2019年9月2日月曜日

認識が改まる喜びを ~東京交響楽団 第670回定期演奏会

●東京交響楽団 第670回定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

これは私事ゆえにどうにもできなかったのだけれど、昨シーズンはノット&東響の演奏をほぼ聴けず、ようやく昨年12月のヴァレーズ、R.シュトラウス公演で復帰できたばかりであることをはじめにおことわりさせてもらう。以前のように「このコンビはリハでこんな感じで、ゲネプロでこう、それなのにコンサートでは!」と取材に基づいて書けるわけではないのです。そうして間が入ってしまっているうちに、いくつかの録音もリリースされ、テレビでも演奏会が放送されて、私ごときの出番はなくなったので、今はそうですね…あえて言うなら「心の友」って感じでしょうか…(ジャイアニズム)。

もちろん、過去拝見したリハーサルは今も鮮明に思い出せるし(なんなら過去の記事も読んでください、どうぞ)、そこから作品によって、暗譜かどうかによって、などの要素からの類推はできるかもしれない。リハーサル開始早々に流れを整え、音色やフレーズ、リズムへの配慮を徹底させ、互いに聴きあうよう促す数日の濃密なコミュニケーション(こんなリハーサルを作業とは言いたくない、そんな思いがあるので何度も取材させていただいたのですね。その意図が伝わっていなければそれは私が悪いので、今更ですがお詫びします)。そして出来上がりを確認するはずの、通し演奏で終わるはずのゲネプロでまた新たな刺激をオーケストラに与えるマエストロ、全力で応えるオーケストラ。このプロセスを経てコンサートを迎える、場合によっては複数回違う演奏を繰り広げる…そんな関係がもはや短くもない時間続いているのだから、ある意味では安定してきたのだろうけれど、いつでも新たな可能性を開き続けているノット&東響に「安定」の言葉は似合わない。私たち聴き手が期待して高揚感をもってホールに向かうように、ノット&東響の各位も緊張感と期待感をもってコンサートに臨んでくれている。事前に取材していなくてもそう確信できるくらいに、今回の演奏会でも貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

…いやまだ文章を終わらせてはいけません、まったく今回の演奏会の話をしていない。

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私が今シーズンの東響定期で一番の注目と期待をしていたこのコンサートは、まず簡単に結論だけ書くならば一言、圧巻、であった。前後半それぞれに聴きどころがあり、新鮮な発見があり、今後への期待があった。

前半に演奏されたブリテンの協奏曲で、独奏者は多彩な表現を尽くし、オーケストラは端正に作品の姿を示す、協奏曲演奏の理想形のひとつだっただろう。そのサウンドの充実ぶりは、録音だけではなかなか感じ取れないブリテン作品の色彩を明確に示すものとなった。
以前録音で聴いたダニエル・ホープはどこか線の細い音が気になる、手放しではほめにくいヴァイオリニストだったが、実演で聴く彼は美音より表現を追究する音楽家だった。楽器の特性やアーティキュレーションを積極的に攻めるので、結果として響きそのものが不安定に聴こえる、録音ではそれがどこか技量の不安定に感じられてしまっていたのだった。こういうことがあるので音楽家を録音だけで評価してはいけないのである(自戒)。
スコアを用意して指揮したノット監督のもと、東響の作り出したサウンドの充実は感心するしかないものだった。即興性控えめ(=リスク少なめ)のノット&東響の実力は、もはやここまで来ているのだ。弦や木管の繊細な表現には十分すぎるほど評価を受けている東響だけれど、力強さが求められる局面でももう不足感はない。であれば後半は…と期待は高まる。

そして後半のショスタコーヴィチは、これまでのノット&東響のアプローチがそうだったように、この作曲家を呪縛し続ける「大きな物語」の見立てによるドラマ、時代に即した解釈から解き放って、より実存的、パーソナルなドラマとして示してくれた。
ノット監督の積極的なコミュニケーションはいつものことだが、そのアイディアは豊富でかつ楽譜からのものだから妥当なアプローチだ。そしてこの日驚かされたのは、なにより監督からの挑発を受けた東京交響楽団の内声、低弦の充実ぶりだ。以前に聴いたノット&東響の演奏よりも格段にコミュニケーションが濃厚に、しかし自然に行われるようになっていて、その結果定評のある木管セクション同様に各声部がそれぞれに主張するようになり、アンサンブルはより音楽的説得力を持つようになっている。これを成長と言わずしてなんと言おうか。

2ヶ月前にウルバンスキと第四番を演奏したばかりの東響は、第五番でも聴き手の、いや私のショスタコーヴィチ観を揺さぶってきた。これらの演奏を受けてなら、「ショスタコーヴィチはマーラーに大きく影響を受けている」と、私だって思う。得心、である。

今後私がこの曲を、ショスタコーヴィチ作品を聴くとき、プラウダ批判や革命20年のこと、映画「戦艦ポチョムキン」から少し離れて自由になれる、ような気がしている。旧ソヴィエトの歴史に左右された天才、そんな作曲家の物語から離れたところで成立しうる音楽としてのショスタコーヴィチ作品。つい日頃成立史や時代から作品を捉えてしまうところがある私としては、こういう予想外は大歓迎である。こうして自分のそれまでの認識とは違うアプローチによって、自分自身も新たな作品像をイメージできるようになるのだから。


(と言いながら、ここで「戦艦ポチョムキン」を貼る私である)

そんなわけでこの日、演奏された両曲ともに作品への、演奏された音楽家の皆さんへの認識が改められるという、貴重な経験となった。本当にありがたいことである。こうなると、なんですかね、5>10>15だけではなく、ノット&東響のショスタコーヴィチ全集なんて考えてしまうんですけど、どうなんでしょう名案じゃないですかね(提案ではなく要求)。

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なお。最初に紹介したときに書いたとおり、この演奏会は首都圏では一度しかなくチケットも完売していた(新潟定期でも披露されているが、きっとよかったのだろう…二日目のノット&東響…りゅーとぴあ…)。私も脳内でリピートはできるのだが、言葉であの演奏を描くことはちょっと遠慮したい(ここまで無理筋だと挑む気も起きないので)。

だが幸いなことに、この演奏会は東京交響楽団の配信サーヴィス「TSO MUSIC & VIDEO SUBSCRIPTION」ですでに配信されている。数多くのマイクも立てられていたこの日の演奏はCD(SACDハイブリッド)としてもリリースされる。どちらを選んでも正解です、ぜひ、とだけ申し上げておく。



ああそうそう、私事ですが、ひとつご案内。リハーサルの取材などはオファーいただるなら調整の上対応したいと思っております(宣伝か)。ではまた。

これぞ、真髄 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

2019年3月23日(土) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番 イ長調 K.219
ショスタコーヴィチ:交響曲第四番 ハ短調 Op.43

かつて首席客演指揮者として東響でも活躍してくれたウルバンスキだけれど、実は私はタイミングが合わず今回初めてその演奏に触れた。才能ある若い指揮者が特に欧州でポストを得ると、なかなか日本に来られなくなるというのは皆様もよく感じていらっしゃるでしょうけれど、ええ、私の場合彼がそのタイミングで聴きそびれていた一人なのです。NDRオケとの来日も行けませんでしたし…
録音などでは聴いていても、いろいろとお話はうかがっていても(過去の共演の際の興味深いエピソードなど、教えていただいたのは、もしかすると「早く聴いておけって」というアオリだったろうか(笑)。いや考え過ぎかもしれませんが)、やはり実演でないとわからないことは多いものです。終演後、早々に団の方に「早く次呼んでくださいね」とお願いに行ったことを最初に書いておきます。返事がどうだったかは、…ご想像におまかせします。なお、この日は三階席で聴きました。

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まず前半に置かれたモーツァルトの協奏曲から。編成は8型で意外にも弦は向かって左からVn1>Vn2>Vc>Vaと並ぶ通常(または20世紀)配置。ザルツブルク時代の曲なので管楽器はオーボエとホルンしかなく、この小編成で、しかも三階席でどんな音がするものか、十分に楽しめるだけの音が来てくれるか不安がなかったわけではない。しかしチューニングが始まってみれば音はちゃんと届くし、音の伸びも感じられる。これなら、と思ううちソリストと指揮者が入場、オーケストラの序奏のワンフレーズで杞憂は解消され、ありがたいことに残響感も十分だ。ソリストの音も、フレーズにアーティキュレーションにテンポにと、多彩なアイディアがきちんと聴き届けられるのだから文句のあるはずがない。このホール、席によってかなり印象が異なりますね、というのがミューザ不在の数カ月の経験からのアドヴァイスです。まあ、次がいつになるのか、まったくわかりませんけど…

さて演奏の話に戻ります。10代でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれたというヴェロニカ・エーベルレ、さてその腕前のほどは?なんて様子見めいた気持ちは、演奏開始早々になくなってしまった。その音楽は鮮やかであり、自在である。アーティキュレーションを鋭く立てて語る部分と、レガートで存分に歌う部分とのコントラストも見事なものだし、技術的にも非常に高いレヴェルで安定している。小編成で聴かせる東響のモーツァルトが悪いはずもないのだが、指揮台に乗らずソリストとオーケストラをそそのかすように刺激するウルバンスキのもと、エーベルレはくるくると表情が変わる見事な「若きモーツァルト」を聴かせてくれた。特に感心したのはフィナーレ。ロンドをただの繰り返しにしないアイディアの多彩さももちろん素晴らしいのだけれど、この作品の愛称をもたらした「トルコ風」の部分、コル・レーニョの打楽器的効果にソリストの奔放な歌い回しが上手く噛み合って、モーツァルトがこんなにもロマ風に聴こえたのは収穫だった。愛称の由来を超えていく演奏なんてなかなか出会えるものじゃあない。彼女なら弾き振りでもいけるんじゃないか…?モーツァルト・マチネとか来ません?などと思ったりもしたけれど、軽やかに歩きながら指揮したウルバンスキの存在感もまたよし。良いモーツァルトを堪能した。

アンコールに演奏されたプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからの第二楽章は、モーツァルトとはまた違う、濃厚な表現が実に魅力的なもの。そう遠くない時期にまた東響に来てほしいものだ、それこそスケジュールが取れなくなる前に、定期的に来演するパターンができるまで。そうそう、次は是非、ソリストに優しく、何より音楽家の可能性を増大させるミューザ川崎シンフォニーホールで。

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休憩を挟んでステージを眺めればみつしりと並んだ大編成管弦楽。思えば私の2019年はここまで東響のモーツァルト以外は16型ばっかりである(笑)。変則の四管、打楽器9人、壮観である。しかし問題は編成ではなく音楽だ、表現だ。当たり前の話である。
ということで例によって結論を書く。もしかするとオペラと定期と連日の公演で若干徹底しきれなかった部分はあったかもしれない(この時期の東響のスケジュールをみるだけで私は気が遠くなる)。しかしそれでも、しなやかで強い音楽としてショスタコーヴィチの問題作が提示された。この演奏ならば先日の予告で書いた「天才が無邪気なまでにその才能を披瀝した作品」と評することができる。ありがたいことだ。

実はこの作品を”マーラー的”と評することに、私は長いこと違和感を持っていた。たしかに”長編”でコントラストが鮮烈である点に近さがあっても、求心的でシーケンシャルなマーラーと発散的でコラージュ的なショスタコーヴィチのヴェクトルの違いがより気になるからだ。第一から第三までのショスタコーヴィチの交響曲を追っていればなおのこと、マーラーとは語り方が違いすぎる、のではないのか。成立に諸説ある作品だが※1936年に成立したままの作品が現状演奏されているものだとするならば、直前の大成功作である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になるべき作品だったのではないか、とこの日の演奏を聴くことで思い当たった。女性のドラマとして示された「マクベス夫人」、男性のドラマとして示されるはずだった交響曲第四番。

※陰謀論に近い説があります。復活蘇演の時期の作風に近いので、パート譜からスコアに起こす際に手を入れたのではないか、とかいう。その補強にかつては現行版とはまったく別の序奏が挙げられていましたが、それは今回の解説にもあったとおり「破棄された草稿」と見るべきだと思うので、まあ、ネタということで。

交響曲第四番が、その後名誉回復の一作となった「第五番とそうかけ離れた内容の作品ではない」という指摘は昨今よくされる。なるほど、過剰な部分を抑えて形式を整えて、四楽章形式でフォルテッシモで終われば…なんて口では言えても、具体的な想像はそう簡単ではないのだけれど、ときどき作曲家の手癖故か直接に似たような雰囲気を醸すところはある。だがしかし、第五番は”本筋”が誰にも聴き取れるように書かれているのに対し、第四番は交響曲第三番までの、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」までの初期ショスタコーヴィチの集大成として、もはや”本筋”があるのかどうかすら疑問に感じるほどに過剰な脇筋が展開される音楽だ。だがしかし喜ぶべし、この日の演奏ではいくら脇道を全力で疾走したり、迷子になったように立ち止まったりしていても、この曲は第三楽章のクライマックス、音響的頂点に至るためにある、そう本筋が示された。敗北して終わるドラマ、ということではマーラーの交響曲第六番にも通じるドラマを想定して捉え直してみるべきなのか。そんなふうに思わせてくれたウルバンスキと東響に感謝したい。

足元も軽やかにこの複雑な作品を捌いていくウルバンスキ、それに応える東響のコンビネーションは彼がポストにある/ないなど関係なく密接なもので、印象的な場面はいくつもあった。たとえばこの日の演奏は冒頭から高い集中を見せていたが、第一楽章のあの狂乱のフーガは最初の頂点となった。トップスピードで始まって、その速度を全力でキープするオーケストラ、そして気を緩めずそれ以上を求め続ける指揮者の姿にはどこか異様な気配すらあった。その整然とした狂気あってこそこの作品だ、ショスタコーヴィチ音楽の愛好者として演奏を聴きながら内心ガッツポーズしていた私である。第二楽章の普通のスケルツォ風に始まりながら、どうにも収まりの悪い(けど楽しい)拍子が変わり続ける展開もむしろ楽しむように演奏するウルバンスキと東響。そして前述のフィナーレだ。民謡風の鄙びた雰囲気から始まって、その多彩すぎるアイディア、オーケストレーション、展開の目まぐるしさがこうも力強く表現されるこの演奏であれば、ショスタコーヴィチがかつてどれだけ「危険な天才」だったかがわかろうというものだ。その危険さは形を変えて残っていくのだけれど、「マクベス夫人」と第四番で見せるそのヤバさは別格である。ロシア革命が生み出した最強の天才は、しかしこの路線を突き詰めることはなかった。それがよかったかどうかはもう誰にもわからないけれど、現在の私たちはこの作品があってそれ以降の作品があることをよく知っている。第五番以降の作品を聴くとき、どこかにこの作品の残響を探してみる、そんなショスタコーヴィチの楽しみ方もあるだろう、そんなふうに思わされたウルバンスキと東響の見事な第四番だった。

…そうだ、昔新国立劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を聴いたとき、オーケストラは東京交響楽団だったのではなかったか。また上演してくれないだろうか、それこそウルバンスキを招いて(無理です、スケジュール的に←オチ)。

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ウルバンスキが次にいつまた来てくれるものか、それはスケジュールを差配するエージェントのみぞ知ることなので(哀しいけどこれが現実です)ここで書けることは何もないのだけれど、この日見事なモーツァルトを聴かせたヴェロニカ・エーベルレは9月に再度来日します。東京都交響楽団、札幌交響楽団との共演にリサイタルに武生国際音楽祭2019に、と存分にその魅力を示してくれることでしょう。詳しくは招聘元のサイトで日程をご覧くださいませ。

2019年8月21日水曜日

「交響詩曲」に溺れた ~東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会

予告編を書いておいてアレなのですが、今年前半の積み残しがたくさんあります。なんとかまとまってきたので並行してこちらも公開させていただく関係で、サマーミューザの進行があまり早くならないことはご容赦くださいませ…

●東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン

3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

オーチャードの公演が日曜なら、私はまたこのプログラムを聴きに渋谷を訪れていたかもしれない。もはや私は「交響詩曲」のジャンキーである。…不穏な時事ジョークはこのへんで(※3月のネタだから微妙に古いし、なにかの作品で彼は復帰したようだ)。

前半にチャイコフスキー、後半にはハチャトゥリアンとロシア・ソヴィエトのメロディメイカー・プログラム(以前の記事参照)。指揮はピアニストとしても活躍を続けるミハイル・プレトニョフ。東京フィルハーモニー交響楽団とは特別客演指揮者として、ロシア・ソヴィエトの名曲秘曲、なんでもありの趣あるプログラミングを展開しているのはみなさんもご存知のとおりだ。今回は一曲目に短い管弦楽曲、そして協奏曲を挟んで交響曲をメインに据えた、一見するとオーソドックスなプログラムだが、…という絵解きは前に書きましたのでそちらを参照してください。

チャイコフスキーの作品の中でも国歌や民謡をそのまま取り込んだ、野趣あふれる「スラヴ行進曲」が、果たしてプレトニョフの元でどう響くのか?少々の疑問符を抱えたままの私に関係なく、力みなく始まった演奏は、低弦のイントロからして飾らない、自然な入りがそれだけで魅力的。引用される民謡をそれぞれに表情付け、多彩な音色で自然に音楽を高揚させて帝政ロシア国歌で頂点に導く運びもまた自然なもの、この作曲家の音がどれだけマエストロの手に馴染んだものであるかがそれだけで示されたと感じた。また、彼と東京フィルほどの関係ともなると音楽を大きく動かすにも音色を変えていくにも大きな動作はいらないようで、ちょっとした指示で歌い回しに強弱にテンポにと、自然に音楽が動いていくのが実に心地良い。旧ソヴィエト時代の演奏を自らの体験として知っていて、しかしそれとはまた異なるアプローチで作品の持つ可能性を示すマエストロに、一曲目でもう感服である。

二曲目に演奏されたヴァイオリン協奏曲のソリストとしてに招かれたユーチン・ツェンは前回(2015年)のチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門第2位(1位なし・最高位)の若き才能だ。なるほど、確実な技巧、フレーズの一つ一つへの創意で楽しませようという意志はよく伝わってきた。だがいかんせん今回聴いた演奏からは、彼がこの曲をどう捉えているのか、その全体像がまだ見えてこない感が惜しい。美音で技巧は万全、だがそれに加える何かがほしい。そう感じるのはわがままな希望かもしれないが、彼がチャイコフスキー・コンクールから世界に羽ばたいている最中なのだから、高望みを許してほしい。今回はまたプレトニョフと東京フィルが作り出した舞台で踊っただけに聴こえてしまったけれど、彼の音楽にはまたいつかまた触れられるだろうから、そのときに成長を感じさせてくれるなら、と思う。
オーケストラの音色は、一曲目より色彩感高くその美しさに聴き惚れてしまうものとなった。一曲目のロシアの、セルビアの土の色なのかどこか黒っぽい音に対して、中間色を上手く使った絵画のごとき落ち着きある響きは”西欧派”チャイコフスキーの演奏としては理想的なサウンドだったのではないだろうか。この音で交響曲もバレエも聴きたい、などと思う、なんのかんの言ってもチャイコフスキーの音楽が好きな私の感想でした。

さて後半は作曲者が変わってハチャトゥリアンだ。「スパルタクス」(1954-56)は、ジダーノフ批判のあとでの最大の成功作と言えるだろうバレエ音楽だ。剣奴スパルタクスの物語はスタンリー・キューブリックの(というか、カーク・ダグラスの)映画でご存知の方も多いだろうから詳しくは書かない。ここで演奏されるアダージョはスパルタクスとフリギアの愛の場面、勇壮な物語の中でもっとも印象的な場面の一つだろう。
ただ、プレトニョフと東京フィルの演奏ではおそらくバレエには向かないだろう、とは言わなければなるまい。指揮者の解釈や「舞台慣れしたオーケストラなのに!」などという批判ではもちろんなく、趣向を凝らされた細部、たとえばフレーズの伸縮や濃厚な表情付けが踊りとは合わなかっただろうから、という意味でのこと。指揮者とオーケストラが創り出した充実した音楽は、それだけで一場のドラマを描き出した。中間色の響きが美しかったチャイコフスキーと対比するように、ハチャトゥリアンはよりシャープな線と輝かしい光沢で、愛の場面を飾った。
強めに奏された低弦のピチカートとピアノの一打で愛の余韻を断ち切るようにアダージョが終わって、いよいよ交響曲第三番である。16型のオーケストラからバスクラリネットが退場、第3トランペット、さらに15人のトランペットが入場すると場内には不思議な高揚感が…いや、私は着席してすぐ(そうか、15人はステージ奥か…)と高まりまくっていたのですが。

短いクレッシェンドの序奏のあと、すぐに轟く15人のトランペッターの音は録音で聴くような暴力的なものとはならず(ある時代のある演奏を聴きすぎの感想)、今の若手世代の奏者たちの明るい響きが真っ直ぐに客席に届いてくる。細かくパート割されたトランペットは、ステレオ効果も面白く、抑えたテンポで端正にアンサンブルが形作られていく。その整った造形に油断していたわけではないのだけれど、トランペットの提示が一段落したところからはオルガンの大活躍が始まるのである。度肝を抜かれるのである。
ホール上部に大量のパイプを配したオルガンは、会場そのものを楽器として音の範疇にとどまらない振動を伝えてくる、ということは経験からも理屈としても知っている。だが、そのサウンドを会場の残響や家鳴りを効果として活かした数々の先行する作品のそれとは違う形で用いたのがこの作品だ。なにせいきなり猛烈な速度のパッセージから登場するのだから、その衝撃のほどはなお大きい。ちなみに、かなりの時間続くオルガン独奏のため非常に横長の楽譜を用意していたようなのだが、数ページにも及ぶ長大なソロを、それも連続する高速六連符なのだから、演奏するのが大変でないわけがない、しかし石丸由佳の後ろ姿からは苦労のほどが伝わらず、あたかも淡々と弾いているようだ。もちろんそんなはずはない、と思うが背中はそう語らない。なにせ、出てきた音を私が評するならばひとこと、「轟音の奔流」で済んでしまうほどの音が延々と続くのだから、無駄のない動きとの落差は相当のものなのだった。
聴き手がそんなオルガンに圧倒されているというのにトランペットも呼応してしばしトランペットとオルガンの大音量のアンサンブルが展開するのだから、この曲は本当に異形の作だと思う。速弾きのオルガンとトランペットのファンファーレ、二つのの音群はまとまるわけでも譲り合うわけでもない、力強いふた柱の音としてホールを埋めていく。
…王を象徴する楽器として用いられたトランペットと、「楽器の王」とも称されるパイプオルガンを並立させて独特なアンサンブルを作り上げた共産圏の作曲者、というのははたして何を考えていたのか、そんなことを轟音の中で思う私である…とは言いながらそんな物思いに浸れるような時間が長くあるわけもなく(あんなに音が多いのに、この曲は演奏時間30分もないのだ)、通常のオーケストラ(よくわからない物言い)が新たな主題を提示、オルガンとトランペットは一休みとなる。ここで弦楽器によって示される旋律が「スパルタクス」で示されるそれによく似ていることは、明らかにプレトニョフが仕掛けたことなのだろう。「スパルタクス」の時点ではまだ封印された作品だった「交響詩曲」を作曲者が大事にしていたことに気づかせてくれようと、マエストロはこのプログラミングしたのだろうか…ハチャトゥリアンが自作引用を意味付けに使うタイプではないからなおさら、この配慮は心に響く。オーソドックスに見えて選曲に表現にと、大技小技さまざまに織り込まれたプログラムなのだ。

交響曲に戻ろう。バレエのいち場面や民族色をも感じさせる旋律が高揚し、また沈静化していくと遠くにあのファンファーレが聞こえ、クラリネットの長大な速弾きのソロから始まる展開部、その先に五拍子の新たなリズム・モティーフが示されて音楽は新たな顔を見せてくる。とはいえ30分かからない作品はここからはまっすぐゴールへと向かう。提示された要素が編成を変え組合せを変えて連続して現れたその先に、たどり着くのは12/8拍子の異形のマーチ、そしてファンファーレが乱舞するコーダ、である。最後の長い長いクレッシェンドまで、マエストロはコントロールを失わず、しかし大きい起伏ある音楽を聴かせてくれた。感情移入によらない外在的な音作りということで、ピアニストらしい(最良の意味で)指揮だったと感じたのだが、今にして思えばロジデーストヴェンスキーにも通じるものがあった、かもしれない。相当にコントロールの効いた演奏ながら、最後のコーダで大きくテンポを落として明確に駄目を押すところに、マエストロの明確な個性が刻印されて、演奏は終わった。轟音の余韻の中、ついにこの曲を聴いたな、という充実感に浸らせていただいた。私には感謝の気持ちしかない。

事前にけっこう頑張って準備して(過去記事参照)、「交響詩曲」こと交響曲第三番が終わった時点で個人的にはもうお腹いっぱいだったのだけれど(実際帰り始めるお客様も少なくない。これは定期ならいつものこととも思うが…)、マエストロはきっと「いやいや皆さんの知らない曲で申し訳ない」とでも思ってくれたのだろう、アンコールとして同じ作曲家の「仮面舞踏会」から、ワルツを演奏してくれた。今ではおそらく日本で一番知られているハチャトゥリアン作品の一つと思われるこの作品を、ちょっとフィギュアスケートには合いにくいだろうトリッキィなテンポ・ルバートも交えて聴かせてくれて、初日は終わった。コース料理の最後にはデザートが必要なんだな、と理解して帰路につける幸せ。実演ならでは、ですよね。もう一度書いておこう、幸せでした、ありがとうございました。

さて、この日の演奏を聴くことで、この作品について以前私が示した二択、「失敗したプロパガンダ」と「再びのロシア・アヴァンギャルドの可能性」が、選択ではなく両方そのとおりなんだなと体感できたものだから、私はこのあと東京オペラシティでのコンサートにも行きました。すみません本当にジャンキーだったんです。それもダウナー系ではなくアッパー系のこの作品の中毒者ですから、それはもうきちんとあれもこれも認識して帰ってきたんですよ、ええ。

オペラシティでは配置が少し変わって、ステージ上にはオーケストラ、トランペットはオルガン奏者を挟んでいわゆるP席に左右の二群として並ぶ。二度目の演奏でより練れたアンサンブルはサントリーでの公演以上に積極的で、トランペット部隊にはここの音響を楽しんでいるような余裕すら感じられた。
この配置によって、音響的には一番上からオルガン(パイプの位置から音が来ますからね)、正面からはトランペット、そしてステージのオーケストラからと、音はより立体的に分離され、明瞭に聴き取れるようになる。天井が高いオペラシティの設計者に感謝しなくてはいけない。とは言いながら、会場のサイズとしては一回り以上小さくなるし、比較的残響の長いこの会場での演奏だから解像度優先の演奏にはならない。というか、そういう音楽ではない(笑)。長めの残響ながら音楽は聴き取れる、しかしその絡み具合が実に秀逸で、このホールでサウンドを作ることに長けた東京フィルの面目躍如と言えた。サントリーホールの少し余裕がある音もいいけれど、この曲の圧倒的な存在感という意味でならこちらの演奏が上だったかもしれない。

果たして次に聴く機会が訪れるものかどうか、正直に申し上げて疑問しかないわけだけれど、こうして私の「交響詩曲」月間は終了しました。…本当に、日程さえ合うならオーチャードホールと文京シビックホール、おそらくは電子オルガンでこの曲が奏でられたのだろう後半戦もお聴きしとうございました。…あと、叶うならミューザ川崎シンフォニーホールでも聴きとうございました…

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ミハイル・プレトニョフが次に東京フィルの指揮台に登場するのは10月。今度はロシア、ソヴィエトではなくフランスとハンガリーの(というか、リストの場合、あえて言うなら汎欧州だと思うが)二人の作曲家の交響曲を並べたプログラムだ。それにつきましてはまた、公演が近づいてからなにか書きましょう。とりあえず今の時点で言っておきたいのはただひとつ、「そろそろ「ファウスト」全部読んでもいい頃だと思いますよ!」ということだけです(笑)。ではまた。

2019年8月18日日曜日

PLAYBACK フェスタサマーミューザKAWASAKI2019…の予告

数日のご無沙汰でした。

さて。フェスタサマーミューザKAWASAKI2019の初日から最終日まで、連日予告編を書きました。すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょうけれど、私が予告を書くのは基本的に「自分が聴きに行く」ことが前提です。ですが今回、地元のお祭り(おい)のため禁を破っていくつか伺えない公演について書いています(時間がかぶっていた、所用など事情あったのだから仕方がないのですが)、それでも休演日と音大の皆さんの公演を除いて、連日なにかしら聴きました。二つの音大の皆さんにはテアトロジーリオ・ショウワと前田ホールで会えるから許してください。あと、しんゆりからでは移動不可だったため聴けなかった我らが公共放送響とは、テレビで会えますので(おーい)。

ええ、そんなわけですから期間中毎日のように川崎駅にほど近いミューザ川崎シンフォニーホールまで通っていました。通いましたとも。終わった今はもうヘロヘロです。暑さの中でも足裏から伝わる地熱が本当に辛くて、心底ホールに住みたかったのですが(切望)、もちろんそんなわけにもいかないので路線を乗り継いで連日通いました、ノット&東響のオープニングから、尾高忠明と東響によるクロージングまで。ただし今回、さすがにリハーサルは行けませんでしたし一日一公演限定でした、それ以上の体力は私にはなかった(笑)。

初日の終演後、なかなか帰る気になれずにこんな時間になってから撮りました。
実は私もこれを船の舳先のように感じて、二週間ちょっとの航海の安全を祈ったことでしたわ…

楽ではなかったけれど、一時期に同じ会場で、複数の音楽家の演奏を聴くことには大きなメリットがあったな、と感じています。ちなみにデメリットは「さすがにこれだけ聴くと心底疲れるっす」くらいなので、あえて言うまでもないでしょう(笑)。
演奏における条件が揃うことで、それぞれの音楽家が持っている音のイメージの違いが際立つものだ、と日々感じておりました。コミュニケーションスタイルの違い、身振り、表情…etc等など、それらすべてが同じ場に並ぶことで、比較する気がなくとも違いとして伝わってくる。
そうそう、ステージマナーもそうだ。入場から終演まで、これは無心に比べていました。書く機会もない話なのでここで書いておきますね。個人的にはコンサートマスターの入場タイミングで拍手するだけで良いんじゃないかな、と普段は思っているのですが、今回はメンバーが出揃うまで拍手が続く歓迎ムードで、私も抗わずにそれに参加しておりました。その出迎え方は、今回のフェスタサマーミューザの雰囲気を良いものにしていたと感じておりますよ。休館明けということもあったのでしょう、このホールで音楽を連日楽しめることのありがたみはいつも以上に感じていましたし。

本題に戻ります。もちろん、たとえばオーケストラそれぞれの音の違いは、複数の会場で、長い間を空けて聴いたとしてもわかるけれど(その程度のことなら放送でもわかる)、これだけの音響のホールで続けざまに聴くことは、嫌でも聴き比べの性格を持ってしまう。考えていなくても「昨日は…おとといはこうだったな」と頭をよぎる。そのときに聴いている個々の音楽はそれぞれに愉しんだ、そのうえで、どうしてもそういう感慨が残る、という話です。

自分としては、たとえ同じ曲を近い期間で聴くとしてもそういう比較を第一義とすることはありません。そんな私でも、こうも連日眼の前で力の入った演奏が展開されれば、厭でも思いますよ、「この指揮者とはこうなるのか」「その指揮にそう反応するの?」「そこで…」「あれは…」等など。そんなちょっとした発見や思いつき、感じ方が、いつかまた別の演奏をより面白く楽しませてくれる、私はこれまでの経験からそう信じている。今年のフェスタサマーミューザKAWASAKIは、そんな自分だけの“抽斗”をたくさん増やしてくれた。心から感謝します。
このメリットは、毎年変わらぬサマーミューザの魅力の一つと思えるので、来年も川向こうの世界的大運動会よりこっちのほうが楽しいですよ、と言っておこう。だって、こっちは冷房効いてますから、安全ですよ(おい)。

という冗談はさておき(よかった冗談なんだ)、イヴェント全体を振り返ったときの感想はこんな感じです。ではこれから、個別のコンサートについてのレヴューも書いていきます。結果として何故か今年多く聴いてきたロシア・ソヴィエト音楽の聴体験を深め、次につなげるもの※になったなと感じていますので、今年前半に聴いた演奏会のレヴューも並行して仕上げていきます。ご存知ですか皆さん、〆切のない文章って完成しないんですよ(怪談)。

※このあと、東京交響楽団はプロコフィエフの交響曲第四番(改訂版、9月にリオネル・ブランギエと)、ショスタコーヴィチの第一一番(11月に沼尻竜典と)など、注目の演奏会を控えています。年明けてからになりますが、チャイコフスキーの第五番(2020年1月、ベン・グラスバーグと)もありますし。そのあたりはまた別途…

来年に向けてはそうですね、コンサートの映像配信とか放送とか検討されると面白いかなあ、と思い始めています。それこそ公共放送様が4K用のコンテンツとするのもよし、地元tvkが配信込みで担当するもよし、三方一両得なのでは。…なんて、ただの思いつきですけれど、仙台フィルの登場でひとつあり方が変わったフェスタサマーミューザ、どんどん攻めて成長してくれたらこんなに嬉しいことはありません。

さてPLAYBACKの本編は、聴いた公演のレヴューの形になります。もっとも、そのうち二つは公式に「ほぼ日刊フェスタサマーミューザ」に寄稿していますので、どう扱ったものか考え中ですが。そうそう、どちらも裏面掲載なので皆さんお手元の裏面もチェックしてね!(今さらか)。開幕公演がアレなので(いい意味で)、ちょっと手はかかると思いますが気長にお待ちいただければ幸いです(サマーミューザ以前の公演もいい加減お出ししたいので…)。
では予告はおしまい、また近日お会いしましょう。

2019年8月12日月曜日

かってに予告篇 〜フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 Day16 &書きました。

●東京交響楽団フィナーレコンサート

指揮:尾高忠明
ピアノ:ジャン・チャクムル(第10回浜松国際ピアノコンクール優勝者)
管弦楽:東京交響楽団

シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

始まってみればなんとやら、とは言うけれど。こうして毎日なにかしら書いてきた私には十分に長い、決して短くはないフェスタサマーミューザKAWASAKI2019もいよいよ最終日。オープニングをまったくの独自カラーで彩ったノット&東響から、尾高忠明と東響によるクロージングで、この夏祭りは幕を下ろす。残念ながらチケットは完売とのこと、口惜しく感じられたあなたは来年に向けて調整を始めてください(おい)。ほら、多摩川の向こうはいろいろ大変みたいですし、2020も連日フェスタサマーミューザKAWASAKIがいいと思いますぜあたしゃ(誰だよ)。

…ちょっと先走りました、まずは今日の話をいたしましょう。東響ファンには聴き比べの楽しみが味わえる、一回で二度三度と美味しいプログラムがフェスタの終わりを飾ります。指揮は尾高忠明。前立腺がんの公表と療養からの復帰を、まずは喜びたい。

まずは前半に演奏されるシューマンの協奏曲。6月にスダーンと菊池洋子の演奏で聴いたばかりでの演奏で、登場するソリストはジャン・チャクムルだ。
浜松国際ピアノコンクールで優勝した彼と東響の共演はまさにそのコンクールファイナル以来だろうか。この動画を見る限り、東響は彼を尊重して共演を楽しんだように見えるので、今回も濃厚な音楽的対話が期待できるのではないだろうか。



そしてサマーミューザの最後に演奏されるのはショスタコーヴィチの交響曲第五番、プラウダ批判によって陥った危機的状況からの名誉回復の一作…とかつい書いてしまいますが、そういう話は今日はいいでしょう。
むしろ、5月にノット監督と演奏したことを思い出して、その時との違いを楽しむのがいいだろう。
とはいえ「サントリーホール一回だけの公演で聴けませんでした」「りゅーとぴあにまでは行けません」という方も少なくないだろう。そんなあなたにこのサービスを!…っていやらしいなこの言い方。レコーディングされたということでもありましたので、しばしお待ちいただければCDでも聴けるはず、です。

余談はさておき。上田仁時代に多くの日本初演を行った東京交響楽団のショスタコーヴィチでミューザ川崎シンフォニーホールの夏祭りは終わる。今日ばかりは私も「ヴォルコフの”証言”は」とか「第四番とは近い作品で」とか言わず、出てくる音をじっくりと楽しもうと思う。休館から半年とちょっと、やっとここまで来たんだな、と感慨を持って。

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まだ更新前なので今の時点では読んでいただけませんが、8/10にミューザ川崎シンフォニーホールで開催された「かわさきジュニアオーケストラ 発表会」についてレヴューを紀行しています>「ほぼ日刊サマーミューザ」。

2019年8月11日日曜日

かってに予告篇 〜フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 Day15

●東京フィルハーモニー交響楽団

2019年8月11日(日) 15:00開演

指揮:ダン・エッティンガー(東京フィルハーモニー交響楽団 桂冠指揮者)
フルート:高木綾子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から 第一幕への前奏曲
モーツァルト:フルート協奏曲第一番 ト長調 K.313
チャイコフスキー:交響曲第六番 ロ短調 Op.74 「悲愴」

新国立劇場への登場から東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者として活躍し、その後桂冠指揮者となったダン・エッティンガー。常任ポストを降りてから、新国立劇場「サロメ」(2016年)で東京交響楽団を指揮して話題になったのは記憶に新しい。その彼が、久しぶりに東京フィルの指揮台に立つこの夏の公演は注目の演奏会の一つだった。サマーミューザに先立って行われた演奏会でのこの光景を見れば、その舞台が如何に待望されていたかがわかろうというものだ。


(この写真に題をつけるなら「信頼」とでもなるだろうか)

「第2回 渋谷の午後のコンサート」での大成功を受けて、ますます期待の高まるエッティンガーと東京フィルの演奏、サマーミューザの最終盤を大いに盛り上げてくれることだろう。

先ほども少し書いた新国立劇場での「サロメ」だが、当時の私のレヴューがあったのでリンクしておきます。苛烈なリハーサルからの衝撃的な舞台だった記憶が今も残っているのだが、そこでこのマエストロがどこまでもドラマを描出する人なのだと理解できたのはありがたいことであった。
最近ではシュトゥットガルトで活躍しているダンさん(その呼び方)、引き締まったアンサンブルは確かに彼らしいものだ。チャイコフスキーではその造形と劇描出が高度にバランスした演奏となるのだろう。楽しみである。


(でも。ねえ、このジャケット誰かに騙されてない?イケメン押しなのは理解できますけど!)

そして共演にはフルートの高木綾子が登場する。ソロに室内楽にオケに教育に、と今や各方面で活躍する彼女の演奏も楽しみだ。かなり以前にハチャトゥリアンを聴いた記憶があるけれど、今回のモーツァルトは彼女のまた違う音楽性を知ることができるだろう。

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そうそう、最後にもう一つ。PMFオーケストラのソリストにマトヴェイ・デョーミンが、そして日本フィルには藤田真央が登場したサマーミューザ2019だが、この公演では首席奏者としていつも妙技を聴かせてくれる、同じく第16回チャイコフスキー国際音楽コンクールで木管部門三位に入賞したアレッサンドロ・ベヴェラリが登場するのもお見逃しなく。メインの曲も幸いなことにクラリネットの活躍する「Pathétique」ですので。


2019年8月10日土曜日

かってに予告篇 〜フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 Day14

フェスタサマーミューザKAWASAKI2019も最後の週末を迎え、この土曜は盛りだくさんの日となります。ミューザ川崎シンフォニーホールで2公演、新百合ヶ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで1公演が開催されるので、さすがに3公演のハシゴは無理だけれど2公演までなら、移動込みでもなんとか間に合うはず※。三連休の方も多いかと思いますので、ガンガン移動して楽しんでくださいませ(もちろん熱中症にはお気をつけください)。

※ハシゴ不可能なのは時間的に先に行われる2公演。移動時間ゼロなら…いやそれでも無理かな。
ですので、「こどもフェスタで一日をはじめてミューザ周辺に滞在して優待チラシを活用しちゃう」のがいいか、「@しんゆりでベートーヴェン三昧からの小田急→南武線移動でオルガンを聴く音楽漬け」か、お好みでコースを選ぶのがよろしいかと。

●こどもフェスタ2019 かわさきジュニアオーケストラ発表会

2019年8月10日(土) 13:30開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:江上孝則
ヴァイオリン:秋田愛絵(ジュニアオケ選抜メンバー)
フルート:牧野楓子(ジュニアオケ選抜メンバー)
管弦楽:かわさきジュニアオーケストラ
司会:山田美也子

ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」から 序曲
ベートーヴェン:ロマンス第二番
J.S. バッハ:管弦楽組曲第二番から ポロネーズ/メヌエット/バディネリ
ベートーヴェン:交響曲第五番 ハ短調 Op.67「運命」から 第一楽章
ヨハン・シュトラウスII:トリッチ・トラッチ・ポルカ
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・フランセーズ「鍛冶屋のポルカ」
ヨハン・シュトラウスII:
  「クラップフェンの森で」
  ポルカ・シュネル「狩り」
  ワルツ「美しく青きドナウ」から

「音楽のまち かわさき」の未来そのものに会えるコンサートです。今日はミューザではプロのオケが聴けないからなあ…なんて言わせない、と思います。初めて聴くので、期待を込めてそう申し上げます。

●出張サマーミューザ@しんゆり! 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2019年8月10日(土) 15:00開演
会場:昭和音楽大学テアトロ・ジーリオ・ショウワ

指揮:垣内悠希
ヴァイオリン:成田達輝
ピアノ:菊池洋子
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ベートーヴェン:
  歌劇「フィデリオ」から 序曲 Op.72
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
  ピアノ協奏曲第五番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」

先週のドイツ音楽三昧にそのまま続けるように、「出張サマーミューザ@しんゆり!」はベートーヴェン三昧です。若き音楽家たちの入魂の演奏にご期待ください。
なお、テアトロ・ジーリオ・ショウワまでの道は、駅からそう遠くはないのですけれど、ずーっと陽に当たり続けることになりますので(先週経験済み)、ご来場の際には日差し対策をされることをオススメいたします。健康大事。

●真夏のバッハIV ルドルフ・ルッツ パイプオルガン・リサイタル

2019年8月10日(土) 19:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

<オール・バッハ・プログラム>
前奏曲とフーガ イ長調 BWV536
「おお、汚れなき神の子羊」 BWV656
コラール「装いせよ、おお愛する魂よ」前奏(即興)― コラール前奏曲(BWV654)― 後奏(即興)
パッサカリア ハ短調 BWV582
前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552
コラール変奏曲「目覚めよと呼ぶ声がきこえ」 定旋律をソプラノに(即興)― 定旋律をテノールに(BWV645)― 定旋律をバスに(即興)
ルドルフ・ルッツ:佐山雅弘氏に捧げる《虹の彼方に》― J.S. バッハのスタイルによる

休館中に行われたオルガンの整音作業の成果を、きっとこれでもかと示してくれるだろうバッハ作品によるプログラムを、ルドルフ・ルッツが披露してくれる。なんというか、付け加えることがないのではないか。いや無責任な言い方に思われるかもしれないのだけれど、ザンクト・ガレンのJ.S.バッハ財団の音楽的リーダーとして活躍するオルガニスト、即興演奏の泰斗である彼がまた輝きを増した感のあるミューザ川崎シンフォニーホールのオルガンをどう鳴らしてくれるものか、期待しかないではないか。また、即興の名手同士共演を重ねた佐山雅弘追悼の、バッハのスタイルを模した自作も演奏される。ルッツにしか取り上げられず、今年のミューザでしか経験できない意味のあるプログラムを、ぜひ。

※追記。これはちょっと、どこまでもミューザだから起こり得た素敵なサプライズ、いやもはやミラクル。一連のツイートをぜひご一読ください。