2019年3月12日火曜日

その一:ショスタコーヴィチを通して時代を見てみよう

(承前)いろいろと難のある本として知られた「ショスタコーヴィチの証言」に、こんな記述がある。戦時中のレニングラードがどれだけの犠牲を払ったか、その犠牲に自分がどう向き合うかという話からの流れである。以下引用。

それから戦争がやってきて、悲しみは人々の共有物となった。わたしたちは悲しみについて語り、人目をはばからずに泣き、死んでいった人々を偲んで泣くこともできるようになった。人々は涙を恐れるのをやめた。やがて、このことにも慣れた。これに慣れるためには、まる四年間という時間があった。それだからこそ、戦争が終わり、突然、このようなすべてのことに終止符が打たれたときには、いっそうつらくなった。そのとき、わたしは発表を期待せずに一連の大きな作品を書き続けたが、それらの作品は、この机の抽斗のなかに、かなり長いことしまいこまれたままだった。(中略)戦前、完全に抑圧されていた精神生活が活気を取り戻した。多くの人々は、第五交響曲のあとにわたしが復活したと考えているようである。そうではなく、わたしは復活したのは第七交響曲のあとだった。いよいよ、人々に語りかけることができるようになった。まだ困難ではあったが、とくかく以前よりはいくぶん楽に呼吸できるようになった。戦争の歳月が芸術にとって実りあるものだったと私が考えた理由はこれである。これはどこにでもある状況ではなく、ほかの国なら、おそらく戦争は芸術を妨げるだろう。しかしロシアにおいては、悲劇的な理由から、とにかく芸術の開花が見られたのである。(p.244~245 引用終わり)

このコメントがショスタコーヴィチ本人のものかどうかはここでは問うまい。だがこうした認識と、戦時のソヴィエトの交響曲群を思い出してみればある程度までは妥当できるのではないか。その時期の作品として思い起こされるのは、ショスタコーヴィチの第七番から第九番まで、プロコフィエフの第五番、そしてハチャトゥリアンの第二番。…ショスタコーヴィチの第九番はまあ、いろいろと扱いが難しいわけだけれど。
芸術に楽観を要求してくる社会主義リアリズムの枷が緩んで、「悲劇を悲劇として描けた」一時代としての大祖国戦争。その悲劇の重さについては、今年の正月に放送された「玉木宏 音楽サスペンス紀行」が存分に示してくれていたのだが、その話はまたいずれ。そんな時代は、ジダーノフ批判によって終わってしまうことになるのだが、その前に生まれた重要な作品としてここではプロコフィエフの交響曲第六番、そしてハチャトゥリアンの交響曲第三番(発表当時は「交響詩曲」)をあげたい。その作曲年は、どちらも「批判」の前年、1947年である。この二作は先ほど引用にあった「芸術の開花」の時代、最後の可能性の開花だった、のではないだろうか?私はそんなふうに見ている。

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ソヴィエトの文化の流れを見るなら、音楽ではショスタコーヴィチを追うのがわかりやすい。彼がソヴィエトでは公的な性格を持たされた交響曲を多作してくれたおかげで、その時どきの文化のあり方が見えてくるように思えるのだ。さすがに全15作を追うのは回り道にしてもやりすぎだからいくつかの作品についての言及にはなるのだが、それでも革命記念年をたどればかなりのことがわかる、気がする。1917年にはまだ小学生相当の彼が何か作品を残しているわけもないけれど、1927年以降は革命40年まで興味深い作品を残している。以下簡単にまとめてみよう。()内は私の評価。

1927年・革命10年 交響曲第二番「十月革命に捧げる」(革命賛美の歌詞による合唱付きだけど、かなりデタラメな曲)
1937年・革命20年 交響曲第五番(プラウダ批判からの起死回生の作)
1947年・革命30年(1947年は交響曲なし、公的には映画音楽やカンタータの作曲があるのみ)
1957年・革命40年 交響曲第一一番「1905年」(おそらく、プロパガンダを強制された中で達成された最良の作)

革命から10年、この頃にはロシア・アヴァンギャルドも終わっていない。若きショスタコーヴィチはその最後の才能として、10代のうちから活躍を始めた。しかしその後、「文化革命」と言われる運動が起こり(RAPMによる、前衛否定の運動。後の「大革命」や下放、クメール・ルージュの行動を思い出させられる)、その決定打となるのが「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対する「プラウダ批判」(1936年)だ。ショスタコーヴィチはリハーサルまで行った交響曲第四番の初演を回避するところまで追い詰められ※、そこで発表されたのがあの交響曲第五番である。よくぞ生き延びた。
そしていま問題にしている1947年、革命30年の年には、交響曲第九番のせいもあって謹慎気味だからなのか、ショスタコーヴィチは交響曲を発表していない。いやジダーノフ批判どころか、1953年にスターリンが亡くなるまで彼は交響曲を発表しない(第一〇番は同年発表)。上で引用した「この机の抽斗のなかに」しまいこんでいたこの年の作品には、彼の代表作の一つ、ヴァイオリン協奏曲第一番がある。「ラヨーク」はたしかに彼の二重言語性を代表するものではある、だが交響曲第一〇番との性格的近似を考えても重要な作品はこちらだろう。また、いまの本筋(であるはず)のハチャトゥリアンの「交響詩曲」との関係でいえば、「祝典序曲」がトランペットの活躍する作品として友人同士の触発関係を想定させるかもしれない。ただし、祝典序曲の成立には諸説あります(おい)。
なおこの論には、革命40年の交響曲第一一番はあまり重要ではないので(すみません)、こちらの演奏にすべてを語ってもらおうと思う。1957年には、まだショスタコーヴィチは内的欲求と党の要求とのジレンマと戦いながら作曲していた、ということを指摘するのみである。



※交響曲第四番を、「プラウダ批判」の只中に発表していたらショスタコーヴィチの命も危険だったろうことは、今度の東京交響楽団 川崎定期演奏会で、実演で聴いてもらえれば理解できるだろうと思う。なお、私は「証言」の中で展開されている「シュティードリーがやる気なかったから」撤回した説は採らない。フリッツ・シュティードリーはマーラーのアシスタントとしてのキャリアを始め、後年のメトロポリタン・オペラでの仕事は録音も残っている彼が、そんなに無能だったのだろうか?彼の指揮による演奏はいくつか残されているので、興味のある方は聴いてみてほしい。これはとても長いですが。



さて、後に交響曲第三番となる「交響詩曲」が発表された1947年のソヴィエトの文化状況、いくらかでも見えてきただろうか?話を広げるだけ広げるならば、「”戦争交響曲”あれこれ」であったり、「ジダーノフ批判と赤狩りとの同時代性」などもなかなか興味深いものだ。前者はたとえばコープランドの交響曲第三番、またオネゲルの交響曲第二、第三番を挙げてみるとなにか見えてくるように思う。偶然なのか、オネゲルの第三番「典礼風」は1947年の作である。また後者は、後にジョセフ・マッカーシーの名で表されるようになる一連の運動となるわけで、「逆の性格をした双子の闘い」としての冷戦のひとつの側面を象徴しているように思える。

…とはいえこれはさすがに手を広げすぎ、本筋から離れ過ぎなのでとりあえずはここまで。次回はハチャトゥリアンと、「交響詩曲」という作品そのものの話をします。(続きへ)

その〇:まずは余談から

(承前)…と書いておきながら、まず書くのはハチャトゥリアンではなくショスタコーヴィチの話だったりする。それも、とある本の話から。余談ではありますが、お時間のある方はお付き合いくださいな。この回はスキップしても読めるように構成してますので「そんなの知ってるわ」と思われた方は次回へおすすみあそばせ。

ハチャトゥリアンの作品について考える中で必要に迫られて、もう本当に何年ぶりかわからない再読をしているんですよ「ショスタコーヴィチの証言」。編者はニコライ・ヴォルコフ、…そういう説明はいいですかね。この本、昔の読後の印象などほとんど忘れた今になって(おい)読み直せば、どうしたって看過できないヤバさがいろいろとあることに気付かさせられるのです。


率直に結論を書きます。本書を読めば、誰もがDSCHのことをこういう人としてイメージするだろう。京極堂もびっくりの博覧強記にして弁舌巧みすぎる作曲家。政治の裏にも、自分は属していないグループの動向にも精通し、それらを数時間のインタヴューの中で立て板に水とばかりに腹蔵なくヴォルコフに話してくれる、超絶話したがりの物知りさん。

…さすがにそれは、ねえ。作曲者に近い人ほど厳しく批判した、というのはまずそういうところが問題だったんじゃないかなあ、というのが、物書きの端っこの方に身を置くようになった私の一番の感想だ。どういうことか、といいますと。
端くれくらいの物書きさんとして思うに、これは「インタヴューで聴けた話(分量不明)」と「自分が整理して示した情報(かなりの量と推測される)」をショスタコーヴィチとヴォルコフ、つまり別の話者による文章として明示して分けずに、すべての情報と見解をショスタコーヴィチのものとしようと欲をかいた本だ、と考えるのだ。その結果、どうにも隠しようのない大穴として、上記のような珍妙なDSCH像ができあがってしまった。そう考えるのです。

読み進めるうちに、「もしかするとここは本人の言葉では」と思える部分と「誰だいこのジャーナリストさん」と言うしかない部分が交錯する、なんともおかしな文章であることに気がつくのだ。ヴォルコフが何度かのインタヴューはしていたということから考えれば、「本当なら文字起こしから編集段階で整理すべきところを、自分の発言も推測も印象も何もかもを作曲家が話した本当の発言(それがどれくらいの量かはわからない)として分離できないように収められた本」なんですよこれ。インタヴューを一人語りに構成したものとも違う、かなりたちの悪い作文で、これはよく受け取っても「事実をもとにしたフィクション」だ。それでは「偽書」だと言うしかないでしょ、「ショスタコーヴィチの証言」を名乗っているのだから。編者はきっと言うのだろう、「私はここまで話してもらえるほどに信頼を得ていたんです」と。だがそれを、どう信じればいいのか。彼に親しい人たちほどこの本をまともな「証言」とみなしていないというのに。DSCHのサインがある?文字起こしの段階だったのでは?なんて疑われることがないと、本気で思ったんですかねこの人。

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実はとあるフレーズの出典がこの本だったと思い出して、必要にかられて再読したのに過ぎない。私は学問を、学者を、その仕事を信用するので、本書を「偽書」とみなすようになって久しいので、せいぜいが「鉄のカーテンの向こうの雰囲気を教えてくれるかもしれない本」を積極的に再読することはない。ところどころにDSCHの言葉かもしれないフレーズがあるのがなんとも面倒ではあるが、それでもそう割り切るしかない、そういう本だ。

ただ。こうも思う。先ほども書いたが「鉄のカーテン」の向こうは知りようがなかった時期が、長く続いた。作品と公式なステートメントだけが届くうち、ソヴィエトが生んだ若き天才は大戦時に世界の英雄となり、しかしその後東側の看板に成り下がり、老いて枯れて死んだ。そんな彼への見方を覆してくれるこの本は、‘’使えた‘’だろうな、と。
東側の体制批判をしながらショスタコーヴィチの作品のうち評価できるものを是々非々で拾うには、本書はどこまでも使えた。彼の真意はこれなのだ、「だから」DSCHは評価されるべき。…なんとも、善意から出たのだとしても非常にたちの悪いねじれた発想なのだが、政治を芸術(ここはスポーツとか科学とか、様々に置換可能)を切り分けて考えるためについ導入してしまいがちな方便である。

ともあれ、本書を”使う”ことによってDSCHはソヴィエト共産党の看板から、また世界のある一時代を代表する作曲家になった。その功は認めてもいい、でもこれは偽書、またはフィクションだ。共産圏では地下出版でしか言えなかった”真実”もあった、本書もそのたぐいではないのか?本書には、お前も認めるとおり作曲家自身の言葉が含まれているように見えるし、ソヴィエト社会のある面を描き出しているのではないか?
先ほど書いた方便としての効能や、こんな疑問も持たれるだろうことがわかっていて、それでも偽書、またはフィクションだと言わせてもらおう。時代を、その空気を描く作品がなにかのまがい物でなかったらよかったのに、と私は思うのだ。一流のフィクションがショスタコーヴィチの堕ちたイメージを読み返させたのなら、きちんとした手続きを踏んだ書物が”真実”のショスタコーヴィチ像を示してくれたのなら、どんなによかったか。

今さら嘆いても仕方のないことではある。大衆小説が時代の空気を伝えることもあるのだから、私もここで”方便”として本書を少しだけ使おうと思う。ということで、余談はおしまい。(続きへ)

2019年3月10日日曜日

三者三様 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第145回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第145回

指揮:秋山和慶
ピアノ:福原彰美、ミロスラフ・クルティシェフ、奥井紫麻
管弦楽:東京交響楽団

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲
  第三番 変ホ長調
  第二番 ト長調 Op.44
  第一番 変ロ短調 Op.23

今年度の名曲全集は今回で最終回。その最終回から、ミューザ川崎シンフォニーホールの休館に伴いカルッツかわさきでの公演となる(新年度のはじめ二回もここで、また東響の川崎定期3月公演もここ)。

ギリで着いても駅から半泣きで走れば割となんとかなるミューザと違って(おい)、徒歩では相当の時間がかかると見られるカルッツかわさきまでの道については、実は前回の名曲全集のあとにチェックしていた。…もっとも、そのときは教育文化会館の新しい名前だとはじめ思い込んでいて、たどり着いてみて(え?新しく作ったと聞いていたけど…日比谷公会堂かな?)なんて思っていたのだけれど。

この日は早めに着くために川崎駅には余裕を持って到着、寄り道もしつつ徒歩で20分見れば成人男性の歩調なら余裕だと思います。二階から入場ということで、道を挟んで向かい側を眺めればそこは川崎競輪、「ああこれが以前の川崎のイメージだよなあ」なんて思いながら信号の地名を見れば。なんてことだ、ここは川崎球場だったのか!


そういう話はここまで。
この日の演奏会は、チャイコフスキーが残した三つのピアノ協奏曲を、曲ごとに異なるソリストを迎えて演奏するという豪華企画。…とは言っても、チャイコフスキーの第二、第三を実演で聴くのは私は初めてだし、ソリストは若い世代の面々。第一番を弾く奥井紫麻に至ってはまだ中学生の年頃である。そんな若者たちを迎えて、東京交響楽団と秋山和慶はどんな音楽を聴かせてくれるのか。クラシックファンには来慣れない会場のサウンドともども、そのあたりが注目だな、と予想して、ちょっと暑くすら感じる春の日に、えっちらおっちら行ったのさ。では演奏の話に。この日は一階で聴いています、というのはもしかするとポイントかもしれません。

最初に演奏された第三番は、作曲者最晩年の作。協奏曲だけれど単一楽章で構成されているのは、破棄された交響曲からの転用だから、なのだそうで。なるほど、冒頭の中低音楽器によるアンサンブルは協奏曲にしては癖がありすぎるし、音楽の展開も少々トリッキィである。
そんな曲にも、会場のサウンドにもみんなが慣れていない中での演奏は、管とティンパニが強く抜けてくる会場では厳しかったように思う。ピアニストの力演も、オーケストラに完全にマスクされてしまう瞬間が多くあったのは惜しい。この作品の知られざる魅力を発見した、と書けたらいいのだけれど、個人の感想としては(演奏されないのは理由あるんだね)と思わなくもない。
ミューザ川崎シンフォニーホールと比べても仕方がないのだが、ミューザのほとんどの客席がステージより上方にあることの意味を今さら理解させられた気がする。直接音が客席に届くのは、ジャンルによってはいい効果もありそうに思うけれどオーケストラではどうなのか、と感じたところもあった。


続いて演奏された第二番、これは完全にピアニストが積極的に音楽を導いた結果の好演となった。残響が多くない会場で(クロークも大荷物用に制限されていたので、客席には防寒具が聴衆の数だけ入ったことになる)、それでも力のある音楽を聴かせようとよく鳴らしてアンサンブルをリードするクルティシェフ、それにきっちりつける指揮者、特に室内楽的な場面も美しく決めるオーケストラ。場内の熱狂は理解もできる見事な出来だったが、あるお一人の方にはペットボトルを渡しながら「まずは君が落ち着け」と言ってあげたい。この日演奏されたのは原典版ということなのだが、こういう演奏を聴かされると改稿版も聴きたくなる。また機会があればこの曲にもう少し近づいてみたいものだ。

最後に第一番、これはもう誰もがよく知るあの曲、である。そして秋山和慶とこの作品といえば、長く続けられた中村紘子とのニューイヤーコンサートでも何度となく取り上げた曲であるし、そこで共演し続けた東響はそれ以外のコンサートでも数多く演奏してきただろう作品だ(各地でのフレッシュ名曲コンサートの資料とか、怖いから探したくない)。では、そこに登場した14歳は熟達のオーケストラにどんな音楽で応えたか。指揮者とオーケストラが作り上げた蓄積にただ乗るのではなく、オーケストラとの対話を重視するスタイルで、派手なコンサートピースとしてではない、親密なアンサンブルとしてこの曲を示した。
私はおじさんなので(若いんだからもっと暴れてもいいんだよ)と思わなくもないけれど(おい)、これが今の彼女の個性なのだろう。室内楽のように互いに聴きあうソリストとオーケストラが紡ぐ音楽は、よく知る作品を柔らかい響きで、新鮮に聴かせてくれた。奥井紫麻さんの前途に幸あれ。

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さて、ミューザ川崎シンフォニーホールの休館中に、カルッツかわさきで行われる公演としては以下のものが予定されている。

・東京交響楽団 川崎定期演奏会 第69回
・第8回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ
・ホールアドバイザー秋山和慶&佐山雅弘企画 オーケストラで楽しむ映画音楽Ⅹ
・ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回
・ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第147回


短期間ではあるけれど、このホールでも存分に演奏会を楽しめるように一回ごとに学びたいと考える次第である。皆さまもまずは、この会場をお試しあれ。ではまた。

かってに予告編:東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会&「響きの森クラシックシリーズ」

突然ですが、コンサートのご案内です。

●東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会&「響きの森クラシックシリーズ」

ロシアのマエストロが、得意のロシア・ソヴィエト音楽を東京フィルと演奏する。素直に歓迎したい、この顔合わせならではのプログラミングではあるけれど、そこで取り上げられるのがチャイコフスキーとハチャトゥリアンであること、そして何よりマエストロがミハイル・プレトニョフであることが、私たちを少し考えさせる。前半にチャイコフスキー、後半にハチャトゥリアンと見れば「ロシアとソヴィエト」「作風の違いでコントラストが」などなど、ほとんど自動的に思考が動き始めるだろう。だがここに、定期演奏会とは別のシリーズ、「響きの森クラシックシリーズ」で演奏されるグラズノフ(ヴァイオリン協奏曲)を入れるとどうだろう?


グラズノフの協奏曲、もっと演奏されてもいいと思いますね。

コンサートにバレエにオペラに、映画にテレビにCMにと誰もがその音楽を耳にしてきたチャイコフスキー(1840-93)、独特の民族的なサウンドと強烈なリズムで体制の壁を超えて広く人々を魅了してきたハチャトゥリアン(1903-78)、この二人の間にショスタコーヴィチの師としても知られるアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)を置くことで見えてくるのは、「三世代のロシア・ソヴィエトが誇るメロディメイカー」揃い踏み、ではないだろうか?

一括りに出身地域でまとめてしまったが、旋律美が特徴とは言ってももちろん三人は生きた時代も違えばその個性も明確に異なる。ロシアの伝統を受け継ぎながらも、生前は「西欧派」などと言われてしまったピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。「ロシア五人組」の期待を受けた天才として登場し、しかし革命の時代を生きて最期はパリで客死したアレクサンドル・グラズノフ。晩成ながらも、出身地の特色を活かした音楽が多様な形で今も受容され続けているアラム・ハチャトゥリアン。生きた時代を少しだけ重ねたこの三人が伝えてきたロシア音楽のリレーを感じさせ、またそれぞれの個性を際立たせてくれるだろうプレトニョフの手腕に、それに存分に応えるだろう東京フィルと独奏のユーチン・ツェンに期待しよう。


チャイコフスキー国際コンクールのウィナーズコンサートから。これから三年あまり、その成長ぶりにも注目だ。

・3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン
3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール
3月21日(木・祝)15:00開演 Bunkamura オーチャードホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

・響きの森クラシック・シリーズ Vol. 67
3月23日(土)15:00開演 文京シビックホール

チャイコフスキー:スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op.82
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 「交響詩曲」

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…という感じで読み解くのが妥当なポイントだろうし、仮に何か頼まれたら私だってこう書く。たぶん。あとまだ文字数があればあれかな、「スパルタクス」と「2001年宇宙の旅」くらい触れるかな。文脈的に置きにくいか。
ああそうだ、そういう穏当な紹介で十分、と判断するのが普通だ、とわかっているんだ。メインに置かれた曲があの作品でなければ…

あの何から何まで過剰な作品が、11日のあいだに四度も演奏されるこの機会のために、私も少し過剰に書き残しておこうと思う。そう、次回から、アラム・ハチャトゥリアンが革命30周年の記念曲として書き残し、後に交響曲第三番としたあの作品について少し書く。いやいっぱい書く。
あくまでブログ用なので、どこかの作曲家さんを見習って自由に書くので、粗についてはご容赦いただきたい。ではまた。

(追記)完結しましたので以下にリンクを。最後の2つだけ読めば、いちおうはこの作品について読めるようにしました。その〇は読まなくても大丈夫です(おい)。

>その〇
>その一
>その二
>その三

(さらに追記)
おまけも書きました。興味のある方はご覧くださいませ。


これが、”あの何から何まで過剰な曲”です。

2019年3月8日金曜日

「ラトルはロンドンの人になった」と理解した ~又は「BS8K、体験してみた!」

これまた旧聞で申し訳ない。昨年の12月の話。

NHKが放送を開始したBS8K、なんとその音声は22.2chだという。故あって見に行ったNHKスタジオパークの中にそれを体験できる部屋があるのだけれど、これが部屋中随所にスピーカーを仕込んであるという状態で、自分の家がそうなる未来が全く見えない(笑)という悩ましい一品でありまして。
ああこれは無理だわ、と思っていたところで知ったイヴェントがこちら。

●4K・8Kスーパーハイビジョンパーク

渋谷のストリームなるビルで開催された、入場無料の体験イヴェントですね。440インチの画面で8Kが体験できます、あと現在開発中の技術が展示されます、という感じのもの。まあなんですか、そこでアイドルさんやポピュラーのライヴしかやらないなら興味も持たないところなのですが、BS8Kではひそかにこんな番組を放送しているんですよ。それをちゃんとしたスペックで見てみたいなあ聴いてみたいなあ、と思っていた私には見逃せないイヴェントでもありまして、短い会期中でこの番組が見られる日は日曜日のみ、しかし幸いにもそれはサー・サイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最後のシーズンの演奏会であると来た。それはねえ、行くしかないんですよ、私としては。

●ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 演奏会

指揮:サー・サイモン・ラトル
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

イェルク・ヴィトマン:火山の踊り
ヴィトルド・ルトスワフスキ:交響曲第三番
ブラームス:交響曲第一番 ハ短調 Op.68

はじめはね、割と好きなブルックナーの交響曲第九番の四楽章版を見せてくれよ、って思わなくもなかったんです。いや今でも見たいし聴きたいけど!それでも曲順に現代から19世紀へと遡るこのプログラム、「ああ、らしいなあ」と思って楽しみにしていましたしある程度以上は満足できたんです。大スクリーン(というかモニターですね)で見るコンサートの精細な映像は、時折違和感があっても(後述)最近目が悪くなってきた私がライヴで見る以上の情報量であるし(けっこう哀しい)、さすがに音声はライヴで聴いたほうがいいけれど(これも後述)迫力ある音楽を楽しめた、と思う。だがしかし、である。やはりこれは彼らの最後のシーズンで、それはいろいろな意味で限界を感じさせるものだった、とは言わなければなるまい。

前半は文句なしに楽しめた。ヴィトマンの新作は、ムーディーな入退場曲で挟まれた、複雑だけれど聴きやすい現代の作品だ。実演で体験してみたく思う、できたらミューザ川崎シンフォニーホールで。
続くルトスワフスキは、近現代以降の作品が視覚的にも楽しめる作品であることを存分に示すもの(チャンス・オペレーションを導入した作品は音だけで聴いても駄目ですね、とも言える)。ラトルの指揮は冴えるし、ベルリン・フィルの全力はよく知らない曲をも最良の形で示してくれるから十分以上に演奏が楽しめた。


もしプログラムがここまでなら私は大満足で帰路につけたと思う。高い機能と表現力を持つオーケストラが、ここまで新しい音楽に積極的に取り組むさまを見られるのは素敵なことだ、それが大好きなラトルの指揮なのだからなおのこと。問題は後半のブラームスだ。レコーディングもあって、来日公演でも演奏されたこの曲で、演奏が悪いなんてことはさすがにない。うん、悪くない。でもこの人たちの演奏が「悪くない」くらいで良いわけがないでしょうが!音自体の説得力が、表現力があればオーケストラ演奏として十全たり得るか?否、なのだ。

何がダメだったか、といえばつまるところコミュニケーションのなさ、につきる。最高のプレイヤーたちはそのプライドゆえなのか伝統を重んじる故なのか、ラトルが示したテンポを完全に無視する場面が何度かあった。こんな場面はさすがに、見たくはなかった。最終年度にロンドンとのかけもちになることで懸念して、つまり予想できていたことではあったけれど。
オーケストラにとってブラームス演奏の伝統がそこまで大事であることは理解する、しかしそれでも、ここまでのディスコミュニケーションを演奏会で、映像で(それも鮮明に!)示されるのはなんとも辛い。ラトルは着任からずっとオーケストラを尊重しながら自分の音楽を実現するため全力を尽くしたと思うが、その微妙な距離感は最終年度になっても変わらなかった。ご祝儀というか餞別になるようなコンサートすら作らないのがベルリンのプライドからなのか、ラトルへの不同意の表明かはわからないけれど、なんとも重たい気分になる演奏でコンサートは終わった。嗚呼、ラトルのベルリン時代は終わったのだ、そう、したたかに理解させられた思いである。これが録音だけなら何も感じず、(ちょっとアンサンブルゆるめだな)くらいで終わっていたかもしれないことを思うと、なんとも複雑な気持ちになる。まあ、(信頼できない語り手による証言ではあるが)クリムトの真似をしてこう言っておくしかないのだろう、「終わった!」と。

さて、8Kの映像はその大画面と精細さで視聴者を没入させる、というのが売りのようだけれど、コンサート映像を楽しむには少々諸刃にも思えた。集中してコンサートを体験しているとき、聴き手は耳も目もフルに駆使して楽しんでいる、だから聴き手は音に反応して指揮者を、奏者を見る。また聴き手が知っている曲ならば、これから来る聴かせどころを演奏者がどう演奏するか期待を込めて先回りして見ていたりするものだ。だが収録された映像では、カメラマンが収めたもの、ディレクターが示そうとしたポイントが映されるから、そこで視聴者はライヴならではの見方はできない。画面に没入できるからこそ、そうした「コンサートでは自然にできること」とのズレが気にかかるところがあった。
そして22.2chの音声だが、これは当然だけれど正面からの音が強いものでサラウンド性がよくわからない(おい)。いや拍手の際の囲まれ感はかなりのものでしたけどね。だが一番の問題は、収録の段階でより緻密な音が録れなかったものか、ということだ。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を何度か体験した印象だけれど、このオーケストラの音はどれだけのフォルテッシモでも細部が潰れない驚異のアンサンブルが魅力だと私は考えている。それは作品がシュトラウスでもマーラーでも、ブラームスでもそうだった。だがこの日聴けた音は、残念ながらフォルテッシモで音が平面的になってしまい、直接音が強いトランペットやティンパニに支配されてしまうものだった。これがフィルハーモニーの音なんですよ、と言われたらそれまでではあるけれど、私がミューザとサントリーで聴けたのはもっといい音だった。
ただ、これがテクノロジーとしての22.2chの問題か、録音の問題か会場のハードウェアの問題かは即断できないのでここまで。映像、音声のどちらも高い能力、そして活用の可能性は感じたけれど、それ故の悩ましさも生じるものだというのが一度経験しての8Kの感想である。

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さて、こんなふうにラトルのベルリン時代の総括をした私は、その足でついタワーレコードに向かってしまい、そこでこんなものを買ってしまった。安かったし。


この日は「レコードアカデミー賞おめでとう」キャンペーンはまだ始まっていなくて、しかし以前のセール価格で置かれていたこの一枚。いや三枚組だけど。
ベルリン・フィルと同様に、自身のレーベルでのソフト販売やネット配信に力を入れるロンドン響との仕事は、すでにYouTubeやCD、DVD・Blu-rayで披露されているし、なにより昨年来日してますわね。貧民だから行けませんでしたけど。そのコンサートの映像を見ていたから、余計にこの日見た指揮者とオーケストラとのズレは衝撃的に厳しいものに感じられたのですね。そのへんの話は、あとで録画をチェックしてから少し書きます。

ともあれ。これで私も一つの踏ん切りがつけられまして、ようやくラトルのロンドン響時代を始められました。そんなわけでこの記事のタイトルがこうなったわけでした。どんとはらい。

表現力の限界に挑み、勝利した ~東京フィルハーモニー交響楽団 第914回サントリー定期シリーズ

いささか旧聞にしてしまった遅筆を恥じつつ、早速本題に入ります。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第914回サントリー定期シリーズ

指揮:アンドレア・バッティストーニ
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

デュカス:交響詩『魔法使いの弟子』
ザンドナーイ:『白雪姫』
リムスキー=コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』

最初に演奏された「魔法使いの弟子」だが、もしかすると、2019年最初の定期演奏会、その最初の曲ということでさすがのバッティと東京フィルにも手探りの部分があったかもしれない。序盤、管楽器のソロがうまく届いてこないあたりにどうにも引っかかる(このホールにときどき感じることではあるので、問題は会場の音響面であるようにも思う)。
そんな引っかかりがあったとはいえ、音楽が進むに連れてじわじわと魔法が暴走(ファンタジー系の深夜アニメみたいな言い方)していくさまは、某ネズミさんよりもどこかチャップリンが「モダン・タイムズ」で描いたテクノフォビアにも届く射程があるように思えてくる(ゲーテにはその視点、視野があると思う)。バッティストーニが採用した「速めのテンポを指示のないところでは緩めない」アプローチが、そんな感触をもたらしたのかもしれない。また、そのインテンポでの進行を優先させた演奏は高まり続ける緊張感を生むのみならず、リズムの愉しさを存分に示すものだ。その語りに「この曲はたしかに交響的ではあるけれど、何よりスケルツォなんですよ」と言われたように思う。そして彼らしい美しいピアノの透明感には1897年の作品らしい、繊細なサウンドの妙を堪能できた。
ソリストでは、やはり大活躍するファゴットセクションを挙げるべきだろうけれど、バッティストーニが起立させたグロッケンシュピールの活躍にも大きい拍手を贈りたい。昨年の私の”復帰戦”となったヴィオッティとの演奏会で、ドビュッシーで無双されていたのと同じ方であったろうか(プレイヤー各位のお名前チェックに無頓着ですみません。なお、無双は大げさに言っているのではありません)。

さて続いては、会場のほとんどの人が初めて聴いたザンドナーイの「白雪姫」。この曲、いまやどんな曲でも見つけられそうに思える某チューブでさえ断片すら見つけられないという、今どき珍しい「秘曲」なのだ。こうした作品を取り上げる際のバッティストーニの真摯なアプローチには、いつも感心させられる。自身作曲をするからこその自然なリスペクトなのかもしれないが、過去にレスピーギ、ロータ、そしてザンドナーイの作品に示してきた献身は、この日も存分に発揮された。
さてそんな秘曲ザンドナーイの「白雪姫(Biancaneve)」は、松本學氏の解説によれば、1939年に「管弦楽のためのあるお伽噺の印象」として作曲されたというバレエ音楽にもとづいた、五曲からなる組曲だ。冒頭第一曲はクラリネットが白雪姫の歌をライトモティーフ的に提示したあとはストーリーを追えるように作られている。森で迷う白雪姫は小人たちの家にたどり着く、しかしリンゴで命を落とす姫を悼む鐘、そこに王子が駆けつけて大団円へ、とご存知のストーリーが展開されるわけだ。だが某1937年制作のアニメ映画(というかそのチャーチル、ハーライン、スミスによる音楽)とは違い、ノンシュガーで甘くない音楽なので聴いて感じる印象はかなり違い、バレエ音楽として作られたこの作品は、大人向けのファンタジーだった。
演奏は、エピソードをそのまま描くスタイルで聴きやすい、プロコフィエフやマルティヌー、コダーイと同様のお話に寄り添った音楽を書いた作曲家が20世紀の半ばのイタリアにもいたと示したと言えるだろう。問題は唯ひとつ、この経験を深める術がないことである。もしかして、もう何作か取り上げたあとに録音するのだろうか、バッティストーニ。そんな日が来ることを期待させる演奏が「ジュリエッタとロメオ」に続いて行われたことを素直に喜びたい。

さてメインのリムスキー=コルサコフの代表作。スコアをざっと読めば、「二管編成のオーケストラでできること、全部やってみた!」(何チューバーだ)みたいな曲であることがすぐにわかる。それを読み込んだバッティストーニと東京フィルは、その要求をこなした上で「俺たちならここまでできますよ!」と、ある種のオーケストラのための協奏曲として演奏してくれた。もちろん、このコンビネーションがドラマ的な側面をないがしろにするわけもなく…ということで、演奏の細部まで踏み込んで書く。

この日は16型の大編成だったのだけれど、個人的には(二管編成には大きすぎないかな…)なんて思っていたのだ。だがしかし、休憩明けてメンバーが入場してきた最後に登場したテューバが、ザンドナーイのそれとは違う大きめの楽器(B♭管かC管)だったところで(ああそういうことですか)と心の中で膝を打った。シャハリヤール王の威圧的な主題を大きく示すとか、あそこであれで、ここで…なんて思いを巡らす前に巨大な音塊がホールを満たす。そう、そういうことですよ。
第一楽章はテンポの揺らし方や明確に特徴的な強弱があっても、それでもきっちりした「普通に良い演奏」だったと思う。それが変わったのは、アタッカで始められた第二楽章の、ヴァイオリンとハープの対話が終わってファゴットが歌い始めたときのことだった。いわゆる楽譜どおりの、譜割を大事にした演奏とは対極的な、伸縮自在のソロが彼女から始まったのだ。ソリストをじっと見据えて、小さく指示を出すバッティストーニはまるでオケピットの中で歌手に指示を出す時のよう、それに応えたソリストはやりすぎを恐れないというより「表現しないで埋没すること」を恐れてでもいるかのように、登場するソロの面々がそれぞれグイグイと前に出てくる。そんな積極的な表現が聴かれた第二楽章以降、この作品のドラマ性がどんどんと強調されて、私たちも王と同じようにシェエラザードの語りにどんどんと引き込まれていくことになるのだ。嗚呼各楽器のソリストたちは姫の声色だったのか、なんて思わされながら聴けばこの曲の繰り返しの多さも気にならない、どころか納得なのである。
音楽的に作曲者が示した多彩なサウンド的要求をこなした上でドラマを示す、そんな多面的なアプローチが成功していたからだろう、この日の演奏はこの曲をよーく知っている、何度も聴いた人にさえ何度となく新鮮に響いたはずだ。ちょっとした強弱やバランス、テンポの推移やオーケストレーションの明示、などなど…だが、先ほども書いたようにこれらは楽譜から読み出されたものだ。私はこういうアプローチを”楽譜通り”と呼ぶことに抵抗を感じない。この、オーケストラが持つ可能性を存分に示したこの演奏は、音によるドラマでありながら”オーケストラのための協奏曲”として響いた。
この作品に関しては、私は長年に渡ってキリル・コンドラシンがコンセルトヘボウ管を指揮した、引き締まった直線的な演奏を好んできたが、それとはまったく違う方向のこの日の演奏もまたひとつの”正解”として受け取った。幸いなことである。
*なお、一部に楽譜の改変があったことは、さすがに「楽譜通り」とは言いませんよ、ええ。一楽章のトロンボーン&テューバのクレッシェンド、三楽章終わりのオクターヴ上げなどなど。演奏の伝統の中でそういうアプローチが果たしてきた意味を軽視するものではありませんが。関係あるようなないような話は後述。

こと演奏そのものについて書き残すべきは、やはりソリスト各位の活躍ということになるだろう。とはいえ”合奏協奏曲”であってみれば、ほとんどの首席奏者にあらためて喝采を送らなければならなくなるのだが、見事な演奏への感謝として順にあげていこう。
もちろん、はじめに挙げるべきは三浦彰宏コンサートマスターである。シェエラザード姫の語りの地の文であり、暴虐で知られる王を籠絡する手練手管であり、なによりヴァイオリンの技工の粋を集めた長大なソロの連続であるこの作品で求められる役割を、期待以上の水準で音にしてくれた。そして「魔法使いの弟子」でも活躍した木管セクションの即興スレスレにまで攻めたソロの連続は、この作品を”おなじみのアレ”扱いさせない、強い表現力と集中力があった。…フルートのソロが抑え気味だったように思えるのは、上述した語り手である姫の声色が収まるところがソプラノの、フルートとヴァイオリンの音域だからなんだと理解していますよ。奔放なまでに攻めまくる若手たちの演奏を受けてまとめる意図もあったかもしれませんけど(笑)。
セカンド・トロンボーンが活躍することで知られるこの曲で、そのソロに合いの手を入れた場面ほかでのトランペットの技術的精度には心底感心した。この曲ではあまり言及されないポイントかもしれないが、この曲の速いタンギング要求はなかなかのもので(スネアドラムがトランペットセクションの横にいたのは偶然ではない)、それをセクションで合わせるのは数多くの録音でも失敗しているのである。この日の演奏ではそんなことはなく、安心して楽しませていただけた。
管弦が標準的な二管編成なのだが、打楽器は多彩に用いられている。前二曲でも活躍した各位の仕事にも拍手を、そしてヴァイオリンに寄り添ったハープに最後に拍手を。ここでは挙げられなかった各位も含めて、アンサンブルのすべての皆様の力で、合奏協奏曲としての「シェエラザード」が成立したのだと感じている。

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そしてこれは雑感に類いする話。
バッティストーニの演奏からは、その作品が後世に与えた影響が聴こえてくる瞬間があって、その作品だけに完結しない視野をもって演奏しているんだな、ということが感じられることが多い。以前聴いた「春の祭典」の絶妙なバランスからは、初めて「あっここはそのままブラスロックなのか」と思えた瞬間があったのはご記憶の方もいらっしゃるのではないか(いや、そう感じなかった方も多いとは思いますが)。
ザンドナーイの作品から同時代の作曲家たちを想起したこともそうだけれど、この日の「シェエラザード」もいくつもの(作曲当時の)未来へ与えた影響を感じて、実に興味深く思った次第だ。たとえば第三楽章からはラフマニノフの旋律美が(ポルタメント気味に弾かせたのは意図的だろう)、第四楽章からは「火の鳥」、「ペトルーシュカ」のストラヴィンスキーが聴こえる瞬間があった。海の描写はドビュッシーを思わせて、とリムスキー=コルサコフという、ロシアの巨人の存在感を今更に感じ取った次第である。作品の持つ可能性を、時代の相に置いて捉え直すバッティストーニの知性に拍手を贈りたいと思う私である。

さてそんな彼が編んだこのプログラム。配布されたパンフレットに掲載された松本氏の解説では”文学に基づく交響詩”として、音楽による物語プログラムという側面を強調していた。いや、その着眼が妥当だしまっとうなのですが、個人的には第三楽章の、現代では甘すぎるかもしれない旋律の歌わせ方に、「もしかして、ストコフスキーへのリスペクトが裏テーマなのでは?」なんて勘ぐってしまった。
ザンドナーイの作品について書いたとおり、バッティストーニはとても誠実に作品と向き合うのだが、その一方で20世紀の巨匠たちへのリスペクトも隠さないところがある(彼の著作参照。面白いですよ)。冒頭に置かれた「魔法使いの弟子」はもちろん映画「ファンタジア」を想起させるけれど、そこから導き出すべきは演奏を担当したストコフスキーの存在だったのでは?「シェエラザード」も彼の得意曲だったのだし……なーんて、あえて邪推してみました。もしこの勘ぐりに理があると思われた方、もはやパブリックドメインの彼の演奏を聴いて検証してみてくださいませ、ザンドナーイ作品以外はどこにでもありますから(自分でやりなさい)。おあとがよろしいようで。

2019年3月1日金曜日

これが私にはニューイヤーコンサート、でした ~モーツァルト・マチネ 第36回

壮絶な「レクイエム」から何時間が経ったのか、この日私はまたミューザ川崎シンフォニーホールにいた。…なぜか、ってそれは休館前にちゃんとこのホールで音楽を堪能したかったからですね、はい。
そんなわけで、このホールの名物企画のひとつ、「モーツァルト・マチネ」に行きました。実は初めて。…長いこと朝起きられない系男子だったもので。すみません。本当にごめんなさい。

●モーツァルト・マチネ 第36回

ピアノ:小菅優(弾き振り)
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲
  第八番 ハ長調 K. 246
  第二一番 ハ長調 K. 467

午前11時から演奏会、というのは率直に申し上げて想像を絶することなのだけれど(おい)、来場してみてこの日も水谷晃コンマスが登場すると知ったときの驚きたるや。昨日はあの巨大な編成をリードしてたじゃあありませんか。演奏者の会場入りはもっと早いのだろうことを考えると、なんというかどうしてそんなことが可能なのかな…いや、それはプロのプロたる所以なのでありましょう(答:私じゃないから、かな)。
気を取り直して。編成は対向配置の6型、ピアノは一般的な協奏曲配置ではなく弦セクションの中心に鼻を突き入れる格好、これは弾き振りのためのコミュニケーション重視型ですね。モダンピアノにあわせてティンパニもケトルドラムではなく現代の楽器(もしかするとペダルではなくハンドル式だったかも)、後半に登場したトランペット(ひそかにポイント)もナチュラル管ではなくロータリー。

前半の第八番は「リュッツォウ」なる愛称があるそうだけれど、私はこれまであまり聴いてこなかった作品。弦セクションにオーボエ、ホルンがそれぞれ二人入るだけの、如何にもなザルツブルク時代の編成とすぐに見て取れる。ここで聴かれるサウンドに、後半との対比が…って先走りはやめましょう。
より遊戯的な作風のこの曲では、奏者同士の対話が随所で活発に展開された。モーツァルトの場合、ザルツブルク時代でももうオーボエとヴァイオリンは別の動きをするように書かれていて、古典派以前の音楽とは明確に線が引かれていることがわかる。この演奏ではピアニスト(指揮)、コンサートマスター、そしてオーボイストの三人が全体の“対話”をリードする格好になった。

後半は第二一番。ウィーン時代に書かれた協奏曲は、フルート1、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット2にティンパニを加えた、古典派のほぼ完成形のオーケストラ。…それでも一本しか用いられないフルートに、「二本のフルートは」どうの、なんてモーツァルトの悪口を思い出してちょっと笑っているうちに演奏は始まる。
行進曲風に始められる第一音ですでにああ、「コジ・ファン・トゥッテ」や交響曲第四一番に近い時期の作品なんだなあ、と感じさせられる充実したサウンドで演奏は始まった(この二曲と調号同じなので)。アンサンブルをリードするのは前半同様に三人だけれど、ティンパニが外枠を固める(と言っても柔らかいサウンドで、繊細に)ので充実感がとても高い。モーツァルトの音楽の、他の古典派の天才たちとは異なる種類の繊細さと、ほぼ仕上がった古典派オーケストラの充実を楽しんだ。

今回が二度目の弾きぶりとなった小菅優は、演奏の楽しみを存分に楽しみつつ演奏をうまくリードしていたと思う。バーンスタインやプレヴィンのような、指揮者の弾き振りではない、演奏家の弾き振りの楽しさを示してくれたと言えるだろう。この二回の公演で終わらない、今後の展開を期待したい。
オーケストラについては、個人的には低音楽器の経験者としてファゴットの充実を称賛したい。これまた昨日に続いての登場だった首席の福士マリ子が、時折聴かせどころで示した存在感は、実に見事なもの。オーケストレーションの上で、ヴァイオリンとオーボエのカップリングが弱まったのと同じように、通奏低音としてひとまとまりだったファゴットと低弦の結びつきも弱まって、結果独立した役割を与えられるようになった時期なのだなあ、と理解させられる存在感だった。
とはいえ充実していたのはもちろんファゴットだけではない、昼前にミューザの明るいステージで奏でられる東京交響楽団のモーツァルトの美しさは絶品、これは好シリーズであるよ、と何年目かになってようやく理解した私でありました。

そうだ。ミューザ川崎シンフォニーホールにおかれましては、いっそモーツァルトの時代のスタイルの、多様な編成が混在するニューイヤーコンサートでも開催してみてはいかがでしょうか。もちろんメインは東京交響楽団なのだけれど、室内楽ありピアノあり声楽ありで、最後のお決まりは「フィガロの結婚」か「魔笛」のフィナーレで、みたいな。それだと年が終わっちゃいますかね…まあいいか、言うだけならタダなので申し上げてみました(笑)。

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それにしても、である。連休ということもあって私同様にヴィオッティとの「レクイエム」、そしてモーツァルト・マチネと連日休館前のミューザ川崎シンフォニーホールに通った人も少なくないだろうと思うけれど、この落差たるや。「レクイエム」については別の記事を参照いただくとして、この日の丁々発止の室内楽的なモーツァルトの幸福感はもう、極楽気分である。
…まあなんですか、ついさっきまで日本のTV番組最大の赤白エンタテインメントショウを放送していたのに、年が明けたら別の放送波で「映像の世紀プレミアム」を連続で放送して、さらにその夜には維納の新年演奏会を放送する我らが公共放送様のようなものだと思えば、アリなんですかね、これも。落差もまた楽しからずや。如何。

最後にもうひとつだけ。これはもう、尊敬を通り越してしまうのだけれど、このコンサートのあとの水谷コンサートマスターのツイートをご覧ください。…人間って、すごいことができるんだね(おい)。


新国立劇場「タンホイザー」も無事終演したことをお祝い申し上げて(側聞ですけど)、この記事はおしまい。ではまた。