2019年7月18日木曜日

かってに予告篇 ~東京フィルハーモニー交響楽団 第924回サントリー定期シリーズ/第127回東京オペラシティ定期シリーズ

●東京フィルハーモニー交響楽団 第924回サントリー定期シリーズ第127回東京オペラシティ定期シリーズ

指揮:チョン・ミョンフン
ヴァイオリン:クリステル・リー(2015年第11回シベリウス国際ヴァイオリンコンクール優勝)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.47
ドヴォルザーク:交響曲第九番 ホ短調 Op.95 『新世界より』

予告をいつも書く前の手順の一つに「この人まだ聴いたことないな、どんな音なんだろう」と合法の配信(いかがわしい言い方)を検索する、というものがある。これから実演で知る音楽家の音色が好みならそれだけでも気分は良くなるし、見つかったものがちゃんとした映像であればある程度まではその人のアプローチも推察できましょう、という冷静な判断もできる(ちなみに、数年前に日本に代役デビューしたとあるマエストロについては、エージェントが「この動画見てよ」と言ってきた、と聞いた。もうそういう時代なんです、たぶん)。
そんなわけで、今回のクリステル・リーについてもその手順を踏んでみたのだが、なんと今回の公演告知で明記されている、シベリウス国際音楽コンクールに優勝した際の映像がある。おおこれは便利な時代である…と思ったが、どうもテレビの映像をどなたかが流しているもののようで共有するのはちょっと引っかかる。うーん、と思ってもう少し見てみたらありましたよ、彼女がシベリウスの協奏曲を演奏している動画が。


「Finale Violine - Christel Lee (USA) 2. Preis 2013」というそっけないタイトルでは一瞬なんのことかわからないのだけれど、これは2013年に開催されたARDミュンヘン国際音楽コンクールのファイナルの模様で、共演はアントニオ・メンデス指揮バイエルン放送交響楽団。この動画をおいて彼女のキャリアを見直せば、まずは難関で知られたこのコンクールの一位なしでの二位に輝き、その後2015年にシベリウス国際音楽コンクールで優勝、そして現在に至る活躍をしているヴァイオリニストである、ということですね。
彼女の公式サイトを見ると、過去にチョン・キョンファにも師事していたとのことで(併せて田中直子の名も挙げられている)、今回の共演でチョン・ミョンフンの「家族」、音楽家仲間に迎えられるということなのだろう。このキレが良いのにどこかウェットな美音で奏でられるシベリウス、期待したい。

なお、彼女の演奏を他の曲でも聴いてみたい!と思われる方にはこれなんか如何ですか。


ソリストの話が長くなってしまったが、後半のドヴォルザークももちろん注目である。チョン・ミョンフンが今シーズン東京フィルの定期に登場する一度だけの機会に取り上げる、得意中の得意の作曲家なのだから。100周年を飾った演奏会で取り上げたこと、かつてのこども音楽館でも2005年に「新世界との出会い」~ドヴォルザークとガーシュイン~ と題して取り上げている(これはDVD化もされている)。それにかつてウィーン・フィルとも録音しているのだから(3、6~8番、そしてセレナード集)マエストロのドヴォルザーク理解には一家言どころではない説得的なものが期待できよう。東京フィルとの演奏は回を重ねるごとに成熟も極まりつつあり、正直に申し上げるならこのように条件の揃った演奏会について私から言うべきことはない、かもしれない。会場で、その音楽を存分に体験しましょうぞ。

*************

今回、非常に軽めの内容になっているのは訳がありまして。これをご覧ください、こうなってしまっては事前に案内するのが嫌がらせになってしまうではございませんか!(笑)


そんなわけで、これもまた公式配信のチョン・ミョンフン指揮ドヴォルザークの交響曲第九番の動画で来場できない皆さまにもお楽しみいただこうか、と思います次第。…なんかね、フェニーチェ歌劇場の公式チャンネルはなぜかわからないけれど再生回数が寂しくって(配慮した表現)、演奏の熱さを踏まえるとあまりにも惜しいので。
…なお、これを見て「聴きたかったよコンチクショー」と思われても私にはどうすることもできないのでご容赦のほど。では心ゆくまで演奏をお楽しみください!(責任感のない投げ方)

2019年7月10日水曜日

かってに予告篇 ~ロレンツォ・ヴィオッティ 東京交響楽団(7/13~15)

●東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第110回第114回新潟定期演奏会ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第148回

2019年7月
  13日(土) 14:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  14日(日) 17:00開演 会場:りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館
  15日(月・祝) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
管弦楽:東京交響楽団

ブラームス/シェーンベルク:ピアノ四重奏曲第一番 ト短調 Op.25
ドヴォルザーク:交響曲第七番 ニ短調 Op.70

二曲からなるコンサートなのに、名の知れた作曲家の名前が三つあるのがどうにもややこしい。いやそこまで複雑ではないのですが。とは言いつつ、演奏される二作品になじみがなくてちょっと気後れされている方もいるかもしれないので、おせっかいにもご案内をば。だって、そんなぼんやりとした気持ちの問題で聴き逃すには、ロレンツォ・ヴィオッティという才能はあまりにも惜しいですし。名曲全集は東響にとっては本格的な”ホーム・リターン”コンサートでもありますし。

後半の作品をまず見てみれば、こちらは何も変わったことはない。簡単な紹介でよければ「アントニン・ドヴォルザークが1885年に発表した交響曲」で十分だろう。察しの良い方ならこの年代だけでも多くのことが伝わる、そしてこの曲には古今の名盤があるし、現在ならこういう動画でどんな曲かを知ることもできる。


(いわゆる参考演奏とは程遠い、個性的な演奏なので、ここで貼るべきものではなかったかと今になって思っていたりする)

「実はロンドンと縁があるのは第八番じゃなくてこっちの交響曲」「ブラームスの第三番からの影響がある、と言われる」「充実した晩年の始まりを告げる作品」くらい付け足せば十分ではないだろうか(そうとう雑な言い方になりますが)。日本では最後の二作ほどは演奏されないが(まあ、九番と比べるのはどうかしている)、初演から大成功して現在に至っている作品だ。今回の充実した演奏は、きっと日本での第七番再評価を進める大きな一歩となるだろう。
…え?聴く前からそんなことを言っていいのか、ですか?若きロレンツォ・ヴィオッティの音楽の充実ぶりは私もこれまで何度か書いてきたとおりですし、いよいよ本格的にミューザに帰還する東響がそれに応えられないわけもない。しかも今回はオペラシティ定期(13日)、新潟定期(14日)、名曲全集(15日)と三回もの公演があるのだから、回を重ねるごとにまた違う表情を、ドラマを示してくれることだろう。私はそれを微塵も疑っていないので、このように申し上げる次第です。

*************

では何が一瞬の混乱を呼ぶか、といえば前半に演奏される作品だ。ブラームスとシェーンベルク、二人の名が並ぶこの曲を一文で説明するならば「ブラームスが1861年に作曲したピアノ四重奏曲第一番 ト短調 Op.25を、シェーンベルクが1937年に編曲した」オーケストラ作品、である。どうだわかりやすかろう(そうでもないか)。

さてわかりやすくまとめてはみましたが、年号を入れるといろいろ情報が発生するので、そのあたりを補足するならば…

この時期にブラームスはウィーンに移住しているが(作曲は移住前)、まだ第一番の交響曲も完成させていない。であれば作曲家としては自身でも演奏するピアノ曲に室内楽曲、そして声楽曲の人である。最初の協奏曲と近い時期に作曲されたピアノ四重奏曲は彼らしい親密なアンサンブルと、民族的な旋律が魅力的な作品だ。「…それをあのシェーンベルクが編曲?オーケストラに?大丈夫なんですか?」なんて思う方も試しにこれを聴いてみてくださいな。



シェーンベルクによる編曲作品は意外なほど多く、それらは原曲の魅力を活かした仕上がりなのでその点では安心してほしい。1920年代にはここに貼ったシュトラウスのほかマーラー※など、幅広く手がけている彼の手腕は確かなものだ。もっとも、それらは20世紀初頭までの大編成のオーケストラを駆使したものではなく、上の動画に見られるような、独特の室内楽編成が中心になるのだが、それは当時彼が組織した「私的演奏協会」のために書かれたものが中心だから、ということになるだろう(この団体については、Colors & Chords様のサイト:リンク先が詳しい)。オーケストラのための編曲作品としては、バッハのコラール前奏曲が比較的有名だろうか。
1920年代という、彼が十二音技法を確立する時期に編曲作品を多く残した、というのは私的演奏協会のような外的事情を無視してついちょっと妄想を呼ぶものではある、未だ聴かれたことのない新しい音の探求の中で他人の作品を音化していく作業に彼は何を見ていたのか…などなど。

※余談だが。編曲を始めたが未完のまま放棄されていた「大地の歌」は、後にライナー・リーンが完成させて、今ではいくつかの録音もされているのでマーラー好きの方にはぜひ聴いてみてほしい。大編成管弦楽を駆使したオーケストラ版と、歌曲としての性格をより強く感じさせるピアノ版の間に、うまく収まるものになっていると私見する。

だが今回演奏されるピアノ四重奏曲第一番は、彼がナチスから逃れて渡米した後の編曲だから、そんな妄想はあまり合致しないものだ。むしろアメリカでの教育活動の影響や、亡命者としての望郷の念もここにはあるのかもしれない。ちょっとブラームスの管弦楽にしては派手かな、と感じられる部分はあるけれど(初めて聴いたときには打楽器の活躍にかなり驚かされた)、その「過剰さ」にシェーンベルクの個性が刻まれている、と受け取ればいいだろう。
そんな二人の「共同作業」を、ヴィオッティと東響はどう聴かせてくれるものか。会場によって、日によって違うサウンドが楽しめるのだろうなあ、と想像してほくそ笑んでしまう私である。

ここまで紹介しても心配なあなた。この演奏でも試しに聴いてみてはいかがでしょう。ピアニストとしてもこの作品に取り組んでいただろうエッシェンバッハなら紹介者として最適では、と思いますが。



最後に余談。この編曲を用いて、ジョージ・バランシンがバレエを作っている。三つの個性が一つの作品に集まった舞台も見てみたいものである。NYCB、いつか来日公演で取り上げませんかしら。

2019年6月30日日曜日

”The SOUND” will come back Soon! ~ミューザ川崎シンフォニーホール リニューアル・オープン!

長く待ちました、なんて私が言うことではない、もっともっと待った人たちがいるだろうとは思うのだけれど、せっかくなので申し上げておきましょう。いよいよ、7/1にミューザ川崎シンフォニーホールが改修を終えてリニューアル・オープンします!拍手。
休館前に行ったのはいつだったか、と振り返ってみると1/14に開催されたモーツァルト・マチネでしたね、そういえば。その後カルッツかわさきでのコンサートもいくつか聴いて、あのホールでの楽しみ方も少しわかってきたような気がするけれど(レヴューはちょっと待ってね状態。すみません。)、やっぱりミューザ川崎シンフォニーホールに帰れるのは本当に嬉しい。喜ばしい。帰れる場所があるんだ…ボケはさておき、帰るって何様ですかね私は(笑)。

閉館していた間、改修がどのように行われたかはミューザ川崎シンフォニーホールのブログできっちり紹介してくれていますので、久しぶりに来場される前に読んでおいてください。必修ですよ(来場するの前提←それよりなにより偉そうだ)。

開場以降の公演情報を、ちょっとだけ予告編風に紹介しましょうそうしましょう。

●「ミューザの日」2019

2019年7月1日(月) ※10:00~16:00の時間、コンサート他各種企画が用意されています

やはり「あの音」がどうなったのか、それを聴かなきゃ!というあなたは、明日の昼の時間帯を万難を排して開けなければいけません(笑)。13時開演のウェルカムコンサート「オーケストラ入門!」はトークありオーケストラありオルガンありで、このホールの特性を全部楽しめる、短めのコンサートです。整音されたオルガンの音実家(じゃない)に帰る東京交響楽団の音、どちらも一度に確認できます。どうですか。

●JFE Presents
MUZAランチタイムコンサートMUZAナイトコンサート60 7月 ~祝祭のハーモニー

2019年7月3日(水) 12:1019:00開演

こちらはオルガンのサウンドを満喫できる、ミューザおなじみのランチタイム/ナイトコンサートです。ナイトコンサートでは整音についてのプレトークも行われますので、どうですか(二度目)。

4日にはホール主催ではない最初の公演として「樫本大進×ベルリン・バロック・ゾリステン」のコンサートが、週末には「ミューザ川崎市民合唱祭」が…と、これまでのブランクを埋めるかのようにコンサートが続きます。その先には、1月の公演レヴューで紹介しておいた「名曲全集」が、ノット&東響の川崎定期演奏会(超がつく注目のプログラム!!)が、そして「フェスタサマーミューザKAWASAKI2019」が、と注目の公演が待っています。さあ皆さん準備はいいですか?ミューザ川崎シンフォニーホールは明日リニューアル・オープンです。あの地震の後とはまた違う再会の喜びをぜひ、会場で。どうですか(三度目)。


(前回の復活も記録が残っているのですね。素晴らしい)

※追記。

館内はこういう感じに各所に15周年の告知があります。慶祝。


せっかくなのでかわさきミュートン、ハマの電チャン、エネゴリさん(おい)の揃い踏みのセレモニーも。

こうして見ると、船の舳先のようでもあります、ミューザ川崎シンフォニーホールの外観。新たなる船出に拍手を。

2019年6月15日土曜日

かってに予告篇 ~ 東京交響楽団 第671回定期演奏会/ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第147回

東京交響楽団 第671回定期演奏会ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第147回

2019年6月
  15日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール 大ホール
  16日(日) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:ユベール・スダーン
ピアノ:菊池洋子
管弦楽:東京交響楽団

シューマン:
  「マンフレッド」序曲 Op.115
  ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 Op.58

ベルリオーズ、ヴェルディ、アダン、そしてシューマンとチャイコフスキー。こんなふうに作曲家の名前を並べただけでは意味がわからないけれど、こう付け足してみたらどうだろう。「イタリアのハロルド」、「二人のフォスカリ」、「海賊」、そして「マンフレッド」。そう、バイロン卿ことジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)の作品を音楽化した作曲家だ。強く文学作品に反応したベルリオーズや、舞台作品の原作としてバイロンの作品を選んだ二人は自然な成り行きとも思えるが、「マンフレッド」を音楽化した二人はどうだろうか。

まずシューマンから見てみよう。彼もまたベルリオーズ同様に文学気質の作曲家だから、彼の場合は自身愛読した作品の劇付随音楽を作る機会を逃さない、というのは自然な流れだ。
対してチャイコフスキーだが、交響曲第四番を作曲した充実したこの時期にこの作品を音楽化したのは、彼自身の発案ではない。スタソフとバラキレフがかつて企図したベルリオーズによる音楽化が、時を経て人を変えて実現したのがこの作品なのだ。かつて幻想序曲「ロメオとジュリエット」の作曲を薦めた恩師とも言えるバラキレフからの提案に、すでに「白鳥の湖」や「エフゲニー・オネーギン」で舞台音楽の経験も積んでいたチャイコフスキーが、劇音楽ではなく交響曲としてこの戯曲を音楽化した。独特で複雑な経緯を経て誕生した、チャイコフスキー唯一の番号なし交響曲なのだ。

では、そのバイロンの「マンフレッド」がどのような作品かといえば、「ファウスト」との相互影響もあり、また後世には「ツァラトゥストラはかく語りき」にも通じるような、人でありながらその域を超え出ようとする主人公の、滅びのドラマだ。ロマン派の理想とも言えそうな天才が自己投影もしつつ描き出した「失われた愛と超越のドラマ」は、願望が成就しないことを受け入れた後、肉体の死をもって終わる。霊的存在にもひるまず、宗教的改心を進める声にも従わない傲岸不遜な主人公は、その到達した境地によってファウストやツァラトゥストラに、そしてその末期のあり方において「ドン・ジョヴァンニ」にも通じる存在だ。そうそう、バイロンの代表作には「ドン・ジュアン」もあるのだった。彼自身の苛烈で短い生涯が、そうした登場人物たちにも似ている面もあるのだろう。この機会に、先ほど挙げた作品群だけでも読んでみるといいかもしれない。

チャイコフスキーの作品は、四楽章構成にこのドラマを自由に再構成して乗せたものだ。三管編成のオーケストラにオルガンが加わり※、主人公の憂愁とその死を描いているが、その音楽は他の作曲家たちからの影響を感じさせるもので、その点でも彼の作品としては少々毛色の違うところかもしれない。標題音楽の作曲家としてベルリオーズの「幻想交響曲」、主人公像の近さからリストの「ファウスト交響曲」、そしてチャイコフスキーはあまり用いなかったライトモティーフ的描写にはワーグナーの存在もどこか感じられる。演奏される機会の少ない作品だが、成立過程や影響関係からなのか、独自の魅力がここにはある。

※遅まきながら、ではあるが追記しておく。今回演奏される版ではオルガンは用いられないとのこと。マンフレッドの死を救済として描くのではない、悲劇的高揚で終わるいわゆる原典版は、エフゲニー・スヴェトラーノフの演奏でよく知られる、ある意味「別の曲」である。

ユベール・スダーン時代に、東響はサウンドにフレージングに造形にと格段の進歩を遂げた。そこからノット&東響の積み重ねの中で、どこか優等生的でもあったオーケストラはより積極的に表現する、より主体的なオーケストラとして進歩を続けている。かつてのシェフとの共演は、彼らにも私たち聴き手にもその進化の程をわからせてくれることだろう。その機会にこの作品が選ばれた意味は、演奏会場で確かめることにしよう。



コンサートの冒頭に、同じ作品を題材とする序曲を置くのはわかる。では同じシューマンのピアノ協奏曲はなぜ置かれたのか。
4月に放送された「らららクラシック」で上原彩子氏が語っていた「シューマンからクララへの愛」という解釈を採るならば、原作でも描かれない「マンフレッドとアスターティの愛の場面」の補完なのかもしれない。もちろんそうではないかもしれない。これもまた、演奏会場で確かめたいところだ。



*************

なお、今回のコンサートにはもう一つ、こんな聴きどころもある。妄想は進むけれど、まずは今回の演奏を聴いて、その先の未来を注目したい。


2019年6月11日火曜日

かってに予告篇 ~東京フィルハーモニー交響楽団 第922回サントリー定期シリーズ/第923回オーチャード定期演奏会


2019年6月
  14日(金) 19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール
  16日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:沼尻竜典
独唱:ダニエル・ブレンナ(テノール)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:交響曲第六番 ヘ長調 Op.68 「田園」
マーラー:「大地の歌」

ここで曲目に「大地の歌」と書くときに、さてどう(どこまで/どのように)書くべきかと考え始めてしまう私は、きっとマーラーについて自分の言葉でちゃんと書く準備ができていないのです。というか、ハチャトゥリアンの時のようには書けそうな気がしない。
自分の話や考えくらいならいくらでも書けましょうけれど、それでは予告の趣旨に合わないので今回はちょっと方向を変えてみます。

*************

東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会は、ご存知のとおり非常に多岐にわたっている。長年の実績あるオペラやバレエの上演に、近年増えてきたシネマ・コンサートやポピュラー歌手との共演などなど。その幅広さ、公演数の多さは相当のものなのだが、その多彩さはコンサートだけに絞ってみてもあまり変わらない。
…というと、今年の定期演奏会が移行期的短めのシリーズであることを忘れたのか、とお叱りをいただいてしまうかもしれない。だが、会場を変えて月に三度開催される定期演奏会に加えて今年から拡大された「午後のコンサート」シリーズ、提携関係にある会場での演奏会、そして名曲演奏会や特別演奏会、フェスティヴァルなどでの演奏会にオペラやコラボ公演もあるのだから、それらも視野に入れてみるとまた違った絵が見えてくる、と考えるのだ。

たとえば、4月の定期演奏会に登場したアンドレア・バッティストーニの、今シーズンのプログラムを見てみよう。メインに置かれたのは4月にはチャイコフスキー、9月にはホルスト、これだけだと今シーズンの彼のプログラムの方向は見えにくい。もちろん、メイン以外の曲目を拾えば(もしかして最近は英国音楽に興味があるのかな)(古典、バロックへのアプローチを試みるのだろうか?)くらいの試論は立てられよう。
だがシーズン開幕後に発表されていく各地でのコンサートも併せれば(英国音楽やっぱりやる気だ!)(ロシア音楽も、得意曲も演奏してサーヴィスしまくり!)(「春の祭典」以来の20世紀音楽アプローチはこの方向か!)とある程度の確信をもって言うこともできるようになる(どういうことですか?と思われた方はリンク先をご覧ください)。

もちろん、こうしたプログラミングの方向付けが、どこまでが意図でどこからがめぐり合わせからくる偶然なのかは外からはわからない。それでも、ひとつのオーケストラの多彩な活動を聴き手が積極的に読み解いてしまう、こんな楽しみ方をしてもいいと私は思うのだ。では今回のプログラムからはどんな読み取りが可能だと思っているか、といえば…

*************

ベートーヴェンの交響曲とマーラーの巨大な歌曲(または”交響曲”)、この二曲はどちらだって演奏会のメインになりうる大作だ。この二作をつなぐものはマエストロの言葉を借りれば「自然と生命」だし、私にはその言葉をキーにした、一対の画風の異なる絵画を眺めるような趣があるように思える。たとえばベートーヴェンはある人物の経験を描いた一連の作品に、漢詩に由来するマーラーはそれこそ水墨画、禅画にも近い世界に。もちろん音楽は絵画ではないので、こうも単純に並べてしまうと誤解を生むだけなのだけれど、そんな戯れもたまにはいいだろう。
当時はそれほど流行っていたわけでもない標題音楽によって、日常から離れた田園生活に普遍を見出すベートーヴェン。当時の彼らには異世界にも思えたろう漢詩の世界に思いを寄せて、しかしロマン派の濃厚な表現を駆使して生と死のドラマを描き出すマーラー。気心の知れた仲であるマエストロと東京フィルはこのコントラストの効いたプログラムをどう聴かせてくれるものか、期待して会場に足を運ぶとしよう。

閑話休題。東京フィルハーモニー交響楽団のベートーヴェンといえば、私の手元にはかつてチョン・ミョンフンと録音した全集がある。二つのオーケストラが合併してから間もない時期の、それこそ「統合の象徴」として残された貴重な記録だが、今の充実した東京フィルならばなお、という思いがなくもない。バッティストーニによる「第九」はすでに販売されているが…と、思っていたこのタイミングに新譜情報が届くのもまためぐりあわせだ。



その新譜が、今回取り上げられる第六番と同じ日に初演された第五番というのもなにかの縁だろう…まで言うとこじつけが過ぎるだろうか。
そうそう、沼尻竜典といえばトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアでの古典は演奏の経験も豊富なマエストロだ、今回の「田園」が充実した演奏になることは約束されているようなものだ。

そしてこれまでもこのブログで何度か触れてきたが、東京フィルはマーラーの晩年の作品を2019年に入ってから集中して取り上げてきた。1月にはバッティストーニとの第八番、2月にはちょうどこの前の日曜にNHK FMの「ブラボー!オーケストラ」で第一楽章が放送されたばかりの第九番※、そして今回の「大地の歌」と、なにかの企画でもないのにこれらの作品を一つのオーケストラが集中的に取り上げる機会はそうあるものではない。
私は残念ながら第八番は聴けなかったのだが、チョン・ミョンフンによる第九番は実に充実した、素晴らしい演奏だった(過去記事参照)。多彩な表現の充実が求められるマーラー演奏の充実は、そのままオーケストラの良好な状態を示していると言える(こう断言してしまう私が、マーラーの音楽をこよなく愛していることを差し引いても)。巨大なカンタータの如き第八番、新ウィーン楽派にも限りなく近づいた第九番、その経験を受けて演奏されるのが、巨大な歌曲集であり、声と管弦楽による”交響曲”である「大地の歌」なのだ。作曲者同様にオペラ指揮者としての経験も豊富な沼尻が、この独特な作品の魅力をどのように示してくれるものか。独唱者に寄り添い、ときに室内楽よりも繊細に、また巨大管弦楽の奔流にと幅広い表現が要求されるスコアから東京フィルはどんな響きを導き出すのか。今一度繰り返す、期待して会場に足を運ぶとしよう。

なお。「大地の歌」が歌付きだからよくわからないのでは、と心配になっている方には、The Web Kanzakiさんのマーラー:「大地の歌」の歌詞と音楽がお薦めです。公演会場に辿り着く前に、ぜひご一読を。
あと、いろいろ書きましたが私はこの音楽の美しさだけでも知ってほしいと切に思うので、パブリック・ドメインのこの演奏を貼っておきます。



*************

最後にもう一つのめぐり合わせの話。この定期公演で演奏される「大地の歌」で、別れの冬にあって再び巡りくる春を思った東京フィルは、約半年後にマーラーの「春」とも言えるだろう交響曲第一番を、若きマエストロと取り上げる
こうして音楽は、人の営みはつながっていく。…こんなとき、適切な漢詩でも引用できたらいいのに、と思ったところで今回の予告はおしまい。ではまた。

2019年5月25日土曜日

かってに予告篇 ~東京交響楽団 第670回 定期演奏会

ギリギリですみません!読んでください!(直球)

●東京交響楽団 第670回 定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00 開演
会場:サントリーホール 大ホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 op.47

※同プログラムは5/26 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館でも演奏されます。まだ間に合いますよ!!

ベンジャミン・ブリテンとドミトリー・ショスタコーヴィチは友人であった。作品を見ていくと相互の影響も感じられる二人の作品を一つのコンサートで取り上げるのは、大変ではあろうけれど実に妥当な選曲だ。そして彼らが生きた時代は二つの大戦をはさんだそれ、その中で彼らにはそれぞれのドラマがあり、その中で重要な作品を発表した。そして今回演奏されるのはひとつは戦争前夜の、また一つは戦争勃発の頃の作品なのだから「戦争と政治」でこのコンサートをまとめるのはまったくもって妥当なことだ。東京交響楽団の言うとおりである。

ではそれ以上書くことはない、のかといえばそうでもない。あえて違う角度からの予告を一つ、私が以前「今シーズン最も注目の公演」にあげたコンサートを前に書いてみるとしよう。

*************

まずは作曲者の生きた時代、作品の成立時期を整理する。

ベンジャミン・ブリテン(1913−1976) ヴァイオリン協奏曲(1939)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975) 交響曲第五番(1937)

曲順とは違うけれど、若干年長のショスタコーヴィチによる、少し先に成立した作品から見てみよう。
ショスタコーヴィチの交響曲を第四から第九まで「戦争交響曲」とくくったレーベルもあったことだから、戦争とこの交響曲を関連付けても問題はないとは思うが、より細かく見れば、この時期のショスタコーヴィチは平時にあって彼自身の戦いを、ソヴィエトの中で戦っていた。
時はまさにスターリンによる大テロルの時代、トゥハチェフスキィ元帥すら政府によって命を取られてしまう状況下だ(どう考えても不合理な判断なのに!)。そこで展開された「ムツェンスク郡のマクベス夫人」をめぐるプラウダ批判、そして初演すらできなかった交響曲第四番(その話は3月の公演に寄せて書きました)と、当時のショスタコーヴィチは「新しい社会を代表すべき若き天才として創り上げたスタイルの集大成となるべき作品を政府から名指しで批判される」という異常な状態にあった。この時点で彼の未来は、あしたはどっちだ!どころか、明日があるのかどうかすら怪しく思える危機的状況と言える。その状況を覆せるかどうか、それが彼の次なる”公的な作品”にかかってしまった状況からこの交響曲が生まれた。文字どおりに命がかかった状況で、このような傑作が生まれたことについて、ぜひNHKは特別番組を制作してほしい。「アナザーストーリーズ」とかでもいい。
公共放送ジョークはさておき、この作品は初演で大成功を収め、模範的な社会主義リアリズム音楽として称揚され、またソ連の崩壊後にはアイロニカルに捉えられ…と時代に翻弄されながらも受容され続けてきた。ヴォルコフの言う「強制された歓喜」とは何か、スコアのテンポ表示の問題は、…などのさまざまなテーマも踏まえた上で。
そうした公的な位置づけ、意味あいはこれまで私も書いてきたと思う。その路線だけであればわざわざ書くまでもない、予習にはこの動画でもどうですか?と貼って何かおしまいでもいい。そう、「素晴らしい作品です、ぜひ聴いてください」だけでもいいんだ。


(権利的に問題ないものということでこれを貼りました)

だが、今回の演奏を前に興味深い解説を拝見したので、その従来の説とはひと味違うアプローチを紹介したい。よその団体の解説で申し訳ないのだけれど、NHK交響楽団のサイトにある中田朱美の解説がそれである(リンク先参照)
今年になって、私はロシア・ソヴィエト音楽ばかり聴いているような気がするのだが、そうなると解説に中田朱美さんのお名前を拝見することが増えることになる。先日の交響曲第四番も彼女の解説で、その文章が妥当な中にも新鮮な情報の込められたもので、久しぶりに解説者の名前をチェックしたのでお名前を記憶した次第。ということでみなさんもこの解説をご覧ください
お読みにならなかった方のために簡単にまとめますと、この交響曲に「カルメン」からの引用があることは割と早い時期から知られていたが、それがもしかするとハバネラのように(失礼)ただの飾り、外挿された”エピソード”ではなく作品全体に関わるものだった可能性がある、という示唆を含んでいる学説の紹介なのだ。どうですか、ちゃんと読みたくなったら今からでも読んでくださいね
であれば、だ。この「社会主義リアリズム」の代表とも捉えられてきたこの作品が、第一〇番とも共通する自伝的な作品である、という可能性も想定できそうに思える。この説が成り立つのだとして、さんざん呼ばれてきた愛称の「革命」とはなんだったのか!と激昂するのもよし、しょせん愛称は愛称、音を聴こうぜ!と割り切るもよし、だろう。私個人は、ノット&東響が前に演奏したショスタコーヴィチが第一〇番、第一五番であることと、この解説から得た情報が響き合うように思えて、ついちょっといろいろと妄想してしまっているところである。それは予想して当たり外れがどうこうって話ではなく、曲が持ちうる可能性についての話なのでここには書きませんが。どうせ、ノット&東響のショスタコーヴィチは私たちの先入観など超えていくのですし。ここでは、過去二作の演奏を覚えている方も、私のように「ノット&東響のショスタコーヴィチ!キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」とプログラムを見た瞬間に叫んだ方も、いやこのコンビの音をまだ聴いていない皆様も、ようやくこのプログラムを音として聴ける日が来ましたよ、とのみ申し上げておきます。

*************

そしてベンジャミン・ブリテンのヴァイオリン協奏曲だ。代表作に「戦争レクイエム」がある一方でパーセルの主題による「青少年のための音楽入門」があるという作風の幅、一部例外を除いてあまり上演されないオペラをたくさん作曲していることは知られているだろうか。もしかすると大日本帝国から委嘱されたが受け取りを拒否されたあの曲や能「隅田川」に刺激されて「カーリュー・リヴァー」を作曲していることなど日本との不思議な縁で彼を知っていたりするだろうか。ないか。同時代の先鋭的な作曲家たちほど前衛的ではないのに独特の難しさのある音楽は、一度聴けば不思議に耳に残る、明確に彼独自の音がある作曲家と言えるだろう。そんな彼のヴァイオリン協奏曲は1939年、亡命先のカナダで作曲された。
この年にナチスがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まっているのだし、ブリテンは戦争の気配を避けて北米にいたのだから「戦争の時代」という大きな物語に寄せてこの作品を捉えるのはもちろん妥当なことだ。



だが彼個人の創作から見ていくと、また違うストーリーが見えてくる。この時期、世界は最悪の一歩前といえる状況なのに、ブリテンは次々と代表作を生み出しているのだ。こと協奏曲作品に限定してみても、ロストロポーヴィチの存在あって書かれたチェロ交響曲※を除くと大戦前後に集中していた作曲されている。物言えば、ではないけれど発言しにくい時代にブリテンは言葉によらず表現できる、独奏者という”声”を求めていた、と考えることもできようか。
それ以外のジャンルでは、声楽作品の「イリュミナシオン」「セレナード」もこの時期に、また前述の「シンフォニア・ダ・レクイエム」も1940年に書かれているわけで、なぜかこの厳しい時代にイギリスを離れたブリテンには創作上の黄金期が到来した、と言ってもいいだろう。帰国した後のことにはなるが、1945年にはあの「ピーター・グライムズ」が初演されて”20世紀の偉大なオペラ作曲家”としてのブリテンになるのだ、黄金期くらい言っても大げさではあるまい。

※この作品と作曲時期が近い「戦争レクイエム」を併置して「1960年代に捉え直されたWWII」という読み方も可能かもはしれない。さすがに先走り過ぎであるとは思うが。

この時点では、ブリテンにとってショスタコーヴィチはまだ知己のないひとりの先達で、それぞれが違う環境、違う場所でそれぞれの戦いをしていた。彼らが作品を介して互いに刺激し合うのはもう少し先の話である…のだけれど。ブリテンのヴァイオリン協奏曲がショスタコーヴィチの第一番に影響していたのではないか?パッサカリアを協奏曲に持ちこんだこと、独特なオーケストレーション…なんてことを考えてみるのも面白いかもしれない。今回は時間が尽きたのでこれ以上は話を広げないけれど。そう、能書きはこのへんまででもう十分すぎるだろう。今はノット&東響の紡ぐ音楽に期待を高めながら赤坂・六本木方面に向かうときである。皆様熱中症にはお気をつけて。



*************

おまけ。
中田朱美さんですが、7月下旬から2回シリーズで「ショスタコーヴィチ交響曲第5番解説」という講座を朝日カルチャーセンター新宿教室で開催されるそうです。如何ですか、本公演の復習に、フェスタサマーミューザKAWASAKI2019最終公演の予習に。

2019年5月12日日曜日

かってに予告篇 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回

もう今日の公演なので、私の都合で仕上げが少し荒いかもしれませんが例のやつをば。

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第146回

2019年5月12日(日) 14:00開演 会場:カルッツかわさき

指揮:飯森範親

バリトン:ヴィタリ・ユシュマノフ◆
児童合唱:川崎市立坂戸小学校合唱団(合唱指揮:中島はるみ)♥
合唱:東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)★
管弦楽:東京交響楽団

ボロディン:だったん人の娘たちの踊り、だったん人の踊り(オペラ「イーゴリ公」より)◆★
ムソルグスキー:はげ山の一夜(オペラ「ソローチンツィの市」1880年版)◆♥★
チャイコフスキー:大序曲「1812年」♥★
カリンニコフ:交響曲第一番

*************

「だったん人の踊り」「1812年」、それも合唱付きといえば、一昔前なら録音の良さを誇示するが如き”スペクタキュラー・アルバム”の定番だった。そこにムソルグスキーの「はげ山の一夜」が収められるのは自然なことだ、演奏効果の高いロシア管弦楽曲の定番としてよく知られた作品なのだから。だがしかし、それが「合唱・声楽付き」だとしたら?一般によく知られた「はげ山の一夜」は、作曲者の没後にリムスキー=コルサコフが編曲したもので、最近では作曲者自身が完成させていた「原典版」も演奏される機会が増えた、そこまでならご存知のかたも少なくないのではないかと思う。だがこれらには合唱も独唱も用いられていない。では今回演奏されるのはいったいどういう版なのか?

これがよく知られた版ですね。

ご存知の人はご存知の通り、ムソルグスキーはなかなか作品を完成させられない人だった。着想を得てある程度まで作られながら、完成に至らないばかりに知られていない作品のなんと多いことか、そんな彼のキャリアが後年の研究でどんどんと知られてきている。こと「はげ山の一夜」にしても、未完のオペラにその萌芽があるけれど未完のまま放棄、その後原典版(1867)が作られながら初演されず(初演は1968年、100年以上が過ぎてからのこと)、没後の1886年にリムスキー=コルサコフによる編曲版でこの作品はようやく音になり、その後は高く評価されて現在に至っている、というのが比較知られたこの作品の歴史だ。この作品をもっとも世に知らしめたのは先日「なつぞら」でも登場した映画「ファンタジア」(1940)だろう(ドラマ本編では当該部分は登場していません)。ここではリムスキー=コルサコフ版をさらにストコフスキーが編曲した版が用いられている、と指摘するだけにこの文章では留めますが、せっかくなので皆さんこの機会に全篇見てください。そうそう、リムスキー=コルサコフ版なら「スケバン刑事2」でも…いやそういう話はもういいですねすみません。


(先日の放送でパブリック・ドメインだと気がついたので貼ってみる。どきどき)

閑話休題。
では、今回演奏される合唱も独唱もついた「はげ山の一夜」とはなんなのか。それは曲目にもある通り、オペラ「ソローチンツィの市」(かつて「ソロチンスクの定期市」と訳されていた、1870年代に取り組んだ未完の作品)に転用されたものだ。1868年の原典版に声楽を付与しただけではなく、「若者の夢」というオペラの一場面を形作るものなのだという。原典版とリムスキー=コルサコフ版をつなぐ「ミッシング・リンク」としても興味深い、作曲者による”別解”が音になる、貴重な機会となることだろう。洗練されたリムスキー=コルサコフの仕事でもなく、野卑だからこそ力強く輝く原典版とも違う第三の「はげ山」は、きっと我々の知らない「壮観」を描き出してくれることだろう。

第14回東京音楽コンクール声楽部門で第2位を獲得し、各地の演奏会で活躍するヴィタリ・ユシュマノフ、おなじみの東響コーラスとともに共演するのは川崎市立坂戸小学校の合唱団だ。ただの「地元の子供たちの晴れ舞台」と侮るなかれ。この子たち、実は昨年のNコンで銅賞(第3位)に輝いているのだ。きっと見事な共演を果たして私たち聴き手を驚かせてくれることだろう。

*************

ここでメインの作品がチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフなら、堂々たる直球の「スペクタキュラー・コンサート」なのだけれど、今年度内には150回を越えようという回数を重ねてきた「名曲全集」はひと味もふた味も違う。最後に演奏されるのはヴァシリー・カリンニコフの交響曲第一番 ト短調(1894-1895、初演1897)なのだ。

カリンニコフは1866年に生まれて1901年にわずか34歳で亡くなった作曲家だ。ロシアに限って世代でみればチャイコフスキー(1893没)よりは後の、グラズノフ(1865生)やラフマニノフ(1873生)に近い。もっとも、同世代の二人ほどの時間は彼にはなかったのだが。NHK交響楽団のサイトにある解説(リンク先)を一読するだけでも辛くなるほどに厳しい生涯は、山田天陽くんのモデルとされる神田日勝のそれを想わせる(「なつぞら」脳の恐怖)。一般的に言うならゴッホとかでしたねすみません。

今回演奏される第一番、作曲年代で同時代の作品を見ていけばどうなるか。マーラーなら交響曲第二番から第三番、シュトラウスは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはかく語りき」と交響詩の時代。ドビュッシーなら「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルはまだ駆け出しで初期のピアノ曲を書いているころだ。二週間しか生まれが違わないシベリウスなら「クッレルヴォ」で名声を得て、しかしまだ最初の交響曲は登場していない。そんな時代を不遇の才能は生きた。シューベルトよりは長生きだ、なんてなんの慰めにもならないほどの短い生涯を。
しかしソヴィエト時代にも彼の作品は細々とではあるけれど演奏され、録音されてきた。その中心的な作品がこの交響曲だ。最近では山田和樹も録音しているこの作品に、この機会に多くの方が出会えるならば幸いなことだ。その出会いが良きものとなるよう、飯森範親と東響の好演に期待しよう。


この作品はこんな大御所も演奏されているんです、実は。

*************

本当は「だったん人の踊り」がちゃんと「だったん人の娘たちの踊り」から始まることとかも書いておきたかったのですが時間切れ。お詫びということでもありませんが、最後に「スペクタキュラー・プログラム」について書いた文章にふさわしい映像を貼っておきますね。ではまた。