2020年2月9日日曜日

「サエグサシゲアキ1980s」を前に来し方を思った

「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」は自動遊球機になったおかげなのか、最近また多く話題に登るようになっている。そんな流れに乗った面もあるのだろうか、間もなく東京交響楽団が演奏会でそのスコアを演奏する。であればガンダム直撃世代のひとりとして何か書いておかねばなるまい。

●東京交響楽団 特別演奏会 「サエグサシゲアキ1980s」

2020年2月12日(水)19:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:梅田俊明
管弦楽:東京交響楽団

三枝成彰:
  「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988)
  交響曲「動乱」(1980)

1980年代に幼少期を過ごしたものは幸いである、知らぬ間に当時の名音楽家たちの創り出した音に触れていただろうから。今なおご健勝でいらっしゃる、主に特撮で活躍されていた渡辺宙明、すぎやまこういち(「伝説巨神イデオン」、というより今では「ドラゴンクエスト」シリーズか)のような大御所、そして「聖戦士ダンバイン」の坪能克裕(寡聞にして他の仕事を存じ上げなくて申し訳ない)、「重戦機エルガイム」の若草恵のような、また惜しくも亡くなられた羽田健太郎(「超時空要塞マクロス」の仕事の鮮やかさ!なお「イデオン」ではサントラに参加してスリリングなピアノを聴かせてくれている)、…などなどの先達に伍する形で、当時の青少年たちに強い印象を残した作曲家、それが三枝成彰だ※。

※「逆襲のシャア」の頃までの彼は、本名の三枝成章名義で活動しており、おそらくはそこを意識して演奏会タイトルもひと捻りしたものと思われるのだけれど、本文中ではこれ以降もオーケストラに倣って「三枝成彰」と表記させていただく。

本放送こそ低視聴率に苦しみ打ち切られて終わった「機動戦士ガンダム」(以下「ガンダム」)だが、放送開始翌年からリリースされた300円からラインナップされたガンプラが飛ぶように売れ、ガンプラブームから始まったガンダム人気は放送当時のファン層のみならずより若年層までを鷲掴みにした。本編こそ終わっていても再放送は繰り返されたし劇場版も公開、そしてガンプラでもMSVなど新要素の供給もあって「ガンダム」人気は長く続き、それを受けて1985年にはついに「ガンダム」の正当なる続編「機動戦士Ζガンダム」(以下「Ζガンダム」)が放送されるに至るのだ。
「Ζガンダム」のサウンドトラックで一年に渡って三枝のサウンドに触れる、それは80年代にガンプラを作っていた青少年の音楽的義務教育だった、と言ってもただの戯言にはならないだろう。主人公たち青少年の交流を描くシティポップス的軽やかさから恋人たちの想いを描くメロウな旋律、そしてマーラーやショスタコーヴィチにも通じる重厚なサウンドまで駆使して一年の長丁場を楽しませてくれた三枝成彰に、当時の青少年の一人として恩義を感じないわけがないのである。ちなみに当時の彼は40代、その働き盛りにおいて、前作を彩った渡辺岳夫・松山祐士の後を引き継いだのだった。



「Zガンダム」は、「ガンダム」の物語で描かれた地球連邦とスペースノイド(作中では宇宙移民が実現されており、その住まいとして作られたスペースコロニー生活者を指す)の対立として行われた一年戦争が終わった後、地球連邦内の方針違いによる分裂(それも思惑ベースで見ればいくつもの勢力がある)が起こり、またジオン残党の脈動など多数の勢力が覇を競う展開を描く、相当に複雑な話となっていた。主人公目線で見れば”宇宙で始まり地上に降下、そして転戦からの再び宇宙での戦いへ…”という、最近の「機動戦士ガンダムUC」にまで踏襲される定番の展開だったから当時の青少年たちもついていけたけれど、とても複雑な作品なのだ。その複雑さ、スケール感故に「Zガンダム」は多くの青少年を振り落としてしまい「ガンダム」ほどの広い人気を得たとは言えず、それに続いた「ZZガンダム」は複雑に過ぎた前作の印象を払拭するために迷走し…と、人気作を続けるのは難しく、完結させるのもまた難しいのである。それはついに完結した「スター・ウォーズ」を見てもわかることだ。ファンの期待に応えるべきか、それともまた別の道を示すのか。
…と、延々と「Zガンダム」の話ばかりしているといつコンサートの話につながるのかと疑問を感じられてしまいかねないので、そろそろ「逆襲のシャア」の話に移ろう。

「Ζガンダム」が「ガンダム」の正当な続編であったように、「逆襲のシャア」(1988)は”アムロとシャアの物語”として「Ζガンダム」の正当な続編であり、そのサウンドトラックはどちらも三枝成彰が手がけている。ここで一度、アムロとシャアの物語は一つの終りを迎えるのだが、異様なまでに圧縮された物語づくりを得意とする富野由悠季の手腕が本作で頂点を極めた感もあって傑作として長年愛されている。作中数多くのセリフがネットジャーゴンとして流布し、後続の作品が大小数限りなくオマージュを捧げていることはご存知のとおりだ。かく言う私は、無理めなミッションを前にすると本心はさておき一度は「やってみる価値ありますぜ!」と言ってしまいます。心がモブですみません。

さて物語は前作までの展開を受けているから、焦点は「地球連邦は一つの勢力に戻った、あとは宇宙に住むスペースノイドたちをどうするか」となる。そんな状況の中で、なんと「Ζガンダム」でエゥーゴのメンバーとして活躍したクワトロ・バジーナことシャア・アズナブルは、ネオ・ジオン勢力に身を寄せて自らの本来の出自であるキャスバル・レム・ダイクンの名をもちらつかせながらネオ・ジオンのリーダーになっている。つまるところ、アムロのいる地球連邦軍の敵、その親玉になっているのだ。かくして再びアムロとシャアの物語は最初の「ガンダム」と同じ、二人の対立の物語として描かれることになる。
アムロやシャアに加え、サイド6の能吏となっているカムラン・ブルームやブライト・ノアら旧ホワイトベースの面々が時を経て違うポジションで登場する他、ニュータイプ適性のある少女クェス・パラヤ(偽名エア)やブライト艦長の息子ハサウェイ、アムロのメカニックとして活躍するチェーン・アギら新キャラクターも重要な役割で多く登場して地球連邦とネオ・ジオンの最後の戦いが行われる、それが「逆襲のシャア」の物語の大枠だ。
ここまで前提が多く、作中で語られるべき内容も多い、しかし映画はいかんせん尺、使える時間に限界がある。だが前述の通り、その制約の中で富野由悠季はちょっと考えられない密度で物語を描いた。「本来なら半年くらいかけてテレビシリーズで放送すべき内容だったのではないか?」、再見するたび、初見でそう感じたことを思い出す。タイトルが示すとおりシャアがネオ・ジオンでしようとしていること、シャアが本当に求めていたことを軸にして、”アムロとシャアの物語”はここで終局を迎える。


さて本作は「Ζガンダム」の正当な続編なので、音楽も三枝成彰が続投している(実は先ほど少し触れた「ZZガンダム」も彼の作なのだが、なかなか再放送されないせいもあるのかどうにも印象が薄い。ここからは本当に「ZZガンダム」の話はしない)。「Ζガンダム」で聴かせてくれた多彩なサウンドは更に洗練され、また劇場版ということもあってより重厚なものとなっている。その充実ぶりは映画として観てもも十分に伝わるほどだが、単独に音楽としてCDや配信で聴けばさらにその見事さが伝わるものだ。では、それをライヴで聴けばどうなるのか?もしかすると刻が見えたりしてしまうかもしれないけれど、こればかりは会場で体験していただくしかない。
ただ、ひとつ予言しておこうと思う。コンサートの前半のあと、すべての聴衆の脳内では小室哲哉のシンセが、木根尚登のギターが、そして宇都宮隆のヴォーカルが脳内で流れるだろう…(ただし会場ロビーでの歌唱は推奨しません)


エンディングで流れるTMネットワークの「BEYOND THE TIME 〜メビウスの宇宙を越えて」は、先般放送された「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の放送版でもLUNA SEAによるカヴァーで使われた。TMとLUNA SEAの時を超えたコラボは、さしてポピュラー音楽を聴かない私でもちょっと感じ入るものがあった。そうそう、「THE ORIGIN」の再放送もぜひ。

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後半で演奏されるのは、映画「動乱」の音楽から、三楽章の交響曲として編み直された作品だ。最近では吉永小百合と高倉健の初共演として、先日「プロフェッショナル」でも紹介されていたから、興味を抱かれた方も少なくないところだったろう、この選曲はタイムリィだといえる。
この交響曲は過去に井上道義の指揮、藤原真理のチェロ、神谷郁代のピアノ、東京フィルハーモニー交響楽団による録音もあるのだが、今では希少盤ゆえ入手するのもなかなか難しい。だが映画の方ならレンタルなどで比較的視聴しやすいので、気になる方はそちらを見てほしい。この予告も参考になるだろう。


二・二六事件をベースに、架空の登場人物たちのドラマ※を描いた「動乱」(1980)は、「Zガンダム」より古い作品だからそれだけ作曲者も若い。二大スター初共演、そして時代は激動の昭和とこれほどの大作に三枝が抜擢されたあたりにもなにかドラマがありそうに思うけれど、さてそのあたりはどうなのか。
よほどの才気を放っていたのではないか、当時の若き三枝は。そう考えて振り返れば「11PM」の司会をしていたことも相当の抜擢だったのだな、と考えてしまうがこれは余談なのでこの辺で。

※この映画は、どう観ても日露戦争からの日本の歴史をなぞっているのだが、作品の最後に”これは架空の話”と強調しているのである、驚くべし。予定していた原作が使えなかったなどの理由もあるという話ではあるのだが、ここまで旧軍(のように見えるもの)を描いてその姿勢がアリなのか、そこだけは大いに気になる。

作曲された時代がまだ冷戦の真っ最中であること(映画の公開はあのモスクワ・オリンピックの年である1980年だ)を考えれば驚かされるほどに調性的で耳に優しい音楽には、今も変わらぬ三枝の信念が見え隠れするように思う。プッチーニやラフマニノフをさらに濃厚にしたようなメロウな旋律を迷いなく使う手法はオペラを主戦場にした彼の現在の作風にも通じるものだし、内面の機微を室内楽的編成で描き出す親密な音楽から”時代そのものの激動”を描くが如き大編成オーケストラによるスケールの大きい音楽まで駆使することまで、「Ζガンダム」「逆襲のシャア」を経験している私たちはよく知っている。時代的な近さももちろんだが、手法的にも近いこの二作を並べて演奏することの必然性はありすぎるほど、なのだ。

そして、である。先ほど延々と語った「Ζガンダム」のサウンドトラックには、映画「動乱」からの転用がある。音楽を意識しながら映画を観ていると、確かに映像は二・二六事件と思える映像なのだが、音だけを聴いているとティターンズがどこまでも横暴だったり戦闘がモビルスーツで行われていそうな気持ちになる。最終盤の演説だってそうだ、高倉健さんがダカールで正体を明かして支持を求めるのではないかと心配になる。吉永小百合さんが強化されてトラウマから東京の街を拡散ビームで…なんて展開さえ見えてしまいそうだ(やりすぎましたすみません)。
もちろん、作品の成立順では逆なことはわかった上での戯言である。「逆襲のシャア」の音楽をコンサートで聴く機会がある、その気配に反応するたぐいの皆様は、きっとまだ見ぬ映画をもとに書かれた交響曲「動乱」も楽しめます、と申し上げたかった。回りくどくて申し訳ない。ここぞという場面でピアノとストリングスを活かす書法は、「Ζガンダム」「逆襲のシャア」とも共通するものだから、ガンダムファンの各位もきっとこの交響曲からも多くを受け取れることだろう。「動乱」について、個人的にはチェロとピアノの独奏の使い方に注目したい。

腹巻猫(劇伴倶楽部)様の「サントラ千夜一夜」にも転用について言及があります。興味ある方はぜひリンク先でご覧くださいませ、幅広い時代の、あまりにも多くの作品のサントラについて論及されておりますので「Ζガンダム」のみならず気になる作品のものを、ぜひ。
…ちなみに、「動乱」ではこれが楽器編成を変えてそのまま使われています。さあどこでしょうか(知っている人には説明無用のこれ、です)。

いい加減長くなったのでこのあたりでまとめよう。
私たちより少し上の世代なら、佐藤勝や早坂文雄(黒澤映画などでおなじみ)、伊福部昭(「ゴジラ」ほか)、冬木透(「ウルトラセブン」)らの音楽によって問答無用に「日本人によるクラシック音楽」に出会ったのだろうと思う。その出会いが私たちの世代になると三枝成彰や本文中にその名(と作品)を挙げた方々によるものとなるのだろう。2019年にガンダム40周年としてさまざまな企画が登場し、おそらくは私たちと近い世代の福井晴敏が「機動戦士ガンダムUC」やそれ以降の作品で、「Zガンダム」以降の作品からの影響を濃厚に感じさせながら、宇宙世紀の物語の続きを描いてみせた。言ってみれば福井はファンの期待に応える道を選んだわけだ。これは「The Origin」で宇宙世紀の「それ以前」を描いた安彦良和に近い発想と言えるかもしれない、安彦の作品ではシャアが中心的な存在として描かれていることも含めて。しかし一方で、富野由悠季は「Gのレコンギスタ」で新たな世代に向けて、また別の人間たちのドラマを志向した。この両方の道で、「ガンダム」は今なお新しい世界を示しうる、潜在力のある作品でありうることを示してくれた、と言えるだろう。

このように作品としての「ガンダム」は区切りを超えて新たな道を進んでいる、そして今年2020年にはガンプラも40周年、ついに宇宙にまで届こうとしている。「逆襲のシャア」の正統な続編※、「閃光のハサウェイ」の劇場公開も発表された今こそ、「逆襲のシャア」を、その作品を彩った三枝成彰の80年代を振り返るのにふさわしい。それをすべき時があるならば、それはまさしく今なのだ。



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最後に本当に余談。

「Ζガンダム」の頃の三枝は、嘉納治五郎…じゃなくて役所広司が宮本武蔵を演じたNHK 新大型時代劇「宮本武蔵」のサウンドトラックも手がけている。そのテーマ曲は吹奏楽に編曲されてコンクール課題曲として広く演奏されたのでご記憶の方も多いだろう。…だが。テューバにはまっっっっっったく面白くない楽譜に、今に至る「エレキベースやシンセサイザーにやらせたいことはその楽器でやるべき、お願いだから」という信念を形作られてしまったことにだけは、もうテューバを吹いていない今でもお礼は言えない。冗談です。


今ちゃんと聴いてみると、吹奏楽のあれとは相当に違うのだった、テーマ曲。それにしても若いなあ、嘉納治五郎(違)。

2019年12月19日木曜日

かってに予告編 ~東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

2019年12月
  19日(木)19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  20日(金)19:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
  21日(土)19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:チョン・ミョンフン
独唱:吉田珠代(ソプラノ)、中島郁子(アルト)清水徹太郎(テノール)、上江隼人(バリトン)
合唱:新国立劇場合唱団、多摩ファミリーシンガーズ(児童合唱)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」
エルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」

間もなく迎える2020年1月から新たなシーズンを迎える東京フィルハーモニー交響楽団は、昨年から今年にかけてシーズンの区切りを変更するにあたり、この一年を平成から令和への改元を祝う、変化の一年を寿ぐシーズンとして位置づけるかのように演奏会を行ってきた。そんな”一連のシリーズ”を締めくくるためだろうか、年末の第九公演もまたその一環として独自のプログラムで開催される。

新シーズンも見据えれば、チョン・ミョンフンが東京フィルとオーケストラの中核的なレパートリィをあらためて取り上げることでさらなる高みを目指していることは容易に察せられよう。2020年シーズンには「カルメン」、ベートーヴェンとマーラーの第三番を演奏するチョン・ミョンフンと東京フィルがその直前に披露する「第九」が、通例通りの年末イヴェントに収まるだろうか、いやない。SNSで東京フィルが伝えてくれているリハーサルからの言葉からも、その見識、意気込みのほどが伝わってくる。


(コメント全文はFacebookでご覧ください)


さて、先日私が秋山と東響の第九について書いた際に言及したことを今一度思い出してほしい。「今年は、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演がある」、「過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない」。そう、この公演もその意味合いから見逃すことのできない公演のひとつ、なのだ。

チョン・ミョンフンは、かつて東京フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音しているが、それはある意味でオーケストラの”統合の象徴”のような意味合いがあった。今となっては「彼の指揮だから、当時の合併直後のオーケストラでもここまで登ることが出来た」という記録にも思える。バッティストーニと首席指揮者に迎え、プレトニョフや自身との演奏会でより充実を見せるオーケストラとなら、果たしてどこまで行けるのか。そんな私たちの期待は、そのままマエストロと東京フィルのものでもあるだろう。
東京フィルの演奏は、第九のあとにも恒例の東急ジルベスターコンサートやニューイヤーコンサート、そしてNHKニューイヤーオペラなどで聴くこともできるのだけれど、まずはこの機会を逃す手はない、と私は思う。10年以上も前のレコーディングとは比べようもない、今のチョン・ミョンフンと東京フィルだからできる「第九」を、どれだけ高い期待で迎えても裏切られることはない。そう私から断言しておこう

なお、今回第九のあとに演奏されるエルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」は、みなさんもよくご存知の作品の原曲である。そうそう、開幕公演のバッティストーニのコンサートではアンコールに演奏していたことを思い出すなら、チョン・ミョンフンがシーズンの締めくくりにこの曲を演奏することに一層の感慨があるだろう。加えて言及しておくならば、今年退位した、マエストロの音楽的友人である上皇ご夫妻への思いもここにはあるのだろう。この一年だけではなく、この何十年かへの思いを乗せた、特別な演奏会を私も気合を入れて聴かせていただこうと思う。


(余計なお世話とは思うけれど、今回演奏されるのはこの曲の原曲)

ということで、私にとってこれまで経験のない年末二回目の「第九」に向けて、期待は高まる一方である。先日の秋山と東響は14型だったが、チョン・ミョンフンと東京フィルはこの顔合わせのことだから大編成のモダン編成だと推測していいだろう。で、私の三回目の「第九」は…という話はまた次回に。ではまた。

※12/20のオーチャードホールでの公演は僅少ながらまだ残席があるとのことなので、この機会を逃したくない方は、ぜひ。

追記。
「第九のあとに別の曲を演奏する機会はもうないでしょう」とマエストロが語られた、という話をSNSでみました。さもありなん、とは思いますが、初日の好演を聴いたあとに私が「それなら」という思いでこれを聴いておりました。今年だからこそのプログラムに、この季節だから許されることとして。


2019年12月13日金曜日

かってに予告編 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

なにも、日本での「楽団のモチ代稼ぎ」というスタートにケチをつけたいわけでもなければ(諸説あります)、年中行事になってしまったことに批判的なのだよ、なんて強めの意志表示でも何でもなく、と前置きして。私には、年末に”第九”ことルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」を聴く習慣が、ない。たまに気が向いて録音を聴いたなら、その後はしばらく積極的に聴かないようにする、例年ならそのくらいの付き合い方をしている作品なのだ。なにせ扱いが難しい、ちゃんと聴いたら大変だし雑に聴くのは申し訳ない。

だが今年はそんなことを言っていられない。宗旨替えか、貴様ノンポリめ!…そんな罵倒を覚悟してでも(ないない)聴かねばならない、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演があるから、だ。過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない。こんな機会を前に、少しくらい日程が近いからなんだというのか。その最初の公演が、こちら。

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

2019年12月14日(日) 14:00開演

指揮:秋山和慶
ヴァイオリン:シャノン・リー(第7回仙台国際音楽コンクール第2位 ※最高位)
独唱:吉田珠代(ソプラノ) 中島郁子(メゾソプラノ) 宮里直樹(テノール) 伊藤貴之(バリトン)
合唱:東響コーラス(合唱指揮・冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団

ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第一番 ト短調 Op.26
ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」

秋山和慶と東京交響楽団の恒例イヴェント、「第九と四季」は昨年をもって終了した。だが今年も東響との第九は演奏される、それもミューザ川崎シンフォニーホールで。

この夏に、「フェスタサマーミューザKAWASAKI」の出張サマーミューザ@しんゆりで聴いたブラームスの第一番は、休館明け直後の「ミューザの日」で演奏されたサン・サーンスの抜粋は、秋山和慶の端正な造形を超える何かの一端を感じさせてくれたように、私は思っている。それが何なのか、きっと「名曲全集」でもう少し示されるのではないか。長年の結びつき、だけでは収まらない秋山と東響の現在、多くの方が体験してくれますように。

なお、この公演では前半にブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番が演奏される。ソリストは第7回仙台国際音楽コンクール最高位のシャノン・リー、招かれてミューザの舞台に初登場だ。



この動画で彼女の演奏をまず聴いてみるのもいいだろう。選曲がちょっとコンサートの前に聴くには向かない気もするけれど。


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あと一回は、いわゆる第九を聴くのが決まっているのでその予告も書くことになります。どうもチケットは完売した模様なのですけれど。ではまた。

竹中亨「明治のワーグナー・ブーム ~近代日本の音楽移転」の話、と

さて読んだ本の話を。



ちょっとタイトルからの予想とは違った。もっとドタバタした感じを予想していたし、もっと無理やりな受容史をどこか想像していたのだなあ、とこの肩透かし感から思い当たるけれど、そんな先入観も仕方のないものなんですよう、と少し言い訳から始めたい。

たとえば。「モオツァルト」という有名な評論がある。まあ、名著と他人の評価に乗ってしまってもいいんですけど、今の目ではちょっと厳しいところも多い。”上演されてもモーツァルトのオペラを音だけで聴くわ”とかのくだりは本当にキツい。もっとも当時、戦後日本で良いオペラの上演を期待するほうが確かに夢想しすぎではあるので、気持ちは汲んであげられなくもない、とも思うけれど、ここまで評価されている本でも時代には囚われざるを得ないのだ、ということは指摘したい。
そう、時代の制約というのはいつでも誰にでもあるのである。私だって今のYouTubeやスポーティファイの、またはオンラインラジオ配信時代の人から見れば(なんであの人これ聴いてないの不勉強だよね)と思われていることだろう。そう、CD世代なんてもう時代遅れで情報量勝負なんかしたら勝ち目がないのである。もっともそんな勝ち負けなんてどうでもいいのだけれど。

え〜つまりですね、戦後ですら、冷戦期ですら、21世紀になってすら…どの時代だってそれぞれの制約あって音楽を受容している、そういう認識をまず前提に置きたい。そういう話です、回りくどくてすみませんね。技術が発達した今も時代の制約はある、ましてや明治期においておや。文明が開化する前の時代からの洋楽受容、ドタバタしないほうがおかしいと思うのですよ。まして、モオツァルトですらオペラ体験は諦められていた時代の「ワーグナーブーム」ですよ?ドタバタだったり無理やりじゃないと考えるほうが難しくないですか?(正当化)タイトルからは、そんな面白おかしい本なのかなって想像したんですよね。

ですが本書はそういうドタバタなエピソードや、明治期の”ざんぎり頭を叩いてみれば”的風刺を集めたものではなく、まっとうな研究成果でした。副題の「近代日本の音楽移転」をていねいに追い、歴史的経緯をきちんと読み手に認識させるものです。その中で紹介されるエピソードも悲喜こもごものドラマを感じさせるもので、個人的には大河ドラマ「いだてん」のスタイルでドラマにしてほしいくらいに興味深い。欧州文化との対峙ということであれば、スポーツより音楽のほうが先行しているわけですし。
そうですね、前半は考えるとして、後半の主人公は小澤征爾さんで「ボクの音楽武者修行」をベースにするのはどうですか。なにより映像化されれば音楽もつくから映えると思います。コンクールをクライマックスにできるから「のだめカンタービレ」「蜜蜂と遠雷」に続け!ってなもんですよ!!…もっとも、考証がすっごく大変になりますけど…(えっ本気だったの)

ちなみに。本書のタイトルが示す「ワーグナーブーム」、なんと音はほとんど聴かないで、それでも流行ったというなかなか味わい深い現象なのでした。気になった方は本書を、ぜひ。


そしてクレメンス・クラウスのワーグナーが私の最近のマイブーム(©みうらじゅん)。クラウスがあと数年でも生きていたら、いろいろ違ったんじゃあないか、なんて思う今日このごろ。

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さて。せっかく名前を出したので、ここでいよいよ最終回を迎える「いだてん ~東京オリンピック噺~」の話をします。傑作です。

いつも書いている通り、私は来年の世界的大運動会をスルーします。ここでは何も書きませんし、Twitterなどでも言及しない、できるだけ開催期間には都内にも行きません(なぜならフェスタサマーミューザKAWASAKI 2020があるから←運動会関係ないじゃんねえ!)。
そんな私はこのドラマにどう向き合ったかといえば、初期の「タイトルロゴのトリスケルが気持ち悪い」(横尾忠則のデザインでそう反応できる初さがちょっとうらやましい)だの「来年のための広告かよったく」「この視聴率…」なんて世評とは無縁に、初回から今に至るまでずーっと楽しく見てきました。もっとも初回を見るまでは私も(実際のオリンピックのためのもんだったら引くなあ…)と思ってました。しかし凝りまくった初回の構成に魅了されて、それ以降は録画してでも見逃さずここまで伴走してきました。楽しかったなあ…

大河ドラマについて、私はそんなに熱心な視聴者ではなかったのですが「龍馬伝」以降はたぶんほとんどのエピソードを見ているはず、です。その前だと仲間由紀恵見たさに…いやその話はいいか。それ以降だと「平清盛」は本当に、最高に面白かったですよね(再放送されてほしい。ちゃんと見ればわかってもらえると思うので)。
一年かけてひとつの大きいドラマを描ける大河ドラマという枠は、うまく使えば凄まじいものにもなりうるし、まあそれほどではなくても長く見ていればそれなりの愛着は湧くものです。そんな私でも無理だった作品は(自重)。余談の余談はこのへんで。

ここで紹介した本もそうですが、そもそも開拓者の話は先が見通せずに苦労することの連続でございます。そのドラマが現在進行形で描かれるなら、成功物語の中の過去のエピソードとして語られるそれとは違い、上手く進まない試行錯誤の繰り返しだってありましょう。
たとえば本作、前半の金栗四三時代を「よく知らない人の、あまり楽しくもない話」と見る人もいたでしょう。だがしかし彼の、また天狗倶楽部たちの時代になされた苦闘があったからこそ、ドラマは1964東京オリンピックに到れる、そう宮藤官九郎はじめ制作陣は考えた、のだろう。
実際のオリンピックはまだ知らないが高邁な理想を世界と共有する国際人(で何より面白い人)嘉納治五郎、走ることだけが得意な金栗四三、その二人を軸としつつ有名無名の人々を虚実ないまぜにしながら(壮絶なほどに”実”の分量が多いのが「いだてん」の凄いところで困ったところでもあるだろう)、狂言回しに後の古今亭志ん生を配して時代を活写しつつ明治から大正へ、そして第二部の主人公、田畑政治が激動の昭和を生き抜いて1964年に至る遠い道の、その始まりをまず用意した。
初参加のストックホルムから戦後の復帰まで、先行者たちの苦労と成功と巨大な失敗があって1964があり、それとどう関係するかはよく知らないが2020が待っている。来年のそれが、「いだてん」に描かれた先行者たちの苦闘を無に帰してしまわなければいいと思う気持ちはあるが、大運動会そのものの回避を決めている私には関係のないことである。諸行無常。

一年見てきた中でも、忘れがたい場面はカイロでのIOCでなんとか東京開催を取り付けたあとの帰路、船中でまだ外交官の平沢和重と嘉納治五郎が「一番面白かったこと」を語りあったところだ。私の中では完全に「神々の黄昏」の終盤、ジークフリートの昔語りに重なってしまって、もう楽しげな話を笑顔でしている二人を見ながら泣けて泣けて仕方がなかった。
このエピソードの前、嘉納先生は多忙に過ぎて”いだてん”のことすらすぐには思い出せない状態で、ある意味で自分の過去を裏切っていた。また田畑が問うとおり開催に向けて活動するオリムピックを「これがあなたが世界に見せたい日本なのか」と信頼する身内に否定されてしまっている、恐ろしいほどの孤独の中にあった。それでも恐れず前進を続けた英雄は、裏切り者に刺されたのではないけれど前を向いたままに亡くなってしまった。宮藤官九郎が描出し役所広司が演じ、スタッフが作り上げた嘉納治五郎は最後の瞬間まで楽しさを基準に物事を捉える痛快児のまま退場していった。こんな英雄の、最後の回顧を死亡フラグなんて安い言葉で収めたくはない。



さて、少しだけ音楽的思いつきも書いておきましょう。まずはこの場面を御覧ください。



開会宣言に続いて演奏される、公募で採用された今井光也によるこのファンファーレ、映画では強調されませんけれど「東京オリンピック ファンファーレ マーチ」とかで検索すればもっと鮮明に全曲聴くことができます。適当なものがなかったのですみません。

で、ですね、このファンファーレのあとに古関裕而作曲のマーチが続く、というのが演奏会などでは一般的なものなんですけれど。
どうだろう、このファンファーレのあとに「いだてん」テーマ曲を演奏するのは。行進なんかじゃあ収まらない、大好きなものへと駆け出す思いが意外にハマるんじゃないかなあ。最終回を前に、そんなことを考えている私なのでした。

2019年12月9日月曜日

BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」

●BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」 (12/10 18:00~ 再放送予定)

ワーグナーを聴かせてトマト作り、と言われるとまずは信憑性に疑問を感じる「モーツァルトを聴かせて熟成させた」的なものを想起する。だからこの番組も疑似科学的な、半分ネタ的な話なんだと思って見始めた。まあ、ワーグナーが流れるなら守備範囲でもありましょうし。
だが見終わって言えるのは、このドキュメンタリーは高齢化日本でこそ広く見られてほしい、ということだ。過疎の地元を離れて大学で学んだ男が、地元に戻ってトマトを作り、そのトマトでソースを作り…と、この番組はそんなチャレンジの物語だった。そしてここで描かれていたのは高齢化の先に見える希望がない地域でどうやって未来を作るのか、ということだ。タイトルの含意は、そのどこにでもあり普遍性あるのエピソードの中に、ワーグナーの音楽もあった、というだけの話だった※。そして流れた音楽はワーグナーだけではなく、プッチーニやギリシャ音楽も流れるし、トマトを育てることと音楽との関係も語られている。なんでも、「味を求めるならワーグナーだが、収量を求めるならギリシャ音楽」なのだとか…(笑)



※しかしタイトルは原題も「When Tomates Met Wagner」なので、この邦題がツカミ狙いのものではないことを付記しておく。

ワーグナーを聴かせて無農薬トマトを育て、そのトマトでオーガニックフードを作って販売していく過疎の、高齢化の村。手作りの素朴で味のいいトマトソースは、その過程でビジネスに出会い、試行錯誤する。差別化のためチアシード入りソースを求められて試行錯誤する終盤はなかなか味わい深い。いい味の品を作れている自信はある、だがそれだけではニーズに応えられない。高齢化の村が現代のグローバルなビジネスに出会って戸惑うさまも、普遍性のある出来事だろう。そして何より、少子高齢化のこの国では、この村が示すものは決して絵空事ではありえない。劇場上映であればちょっと見に行きにくいかもしれないが、せっかく我れらが公共放送が放送してくれているので、ぜひ見てみていただきたい。その先の思考は、視聴した私たち、それぞれの仕事である。

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2020-2021年度 ミューザ主催公演 ラインアップ発表

ミューザ川崎シンフォニーホールの次年度主催公演ラインナップが12月6日、発表された。すでに東京交響楽団の新シーズン公演として発表済みの「名曲全集」「モーツァルトマチネ」については別記事で詳報するため本稿では割愛(必要に応じて参照)する。最終日の「ほぼ日刊サマーミューザ」で告知済みの「フェスタサマーミューザKAWASAKI2020」(7月23日〜8月10日)も同様。

各公演について詳しくはリンク先でご覧いただくとして、やはりひとつ取り出して語られるべき焦点は秋の「スペシャルオーケストラシリーズ」になるだろうと思う。今年は10月にノット&東響の「グレの歌」を、そして11月にパーヴォ・ヤルヴィとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、アンドレス・オロスコ・エストラーダとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ズービン・メータとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が立て続けに登場する、これ以上はなかなか想像できない程の濃密さであったが2020年はどうか。結論を言ってしまえば喜ぶべし、来年もいずれ劣らぬ三つのオーケストラがミューザの舞台に登場してくれる。10月3日にサー・サイモン・ラトルとロンドン交響楽団、11月に入ってワレリー・ゲルギエフとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とバイエルン放送交響楽団(指揮者未定)のコンサートが予定されている。

ここでまず触れなければいけないのはバイエルン放送交響楽団について、だろう。印刷されたパンフレットや、リンク先でご覧になった方もお気づきのとおり、この公演はマリス・ヤンソンスの指揮で予定されていたものだ。聴衆からも音楽家の同僚たちからもますます尊敬を集めていたマエストロの訃報は多くの方がご存知のことと思う。ミューザ川崎シンフォニーホールのサウンドをこよなく愛してくれた、かつて「アルヴィド・ヤンソンスの息子」として、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団を率いる注目の若手として現れ、昨今では押しも押されもせぬ巨匠となった彼が、このホールに次に登場することはない。

12/7に訪れたミューザ川崎シンフォニーホールでは、彼の生前の写真を掲出してその死を悼んでいた。

「ミューザのような素晴らしいホールをこのオーケストラのために」と尽力していたさなかの死は無念であろうと想像する。また、PDFデータ版からマエストロの写真と予定されていた曲目を削除しなかったことからも察せられる、ミューザ川崎シンフォニーホールの無念も如何ばかりか。バイエルン放送交響楽団とコンセルトヘボウ管、ふたつのオーケストラと見事な演奏を、最高のホールで披露してくれた相思相愛とも言えたヤンソンスとミューザ川崎シンフォニーホールの関係は、予定されていた来年には続かなかった。もう彼のブラームスは聴くことが出来ない。奇しくも彼の亡くなった日の、一年後が公演予定日だった。


ヤンソンスと同様にこのホールを愛してくれている(そして地元にミューザのようなホールを作ろうと奔走している)サー・サイモン・ラトルが現在率いるロンドン交響楽団との初のミューザ公演に、マーラーの交響曲第二番を用意していたことに、なんとも言えない感慨を覚えるのは私だけではないだろう。ラトルにとって指揮者を目指すきっかけの一曲であり、愛するホールの聴衆に自らのパートナーを紹介するために選んだのがこの作品であることは想像に難くない。ラトルにとってもマーラーの第二番は特別な作品であるし、それを東京公演ではなくミューザに持ってきてくれることの意味はそれだけでも十分に重いものだ。ラトルとロンドン響の新時代が活気あることは前回の来日公演を会場で聴いて、また放送や録音などで見知っている方も多いことと思うので、この公演への期待はそれだけでも高いものとなる。長年のファンとしても、来年の最大の注目公演としてフォントを大きくして書いておきたい。
だが、このタイミングでこのプログラムが発表されることに、ついヤンソンスのことも考えてしまう。ベルリンを退任後にバイエルン放送響との録音もしているラトルが、彼の死を悼むために用意したプログラムではない、そんなことはわかっていてもつい考えてしまう。これはラトルとヤンソンス、現代を代表するマエストロたちがミューザに寄せてくれる愛がなせるめぐり逢わせ、なのだろうか。


今年はサマーミューザにPMFオーケストラと登場したゲルギエフがウィーン・フィルと何を聴かせてくれるかは調整中とのことだが、現在マリインスキー劇場管と素晴らしいチャイコフスキーを披露しているというマエストロがどんなプログラムで私たちを驚かせてくれるか、期待しよう。

なお、前述したとおりロンドン響(10月)からウィーン・フィルとバイエルン放送響(11月)の間には短くない空白があるように見えるが、この間にはノット&東響の「ペレアス」・「トリスタン」定期やモーツァルトマチネ(リゲティまで演奏!)、名曲全集(矢代秋雄!!ブルックナーの第六番!!!)もあるので、否応もなく充実した演奏会が二ヶ月も続いてしまうのである。サマーミューザと並ぶもう一つの”高峰”は、来年も相当な高みに私たちを導くことだろう。

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恒例のシリーズ公演の中で、大きめの変更が行われるのはランチタイム/ナイトコンサートだ。同じアーティストが趣向を凝らしたプログラムで昼・夜の二回公演で(しかも廉価で!)楽しませてくれていたこのシリーズは、新年度には基本的にランチタイムコンサートのみのシリーズとなり、一部の公演で別シリーズとして行われてきた「ワインBAR」シリーズとして併催される。また、ミューザ自慢のオルガンを披露する機会となるランチタイムコンサート(4、7、11、翌年3月)ではオルガンツアーも新設されて、日頃は見られないミューザの舞台裏を回れるということなので、ミューザファンの皆様には続報をお待ちいただきたい(来年1月に詳報予定とのこと)。

また、年明けて2020年1月から始まる「MUZAスペシャル・ナイトコンサート」の新シーズン(2020年6月~)も発表されている。スライド・モンスターズにナベサダのビッグバンド、ザ・キングズ・シンガーズと、日頃のミューザに登場する顔ぶれとは一味違う面々のサウンドがこのホールにどう響くか、注目しよう。

他にもいくつもスペシャル・コンサートが発表されたが、中でも注目したいのは聖金曜日の翌日にバッハ・コレギウム・ジャパンが披露してくれる「マタイ受難曲」だろう。残念ながらミューザ公演はないのだが、鈴木優人が東響とメンデルスゾーン版を披露した直後のタイミングで鈴木雅明がBCJとオリジナルのマタイを、ミューザで披露してくれる。あの劇的にすぎるとまで当時は評された作品がミューザでどのように響くものか、大いに期待したい。

そんなわけで、新シーズンもミューザ川崎シンフォニーホールはその響きに見合う、素晴らしい音楽家たちが続々と登場してくれる。一人でも多くの人に、その最高のサウンドを体験してほしいものだ、といつものように感じた私である。今シーズンの公演もまだまだ続くので、ぜひ川崎駅前のミューザ川崎シンフォニーホールに足をお運びいただきたい、と一人の市民として申し上げよう。

追記。公開後にバイエルン放送協会のこの動画を見つけた。冒頭メータ、ラトルと続くのがまた、何かのめぐり合わせに思えてしまうのだった。



2019年12月6日金曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

2019年12月
  7日(土)14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
  8日(日)14:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:マーク・ウィグルスワース
ピアノ:マーティン・ジェームズ・バートレット
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第二四番 ハ短調 K.491
マーラー:交響曲第一番 ニ長調

個人的な話で恐縮だが、12月定期に登場する二人の音楽家とはタイミングなど合わず、今回ようやく実演に触れられるだろう、という運びであることを申し上げておく。好評を受けての再登場、それ故に私もこうして”新しい”音楽家に出会えるわけである。皆さまのお声があって、東響がそれに応えてくれているおかげである。有難いありがたい。

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指揮のマーク・ウィグルスワースだが、私が彼の名を知ったのはあるディスクを新譜情報の中に見つけたときだったと思う。その盤はマーラーの「大地の歌」、しかしシェーンベルク/リーンの編曲による室内楽版、というもの。まだ男声二人による録音もそれほど多くはない頃に、このような謎の版※を選ぶ彼は何者なのか。そう思ってはみたけれど、その音を聴くには先立つものがなかったその頃のこと、私は名前のみ記憶して現在に至っている。

※ウィグルスワースの録音は1995年、それに先行してフィリップ・ヘレヴェッヘとアンサンブル・ミュジック・オブリークが録音していたことは後になって知り、その盤は今も愛聴している…という話は前にも書いた気がする。

そんな昔のことを思い出し、彼のサイトでディスコグラフィを確認してみれば何ということでしょう、実に私向きの曲ばかり録音していらっしゃる。東響への来演も五回目になるというのに何をしていたのか、と反省頻り、である。いや、いよいよ聴く機会が来たのだと、ポジティヴに捉えておこうか…



そしてもう一人、ピアニストのマーティン・ジェームズ・バートレットは、私がウィグルスワースという指揮者の名を知った頃に生まれたという、若き才能だ。もっぱら「オーケストラに客演してくれることでしか新しい独奏者に出会っていない」タイプの人間が、2018年3月に登場した際に聴き逃したのは実に惜しいことだった。場合によってはこれが生涯の痛恨時ともなりかねないほどに、彼はキャリアを順調に進めているようだ。アンドラーシュ・シフにマスタークラスに招かれ※、今年は初のCDもリリースし…と順風満帆で東響の公演に再登場してくれるわけだ。アーティスト写真として使われている写真と、CDジャケットの写真で相当に雰囲気が変わっているから、きっと今回登場する彼もより大人びた感じになっているのかな、などと想像する次第だ。

※ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでのマスタークラスはYouTubeで視聴できる。コミュニケーションの中で音楽が作られていくさまは実に興味深い。


…と、私にしては珍しく公演の紹介を人の話ばかりしているが、それもそのはず今回のプログラムはもはや王道ともいうべき「モーツァルトのピアノ協奏曲とマーラーの第一番」というもの、私ごときが掘り下げるまでもなく演奏会が楽しめよう、と思ってしまうからである。
もちろん、ここにも当然”企み”は存在している。まず「モーツァルト晩年の協奏曲を若き才能が」演奏し、「マーラー若き日の意欲作を円熟のマエストロが」演奏するという、あえてのミスマッチがここにはあらかじめ組み込まれている。そして、先日のノット監督とのマーラー、モーツァルトを経験した後でのこの二人の作品を東響がどう響かせるか、そして客演する二人の音楽家の個性は。幸い、12月定期は本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールとサントリーホールでの二公演が予定されているので、「初日だが本拠地」もしくは「二日目目のサントリー」、お好みでお選びいただくのもいいし、いっそ両日を聴き比べるのも楽しいだろう。昨今の東響は同じプログラムを重ねて演奏するたびに表現を深め、その都度新鮮な演奏を聴かせてくれることは約束されているのだから。