク多めでお送りしています。キンプリはあまり関係ないけど(笑)。
以上簡単なお知らせでした。ではまた。
見ました:映画「寒い国から来たスパイ」「オデッサ・ファイル」
こんにちは。千葉です。
お金がなくて(直球)映画館には行けないので、録画した映画をよく見ています。あと、気楽に流しておける吹替の洋画(最近、民放BSはよく流してくれるので助かります)。そのあたりを見ては忘れていくのもどうかな、と思ってメモ代わりに少しだけ書いておこうかなと思いまして始めます。
ですが、”読むに値するもの”にする努力はクラシック物のときの半分程度ですし(自分調べ)、いわゆるシネフィルではない千葉の書くことなので、”映画”タグの記事はスルーしていただくほうが良いかもしれません(笑)。
とか言いながらメモその一。
●「寒い国から来たスパイ」
ジョン・ル・カレの1963年の小説を原作としたスパイ小説の映画化(1965)。監督はマーティン・リット、主役のリーマスはリチャード・バートン。
自分の冷戦の記憶はモスクワ・オリンピック以降なので(その時点でもまだまだお子様)、”壁”周りのドラマにはあまりリアリティがなかったりします。”壁”が崩壊したあの日のことは、だいぶ鮮明に覚えているんですけどね…
壁の向こう側に潜入したスパイの、地味だけど緊張感の高い作戦の結果や如何に。結末に至るプロットはツイストも効いていて、なるほど名高い作品であるわけだと思う次第。
もう一作。
●「オデッサ・ファイル」
こっちはフレデリック・フォーサイスの小説(1972)の映画化(1974)。監督はロナルド・ニーム、主演はジョン・ヴォイト。
フリーランスのジャーナリストを生業とする主人公が、ケネディ暗殺の日に自殺した一人の老人を調べることからナチスの、というか収容所幹部の生き残りを巡ってギリギリの調査を繰り広げ、ついにたどり着くゴールのその先は、という感じでしょうか。
ドイツでは、戦争をした世代と戦後世代とが陰に陽にぶつかったのですなあ、という部分に感慨が強く残ったりします。
えー、実のところを言ってしまえばなんのことはない、どちらも「今さら冷戦期のスパイ小説読むのもどうかな」という怠け心もあって見たものでしたが、なかなか楽しめました。名画のたぐいは見ておくべきですね、と今さらながら自戒しましょう。
そしてクラシックの人的な意見を少しばかり。
20世紀のクラシック音楽は、多かれ少なかれこの時代に規定されています。私見ですが、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの生涯を考える時にソヴィエトが無視できないのと同じくらい、たとえばカラヤンの時代を知る上でWWIIから冷戦に至る流れは無視できません。スターリン抜きで語られるショスタコーヴィチの前半生が多くの欠落を持つように、壁の建設によって”浮島”になってしまった西ベルリンの状況抜きで考察される”世界最高のオーケストラ”の物語も多くの不足を持つものです。
なにも「必ずそんな要素をも書いた上で、音楽の評価をしろ」と言っているのではなく、「その要素を考慮に入れない、前提として理解していないと音楽についても見落とすものが多い」と申し上げたいのです。”旧東側オーケストラのレコーディングには国の威信がかかっていたりする”とか”オーケストラは国の代表のように扱われていた”とか、そんな時代を理解しておくのは決して損にはなりませんよ、っていうか違うな、損得の話じゃなくて…以降は長くなるからまた別途。
****************
なお、映画はレンタルでも劇場でも放送でも、基本は”原語版を日本語字幕で見る”ようにしていますので、特筆がなければそういうことです、ということで。ではまた、ごきげんよう。
お金がなくて(直球)映画館には行けないので、録画した映画をよく見ています。あと、気楽に流しておける吹替の洋画(最近、民放BSはよく流してくれるので助かります)。そのあたりを見ては忘れていくのもどうかな、と思ってメモ代わりに少しだけ書いておこうかなと思いまして始めます。
ですが、”読むに値するもの”にする努力はクラシック物のときの半分程度ですし(自分調べ)、いわゆるシネフィルではない千葉の書くことなので、”映画”タグの記事はスルーしていただくほうが良いかもしれません(笑)。
とか言いながらメモその一。
●「寒い国から来たスパイ」
ジョン・ル・カレの1963年の小説を原作としたスパイ小説の映画化(1965)。監督はマーティン・リット、主役のリーマスはリチャード・バートン。
自分の冷戦の記憶はモスクワ・オリンピック以降なので(その時点でもまだまだお子様)、”壁”周りのドラマにはあまりリアリティがなかったりします。”壁”が崩壊したあの日のことは、だいぶ鮮明に覚えているんですけどね…
壁の向こう側に潜入したスパイの、地味だけど緊張感の高い作戦の結果や如何に。結末に至るプロットはツイストも効いていて、なるほど名高い作品であるわけだと思う次第。
もう一作。
●「オデッサ・ファイル」
こっちはフレデリック・フォーサイスの小説(1972)の映画化(1974)。監督はロナルド・ニーム、主演はジョン・ヴォイト。
フリーランスのジャーナリストを生業とする主人公が、ケネディ暗殺の日に自殺した一人の老人を調べることからナチスの、というか収容所幹部の生き残りを巡ってギリギリの調査を繰り広げ、ついにたどり着くゴールのその先は、という感じでしょうか。
ドイツでは、戦争をした世代と戦後世代とが陰に陽にぶつかったのですなあ、という部分に感慨が強く残ったりします。
えー、実のところを言ってしまえばなんのことはない、どちらも「今さら冷戦期のスパイ小説読むのもどうかな」という怠け心もあって見たものでしたが、なかなか楽しめました。名画のたぐいは見ておくべきですね、と今さらながら自戒しましょう。
そしてクラシックの人的な意見を少しばかり。
20世紀のクラシック音楽は、多かれ少なかれこの時代に規定されています。私見ですが、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの生涯を考える時にソヴィエトが無視できないのと同じくらい、たとえばカラヤンの時代を知る上でWWIIから冷戦に至る流れは無視できません。スターリン抜きで語られるショスタコーヴィチの前半生が多くの欠落を持つように、壁の建設によって”浮島”になってしまった西ベルリンの状況抜きで考察される”世界最高のオーケストラ”の物語も多くの不足を持つものです。
なにも「必ずそんな要素をも書いた上で、音楽の評価をしろ」と言っているのではなく、「その要素を考慮に入れない、前提として理解していないと音楽についても見落とすものが多い」と申し上げたいのです。”旧東側オーケストラのレコーディングには国の威信がかかっていたりする”とか”オーケストラは国の代表のように扱われていた”とか、そんな時代を理解しておくのは決して損にはなりませんよ、っていうか違うな、損得の話じゃなくて…以降は長くなるからまた別途。
****************
なお、映画はレンタルでも劇場でも放送でも、基本は”原語版を日本語字幕で見る”ようにしていますので、特筆がなければそういうことです、ということで。ではまた、ごきげんよう。
2017年2月6日月曜日
読売日本交響楽団 2017年4月 遠藤真理さんがソロ・チェロ奏者に就任
こんにちは。千葉です。
ニュースのご案内です。情報を知ったらすぐにお出しできるようがんばります(自覚はありますすみません)。
ソリスト、室内楽、そして昨年からは読売日本交響楽団のゲスト首席奏者として活躍してきたチェリストの遠藤真理が、4月からは正式に首席奏者として活躍されるのだとのこと。NHK-FMの「きらクラ!」でご存じの方も多いかもしれません。本人のコメントはこちらのサイトでご覧いただけます>所属事務所ジャパン・アーツのサイト内ニュース
樫本大進の活躍あたりからなのでしょうか、ソリストとして活躍する演奏家がオーケストラにポジションを得て活動するケースが増えてきたように思います(同じチェリストであれば、NHK交響楽団の向山佳絵子の先例もありますね)。独奏者としての個性が求められる(とされる)ソリストと、集団の中で演奏することになるオーケストラの団員は求められるものが違う、とかどこかのオーケストラの団員のコメントで読んだことがあるように思うので、ソリストと(首席とは言え)オケのメンバーとは両立は難しくないのかな、などと考えてしまいますが、彼女のコメントにもある室内楽がその乖離をつなぐものとして存在しているのかもしれません。
文中で名前を挙げた各位の今後のご活躍をお祈り申し上げつつ、併せて敬称を省かせていただきましたおわびをさせていただきます。
では本日はこれにて、ごきげんよう。
2017年2月5日日曜日
2/5「N響 第1849回 定期公演」放送
こんにちは。千葉です。
放送予定のご案内です。ショスタコーヴィチですよ、ショスタコーヴィチ!
●<N響 第1849回 定期公演>
指揮:井上道義
ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン
トランペット:菊本和昭
管弦楽:NHK交響楽団
曲目:作曲はすべてドミトリー・ショスタコーヴィチ
ロシアとキルギスの民謡による序曲 作品115
ピアノ協奏曲第一番 ハ短調 作品35
交響曲第一二番 ニ短調 作品112 「1917年」
2016年11月25日にNHKホールで開催された演奏会、いよいよ放送です。
コンサート会場としての日比谷公会堂に再び光を当てた一大プロジェクト、「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト」もついにCD化される、定評ある井上道義のショスタコーヴィチが放送されます。(俺はどうして会場に行かなかったのか!と思って確認したら別の公演に行っていました…)
ショスタコーヴィチについていろいろ書いては消して、最終的に残ったのはただ一言「聴いてください」です(笑)。
その昔は「映画音楽かよ」「プロパガンダ音楽に成り下がりやがって」などと散々な扱いを受けたこの交響曲も今聴けば違って聴こえましょうし、協奏曲はかつて映画館でサイレント映画にピアノで音楽をつけていた若きショスタコーヴィチの才気のほどが伺えましょう。日曜の夜はショスタコーヴィチで、ほら、タコサンデー的な(……)
…なんかリカヴァーできない感じなのでこの記事はこれでおしまいです。ではまた、お会い出来ましたら幸いです(恐縮)。
※井上道義が首席指揮者を務める大阪フィルハーモニー交響楽団、次の定期演奏会ではショスタコーヴィチの交響曲を二曲ですよ!「1905年」こと第一一番、そしてこの日放送される第一二番ですって。重いよ!と言わずぜひ近隣の皆様お楽しみあれ。詳しくはリンク先にてご確認ください。
放送予定のご案内です。ショスタコーヴィチですよ、ショスタコーヴィチ!
●<N響 第1849回 定期公演>
指揮:井上道義
ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン
トランペット:菊本和昭
管弦楽:NHK交響楽団
曲目:作曲はすべてドミトリー・ショスタコーヴィチ
ロシアとキルギスの民謡による序曲 作品115
ピアノ協奏曲第一番 ハ短調 作品35
交響曲第一二番 ニ短調 作品112 「1917年」
コンサート会場としての日比谷公会堂に再び光を当てた一大プロジェクト、「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト」もついにCD化される、定評ある井上道義のショスタコーヴィチが放送されます。(俺はどうして会場に行かなかったのか!と思って確認したら別の公演に行っていました…)
ショスタコーヴィチについていろいろ書いては消して、最終的に残ったのはただ一言「聴いてください」です(笑)。
その昔は「映画音楽かよ」「プロパガンダ音楽に成り下がりやがって」などと散々な扱いを受けたこの交響曲も今聴けば違って聴こえましょうし、協奏曲はかつて映画館でサイレント映画にピアノで音楽をつけていた若きショスタコーヴィチの才気のほどが伺えましょう。日曜の夜はショスタコーヴィチで、ほら、タコサンデー的な(……)
…なんかリカヴァーできない感じなのでこの記事はこれでおしまいです。ではまた、お会い出来ましたら幸いです(恐縮)。
※井上道義が首席指揮者を務める大阪フィルハーモニー交響楽団、次の定期演奏会ではショスタコーヴィチの交響曲を二曲ですよ!「1905年」こと第一一番、そしてこの日放送される第一二番ですって。重いよ!と言わずぜひ近隣の皆様お楽しみあれ。詳しくはリンク先にてご確認ください。
2017年2月4日土曜日
ミューザ川崎シンフォニーホール、第4回 被災地復興支援チャリティ・コンサート開催
こんにちは。千葉です。
被災県の出身者として、そして市民の務めとしてご案内させていただきます。ミューザ川崎シンフォニーホールがあの地震の日に開催する、復興支援チャリティ・コンサートのご案内です。
詳しくはリンク先に書かれているホールからのご案内をお読みいただきたいのです、心のこもった文章で、素晴らしい判断が示されていると思いますので。
入場無料ですが要事前申込、来場された際にチャリティへの協力をお願いする形で開催されます。申込みはハガキのみ、2月20日必着です。詳しくはリンク先にてご確認ください。
入場無料ですが要事前申込、来場された際にチャリティへの協力をお願いする形で開催されます。申込みはハガキのみ、2月20日必着です。詳しくはリンク先にてご確認ください。
この文章の後に何か書いても蛇足にしかならないのだけれど、私からも。
あの地震で自らも大きな痛手を受け、しかし現在はあの日以前と変わらぬ解像度の高い鮮明な響きで私たちに最高の音楽を聴かせてくれるミューザ川崎シンフォニーホールが、各地の復興を助ける側として支援する側に立って活躍してくれることを、一音楽ファンという以上にあのコンサートホールの音を愛する者として喜ばずにはいられません。
そして、あの地震の後しばし岩手に戻っていた私は、まだあの地震とその対応がまったく終わっていないことをよく知っています。おそらく今も、毎日のように被災の記憶と今後への展望がニュースなどで明暗さまざまな角度から語られ続けているのだろうとお察しします(そこに昨年の水害ですから、さぞ県北の皆さまは大変だったろうと、正直言葉もありません)。
もしかすると復旧できて復興したところもあるのでしょうけれど、市街が更地になってしまったような地域ではモノの再建はただの始まりでしかないのです。社会そのものが受けた被害から、普通の生活に戻るためには必要なものが想像以上に多くあるのだ、地域のメディアは毎日それを伝えていましたし、今もそうなのでしょう。
しかしながら、首都圏に戻ってみればあの地震の話はもはや過去に属するものに思えてくる。一つの自治体がいいように利用された事件の話なんて、どこのメディアでも見もしない(気になる方は"山田町 NPO"あたりで検索してください)。トラブルからの回復はそう簡単ではないし美談に回収しきれるものではないのだなって、岩手ではよく考えさせられたものですから、首都圏発信で折々に示される”感動的な復興物語”にはどうにも違和感がある。「あの地震を忘れない」というのはそういうことなのだろうか、と考えてしまう。この疑問に答えを簡単に出してしまうことにも抵抗がある。正解もないし、やることの方向ですらいいか悪いか判断できかねる、それでもしなければならないことをしていかないと復旧も復興もない。それが現実に起きた災害からの立ち直り方なのだと、あの地震を「演奏会に行くはずだったが、電車が動かない」という、それほど被害のないかたちで体験した私は岩手県でしばし暮らして知ったように思っています。
おそらくは、この感覚をかつて明石海峡を震源としたあの地震を体験した皆さんが長く経験してこられ、そして現在は熊本周辺の皆さまが経験している最中なのだろうと推察します。被害も回復のためのプロセスもそれぞれで、それぞれに違う困難がありながら今よりマシな状況にするために日々為すべきことを為したり、何を為すべきかを決めたり考えたり迷ったりされていることでしょう。
今回、自らも被災したあの地震の名を外すことに、少々の寂しさというかなんというか、微妙な感慨もないわけではありません。ですが、この変更によってホールは、自らが支援される側から支援する側へ変わることを明確に打ち出したのだ、と私は理解しました。あの地震由来の余震が今も続く状況ではあるけれど、昨今の各地で起こる地震も無視できるものでは、無視していいものではないわけです。どこかの評判の悪い(穏やかな表現)とは違って、新しい判断をすることも必要なのです、きっと。
そんなわけで、「ここには、その時が来たのだ」という理解をして、これからもミューザ川崎シンフォニーホールに通おうと思う私であります。そしてそのたびに天井を見上げて、あの地震のことを思い出すでしょう、きっと。あんなことがあっても以前のように戻すこともできる、ここだけの響きだって失われていないのだから、なんて思いながら。
****************
うーん、柄にもなく感傷的になりすぎだな、と少し反省しながらもこれで記事の更新はおしまいにします。ミューザ川崎シンフォニーホールでは、本日もおなじみの名曲全集が開催されますので、興味のある方はぜひ。そのうちこの呼名がなくなるはず、と期待も込めて考えている女性指揮者の登場ですよ。
(私、他用にて伺えないのが残念です。かわさきミュートンくんの10歳をお祝いしたかったなあ←そこですか)
では本日はこれにて、ごきげんよう。
しかしながら、首都圏に戻ってみればあの地震の話はもはや過去に属するものに思えてくる。一つの自治体がいいように利用された事件の話なんて、どこのメディアでも見もしない(気になる方は"山田町 NPO"あたりで検索してください)。トラブルからの回復はそう簡単ではないし美談に回収しきれるものではないのだなって、岩手ではよく考えさせられたものですから、首都圏発信で折々に示される”感動的な復興物語”にはどうにも違和感がある。「あの地震を忘れない」というのはそういうことなのだろうか、と考えてしまう。この疑問に答えを簡単に出してしまうことにも抵抗がある。正解もないし、やることの方向ですらいいか悪いか判断できかねる、それでもしなければならないことをしていかないと復旧も復興もない。それが現実に起きた災害からの立ち直り方なのだと、あの地震を「演奏会に行くはずだったが、電車が動かない」という、それほど被害のないかたちで体験した私は岩手県でしばし暮らして知ったように思っています。
おそらくは、この感覚をかつて明石海峡を震源としたあの地震を体験した皆さんが長く経験してこられ、そして現在は熊本周辺の皆さまが経験している最中なのだろうと推察します。被害も回復のためのプロセスもそれぞれで、それぞれに違う困難がありながら今よりマシな状況にするために日々為すべきことを為したり、何を為すべきかを決めたり考えたり迷ったりされていることでしょう。
今回、自らも被災したあの地震の名を外すことに、少々の寂しさというかなんというか、微妙な感慨もないわけではありません。ですが、この変更によってホールは、自らが支援される側から支援する側へ変わることを明確に打ち出したのだ、と私は理解しました。あの地震由来の余震が今も続く状況ではあるけれど、昨今の各地で起こる地震も無視できるものでは、無視していいものではないわけです。どこかの評判の悪い(穏やかな表現)とは違って、新しい判断をすることも必要なのです、きっと。
そんなわけで、「ここには、その時が来たのだ」という理解をして、これからもミューザ川崎シンフォニーホールに通おうと思う私であります。そしてそのたびに天井を見上げて、あの地震のことを思い出すでしょう、きっと。あんなことがあっても以前のように戻すこともできる、ここだけの響きだって失われていないのだから、なんて思いながら。
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うーん、柄にもなく感傷的になりすぎだな、と少し反省しながらもこれで記事の更新はおしまいにします。ミューザ川崎シンフォニーホールでは、本日もおなじみの名曲全集が開催されますので、興味のある方はぜひ。そのうちこの呼名がなくなるはず、と期待も込めて考えている女性指揮者の登場ですよ。
(私、他用にて伺えないのが残念です。かわさきミュートンくんの10歳をお祝いしたかったなあ←そこですか)
では本日はこれにて、ごきげんよう。
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