●ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年記念公演 シェーンベルク:グレの歌
2019年10月5日(土)、6日(日) 15:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァルデマール:トルステン・ケール
トーヴェ:ドロテア・レシュマン
山鳩:オッカ・フォン・デア・ダムラウ
農夫:アルベルト・ドーメン
道化師クラウス:ノルベルト・エルンスト
語り:サー・トーマス・アレン
合唱:東響コーラス(合唱指揮 冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団
ジョナサン・ノットと東京交響楽団がこれまで演奏してきた作品の一つの集大成であり、また未来へもつながる選曲となる作品が、彼らが本拠地として日々音楽を作り、披露しているミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年記念として演奏される、特別な機会である。そんな側面から少し書いてみよう。
まずはノット&東響が初期の共演から演奏してきているマーラー作品、シュトラウス作品との関係を一つの視点として示そう。オーケストラの可能性は時代を追ってどんどんと拡張されて、第一次世界大戦前にいくつかの頂点となる作品を生み出している。「グレの歌」の成立時期を見れば、否応なくマーラーの第二番、第八番と同時期の作品として見ることになるだろう。※
※初演は1913年だからマーラーなら第八番以降の作品となるが、着手事態は世紀の転換期なので先行する「声楽入り管弦楽大作」となると第二番を参照しないわけにはいかない。「グレの歌」はその成立からして扱いが難しい曲なのである。
今回の公演はミューザ川崎シンフォニーホールの15周年を祝うものではあるのだが、これまでの記念公演ではマーラー作品を取り上げてきた流れから、離れることになったわけだ。だがこれは来シーズン以降に向けて大きな可能性を開き、未来へと続いていくものになっていると私見している。
マーラー、シュトラウスなどの後期ロマン派作品と同様にノット&東響が注力してきたのは、新ウィーン楽派の作品群だ。ノット監督が得意とする現代の作品まで届く視野を、東響は以前から持っていたけれど、そのスタンスは彼の就任、そして積極的な演奏活動によってより鮮明になった。これまでの「ワルシャワの生き残り」「ルル」組曲、そして今年演奏予定の「三つの管弦楽曲」と、時代的にも音響的にも響き合う「グレの歌」は、現在のノット&東響の最良の美点を示してくれるものになるだろう。(もちろん、東響コーラスの充実も見逃せないところだ)
そして題材的にも、結果として未来への可能性を示している。来年演奏される”「トリスタンとイゾルデ」+「ペレアスとメリザンド」”は「グレの歌」とも共通する、伝説的物語を題材にした不幸な愛、そして救済の物語だ。ノット監督がこれを意識していないわけもなく、彼による謎掛けが、数年がかりで披露されるのだと言えなくもない(個人的には、夜の歌(セレナーデ)故に誤った愛称で呼ばれる第七番をこれから、「愛の妙薬」的に展開する「トリスタン」的なプロットを感じる第五番を来年演奏することも併せて考えたい)。
太陽讃歌で圧倒的に終わる作品が呼び込んでしまっただろうか、今年最後の暑さの中で開幕する「グレの歌」、様々な観点から注目なのである。
*************
そしてこれは個人的な意見。ここで挙げてきた作品群の源流には、間違いなくベルリオーズの大作群があるだろう。オペラならありえる大編成に大仕掛け、また「レクイエム」のような機会音楽ならば(また革命の時代だからこそ)許された巨大な編成、それらを交響作品に持ち込んでしまった彼の存在がなければ、「グレの歌」もない。
…来シーズンの予定にはないけれど、その先にはもしかしてノット&東響のベルリオーズも展開されるのだろうか。っていうか聴きたいなあ。きっと、この二年がかりの大企画の先に、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がありうると思うのですけれど。古典派とロマン派をつなぐリンクとして。個人的リクエストで本稿はおしまい。
※追記。
10/5の初日公演を聴いてまいりました。この文章で挙げた作品群との関係が強く感じられましたが、実演で聴いたらいくつか書き足しておきたくなりました。
シェーンベルクの自作では「五つの管弦楽曲」を聴いておくと、この作品の繊細なのに過剰すぎる音色の追求も理解しやすく思えます。また、第一部の輝かしさからは、ノット&東響の出会いの作品、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」が聴こえたように思います。二人の作曲家の個性の違いも含めて。画家シェーンベルクと、デザイナーのラヴェル、とでも言いますか。もし二度目三度目を聴けるならば、さらに理解が深まりましょうに、どうにも惜しいことです。
こんな後悔をしないためにぜひ、明日時間を作れる皆様はミューザ川崎シンフォニーホールに行くべきです。迷う時間なんてもうありませんよ。
2019年10月5日土曜日
三人三様、充実の極み ~東京フィルハーモニー交響楽団 2020シーズンプログラム
来年からシーズンを1月に開幕するものとする東京フィルハーモニー交響楽団の、主催公演プログラムが発表された。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
************
首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
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首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
2019年10月4日金曜日
メメント・モリ ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回
●東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回
2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団
J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24
とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。
演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。
なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。
************
個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。
「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。
結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。
オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。
************
この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。
2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団
J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24
とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。
演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。
なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。
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個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。
「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。
結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。
オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。
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この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。
ケーススタディ、のようなもの:「クローズアップ現代+」の話
情報すべてを知りうる立場に立ちうる、と思ってしまうのが現代の怖いところで。何かのニュースを見て、自分で手持ちの知識や情報と照らして作り上げたストーリィが真である、と信憑することはとても容易い。フォローする/される関係で作られるSNSでの情報に多く触れていれば尚さらだ、基本的に自分が選んだ情報だけが入ってくるように作られたソースでしかない、そんな制約は思い出さないのが日常なのだから。
ただし。そういう場所を”戦場”に変えたがっている人は少なくない。選挙戦くらいならまだかわいいもんだ、その目的もなさんとすることもわかっているのだから。それが歴史…まあいいや、前提はこのくらい。
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こんな前振りをしてからでもないと、ニュースの検証というのもしにくいのである。自分が出向いて取材をする話ではないから(それができる、とは申し上げません)、いわゆる”大使館”方式、公開された情報を積み上げるのが、市井の個人としては手堅いやり方になるだろう。
●NHK報道巡り異例「注意」 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期
スクープに敬意を表して毎日新聞にリンクしてあります。こういうときに有料記事なのは痛いのですけれど。
記事をきちんと読んでいただいてもいいし(有料ですが)、ニュースを追われている方はとっくにご理解されているものと思うけれど、この件を整理するとこうなる。
「クローズアップ現代+」、2018年4月24日に「郵便局が保険を“押し売り”!? ~郵便局員たちの告白~」という回を放送する
→8月放送を目指して続編制作のため、情報提供を求める動画を7月に掲載
→日本郵政から7/11にNHK会長あてに「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」として削除を申し入れ
→「クローズアップ現代+」、日本郵政からの協力が得られないことから続編制作を延期、動画を削除。日本郵政には「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と説明、しかし郵政側はこの発言を「ガバナンスに問題」として問題視
→10月、日本郵政はNHK経営委員会に接触、日本郵政の意を汲んで会長に厳重注意、文書を送付
→11月、NHK会長、事実上の謝罪文を日本郵政に提出
つまり、番組の内容を「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」と感じた日本郵政が、番組宛てではなく会長にまず抗議したことから始まっている。この時点ですでにやり方がおかしいのだけれど、それを番組は正当に拒否している(しかし続編の制作は延期された)。この時点で日本郵政が事実関係をきちんと確認して内情を精査、あり方を正していればよかったのに、会長からの”謝罪”を引き出すことに注力して経営委員会というNHKの中でも局の外側にある集団に接触して会長に圧力をかけた、というのが今回報じられた件だ。
これについて「圧力によって番組が、報道が捻じ曲げられた、公共放送なにやってんだ」という話を多く見かけているのだが、こう整理すると批判の順番がおかしく感じられる。
まずは今は広く問題として理解されているかんぽ生命の問題があり、それを報じた番組を(内容の否定によってではない形で)撤回させようとした運営の日本郵政の問題がある。もし昨年4月の「クローズアップ現代+」が事実でない内容だったのであれば、そこできちんと否定すればよかった話だった、しかしそうではなく経営側に”働きかける”(今でも圧力だとは思っていないそうだ、日本郵政)ことで謝罪のようなものを勝ち取った。それが今回、日本郵政が勝ち取った唯一の勝点だ。
しかしそんなもので事実関係が覆るわけもなく、今年の6月以降はかんぽ生命の強引な”不適切”契約が広く報じられ、問題視されるに至って事態は現在も進行中だ。そして被害者が増えたことを思えば遅れ馳せにはなってしまったが、番組はこの件をきちんと追い続けていた。
→「クローズアップ現代+」、「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」として今年の7月31日に”続編”を放送
取材不十分で取り上げられるテーマではない、という認識があったからこそ昨年の続編放送は見送られたのだろう、この「検証1年」の内容を見るとそう理解できる。このページでは番組内容に加えて関連記事などもきちんと公開しているので、もし昨年4月の番組の時点で「クローズアップ現代+」に問題があったと思われる方はご一読して判断してほしい。いくら面倒に思われても、その面倒くさい手順を踏まないで行われる番組に対するすべての批判は、まったくの無意味なので。
と、経緯を見てきたところで私なりの現時点での認識を。
この件で、「経営委員会さえ味方につけられればNHKの報道を捻じ曲げられる」ような話はもちろん大問題だ。だからまず批判されるべきは自らの信頼を悪用して異常な契約を結ばせていた、そしてそれを糊塗せんと経営委員会に接触した日本郵政、次にはそれに同調したNHKの経営委員会の無思慮が批判を受けるべきだろう(毎日新聞の報道を受けて発表されたコメントは、如何にも問題を理解していない者の言だ)。
こう理解した上で番組を批判するならば、「続編が遅かったばかりに、悪質な契約を結ばせられた被害者が増えてしまった」くらいしか思いつかない。その無力感は番組制作者が一番認識しているだろうに、と思う私にとっては、こんなことを書くのは気が重いところなのだけれど。
この会見、YouTubeには全体もありました。さすがにそこまでは…
最後にひとつ、あまり言及されていないように思うので私からひとつ指摘を。日本郵政とNHKは、ラジオ体操をつうじて長年の協力関係があります。だからこそ、日本郵政は番組を黙らせたかったのでしょう、まるで”スポンサー”であるかのように。
*************
「いじめられる側にも問題が」「騙される奴が悪い」「扇情的な服でも着てたんでしょ」などなど、なにか事あれば捻ったつもりで本筋を捉えそこねたご高説を見かけてはげんなりする昨今、私からはひとつだけお願いしてこの記事を終わろうと思う。続報は各自追ってくださいませな。
この記事で書きたかったことは、実はひとつだけ。
お願いだから、順番を間違えないでほしい、問題を捉え損ねないでほしい。頼むからいじめとかする奴を正当化しないで、詐欺的行為をうっかり認めてしまわないで、性的犯罪をした側に立って被害者を責めないで。
これが普通になってくれればいい、そう希望しなければならないことが、実は一番残念な私だ。
ただし。そういう場所を”戦場”に変えたがっている人は少なくない。選挙戦くらいならまだかわいいもんだ、その目的もなさんとすることもわかっているのだから。それが歴史…まあいいや、前提はこのくらい。
*************
こんな前振りをしてからでもないと、ニュースの検証というのもしにくいのである。自分が出向いて取材をする話ではないから(それができる、とは申し上げません)、いわゆる”大使館”方式、公開された情報を積み上げるのが、市井の個人としては手堅いやり方になるだろう。
●NHK報道巡り異例「注意」 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期
スクープに敬意を表して毎日新聞にリンクしてあります。こういうときに有料記事なのは痛いのですけれど。
記事をきちんと読んでいただいてもいいし(有料ですが)、ニュースを追われている方はとっくにご理解されているものと思うけれど、この件を整理するとこうなる。
「クローズアップ現代+」、2018年4月24日に「郵便局が保険を“押し売り”!? ~郵便局員たちの告白~」という回を放送する
→8月放送を目指して続編制作のため、情報提供を求める動画を7月に掲載
→日本郵政から7/11にNHK会長あてに「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」として削除を申し入れ
→「クローズアップ現代+」、日本郵政からの協力が得られないことから続編制作を延期、動画を削除。日本郵政には「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と説明、しかし郵政側はこの発言を「ガバナンスに問題」として問題視
→10月、日本郵政はNHK経営委員会に接触、日本郵政の意を汲んで会長に厳重注意、文書を送付
→11月、NHK会長、事実上の謝罪文を日本郵政に提出
つまり、番組の内容を「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」と感じた日本郵政が、番組宛てではなく会長にまず抗議したことから始まっている。この時点ですでにやり方がおかしいのだけれど、それを番組は正当に拒否している(しかし続編の制作は延期された)。この時点で日本郵政が事実関係をきちんと確認して内情を精査、あり方を正していればよかったのに、会長からの”謝罪”を引き出すことに注力して経営委員会というNHKの中でも局の外側にある集団に接触して会長に圧力をかけた、というのが今回報じられた件だ。
これについて「圧力によって番組が、報道が捻じ曲げられた、公共放送なにやってんだ」という話を多く見かけているのだが、こう整理すると批判の順番がおかしく感じられる。
まずは今は広く問題として理解されているかんぽ生命の問題があり、それを報じた番組を(内容の否定によってではない形で)撤回させようとした運営の日本郵政の問題がある。もし昨年4月の「クローズアップ現代+」が事実でない内容だったのであれば、そこできちんと否定すればよかった話だった、しかしそうではなく経営側に”働きかける”(今でも圧力だとは思っていないそうだ、日本郵政)ことで謝罪のようなものを勝ち取った。それが今回、日本郵政が勝ち取った唯一の勝点だ。
しかしそんなもので事実関係が覆るわけもなく、今年の6月以降はかんぽ生命の強引な”不適切”契約が広く報じられ、問題視されるに至って事態は現在も進行中だ。そして被害者が増えたことを思えば遅れ馳せにはなってしまったが、番組はこの件をきちんと追い続けていた。
→「クローズアップ現代+」、「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」として今年の7月31日に”続編”を放送
取材不十分で取り上げられるテーマではない、という認識があったからこそ昨年の続編放送は見送られたのだろう、この「検証1年」の内容を見るとそう理解できる。このページでは番組内容に加えて関連記事などもきちんと公開しているので、もし昨年4月の番組の時点で「クローズアップ現代+」に問題があったと思われる方はご一読して判断してほしい。いくら面倒に思われても、その面倒くさい手順を踏まないで行われる番組に対するすべての批判は、まったくの無意味なので。
と、経緯を見てきたところで私なりの現時点での認識を。
この件で、「経営委員会さえ味方につけられればNHKの報道を捻じ曲げられる」ような話はもちろん大問題だ。だからまず批判されるべきは自らの信頼を悪用して異常な契約を結ばせていた、そしてそれを糊塗せんと経営委員会に接触した日本郵政、次にはそれに同調したNHKの経営委員会の無思慮が批判を受けるべきだろう(毎日新聞の報道を受けて発表されたコメントは、如何にも問題を理解していない者の言だ)。
こう理解した上で番組を批判するならば、「続編が遅かったばかりに、悪質な契約を結ばせられた被害者が増えてしまった」くらいしか思いつかない。その無力感は番組制作者が一番認識しているだろうに、と思う私にとっては、こんなことを書くのは気が重いところなのだけれど。
この会見、YouTubeには全体もありました。さすがにそこまでは…
最後にひとつ、あまり言及されていないように思うので私からひとつ指摘を。日本郵政とNHKは、ラジオ体操をつうじて長年の協力関係があります。だからこそ、日本郵政は番組を黙らせたかったのでしょう、まるで”スポンサー”であるかのように。
*************
「いじめられる側にも問題が」「騙される奴が悪い」「扇情的な服でも着てたんでしょ」などなど、なにか事あれば捻ったつもりで本筋を捉えそこねたご高説を見かけてはげんなりする昨今、私からはひとつだけお願いしてこの記事を終わろうと思う。続報は各自追ってくださいませな。
この記事で書きたかったことは、実はひとつだけ。
お願いだから、順番を間違えないでほしい、問題を捉え損ねないでほしい。頼むからいじめとかする奴を正当化しないで、詐欺的行為をうっかり認めてしまわないで、性的犯罪をした側に立って被害者を責めないで。
これが普通になってくれればいい、そう希望しなければならないことが、実は一番残念な私だ。
2019年9月26日木曜日
これは「生きものの記録」なのか
ここは自分のブログなので、クラシック以外のことも気の向くまま書くことにしました。「なんだこいつ」と思ったらすぐ閉じてくれて結構ですよ。
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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。
私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。
※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。
あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。
ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。
この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。
こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。
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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。
彼女を見てると黒澤明監督『生きものの記録』の三船敏郎を思い出す。https://t.co/w3E7lgf1Fo https://t.co/5EjCzaZSOQ— 町山智浩 (@TomoMachi) September 25, 2019
私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。
※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。
あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。
ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。
この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。
こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。
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2019年9月21日土曜日
かってに予告篇 ~東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回
●東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回
2019年9月
21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112
交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。
今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。
簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。
●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演
●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)
聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。
1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)
1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲
1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)
1957・Op.112初演※
※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。
***********
プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。
いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。
※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。
***********
なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。
追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。
交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。
これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。
ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。
2019年9月
21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112
交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。
今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。
簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。
●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演
●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)
聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。
1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)
1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲
1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)
1957・Op.112初演※
※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。
***********
プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。
いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。
※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。
***********
なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。
追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。
交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。
これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。
ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。
2019年9月3日火曜日
もはや新時代の”召喚” ~東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会
●東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会
2019年4月21日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:小山実稚恵
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ウォルトン:戴冠式行進曲『王冠』
モーツァルト:ピアノ協奏曲第二六番 ニ長調 K.537 『戴冠式』
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36
曲目を見れば、王冠→戴冠→「闘争」(最後のものだけ私見)と並び、わかりやすく新時代を勝ち抜くプログラム。その読みはあまりに直球じゃないのか、と思われるかもしれないけれど、広告でも「時代は〜」と銘打っていたのだから、新シーズンの開幕と「新王の時代」の始まりを一どきに祝おう、というのがコンサート全体を通しての趣意と見るべきだろう。もちろん、そんな「あらすじ」の範疇に収まらないのがバッティストーニと東京フィルの演奏会なのだけれど。
冒頭に演奏されたウォルトンの行進曲はジョン・ウィリアムズ作品にも通じるきらびやかさ、この演奏なら「スター・ウォーズ」一作目の最後に流れても違和感がないほどで、このアプローチはバッティストーニ特有の「後世にこう影響したのでは?」という指摘含みに思える。この定形を守りつつも意外な転調が印象的な作品では、バッティストー二が指揮するときの東京フィル独特のクリアなサウンドがよく映えた。
モーツァルトでのバッティストーニは、なめらかに歌うピアニストにつけた、共演者としてのアプローチだったように思う。だがそこにも随所にバッティストーニのアイディアは活かされていた。オーケストラと言うよりも「指揮者付きの室内楽」にまで編成を絞ったり、ヴィブラートをきっちりかけた弦楽器によく歌わせたりとあまり”今風”ではない音はなかなか興味深いものだったので、願わくば今度は協奏曲や序曲じゃなく、交響曲でお願いしたい。一曲じっくり、バッティストーニのモーツァルトを聴いてみたくないですか皆様(そうか、モーツァルトならオペラって手があるか…←気づいちゃった人)。
メインのチャイコフスキーだが。これはバッティストー二が今までで一番、彼自身を投影した演奏だったのではないか。どこをとっても彼自身を感じさせる、パーソナルな感情が爆発した音楽だった。Bravo.
彼のオペラ演奏や協奏曲での伴奏ぶりを一度でも経験した方なら、彼のバランス感覚がとても強いものであることを知っているだろう。いかに音楽が熱を持ってもサウンドや様式感、構成への配慮を失うことはない。たとえば同じチャイコフスキーでも「悲愴」がそうだったように、どれだけ熱い演奏をしていても、そこでは知性が適切なハンドリングを行っている。もしかすると彼の身振りだって、没入したように見えるパフォーマンスかもしれない(いやそれは勘ぐりすぎなのだけれど)。
だが今回の第四番ではそうした配慮さえも乗り越えて、何よりも強く彼の施した「刻印」が感じられる演奏となった。どの一音を取り出しても彼の解釈が込められた、かつてこの曲で聴いたことがないほどに劇的な演奏だった。1月の「シェエラザード」よりも濃厚な表情付が徹底していた、といえば1月定期を聴かれた方にも想像いただけるだろうか。一楽章冒頭、あのファンファーレの重さから気乗りしないワルツの足取りの重さ、その繰り返しで高揚していく音楽と、言葉にすれば作品通りのことをきちんとしているわけなのだけれど、音楽は十分に配慮された響きを超えてなによりも感情を、ドラマを伝えてくるのだ。暴風吹き荒れるかのごとき第一楽章のあとは物憂げな第二楽章、例によって管楽器のソロが見事なのである。個人的には「快速のピチカート・スケルツォ」にするのかな、と予想していた第三楽章は意外と落ち着いたテンポ設定で、オーケストラのアンサンブルを誇示するようには響かず、むしろバレエの一場面のように表情豊かな演奏が繰り広げられる。
「三楽章がああならどうするんだ、終楽章?」とか思うスキもなく全力疾走で始まるフィナーレの激しさたるや、まさに炎のごとし。「これがイタリア人がこの表情記号から感じるアレグロ・コン・フオコか!」とその場で得心できるわけもなく、激流に翻弄された私である。民謡を用いた第二主題はどこか鄙びた雰囲気もあるはずなのに、それ以上の切迫感が聴き手を煽り続け、その緊張の頂点で第一楽章のファンファーレが帰ってきてしまう。嗚呼。しばしの落胆のあとの狂乱をどう受け取ったものか、混乱したまま全力疾走で駆け抜けるコーダは言葉にはならないが圧巻(言葉にしないほうがいいのだと今は思っている)、場内を圧倒して交響曲は終わった。これが、バッティストーニが愛するチャイコフスキーなのだ。
※あとでスコアを確認しておいたが、第三楽章は「Allegro」、ここでそれほど極端な表現は求められていないのである。なるほど。アレグロの第三楽章と、フィナーレの疾走感の対比は楽譜どおりのものと、いくら自己を投入していても、そこに明確な根拠があるあたりがバッティストーニだなあ、と思う私だ。
大喝采に答えてのアンコールに「威風堂々」第一番の短縮版、(もしかしてこのオーケストラだから、名曲アルバムヴァージョン?)なんてことは終演後に思いついたことです(笑)。あまりに激しいチャイコフスキーに翻弄されて、コンサートの「あらすじ」を忘れかけていた私たちに本筋を思い出させてくれる「ドラマのエンドロール」のようでもあったけれど、私としては今シーズンのバッティストーニが「イギリス音楽、やる気なんです」という意思表示と受け取りたい。9月の定期では「惑星」を演奏することももちろんだが、恒例となりつつある新宿文化センターでの1月公演で取り上げるのもウォルトンの「ベルシャザルの饗宴」なので!
この展開をみて、まずは本丸を押さえて進めるのがバッティストーニ流のレパートリィ拡張法なのかな…なんてことをぼんやり思い、次にまた彼の演奏を聴く機会を楽しみに思いながら帰路につく、幸せなコンサートだった。
************
さてまもなく始まるバッティストーニと東京フィルの9月は、まずKバレエとの「カルミナ・ブラーナ」で始まる。まる一ヶ月以上にわたり、彼らは何かしらの舞台に登場してくれるので、ここで簡単にその日程をまとめてみよう(詳細はそれぞれのリンク先でどうぞ)。
●Kバレエ「カルミナ・ブラーナ」 (9/4、5)
●東京フィルハーモニー交響楽団 長岡特別演奏会(9/7)
●休日の午後のコンサート 「バッティストーニの感謝祭」(9/8)
●第925回サントリー定期(9/13)
●響きの森クラシック・シリーズ Vol.69(9/14)会場:文京シビックホール
●横浜音祭り2019 オープニング・コンサート(9/15)
●第926回 オーチャード定期演奏会(9/22)
そして月が明けるとこの公演が待っている。このリハーサルが始まるためなのだろう、9月中旬からの公演数減少は。
●東京二期会 プッチーニ「蝶々夫人」(新制作 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場との共同制作) 10/3〜6(東京・上野)、10/13(横須賀)
と、言うわけでバッティストーニと東京フィルの、8つもの会場を渡り歩いて一ヶ月半も続く、熱すぎる残暑が始まろうとしています。間もなく始まる「カルミナ・ブラーナ」から東京二期会の「蝶々夫人」横須賀まで、皆勤される猛者はいらっしゃるのでしょうか…(どこかが密着取材して映像ドキュメンタリーとか作ればいいのに)などと思いつつ本稿はおしまい。
2019年4月21日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:小山実稚恵
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ウォルトン:戴冠式行進曲『王冠』
モーツァルト:ピアノ協奏曲第二六番 ニ長調 K.537 『戴冠式』
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36
曲目を見れば、王冠→戴冠→「闘争」(最後のものだけ私見)と並び、わかりやすく新時代を勝ち抜くプログラム。その読みはあまりに直球じゃないのか、と思われるかもしれないけれど、広告でも「時代は〜」と銘打っていたのだから、新シーズンの開幕と「新王の時代」の始まりを一どきに祝おう、というのがコンサート全体を通しての趣意と見るべきだろう。もちろん、そんな「あらすじ」の範疇に収まらないのがバッティストーニと東京フィルの演奏会なのだけれど。
冒頭に演奏されたウォルトンの行進曲はジョン・ウィリアムズ作品にも通じるきらびやかさ、この演奏なら「スター・ウォーズ」一作目の最後に流れても違和感がないほどで、このアプローチはバッティストーニ特有の「後世にこう影響したのでは?」という指摘含みに思える。この定形を守りつつも意外な転調が印象的な作品では、バッティストー二が指揮するときの東京フィル独特のクリアなサウンドがよく映えた。
モーツァルトでのバッティストーニは、なめらかに歌うピアニストにつけた、共演者としてのアプローチだったように思う。だがそこにも随所にバッティストーニのアイディアは活かされていた。オーケストラと言うよりも「指揮者付きの室内楽」にまで編成を絞ったり、ヴィブラートをきっちりかけた弦楽器によく歌わせたりとあまり”今風”ではない音はなかなか興味深いものだったので、願わくば今度は協奏曲や序曲じゃなく、交響曲でお願いしたい。一曲じっくり、バッティストーニのモーツァルトを聴いてみたくないですか皆様(そうか、モーツァルトならオペラって手があるか…←気づいちゃった人)。
メインのチャイコフスキーだが。これはバッティストー二が今までで一番、彼自身を投影した演奏だったのではないか。どこをとっても彼自身を感じさせる、パーソナルな感情が爆発した音楽だった。Bravo.
彼のオペラ演奏や協奏曲での伴奏ぶりを一度でも経験した方なら、彼のバランス感覚がとても強いものであることを知っているだろう。いかに音楽が熱を持ってもサウンドや様式感、構成への配慮を失うことはない。たとえば同じチャイコフスキーでも「悲愴」がそうだったように、どれだけ熱い演奏をしていても、そこでは知性が適切なハンドリングを行っている。もしかすると彼の身振りだって、没入したように見えるパフォーマンスかもしれない(いやそれは勘ぐりすぎなのだけれど)。
だが今回の第四番ではそうした配慮さえも乗り越えて、何よりも強く彼の施した「刻印」が感じられる演奏となった。どの一音を取り出しても彼の解釈が込められた、かつてこの曲で聴いたことがないほどに劇的な演奏だった。1月の「シェエラザード」よりも濃厚な表情付が徹底していた、といえば1月定期を聴かれた方にも想像いただけるだろうか。一楽章冒頭、あのファンファーレの重さから気乗りしないワルツの足取りの重さ、その繰り返しで高揚していく音楽と、言葉にすれば作品通りのことをきちんとしているわけなのだけれど、音楽は十分に配慮された響きを超えてなによりも感情を、ドラマを伝えてくるのだ。暴風吹き荒れるかのごとき第一楽章のあとは物憂げな第二楽章、例によって管楽器のソロが見事なのである。個人的には「快速のピチカート・スケルツォ」にするのかな、と予想していた第三楽章は意外と落ち着いたテンポ設定で、オーケストラのアンサンブルを誇示するようには響かず、むしろバレエの一場面のように表情豊かな演奏が繰り広げられる。
「三楽章がああならどうするんだ、終楽章?」とか思うスキもなく全力疾走で始まるフィナーレの激しさたるや、まさに炎のごとし。「これがイタリア人がこの表情記号から感じるアレグロ・コン・フオコか!」とその場で得心できるわけもなく、激流に翻弄された私である。民謡を用いた第二主題はどこか鄙びた雰囲気もあるはずなのに、それ以上の切迫感が聴き手を煽り続け、その緊張の頂点で第一楽章のファンファーレが帰ってきてしまう。嗚呼。しばしの落胆のあとの狂乱をどう受け取ったものか、混乱したまま全力疾走で駆け抜けるコーダは言葉にはならないが圧巻(言葉にしないほうがいいのだと今は思っている)、場内を圧倒して交響曲は終わった。これが、バッティストーニが愛するチャイコフスキーなのだ。
※あとでスコアを確認しておいたが、第三楽章は「Allegro」、ここでそれほど極端な表現は求められていないのである。なるほど。アレグロの第三楽章と、フィナーレの疾走感の対比は楽譜どおりのものと、いくら自己を投入していても、そこに明確な根拠があるあたりがバッティストーニだなあ、と思う私だ。
大喝采に答えてのアンコールに「威風堂々」第一番の短縮版、(もしかしてこのオーケストラだから、名曲アルバムヴァージョン?)なんてことは終演後に思いついたことです(笑)。あまりに激しいチャイコフスキーに翻弄されて、コンサートの「あらすじ」を忘れかけていた私たちに本筋を思い出させてくれる「ドラマのエンドロール」のようでもあったけれど、私としては今シーズンのバッティストーニが「イギリス音楽、やる気なんです」という意思表示と受け取りたい。9月の定期では「惑星」を演奏することももちろんだが、恒例となりつつある新宿文化センターでの1月公演で取り上げるのもウォルトンの「ベルシャザルの饗宴」なので!
この展開をみて、まずは本丸を押さえて進めるのがバッティストーニ流のレパートリィ拡張法なのかな…なんてことをぼんやり思い、次にまた彼の演奏を聴く機会を楽しみに思いながら帰路につく、幸せなコンサートだった。
************
さてまもなく始まるバッティストーニと東京フィルの9月は、まずKバレエとの「カルミナ・ブラーナ」で始まる。まる一ヶ月以上にわたり、彼らは何かしらの舞台に登場してくれるので、ここで簡単にその日程をまとめてみよう(詳細はそれぞれのリンク先でどうぞ)。
●Kバレエ「カルミナ・ブラーナ」 (9/4、5)
●東京フィルハーモニー交響楽団 長岡特別演奏会(9/7)
●休日の午後のコンサート 「バッティストーニの感謝祭」(9/8)
●第925回サントリー定期(9/13)
●響きの森クラシック・シリーズ Vol.69(9/14)会場:文京シビックホール
●横浜音祭り2019 オープニング・コンサート(9/15)
●第926回 オーチャード定期演奏会(9/22)
そして月が明けるとこの公演が待っている。このリハーサルが始まるためなのだろう、9月中旬からの公演数減少は。
●東京二期会 プッチーニ「蝶々夫人」(新制作 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場との共同制作) 10/3〜6(東京・上野)、10/13(横須賀)
と、言うわけでバッティストーニと東京フィルの、8つもの会場を渡り歩いて一ヶ月半も続く、熱すぎる残暑が始まろうとしています。間もなく始まる「カルミナ・ブラーナ」から東京二期会の「蝶々夫人」横須賀まで、皆勤される猛者はいらっしゃるのでしょうか…(どこかが密着取材して映像ドキュメンタリーとか作ればいいのに)などと思いつつ本稿はおしまい。
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