2012年12月31日月曜日

もう二兎は追わない(または二度と迷わない

こんにちは。千葉です。

2012年最後の反省会です。千葉に興味のない方、検索でたどり着いてしまった方には、ごめんなさい(笑)。

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えっとですね、このブログについて、少しばかり運用に迷いがあったんです。というか、ちょっと色気出して違う活用もできないかな、とかなんとか。はじめのうちに文体を少しいつもよりていねいにしていたり、話題を絞っていたのは予め色を付けてしまうとそっちの用途には使いにくいかな、とかなんとか、ゴニョゴニョゴニョ。

ですがもう、「向こうだけじゃない、こっちも千葉のブログなんだよ、すみませんねえ~」と開き直ってもっと書きます。特段方向が変わるわけじゃないけど、もうちょっと話題に食いつきます(笑)。あと、更新頻度を上げることで仕掛中のお題への意識も高めたいですし(けっこう切実)。

それとは別に。昨今の社会情勢を鑑みるとですね、割と冗談抜きで危機感があるんですあれとかこれとか。そのためにも、向こうはごった煮の良さを活かして積極的に活用する、こっちはそもそものクラシックを聴いてる/これから聴こうと思う方向で発信に務める。それがおそらく上策かな、とようやく思い至りました。やっぱり待ちぼうけじゃダメなんですよ!方向を決めて攻めないと!(さりげなく入れ込んだ山田耕筰先生ネタでここはクラシックのブログなのだ!とアピール)

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まあ、めったにコンサートにも行けず、新譜もなかなか贖えない千葉が書けることなんてのはたかが知れてはおりますが、それなりのベストを尽くしていきたいなと考えます所存。面白く思えたところ、使えたところだけで構いませんので、こんな拙におつきあいいただけましたら幸いです。

来るヴェルディとブリテン、そしてワーグナー他の記念年が実りあるものでありますように、とクラシック者らしいお祈りで本年の〆といたします。では皆々様、良いお年をお迎えくださいませ。



新年はモーツァルトで始めようかと考えております。そういうニューイヤーコンサートなら、実演でも行きたいものなのだけれど…

2012年12月30日日曜日

2013年は1月28日より始めます(え

こんにちは。千葉です。

クラシックのブログなんだし、年末年始らしいことも書こうよ!と思って書いておきます。なんだそのムダな義務感。

とは言いながら。あたしゃジルベスター・コンサートは行かないし(テレビのアレも見られなさそう)、実はニューイヤーコンサートはウィーンのアレであろうともそんなに興味が無い。見れば、聴けば楽しめるのはわかってるんですけど、まあいいかなって。えっと、あっちは威風堂々でカウントダウンで、向こうは指揮者にフランツ・ウェルザー=メストでしたっけ…

何が痛いって、この数年大好きなベルリン・フィルのジルベスター・コンサートが録画放送になってしまったことですよねえ…千葉は断然ベルリン派なので(というか、他の団体や指揮者と比べる気がない)、生放送されていた頃は年末の楽しみだったのですけれど。

でもまあ、放送がないわけじゃないでしょう?と思って確認しました2013年1月のNHKBSプレミアム、「プレミアムシアター」の予定を。さあ皆さんハードディスクを開ける準備にかかってくださいませな。

●1/14(月) 0:55~ ◇ヤンソンス&バイエルン放送響 ベートーベン交響曲全曲演奏会(1)&(2)

●1/21(月) 0:45~ ◇ヤンソンス&バイエルン放送響 ベートーベン交響曲全曲演奏会(3)&(4)

●1/28(月) 0:45~ 
◇ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート2012
◇ドレスデン国立管弦楽団のジルヴェスター・コンサート2012

なるほど、ではあれだ、千葉の新年は1/28から始まるということでよろしいか(おい)。

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外の暗さと強まる雨音を聴いているうち、なにか散らばったデスク周りを見ながらこんなことを書いている場合ではないのかもしれない、と思えてきました。多分気のせいではないと思われますので(笑)、ひとまずはこれにて。ごきげんよう。


2012年12月25日火曜日

素直に喜べなくてすみません!

こんにちは。千葉です。

今日は簡単に、先ほど気がついたテレビ放送の予定をば。

◆華麗なるオペラの世界 ミラノ・スカラ座

え~、今晩からですね、スカラ座の舞台をBSプレミアムで四夜連続放送とのこと。「シモン・ボッカネグラ」「ピーター・グライムズ」「カルメン」「ジークフリート」というラインナップ、なにか男子として考えさせられる作品が並んでいるような(笑)。

でもなあ、個人的な意見ですが、あたしゃダニエルさんが苦手なんだよう。四演目のうち三つまでが彼の指揮ってのはどうも。音楽監督なんだから仕方ないけど、NHKさんはよそのオペラハウスと組みませんかね(おーい)。

まあ、最近入手した録画装置でとりあえず録っておきましょう、いつか見るかもしれないし(おーい)。「ピーター・グライムズ」がロビン・ティッツィアティの指揮なのは気になるところではあるし。ワーグナーならまあ、ダニエルさんでもいけなくもないし。うん、そう思うことにしよう…

以上簡単なお知らせでした。今晩の「シモン・ボッカネグラ」に間に合うといいけど…

2012年12月24日月曜日

わたしのク・リ・ス・マ・ス(はあと)


こんにちは。千葉です。

えっと、今日は休日なんでしたっけ?そういえば今上陛下のお誕生日を呪う意味合いで占領軍は戦犯の死刑をどうのこうの、って本を書いた人がいましたね、今どうしてるのかしら…え?都知事に以下略。

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まあ、いいでしょう。風潮に文句をいうのは飽きました。好きなだけ好きなときに好きなところで考えなしにその断片を流すがいい、「第九」を「くるみ割り人形」を「メサイア」を、そしてヴェルディのレクイエムを!




いややっぱり最後のは認めないわ(断言)。ってか、他のも許す気にはなれないし。せめて少しは考えて使えっての。ぶつぶつ。

やっぱり思うんだよう、脈絡なく突然に、そういう大事な曲の断片を聴きたいとは思わないんだよう。特にも、時代が変な曲がり角に来ていると感じられるいま、ベートーヴェンもヘンデルもショスタコーヴィチ編曲版か何かのように、どうにも皮肉に感じられてしまうから、本当に厭なんだよう。どうせなら意図的な悪意のひとつも込めてくれよ、無邪気に歌われるアイロニカルな祝祭の歌とか、どっかの映画の中だけにしてくれよ…

あのう、ちょっと余談なのですが別途書きますがここでサワリだけ。「右左」で物事を語るのはやめたほうがいいと思いますよ?ショスタコーヴィチはソヴィエトだから左じゃん、こいつサヨク?とか、本気で口走る前に少しは考えましょうよ、その含意を。

まあいいや、定番の音楽はいまいち、ではいま何を聴くのか?といえば、この数年の定番の大槻ケンヂと絶望少女たち「かくれんぼか鬼ごっこよ」(原作が完結して、また前とは違う趣が感じられます。特にもお目当ての曲、「無神論者が聖夜に」はもう…)、オネゲルの「カンタータ・ドゥ・ノエル」(記事の最後にYouTubeの動画貼っときます)、そして先日書いたベルリオーズ「キリストの幼時」ですかしら。





今年は本当に思うんです、キリストの生誕の時になぞらえてもいい、まずい時なのではないかな、と。まあ、危機がひとつの極みに届くところにあったから、世界に強い原理をもたらす強い救世主が求められてしまったと思われる紀元前4年(とされるその時)と比べるのはもちろん、ほんの戯れですけど。そう、クリスマスは「救世主の誕生によって最悪の危機を乗り越えた」ことを持って寿がれるものかと。無前提に多幸感に酔えるほど、いまはいい時ではございますまい。人によっては先日の選挙でそのような心地になれたのかもしれませんけれど、千葉は無理です。はっきり言って、今まで生きてきた中で一番信用のおけない政治状況だと思います。その辺は向こうのブログにちょくちょく書いてますので、興味がある方はそちらでどうぞ。

別にいいんですよ、日本的なクリスマス&年末の開放感をこめて第九でこの上ない喜びを歌おうとも、「くるみ割り人形」が描く通過儀礼のドラマにまた一つ過ぎ行くゆく年を感じても。ああ、でもキリストの生涯を見る過程抜きで「メサイア」を、そのハレルヤを喜ぶのは、どうなんでしょうね、(笑)。
受容は人それぞれだから強要や苦言はしない、でもいま挙げたような名曲が、どうしようもなく効果音扱いされているのを見るのは、正直に言って辛い。なにもミラン・クンデラに言われなくとも、本来の作品から切り離された部分を問答無用で聴かされても、なんとも言いようがないですし。
ごく稀に、映像とのシンクロで独特の面白さを作れているものがあるにしても、そんなものは昨今のテレビCMなどには望むべくもない。そのCMがセールのお知らせだったりするのだから当然だけど…

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ということで、我は如何にしても基督教徒たりえず、されど斯くも芳しからざる心情にならざるをえない12月の、テレビから見える音楽状況でありました。その辺考えると、個人的には多すぎるように感じるベートーヴェンの交響曲第九番のコンサートも、いわゆるクリスマスコンサートもまだ、マシなのかなあ…

というけっきょくは現実を否定しきれない結論にたどり着いても、それでも個人的には先ほどあげたような曲を聴きますわ。あとシベリウス、ショスタコーヴィチなどなど…いつもどおりの選曲ですね、それにこちらの曲でも追加しておきましょう。
ではまた、メリー・クリスマス&良いお年を!(年内更新はまだしますけど、お決まりってことで)



上に貼ったリンクはMP3のもので、なぜかカラヤン&BPhの交響曲第三番「典礼風」とカップリングになっている、という。いろいろと心配にならなくもないのですが、「カンタータ・ドゥ・ノエル」だけならこちらでお試しいただけます。この投稿者の方、やたらオネゲル作品をアップロードされてるようだけれど、何者かしら…

2012年12月20日木曜日

季節の音楽がどんどんと…


こんにちは。千葉です。

昨晩(というか本日の未明)に放送された「読響シンフォニックライブ」、なんでもカンブルランの指揮でストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」だということなので、録画してみたらあれなんですね、時間的に問題のない曲なら「CMなしで一曲まるまる放送」してるんですね!カンブルラン得意の20世紀音楽ならそんな曲ばかりですから、もしかするとちゃんと演奏が聴けるかも、と好感したのであとでしっかり見てみようと思います、長身なのに上半身をかわいく左右に動かすカンブルランの指揮を(笑)。

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さて。先日の衆議院議員選挙(個人的には「クリスマス選挙」だったのか、と思っていますがその話はまた別途)の結果を見たら、シベリウスを聴くモードからショスタコーヴィチを聴くモードにさらっと移行してしまいました。寒さがね、ちょっとより酷くなったような。または某戦車道アニメの影響を受けた、のかなあ…あ、シベリウスの交響曲についてまとめるのは続けてますよ、ご心配なく(そんな人、いないか)。

にしても困ったなあ…あたしゃ馬鹿正直が売りですからね、二重言語を命までは危険に晒さないギリギリのところで使い分けたDSCHにシビれるあこがれるゥ!とは思いますが、自分がそういう状況でどうするかは考えていなかったなあ…

え?考えすぎ?だと良いですね、そう期待できたらいいんですけど。

こっち向きのお題じゃないけど書いておきます。米国との同盟が大事、とは言うけれど日本は未だに米国民主党側との強いつながりがない。日本の民主党政権下でも、「日本通」としてメディアに登場していた人たちは少なくなくブッシュ時代から変わらない面々、つまり共和党とのつながりが指摘される人物中心なんですね。ジョセフ・ナイは数少ない例外で、ジェラルド・カーティスやマイケル・グリーン、そしてリチャード・アーミテージあたりはもう、完全に色がついてます。そんな人達が現在のオバマ政権に影響力、あると思いますか?まさか。
合衆国ではリベラルよりの民主党オバマ政権、一方日本の次なる政権は新自由主義に染まったかに見える復古的国家主義的政権です、それもジョージ・ブッシュJrの時代の「パートナー」の復帰。この関係に「ねじれ」を見ないで無邪気に「日米同盟が大事!」とか、いくら言っても意味がないと思うんです、正直なところ。

仮に米国とうまくやっていけるとするならば、…ってこれ以上はさすがにこっちだと踏み込みすぎですね。また別途向こうに書くことにします。率直に言って、自民党が思っているような大事な「アメリカとの関係」ってのは、夢か何かなんじゃないかなあ、って思うんですけど。

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まあ、いろいろと思うわけですが、まずはこの衝動に身を任せてショスタコーヴィチでも聴きますかな、と思った時にまず頭に浮かんだのは、この二人の録音でした。


Georg Solti/ショスタコーヴィチ: 交響曲集<タワーレコード限定> [PROC-1055]

Eugene Ormandy/The Philadelphia Orchestra/オーマンディ・コンダクツ・ショスタコーヴィチ [SICC-1590]


お二人とも時代の流れのままにハンガリーからアメリカへと活躍の場を移した20世紀を代表するマエストロですね。存命中に日本で十分に評価されていたようには思えないところがあるのですが、千葉はお二人とも尊敬しておりますよ。

でもショルティの方は考えてみたらまだ買い直していなかったので(おい)、オーマンディの盤を取り出してみました。千葉の手元にあるのは米国SONYの廉価盤、Essential Classicsのものなので、残念ながら上の商品にある交響曲第一番、そしてバレエ音楽「黄金時代」からのポルカは聴けていないのですが。

他にもBMGの第一三から一五番までもあるし、何を聴こうかねえ…と思ってなんとなく選んだのが第一〇番。これがねえ、本当に力のあるオーケストラにしかできないコントロールされたサウンド、そして指揮者の見事な統率。素晴らしい。振幅も大きいのだけれど、技術的にゆるぎがないので演奏の安定感が強い、だから変な緊張感などは皆無。オーケストラ音楽たるものかくあるべし、と自信を持って語り得ただろう20世紀のオーケストラのひとつの理想像ですね、やはり。それがいささか虚構的なものであるとしても。

米国の団体の場合、どうしても歴史と伝統で泊を付けられないものだから、故なく低めに評される事が日本では多いように思うのだけれど(そこで活躍したマエストロたちともども。もったいないことです)、大戦争の影響で数多くの音楽家は新大陸へ移住していたから20世紀初頭の伝統がある意味で「口伝」されている可能性があること、なにより歴史を振り返ればグスタフ・マーラーもまたニューヨークの音楽家ではあることなど、考えましょうよう。彼らが音楽史の中でメインストリームだ、とまでは申しませんが、冷戦構造の中で欧州から離れたところで純粋培養をされたかのような側面のあるアメリカのオーケストラ、そういう前提をもって捉え直されるべき時期ではないかなと感じる今日この頃であります。

聴き終わってその演奏の見事さに感心して、なんとなく検索をかけてみたらこのような記事に行き当たりまして。よく見たら外来オーケストラの公演情報を資料化されている阿伊沢萬さまのところでした、昔はよく拝見させていただいておりました!

なんでも、第一〇番の録音について「この曲の録音を開始する6日前にキング牧師暗殺事件がおきました」(引用終わり)とあるんです。確認したところ、キング牧師の殺害は1968年4月4日、この録音は10日から18日とクレジットされてます。なるほど、彼にはこういう独特なめぐり合わせがおおいのかなあ…メインストリームにいた、しかし亡命者というのはある意味で政治色を薄められますからね、ってのは何かの話に似ているな…それにしてもセッション録音で9日もかけたのかしら?(さすがにそこまではやらないか)

まあ、そういうことは余談ですから、まずはぜひオーマンディのショスタコーヴィチ、聴いてみてくださいな。その上で、めぐり合わせや果たしてしまった役割を考えるべき、かと。
それにしてもですよ、彼らの演奏を聴けば聴くほど思います。全盛期の実演を聴いておきながら彼らの演奏を軽々に否定しちゃった当時の批評家、呪われるべき、と(笑)。

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最後に余談を。ソニーというより当時のコロンビア、オーマンディにセルにバーンスタインを擁する豪華ラインナップだったわけですけれど、なんでも一番の売れっ子はオーマンディ&フィラデルフィアだったとか。ふむう、エスタブリッシュメント層にはこの正統派感がよかったのかしらん、などと思わなくもありません。
でね、だから、というわけじゃないんだけど。ニクソンのお気に入りだったから、って簡単に悪役にして欲しくはなかったな、手塚先生!とか思ったりもいたしました、バーンスタインを評価したことも、ニクソンが嫌われ者だったことも分かるんですけど!と別の話を振ってしかし逃げるんだよォ!(笑)、ではまた。

2012年12月12日水曜日

この季節、この作品は如何か(提案)

こんにちは。千葉です。

ここ最近の内外の20世紀の、または昭和の偉大な才能の訃報の連続に、否応なく時代の変わり目を生きていることを再認識させられております。この20世紀≠昭和であること、前から考えていることがあるんだけどなかなかまとまらなくて、なんともはや。

訃報のうち、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、そしてリーザ・デラ・カーザについては後ほど音盤でいま一度かつての歌を楽しませていただいたあとに、何か書くと思います。お二人にはそれぞれ違う方向でオペラについて目を開かせていただいたと思うので。

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千葉はこの季節になると、正直に申し上げてテレビをつけているのが苦痛です。いやもう少し正確に申しましょう、民放テレビをつけていることが、苦痛です。それも深夜枠などではなくいわゆるいい時間帯、夕方からニュースの時間帯まで。あのう、ベートーヴェンの交響曲第九番 ニ短調 作品125の断片を、CMで効果音的に使うの、禁止したらいいんじゃないですかね。あとヴェルディとモーツァルトのレクイエム、あと(以下延々と続く)。

何もこの作品が嫌いだから言ってるんじゃないんです。それなりに音楽が聴けるようになったころ、実演(というか、リハーサルだった、仙台フィルの裏方)でその終楽章の構成が「わかって」、それ以来作品には敬意を持って接するようにしております。年に何度も聴くような曲ではないし、部分だけでその作品がどうのこうのと言えるものじゃない、そう思っているのです。それがなんですかこのお国の広告は。一楽章も二楽章も、そしてフィナーレも切り刻んで都合よく効果音にしてしまう、それも自分では面白いと思っているのだろうけれどあまりに安易で思いつきの枠を全く出ていないやり口で。作中で好きな音楽が使われるだけでその強烈なアイロニィに苦悶させられるキューブリック並みの手が思いついてから使えってんだコンチクショー。

はっ。手が暴走いたしました、すみません。何よりこれ、本題じゃないんです(笑)。

12/11にTwitterで認識したのですが、なんでもその日はエクトル・ベルリオーズさんのお誕生日なのだとか。えっと、1803年生まれだと、189年目?(はんぱ過ぎ)

じゃあさ、季節柄もいいしお題としても適切なんだからさ、この季節には彼のオラトリオ「キリストの幼時」を聴くのはどうかな!(提案)


そもそもこの作品、友人をかつぐために作曲された小品を「架空の楽長ピエール・デュクレの作品」として演奏、好評を得た後ベルリオーズの作品だと明かしたという、いわゆるドッキリ的手法で発表されたものから生まれた、なんとも評しがたい素性の作品なんです。その冗談から全三部、「ヘロデの夢」「エジプトからの逃避」「サイスへの到着」というキリストが生まれる前後のエピソードを音楽化したもの。それも、ネタでありながらそれなりに時代を意識して古雅な趣のある作品にしあがってるんですよこれ。いいですよ、なかなか。


え?ご存じない?部分も聴いたことがない?それはもったいないこと、今探してきたこちらの動画でもまずはご覧くださいな。5分弱、合唱中心の雰囲気のある映像です。




ベルリオーズって言うとあの有名なカリカチュアのせいもあってか、やたら巨大な音楽を書いた人扱いされやすいですけど、それは時代がそうさせた面もあるわけですから彼一人をネタ使いするのは正直、どうかなって前から思っていたんです。同じフランス革命期の作曲家なら、ゴセックとかけっこう、アレですよ?(笑)

それに、その幻想交響曲にしたって第一から第三楽章まではそんなに大編成でもありませんし(四楽章までテューバは出番がない!)、音楽の作りにしてもいささかプロットだよりの力づくの展開だとしても、そんなに時代からかけ離れたものではありますまいし。むしろこの曲で気になるのは、舞曲などではない無形式の作品を意味していた「Fantasie」(モーツァルト晩年のクラヴィーア曲とか美しいですよね)がいわゆるホフマン風の幻想になっていったのか、っていうか日本だとその辺あまり切り分けて考えてないんじゃないかなそれでいいの?ということですね(一文が長いって)。

ともあれ、この作品でベルリオーズは、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がそうであるように断章によりひと続きのドラマを描き出しているように思います。救世主が求められただけの事情があったその時代を落ち着いた響きで聴かせてくれる、隠れた名作なのではないかと。というか、クライストマスだと思ってんならこういうの聴きやがれコンチクショー(あ、また指が)。

もし全曲で聴くなら、このへんがオススメかなあ。




左はいわゆる古楽器演奏、千葉としては同時代アプローチと言いたいスタイルによるもの、中はモダン楽器によりヴィブラートを控えた(演奏技法の一つとして濫用を戒めた)「ピュアトーン」スタイルによるアプローチ、そして右はバリバリの20世紀モダンスタイル。三者三様お好みでどうぞ、千葉はいつも聴いているのは左のヘレヴェッヘ盤で、右のはいま探したら引っかかったものです。こんな映像あるんですね、知らなかった(笑)。

はじめ、古えの楽長の作とされた作品を、作曲された当時のアプローチの研究に基づいて1997年に録音した。うむ、左側のヘレヴェッヘの盤の紹介はなかなか面妖なものになりますね(笑)。とても落ち着いた雰囲気の、美しい演奏です。

美しさで言うなら、ノリントン自慢のピュアトーンが神秘性につながっているシュトゥットガルト放送響との盤も負けてません。ちなみに彼らのベルリオーズの超大曲(演奏時間は二時間足らずだけど編成、その発想のスケールが)「レクイエム」もいいです。あれなら宗教曲として通用する。作中で裁きのラッパは空間を駆け巡って鳴り響くけど。

最後のミュンシュとボストン響のライヴ、どうしたものかな…と思っていたらYouTubeにありました、先ほど貼ったのと同じ部分の動画。リリース元の動画だから安心ですよ!(何がだ)



早めのテンポで美しく歌われてますね、こういうのを聴くとミュンシュに対する日本での一面的な評価もどうにかならないかな…とか思ってしまうけれどそれはまた別途。

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ということで。くるみ割り人形もいい、ヘンゼルとグレーテルもいいでしょう。日本ではこの時期の餅代稼ぎとしてもはや伝統になっているからベートーヴェンも許しましょう、でもそれ以外の曲も探そうぜ!というご提案でした。
でもなあ、かつてオネゲルの「カンタータ・ドゥ・ノエル」を普及したいと思ったけれどなかなかそれも難しかったから、まあ期待しないでほそぼそと書き残しておこう。うん、いつもどおりだね!(笑)

では本日はこれにて、ごきげんよう。


2012年12月9日日曜日

いま思えば、酷い回り道


こんにちは。千葉です。

シベリウスの交響曲、何度も自分なりにまとめようといろいろ聴いて本を読んで、試みてはみたけどどうにも筆が進まない。でもまあ、そろそろいけそうです。でもプロローグ的に、その筆の進まなさのその訳を、少しばかり紐解いてみましょう…

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そもそも、なんですけどね。千葉は彼の交響曲第一、第二番とはそれなりにつきあいがあるはずなんです。
まず第一番。高校生の時に吹奏楽編曲された第一楽章を演奏した、さらに「フィンランディア」も演奏した。両曲ともテューバがなかなか面白い、演奏して楽しいものだったのだけれど、その当時はオリジナル管弦楽版にあたる習慣など、ほぼない(例外はドビュッシー)。映画を知らずに映画音楽を演奏して、原曲を知らずに編曲ものを切望する。怖いもの知らずというかなんというか。近年の吹奏楽少年少女がそんな蛮勇を振るっていませんように。
第二番は、たしか大学に入ってそれほど時間の経っていない頃、仙台に来演した東京大学の管弦楽団が演奏したのを聴いたのが最初だった、はず。知らない曲だったけど第三楽章からフィナーレへのつなぎ、そしてその鮮烈なファンファーレに大いに感心して、すぐにCDを買ったのを覚えてます。それは忘れもしないバーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のもの。当時一番入手しやすかったから、ですが(いわゆる名盤のリイシューをまとめたベスト100はその頃からでしたね、売上税じゃなくて消費税が導入されたその頃です)、それがたぶん千葉が最初に買ったウィーン・フィルハーモニーの録音じゃないかなあ。フランス近代からクラシックに入るといわゆる型どおりの入門ができなくて困りますぜ(笑)。


 

右側のジャケットに愛着はあるけれど、これから買うなら左のボックスでしょうねえ、お値段も違い過ぎますし(この価格差の話はいつできるのだろうか)。

編曲されたものではあったけどその作品を演奏したこともある、作品に心動いて録音を入手し、しかもそこでバーンスタイン、ウィーン・フィルハーモニーとも出会っている。フィクションならここで運命的に縁が深まるところなんですけどね、千葉の場合は何も起こりませんでした。そういうものっすね現実。または哀れなり凡庸なる私(笑)。昔話はこの辺で…

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では聴き込むシリーズを始める前に、シベリウスについての事実関係を整理しましょうか、自分なりにですけど。

ジャン(ヤン)・シベリウスは1865年12月8日に生まれ、1957年9月20日に没した。91歳の大往生。

約90年もの生涯で交響曲は七曲か、少ないなとか思いますよね、なんといっても交響曲なんだもの、九曲は書かないと(おい)。でも彼の作曲のキャリアを見ていくと、出世作の「クッレルヴォ」(1892)から交響曲第七番(1924)までの、30代から50代までに限定されてくるんです。ちょうど世紀の変わり目、そしてそれは時代の変革期でもあった日々を作曲家として生き、そして世界恐慌を前に筆を絶つ。作曲をしなくなった(いろいろな証言から考えると「発表しなくなった」、が妥当か)シベリウスはその後の大戦争も冷戦も同時代人として経験している、でもその時代に彼は作曲家としてのアウトプットをしていない。研究者ならばそれが生業だけれど、ただの素人がその点についてどうこう言うのは正直僭越にすぎる感もある。なので交響曲の話のあとにも、この点は詮索しません。悪しからず。個人的には、そこに何かを見いだすもよし、あえて問わぬもよし。そう思う次第であります。


こうして生涯の見取りを大まかに書いてみると、またよくわからなくなる感じがします。対話のエピソードが残っているからマーラーの同時代人だと思うこともできる、それも異なる交響曲観の持ち主としての対話にはなかなか考えさせられる。少なくとも、「交響曲」ってなんなんだよ、と思ったことのある人ならスルーできるものではございますまい。
また、オーマンディの演奏を高く評していたというエピソードからは大戦後まで生きたことをいやでも意識させられる。今回聴くかどうかは微妙だけど、この盤のジャケットとか、刷り込まれちゃいますよね(笑)。



ではまた角度を変えてみましょうか。
先ほども書いたとおり、晩年の禿頭の写真が教科書に載っていたりしたから老巨匠のイメージがあるけれど、実際には作曲家としては壮年期にその活動を終えている。Wikipediaにさえもう少し若い頃、1913年撮影の写真もあるのに、なぜ最晩年の写真を使ってたんでしょうね、っていうか著者近影?(笑)ちなみにWikipediaにある写真の時期は交響曲でいうと第四と第五の間です。大戦前、ですねえ…

ううん、言葉でつらつらと書くとダラダラと長くてわかりにくくなりますね、整理の意味で以下に作曲年代一覧を、千葉の考えるシベリウスの有名な作品で作っておきましょう。

1892年 クッレルヴォ
1899年 交響曲第一番、フィンランディア
1902年 交響曲第二番
1903年 ヴァイオリン協奏曲(1905改稿)
1907年 交響曲第三番
1911年 交響曲第四番
1915年 交響曲第五番(1916年、1919年改訂)
1922年 交響曲第六番
1924年 交響曲第七番

単純に計算して出世作「クッレルヴォ」が27歳ころ、そして最後の交響曲が59歳頃。六十代以降の作品はわずかに交響詩「タピオラ」、劇音楽「テンペスト」などわずかしかない。ということは92歳で没するまでに約30年間の沈黙がある、つまりいわゆる晩年の作がないということになるのです。であれば、生涯の変遷でその音楽を捉えることは困難です。もちろん、同時代の人たちであれば一曲ごとに反応したりして、その変遷を生涯と時代に関連づけて受け取ることもできたでしょうけれど、我々後世の者共は否応なく時間的にも地理的にも遠くから、彼の生涯が交響曲第七番の後にも続いたこと、第八番が書かれていた、しかし公にはされなかったことも知ってしまっている状態で俯瞰するしかないわけで。拡大鏡が必要ですよね、それなりに。

ただの素人には仔細な時系列の変遷は追いにくい、しかしそれでも彼の交響曲が一曲ごとにかなり異なる個性を持っているのもまた事実。さてどう捉えたものか…っとか、ずっと困っていたわけなのですよ。
正直なところ、音楽を聴いてそれがどういう作品かを正面から捉えて言語化を試みる、その上で受け取れたものを可能な限り借り物でない言葉で書いてみる、それ以外のやり方はないんですけどね…これまでだってそうだったのに、開き直るのに時間をかけすぎました。反省。なまじ少しばかり知っているから、余計な迷い道にはまってしまいましたわ。やれやれだぜ…

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今の時点でシベリウス作品を俯瞰してどうこう言うのはやめておきましょう、聴き終わった時点で何かの答えが見えることに期待して。正直な話、集中して聴き込もうとしている今、あまり先は見通せていませんし(笑)。彼の一連の交響曲からおおまかなつながりや連続性を見出そうとするのは正直なところ無理があるように思えます、今はまだ。第七番までまとめ終わった時点での認識が違うものでありますように、と切に願うシベリウスのお誕生日(12/8)、でした。日本時間では日付変わっちゃいましたけど(笑)。

きっと、既にシベリウスが好きな、千葉より詳しい方にはまったく役に立てない不定期の一連の記事となることでしょう、検索で引っかかっちゃった方には今の時点でお詫び申し上げておきます。もしご不快でなければおつきあいくださいませ~。ではまた、ごきげんよう。

最後におまけをひとつ。この映像がソフト化されてたら、きっと言及する対象にしていたことでしょう。サロネン&スウェーデン放送響の全集から、大好きな第五番を。