2019年8月21日水曜日

「交響詩曲」に溺れた ~東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会

予告編を書いておいてアレなのですが、今年前半の積み残しがたくさんあります。なんとかまとまってきたので並行してこちらも公開させていただく関係で、サマーミューザの進行があまり早くならないことはご容赦くださいませ…

●東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン

3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

オーチャードの公演が日曜なら、私はまたこのプログラムを聴きに渋谷を訪れていたかもしれない。もはや私は「交響詩曲」のジャンキーである。…不穏な時事ジョークはこのへんで(※3月のネタだから微妙に古いし、なにかの作品で彼は復帰したようだ)。

前半にチャイコフスキー、後半にはハチャトゥリアンとロシア・ソヴィエトのメロディメイカー・プログラム(以前の記事参照)。指揮はピアニストとしても活躍を続けるミハイル・プレトニョフ。東京フィルハーモニー交響楽団とは特別客演指揮者として、ロシア・ソヴィエトの名曲秘曲、なんでもありの趣あるプログラミングを展開しているのはみなさんもご存知のとおりだ。今回は一曲目に短い管弦楽曲、そして協奏曲を挟んで交響曲をメインに据えた、一見するとオーソドックスなプログラムだが、…という絵解きは前に書きましたのでそちらを参照してください。

チャイコフスキーの作品の中でも国歌や民謡をそのまま取り込んだ、野趣あふれる「スラヴ行進曲」が、果たしてプレトニョフの元でどう響くのか?少々の疑問符を抱えたままの私に関係なく、力みなく始まった演奏は、低弦のイントロからして飾らない、自然な入りがそれだけで魅力的。引用される民謡をそれぞれに表情付け、多彩な音色で自然に音楽を高揚させて帝政ロシア国歌で頂点に導く運びもまた自然なもの、この作曲家の音がどれだけマエストロの手に馴染んだものであるかがそれだけで示されたと感じた。また、彼と東京フィルほどの関係ともなると音楽を大きく動かすにも音色を変えていくにも大きな動作はいらないようで、ちょっとした指示で歌い回しに強弱にテンポにと、自然に音楽が動いていくのが実に心地良い。旧ソヴィエト時代の演奏を自らの体験として知っていて、しかしそれとはまた異なるアプローチで作品の持つ可能性を示すマエストロに、一曲目でもう感服である。

二曲目に演奏されたヴァイオリン協奏曲のソリストとしてに招かれたユーチン・ツェンは前回(2015年)のチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門第2位(1位なし・最高位)の若き才能だ。なるほど、確実な技巧、フレーズの一つ一つへの創意で楽しませようという意志はよく伝わってきた。だがいかんせん今回聴いた演奏からは、彼がこの曲をどう捉えているのか、その全体像がまだ見えてこない感が惜しい。美音で技巧は万全、だがそれに加える何かがほしい。そう感じるのはわがままな希望かもしれないが、彼がチャイコフスキー・コンクールから世界に羽ばたいている最中なのだから、高望みを許してほしい。今回はまたプレトニョフと東京フィルが作り出した舞台で踊っただけに聴こえてしまったけれど、彼の音楽にはまたいつかまた触れられるだろうから、そのときに成長を感じさせてくれるなら、と思う。
オーケストラの音色は、一曲目より色彩感高くその美しさに聴き惚れてしまうものとなった。一曲目のロシアの、セルビアの土の色なのかどこか黒っぽい音に対して、中間色を上手く使った絵画のごとき落ち着きある響きは”西欧派”チャイコフスキーの演奏としては理想的なサウンドだったのではないだろうか。この音で交響曲もバレエも聴きたい、などと思う、なんのかんの言ってもチャイコフスキーの音楽が好きな私の感想でした。

さて後半は作曲者が変わってハチャトゥリアンだ。「スパルタクス」(1954-56)は、ジダーノフ批判のあとでの最大の成功作と言えるだろうバレエ音楽だ。剣奴スパルタクスの物語はスタンリー・キューブリックの(というか、カーク・ダグラスの)映画でご存知の方も多いだろうから詳しくは書かない。ここで演奏されるアダージョはスパルタクスとフリギアの愛の場面、勇壮な物語の中でもっとも印象的な場面の一つだろう。
ただ、プレトニョフと東京フィルの演奏ではおそらくバレエには向かないだろう、とは言わなければなるまい。指揮者の解釈や「舞台慣れしたオーケストラなのに!」などという批判ではもちろんなく、趣向を凝らされた細部、たとえばフレーズの伸縮や濃厚な表情付けが踊りとは合わなかっただろうから、という意味でのこと。指揮者とオーケストラが創り出した充実した音楽は、それだけで一場のドラマを描き出した。中間色の響きが美しかったチャイコフスキーと対比するように、ハチャトゥリアンはよりシャープな線と輝かしい光沢で、愛の場面を飾った。
強めに奏された低弦のピチカートとピアノの一打で愛の余韻を断ち切るようにアダージョが終わって、いよいよ交響曲第三番である。16型のオーケストラからバスクラリネットが退場、第3トランペット、さらに15人のトランペットが入場すると場内には不思議な高揚感が…いや、私は着席してすぐ(そうか、15人はステージ奥か…)と高まりまくっていたのですが。

短いクレッシェンドの序奏のあと、すぐに轟く15人のトランペッターの音は録音で聴くような暴力的なものとはならず(ある時代のある演奏を聴きすぎの感想)、今の若手世代の奏者たちの明るい響きが真っ直ぐに客席に届いてくる。細かくパート割されたトランペットは、ステレオ効果も面白く、抑えたテンポで端正にアンサンブルが形作られていく。その整った造形に油断していたわけではないのだけれど、トランペットの提示が一段落したところからはオルガンの大活躍が始まるのである。度肝を抜かれるのである。
ホール上部に大量のパイプを配したオルガンは、会場そのものを楽器として音の範疇にとどまらない振動を伝えてくる、ということは経験からも理屈としても知っている。だが、そのサウンドを会場の残響や家鳴りを効果として活かした数々の先行する作品のそれとは違う形で用いたのがこの作品だ。なにせいきなり猛烈な速度のパッセージから登場するのだから、その衝撃のほどはなお大きい。ちなみに、かなりの時間続くオルガン独奏のため非常に横長の楽譜を用意していたようなのだが、数ページにも及ぶ長大なソロを、それも連続する高速六連符なのだから、演奏するのが大変でないわけがない、しかし石丸由佳の後ろ姿からは苦労のほどが伝わらず、あたかも淡々と弾いているようだ。もちろんそんなはずはない、と思うが背中はそう語らない。なにせ、出てきた音を私が評するならばひとこと、「轟音の奔流」で済んでしまうほどの音が延々と続くのだから、無駄のない動きとの落差は相当のものなのだった。
聴き手がそんなオルガンに圧倒されているというのにトランペットも呼応してしばしトランペットとオルガンの大音量のアンサンブルが展開するのだから、この曲は本当に異形の作だと思う。速弾きのオルガンとトランペットのファンファーレ、二つのの音群はまとまるわけでも譲り合うわけでもない、力強いふた柱の音としてホールを埋めていく。
…王を象徴する楽器として用いられたトランペットと、「楽器の王」とも称されるパイプオルガンを並立させて独特なアンサンブルを作り上げた共産圏の作曲者、というのははたして何を考えていたのか、そんなことを轟音の中で思う私である…とは言いながらそんな物思いに浸れるような時間が長くあるわけもなく(あんなに音が多いのに、この曲は演奏時間30分もないのだ)、通常のオーケストラ(よくわからない物言い)が新たな主題を提示、オルガンとトランペットは一休みとなる。ここで弦楽器によって示される旋律が「スパルタクス」で示されるそれによく似ていることは、明らかにプレトニョフが仕掛けたことなのだろう。「スパルタクス」の時点ではまだ封印された作品だった「交響詩曲」を作曲者が大事にしていたことに気づかせてくれようと、マエストロはこのプログラミングしたのだろうか…ハチャトゥリアンが自作引用を意味付けに使うタイプではないからなおさら、この配慮は心に響く。オーソドックスに見えて選曲に表現にと、大技小技さまざまに織り込まれたプログラムなのだ。

交響曲に戻ろう。バレエのいち場面や民族色をも感じさせる旋律が高揚し、また沈静化していくと遠くにあのファンファーレが聞こえ、クラリネットの長大な速弾きのソロから始まる展開部、その先に五拍子の新たなリズム・モティーフが示されて音楽は新たな顔を見せてくる。とはいえ30分かからない作品はここからはまっすぐゴールへと向かう。提示された要素が編成を変え組合せを変えて連続して現れたその先に、たどり着くのは12/8拍子の異形のマーチ、そしてファンファーレが乱舞するコーダ、である。最後の長い長いクレッシェンドまで、マエストロはコントロールを失わず、しかし大きい起伏ある音楽を聴かせてくれた。感情移入によらない外在的な音作りということで、ピアニストらしい(最良の意味で)指揮だったと感じたのだが、今にして思えばロジデーストヴェンスキーにも通じるものがあった、かもしれない。相当にコントロールの効いた演奏ながら、最後のコーダで大きくテンポを落として明確に駄目を押すところに、マエストロの明確な個性が刻印されて、演奏は終わった。轟音の余韻の中、ついにこの曲を聴いたな、という充実感に浸らせていただいた。私には感謝の気持ちしかない。

事前にけっこう頑張って準備して(過去記事参照)、「交響詩曲」こと交響曲第三番が終わった時点で個人的にはもうお腹いっぱいだったのだけれど(実際帰り始めるお客様も少なくない。これは定期ならいつものこととも思うが…)、マエストロはきっと「いやいや皆さんの知らない曲で申し訳ない」とでも思ってくれたのだろう、アンコールとして同じ作曲家の「仮面舞踏会」から、ワルツを演奏してくれた。今ではおそらく日本で一番知られているハチャトゥリアン作品の一つと思われるこの作品を、ちょっとフィギュアスケートには合いにくいだろうトリッキィなテンポ・ルバートも交えて聴かせてくれて、初日は終わった。コース料理の最後にはデザートが必要なんだな、と理解して帰路につける幸せ。実演ならでは、ですよね。もう一度書いておこう、幸せでした、ありがとうございました。

さて、この日の演奏を聴くことで、この作品について以前私が示した二択、「失敗したプロパガンダ」と「再びのロシア・アヴァンギャルドの可能性」が、選択ではなく両方そのとおりなんだなと体感できたものだから、私はこのあと東京オペラシティでのコンサートにも行きました。すみません本当にジャンキーだったんです。それもダウナー系ではなくアッパー系のこの作品の中毒者ですから、それはもうきちんとあれもこれも認識して帰ってきたんですよ、ええ。

オペラシティでは配置が少し変わって、ステージ上にはオーケストラ、トランペットはオルガン奏者を挟んでいわゆるP席に左右の二群として並ぶ。二度目の演奏でより練れたアンサンブルはサントリーでの公演以上に積極的で、トランペット部隊にはここの音響を楽しんでいるような余裕すら感じられた。
この配置によって、音響的には一番上からオルガン(パイプの位置から音が来ますからね)、正面からはトランペット、そしてステージのオーケストラからと、音はより立体的に分離され、明瞭に聴き取れるようになる。天井が高いオペラシティの設計者に感謝しなくてはいけない。とは言いながら、会場のサイズとしては一回り以上小さくなるし、比較的残響の長いこの会場での演奏だから解像度優先の演奏にはならない。というか、そういう音楽ではない(笑)。長めの残響ながら音楽は聴き取れる、しかしその絡み具合が実に秀逸で、このホールでサウンドを作ることに長けた東京フィルの面目躍如と言えた。サントリーホールの少し余裕がある音もいいけれど、この曲の圧倒的な存在感という意味でならこちらの演奏が上だったかもしれない。

果たして次に聴く機会が訪れるものかどうか、正直に申し上げて疑問しかないわけだけれど、こうして私の「交響詩曲」月間は終了しました。…本当に、日程さえ合うならオーチャードホールと文京シビックホール、おそらくは電子オルガンでこの曲が奏でられたのだろう後半戦もお聴きしとうございました。…あと、叶うならミューザ川崎シンフォニーホールでも聴きとうございました…

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ミハイル・プレトニョフが次に東京フィルの指揮台に登場するのは10月。今度はロシア、ソヴィエトではなくフランスとハンガリーの(というか、リストの場合、あえて言うなら汎欧州だと思うが)二人の作曲家の交響曲を並べたプログラムだ。それにつきましてはまた、公演が近づいてからなにか書きましょう。とりあえず今の時点で言っておきたいのはただひとつ、「そろそろ「ファウスト」全部読んでもいい頃だと思いますよ!」ということだけです(笑)。ではまた。

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