2012年12月31日月曜日

もう二兎は追わない(または二度と迷わない

こんにちは。千葉です。

2012年最後の反省会です。千葉に興味のない方、検索でたどり着いてしまった方には、ごめんなさい(笑)。

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えっとですね、このブログについて、少しばかり運用に迷いがあったんです。というか、ちょっと色気出して違う活用もできないかな、とかなんとか。はじめのうちに文体を少しいつもよりていねいにしていたり、話題を絞っていたのは予め色を付けてしまうとそっちの用途には使いにくいかな、とかなんとか、ゴニョゴニョゴニョ。

ですがもう、「向こうだけじゃない、こっちも千葉のブログなんだよ、すみませんねえ~」と開き直ってもっと書きます。特段方向が変わるわけじゃないけど、もうちょっと話題に食いつきます(笑)。あと、更新頻度を上げることで仕掛中のお題への意識も高めたいですし(けっこう切実)。

それとは別に。昨今の社会情勢を鑑みるとですね、割と冗談抜きで危機感があるんですあれとかこれとか。そのためにも、向こうはごった煮の良さを活かして積極的に活用する、こっちはそもそものクラシックを聴いてる/これから聴こうと思う方向で発信に務める。それがおそらく上策かな、とようやく思い至りました。やっぱり待ちぼうけじゃダメなんですよ!方向を決めて攻めないと!(さりげなく入れ込んだ山田耕筰先生ネタでここはクラシックのブログなのだ!とアピール)

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まあ、めったにコンサートにも行けず、新譜もなかなか贖えない千葉が書けることなんてのはたかが知れてはおりますが、それなりのベストを尽くしていきたいなと考えます所存。面白く思えたところ、使えたところだけで構いませんので、こんな拙におつきあいいただけましたら幸いです。

来るヴェルディとブリテン、そしてワーグナー他の記念年が実りあるものでありますように、とクラシック者らしいお祈りで本年の〆といたします。では皆々様、良いお年をお迎えくださいませ。



新年はモーツァルトで始めようかと考えております。そういうニューイヤーコンサートなら、実演でも行きたいものなのだけれど…

2012年12月30日日曜日

2013年は1月28日より始めます(え

こんにちは。千葉です。

クラシックのブログなんだし、年末年始らしいことも書こうよ!と思って書いておきます。なんだそのムダな義務感。

とは言いながら。あたしゃジルベスター・コンサートは行かないし(テレビのアレも見られなさそう)、実はニューイヤーコンサートはウィーンのアレであろうともそんなに興味が無い。見れば、聴けば楽しめるのはわかってるんですけど、まあいいかなって。えっと、あっちは威風堂々でカウントダウンで、向こうは指揮者にフランツ・ウェルザー=メストでしたっけ…

何が痛いって、この数年大好きなベルリン・フィルのジルベスター・コンサートが録画放送になってしまったことですよねえ…千葉は断然ベルリン派なので(というか、他の団体や指揮者と比べる気がない)、生放送されていた頃は年末の楽しみだったのですけれど。

でもまあ、放送がないわけじゃないでしょう?と思って確認しました2013年1月のNHKBSプレミアム、「プレミアムシアター」の予定を。さあ皆さんハードディスクを開ける準備にかかってくださいませな。

●1/14(月) 0:55~ ◇ヤンソンス&バイエルン放送響 ベートーベン交響曲全曲演奏会(1)&(2)

●1/21(月) 0:45~ ◇ヤンソンス&バイエルン放送響 ベートーベン交響曲全曲演奏会(3)&(4)

●1/28(月) 0:45~ 
◇ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート2012
◇ドレスデン国立管弦楽団のジルヴェスター・コンサート2012

なるほど、ではあれだ、千葉の新年は1/28から始まるということでよろしいか(おい)。

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外の暗さと強まる雨音を聴いているうち、なにか散らばったデスク周りを見ながらこんなことを書いている場合ではないのかもしれない、と思えてきました。多分気のせいではないと思われますので(笑)、ひとまずはこれにて。ごきげんよう。


2012年12月25日火曜日

素直に喜べなくてすみません!

こんにちは。千葉です。

今日は簡単に、先ほど気がついたテレビ放送の予定をば。

◆華麗なるオペラの世界 ミラノ・スカラ座

え~、今晩からですね、スカラ座の舞台をBSプレミアムで四夜連続放送とのこと。「シモン・ボッカネグラ」「ピーター・グライムズ」「カルメン」「ジークフリート」というラインナップ、なにか男子として考えさせられる作品が並んでいるような(笑)。

でもなあ、個人的な意見ですが、あたしゃダニエルさんが苦手なんだよう。四演目のうち三つまでが彼の指揮ってのはどうも。音楽監督なんだから仕方ないけど、NHKさんはよそのオペラハウスと組みませんかね(おーい)。

まあ、最近入手した録画装置でとりあえず録っておきましょう、いつか見るかもしれないし(おーい)。「ピーター・グライムズ」がロビン・ティッツィアティの指揮なのは気になるところではあるし。ワーグナーならまあ、ダニエルさんでもいけなくもないし。うん、そう思うことにしよう…

以上簡単なお知らせでした。今晩の「シモン・ボッカネグラ」に間に合うといいけど…

2012年12月24日月曜日

わたしのク・リ・ス・マ・ス(はあと)


こんにちは。千葉です。

えっと、今日は休日なんでしたっけ?そういえば今上陛下のお誕生日を呪う意味合いで占領軍は戦犯の死刑をどうのこうの、って本を書いた人がいましたね、今どうしてるのかしら…え?都知事に以下略。

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まあ、いいでしょう。風潮に文句をいうのは飽きました。好きなだけ好きなときに好きなところで考えなしにその断片を流すがいい、「第九」を「くるみ割り人形」を「メサイア」を、そしてヴェルディのレクイエムを!




いややっぱり最後のは認めないわ(断言)。ってか、他のも許す気にはなれないし。せめて少しは考えて使えっての。ぶつぶつ。

やっぱり思うんだよう、脈絡なく突然に、そういう大事な曲の断片を聴きたいとは思わないんだよう。特にも、時代が変な曲がり角に来ていると感じられるいま、ベートーヴェンもヘンデルもショスタコーヴィチ編曲版か何かのように、どうにも皮肉に感じられてしまうから、本当に厭なんだよう。どうせなら意図的な悪意のひとつも込めてくれよ、無邪気に歌われるアイロニカルな祝祭の歌とか、どっかの映画の中だけにしてくれよ…

あのう、ちょっと余談なのですが別途書きますがここでサワリだけ。「右左」で物事を語るのはやめたほうがいいと思いますよ?ショスタコーヴィチはソヴィエトだから左じゃん、こいつサヨク?とか、本気で口走る前に少しは考えましょうよ、その含意を。

まあいいや、定番の音楽はいまいち、ではいま何を聴くのか?といえば、この数年の定番の大槻ケンヂと絶望少女たち「かくれんぼか鬼ごっこよ」(原作が完結して、また前とは違う趣が感じられます。特にもお目当ての曲、「無神論者が聖夜に」はもう…)、オネゲルの「カンタータ・ドゥ・ノエル」(記事の最後にYouTubeの動画貼っときます)、そして先日書いたベルリオーズ「キリストの幼時」ですかしら。





今年は本当に思うんです、キリストの生誕の時になぞらえてもいい、まずい時なのではないかな、と。まあ、危機がひとつの極みに届くところにあったから、世界に強い原理をもたらす強い救世主が求められてしまったと思われる紀元前4年(とされるその時)と比べるのはもちろん、ほんの戯れですけど。そう、クリスマスは「救世主の誕生によって最悪の危機を乗り越えた」ことを持って寿がれるものかと。無前提に多幸感に酔えるほど、いまはいい時ではございますまい。人によっては先日の選挙でそのような心地になれたのかもしれませんけれど、千葉は無理です。はっきり言って、今まで生きてきた中で一番信用のおけない政治状況だと思います。その辺は向こうのブログにちょくちょく書いてますので、興味がある方はそちらでどうぞ。

別にいいんですよ、日本的なクリスマス&年末の開放感をこめて第九でこの上ない喜びを歌おうとも、「くるみ割り人形」が描く通過儀礼のドラマにまた一つ過ぎ行くゆく年を感じても。ああ、でもキリストの生涯を見る過程抜きで「メサイア」を、そのハレルヤを喜ぶのは、どうなんでしょうね、(笑)。
受容は人それぞれだから強要や苦言はしない、でもいま挙げたような名曲が、どうしようもなく効果音扱いされているのを見るのは、正直に言って辛い。なにもミラン・クンデラに言われなくとも、本来の作品から切り離された部分を問答無用で聴かされても、なんとも言いようがないですし。
ごく稀に、映像とのシンクロで独特の面白さを作れているものがあるにしても、そんなものは昨今のテレビCMなどには望むべくもない。そのCMがセールのお知らせだったりするのだから当然だけど…

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ということで、我は如何にしても基督教徒たりえず、されど斯くも芳しからざる心情にならざるをえない12月の、テレビから見える音楽状況でありました。その辺考えると、個人的には多すぎるように感じるベートーヴェンの交響曲第九番のコンサートも、いわゆるクリスマスコンサートもまだ、マシなのかなあ…

というけっきょくは現実を否定しきれない結論にたどり着いても、それでも個人的には先ほどあげたような曲を聴きますわ。あとシベリウス、ショスタコーヴィチなどなど…いつもどおりの選曲ですね、それにこちらの曲でも追加しておきましょう。
ではまた、メリー・クリスマス&良いお年を!(年内更新はまだしますけど、お決まりってことで)



上に貼ったリンクはMP3のもので、なぜかカラヤン&BPhの交響曲第三番「典礼風」とカップリングになっている、という。いろいろと心配にならなくもないのですが、「カンタータ・ドゥ・ノエル」だけならこちらでお試しいただけます。この投稿者の方、やたらオネゲル作品をアップロードされてるようだけれど、何者かしら…

2012年12月20日木曜日

季節の音楽がどんどんと…


こんにちは。千葉です。

昨晩(というか本日の未明)に放送された「読響シンフォニックライブ」、なんでもカンブルランの指揮でストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」だということなので、録画してみたらあれなんですね、時間的に問題のない曲なら「CMなしで一曲まるまる放送」してるんですね!カンブルラン得意の20世紀音楽ならそんな曲ばかりですから、もしかするとちゃんと演奏が聴けるかも、と好感したのであとでしっかり見てみようと思います、長身なのに上半身をかわいく左右に動かすカンブルランの指揮を(笑)。

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さて。先日の衆議院議員選挙(個人的には「クリスマス選挙」だったのか、と思っていますがその話はまた別途)の結果を見たら、シベリウスを聴くモードからショスタコーヴィチを聴くモードにさらっと移行してしまいました。寒さがね、ちょっとより酷くなったような。または某戦車道アニメの影響を受けた、のかなあ…あ、シベリウスの交響曲についてまとめるのは続けてますよ、ご心配なく(そんな人、いないか)。

にしても困ったなあ…あたしゃ馬鹿正直が売りですからね、二重言語を命までは危険に晒さないギリギリのところで使い分けたDSCHにシビれるあこがれるゥ!とは思いますが、自分がそういう状況でどうするかは考えていなかったなあ…

え?考えすぎ?だと良いですね、そう期待できたらいいんですけど。

こっち向きのお題じゃないけど書いておきます。米国との同盟が大事、とは言うけれど日本は未だに米国民主党側との強いつながりがない。日本の民主党政権下でも、「日本通」としてメディアに登場していた人たちは少なくなくブッシュ時代から変わらない面々、つまり共和党とのつながりが指摘される人物中心なんですね。ジョセフ・ナイは数少ない例外で、ジェラルド・カーティスやマイケル・グリーン、そしてリチャード・アーミテージあたりはもう、完全に色がついてます。そんな人達が現在のオバマ政権に影響力、あると思いますか?まさか。
合衆国ではリベラルよりの民主党オバマ政権、一方日本の次なる政権は新自由主義に染まったかに見える復古的国家主義的政権です、それもジョージ・ブッシュJrの時代の「パートナー」の復帰。この関係に「ねじれ」を見ないで無邪気に「日米同盟が大事!」とか、いくら言っても意味がないと思うんです、正直なところ。

仮に米国とうまくやっていけるとするならば、…ってこれ以上はさすがにこっちだと踏み込みすぎですね。また別途向こうに書くことにします。率直に言って、自民党が思っているような大事な「アメリカとの関係」ってのは、夢か何かなんじゃないかなあ、って思うんですけど。

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まあ、いろいろと思うわけですが、まずはこの衝動に身を任せてショスタコーヴィチでも聴きますかな、と思った時にまず頭に浮かんだのは、この二人の録音でした。


Georg Solti/ショスタコーヴィチ: 交響曲集<タワーレコード限定> [PROC-1055]

Eugene Ormandy/The Philadelphia Orchestra/オーマンディ・コンダクツ・ショスタコーヴィチ [SICC-1590]


お二人とも時代の流れのままにハンガリーからアメリカへと活躍の場を移した20世紀を代表するマエストロですね。存命中に日本で十分に評価されていたようには思えないところがあるのですが、千葉はお二人とも尊敬しておりますよ。

でもショルティの方は考えてみたらまだ買い直していなかったので(おい)、オーマンディの盤を取り出してみました。千葉の手元にあるのは米国SONYの廉価盤、Essential Classicsのものなので、残念ながら上の商品にある交響曲第一番、そしてバレエ音楽「黄金時代」からのポルカは聴けていないのですが。

他にもBMGの第一三から一五番までもあるし、何を聴こうかねえ…と思ってなんとなく選んだのが第一〇番。これがねえ、本当に力のあるオーケストラにしかできないコントロールされたサウンド、そして指揮者の見事な統率。素晴らしい。振幅も大きいのだけれど、技術的にゆるぎがないので演奏の安定感が強い、だから変な緊張感などは皆無。オーケストラ音楽たるものかくあるべし、と自信を持って語り得ただろう20世紀のオーケストラのひとつの理想像ですね、やはり。それがいささか虚構的なものであるとしても。

米国の団体の場合、どうしても歴史と伝統で泊を付けられないものだから、故なく低めに評される事が日本では多いように思うのだけれど(そこで活躍したマエストロたちともども。もったいないことです)、大戦争の影響で数多くの音楽家は新大陸へ移住していたから20世紀初頭の伝統がある意味で「口伝」されている可能性があること、なにより歴史を振り返ればグスタフ・マーラーもまたニューヨークの音楽家ではあることなど、考えましょうよう。彼らが音楽史の中でメインストリームだ、とまでは申しませんが、冷戦構造の中で欧州から離れたところで純粋培養をされたかのような側面のあるアメリカのオーケストラ、そういう前提をもって捉え直されるべき時期ではないかなと感じる今日この頃であります。

聴き終わってその演奏の見事さに感心して、なんとなく検索をかけてみたらこのような記事に行き当たりまして。よく見たら外来オーケストラの公演情報を資料化されている阿伊沢萬さまのところでした、昔はよく拝見させていただいておりました!

なんでも、第一〇番の録音について「この曲の録音を開始する6日前にキング牧師暗殺事件がおきました」(引用終わり)とあるんです。確認したところ、キング牧師の殺害は1968年4月4日、この録音は10日から18日とクレジットされてます。なるほど、彼にはこういう独特なめぐり合わせがおおいのかなあ…メインストリームにいた、しかし亡命者というのはある意味で政治色を薄められますからね、ってのは何かの話に似ているな…それにしてもセッション録音で9日もかけたのかしら?(さすがにそこまではやらないか)

まあ、そういうことは余談ですから、まずはぜひオーマンディのショスタコーヴィチ、聴いてみてくださいな。その上で、めぐり合わせや果たしてしまった役割を考えるべき、かと。
それにしてもですよ、彼らの演奏を聴けば聴くほど思います。全盛期の実演を聴いておきながら彼らの演奏を軽々に否定しちゃった当時の批評家、呪われるべき、と(笑)。

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最後に余談を。ソニーというより当時のコロンビア、オーマンディにセルにバーンスタインを擁する豪華ラインナップだったわけですけれど、なんでも一番の売れっ子はオーマンディ&フィラデルフィアだったとか。ふむう、エスタブリッシュメント層にはこの正統派感がよかったのかしらん、などと思わなくもありません。
でね、だから、というわけじゃないんだけど。ニクソンのお気に入りだったから、って簡単に悪役にして欲しくはなかったな、手塚先生!とか思ったりもいたしました、バーンスタインを評価したことも、ニクソンが嫌われ者だったことも分かるんですけど!と別の話を振ってしかし逃げるんだよォ!(笑)、ではまた。

2012年12月12日水曜日

この季節、この作品は如何か(提案)

こんにちは。千葉です。

ここ最近の内外の20世紀の、または昭和の偉大な才能の訃報の連続に、否応なく時代の変わり目を生きていることを再認識させられております。この20世紀≠昭和であること、前から考えていることがあるんだけどなかなかまとまらなくて、なんともはや。

訃報のうち、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、そしてリーザ・デラ・カーザについては後ほど音盤でいま一度かつての歌を楽しませていただいたあとに、何か書くと思います。お二人にはそれぞれ違う方向でオペラについて目を開かせていただいたと思うので。

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千葉はこの季節になると、正直に申し上げてテレビをつけているのが苦痛です。いやもう少し正確に申しましょう、民放テレビをつけていることが、苦痛です。それも深夜枠などではなくいわゆるいい時間帯、夕方からニュースの時間帯まで。あのう、ベートーヴェンの交響曲第九番 ニ短調 作品125の断片を、CMで効果音的に使うの、禁止したらいいんじゃないですかね。あとヴェルディとモーツァルトのレクイエム、あと(以下延々と続く)。

何もこの作品が嫌いだから言ってるんじゃないんです。それなりに音楽が聴けるようになったころ、実演(というか、リハーサルだった、仙台フィルの裏方)でその終楽章の構成が「わかって」、それ以来作品には敬意を持って接するようにしております。年に何度も聴くような曲ではないし、部分だけでその作品がどうのこうのと言えるものじゃない、そう思っているのです。それがなんですかこのお国の広告は。一楽章も二楽章も、そしてフィナーレも切り刻んで都合よく効果音にしてしまう、それも自分では面白いと思っているのだろうけれどあまりに安易で思いつきの枠を全く出ていないやり口で。作中で好きな音楽が使われるだけでその強烈なアイロニィに苦悶させられるキューブリック並みの手が思いついてから使えってんだコンチクショー。

はっ。手が暴走いたしました、すみません。何よりこれ、本題じゃないんです(笑)。

12/11にTwitterで認識したのですが、なんでもその日はエクトル・ベルリオーズさんのお誕生日なのだとか。えっと、1803年生まれだと、189年目?(はんぱ過ぎ)

じゃあさ、季節柄もいいしお題としても適切なんだからさ、この季節には彼のオラトリオ「キリストの幼時」を聴くのはどうかな!(提案)


そもそもこの作品、友人をかつぐために作曲された小品を「架空の楽長ピエール・デュクレの作品」として演奏、好評を得た後ベルリオーズの作品だと明かしたという、いわゆるドッキリ的手法で発表されたものから生まれた、なんとも評しがたい素性の作品なんです。その冗談から全三部、「ヘロデの夢」「エジプトからの逃避」「サイスへの到着」というキリストが生まれる前後のエピソードを音楽化したもの。それも、ネタでありながらそれなりに時代を意識して古雅な趣のある作品にしあがってるんですよこれ。いいですよ、なかなか。


え?ご存じない?部分も聴いたことがない?それはもったいないこと、今探してきたこちらの動画でもまずはご覧くださいな。5分弱、合唱中心の雰囲気のある映像です。




ベルリオーズって言うとあの有名なカリカチュアのせいもあってか、やたら巨大な音楽を書いた人扱いされやすいですけど、それは時代がそうさせた面もあるわけですから彼一人をネタ使いするのは正直、どうかなって前から思っていたんです。同じフランス革命期の作曲家なら、ゴセックとかけっこう、アレですよ?(笑)

それに、その幻想交響曲にしたって第一から第三楽章まではそんなに大編成でもありませんし(四楽章までテューバは出番がない!)、音楽の作りにしてもいささかプロットだよりの力づくの展開だとしても、そんなに時代からかけ離れたものではありますまいし。むしろこの曲で気になるのは、舞曲などではない無形式の作品を意味していた「Fantasie」(モーツァルト晩年のクラヴィーア曲とか美しいですよね)がいわゆるホフマン風の幻想になっていったのか、っていうか日本だとその辺あまり切り分けて考えてないんじゃないかなそれでいいの?ということですね(一文が長いって)。

ともあれ、この作品でベルリオーズは、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がそうであるように断章によりひと続きのドラマを描き出しているように思います。救世主が求められただけの事情があったその時代を落ち着いた響きで聴かせてくれる、隠れた名作なのではないかと。というか、クライストマスだと思ってんならこういうの聴きやがれコンチクショー(あ、また指が)。

もし全曲で聴くなら、このへんがオススメかなあ。




左はいわゆる古楽器演奏、千葉としては同時代アプローチと言いたいスタイルによるもの、中はモダン楽器によりヴィブラートを控えた(演奏技法の一つとして濫用を戒めた)「ピュアトーン」スタイルによるアプローチ、そして右はバリバリの20世紀モダンスタイル。三者三様お好みでどうぞ、千葉はいつも聴いているのは左のヘレヴェッヘ盤で、右のはいま探したら引っかかったものです。こんな映像あるんですね、知らなかった(笑)。

はじめ、古えの楽長の作とされた作品を、作曲された当時のアプローチの研究に基づいて1997年に録音した。うむ、左側のヘレヴェッヘの盤の紹介はなかなか面妖なものになりますね(笑)。とても落ち着いた雰囲気の、美しい演奏です。

美しさで言うなら、ノリントン自慢のピュアトーンが神秘性につながっているシュトゥットガルト放送響との盤も負けてません。ちなみに彼らのベルリオーズの超大曲(演奏時間は二時間足らずだけど編成、その発想のスケールが)「レクイエム」もいいです。あれなら宗教曲として通用する。作中で裁きのラッパは空間を駆け巡って鳴り響くけど。

最後のミュンシュとボストン響のライヴ、どうしたものかな…と思っていたらYouTubeにありました、先ほど貼ったのと同じ部分の動画。リリース元の動画だから安心ですよ!(何がだ)



早めのテンポで美しく歌われてますね、こういうのを聴くとミュンシュに対する日本での一面的な評価もどうにかならないかな…とか思ってしまうけれどそれはまた別途。

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ということで。くるみ割り人形もいい、ヘンゼルとグレーテルもいいでしょう。日本ではこの時期の餅代稼ぎとしてもはや伝統になっているからベートーヴェンも許しましょう、でもそれ以外の曲も探そうぜ!というご提案でした。
でもなあ、かつてオネゲルの「カンタータ・ドゥ・ノエル」を普及したいと思ったけれどなかなかそれも難しかったから、まあ期待しないでほそぼそと書き残しておこう。うん、いつもどおりだね!(笑)

では本日はこれにて、ごきげんよう。


2012年12月9日日曜日

いま思えば、酷い回り道


こんにちは。千葉です。

シベリウスの交響曲、何度も自分なりにまとめようといろいろ聴いて本を読んで、試みてはみたけどどうにも筆が進まない。でもまあ、そろそろいけそうです。でもプロローグ的に、その筆の進まなさのその訳を、少しばかり紐解いてみましょう…

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そもそも、なんですけどね。千葉は彼の交響曲第一、第二番とはそれなりにつきあいがあるはずなんです。
まず第一番。高校生の時に吹奏楽編曲された第一楽章を演奏した、さらに「フィンランディア」も演奏した。両曲ともテューバがなかなか面白い、演奏して楽しいものだったのだけれど、その当時はオリジナル管弦楽版にあたる習慣など、ほぼない(例外はドビュッシー)。映画を知らずに映画音楽を演奏して、原曲を知らずに編曲ものを切望する。怖いもの知らずというかなんというか。近年の吹奏楽少年少女がそんな蛮勇を振るっていませんように。
第二番は、たしか大学に入ってそれほど時間の経っていない頃、仙台に来演した東京大学の管弦楽団が演奏したのを聴いたのが最初だった、はず。知らない曲だったけど第三楽章からフィナーレへのつなぎ、そしてその鮮烈なファンファーレに大いに感心して、すぐにCDを買ったのを覚えてます。それは忘れもしないバーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のもの。当時一番入手しやすかったから、ですが(いわゆる名盤のリイシューをまとめたベスト100はその頃からでしたね、売上税じゃなくて消費税が導入されたその頃です)、それがたぶん千葉が最初に買ったウィーン・フィルハーモニーの録音じゃないかなあ。フランス近代からクラシックに入るといわゆる型どおりの入門ができなくて困りますぜ(笑)。


 

右側のジャケットに愛着はあるけれど、これから買うなら左のボックスでしょうねえ、お値段も違い過ぎますし(この価格差の話はいつできるのだろうか)。

編曲されたものではあったけどその作品を演奏したこともある、作品に心動いて録音を入手し、しかもそこでバーンスタイン、ウィーン・フィルハーモニーとも出会っている。フィクションならここで運命的に縁が深まるところなんですけどね、千葉の場合は何も起こりませんでした。そういうものっすね現実。または哀れなり凡庸なる私(笑)。昔話はこの辺で…

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では聴き込むシリーズを始める前に、シベリウスについての事実関係を整理しましょうか、自分なりにですけど。

ジャン(ヤン)・シベリウスは1865年12月8日に生まれ、1957年9月20日に没した。91歳の大往生。

約90年もの生涯で交響曲は七曲か、少ないなとか思いますよね、なんといっても交響曲なんだもの、九曲は書かないと(おい)。でも彼の作曲のキャリアを見ていくと、出世作の「クッレルヴォ」(1892)から交響曲第七番(1924)までの、30代から50代までに限定されてくるんです。ちょうど世紀の変わり目、そしてそれは時代の変革期でもあった日々を作曲家として生き、そして世界恐慌を前に筆を絶つ。作曲をしなくなった(いろいろな証言から考えると「発表しなくなった」、が妥当か)シベリウスはその後の大戦争も冷戦も同時代人として経験している、でもその時代に彼は作曲家としてのアウトプットをしていない。研究者ならばそれが生業だけれど、ただの素人がその点についてどうこう言うのは正直僭越にすぎる感もある。なので交響曲の話のあとにも、この点は詮索しません。悪しからず。個人的には、そこに何かを見いだすもよし、あえて問わぬもよし。そう思う次第であります。


こうして生涯の見取りを大まかに書いてみると、またよくわからなくなる感じがします。対話のエピソードが残っているからマーラーの同時代人だと思うこともできる、それも異なる交響曲観の持ち主としての対話にはなかなか考えさせられる。少なくとも、「交響曲」ってなんなんだよ、と思ったことのある人ならスルーできるものではございますまい。
また、オーマンディの演奏を高く評していたというエピソードからは大戦後まで生きたことをいやでも意識させられる。今回聴くかどうかは微妙だけど、この盤のジャケットとか、刷り込まれちゃいますよね(笑)。



ではまた角度を変えてみましょうか。
先ほども書いたとおり、晩年の禿頭の写真が教科書に載っていたりしたから老巨匠のイメージがあるけれど、実際には作曲家としては壮年期にその活動を終えている。Wikipediaにさえもう少し若い頃、1913年撮影の写真もあるのに、なぜ最晩年の写真を使ってたんでしょうね、っていうか著者近影?(笑)ちなみにWikipediaにある写真の時期は交響曲でいうと第四と第五の間です。大戦前、ですねえ…

ううん、言葉でつらつらと書くとダラダラと長くてわかりにくくなりますね、整理の意味で以下に作曲年代一覧を、千葉の考えるシベリウスの有名な作品で作っておきましょう。

1892年 クッレルヴォ
1899年 交響曲第一番、フィンランディア
1902年 交響曲第二番
1903年 ヴァイオリン協奏曲(1905改稿)
1907年 交響曲第三番
1911年 交響曲第四番
1915年 交響曲第五番(1916年、1919年改訂)
1922年 交響曲第六番
1924年 交響曲第七番

単純に計算して出世作「クッレルヴォ」が27歳ころ、そして最後の交響曲が59歳頃。六十代以降の作品はわずかに交響詩「タピオラ」、劇音楽「テンペスト」などわずかしかない。ということは92歳で没するまでに約30年間の沈黙がある、つまりいわゆる晩年の作がないということになるのです。であれば、生涯の変遷でその音楽を捉えることは困難です。もちろん、同時代の人たちであれば一曲ごとに反応したりして、その変遷を生涯と時代に関連づけて受け取ることもできたでしょうけれど、我々後世の者共は否応なく時間的にも地理的にも遠くから、彼の生涯が交響曲第七番の後にも続いたこと、第八番が書かれていた、しかし公にはされなかったことも知ってしまっている状態で俯瞰するしかないわけで。拡大鏡が必要ですよね、それなりに。

ただの素人には仔細な時系列の変遷は追いにくい、しかしそれでも彼の交響曲が一曲ごとにかなり異なる個性を持っているのもまた事実。さてどう捉えたものか…っとか、ずっと困っていたわけなのですよ。
正直なところ、音楽を聴いてそれがどういう作品かを正面から捉えて言語化を試みる、その上で受け取れたものを可能な限り借り物でない言葉で書いてみる、それ以外のやり方はないんですけどね…これまでだってそうだったのに、開き直るのに時間をかけすぎました。反省。なまじ少しばかり知っているから、余計な迷い道にはまってしまいましたわ。やれやれだぜ…

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今の時点でシベリウス作品を俯瞰してどうこう言うのはやめておきましょう、聴き終わった時点で何かの答えが見えることに期待して。正直な話、集中して聴き込もうとしている今、あまり先は見通せていませんし(笑)。彼の一連の交響曲からおおまかなつながりや連続性を見出そうとするのは正直なところ無理があるように思えます、今はまだ。第七番までまとめ終わった時点での認識が違うものでありますように、と切に願うシベリウスのお誕生日(12/8)、でした。日本時間では日付変わっちゃいましたけど(笑)。

きっと、既にシベリウスが好きな、千葉より詳しい方にはまったく役に立てない不定期の一連の記事となることでしょう、検索で引っかかっちゃった方には今の時点でお詫び申し上げておきます。もしご不快でなければおつきあいくださいませ~。ではまた、ごきげんよう。

最後におまけをひとつ。この映像がソフト化されてたら、きっと言及する対象にしていたことでしょう。サロネン&スウェーデン放送響の全集から、大好きな第五番を。


2012年11月26日月曜日

寒い季節にはこれ!(と思い込もう)

こんにちは。千葉です。

先日、近所の駅前に現役の総理大臣が来るというので見に行って来ました。まあ、いろいろと思うところはあるけどそれはこっちで書くことではないのでそのうち向こうに書きますね。

そう、内容はどうでもよくて、今日はその待ちが長くて寒かったところからですね、長年の懸案を始めてしまおうかな、と思っている、ということを書いて自分にプレッシャをかけてみようかと思いまして。
その懸案というのはシベリウス。何度となくいくつかの全集を聴きこんで、それなりに目鼻がついたかな、と思いながらもまとめるには至らないでいる、シベリウスの交響曲それぞれについての話をですね、近日書きはじめることに決めちゃおうかな、と。

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外で長いこと立って、集まる人並みや整理の警官、ビルの情報に見え隠れするスーツの人たちや上空のヘリコプターを見ているうち、体を冷やしてしまいまして。一応の防寒はしていたんですけど、ああいう待ちって足元が冷えるんですよね、疲れはするけど特に運動しているわけでもないし。

その冷えがよかったのがどうかはわかりませんが、この数日シベリウスが聴き取れている、ような気がするんです。単純に「気温が下がる→北欧って寒いよね」的な連想である可能性は否定しませんが(笑)。※その気になってみるとシベリウスの交響曲は「クッレルヴォ」を除けばCDで三枚くらい、一日で聴けないこともない、ような気もしますし(少し曖昧)。ベートーヴェンやチャイコフスキーよりは胃にもたれないし(笑)、かつて大まじめに聴いたプロコフィエフやオネゲルよりは準備ができている。うん、時は来た!かも!

※ちなみに、本当に寒くなって身体の末端が痛みを感じるようになるとロシアの作曲家が聴きたくなる条件反射は自覚してます。チャイコフスキーとか、ボロディンとか。裏を返すと、夏場にはこれらの作曲家が聴けていないという(笑)。


さて、千葉が以前から聴いているシベリウスはこちら。



Paavo Berglund/シベリウス: 交響曲全集<タワーレコード限定> [WQCC-270]


ラトル、バーンスタインは好きな指揮者だし、ベルグルンドは一枚ずつリリースされたころに「決定盤になるよね!」と期待して買った思い入れあるものだし。この中で少し色合いの違うペトリ・サカリ&アイスランド交響楽団の全集は、あのう、来日公演を予定していたのが金融危機で、あのそのゴニョゴニョ、という時期にささやかながら応援できればと買って以来、癖のないアプローチが気に入って聴いてます。

これでシベリウスの話をしちゃうわけ?コリンズもカヤヌスもヴァンスカもネーメもベルグルンド旧盤もバルビローリもなしで?って思いますよね、千葉もそう思います。いわゆる決定盤抜きで曲の話をすることに、決定盤信仰のない千葉も少し怖気づかないわけではない。っていうか、コアなファンのいらっしゃる作曲家だから正直バカを晒すのがけっこう怖い。

でもまあ、以前プロコフィエフとオネゲルを聴いた時にもそうでしたが、これは決定盤を選ぶために聴くんじゃない、誰かにご高説を垂れるために書くんじゃない。自分で、シベリウスを「掴む」ために、手元の盤から聴き取れるものを書き残しておくことが目的なんだから、これはこれでいいんじゃないかな。いい、かもね。すっごくいいと思うよ!

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ううん、自分で自分を言いくるめるのは結構難しいな(笑)。今回は、いつも言葉の壁に難儀する(かつ「交響曲」とみなすべきかどうか微妙な)「クッレルヴォ」を除いた番号付きの七曲について見ていく中で、シベリウスの生きていた時代とその作品をある程度まで定位できればいいかな、と思っています。一度言葉にしておくことでその後の受容が楽になる、というのはこれまでプロコフィエフとオネゲルで経験済みですから、後二年少々で訪れる記念年までにはそれなりに実のある学習ができるんじゃないかな。それに今年は聴けなかったインキネン&日本フィル、来年は早々にシベリウスを取り上げますからねえ、その頃には当たりをつけておきたいわ。うん、やっぱり時は来た!、なんでしょう。うん、そういうことにしよう…

おそらく、12月に入ったらシベリウスの話ができると思います。マーラーとのエピソードなんかもぼんやり念頭に置きつつ、自分なりに書かせていただく予定です。期待したい方はそれなりに、そうでないかたはスルーでお願いします。では自分なりの踏ん切りとしての予告でした。ではまた、ごきげんよう。

2012年11月15日木曜日

これとうとう来ちゃったかな、演劇界にクラシックの時代(嘘

こんにちは。千葉です。

旧館というか本館というか、向こうのブログがどんどんイメージと違う方向に行ってしまうのは俺のせいじゃない!違うんだ信じてくれうわ何をする以下略。
ノンポリのまま同じ事は繰り返せないし繰り返してはいけない、と思う中年男性の抑えきれない何かが向こうには充満してきましたので、気が向いた時だけおつきあい下さいね!(力なく)

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さて今日は自分用の備忘録。多分行けないと思うけど(理由・貧乏だから)、お芝居の方でクラシックを題材としたものがいくつか出てくるみたい、それもこういう言い方でいいかはわからないのだけれど大御所含めて名の知れた出演者だったり、人気戯曲家の新作だったりするみたいなのです。そういうわけでどういうわけで、情報としてまとめておこうと思うのです、行けないと思うけど(しつこいから以下この〆禁止)

◆テイキング サイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~

これはちょっと前に新聞広告を見かけて印象に残っていたのだけれど、放置している間にチケット売りだしてますね、反省。どんなお芝居なのか、まずは以下に公式サイトからの引用でご紹介。


フルトヴェングラーは、ナチに加担したのか?それとも闘ったのか?

ナチス・ドイツという歪んだ政治のもとで芸術活動を行うためには、体制におもねるのか。
世紀の巨匠として、今日もなお伝説の指揮者としてその名を轟かせるフルトヴェングラーは、
若きスター指揮者カラヤンよりもヒトラーに寵愛されていたという。
天下のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を手中に収め、
ベートーヴェンやワーグナーといったドイツ音楽を愛したマエストロは、
第三帝国崩壊後非ナチ化裁判にかけられてしまう。
米軍少佐が執拗に詰め寄り、フルトヴェングラーは次第に追い込まれていく…。
誰が真実を語っているのか?
何が正しいのか?
結末は“Taking Sides”、どちらに味方するか、によって導かれる。(引用終わり)

クラシック者であれば、いや特に日本のクラシック者であれば、多かれ少なかれヒトラー率いた第三帝国とクラシック音楽との複雑な関係は認識しているでしょう。だって大戦という歴史的大事件の影で、フルトヴェングラーにカラヤン、ブルーノ・ワルターにリヒャルト・シュトラウスなどなど、当時の最高の音楽家が関わらざるを得なかった時代、状況はとても無視できるものではないし、最悪の状況だからこそ展開されてしまったドラマが多々あったことでしょう。実際、それらを題材とした本なども多くあると思いますし、今名を挙げた彼らの一人に限定しても一冊の本になるくらいの状況があるんじゃないかなあ…あ、でもシュトラウスの処世はなかなか興味深いですよね、詳しくは書きませんけど。

ロナルド・ハーウッドの戯曲はその時代の中でも戦後、非ナチ化裁判のフルトヴェングラーを題材としたわけですね。ふむふむ。価値観の相違、では許してもらえない断絶が語られ演じられる中でどうなるのか、「真実」はどこにあるのか。そんな感じの舞台かしら(想像)。
平幹二朗さんのフルトヴェングラーはなんとなくわかるようで、かつてN響に登場した際の「エディプス王」の語りを思い出してしまうのでよくわからない(乏しい認識ですみません)。フルトヴェングラーに相対するアメリカの少佐は筧利夫さん、だとあれですかね「名曲探偵以下自重(笑)。いい年してテレビっ子ですみません!(笑)

個人的にはフルトヴェングラーに現実の政治を求めることが困難だっただろうな、というのが、その昔「ヒンデミット事件」でこのあたりの事情を調べて以来の私見です。字義通りに精神的な水準で考えて行動していた彼を、現実にナチ加担者として裁くことの意味が、よくわからないというか。きっとお芝居を見ればひとつの答えが得られることでしょう、そしてそれを受け取った上で考えることも。そう、「正解」といえるような「真実」なんて人の数だけありますからね…

ともあれ、東京大阪名古屋に加えて静岡、広島での公演もある模様です。2013年2月の上演。


  

このあたり、参考になったりならなかったりするのかなあ。シュトラウスの評伝は一人の同時代人の処世として比較になるでしょう、そして右の新書はカラヤンとの対比の中で語られるフルトヴェングラー。なんというか、「政治的」ですよとっても(笑)。
あ、一個目の「トリスタンとイゾルデ」は千葉が愛好するフルトヴェングラー録音です、彼の録音はあまり聴かないのだけれど、これは長い付き合いになっている一枚ですね(四枚組だけどね!)。

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でもう一つ。これはまだ全然調べてもいないので簡単に。

◆パルコ・プロデュース公演 パルコ劇場40周年企画第一弾
ホロヴィッツとの対話

えっと、三谷幸喜の作・演出で渡辺謙、段田安則他の出演ということなので、多くを語る必要もありますまい、ただ「チケットはお早めに」と思いますですよ。っていうかもう各種先行始まってるみたいですね、いろいろと。上記リンクの他各プレイガイドからのメルマガ等など、ご確認あれ。2013年2月から3月にかけての上演。ですって。

ホロヴィッツと調律師、というと千葉にはこのマンガが思い出されるわけですが、きっと無関係だと思います(断言)。




そういえばこれの映画(未見、っていうか邦画は殆ど見ない)って、松山ケンイチと成海璃子ですよね確か。今見ると不思議な感慨がありそうだなあ、とか考えるくらい、楽しんでおります「平清盛」。

話が逸れたところで備忘録は終わりましょう、ではまた。ごきげんよろしゅう~。

2012年11月14日水曜日

コパチンスカヤ、聴きたかったよう…

こんにちは。千葉です。

ああもう、Twitterとかで感想を拝見する限りでは、今回もパトリツィア・コパチンスカヤさまは絶好調でいらした模様で。何やらプログラムにバッハのいわゆるシャコンヌも追加されたとかで。ああああもう。

2006年の来日公演で初めて彼女の演奏を聴いたときはまだ録音もリリースされてなかったし、チェロのソル・ガベッタ嬢とのデュオでコンサートを開いたこともあってどんなヴァイオリニストなのか全く知らなかったんだよなあ…プログラムにしても見慣れない曲が多くて、果たしてどんなものかまったく事前には判断できず。
で、聴いてみるとなんのことはない、二人とも美貌のみならず才能もお持ちで、そのレパートリーにしても定番的なものに安住するどころか驚きの超攻撃的なもの、だったんですよね。いやあのときは驚いたわ。それと同時に、「見た目とかで音楽家を測るな」と思いましたねえ…

そしてその同じ来日公演時に井上道義&東京フィルと聴かせたショスタコーヴィチの協奏曲第一番が、もう。第二楽章のスケルツォの終わりに睨み合う二人(笑)、そして続くノクターンの冴えた美しさ、長大なカデンツァの多彩な響き、そして疾走するフィナーレ。さすがに細部はもう思い出せない(まだ彼女のショスタコーヴィチは録音もないから確かめようもない)、でもいまもその感触だけは忘れようがない、それほどの演奏でしたから…

そういうわけでどういうわけで、それ以来彼女のファンになった千葉がオススメします、行ける方は今週金曜の兵庫芸術文化センター管弦楽団の定期にお行きなさい!(命令)
なに?プロコフィエフはあまり聴かなくて「ロメオとジュリエット」と古典くらいしか知らない?大丈夫大丈夫、一曲目はその「ロメオとジュリエット」だし、見て聴けば彼女の音楽はわかりますから。そのくらいは雄弁で饒舌です、彼女。交響曲第七番の哀しく美しい音楽がどうなるのかはオケ次第、ですがこのプログラムで楽しめないわけ、ないですよ!煽りの定番「騙されたと思って」なんて言うつもりはありません、だって騙されるわけ、ありませんもの。

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って、ここまで書いてから調べたら彼女の新譜、出てるんじゃないですか!エトヴェシュと組んで彼の作品とバルトーク、そしてリゲティ!!あーだめだわー、これもう買うしかないわー(なぜその口調)



エトヴェシュの「セヴン」って諏訪内晶子さんも演奏してませんでしたっけ、これが世界初録音なんですね。ふむふむ。ナイーヴレーベル様のいつもの例に違わず、今回もオフィシャルのPVがありましたので、ぜひそちらもご覧くださいませ。っていうかあれなのかな、来日してるのに国内盤は(以下morendo)





他に書きたかったこともあったんですけど、新譜情報まで気がついてしまっては仕方がない、今日のエントリーはコパチンスカヤ様に捧げましょう(笑)。

予定していた内容の話はまたいずれ。かなり辛気臭くなる予定です、けっこう。ではまた、ごきげんよう。




2012年11月8日木曜日

あと一歩か二歩で「ハルサイ」じゃないですか、インマゼールさん!

こんにちは。千葉です。

先日の反省も活かせぬまま、今度はエリオット・カーターの訃報が届きました。反省さえままならず進退窮まれリ、ですよ!(軽く言うなよ)

とは言え、実はカーターに限らずIRCAM方面で評価が高い音楽、よくわからないのです、恥ずかしながら。その音楽を構成する理屈はブーレーズの著作でいちおうは知っている、でもそれを音としてどう聴いたものかよくわからない…だから千葉は、自分の音楽の守備範囲を「バッハから第二次大戦前後」と認識しています。十二音でもかなり…で、時々実演で聴いて「こういうことかな、もしかして!」と思ってはまたわからなくなってしまうという、一進一退すらできていない感じがなんとも歯がゆいのであります。

ともあれ、手元には唯一この盤がありましたので、あとでまた聴いてみます(実は一度返り討ちに遭っている)。


エマール、そういえばそろそろ来日公演なんですよね…あとコパチンスカヤも(13日ですね、完売らしいですが)。…貧乏が憎い!

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それはさておき(昔の人なら閑話休題、と書くでしょう)。

最近のメールによるプロモーションってのはなんですかね、ちょっとした過去の履歴でもフル活用して新譜紹介なんかを送りつけてくれるんですね。まあ、あんまりツッコむと危険な瞬間が訪れかねないので詳しい例を上げたりはしませんけど。

いや待てそれだと面白くないな(笑)、自分に届いた例を挙げましょう。
この前ですね、蔦屋がいきなり「キタエリとみかこしの新譜が出るよ!セットで買ってくれたら特典つけるよ!だから僕と契約してry」(大意)ってメールを送ってきたのには正直狼狽しました(笑)。まあ、喜多村英梨の出てるアニメは「魔法少女まどか☆マギカ」以外にもよく見てるかなあ(彼女は最近、出演作が非常に多い)、「モーレツ宇宙海賊」は大好きですよ(たぶん今年のベスト、劇場版楽しみに待ってます!なお小松未可子が主役←酷い扱いだ!)。
少し考えて思い当たったのは小松未可子のデビューシングル「Black Holy」をレンタルしたこと、くらいですよ。なるほど、幅広く商いをやると訴求する側にはこういうメリットがあるのねえ、人によっては物凄く厭なメールが届きそうなんだけどどう処理してるのかな。まさか声当ててる作品を借りたよね?とかでは引っ掛けてませんよね?(どきどき)はっ。この執拗なデータの拾い起こしのためのビッグデータがどうのこうの、なのか?(適当)


冗談はこの辺で。
先日ですね、Amazon様がこんな情報を寄越しやがりまして。



インマゼールのシューベルト?なんだいソニーの再発かい?それにしちゃあわざわざメールを出すとか力入っちゃってるねどうも、なんて思いながらリンクを開いてみると扱いは完全に新譜でレーベルはZig Zag、ちょっと待ってよとさらに他のショップの情報をあたって見るに、千葉の結論は「1996-97年の録音ということは旧ソニー盤と同一でしょ?」ということになりました。まさか同時期の別セッションがー、とか考えにくいでしょう?



フランスローカルで全集として出ていたこれを持ってるのでまあいいかな、久しぶりに聴いてみますかね…と思いつつ、メールをゴミ箱に入れようとしていたその時!あのう、この下にちっちゃく紹介されてはるこっちのアルバムはなんですのん?



ちょっとちょっとちょっと。あのう、これって、ジョス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナ・ブルッヘによるドビュッシーアルバム、なのでは?ああ、「春の祭典」までやる、と言ってる彼らだもんね、それに前にラヴェルやプーランクもリリースしてたし。うんうん。

ってちょっと!メインはこっちじゃん!(笑)
え~、彼らはモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンにシューベルトといったいわゆる古楽器オーケストラが取り上げる作品のほかに、ベルリオーズ(鐘!)にリスト、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフにシュトラウス・ファミリー、さらにはラヴェル、プーランクを既にリリースしており、先ほどもさらっと書きました通りゆくゆくはストラヴィンスキーの「春の祭典」をも「作曲された当時の楽器、奏法」で演奏する予定でいらっしゃいます。
そう、時代区分としての古楽じゃなくて、「作曲された当時の楽器、奏法」で演奏するアプローチをさして便宜的に「古楽」「古楽器演奏」と言っていることの無理を演奏活動を通じて露呈させてくれる(笑)、実にチャレンジングな団体なのです、もちろん彼らはそんな風に考えてはいないでしょうけれど(笑)。でも千葉が「古楽」の前に「いわゆる」と付けないとどうも座りが悪く感じる理由の一つは、彼らの幅広いレパートリィとその優れた演奏により先入観が覆されてきた経験から、と言ってもあまり過言ではありません(批評家風の物言いだのでちょっとブレーキを踏みました)。

そんな彼らの新たな挑戦、こっちをアピールしないでどうするの!弾幕薄いよ!(違う)

とかなんとか、届いた告知メールをダシに新譜をご紹介させていただきました。なお、以下に本文中で触れた彼らの音盤のいくつかをリンクしておきますね~、ではまた。




「シェエラザード」、けっこうオススメです。

2012年10月28日日曜日

訃報の後で聴き始めるのは悪癖だ(猛省)

こんにちは。千葉です。

最近、Twitterを眺めていると楽しげな(またはあまりそうでもないような)コンサートの話だったり、何やら内ゲバの様相を呈しつつあるトリックスターの吊し上げがお盛んだったり、なんというか自分がぼんやりテレビやスポーツの感想を書いてるのが申し訳ないみたいです(笑)。益体もなくてすみません。

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昨日、このようなニュースが流れました。

◆ハンス・ウェルナー・ヘンツェ氏 死去(時事)

86歳での大往生とのこと、お疲れ様でした。と合掌するかと思った時に気がつく、彼の音楽がパッと出てこないじゃないか自分、と。まったく聴いたことがないわけじゃない、でも明確な像を結ぶまでには認識ができてない。個人的な体験も特段あるわけでもない、何をか言うべきか、いや黙るべきか。語り得ないものについては沈黙しなければならない、とかね、一瞬頭を過るのですよ。

でもブログで黙っていても仕方がないので(苦笑)、とりあえずこれから気をつけて彼の音楽を聴くことにします。このパターン、誰かの訃報のたびに繰り返してしまってもう反省するのもおこがましい感じ、はてさてどうしたものやら…

もの知らずは仕方がない、以後精進します。

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手元のディスクを探してみると、見つかるのはラトル関係のものが二つ、以上でした。なんというか、20世紀音楽についての認識はラトルがいなかったら大変なことになっていただろうな、と今さらながら自覚しております。ちなみに、いわゆるクラシックの中心的なレパートリーについてはバーンスタインがいなかったら大変なことに(笑)。この二人に教わったことが中心だからそれ以外のジャンルにはうまく手が広げられてないんだよ、というのは言い訳ですね、はい。

ラトル&CBSOによる交響曲第七番と舟歌を収めたディスク、いまはこういうまとめ方でお安くリリースされてます。二枚目のディスクはインゴ・メッツマッハー指揮ベルリン・フィルによる交響曲第九番と「オーデンの詩による三つの歌」ですか、千葉の手元の国内盤よりお得だなあ…

もう一つのDVDは以前NHKのBS2でも放送された20世紀音楽についてのドキュメンタリ・シリーズ「リーヴィング・ホーム」の最終巻。20世紀を俯瞰する10年がかりの「Towards the Millennium」なるコンサートシリーズに並行して作られたものですから、少なくない作品の演奏が映像として収められてます。部分なのがもったいないくらい。この最終巻ではヘンツェの交響曲第八番の一部が収められてます。あまり思い出せないのが口惜しいから(笑)あとで見直すことにしましょう…

なお、このシリーズの雰囲気は以下の動画でご覧いただけますね。なお、ひとつご注意を。いけませんよ、いろいろと検索しちゃ!すぐに以下自粛。



以上、訃報どうこう以上に今後のための覚書ですね、これは。もっと知るように努めるための足がかり、というか。ではまた、ごきげんよう。



きっとこれとか、勉強になるんだろうなと思うけれど、見る日が来るかどうか…

2012年10月25日木曜日

ジョルジュ・ビゼーのお誕生日、とのことで

こんにちは。千葉です。

先日ひとつ、とてもいいコンサートに行ってきたのですがその感想がなかなかまとまらない。まあ、ある数年をかけたシリーズの最終回だったので、それなりの感慨が千葉にもあるのです。
ということで、久しぶりのプロコフィエフ祭りはもう少々お待ちくださいませ。よろしければそれまで、かつての某の記録などご覧いただくのもよろしいかと。その当時は初学者気分ではあったけど真面目に聴きましたから、その当時から大きく認識は変わっていないのだけれど、でもその密度はまったく違うものになった、と自負しております。これもそれもすべてマエストロ・ラザレフのおかげです。ありがたやありがたや。



第一、第五、そして第七しか出ていないけどあんなにマイク立ててたんだもの、残り四曲もでますよね?リリースしたら一躍世界レヴェルのプロコフィエフ交響曲全集ですよ、EXTONレーベルさん!
なお、一番右のは新譜です、プロコフィエフに続くプロジェクト進行中のラフマニノフ。評判の演奏会でしたから、間違いなくいい演奏であることでしょう、そのうち入手したらなにか書きますね。

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でも今日の本題はそっちじゃなーい!

本日はジョルジュ・ビゼーのお誕生日だとか。1838年生まれだからえっと、174回目のお誕生日?でも半端だなあ、とか言わずに素直におめでとう、と申し上げます。ある時期まで音楽には感心しても好きになれなかった「カルメン」(1875)の作曲者に。

登場する奴が全部悪人、ってのは今上映されてるあの映画ですけど(完結、なんだよバカヤロー)、「カルメン」ってオペラも相当のもんだな、と以前から思っておりまして。カルメンにもホセにも感情移入できず、ミカエラはさすがに良い子にすぎる、不自然なほど。そしてお話は優等生的軍人さんが山賊に身をやつした挙句目当ての女に嫌われてストーカに、終いには殺人者になっちまいますからね。ヴェリズムも作品も相当どうかと思う登場人物はいるけれど、あれははじめから「ワイドショウ的」とか酷い言われようだからまあ、そういうものとしても受け取れましょうよ。でもそれがこと「カルメン」となると無前提的に五指に入る名作オペラ扱い、なんだかなあ、って思っていたのです。え?名作オペラには酷い話が多い?「蝶々夫人」を思い出せ?ああ、まあそうなんですけどね…

そんな千葉にはオペラコミーク版の、アンドレ・クリュイタンスによる録音が初めてしっくり来たものだった、という話は前にしたような気がします。生っぽい、というか血生臭い話なのにレチタティーヴォでゆったりと話が進むのが合わなかったのかな、などと名演とほまれ高いクライバーの映像を見ては思ったりしておりました。

そこにですね、まさかの新譜の登場ですよ。およそこの作品と縁のありそうにない、サー・サイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ほかによる。




望外、というのはこういうことでしょうかしら、おそらくは奥方が希望したのかなあなどと邪推できなくもないのだけれどここは素朴に喜んでおきましょう。だって、オペラコミーク版の新譜ですし。大好きな彼らの演奏ですし。

なお、ご覧のとおり左の輸入盤と右の国内盤では相当な価格差があります。もうこれでは「文庫本とハードカヴァー」という程度では正しい例えになってないかなあ、とは思うものの国内盤は「SACD+特典DVD付き」(輸入盤は通常CD二枚組)という豪華版(愛蔵版レヴェル)ですので、余裕のある方は助けると思って買ってあげてくださいね、国内盤を。千葉はもちろん歯噛みしながら輸入盤ですけど。

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入手してから既に何度か聴いているのですが、これはいいですよ!とファン目線の素朴な感想以上になかなかならなくて困っています(笑)。彼らの演奏はいつもそうなんですけどね、千葉が彼らの演奏をくさすことはないだろうなって思ってます。

そんな素朴な意見を書き連ねるのも気が引けるので、演奏が気になる方はこちらの動画でもご覧いただくのは如何でしょう。国内盤の特典DVDからの抜粋です。EMI JAPANさんありがとう、売上に貢献できなくてごめんなさい。


EMIのサイトでは大きくこの盤を取り上げていますので、興味のある方はそちらもぜひ(リンクしてます)。

ともあれ今日は簡単なご紹介のみ。損はしない一枚です、とのみ申し上げて、詳しい感想はまた後日。ではまた、ごきげんよう。




いわゆる組曲なら、ミンコフスキとルーブル宮音楽隊のこれ、オススメです。騙されたと思って、ぜひ。

2012年10月15日月曜日

もうそんなに経ちましたか…

こんにちは。千葉です。

今更のことですが、そろそろ首都圏はとんでもない質量共に充実しすぎたコンサートシーズンを迎えます。いや、もう始まってるのかな。内外オペラは開幕したし、在京オーケストラの定期演奏会も始まったようだし。第九も発売されて所によっては完売とか聞くし。一年、速いなあ(他人事ですか)。
しかしながら、千葉は今年は貧乏により完全スルーの予定です。べ、別に羨ましがったりもしないと思いますよ、少なくとも字面の上では(ギリギリギリ←歯噛みする音)。

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さて、日付上は昨日が、レナード・バーンスタインの命日です。1990年10月14日、それが記録の上では彼の命日として残りますからね。でも個人的な記憶を紐解けば、今日15日のほうが彼の死と結びついているのです。だって思い出してください、時差の関係で彼の訃報は翌日になってから日本では報じられた、じゃありませんか。今みたいにネットでリアルタイム接続してる訳じゃなし、新聞はちゃんと「ニュース」を報じていた訳ですよ、そのころは。

そんなわけで今日のほうが彼を思い出すのに適しているように、個人的には思います。何も昨日は他ごとをしていたから、というのではなく(いやその面も否定はしないが)。あの頃は千葉もまだ若かった(笑)、よく晴れた秋の日に、悲報を受けていろいろと吹奏楽部の友人たちと話したことなど、変に美化されて思い出されます。しみじみ。


ということで、この本を読み始めました。最近出た本だったんですね、存在さえ知らなかったのは不覚の極み。今年の三月に発行されてます。

 

岡野弁さんの訳でバーンスタインの本、となるとそれこそ彼の死を受けてその音楽や教えを貪っていた時期に読んだ「音楽を語る」が思い出されます。時期も内容も趣向も雑多なエッセイ集なのだけれど、貪りましたよ本当に。何度も何度も読みました。懐かしい。しみじみ。
新刊の「わが音楽的人生」は自伝と位置づけられる本のようですから、普通に考えればパイザーみたいな本とかマイヤーズ、カスティリオーネの本よりも先に出版されるべきじゃないのかなあ、などと思わなくもありませんが(笑)、順序はともかく読めるようになったのだから文句は控えましょう。未読ですし。

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他にもちょっと、バーンスタインのことを考えていたことがひとつ、あるんです。そのきっかけはこちら。



サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナーの第九番、「サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカ版(SPCM版)」の2010年改訂版の、作曲者によっては完成されなかった第四楽章付きの録音です。
えぇえぇ、貧乏な私は右側を買いましたが何か?(キレ気味)本当はねえ、SACDフォーマットの方がいいに決まってるんですよ、特にもいまの彼らの演奏は。まあほら、海外では本はハードカヴァーとペイパーバックが同時にでたりするみたいだから、あたしはそうだ、そうだよ文庫が好きなんだよ!(滂沱の涙)

すみません取り乱しました。
バーンスタインの膨大な正規録音の中に、ブルックナーはただ一つこの第九番があるのみ、なんです※。それも二回、NYP時代の1969年のもの、そして1990年3月まさに最晩年に残されたウィーン・フィルとの録音と。

※当時のレーベル関係なしで、一つだけ例外があります。これまた不思議な感じのする選曲ですが、第六番をニューヨーク・フィルハーモニックと演奏した記録があります。情報はリンク先でご確認ください。

畢生の大作だもんね、未完だけど価値ある作品ですよね。千葉はそう思うことにしていたんですけど、ブルックナーを聴けば聴くほど「第五とか第八はある種の完成形ですよねえ」「未完であることで作曲者本来の”型”を欠いた作品になってませんかね第九番」とか思うようになりまして。

アーノンクールの盤におまけでついていたレクチャーを聴いてみてもいま一つイメージできないでいた第九番のあるべき姿が、ある程度の信用できる形で聴くことができてみると、これはもしかしてこういうこと?などと心当たりが持てなくもない、かな。最近そんな風に思っていたところなんです。まだもう少し調べ物をしないとまとめられませんけど。

ともあれ、そんなわけでこれからしばしバーンスタインのブルックナー、聴こうと思います。ではまた。


 

右の五枚組DVDボックス、1973-90年のライヴが収録されてます。はじめ見たときは同じニ短調の第九番でもマーラーが収録されてるってあったような気がするんだけど…(笑)




この動画は第一楽章冒頭15分ほどです、ご参考まで。

2012年10月13日土曜日

印象派は苦手です(特にモネ)


こんにちは。千葉です。

ちょっと前に舌を噛んでしまって口内炎風の傷ができていましてね。で、それを避けて食事をしている最中に誤って口の中を二箇所も噛んでしまって今や傷だらけなんですよあたしの口の中は。おかげさまでもう、食事中はずっと涙目でありんす。利点はそうですね、眠くなったら患部を噛めばすぐに目がさめること、かな!(開き直り)

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どうでもいい話はさておき。「まずい明日で会期終わっちゃうよ!」と今日気がついて、慌てて遅れに遅れた感想を書きます。普通の美術展なら感想は向こうに書くところだけど、今回のは音楽だからこっち。恣意的な使い分けで申し訳ないところですがご容赦のほど。

◆ドビュッシー、音楽と美術 ― 印象派と象徴派のあいだで


まずブリヂストン美術館、いろいろと縁があってもよさそうなのに(笑)、来たのは初めて。京橋駅からすぐで東京駅にも近い便利な立地、展示自体はビルのワンフロア(の半分くらい?)なのでこじんまりとまとまってる、とも言えるし、ちょっと小さいかな、とも言えるでしょう。都内ではまあ、こんなもんでしょうか。
一階のエントランスはスルーして二階の展示フロアに上がるとまずは企画展、順路をめぐり終わると所有する東西の作品が展示されている。通路にはドビュッシーの像(デスマスクも)あったりして。話は関係ないんですけどひところのデュトワさん、髪型が完全にこれでしたよね、コスプレ?(無礼者)

展示は彼の生涯を追う形で、つまり時代ごとにかかわりのあった、影響を受けた絵画や彫刻、写真に工芸品などが展示されるスタイル、一部楽譜もあるけれどケースの中のスコアを、あるページだけ開かれていてもどうすればいいのかと(笑)。場内では小さい音量ながらドビュッシーのピアノ曲が流され、とりあえず彼のことをはっきりとは知らない人でもその音楽の持つ雰囲気はわかったんじゃないかな。言い方が曖昧なのは、えっと、展示と音楽の関係を詰めて考えなかったもので、千葉にはただの雰囲気でありました(笑)。でも、それなら音声ガイド(有料、千葉はもちろん借りてない←いつもです、どんな美術展でも)で曲を流すなよ、人が滞留するじゃないか、と思わなくもない。なんというか、都内の美術展に行くとあまりの混雑に渋滞解消のための手段ばっかり考えちゃうんですよね、千葉は(笑)。

ドビュッシーと言ったらセットでついてくる印象派にとどまらず象徴派の作品や知ってる人は知ってる通りのジャポニスム関連の展示もあり。まあ、パリ万博でオッペケペー節ですよ!(間違ってはいない、けれどその物言いはどうか)
にしてもこういう展示の時は、オリジナルの浮世絵よりもむしろ海外での模写のほうが興味深く思われますね。例えばあの三つの交響的素描「海」のスコアの表紙にも使われた北斎の「神奈川沖浪裏」の模写、手前の船と富士山を欠いているんですよね。あの画の趣向はそこにあるのだろうけれど、彼らはそれよりデフォルメされたしかしイメージ通りの海そのものの像を強く受け取ったのかしら、とか思えてなかなか面白いなと思うのです。ゴッホの浮世絵の模写なんて、言葉にしがたいほど強烈ですしね…ああ、もしかすると「人に渡されたペルゴレージ(ガッロ)のスコアから、イーゴリさんの考えたバロック音楽としてプルチネッラが作られた」的な変容が面白い、と思っているのかも。書きながらの思いつきなので何も展開はしませんけど。

にしても幾つか展示がありましたが写真というのはあれですな、昔は印画紙の限界か現像技術の制約か、とても小さいものだったんですな。各種書籍の図版で見かけたものがいくつかあったけれど、鮮明さを抜きにして言うなら書籍やモニタ上で見た方がわかりやすいかも。もちろん、現物の持つ雰囲気はあるのだけれど、資格情報としてはどうなんだろう、資料としては…とかなんとか、写真というテクノロジーの変遷というか先行きというか、そんな余計なことも考えたよ。20世紀初頭前後のパリというのはなかなか気になるところでありますからね。

あと大ざっぱなコメントをするならば、「カンディンスキーはもっといいのがなかったのかい?」(あれをマネやモンドリアンに並べられるのは、辛い)「千葉はマネが好きだなあ」(絵は門外漢なので感想も素朴です)「岡鹿之助の名前を覚えておこう」(館所有の一連の作品の中では一番気になりました。案の定というべきか、ショップでは画集も売ってましたね)、くらいですか。久しぶりの美術展、楽しうございました。

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なお、最初に書きました通り会期は明日まで。ということで、どうも今日もかなりの混雑だった模様(Twitter情報)。先ほど言及した写真なんかもそうですが、工芸品などはできるなら近くで時間をかけてみたいものだけれど、そのような状況が作れるのかどうか。そんな懸念はありますが、ご覧いただける方はぜひ。では本日はこれにて。


2012年10月12日金曜日

収穫の時、だと思うのです


こんにちは。千葉です。

気候の変化にやられたかはたまた久しぶりに三度もコンサートに出かけたのが行けなかったか(嘘うそ)、少し風邪気味でおりまして。そのためになかなかまとめられなかったコンサートの感想、遅まきながら書きますです。


◆オール・アバウト・ハインツ・ホリガー 第2夜:室内楽


2012年10月8日(月・祝) 15:00開演

会場:すみだトリフォニーホール 大ホール


オーボエ&オーボエ・ダモーレ、作曲:ハインツ・ホリガー
チェロ:アニタ・ルージンガー
ピアノ:アントン・ケルニャック

曲目:

シューマン:オーボエ・ダモーレ、チェロとハープのための六つの作品 作品56
ホリガー:
  チェロとピアノのためのロマンセンドレス
  ソロ・オーボエのためのソナタ
サン=サーンス:オーボエ・ソナタ 作品166
シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第一番 イ短調 作品105(チェロ独奏による演奏)
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 作品11(オーボエ、チェロ、ピアノ)

すみだトリフォニーホールにこの前も行ったばかりだというのに、なんと開演ギリギリでようやく到着するというていたらく、最近の出不精を反省するものであります。さて本題のレビューはどこから書いたものか、と大いに迷いつつ、雑感から入りましょう。というか、エッセイ風の書き方にしようかな。

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ハインツ・ホリガーは1939年生まれの73歳。千葉にとってはやはり第一義でオーボエ奏者、それももはや「代名詞」とも言える人ですね。そしてまた作曲家であり、指揮者であるというその多様な活躍を二つのコンサートで見せるという「オールアバウト・ハインツ・ホリガー」はなかなかの好企画、さてオーボイスト、作曲家としての面を堪能させていただこうかと伺った次第。
で、奥様のウルズラ・ホリガーのキャンセルもあって変更されたプログラムのためか、千葉がコンサートを終わってすぐに感じ、そして今もいろいろと考えてしまっているのは歴史や過去、大ざっぱにまとめると回顧という言葉になるのかな、そのあたりの事ごとであります。

コンサート最初の曲で古雅な音色が特徴的なオーボエ・ダモーレを演奏したから、そう思うのかなってぼんやり考えながら聴いていたのですが、次のピアノの内部奏法やチェロの自作「ロマンサンドル」(2003)を聴いていても現代的な、ある種の攻撃性を感じるよりむしろ遠い過去を回想するような、もはや生々しくはない記憶と戯れるかのような印象を受けてしまう。曲目解説などで知りうるシューマンをめぐるエピソードを絡めて考えることは、個人的には難しいところでした。
後半最初に演奏されたサン=サーンスのソナタも晩年の作ならではの力みの無さが魅力的だったし(作曲者晩年の、一連の管楽器のソナタに興味を惹かれました)、最後のベートーヴェンでのアンサンブルをリードする力強さはさすがのもの、先日聴いたフルートのグリミネッリがアンサンブルを待ってしまっていたのとは好対照だったかと。ちょっと逸れますけど。管楽器は合わせを待つとダメなんですよ、どんどん後手に回ってしまうから。じゃあ管楽アンサンブルはどうなのかというと、それはまあ、ね、えへへへへ。リーダーとしての管楽器、かくあるべきかと。
(ちなみに指揮なしの管楽アンサンブル、バンドごとに違うけど、基本的に名手が揃うと挑発合戦&名技による応答のエスカレーションになりますね。名人たちの遊戯、聴きては楽しいからいいのですけれど、いわゆる「精神性」云々からは激しく遠ざかります。当然ながら)

余談はさておき。バッハ、シューマンと続いた二曲のアンコールがこの演奏会の縦糸をより印象づけたからそう思うのかなあ、などとも考えます。変更前の自作&イサン・ユン作品を中心に据えたものから予想された、視点を時代的に大きく移動するような印象ではなく、より遠い過去への視線が内包されていたかのようなプログラムは、このアンコールによって雅に美しく締めくくられたものだから。

彼のそれほど熱心な聴き手ではなかった千葉でも、演奏を聴き始めてすぐに「この音を知っている」と思わせるほどのオーボイストとして活躍してきた彼の、明瞭な輪郭が印象的なその音色は盛時を過ぎているのかもしれない。音色を細身と評するには少し細すぎた、ようにも思うので。管楽器は声ほどではないにせよどうしようもなく年齢の影響を受けざるをえない、自身の身体で音を作る楽器である以上これは逃れられない制約だ。それでも、アンサンブルのリードにも感じられた意志的な音楽作りはさすがのもの、時代を作ってきた音楽家の二つの面を聴かせていただきました、と頭を垂れる気持ちになった次第であります。っていうか、これなら前半も聴きたかったなあ、指揮も併せて聴いておけばもっと掴めるものがあっただろうに、などと先に立つわけもない後悔に襲われたりするのですが、これはまあ仕方ない。これから折を見て、また機会を得られればと思います。
共演のお二方、お若いのにさすがねえ、伊達にマエストロに選ばれていないわあなどと、戯れに近所のおばちゃんのような感想を言いたくなる献身ぶりでした。チェロのルージンガーは出るところとそうでないところをわきまえた振る舞い、そして音色への配慮で見事にホリガーをサポートしていましたし、ホリガー抜きの二曲では存分に実力を見せてくれておりました。ピアノのケルニャックはねえ、室内楽のピアニストかくあってほしいと随所で感じさせる見事な呼吸の合わせ方に感心しきり、です。曲が新しい「ロマンサンドル」でもバッハでも、共演者とのアンサンブルを大切にして音楽全体をまとめあげていた彼には個別に拍手したい気分です。特に弱音での絡み方、印象的でした。

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おそらく、個人的に一番強く印象に残ったのはプログラム前半最後に演奏された自作、無伴奏オーボエのためのソナタでした。1999年に改訂されているとはいえ1956-7年の作、自身十代の作品を噛みつかんばかりの気迫で演奏する73歳のハインツ・ホリガーの姿に、なんとも言葉にならない感慨を感じたものだから。曲自体は20世紀半ばの、いわゆる前衛よりはむしろバルトーク的な趣向に基づくものでした、そして管楽器の無伴奏作品は「呼吸」という制約もあって全体の構成感を出しにくい(と個人的には考える)。だけれど、この演奏ではホリガー少年が普段オーケストラなどでは使われることのないオーボエという楽器の持つ多様な可能性を、老ホリガーが全力で音にしていた、と感じたのです。その演奏の迫力もさりながら、作曲した頃と今との、その数十年の懸隔は果たして本人にはどのように思われるものなのか、とかいろいろと余計なことを聴きながら考えちゃったんです。それをおおざっぱに「人に歴史あり」とかいうと安っぽくなり過ぎでなんとも、ですけどね(笑)。

遅くなりましたがこのコンサートから受けた感慨はこんな感じ、かな。集大成の時期に来ていらっしゃるのだなあ、との思いが強く残りすぎて、どうにも言葉にしがたい事が多いのですけれど。
なお、ご案内が遅くなったばかりに当日のことなのですが、ハインツ・ホリガー氏本日12日には横浜市青葉台のフィリアホールにて若干プログラムの違う室内楽公演が、また来週末には手練の集う水戸室内管弦楽団の定期演奏会への出演がございます(指揮&オーボエ)。彼の名に思うところのある方はぜひ、この機会を逃されませぬよう。

ということで長くなりましたが、先日聴いたコンサートの感想は以上です。ではまた。



レーベルがワーナーだから、これはあれかな、あの配信で聴けるんじゃないかな…とか考える今日この頃、でありました。

2012年10月8日月曜日

ハインツと言ったら(フレンツェンでもケチャップでもない)

こんにちは。千葉です。

先日「次の予定はない」と書きましたが、今日こちらの演奏会に伺うことになりました。



◆オール・アバウト・ハインツ・ホリガー 第2夜:室内楽


オーボエ&オーボエ・ダモーレ、作曲:ハインツ・ホリガー
チェロ:アニタ・ルージンガー
ピアノ:アントン・ケルニャック

曲目:

シューマン:オーボエ・ダモーレ、チェロとハープのための六つの作品 作品56
ホリガー:
  チェロとピアノのためのロマンセンドレス
  ソロ・オーボエのためのソナタ ※
サン=サーンス:オーボエ・ソナタ 作品166 ※
シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第一番 イ短調 作品105(チェロ独奏による演奏)
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 作品11(オーボエ、チェロ、ピアノ)



オーボエという楽器には思うところがあります。あ、ぜんぜん高尚なお話じゃなくって、素朴に昔はあこがれの楽器だったなあ、というくらいの昔話です。でもそれを書いている時間が今はないので(笑)、感想をまとめるときにでも。

すみだトリフォニーホールでのオーケストラ公演含め、各地の演奏会の好評が伝わってきておりますので大いに期待して、20世紀を代表し今なお健在なオーボイストの演奏を、その作品を聴いて参ります。15:00開演、当日券は各席種ありとのこと。興味ある方はぜひ、時代を画した演奏家の一人の、現在を知る最良の機会かと考えますゆえ、オススメさせていただきます。


ではこういうわけでそういうわけで、僕とトリフォニーホールで握手!(かなり久しぶり)


2012年10月1日月曜日

「本編の前にメイキングをお楽しみください」ってなんなんだよ

こんにちは。千葉です。

今日はニュースを見ているとついちょっと余計なことを言いたくなったり、昨日あったらしいとある「検定」について大いに引っかかったり、と日々不平の多い私ですが(笑)、こっちは怒っているのでおふざけ少なめで前説も早々に思うところを書きます。


あのう、昨晩、こちらの番組を見始めて数十分後に見るのをやめてしまいまして。


◆サイトウ・キネン・フェルティバル松本2012 放送決定!

小澤征爾とサイトウ・キネン・フェルティバル松本2012 BSプレミアム 2012年10月1日 午前0:30~4:25(30日深夜)

オネゲルが好きだけれどこのフェスティヴァルに伺う余裕があるわけじゃなし、映像収録があるといいなあ、と以前に書いたくらいですから、えぇえぇ、喜んで待ちましたよ、深夜の放送を。収録&放送ありがとう、そう思っていました。

で、これは事前に確認しなかった千葉もいけないのだけれど。この番組枠「プレミアムシアター」の冒頭約四十分は、今年のフェスティヴァルのドキュメンタリというかなんというか、平たく言ってしまえばメイキングでフェスティバルの観光案内で、舞台の解説番組でした。
こんな編成ありえない、上演された舞台を見るためにこんな深夜に起きて待っていたのに(いつも起きてる時間だけど)。怒り心頭に達して、ドキュメンタリの途中で視聴をやめてふて寝しましたよ私は。

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えっと、なんで怒っているか伝わりにくいかと思いますので、もうちょっと説明を。深夜零時すぎにオネゲルの作品を心待ちにしている奴がそう多かろうわけもないし、この時間帯であれば録画で見る人のほうが多いのだろうな、というのはわかります。それなら気にしなくてもいいことに、千葉は引っかかっています。
あのですね、ドキュメンタリを流したいのだとしても、それは「プレミアムシアター」を名乗る枠で、舞台そのものに先行させて見せるべきものなのかい?ということがまず何よりも気になるのです。例えて言えばこういうことですよ、映画の本編見る前に、映像特典のインタヴューとかメイキングを熱心に見るマヌケがどこにいるのか、と。上演の経緯から演出意図から演技苦労話とか全部話しちゃうプレトークとか、誰がやりますか?

そもそもパフォーマンスの鑑賞はライヴでの対峙だろうに(たとえそれがテレビ放送や録画、CDやDVD/ブルーレイなどの複製物であろうとも、と言わせていただきたい)、そんな答え合わせみたいな視聴を誘導してどうするのかと。少なくとも私は、そんな形で先入観を与えてもらって舞台を見たいとは思いません。


他にも問題に感じられることはありまして。

・番組が意外に長いこと
深夜の時間帯でこれはない、舞台を先に放送してくれるならオネゲルの作品は演奏時間にしてCD一枚分、約80分ですから、深夜二時前には「本編」が終わるはずだったのに。ドキュメンタリに40分少々という時間の使い方、別枠でたとえば21時台のNHKスペシャルならありかもしれない。でもこの時間にこれは、あまりにもリアルタイムで見られることを考えていない。前述の姿勢的な問題もあるけれど。
果たして放送をその時間に見てほしいのか、それとも録画してあとで見てほしいのか。どっちなんですかね。こんな編成やあんな番組を作っておいて、「放送を見ている人が少ないから」を理由にあとでクラシック枠を縮小されるのは厭ですよ、受信料を負担するいち視聴者として言わせていただきますけど。

・総花的で散漫な内容であること
残念ながら舞台に立てないマエストロの話をしたいのか、そのことで転換を余儀なくされそうなフェスティヴァルの話をしたいのか、抜擢された若き代役の話をしたいのか、オネゲルの舞台について話したいのか、小澤とカラヤン家の話をしたいのか等など。お題は多い、そうなってしまうとこの長すぎるように思われた放送時間はあまりに短い。すべての話題が表面だけを撫でては通りすぎていく。
いろいろな課題をすべて取り上げました、これで十分にフェスティバルの現在が紹介できました!と思うのは既に事情に詳しい人や関係者、番組の制作サイドだけで視聴者は「いろいろと大変なのねえ」で終わりですよ、これでは。

・メイキングいらない派はどうすればいいの?
そもそも千葉は、いわゆるメイキングのたぐいはファンサーヴィスの範疇だと思っているので、事前に余程の興味を持てたもの、視聴等の経験をすることで好きになったもの以外では不要です。最近映画をDVDでいろいろと見ているけれど、わざわざ映像特典まで見ることは殆どないです。映像の作り方を知ろうという動機が薄いんです、だから見てもせいぜいが予告篇くらい。それにしたってDVDなら選ばなきゃいいんですけど、放送はスキップできないのよ!(大泣)

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番組をご覧になっていない方には「この人文句多いなあ」と思われて終わりになるのはわかっているのですが、どうしても流せないことに思えたので書き残しておきます。あ、これをもう少し書きなおして放送局にご意見で送ればいいのかな…

前にも書いたことですが、現在オネゲルの傑作オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の映像はなかなか入手できません。そこにこの放送を知って好機到来、旱天の慈雨!と期待した私の貧乏性がいけてなかったのかな、とも思います。しかしながらはじめに指摘した「メイキングが先、本編があと」問題はけっこう本質的なところまで届きかねないもののように思えますが如何。

以上長々と書きました、ボケもオチもございませぬ。ではまた。




えっと、若き小澤征爾の録音が復活するらしくって…よ!(少し頑張ってみた)新盤すら入手困難なご時世だからこそ、と思うのだけれど…(しつこい)
今入手しやすい音盤は、セルジュ・ボード&チェコ・フィル他による一枚かと。対訳もきっちりついてますので初心者でも安心です!(…)

2012年9月30日日曜日

あらしのよるに(絵本やアニメではなく)

こんにちは。千葉です。

まさかというかなんというか、台風でテンションが上がる悪癖が歳をとっても治らないとは思ってもいませんでした、我ながら困った性分です。もちろん、深刻な被害にあったことがないからそんな気分でいられる、ということが分かる程度には分別もありますゆえ、ここをこんな天気の日に御覧の皆様にはくれぐれも外出等はお気を付けられますよう、と申し上げておきます。この台風がさらなる困難をもたらしませんように、悪しき何者かを連れ去ってくれますように。

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とか殊勝ぶってみても。聴きたくなる音楽がマーラーだったり(「こんな天気の日には」)ワーグナーだったり(さまよえるオランダ人、ヴァルキューレの第一幕)してしまう程度には不謹慎なのであります。そうそう、近く新国立劇場で上演されるブリテンの「ピーター・グライムズ」も「あらしのよるに」カテゴリに含まれるかな(そんな分類あるのか)。

でもねえ、この前どっかの来日公演情報を新聞の広告で見かけたから今はこれでしょう、動画をどうぞ。

と書いてから少し、著作権がうんぬんで気にならなくもない。どう見てもそもそもがTV放映のもの、それが何故か以前から流通していて(千葉はヴィデオテープで持ってる)、いま検索したらYouTubeには全部あるという…(笑)
まあ、迷ったけどさ、という言い訳はここまで。ご覧あれ、カルロスさん指揮ミラノの伝統あるオペラハウスによる、ヴェルディの歌劇「オテロ」全四幕ですわ!(ちょっとぼかしてみた)




この曲といえば、千葉はこれかアルトゥーロ・トスカニーニの盤しか聴かないですなあ…他の演奏も幾つか聴いてみて実演でも聴いて(ソフィア国立歌劇場と、スカラ座の来日公演を見た)、でもけっきょくコンディションがそんなに良くないものに戻っちゃうのはなんというか、少しばかり残念ではあるのだけれど。
(そういえばカルロスくんの若き日に同僚だったアルベルト・エレーデの盤は嫌いじゃなかった、ってあれも新しくはないですよねえ…)

冒頭の嵐のシーン、明日の朝とかに聴くとなかなか効果的ではないかしら(笑)。まあ、無事に台風一過したとして、このオペラはそこからドロドロのドラマが始まっちゃいますけど。

ヴェルディなら他にもそうですね、「リゴレット」の四重唱のところとか、本当に好きです。ヴェルディ生誕200年を迎える来年には、今までよりマシな評がなされますように、と思ってしまうヴワーグナーよりはヴェルディ派の千葉であります。さて140分か、いつ見ましょうかね…ではまた。




カルロスさんのまさにそのDVD、そして来日公演と同じプロダクションのDVD(NHKホールの奥の奥から見るものではなかった、音は意外に聴こえたけれど)、そしていわゆるトスカニーニ箱ですね。どれも手元にないなあ、あは、あははははは(泣)

2012年9月27日木曜日

穏やかで親密なヴィヴァルディ、いいですよ


こんにちは。千葉です。

前置きなしで行きましょう。まるで昔のような連日のコンサート、いい刺激になります。二日目はこちらでした。

◆新イタリア合奏団 演奏会 ~ヴィヴァルディを讃えて~

2012年9月26日(水)15:00開演

会場:すみだトリフォニーホール 大ホール

出演:

ヴァイオリン独奏:フェデリーコ・グリエルモ
フルート独奏:アンドレア・グリミネッリ
アンサンブル:新イタリア合奏団

曲目:

弦楽のための協奏曲 ハ長調 RV.114
二つのヴァイオリンと二つのチェロのための協奏曲 ニ長調 RV.564
ヴァイオリンとエコー・ヴァイオリンのための協奏曲 イ長調 RV.552
調和の霊感》より 4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調 Op.3-10
ヴァイオリン協奏曲集 「四季」 Op.8-1~4(フルート独奏による演奏)


新イタリア合奏団のヴィヴァルディづくし、東京公演の初日です。口の悪いイーゴリ氏は「同じ曲を数百回書いた」とか言ってしまってますが、どうなんでしょう。その作品のフォーマットに近いものはあると思うけど、個々の曲ごとに如何に趣向を凝らすかという点ではかなりのものかと。って、今さら千葉がヴィヴァルディを持ち上げる必要はないですね、えへへ。でもねえ、特に前半の「二つのヴァイオリンと~」、「ヴァイオリンとエコー~」の趣向はなかなか楽しめるものでした。前者は独奏者同志の丁々発止、後者は遠くに置かれたヴァイオリンがこだまとしてステージ上のソリストと対話するものでした、こういうのは実演じゃないと伝わりにくいですからね、うん。

新イタリア合奏団こと「I Solisti Filarmonici Italiani」の、モダン楽器を使ってはいるけれど古楽的な演奏は、今の千葉にはとても気持ちよく響きました。攻撃的にすぎないアプローチの、モダン楽器による演奏というのはいささか折衷的ではあるけれど、これはこれでよし。それが最近の千葉のいわゆる「古楽」、同時代アプローチを採用した演奏に対するスタンスかも。緩くなってきたんです、私(笑)。イル・ジャルディーノ・アルモニコとかアーノンクールのアンサンブルとか、それももちろん楽しいんですけどね、彼らのような穏やかな対話そのもののようなアンサンブルを聴くことの楽しさ、なかなか得難いものだと思います。
そう、アンサンブルは家族的といってもいいくらいに親密で緊密。リーダーのフェデリーコ・グリエルモからバッソ組まで、互いに勝手知ったるアンサンブルの楽しさは前半から好調そのもの。個々の曲の趣向を存分に楽しませていただきました。あ、でも尻上がりにさらに演奏が良くなった感もありますね。特に、アンコールの自由さはなんなんだろう。後述します。


メインの「四季」ではいつもはソロを取るだろうグリエルモがアンサンブルを引っ張る格好だったんだけど…フルートでこの曲を、という試みそのものは興味深いしなかなか楽しめたのですが、同時にオリジナルのヴァイオリンとの違い、特にグリップ感(笑)の違いは、若干この曲の印象とは異なる部分もあった、ように思います。私見ですけど。
独奏のアンドレア・グリミネッリは前にも一度聴いたことがありますが、細めの音で音の扱いは真面目な印象があったんですよね。実際この日も、アンサンブルに比べると硬さを感じさせる部分はありました。でもなにより、ですね。
変な言い方になりますが管楽器はハイデガー的な「先駆」をしてないとまともな演奏にならない、加えて彼はソリストとしてアンサンブルに対峙し対話し、時に彼らを引き連れて行かないといけない。まあ、ただアンサンブルに神輿として乗っかる、というのも手でしょうけど。昨日の演奏はですね、若干、アンサンブルに揉んでもらってた感じになってました。特に通奏低音組に遊ばれすぎです(笑)。チェンバロにテオルボ、そしてチェロバスの即興やアクセントでの仕掛けの数々に、「先駆」しないといけない管楽器だと反応できたりできなかったり、なんですよね。その点は、ちょっと惜しかった。ちょっとアタックが浅めだったりするのは、まさに自家薬籠中の曲で自由自在に振る舞うアンサンブルの仕掛けの前に、分が悪かったかも。とは言え彼も尻上がりによくなった、と思います。「夏」まではけっこう手探り感もありましたので…
でも個人的にはトゥッティにフルートが一本入った響き、まったくオリジナルでもないものだけどけっこう好きでした。興味のある方はまず、こちらの動画で少し聴いてみては如何でしょう、彼らの「冬」であります。


プログラムはそのフルート独奏版の「四季」までなのだけれど。その後アンコールが「アンサンブルのみ→フルートあり→アンサンブルのみ→フルートあり→フルートあり」と繰り広げられました。喋り出したら止まらないイタリア人かあんたらは(はい、そうだと思います)。ヴィヴァルディをずっと聴いてきてそのスタイルに馴染んだ聴き手にはもうごちそうというしかない二曲、これだけでもお腹いっぱいになれるのに、ソリスト付きでさらに三曲ですからねえ…
グリミネッリも編曲ものじゃない、オリジナルだとかなり楽に演奏できているようで、かなりのスピードで駆け抜けたバッハのバディネリはなかなかでした。
また、彼らがモダンと古楽を往還できるアンサンブル(楽器を持ち替えたらL'Arte del Arco、そのまま古楽アンサンブルになりますからね!)であることをこの上なく雄弁に示したロータの「ガブリエルのオーボエ」(映画「ミッション」より)の艶っぽいこと!それまでの「節約されたヴィブラート」による丸い響きもよかったけれど、嫋々と歌うさまもまた良い。これもまたイタリアの歌、なんですなあ…
そして最後に「ニッポンのまったく知られていない歌を」と言って始まったのが成田為三の浜辺の歌。ああ、知らなかったわこんな綺麗な曲っておい!

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でもね。最後にひとつだけ言わせてほしいの。
私の隣の人達がさ。メインプロが終わったらすっかりくつろいじゃって。アンコールの最中は喋ってもいいマイルールを採用したのかなんなのか、演奏中にぼそぼそとお話になっておりましたの。聞こえるっつーの。そんなルールないって。ありませんから。

でね。最後にね。「浜辺の歌」でね。しくしく。
ええ、私も思っていましたわ、彼らったらまるでのど自慢ですわ歌い出したら止まらない、なんてね。でもね。いくらサーヴィスでみんなの知ってる曲を演奏してるからって、合わせて歌いださないでよ!もう動揺するわこっちが!コンサートのマナーとかそういうレヴェルじゃないよそれ?
アットホームな彼らの雰囲気がそうさせた面がある、とか言えないこともないけれど、さすがに自重しましょうよ。お願いします後生ですから。
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ふう、なんとか午前のうちにアップできました、一安心。今晩もすみだトリフォニーホールでは別プログラムでの公演がありますし、29日(土)にはまた別の「オール・ヴィヴァルディ」のコンサートが横浜みなとみらいホールで行われます。ああ、そっちはグリエルモの独奏で「四季」なのか、むむむむむ。

ともあれここまでで昨日のコンサートのレビューはおしまい。なお、以後のコンサート出没の予定は、ありません。無念。ではまた。


ラーンキの音が言葉にならない


こんにちは。千葉です。

コンサートのレビューや読書の感想、溜めるとなかなか出てこなくなる悪い癖があります。下書きをいじってある程度できると満足しちゃってアップしないとか、あるんですよたまに…後で抜けがないか確かめよっと。

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そういうわけでどういうわけで、行ってきましたコンサート。以下ざっくりとしたレビューです。

◆デジュー・ラーンキ&エディト・クルコン ピアノ・デュオ・リサイタル
~ドビュッシー生誕150年スペシャル・プログラム~

2012年9月25日(火) 19:00開演

会場:Hakuju Hall


ピアノ:デジュー・ラーンキ、エディト・クルコン

曲目:

ドビュッシー:
  牧神の午後への前奏曲 〈四手〉
  六つの古代碑銘 〈四手〉
  小組曲 〈四手〉
  白と黒で 〈二台〉
  リンダラハ 〈二台〉
  夜想曲 〈二台〉

白寿ホールは千葉はこれで二回目、ピアノで聴くのは初めて。前回は「古楽アンサンブルとソプラノ、それにダンス(加えて若干のプロジェクション)」という攻撃的な(笑)公演でしたから、普通のコンサートは初めてと言うべきでしょう。だから、というわけでもないんだけど。このホールの独特のサウンド、なかなか面白いですね。どんなに二台のピアノが低音を鳴らしてもサウンドは頭に、というか上半身に直接響く感じ、足元からは音が来ないんです。そのせいかどうかはわからないけれど、椅子の座り心地よろしきこととあいまって不思議な安らぎがあるんです。もうあれですよ、仕事帰りに慌てて寄った日にはもう。

そんなホールでですね。いきなり「牧神の午後への前奏曲」(ラヴェルによる編曲1910、元曲は1894)から「六つの古代碑銘」(1914)に繋ぐなんてあれですか、このホール自慢のリクライニング・コンサート状態でも作り出したいんですか(笑)。クルコンが牧神のあの有名な冒頭の旋律を弾き始めてからしばし、恍惚というのも変なのだけれど、しばし明晰な認識を旨とする私(いちおう(笑)なしです)にはあるまじき、ただ聴こえてくる音に変わりゆき響きに耳を澄ませるだけの状態でした。なんなんでしょうね、あの音は…一つの旋律から響きが広がっていく感覚、それをただ受け入れるだけというか。なおこの二曲は奥様が上声、ラーンキが低声側でした。
席替えをして前半最後の曲が小組曲(1896)。いやあ、愉快愉快。二人でひとつの鍵盤をシェアする窮屈さも感じないし、「夫唱婦随」なんて言いますけどこのお二人はどちらがリードでどちらがついていく、みたいな役割分担ではなく、まさにわかっているとおりに演奏されているような自在さがこの曲に合うのなんの。この時期はまだそれほど影響を受けていないはずのジャズにも似たノリの良さ、実に痛快でした。


で後半、二台ピアノの時間です。舞台前方に奥様、奥に旦那さまの配置。
はじめの二曲は「白と黒で」(1915)と「リンダラハ」(1901)。不勉強にももしかしてはじめて聴いたかな、私。二台ピアノの録音はたしかベロフとコラールのものが何枚かあるだけ、だと思うので…(だから言ってるでしょ、ピアノは得意じゃないんです)でもですね、この二曲は面白かった。「白と黒で」はプーランクにつながる線が見える様だし、「リンダラハ」はあたかもセッションの様なノリノリの演奏が素敵。あとタイトルからかってにイメージしていたパリ万博由来のエスニックな響きも、あったように思ったけど気のせいかなあ(自信なし)。だって解説を見るとスペイン云々あるもので。しくしく。
そうそう、後半の二台ピアノ、やっぱり連弾、一台のピアノに四手よりも場所が広いからか、二人とも弾きやすそうでしたよ、アクションも大きめでした(笑)。あと、これは書いておかなくてもいいんだけど。このあたりで感じたんですが、奥様のほうがリードされてるのかな、というか、ラーンキが付き従っているというか、だんだんわかってきたような(笑)。ステージの出入りにもクルコンの意志が最優先されてましたし。うん、そういう夫婦なのだな、と思うことにします(笑)。
そしてコンサートの最後はこれまたラヴェル編曲による「夜想曲」(1910、元曲は1899)。この頃になるともうこちらもホールに慣れてきますし、なにより勝手知ったる作品ですよ。もうただ身を任せて楽しませていただきました。あまりにノリノリすぎて、演奏が終わったことに一瞬気付けないほど集中できたのは、お二人の演奏もさることながらラヴェルの編曲がいいんだなあなんだろうこの違和感のないアレンジは、と何度となく思わされました。

アンコールはなく(奥様が、あのう、まったくその気がないようでした)、演奏会は何度かのカーテンコールでおしまい。ドビュッシーの響き、だけじゃない音楽を楽しませていただきました。ごちそうさまです。

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これは本当に余談というかなんというか。
あのう、ピアノの演奏会はそれはもう、数限りなくありますが(誇張ではないと思います、こと首都圏だけ見ても)、四手/二台ピアノをメインに据えた演奏会はそうありません。少なくとも、このレヴェルで聴けるものは。そしてドビュッシーの記念年にその作品をまとめて演奏してくれる演奏会だったのに、場内満場とは言えない感じだったのは、いかにももったいないことでした。最近、Twitterなどであまりお客さんの入っていない公演があるような雰囲気は感じていましたけど、それはチケット代の高騰やいわゆるミスマッチの類かなと考えていたので、この演奏会でこの反応は少し残念です。東京都内くらいでしかこういう考えられた企画公演には出会えませんのに、あまり求められていないのかしらん。難しいわねえ…個人的には、何人かの絶対に聴きたい音楽家の公演以外にはこういうコンサートに反応する方ですので、なんとか、こういう公演がうまくいく世の中であってほしいなあとぼんやり願うのでした。

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なお、先ほどは「こんな公演は都内くらいでしか」と書きましたが、彼らの演奏会は9/28に京都で、同じプログラムで行われます(まあ都ですかね←おい)。興味のある方はぜひ。また、デジュー・ラーンキのリサイタルは10/2に浜離宮朝日ホールで行われます。聴きたいなあ、あの音でシューマンとか。いいに決まってるじゃないですか。
なんというか、千葉の語彙だとうまく形容できないのですが、とても純粋に音楽が入ってくる、そんなピアノを聴いたように感じているのです。絶対に録音には入らない、でも間違いなくそこにある美しいものを聴くことができた、ような。いやはや、実演はいいですね、刺激になりました。
ではとりとめなく〆もなく本日はこれにて。もうひとつ、行ってきたコンサートの話はあす午前中にでも。ヒントはリンク先です(笑)。ではごきげんよう。



浜離宮朝日ホールのサイトで岡田暁生さんが言及されてるのはこの盤でしょうかね、ちょっと見逃していた感がありますです。

2012年9月24日月曜日

ようやく生誕150年が祝えます(笑)

こんにちは。千葉です。

先日、ドビュッシー展を見てきたんですよ。正式なタイトルは「ドビュッシー 、音楽と美術 ―印象派と象徴派のあいだで」、詳しくはリンク先をご覧あれ。会期も押し迫ってようやく、という感じではあるけれど見られてよかったです。

そうですね、少し詳しい感想はまた後日。その前に一個だけ。「ドビュッシーはアンチ=ワーグナー」(大意)という説明はそれでいいんだけど、音楽的には影響を十分に受けてるんじゃないかなあ。先行者の手法を意識的に回避しまくる、というのは先行者の影響をある意味では一番受けていると思うのだけれど。などなど、ところどころの解説文が過剰にドビュッシーの独創を強調しすぎていたように思いまして、いささか引っかかるものがあるのでした。でも一見の価値は間違いなくありました。
簡単に絵画作品についてふたつ。まず、カンディンスキーはあれしかなかったのかなあ…と、彼の作品が好きな千葉は残念でした。かなり自己模倣に入ってしまった時期のコンポジションを、他の画家の充実した作品に並べられるのは少し不憫でありますです。もうひとつ、常設展の中にあった岡鹿之助さんの作品がよかったです。一見でお名前を覚えちゃうほどには気に入りました。

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それはさておき。あす、コンサートに行く事になりまして。タイムリィにもドビュッシー・プログラム。以下その公演概要です。


◆デジュー・ラーンキ&エディト・クルコン ピアノ・デュオ・リサイタル
~ドビュッシー生誕150年スペシャル・プログラム~


2012年9月25日(火) 19:00開演

会場:Hakuju Hall


出演:

ピアノ:デジュー・ラーンキ、エディト・クルコン

曲目:

ドビュッシー:
  牧神の午後への前奏曲 〈四手〉
  六つの古代碑銘 〈四手〉
  小組曲 〈四手〉
  白と黒で 〈二台〉
  リンダラハ 〈二台〉
  夜想曲 〈二台〉

全席指定 6,000円

これで四手または二台ピアノ用の編曲作品(「さまよえるオランダ人」序曲とかね!)が入っていたら完璧の上を行くだろう、というくらい充実したピアニスト二人によるドビュッシー・プログラム。これでようやく生誕150年が祝えます、本当に。録音を聴くだけだと盛り上がりに欠けますからね!(目が真剣)

デジュー・ラーンキはいわゆるハンガリー三羽烏の一人。もう言いませんね、あはははは…

年を感じて疲れてる場合じゃありません(笑)。バルトークを好んで聴いていれば、言語的な音楽の扱いをしたフシのある彼の音楽を、その言語を使える人の演奏で聴いておきたくなるものです。であれば千葉の手元にももちろんあるわけですよ、アダムとイヴァンのフィッシャー兄弟によるオーケストラものや、シフ、コチシュのピアノ録音が。でもねえ、ラーンキは驚くほど録音が少ないんですよね。キャリアの初期にDENONに何枚か録音しているほかは調べてみたけど見当たらない。結果これまで馴染みのなかったピアニストですから、あすはようやくお目もじ叶う、といったところであります。なお、エディト・クルコンは奥方でいらっしゃるとか。なるほど。

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ちょっと余談なんですけど、最近考えていたことが明日コンサートを聴いたらまとまるかも、という予感があるので今のうちに書いておきます。

千葉はけっこうピアノ音楽が苦手なんです。幼少のみぎりに習う機会がなかったゆえの劣等感もある、これまではそのせいだと思って来ました。でも最近考えてるんです、それ以上に録音だとピアノのポテンシャルを拾いきれてないから、録音からではピアニストの表現を細部まで感じ取れていないから、聴いていても面白くないように感じたり、飽きてしまったりするのではないかな、と。

幸運にもこれまでポリーニやエマール、グリモーにラン・ランほか他多くの本物のピアニストを聴く機会がありました。彼ら彼女らの演奏はほんとうに面白い、こんな面白い曲があるのかと思って家で聞いてみるとそれほどでもない…そんな経験もまた、コンサートを聴いた回数に近い数だけ経験してしまっています。特にピアノ・リサイタルのあとに「もしかしてショパンって面白いのね!」「リスト、いい!!」と思ったあとには、ほぼ確実にこんなちょっとしたガッカリ感を味わって来ました。だから、というのは言い訳なんだけど(笑)、ピアノ音楽には疎いままなんです千葉は。

なのですが、最近になって「ピアノのダイナミック・レンジってもっと広いよねえ」「パソコンのキーボードじゃあるまいし、タッチだってこんなに均一なわけないじゃんねえ」などなど、ようやく過去の経験がフィードバックできてきたような、そんな気がしているのです。ピアノを演奏される方ならすぐにもわかるようなことを、こんなに時間をかけてわかったような気になるのだからなんともはや、独学の偏りというのは救いがたい部分があるものです…いや、それ以前にこの認識が間違いかもしれませんが(笑)。


ともあれ、そんな小理屈抜きで、あの内装が独特な白寿ホールに満ちるだろうドビュッシーの音を楽しんできます。いい演奏会になりますように。ではまた。

2012年9月20日木曜日

李雲迪氏の来日中止は残念だ


こんにちは。千葉です。

先日のブリテン「戦争レクイエム」とジョン・ケージの番組の話、近いうちに書きますね。まだご覧になっていない方、ハードディスクから消しちゃう前に一回は見てくださいね、どちらもなかなか興味深いものでしたので。

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昨今の政治やら国際情勢について、もちろん千葉なりに物は思うし考えもする。でもその辺の話は基本、向こうのサイトに書くことにしているし実際そうして来ました。ですがまあ、事象としてみればクラシック音楽の領分に他ならないこの件はこちらに書くしかない、残念なことだ。

本日、クラシック音楽、舞台芸術のジャンルでの最大手マネジメント&招聘元であるジャパン・アーツより以下の発表がありました。

◆ユンディ・リ 来日中止のお知らせ


文面から察するに、かなり明確に政府レヴェルでストップがかかったように思えます。ごまかす気のなさがこんなに明示されたキャンせるのご案内は初めて見たかもしれない。いやいや、千葉の忖度はともかく、来日直前の公演中止は如何にも非常事態、現下の日中関係の悪化を否応なく示してしまっています。千葉はあまりピアノ音楽が得意ではないので今回の来日を特段楽しみにしていたわけではないけれど、それでもこの公演に彼が特別の思いを持って臨むだろうことは察していました。だって、ベートーヴェンをメインに据えたごまかしようのないプログラムをもって、ファンも多ければ耳の肥えた音楽愛好家も多い(いまでも好んでCDを買って聴くような!)東京で公演を行うこと、ただの出稼ぎ公演とは位置付けられませんよ。それはどんな名門オーケストラでも楽器の演奏家でも同じです。
ちょっと話が本筋から逸れますけど書いておきましょう。地方出身者だから残念な思いを持ちつつ実感を持って断言しますが、東京での、それもサントリーホールやオペラシティなどの音響的にも優れた都心部の会場で行われるコンサートには、特別な雰囲気があります。地方公演にはまた別のよさがあるのですが、それはまた別途。ツアーの頂点をなすような特別な演奏会を求める音楽に通じた聴衆、その雰囲気を感じて奮い立つ演奏家、その出会いだけが生み出せる特別な空気、それはある意味では19世紀の芸術宗教を正統に継いでいるのではないかと思うものです。最近は行ってませんけど(笑泣)。
そんな意味付けはプロモータのみならずアーティスト本人もわかっていたことでしょうから、今回その機会が失われたことの意味は察するにあまりあるものです。もちろんその落胆も。それが本人のアニヴァーサリーでもあるような公演であればもう、かける言葉が見つかりません。無念。

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というのが、このブログ的視点での、つまり音楽方面から見た今回の突然の来日キャンセルの残念さ。でも今日はそっちはあまりメインじゃあ、ないんです。趣味じゃないけど忖度まじりの憶測をします。外交って定型の言い回しを駆使して言質は与えずしかし両国の関係をマシな方向にし、その中でも自分たちの得られる利益を最大化するよう努めるもの、でしょうし。

きっと、日本でも人気のピアニストを「危険が想定される」ところに送りたくない、という比較的穏当に敵意が示せる言い方で、彼らはこのキャンセル以上の意味合いを含ませているように思います。率直に感じたままを書けば、「これは手始めで、あくまでも小手調べです」とでもいうような。そう、芸術が文化がどうこういうことに重きをおいた判断ではない、あくまで交易としての側面での判断かな、と見るのです。日本で本当に彼の身辺に危険が!と思っているわけではない、のではない、けれどこういった出し入れはどうとでもできてしまうことをお忘れなきよう、と。それに使われてしまい大事なコンサートになり得た機会を失った李雲迪氏の残念さ、そして彼の来演を期待していた少なからぬ音楽ファンへの配慮の上の層、もっと身も蓋もない直接的な力関係の提示。

まあ、わかります。今回の二国間関係の危機は(残念ながらもう「悪化」ではないと思う)、まずは石原慎太郎くんがなぜかアメリカのシンクタンクであるヘリテージ財団で「都が尖閣諸島を買い上げる」と発表したことに端を発した一連の流れであり、その中で日本は驚くほど自閉的な対応を続けてきた。やれやれ。
いつも思うんだけど、大使を召喚してしまったら、日本の意志は伝えられないってこと、わからないのかしら。なお、かの国の事情は忖度するには複雑すぎるので、ここでは踏み込みませんよ。共産党大会を前に現在の上層部と次世代の有力者たちの政治闘争がある、世代や階層に応じて振舞いには相当の格差がある、反日という看板の元に違う主張をしている層が少なくなく見受けられる(薄煕来氏をめぐるかの国の思惑は生かじりでどうのこうのという気にはならない複雑さだ)、職業的活動家の動きが尖閣諸島上陸時から見受けられる、などなど変数が多すぎるし、自国のことでない以上それなりの実感をもって語るには情報が少なすぎる。この程度の認識でも書ける、誰かの口真似なら千葉が書くこともないでしょう?(笑)

そこまでは想像がつくし一定の理解ができる。問題の大小によらず見解の相違があっても、そこまでは感情的な拒絶の前に認識しないと。ある程度の理解をお互いにして、それでも残る見解の相違をどう折り合いつけていくのか。それが外交で、その影響の一端として今回の件がある。うむ、ここまでは理解したよ。


でもなあ、って思うわけですよ。民間の交流ルートを閉じるのはどうなんだろう、と。正式な国交では難しい部分を補完してくれるかもしれない可能性としての民間交流を閉じてしまうことで、硬直した外交的やり取りが二国間のすべてのやり取りになること、少なくとも昨今の雰囲気を考えるとあまり得策とはいえないような。ことクラシック音楽の分野って、行動的な国士様との相性があまり良くないような気がするからこのルートを活かしておいても危険は少ないように思うんですけどね(笑)。ああ、でもこれが平和ボケである可能性もあるか、むむむむ。難しいですね、やっぱり。
いろいろと言ってきましたけど、考えてみればピンポン外交のお国でいらっしゃったわけじゃありませんか、中華人民共和国は。民間ルートの活用、考えていただけるといいなあ、全人代が終わればその可能性が出てくるのかしら。現在はネットなどの形で完全に交流を塞ぐことは難しいから、そんなに難しく考えなくてもいい、のかもしれないけど、最悪の最悪まで考えておくことはムダにはならないのではないかな、とか思う次第なのでした。

ううん、なぜかこっちでは公演中止のお知らせを書くことが多いな私(笑)。まあいいや、あまり考えないでいこうそうしよう。
微妙に世界へ情報拡散に貢献する当ブログ(笑)としては、最後に2013年1月来日予定のある同じ中華人民共和国の誇る若きピアニスト郎朗くんのチケット先行発売が今日から始まっていますね、と世間話をして〆ましょう(笑)。来年の一月には収まってるんですねこの険悪な状況、よかったなあ(望遠)。では。

追記:李雲迪さんことユンディ・リ本人からのメッセージがジャパン・アーツのサイトにて公開されました。まあ、基本的に同意であります、ここに書いたことを変える必要はまったく感じませんでした。またの機会を、と思うのみです。



あ、演奏の話をヒトコトもしてませんね(笑)。ユンディは残念ながら聴いたことがないのだけれど、ラン・ランは何度かコンサートで聴いています。あれだけ弾けるって、それだけで圧倒的なんですよね、きっと19世紀的ヴィルトゥオーゾ路線を極めることができる人なんじゃないかなって期待してます。DVDのリンクを貼ったのは何も顔芸以下略。

2012年9月16日日曜日

ネルソンス&CBSOの戦争レクイエムですと!

こんにちは。千葉です。

昨日の東京交響楽団の演奏会の感想をツイッターで散見しているうち、どうしても聴きたい気持ちが抑えがたくなって来ました。東響は前にキタエンコとの第七番でも良いショスタコーヴィチを聴かせてくれましたし、あの新国立劇場「ムツェンスク郡のマクベス夫人」も彼らでしたよね。あれはいいものだった、のに収録とかディスクでリリースとかないんですよねえ、残念。

スダーン監督のもとアンサンブルの向上した彼らが、ロシアのマエストロを呼んでいいショスタコーヴィチを演奏するというのはなかなか素敵なことだと思うし、演奏される曲が交響曲第四番ではなおのこと。どうしよう、無理に無理を重ねるべきだろうか…

と、迷いに迷う昨日からの千葉であります。明日開催の、東京交響楽団川崎定期演奏会という名の横浜みなとみらいホールでの公演、興味ある方はリンク先で詳細をご覧くださいませ。ソリストのデジュ・ラーンキを招いてのモーツァルトも好評のようで、もうどうしたものかと(以下苦悩混じりの繰り言がエンドレス)

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えっと、その前に今晩、大いに気になる番組がありまして。ショスタコーヴィチが呼びましたかね、交流のあった作曲家ベンジャミン・ブリテンの生誕100年を前にこんな番組が放送されます。さっき知りました(遅い)。

◆NHKBS プレミアムシアター
◇初演50年 コヴェントリー大聖堂の「戦争レクイエム」【5.1chサラウンド】
◇生誕100年記念 ドキュメンタリー  ジョン・ケージ/音の旅 【5.1chサラウンド】
◇ザ・ジョン・ケージ

先日ですね、Amazonさんでお安く買えたんですよ、ブリテンの「戦争レクイエム」のスコア。中古ということだったのですが特に使い古し感もなく、それでなんとお値段は驚きの1,000円程度。いいお買い物したなあ…

それで気をよくして、というのは半分冗談ですけれど、以前からもっとわかりたいと思っていたこの曲を、久しぶりにスコアを眺めつつ聴いたりしていたところだったのです。
でそのタイミングで「初演50年」記念演奏会の映像が見られるとは何たる僥倖!とまでは叫びませんが、先日ラインスドルフの話でも書きました通りこの曲は映像で見たほうがわかりやすい、受け取りやすいところがあると思うので、今晩はちょっと無理をして見てみるとしましょうか…

なお、残念ながら千葉はジョン・ケージについては何も申し上げられませぬ。というのも、ピエール・ブーレーズの書籍からいわゆる現代音楽を知り学んだがゆえのバイアスが自分の中に根強くあったため、ケージを聴く機会を作れないでここまで来てしまった感が否めないから、なのです。こういう番組でその先入観を払拭するのがいいのですけれど、放送時間がねえ…


早く録画できる身分になろう、と思ったところでひとまずはおしまい。ではまた。





2012年9月11日火曜日

今日はエーリヒ・ラインスドルフを、ぜひ。

こんにちは。千葉です。

また感覚が開いてしまいました、なんとか向こうは更新しているのですが…いちおうはまともなことを書こうと思うと手が進まないというのはあれですね、かなりマズイですね、えへへへへ(軽すぎる反省)。

後ろを向いていてもしかたがないのでサクサク本題へ行きましょう。

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今日はエーリヒ・ラインスドルフの命日だとのこと。1912年2月4日生まれで1993年9月11日生まれ、ということはホブズボームの言うところの第一次大戦で始まり冷戦の終了で終わる「短い20世紀」をほぼ丸々生きた格好ですね、ふむふむ。
だからというわけではないのでしょうが、残された録音を聴く限りでは実にモダンな演奏が今聴いてもあまり古さを感じさせないのがいいです。実に。この盤はちゃんと紹介しておきたいな、と以前から思っているのがこちら。


交響曲が全集でないのはほんとうに残念ですが(第一、四、七番が収められてない…)、彼がボストン交響楽団と残したプロコフィエフ録音全六枚、最近リマスタされてお安くなってリリースされてます。交響曲が四曲、ピアノ協奏曲はジョン・ブラウニングの独奏による全集、加えてフリードマンとパールマン独奏のヴァイオリン協奏曲、そしてバレエ音楽「ロメオとジュリエット」抜粋に「キージェ中尉」組曲が収められてます。

これはねえ、演奏の水準だけで見れば東のロジェストヴェンスキー盤とタメを張れる西側の番長なんじゃないかなあ…と思えるものなんです。実にモダンな、切れ味が素敵な演奏なのでもっと聴かれるといいなって思うわけですよ。
交響曲のうち比較的知られた第一、第七番がないのは惜しい、またある意味でプロコフィエフの活動の頂点をなしている第四番がないのも実に惜しい。原典版を取るのかそれとも改訂版を取るのか、など見所の多い曲だけになお惜しい。もったいない。しかしそれでも、このボックスに収められた一枚目、交響曲第二番と第六番を聴くためだけにでも、ぜひ聴いていただきたく思うほど、充実した演奏が収められてます。ほら、最近のボックスって昔のフルプライス盤よりお安いじゃあありませんか、騙されたと思っておひとつ、どうすか?(笑)

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他にも彼の録音は手元にあるので、もう少し聴き込んで紹介したいと思います。千葉はいわゆる「新即物主義」扱いされて結果軽んじられた感がなくもない20世紀の演奏家の皆さんに、大いに敬意を抱くものでありますゆえ。

最近ようやくスコアを手に入れて学習中のブリテンの大作「戦争レクイエム」は彼が合衆国初演をしているんですよね。そしてその映像が残されている、という僥倖。




こちらはその大作の終結部だけですが、YouTubeでご覧いただけます。個人的には、この曲ならではの仕掛けが生きる部分を見せてほしいなあ、なんて思うところだけどそれは買ってみなさい!ということですねわかりましたごめんなさい。



なんとなく買うタイミングを逸し続けているこの盤、そろそろ買いどきかなあ…舞台上の配置とか、映像で見たほうが理解しやすいことも多いんですよね、この作品。

1962年5月30日に初演された作品を、その約一年後の1963年7月27日に合衆国初演したタングルウッド音楽祭での演奏会を収録したものです。20世紀中盤の新作初演に対するこのあたりのスピード感に感心させられること、多いですね。その辺りの観点から再評価されるべきマエストロ、多いと思うんですよ、同じくアメリカ亡命組でオーマンディとかオーマンディとか。まあその話はまた別途。

彼の録音はまだそれほど聴き込めていないけれど、独特の険のようなものがなかなか、魅力的なのでまた機会を見つけて紹介しますね。それこそ、マーラーは前に取り上げたんだったかな…

とりあえず今日はこんなところで。ではまた。


Erich Leinsdorf/Mahler: Symphony No.1; R.Strauss Till Eulenspiegels lustige Streiche [ICAD5051]


あれ知らぬ間に、という感じですがこんな映像も出ていたのですね。むむむ。

2012年8月28日火曜日

まだ若手なんだからさ、と思うのよ


こんにちは。千葉です。

「領土問題」だの国会運営だのACTAだのなんだのと洒落にならない問題山積の中、NHKのニュースがAK以下省略。芸能ニュースをやる番組はヴァラエティですよね、普通。ワイドショウ扱いしてもいいのかなあ、NHKニュースウォッチ9。

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世評の高い、期待される若者を腐すのは気が引ける。それに明らかに自分の方がマイノリティなんだろうな、とは思う。でも今のうちに言わないと後出しになる、それも嫌だ(笑)。自分の予測がハズレならそれに越したことはない、でもけっこう本気で心配してるんだよこれでも。ハズレだとあとでハッキリしたらバカにしてくださってけっこうよ。と前置きして。

番組については一切言及しませんが、先日放送された「ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート」、グスターボ・ドゥダメル指揮の演奏を視聴しました。前半のゴーティエ・カプソン独奏のハイドンについては多くを語りますまい、千葉はロン毛が邪魔そうなゴーティエくん、けっこう嫌いじゃないっすよ。実演で聴いたほうが映えるタイプかなあ、とは思いますが。

後半のね、ベートーヴェンの交響曲第五番 ハ短調 Op.67、これがねえ。その場その場の音楽は自然な起伏をうまく膨らませたものだし、無理にデフォルメしてどうこうしない正攻法はそう悪いものではない。その指揮者の元、出てくる音はベルリン・フィルのものなんだから悪い訳がない。

でもごめんなさい、このくらいでスター扱いされちゃってて、ベルリンにもウィーンにも登場とか、いいのかなあ。

おそらく皆さんご存知だろうエル・システマがどうのこうのとか、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとの熱演がどうのこうのとか、アバドがラトルがアルゲリッチがどうのこうのとか、そうなんですよ、世界的に将来を嘱望されていて、そのキャリアについては千葉なんかが心配してあげる必要はまあ、全くない。あまりにもなさすぎて、ここで異議を申し立てることを申し訳なく思うほどだ(笑)。でもなあ。名前が売れてポストを得て、著名どころに客演するようになるに連れその演奏がどんどんと驚きのないものになってしまうマエストロを何人も見て来たものだから、そんな義理もないのに心配になるんです。

そもそも南米の、中でもクラシック音楽の伝統とは切れている(アルゼンチンやブラジルは二次大戦の際に少なくない音楽家が亡命したこともあって20世紀には十分に欧州とつながっている)ベネズエラ出身、同志とも言えるユース・オーケストラから熱い演奏を引き出したのがその才能を評価された、などなどの彼についての物語は、よくも悪くもバックグラウンドの不在とそれ故の才能の輝きといった要素で飾られています。個人的にはそこに不安も感じつつ、もしそんな「物語」が現代にも可能なのならそれはそれで素晴らしいな、と思い、いくつかの録音を聴いたくらいで静観していました。っていうか来日公演にはお金がなくていけないし(笑)、各種録音を追いかけるほどの興味もまだ感じていない。ファンの方ごめんなさい。

でね。まあ、音楽を力技抜きで聴かせるのは今も上手だと思う、でもそれ以上になってる気がしない。小編成のオーケストラなのに、巨大なSBYOを操っているのと変わらない歌わせ方をしてしまっているし(待って合わせる感じ、せっかくのこのオケの小編成なのにもったいない)、音楽をどう響かせたいのかがいまいち見えない。ベートーヴェンについてのコメントがあったけれど、演奏からは彼の強い個性も手法的なものもあまり感じられず。これからの人なんだから、で済ませてあげてもいいんだけど、こと世界最高のオーケストラを指揮して、世界で放送される演奏会だと考えると、ちょっと。期待の若手の顔見世興行に使っちまっていいんですかい、というか何というか。

このオーケストラのマエストロたちが彼に多くを期待して、以前から目をかけていることは知ってます、それにベネズエラ出身というどちらかと言えばプラスになりにくい出自ながらその音楽の魅力で活躍を続ける若者には千葉も期待したい。でも、まだ早くはありませんかね、ああいう扱い。
個性といえば聞こえはいいんだけど、訓練と経験によって洗練されまたはより強められていなければそれはただの手癖かもしれないのですよ。面白い、刺激的で新鮮な手癖もありうるとは思うけれど、それだけで長く活躍できるほどクラシック音楽の世界は簡単じゃないような気がするんですよ、千葉は。いまのドゥダメルは、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラやポストにあるエーテボリ交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニックとの演奏で自らを鍛えあげるべきではないのかと、終盤に向け明らかに客演指揮者の演奏になっていくベートーヴェンを聴きながらそんなことを思った次第です。特に誰とは申しますが、一時期のダニエル・ハーディングについても同様の心配をして、昨今はなんとかまた軌道に乗りつつあるのかなと思っている千葉としては、このような不遜な心配をしてしまったよ、というお話でした。

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ぜひ、この文章が後の世にて笑いものになりますように、と思いつつ本日はおしまい。ではまた。



カプソン兄弟だとこのラヴェル、けっこう好きですね。兄の美音に弟の突破力、そこに加わるブラレイの脱力(笑)。

2012年8月24日金曜日

生誕150年のその日に(了)


こんにちは。千葉です。

それにしてもあれですね、我が国も相当に愚かだと思っていましたが、以下自粛。こんな流れから武力衝突になったら後世に消えない汚名を残すことになると気が付かないものかしら…

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剣呑な枕はこれでおしまい(笑)。

決定盤主義というのはなかなか難儀なものでございます。好きなモノができたらそれを一心に愛でてりゃいいじゃねえか、なんて外からは思うところ、何故か気に入った曲ができると必死にいろいろな盤を聴いてみてはああじゃないこうじゃない、あそこの音符の扱いがどうのこうのいや楽譜の版そのものが違うのにそういう議論はどうのこうの。本人たちは楽しいからやってるんだからまあ、どうこう言うほどのこともないんでしょうがねえ。

咄ごっこもこの辺りで(笑)。千葉も大学に入ってからはいろいろと録音を漁ったもんです、それまで知らなかった世評の高いものから順に(音楽の評判というものの世評、あることすら知らなかったなあ、だって真面目な受験生でしたから)。アンセルメとかマルティノンとか聴いて、「なぜクリュイタンスはドビュッシーの録音をちゃんと残していないのか」とか「デュトワさんはいつ録音されるんですか?」とか思ってましたなあ…当時の世界にはマイナーレーベルはなかったんですよ、聴くべきは基本、赤青のレーベルのみ(大嘘)。ああ、でもそのレーベルでも聞く価値のない録音も(以下自重)。

Jean Martinon/Orchestral Works - Debussy, Ravel<限定盤> [CZS7044442]


今度非常にお安く出ますね、マルティノンのドビュッシー&ラヴェル。この情報を見て聴きなおしていたりします、これも刷り込み盤のひとつだなあ…


さっきのはさすがに言いすぎなのだけれど、でもその当時の世評には、確かにメジャーレーベルしかなかった、かも。世評というか、それを作っていると千葉が思っていた、「批評」では。基本的には「本場物」、またはそれに準じた演奏中心。どういう演奏なのか、という疑問には定番の紋切り型が並んじゃう感じ、エスプリがどうのこうの精妙なアンサンブルがどうのこうのラテン的な響きがむにゃむにゃむにゃ。正直言って何を示しているのかよくわからない、昔も今も。その頃と比べたら、最近はまだマシになっているのかもしれません、いわゆるレコ芸的な評も。いやあれか、印籠を心待ちにする時代劇と同じで、お決まりを楽しめればよかったのかな。それを初学者がしようというのは無理筋、無茶にもほどがあるけれど。

よくわかっていないままに多くを聴いて、そのうちに知ったマヌエル・ロザンタールの盤は個人的には衝撃でした、自分の知らない/レコ芸とかに載ってない演奏家の音楽がこんなに素晴らしいよ!って思いまして(笑)。ちなみにその時点ではまだ存命でいらしたロザンタール氏、オッフェンバックによるパスティーシュ「パリの喜び」の編者として知っていたものだから、もっと昔の人だと思い込んでいました。まあこの人、「音楽の教科書に載ってるから」という理由でビートルズはみんな物故者だと思っていたような物知らずですから、ご容赦のほど…

そして待望していたデュトワ盤を聴き、それまで存在すら知らなかったアンゲルブレシュトなど「作曲者ゆかりの」録音も聴き、そうこうしているうちにブーレーズ&クリーヴランド管弦楽団による録音が登場するわけですね、考えてみるとたかだか5年とかそれくらいの、意外と短い時間の中でのことだったか…趣味を深めるってのはそういうものかもしれません、いろいろ聴いたとは言っても対象が一曲ですしね。マーラーの交響曲に近づくのにはまた別の、手のかかるやり方が必要だったので、こうして鳥瞰できるようになるとなにか感慨深くさえありますです。しみじみ。

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この話の最後にだいぶ個人的な見解を。
ラヴェルや初期ストラヴィンスキーなどの名録音が好きだったから大いに期待して待っていたシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のドビュッシーですが。率直に申し上げて期待外れでした。その後の彼らのなりゆきを思わせる、とまでは言いませんが表面の磨き上げで終わってしまった感が否めず。
いま考えれば、ドビュッシーをワーグナーからの流れに位置付けるような視点に欠けていたように思われた、のかもしれませぬ。その独自性や透徹したセンスが評価されている作曲家にこういう言い方はないかもしれませんが、ドビュッシーは音響だけには還元し難いところがある、と言えるのかなあ…(では音響的洗練を極北まで極めたようにも思えるブーレーズはどうなのか、という話はどこまでも長くなりますからここではしませんよ)



この件はデュトワへの評価が変わっただけではなく、自分の中の「決定盤」「名盤」志向に対する考え方を動かしたように思います。また、「好きなあの演奏の何がどういいのか」を少しは言語化して考えるようになったきっかけのひとつ、かも。

なお、こんなふうにくさしてはおりますが、シャルル・デュトワとモントリオール響の仕事のいくつかは「決定盤」扱いされるだけの質があると思いますし、今でも好きな演奏もいくつかはあるのです。公共放送交響楽団さんはもっと彼に鍛え上げられるべきだったといまでも思っていますし(いまでも来るじゃん、と思われた方、客演とポストありでは、活動の中身がまったく違いますからね)。


こうして振り返ると若かったなあ、あのころは(笑)。この二回でつらつらと書いてきたことは、自分なりのクラシック事始めから1995年のブーレーズ・フェスティヴァルに至る道程は、いま振り返るとこういうことだった、となるのかもしれません。とは言いながら、この私的回顧にはバーンスタインが登場していないわけで、「自分語り」としてはいささかの不備がある、と感じているのですが、タイトルに偽りを生じさせたままこれ以上続けるのもどうかと思いますので(笑)、今日のところはこれにて。ではまた。


Desire-Emile Inghelbrecht/Debussy: La Mer, Images, Trois Chansons / Inghelbrecht [SBT1213]


昔「DISQUE MONTAIGNE」から出てたボックスはもう手に入らないのかしらねえ…

2012年8月23日木曜日

生誕150年のその日に(起)


こんにちは。千葉です。

まあ、ポーズになる以外のオチはありえない。そう思ってはいましたから今さら落胆も何もありませんが、わが首相の言葉の扱いの酷さには辟易しきり、であります。あ、こっちではこういうのやめるんだった(ワザ、ワザ)。

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今日はドビュッシー150回目のお誕生日だとか。クラシック音楽に深入りするきっかけとなった作曲家の記念日とあらば無視もできませぬ、ちょっとばかし書いておきましょうか。

と思ったけど、そういう話はこのブログの本館のさらに前身、業務ブログだった頃の初々しい奴がかろうじてサルベージ※されてるんですよねえ(リンク先参照)。

インターネット・アーカイヴというサイトでいつでも復元できるなぁ、中身がある奴だけでも拾ってこようかなとか考えてるうちにほとんど見つけられなくなりまして。まあ、今の自分からみればいささか綺麗事感は否めず、消えものとなるのもそれはそれでありかな、と思えなくもない。いやはや。

仕方ない、当時のよそいき風では書きにくかったところだけでも書いておきますか(笑)。

千葉は世界遺産町(笑)の出身です。観光地としては当時から相応に栄えてたと思いますが、そうは言っても人口一万にも満たない程度の田舎町。そこでクラシック音楽に接する機会なんてそんなに多くはありませんで。覚えている最初に興味を持ったクラシック音楽はラヴェルのボレロ(ホンダのテレビCM経由)、そこからベートーヴェンやブラームスに至るには何年もの時間がかかるわけです。マーラーやショスタコーヴィチにたどり着くまで、だと十年単位かな(笑)。

その距離を作りもし、今もクラシック音楽を主に聴くに至るきっかけとなったのは中学校で始めた吹奏楽。その頃のコンクールでの流行が、ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」の編曲版による演奏だったんです。中学一年生の秋に、隣の市の(というか、地元の町にはない)楽器店で吹奏楽コンクールのレコードを買いましたが、これが見事なまでにこの曲ばっかりで。ものによっては半分くらいがこの曲だったりしたんじゃないかなあ…
最初に聴いたのはたぶんコンクール特集のNHK-FM、「ブラスの響き」のエアチェックだったと思います。その流行の曲(笑)を実際聴いてみるといいんですよ、とっても。と言いながら、何がいいと感じたのか、当時の感触はもう思い出せないけど(笑)。素朴な当時の感想を言語化するには自分は聴き方が変わりすぎもうした。こういうのはフィクションとしてなら書けるのかなあ…

さて話を戻して。吹奏楽版でも十分に気に入った、でもこれってオーケストラの曲なんですよね、「本物」はどんな感じなの?とは思っても田舎でお小遣い生活の中学生が簡単にレコードを買えるわけじゃない。それに何がいいのかわかりませんしねえ。
これも余談になるけれど、千葉にも抜き難く「決定版志向」、あると思います。どうせなら良いものから知りたいわかりたい。でもこれって、貧乏性の贅沢志向というか、一点豪華主義的な余裕のない楽しみ方なんですよね。後になって、いろいろな盤を取っ替えひっかえ聴くようになってから気づくことなのだけれど。
何が良いのか知らないし、であれば基準もないから良し悪しなんて判断できないし、それなのに最高の物をまず知りたいと願う。まあ、悪いことではないしついそう思ってしまいがちですけれど、そもそものところで考えると無理のある願望なんだなあ、とか思う最近の千葉であります。だからこそ紹介が大事、とか思うよりむしろ「出会っちゃったそれを、その出会いを大事にしなよ」と思うのだけれど、そういう話もまた別途かな(笑)。


そこで聴くことになるオーケストラ版の、本物のドビュッシーの「海」は、ピエール・ブーレーズ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のもの。何度も再販されているので、興味のある方は入手しやすくて廉価な奴をぜひ。例えばこれとか。



この辺の「再販で安くなっていく海外盤、再販なのに価格帯を守ろうとあの手この手を繰り出す日本盤」の話も少ししたいところです。いつも書きかけては長くなってやめてるお題ですね(苦笑)。

この演奏、テープに落として繰り返し聴きました、それに後にCDになってからも買い、組物になっては買い。「ブーレーズが指揮する海をコンサートで聴いてみたい!」というのはオーケストラの実演ひとつさえ聴いていなかった頃の夢の一つでした。後に1995年の「ブーレーズ・フェスティヴァル」にて、ロンドン交響楽団との演奏という形でその夢は叶うのですけれど。その頃の自分の耳も、明らかに今とは違う初々しいもの。だって、初サントリーホールで最寄りとされる駅で降りては見たもののそこから会場への行き方がわからなくて、チケットに記載されていた電話番号に問合せちゃったような時の話ですもん(笑)。あのときけっこう公共放送様は音声映像などなど収録されていたように思うのだけれど、それらは再び日の目を見るのかしらね…

また話が逸れました。っていうか、長すぎるのでこの話続きます。ではひとまずはここまで。ごきげんよう。



この話の流れだと無視できないブーレーズ新盤も大好きですが、意味合いが違うんですよねえ、自分にとっての。1995年当時の千葉が間違いなく尊敬していた指揮者による一連の録音、その意味合いも考えておきたいのですが、これまたなかなか難しい。マエストロの次なる来日はもう希望しませんから、ご健康でいらしてくださいませ、とのみ。