2013年3月31日日曜日
聴いてみました、佐村河内守:交響曲第一番
こんにちは。千葉です。
さあて、早くまとめようと思っているうちに今日このタイミングですよ。ということで、先ほどTwitterでも書きましたがNHKスペシャルは録画であとで見ます。でないと、この文章の意味がなくなりますわ、遅筆を反省。
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さて。佐村河内守の交響曲第一番”HIROSHIMA”を聴いてみた。先日は全曲の東京初演も行われ、なんでも全国での演奏会ツアーも行われるそうだし、何より以前この作品についての(いや他の話も多いんだけど)著作も読んでいるので、聴いてみたく思う気持ちはあったのだ、テレビどうこうは抜きにして。
っていうかすみません、前にNHKで放送されたそうな作曲者のドキュメンタリは見てないんだ。音を聴く前にその「作品」に関する「物語」から入るのはどうも、それなりに長く音楽を聴いてきた一愛好家としては抵抗がございまして(笑)。ちなみに、と別の例に触れようかと思ったけど自重します。
嗚呼もうほんっと厭ですわ、こんなに言い訳をしないと新作ひとつ聴けなくって?(笑)
まあ、あるんですよいろいろと。ドキュメンタリで有名になったピアニストにどう向き合うべきか、とか(現状はスルーで)、コンクールウィナーをどう聴くか(特定の誰かではなく、個性以前にキャリアだけが飛び交うから苦手)とか、社会の役に立つ活動の一環だったり、とかね。
そういうのはいいから、まず音を聴かせてくれないか?それが千葉の希望なんだけど、そういう「物語」つきのものはすぐにビジネスになりますからね、商いとしては上手くいくのでしょうけれど、千葉はなかなか手を出す気にならんわけでして。
でもこれは聴いた。聴いた以上は何か書いておくべきでしょう、いま書いたような言い訳は一時置いて。っていうか、いつもグダグダと言いたいことを言っているのに、メジャーなところで紹介されるからって怯んでいられます?せめてそこで畏れをなさない程度の矜恃も持ち合わせないでどうします?(笑)
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佐村河内守の交響曲第一番は、三楽章からなる一時間以上、この盤で81分半もの大作。それを一口でどうこう言うのは難しい。と、書いたその手ですぐさま逆のことを一言で書きましょう、これは我々、クラシック音楽を聴くものは、というか交響曲を聴くものは知っている類の音楽である、と。
まず前者から軽く説明しましょう。この作品について一口で言いにくいのは、この作品が本当に長いことがまずひとつ。どの楽章を取っても20分程度はある(この盤で最短の楽章は第一楽章、19'58)。演奏時間だけなら、なにもブライアンを持ち出すまでもなくブルックナーやマーラーだって相当なものです、20世紀初頭までに先行する多くの作品があります。そしてそれらの作品は一定の敬遠された時代を経て、しかしこれまでの演奏史の中で数多くの試みがあり、一定の理解を伴う受容がなされている。それに対してこの作品、完成から10年、全曲初演からわずか3年しか経っていないのです。であれば、聴きては自ずと手探りにならざるを得ない。※そしてもちろん、この作品の副題が示唆する重さ、作曲者自身の境遇も気軽な聴取を許してくれない、ような気がする。それ故のとっつきにくさ、踏み込みにくさがここにはある、間違いなく。
※コメントで示される、また彼の生涯の「物語」を通じて暗に明に示されるベートーヴェンの「闇から光へ」みたいな図式、わかりやすいしドキュメンタリはそういうプロットありきで描かれる場合が多いですが(繰り返しますが千葉未見)、ここではその「物語」はあまり考慮しません。もちろん、作曲家自身のコメントまでを無視しようとは思いませんけれど(あとで触れますし)、まずは音を聴くべき、ではないかと。
だがしかし、と言わざるを得ないのです。長大な作品をめぐるその手探りの中で、しかしいわゆるクラシック聴きであれば否応なく既視感を感じることでしょう、これは「あれ」ではないか?という引っかかりを、本当に何度も。
全体を見渡せば長大なシンフォニーだから、というだけではなくブルックナー(切実すぎる救済への希求)、マーラー(音楽による劇、ドラマとしての交響曲)を想起するし、部分を取れば数限りない先行者たちが脳裏を過ることでしょう、ベルリオーズ、リストに(畑違いにはなるけれどワーグナーも。特に「パルジファル」から派生した諸々の作品群)、シェーンベルクにベルク、そしてショスタコーヴィチなどなど。だから、聴き慣れていない、知られていないしまだ道筋も把握できていない曲なのだけれど、この音楽を我々は知っている、そんな矛盾した感覚に囚われるわけですよ。
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そういった、類似する先行作が思い当たることをもっていいの悪いのというつもりはないんです、別に。先行する作品の影響は20世紀の折衷的な作品の数々、いわゆるポストモダン的経験の参照、ネオロマン主義などなどを考慮すれば、類似の作品はいくらでも挙げられましょうし。
ただ、彼の場合はその手法がいわゆるアイディアや意匠、そういったある種の20世紀的開き直り(笑)で選ばれたものではなさそうなだけに(著作等からの憶測、でしかありませぬが)、正直なところ扱いに困ると申しましょうか…いわゆる現代の作品として、被らざるを得ない「屈折」を、特殊な事情で回避できてしまっていることが、どうにもその作品に言及するときの話者のスタンスを不安定にするんですよ。素朴に音についてだけでは話せない、というようなひっかかりが何を言っても残る、というか。
更にそこに、広島(いや、より普遍化されたHIROSHIMAか。そしてそれは作曲者の生い立ちと重ね合わせられるもの、でもある)が加わってしまうともう、言及すべき対象の過積載と申しましょうか…
作曲者により各楽章につけられたコメントとして、第一楽章「運命」、第二楽章「絶望」、そして第三楽章「希望」というのがあります。なるほど、と思わなくもないし、その性格付けはひとつのガイドともなるでしょう、楽章間で曲調はかなり異なりますし。主題をライトモティーフ的に使うことで楽章をつないではいるのだけれど、個々の楽章のキャラクタが明確に違うので、そのガイドだけで十分に一貫して聴こえるかどうかは、微妙。なにせ長い曲ですし、これまで書いたとおり、サウンド的にはパッチワーク感も否めないから。正直に言って耳慣れない音楽ゆえ、主題に基づく展開にそこまで気がいってないだけ、かもしれないのだけれど。だって、フィナーレでコラール主題を金管が鳴らしたあとにフーガに突入されたら誰だってブルックナーだと思いますって。そのあとにパウゼで区切られたコーダが始まったらマーラーを思い出すじゃん!…そういう本筋じゃない部分に気を取られること、ありますよね(絶望先生かよ)。
こんなふうに考えてしまうと結論は出ない、だからいまの結論はこうなってしまう。千葉は今、この時点でこの曲をどう受け取ればいいのかよくわからない。重厚長大な作品であり、メッセージ性も明確だ。だがしかし、これは「現代」の作品としてありなのか、いわゆるクラシックの範疇に入るものなのか。題材的に近いところにあるといってもいいのだろう、ジョン・アダムズのオペラ及び交響曲の「ドクター・アトミック」などとも併せて聴きこみ、かつ考えていかないと、何も言えない。無念。
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さて演奏の話。千葉は、大友直人氏の新しい作品に積極的に取り組む姿勢、それらを手際良く聴かせる指揮者としての手腕を高く評価するものです。かつてホルストの組曲「惑星」に付与する形でコリン・マシューズにより作曲された「冥王星」を加えて録音したことは、その先進性を示す好例でしょう。数多くの日本初演を務めているのは伊達ではない、と感じます。
その実力や手腕を評価するのと同時に、そのまとめ上手故の突き抜けの薄さを感じないでもない。上手なんです、とても。ただ時に、そこにあってほしい、ある種の行きすぎたところがないのは、物足りなさとして感じられるところがある、というか。リファレンスとしてなら理想的かもしれない、でもそこに演奏者の強い意志はあまり感じない、とでも言いましょうか。よく言えばかなり強いバランス感覚と客観性がある。その美点は認めた上での、好みの話です。
演奏する東京交響楽団は、今でこそ「スダーンのオーケストラ」として安定して高い評価を受けているけれど、かつては秋山、大友両氏の地味な実力者(不躾ですみません)イメージと完全に重なるオーケストラでした。オペラもできて(大所帯の東京フィルと分け合う形で新国立劇場のピットに入ってます)、もちろんシンフォニーコンサートも多彩なプログラムが魅力的、さらには子供向けコンサートなどのアウトリーチ活動も行っている。首都圏で活動するオーケストラの中でもこの上ない優等生なんですけど、今ひとつ突き抜けるものがない、というか。なんか私、酷いこと言ってますねさっきから(笑)。
だからバランスを取るのに持ち上げるわけじゃありませんが、今の東京交響楽団はただの優等生ではありません。スダーンのモーツァルトを初めて聴いたときに感じた、和声的響きに対する明確な意識とそれを実現するだけの技術は完全に身について自然なものとなり、さらにシェフとはキャラクタの異なる指揮者を招いたときの反応の良さもまた素晴らしい。キタエンコの巨大な「レニングラード」では輪郭強めの厳しい音に完全に変貌してみせましたし、スダーンの後にもジョナサン・ノットやクシシュトフ・ウルバンスキなど優秀なマエストロたちとともにいい演奏を続けてくれることでしょう。
そんな大友直人&東京交響楽団の録音ですから、千葉はちょっとだけの食い足りなさを感じながらも、素直に拍手したいと思います。新しい作品、知られていない作品をちゃんと音にすること、演奏者によってわかって(理解、共感を持たれて)演奏されることが新作にどれだけ大事かわかっている彼らの、きちょうめんな演奏がこの作品の演奏史冒頭にあることは幸いなことです。信用できる演奏で作品が知られること、大いに価値あることと思いますので。
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東京初演は録音と同じ大友氏の指揮で、オーケストラはラザレフとの長い九州ツアーを終えた日本フィルとのものでした。ネットで探った反応は千葉に近い割りきれなさそうに思えるものから(まだリニューアルオープンから日が浅い東京芸術劇場コンサートホールの音響への戸惑いもあったように思う)、手放しの大絶賛まであったのだけれど、正直なところどんな演奏だったのかあたりがつかない。むむむ。
そして次なるツアーでは、金聖響氏が演奏されるとか(大阪、横浜、熊本、広島)※。千葉は聴けそうな気がしないのだけれど(無念)、数多く演奏されることで演奏するサイドも聴く側もこなれてきて、そのうちに千葉もうまく受け取れる日が来る、かもしれない。そう期待したい…
※他の会場ではもうお一人が演奏することになるらしい、です。今後の発表はリンク先でご確認ください。
ということで。今日の番組には背を向けて(笑)なんとかまとめましたが結論は非常に煮え切らないものに。いやはや、同時代人がはっきりモノを言うのは難しいんだわ…(たぶん、その逃げ方間違ってる)
以上あまり参考にならない千葉はこう聴いたよ、というお話でした。ではまた。
交響曲に室内楽、そして吹奏楽も書かれてますね。気になります。
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