2016年10月29日土曜日

総裁の言葉に得心 ~ウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」

こんにちは。千葉です。

洗濯物やお野菜の高騰について思い悩む今日このごろではございますが(見事に悩んでもどうにもならない案件のみである)、昨日は先日記者会見に伺ったウィーン国立歌劇場来日公演、最初の演目「ナクソス島のアリアドネ」を拝見してまいりました。あの空のピットに素晴らしい音楽家が入り、空の舞台で芝居が展開されるわけで、期待しない訳がない。舞台は満喫できました、道中雨さえ降っていなければ文句なしでしたが(笑)。なんというか、つまるところオペラやコンサートに限らない一般論になっちゃいますけど、アートはきちんと体験しないと理解できないものなんですね、としみじみ。

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「ナクソス島のアリアドネ」というオペラについての説明的なものは割愛します(NBS様のサイトなどご参照くださいませ、音聴かないと、と思われる方はCDショップでベームの盤を買うなり(世代感)YouTubeで検索なり、手はいくらでもございますし)。今回の舞台の雰囲気は公式配信されているトレイラーでご確認くださいませ。



この舞台でのベヒトルフの演出は、あえて前芝居のドタバタを後半に地続きで持ち込むことによって劇中劇をカッコ内に収めるもの、言いかえればあくまでも「前芝居=現実/オペラ=フィクション」という虚実を混ざらないよう示すスタンスが根底にあります。だからメタフィクション的不安定はあまり感じない、楽屋話的に安心して見られる舞台となっていますし(人によっては微温的にすぎるかもしれない)、お話もこれ以上なく収まりよく着地します、アリアドネとバッカスは上演が終わればプリマとテノールに戻って笑顔でお疲れさん、さらに作曲家のドラマまで回収して幕は降りるのです。混在する二つのグループは衣装で明確に見分けられるのだけれど、現実サイドと地続きである以上オペラパートは「先ほどまでやりあっていた彼ら彼女らによって、強いられて半ば即興的に演じられるお芝居」として見ざるをえないわけです。

作中でその場しのぎに歌われ演じられるオペラ(として作られた作品←言葉にするとややこしいけど見れば一目瞭然)は、そのままではフェリーニの映画のように別の水準にお話を持ち込まなければ終われないのでは?(それこそ終わらないパーティ空間が荒廃するところまでやっちゃうとか、オケがリハーサルしている会場が破壊されるとか謎の行進がはじまるとか、そういうあれ)ともなりかねないわけです。実際、ツェルビネッタが示すオペラ・ブッファ(とその前提にあるコメディア・デラルテ)と、アリアドネが示すオペラ・セリア(これも前提はあって、そのものずばりギリシア悲劇ですね)はまとまらないよね?と思い始めたまさにその瞬間に登場するのがバッカス、これでこそエクスデウス・マキナでありますよ神様ありがとう。そしてそのバッカスを演じたステファン・グールドの素晴らしさたるや、それはもう。

これは記者会見の記事では書ききれなかったのですが(文字数の関係)、ドミニク・マイヤー総裁はコメントの中で何度かグールドが出演できることをうれしく思っている旨、特別に言及されていたんですね。作曲家役のステファニー・ハウツィールも代役だけれどこちらはカンパニーのメンバーだからあえて言うこともないのかな?とも思えて書きにくい気持ちがありました。
しかしながら実際のところはさにあらず。まず、毎年この作品を上演するカンパニーで、メンバーが代わる代わる登場することはオペラハウスの、とくにもレパートリー方式を採用するウィーンではこうしたアンサンブルの変更はある意味”日常”なのでしょう。その中でいつもどおりのパフォーマンスを発揮してくれるだろうハウツィールについては心配などするわけもなく、安心してお任せだったのですね。彼女自身が会見の中で「特に前芝居でがんばる役ですね(笑)」と話していましたが、あのバタバタしやすい芝居の中であれだけ自由に振る舞える彼女に対して今さら心配する方がむしろおかしいのです、彼のカンパニーで信頼されている大切なメンバーなんだもん当たり前でした。邪推してごめんなさい(笑)。

そしてグールド。特にバッカスとしての彼ですが、これはねえ。先日の新国立劇場でその歌の威力は知っていましたから、また登場してくれるんだうれしいなあくらいのつもりでいたんです。会見で「このプロダクションを作ったときのメンバーですから心配はない」と話していましたから、そりゃあ総裁も力強いよね、ボータの逝去という残念な理由による代役だけどひと安心だね、位の話かなってメモを取っていたあの日の千葉を叩いてやりたいです。新国のあと台湾で「大地の歌」(国立交響楽団、指揮はオッコ・カム)を歌って今回の舞台と、この二ヶ月東アジアで大活躍ですよ彼。
この混沌を「神の声」で収めなければ芝居が壊れる……!という、この作品では、というかこの演出では絶対的な存在感が求められる難役がバッカスなんですね(北島マヤかお前、いやそれよりメタフィクションはあらかじめ壊れているね、とかツッコミはなしでお願いしますすみません)。
その大役を信頼して任せるはずだった、ヨハン・ボータの永遠の不在によって開いてしまった穴がどれだけ大きかったか、そしてどれほどの衝撃だったか。この上演を経験した今にして、ようやくその痛みが理解できたようにも思っています、彼もまた英雄として”神”たりうるテノールだったのですね、と。千葉は残念ながら彼の声を実演で聴く機会を得られなかったのですが(欧州で大人気、大活躍されている歌手は本当に多忙なので全盛期に日本で聴くことはそれだけでも難しいです)、彼の友人で今回彼の代役を務めるグールドによって、間接的にながらその存在を感じ取れたように思います。何を見ても何かを思い出す、であります。

本題に戻ってグールドですが。前芝居でも少々の出番はあるけれど、見せ場はやはりバッカスとしての登場以降です、というかそこからが長丁場でもう。それをねえ、圧倒的な存在感ともちろん声で場を作り出してしまうあたり、本当に旬の歌手なんですねえ彼…前に映像で見かけたジークフリートもよかったし、先日が初役だったというジークムントもよかったけれど、これはもう。逆光気味に舞台奥から登場して発した第一声で隣席の方が身を乗り出す気配を感じたほどの衝撃ですよ(これは実話)。悲壮感漂うジークムントとは違って、超然としたバッカスは迷いはあっても存在は揺らがない、その違いを声だけで示せる歌手が聴けて千葉は幸せでした。こう書くと技巧的には、とか体力は、とか思われるかもしれませんが、先月のジークムント同様盤石の出来でございましたので、日曜に聴かれる方はぜひお楽しみに。

神様(え)が美味しいところを持っていってしまったのですが、この作品のメインキャストはそれぞれに大役で難役です、しかもグールド以外のメンバーはオペラでは出ずっぱりに近ければ、登場一声場内を圧すとはなりにくい。いやそんなことをしてペースを乱されても困ります(笑)。
プリマドンナ/アリアドネのグン=ブリット・バークミンは「サロメ」(N響の公演を放送で聴いた)とはまったく違う役、それも文字どおりの二面性が求められる役(というか二役だからそれ!)を見事に演じ分け、さらに終盤の二重唱まで力強い声を維持しておりました。さすがです。会見では前芝居について「私たちの日常を描いたような」と笑いながら語っていましたので、前半後半ともこのオペラを楽しまれていたのだろうと思いましたよ。

ツェルビネッタのダニエラ・ファリーは前回来日(バイエルン国立歌劇場/リンク先は当時のもの。こうして自然にアーカイヴしてくれることのありがたさたるや。情報は残しておけばとそれだけで歴史的価値が出るんですよ!と声を大にしておこう)でも聴かせた同役で(千葉は未聴ですが下の動画参照)、確実な技巧と繊細な表現を両立してみせるあたりさすがです。
参考までに貼っておきますが、この動画はファリー自身のチャンネルであげている公式です。かつてもこれくらい力強く歌えていたこと前提に比較すると、今回はむしろ弱音で聴かせてきたような印象かなと。



ちなみにまったくどうでもいいことですが、千葉はもうおじさんなのでツェルビネッタちゃんくらいの恋愛観でいいような気がしてしまいますけれども皆さま如何でしょうか(回答は募集していません)。ロマン派の恋愛観、恋愛(自他の二者間関係、と普遍化してもいい)が世界そのものであり得る瞬間を描いたものだと理解してなお受け容れがたい気分になるんです、おじさんなので(しつこい)。「ウェルテル」とかね、そういう歴史に名を残す名作はできるだけ若いうちに、共感できなくても読んでおくべきなんですよお若い皆さん、年を取ってからは理解度は高まるけれど受け入れ難くもなりますゆえ(今度は説教か)。

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そして小編成のオーケストラを率いたマレク・ヤノフスキは、おそらく舞台に流されない、ある程度ステージから自立した音楽を意識されていたのかな、と感じました。そもそもが楽屋落ちというかメタフィクションというか、批評的意識を内面化した作品なのだから音楽もまた批評的な客観性を保つべき、と考えたのかもしれません、結果としてオペラというよりコンサート寄りの、器楽的なアプローチに感じられた部分もありました。会見で「数々の代表作とは違う、洗練された作品なので」と語っていたマエストロは音響的にも流れ的にもきっちり全体をコントロールして聴かせてくれました。かつてレジーテアター的な「音楽より演出を優先させる」上演を拒絶したマエストロによる「芝居より音楽」という主張だったのかもしれない、とも思ったり。この作品ならば舞台と音楽の相乗効果的なやり方(言ってしまえば悪ノリ的なそれ)もあるんじゃないかな、もしくは音楽だけでも虚構性を強調する方向に暴走してもいいのかな?なんて思う瞬間もありましたが、それではこの作品の持つ洗練からは離れてしまう、とマエストロは考えていらっしゃるのでしょう。
年齢を感じさせない積極的な指揮は先日拝見したふだんのお姿とはまったく違うもの、来年春の「東京・春・音楽祭」でもきっと引き締まった「黄昏」を聴かせてくれることだろう(そして我らが放送交響楽団とは相性がよろしかろう)、と認識させられる指揮姿でありました。

その指揮のもと演奏したウィーン国立歌劇場管弦楽団(ことだいたいウィーン・フィル)はですね、手の内に入った作品を演奏させたら世界一ですよね、いやはや。っていうかこの作品が手のうちに入っているあたりがすでになんというか。室内楽的、というよりむしろ独奏者的技巧や存在感が示せ、しかも小編成ながら十分な音量的クライマックスを最後の最後に作れる持久力もあるアンサンブルなのだから褒めるしかないのですよ。上手下手とか、言っても仕方ないと思っていますのに。こういうドラマ的なセンス、きっとあとの二作品ではもっと発揮されることでしょうね、編成も普通のオーケストラになりますし。
なお、国立歌劇場は来日公演の最中にも現地での公演を行っており、今月の上演回数は40階にも及ぶのだそうです。音楽の都の日常の水準がそら恐ろしく思えるエピソードでございました。

なお、個人的に得心できたのはこの作品でひそかに活躍しているハルモニウム(リードオルガン、ハーモニウムとも)の存在感ですね。その昔、今年何故か”流行”したマーラーの交響曲第八番で知ったこの小さいオルガンがこんなにアンサンブルの支えとして機能できる楽器だったとは。えっとですね、弦楽器がソリスティックに活躍している時間帯に裏でロングトーンをしている、独特の音色がハルモニウムですので、最終日行かれる方は要チェックです(いや気にならないかもですが)。

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「微温的かも」とは書きましたが、ベヒトルフの演出はホフマンスタールの含みの多い台本による作品を繰返し楽しめる舞台なのだろうな、という感じが見終わって一日が経ったいま、しみじみと感じております。読み取れること、読ませたいこともいろいろと仕込まれているのだろうこの舞台、何度も見られたらいいのに…と思う私のような人はウィーン国立歌劇場のオンデマンド配信サーヴィスを利用すべきなのかしら(頼まれもしないのにさりげない宣伝)。

それはさておき、ウィーン国立歌劇場の来日公演は明日が「アリアドネ」の最終日で、その次の日曜から「ワルキューレ」(ベヒトルフ演出)がスタート、少しずれて重なる日程でポネル演出の「フィガロの結婚」が10日(木)から横浜で開幕です。欧州の劇場で数多くワーグナーを指揮するアダム・フィッシャー、言わずと知れたリッカルド・ムーティが登場するわけですから、演奏の質はあらかじめ保証されたようなものでございます、お嬢様(執事か)。詳しくはリンク先でご確認するがよろしかろう、ほっほっほ(爺か)。

というご案内でひとまずはおしまい。ではまた、ごきげんよう。


2016年10月28日金曜日

書きました:ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 記者会見レポート

こんにちは。千葉です。
この前まで残暑気分だったような気がしていたのはきっと気のせいですね、疲れて部屋でぼんやりしてるとときどき足が冷えて風邪をひきそうになる季節になってます。恐るべし。

それはさておき、寄稿した記事の紹介です。いつも書かせていただいているところとは別に、公式のレポートです。

●ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 記者会見レポート

10月24日に東京文化会館の大ホールで行われた会見のレポートです。記事にも書きましたが、今回は普通の会議室ではなく設営の終わった舞台上で会見が行われてなかなか不思議な気分でした。


出席した私たちが見上げる天井はこんな感じで。劇中効果的に使われるシャンデリアのセッティングについてもNBSさまのブログで紹介されていましたので、気になった方はぜひご覧ください。これぞ引越し公演、と感じさせる近年では珍しくなってしまったフルサイズのオペラハウス来日公演の醍醐味、ですし。

千葉もいちおう写真は撮影していますが、記事中の写真のほうがもっといいので(当然です)出演者についてはそちらをぜひご覧ください。ぜひ。


なお、「ナクソス島のアリアドネ」については本日の公演についてまた別途ご紹介すると思います。最高に美しいメタフィクションを満喫して参ります所存。です。


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それにしてもですね、アマチュアで演奏会していた頃から思っているのですが、開幕前の舞台ってどうしてこうも魅力的なんでしょう。


シュトラウスのあの音がこの編成から出てくるのか、とかこういう配置ですか編成独特だものなあ、なんてクラシックの人っぽい感想もあることはありますが、単純にワクワクするんですよねえ、この絵に。オケピットはリハ中の団員の皆さんがギュウギュウに入っている感じも捨てがたいのですが、無人の状態にはまた違う魅力を感じます。ということで撮った一枚。
…まあ、自分たちの演奏会はたいがい開演前とそう変わらない客席に向かって演奏することになってまあなんというかでしたけど。お、音響的には客入れ前のほうがいいんだからね!(切れるなよ自分)

ウィーン国立歌劇場管弦楽団(という名のほぼウィーン・フィル)の音で聴くシュトラウス、もしかして実演だとはじめてかも…と今気がついて少し緊張してきましたが(ベルリンとかバイエルンとかバンベルクとかドレスデンとかドイツの団体では割と聴いていますし、この春にはノット&東響の演奏がありましたけどね)。メタ的な仕掛けのシュトラウス、ということではいろいろ考えていることもあるのでそれは公演を見たあとにでも。

ではひとまずご案内でした。「アリアドネ」、本日の公演は当日券が出るけれど最終日は少なめと聞き及んでおりますゆえ、興味のある方はぜひ万難を排して上野に駆けつけられよ。しからばごめん(文体が変)。

2016年10月16日日曜日

書きました:アンドレア・バッティストーニ 東京フィル首席指揮者就任記念特集

こんにちは。千葉です。

夜ご飯を軽めにすると、もしかするとかんたんにダイエットできちゃう人かもしれません、千葉。いや別に痩せたかったんです!とか言うこともないんですけど、これまでベルトなしでもいけないこともなかったジーパンがずり下がって危険な瞬間が最近あるものですから、どこかで書いておこうかなって(誰が嬉しい情報なのかそれ)。

さてつまらない前フリはここまで、先日のテレビ放送に合わせて公開できました二つの記事をご紹介ですよ。


東京フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者に就任したアンドレア・バッティストーニの記事を二本、書かせていただきました。そのうち一本は単独インタヴューですから、それは頑張らせていただきましたよええ。今年の5月に、噂の指揮者の実力の程を見せてもらおうかと(偉そうな上に経緯としてほとんど嘘)取材のお願いをさせていただいて本当によかったです。しみじみ。

リハーサルにコンサートにトークにと、東京フィルハーモニー交響楽団さまのご協力あって彼の音楽に半年の間多面的に触れることができたおかげで、そしてなにより彼が聡明で雄弁な若者であるおかげでインタヴューはなかなか充実したものにできたかと思います、ぜひお読みくださいませ。

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ここで書けるようなこぼれ話を残せるほど、記事では対話の内容を削っていないので(ほんとうにほぼインタヴューの全文なんです)、B面っぽいことはあまりないのですがひとつだけ。

長い時間に渡ったインタヴューのお礼を申し述べた後、通訳の井内さんにお願いしてひとことだけ、個人的にお伝えしたかったことをマエストロにお話しました。お伝えしたかったこと、というのはこういうことで。

「マエストロがご存知かどうかわからないのですが、日本では数多くの若者が吹奏楽というジャンルで音楽を楽しんでいます。そこではレスピーギの作品が多く演奏されていまして、あなたの演奏会とレコーディングは彼らがオーケストラの演奏に触れるきっかけにもなっていると思います。そこで素晴らしい演奏を聴かせてくれていることに、かつて吹奏楽でクラシック音楽に触れた私からお礼を言わせてほしいのです」

という感じに、インタヴュー記事の文体に近づけたらなるかな、という内容の話をしたんですね。
吹奏楽の皆様は御存知のとおり、レスピーギの作品はよくアレンジ版で演奏される割に三部作以外は参考にしたくなるような魅力的なオーケストラの演奏がそう多くあるわけではない、そして演奏会でも多く取り上げられるわけではない。そこに来てバッティストーニ&東京フィルがローマ三部作をレコーディングし、コンサートで「シバの女王ベルキス」「教会のステンドグラス」を演奏してくれているのだから、ありがたく思わないほうが難しいです。(個人的にはそれらの演奏がある程度まとまったところでリリースされるのではないかと期待している)

そんな気持ちをお伝えしたところ、マエストロからは「そんなふうに受容されていることは知っている、少しでも多くの人にジャンルを超えてオーケストラ音楽を聴いてもらうきっかけになればいいよね」といったお返事をいただきましたよ。

かつて吹奏楽青少年だった千葉からもお願い申し上げます、アンドレア・バッティストーニ&東京フィルの演奏が魅力的に思えた皆さまはぜひ、ジャンルに囚われない音楽への接近を試みていただければ、と。「のだめ」で一躍ポピュラーになったベートーヴェンの交響曲第七番でも「地獄の黙示録」見た勢いで新国立劇場行った勢いで「ニーベルングの指環」全曲に手を出してもいいっす。もちろん、アンドレア・バッティストーニが聴かせてくれるイタリア音楽からさらに幅広い音楽を聴いてくれてもいいっす。インタヴューで彼が言っていた「音楽には”正解がないので」ということを知って、その上でいろいろなものを知ることに意味があると中年男性になった千葉は思うわけです。
とか、お話を聞いただけで勘違いするタイプの意見でありました。

本日は「題名のない音楽会」が朝夜と放送され、マエストロが”マスカーニが書いた最も素晴らしい音楽”と評した歌劇「イリス(あやめ)」の演奏会があります、皆さまがそれらを楽しむ一助となれば幸いです、と申し上げてご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。

2016年10月11日火曜日

書きました:新国立劇場『ワルキューレ』名唱の饗宴で初日開幕!【シリーズ『ワルキューレ』#6】

こんにちは。千葉です。

先日の台風、静岡あたりで弾かれて南側に抜けて消滅した、という不思議な進路を辿ったわけですが、今合衆国東南部を襲っているハリケーンも陸に当たって東に流されて、なかなか厳しい被害を出しそうなことになっている模様で。
こういう事象に対して、説明可能性だけで考えるなら、大ざっぱな”異常気象”よりは偏西風の流れる位置の変化を想定したほうがいいような、気がしますけれど、まあ素人がそれを考えてもどうにもなりませんなあ…

床屋政談ならぬ床屋気象予報はさておき、書いた記事のご紹介です。


すでに上演も半ばを過ぎて、初日以降も歌手の皆さんもオケの皆さんもハードな演目と全力で戦っていらっしゃることでしょう。千葉からは初日のレポートとして、舞台と作品の読みを主眼とした記事を出しております。
一言で言ってしまうと「この舞台、けっこう好きよ」ということになりますが、さすがにそれでは何も伝わらないな…とけっこう長文ですけれど、多くの舞台写真を差し込んでもらうことできっと「ヴァルキューレ」という作品と今回の舞台について、一読でそれなりにおわかりいただけるかと。

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記事には書かなかった部分を少々、というかけっこう長く書きます。記事に書いても問題ないないようなのですが、流石にあれ以上長い文を読んで下さい!とは申しにくいのです。

この舞台を見ていると、ワーグナーは「指環」という作品でもまだ女性による救済を希求していたのではないか?という気持ちになってきます。初期作品でそのモティーフはやりつくしたはず、と思っていたのですけれど。
この作品ではヴォータン、ジークムント、そしてフンディングとそれぞれに力のある男性が描かれます。ヴォータンは神々の長、ジークムントはその血を引く人間の英雄、そしてその敵であるフンディングにしてもグループのリーダーとして君臨する、強い男性と言えましょう。しかしながら、本作ではヴォータンは自らの力の根源である契約に縛られて求めるものは得られない。ジークムントは無双の英雄でありながら不遇としか言いようのない境遇に加えて最後の局面では父に裏切られる形で敗北する。フンディングは単独ではジークムントに立ち向かえずフリッカを頼って勝利を得るもその行為自体がヴォータンの逆鱗に触れるものとして落命する。こうしてみるとわかるのですが、誰も何もなし得ていない…
この舞台はその感を抑えるどころか、より強めて示します。ヴォータンはその感情に左右されやすいところを演技で強調する。ジークムントは迷いない存在として表される、まったくぶれない視線はその一本気を強く、しかし脆いものとして印象づけるかのようだ。対してフンディングは文中でも書いたのだけれど往年の西部劇でよく見たタイプの典型的な悪漢スタイルで見るからに勝てる要素が全くない(笑)、それに悪役に擬せられながら権威(フリッカ、婚姻を司る神)にすがろうという姑息さも好感を呼ばない。と、三人共に酷いことを言いましたが、実際この舞台では男性たちがダメなんです。

第一幕はそれでもまだいい方で(戦いはこれからだ!愛し合おうぜ!で終わりますからね)。第二幕には美しく着飾ったツィトコーワのフリッカの前にまともに反論もできないグリムスレイのヴォータンがなかなか哀しいし(彼は存在感あってかっこいいのに)。ちなみに、フリッカが艶やかに着飾っているのはこの大作の中では「ヴォータンとの間に子をなしていないこと」をことさらに強めたものであるようにも思われたし(この推測があたっているとすれば、エルダの描写はどうなるのだろうと心配になる)。そう、ヴォータンに注目してこの舞台を見ていくと、まさに神の没落、黄昏への一本道として捉えられるようにも思うわけですよ。

対してヴォータンを完膚なきまでに論破(笑)するフリッカ、苦難に満ちた生を生き延びることで我が子に未来を託すジークリンデ、そして本作の主役たるブリュンヒルデの生命力たるや。
フリッカは一般に損な役回りと見られがちだけれど、全能者たる神の放恣を押しとどめるこの作品では数少ないリミッター役(次作ではほとんどいませんからねリミッター)、こう存在感を示してくれると二幕の前半が引き締まります。台本通りではあるのだけれど「血の繋がらない娘」であるブリュンヒルデに対する邪険な扱いは一瞬「うわっ」と思いましたよ。ぶれないんですね、この舞台のフリッカは。
ジークリンデについてはこの作品中もっとも変化するキャラクターの一人です(最後に記事にならなかったオペラトークのレポートをつけますのでご参照いただきたいのです)。一幕ではまだ過酷な現在に囚われた存在として、二幕ではその過去に苛まれる存在として、三幕では絶望を超えて未来を志向する存在として、それぞれに印象的に現れるジークリンデは、幕ごとに歌い方も変えていたように思います。もし第一幕で「硬いかな?」と感じられた方には、「もしかして役柄としての表現が違うのかも」と私からは意見させていただきます~。

で、ブリュンヒルデについては本作の設定を確認しておきましょう、というのが私からの提案です。おそらくはティーンのお嬢さんの彼女はお父様のお気に入りとしてお姉さんぶっている。与えられた任務を疑わずに優秀にこなしてきた、そんな第二幕冒頭の彼女が変化していく姿が女性側のメインです。
この作品が終わった時点から見れば、彼女は神としての力を失いファイアウォール(おい)に守られて眠り続ける、という敗北エンドっぽい。でも”人間的”成長をもっともしてみせる存在でもあります、というか彼女が”条件闘争”を戦わなかったら、彼女はジークリンデの人生を繰り返すだけの存在に成り下がっていたはずです(しかもジークムントなしのそれだから、その生涯はより過酷なものになったことでしょう)。この作品での彼女は、よりマシな条件で生き延びることこそが、いわゆるトゥルーエンドだったのでしょう。とても喜べるものではないわけですが。

正直なことを書きます。多くの方が心動かされた第三幕の幕切れに至るヴォータンとブリュンヒルデの対話ですが、千葉には先程書いたとおり、ブリュンヒルデの”条件闘争”に見えてしまってなんともやりきれないものでした。彼女はこの作品では成長してなお「父のいい子」からは抜け出せない。「神々の黄昏」の最後、全曲の大詰めですべてを知ってようやく父の失敗ごと炎で消し去る、言いかえれば自分ごと世界を別の形に改める決断をする存在になるわけです。だからここには、”家庭の暴君に抵抗なく仕えてしまう優秀なお嬢さん”を見るような哀しさがあったように思うのです。それにあの別れの場面、過剰に思えるスキンシップは父娘の共依存的関係をも想像させるもの、もっと踏み込んでヴェルズングの兄妹に重ね合わせるように近親姦を想像させるものだった、のではないのか。お父さんいけないわ!(ヤケ気味)

で、ですね。このあたりの作品の持つリスキィな性格の見極めに、ゲッツ・フリードリヒの仕事の確かさを感じたんですね、千葉は。作品の全体を見据えて、今がどこなのか、登場人物たちがどこまで変わりうるのか、などなどを個別の作品の中に上手く落とし込むその仕事に。死体冒涜的な第三幕冒頭にしても「そもそも”ゾンビファイター”を大量に集めるヴォータンの姿勢がどうなのよ?」という糾弾に感じられたし、キャラクターの性格描写の端々に作品理解が示されていたように思います。
だからこの舞台、千葉はいわゆる読み替え演出だとは感じませんでした。もちろん「往年のオットー・シェンク時代のMETのようなものが台本通りだろ!」と言われたら、この舞台はそっちには入りませんけどね。でもちょっとした部分にしのばせた精神分析読み(第三幕でジークリンデが折れた剣を抱きしめて歌う場面はかなりストレートなそれでしょう)なども含めて、かなり作品からの読み取りが散りばめられたものであるように思います。この作品に限らずワーグナー、かなり長い対話の中でお話の根っこが動くような展開も多いですから、こういう仕込みを読みながら聴くのがいいんじゃないかなって思うんですよ。手数が多い演出で圧倒されるのもいいですけど、こういう削れる部分を削って作品の読み取りを率直に示してくる舞台と対話して見るのもいいと思うんですよね。

そういう気持ちを一言にすると、「千葉はこの舞台、けっこう好きですよ」ということになるわけであります。何よりこの舞台は後二作の上演が終わらないと”正しい”読みはできない状況です。だから今のうちに、作品との、舞台との対話をしながら最後の舞台の幕が下りるまで楽しむのがいいんじゃないかなって申し上げたいのです。まだこの大作は道半ば、単独でいろいろと判断するのも楽しいですけど、次は、その次はどうなるのかと考えつつ読みを試みるのが楽しいんじゃないかな、って思うのですね。記事にも書きましたが「ラインの黄金」は世界を布置した、そして「ヴァルキューレ」で企みが成功しない/生き物の自然として男性性は継続性を持たないことの悲哀の強調がなされた。では、女性キャストが二人しかいない「ジークフリート」はどうなるのか、すべてが精算される「神々の黄昏」はどういう読みに基づいた舞台になるのか。幸い「神々の黄昏」までは丸一年、じっくり考える時間はありますから、本を読んだり録音を聴いたりいろいろできるはずです。IMSLPからスコアをダウンロードすれば音楽については知れますしね!ばっちりだ!(何がですか?)

先々の話になるけれど「ジークフリート」は東京交響楽団、「神々の黄昏」は読売日本交響楽団と、飯守泰次郎マエストロの元違うオーケストラが演奏することも注目の新国立劇場の「指環」、資料センターも駆使して楽しむのがいいと思っておりますよ。レパートリーシステムの劇場ならさくさくと次が来るところですけど(ヴィーナーシュターツオーパーさまとか、すでにあるプロダクションで短期間にチクルスを上演してますからね)、スタジオーネシステムの劇場だからこその数年がかりのプロジェクト、じっくり楽しもうじゃないっすか。と、思っているわけです。時間はある、と思って千葉はこんな本を読み始めましたよ。



幸いなことにその昔、ファンタジー的な世界に憧れて「ニーベルンゲンの歌」を読んでいたおかげでよみやすい!助かった!(本気)…失礼いたしました。ワーグナーに関する本は多いし、「指環」のレコーディングも山のようにありますから、ぜひ自分が納得行く範囲で学習して立ち向かうことをオススメしますよ。
オススメしないのは、抜粋だけを繰り返し聴くことですかね…たとえば「騎行」だけをよく知っていて実演に接する「ヴァルキューレ」、けっこう辛いと思いますよ?上演時間が全四時間超えの作品のうち、濃く楽しめるのが10分に満たない部分だなんて(それすらも管弦楽版とは違うもの)、まったく鑑賞の助けにはなってくれないっす。いやほんと。千葉はだから抜粋コンピ盤とかダメなんすよねえ…

とか脱線できるのは、たぶん書きたいことを書き終わったからでしょう(笑)、この辺で記事のB面を終わるといたしましょう。これからでも行ける皆さん、ぜひ新国立劇場の舞台を見て、ご意見ご感想的に千葉が許せないときはご意見くださいませ、無駄話でもいたしましょう(笑)。では本日はこれにて、ごきげんよう。

2016年10月3日月曜日

ベルリオーズ大好き(個人の感想です)

こんにちは。千葉です。

前振り抜きで記事の紹介をまず。

◆2016年はゲーテの、「ファウスト」の年?

めちゃくちゃかんたんに書いてしまうならば「今年はほんとうに変わった年で、ゲーテによる音楽の大作がたくさん演奏されてるんですよ」という内容です。そしてそれは、この後に感想を書く公演の前フリでもありました。
が、コンサートの話の前に。この記事には本当に時間がかかったので(千葉ごときがゲーテについてまともに向き合ってしまったのが運の尽き、ですよ)、当初予定していたエンディングは公開版とは別のものなんです。その別バージョンふたつはこんな感じ。文体はもちろん、記事にしていたら違うものになったでしょう、ということで。

1)ここまで来たらどうか、どこかリストのファウスト交響曲を演奏してくれないか。ファウストとグレートヒェン、そしてメフィストフェレスの三人を軸にあの大作を音楽化した作品として類似しているし、同時代の相互に影響し合う仲の人々のアプローチだし。特にもメフィストフェレスの描写において明らかにベルリオーズの影響があるでしょ?そういう点から見て、もうちょっとベルリオーズは褒められてもいいと思うんだよね、”同時代、後世への影響”という観点からもう少しまともに評価してもいいと思うんっす。(とはいえ、この扱いの悪さは作曲家本人が自伝、回顧録で落ちぶれたエピソードを言い過ぎた弊害かもしれない)

2)今年は上演されないけれど、グノーの「ファウスト」の中でも印象的なアリアのひとつ、「金色の牡牛は」をブリュン・ターフェルが先日BSプレミアムで放送された欧州の夏のコンサートで歌いまくっていた。~から、記事で採用したハーディング&パリ管の話を入れて”海外でも「ファウスト」流行ってるのかな”的なオチに。宝石の歌よりイメージしやすいよね的な。

ま、どちらもブログならともかく(こうして書いてますからね)、記事としては使いにくいし、なにより先の話とは言えグノーの「ファウスト」が上演されることがきまった、ということの方が記事の方向にはあっていたでしょう。ということで、遠い未来を待たずに皆さまさっさと読みましょうね、「ファウスト」。長くて融通無碍な第二部に比べて「ファウストの刧罰」のもとになった第一部はむしろ読みやすいですから、お気軽にレッツチャレンジ。リンク先は青空文庫です。

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さて、そんなわけで東京交響楽団創立70周年記念演奏会の中でも、最も注目された公演の一つ、前の音楽監督ユベール・スダーンによるベルリオーズの劇的物語「ファウストの刧罰」を、25日にミューザ川崎シンフォニーホールで聴いた話をしましょう。

◆東京交響楽団 川崎定期演奏会第57回

2016年9月25日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ユベール・スダーン
合唱:東響コーラス、東京少年少女合唱隊
管弦楽:東京交響楽団

キャスト:

  ファウスト:マイケル・スパイアーズ
  メフィストフェレス:ミハイル・ペトレンコ
  ブランデル:北川辰彦
  マルグリート:ソフィー・コッシュ

”スダーンの時代があったから東響の今がある”という話は、記事でもここでも何度も書いています、もちろん濃淡ある扱いではありますが。スダーン&東響のモーツァルトを聴いて「きちんと転調が機能している!フレーズをきちんと区切っている!モーツァルトっていうか古典派はこれ大事!」と興奮したのは相当前のこと。響き、アーティキュレーションで「音楽をやるってこういうことだよね」と思わせてくれる日本のオーケストラ、という存在を知って、それ以来のファンなわけです。だってありがたいことじゃあないですか、近くに”音楽的に信用できるオーケストラ”がいてくれるんだから。聴きたい曲をコンサートに聴きに行けばいつでも大なり小なり満足して帰路につける、そんなオーケストラ。千葉の場合、”皆さまにもそういう存在ができますように”という思いも込めて国内オケを紹介させていただいているところ、割とあります。

で、先ほど紹介した記事の話でも書いたとおり、千葉はベルリオーズが大好きです。それも、有名すぎるし演奏されすぎている「幻想」よりも、「ロメオとジュリエット」とか「イタリアのハロルド」とか、なによりレクイエムとか。いいっすよ?って話をする機会が今回ようやく訪れた、とも思うので少し書きすぎた感があります(バランス的にね。書き足りないんですけどね)。記事の中で「ロメオ」を引き合いに出したのは、「協奏曲のはずだったのに、ヴィオラ独奏が終楽章で消えちゃう謎構成」の「ハロルド」よりは、「断章形式でありながら、もとの作品をある程度まで表現する」という点で「ファウスト」にかなり近いところにある、と考えるからです。「ロメオ」が離れ業すぎて、そしてこちらはオペラに近すぎてそういう見られ方をしてないんじゃないかな、と思いましたゆえ。
…誰ですか、「いやどっちの曲もよく知らないんで」なんて言ってるのは。もっと聴いてくださいベルリオーズ。面白いので。目指せ国内勢による「トロイ人」全曲舞台上演!(無理かな)

なお今回演奏されたこの作品、舞台上演する方々もいらっしゃいますけれど、基本的にオペラではない、と前々から思っています。オペラならもっと早くマルグリート出さなくちゃ。せめて第二場ではファウストと出会わないと。(ちなみに、この作品の改変を活かしてオペラとするならば。一幕でファウストとマルグリートが出会い、二幕でいちゃいちゃして三幕で原作でもイラッとくるファウストのウダウダぶりを描きフィナーレで地獄に落ちると構成する、って感じになり、ちょっと「ラ・ボエーム」っぽくなります。その辺の話はまた後ほど)

そんな作品を演奏したのが、楽譜にこだわり抜く高関健(東京シティフィルハーモニック管弦楽団)と、ジャン・フルネの影響を語るユベール・スダーンであったことの幸せたるや。いわゆる有名曲や、安心して身を任せられるスタイルの作品ではないのだから、演奏者への信頼なくして存分に味わうことができましょうや(反語)。今回は東京交響楽団の公演のみ聴いた千葉ですが、スコアを読み込む高関さんの演奏にはもっと触れなくてはと気が急く次第です(過去に群馬交響楽団で数回聴いていますけれど、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団さまとは未聴なのです)。反省。

さて、コンサートは昼公演、”あまり演奏されない曲なのに”なのか、”貴重な機会だから”なのかわからないけれどお客さんは多い、喜ばしい。いいことです、ほんと。ステージには16型のオーケストラ、その後方に独唱者の席が三つと少人数合唱席(後半まで使用しない、児童合唱の席でした)。そしてPブロックの中央部分と少々の両サイド部分に東響コーラスが陣取る格好。ベルリオーズのオーケストラは、後のワーグナーやマーラーと比べれば意外と普通の編成なのだけれど、この作品では二管編成から一人はみ出す四人のファゴットが特徴的(コンティヌオ的な仕事が多いから、他の木管の倍の人数がスコアに指定されているのです)。あと、クライマックスのためにテューバが二本になる第四部も、特殊といえば特殊ですね。でも古典派編成に低音管楽器の増強、そして多めの打楽器であの地獄落ちの音がするのか、などぼんやり考えるうち、演奏会は始まるのです。

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で、演奏を聴いてしみじみと感じたのは天晴ユベール・スダーン、であります。
ベルリオーズのオーケストレーションはこの曲でもいつものようにどこかおかしい、でもとても効果的です。ヴィオラとコールアングレに大きい役割を与えているのは”ダモーレ”の楽器だから、なのかな、などと考えたりもします(ベルリオーズは割と歴史的な楽器法を継承していますので、的外れではないかも)。ちなみにその独特さは、力で押さえつけるような演奏だと生きないように思います。いわゆる熱演、力演で大盛り上がりの幻想交響曲の演奏会はよくありますが(歴史的名盤も、そういうのが多いですね)、ベルリオーズの時代はベートーヴェンのすぐあと、ですからね。古典派的に形をきっちり作れる音楽家がやらないと、ベルリオーズの音楽はぐちゃぐちゃの、ただのヘンテコになる危険があります。ですが古典派に通暁するユベール・スダーンにそんなことがあるわけもなく、そして彼が鍛えた東京交響楽団が彼の指示に対応できないはずもなく。

千葉が事前に楽譜を流して読むだけでも流れを見失ってガクガクしてしまったレチタティーフと歌、そしてオーケストラの演奏の交錯も自然な流れで示されるのはさすがとしか言いようがない。”作品を知り尽くした”なんてのは批評のおきまりのタームだけれど、こういう演奏を前にしたら言って置かなければいけないことでもあるんすよ。彼のオペラは聴いたことがないけれど、機会があれば聴いてみたいです。そうですね「トロイ人」とかどうでしょう(しつこい)。ベルリオーズ・ジョーク抜きでは「フィデリオ」とか、すっごく高潔で品のある演奏になりそうに思いますが如何でしょう?

そしてこの演奏でやっと気がついたんだけど、スダーンの作る和声感はロングトーンの扱いに対する配慮が大きい、気がします。いわゆる管楽器の基本としてのロングトーンじゃなくて、長く音を保持することそのものに対する意識、と言い換えましょうか。旋律だけではなく、裏でさりげなく支える声部がいい仕事をしているから目の積んだ音楽になるし、転調で明瞭に”色”が変わるわけですよ、きっと。その響きに対する配慮、感覚に応えるうち今の東京交響楽団が作られたのだ、と言ってみてもいいかもしれない。お互いに聴きあうアンサンブル意識の高さ、取材させていただいたリハーサルの合間に団員のみなさんがコミュニケーションを取る姿からも感じておりましたが、これが根底に形作られたのが、スダーン時代だったのかな、などと思いました次第。
ここで、現監督とのキャラクタの違いを無理にでも言葉にするならば、前任者は形を作る、現監督は流れを作る、とでもなりましょうか。機会があれば検証してみたいのですが、果たして。二人がオーケストラにもたらすものはかなり性格の違う刺激なので、もうちょっとスダーンにも来てほしく思えました。来シーズンも一回の登場なのが実に惜しい。

千葉の場合、指揮者を褒めるということは、すなわちそれに応えたオーケストラを褒めていることでもあります。どちらかだけがいい/悪いということはありえない。この日の東京交響楽団の響きの、何よりも立体感を賞賛させていただきたいです。ミューザ川崎シンフォニーホールでこそ生きる、ちょっとしたバランスの変化などに伺える配慮が効果的でベルリオーズの天才を証明してくれていましたよ。素晴らしい。歌とハープだけの小編成から、合唱とトゥッティのオケによるパンデモニウムの圧倒的な轟音まで振幅も大きくて、これでこそベルリオーズの管弦楽ですよ。さすがです。

歌については褒める以外に言うことがなくて(笑)。”主役”を暗譜で、身振り付きの歌唱で熱演したスパイアーズ、初役ながら強い声に多彩な声色、ちょっとしたジェスチャーでトリックスターを最後まで演じきったペトレンコ、そして酔っぱらいチームの先陣を切った北川、もっと出番がほしくなったほどの存在感を示したコッシュ。お見事な独唱陣に加え、大編成の東響コーラス、小編成の東京少年少女合唱隊ともども堂々たる歌唱でドラマを描出しておりました。拍手。

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もう十分に長いんだけど、貴重な機会なので作品についてもいろいろと気がついたことを書いておきましょう。あまり展開せず、短めに……

●ベルリオーズはこの作品を、完全に恋愛悲劇で構成した

「ファウスト」の第一部は、悪魔との契約で若返っている基本設定がなければ「ラ・ボエーム」にもなりかねない、哀しい恋愛のお話です。で、この作品を通してみるとその性格をはっきりと打ち出しています。悪魔との契約は不明瞭のまま始まり、最後の最後、マルグリートを救うために契約するファウストは、原作のそれとは相当違う人です。
ここで現れるファウストはいわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレス。もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない、とすればすべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが少し気になる、ような気もしますね。原作ではお互いに万事を知り尽くした学者と悪魔の化かしあいの末にファウスト博士があのセリフを言うところに圧倒的なカタルシスがあるわけで、第一部がメインだとそうはできかねる、というのは理解できるのですが。
原作は、ある意味で博士&悪魔のバディもの、そして互いに出し抜こうと抜け目なく振る舞うコン・ゲームものの性格もあって、それ故に立体的な構成になっているわけだからこの改変は惜しいけど、さすがに尺の制約というものはあるわけですね。もしかすると「ファウストの刧罰」は、ゲーテが最初に著した原ファウストに近いものになっているのかもしれない。

●ファウスト博士のキャラ設定が微妙

既に書いた内容とも被りますが。「ファウストの劫罰」のファウストは若く、そしていわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレスです。彼らの契約はクライマックスの直前、マルグリートを救うための手立てを用意させるためのもの。不可能を可能にするための契約によっていわばいきなりに地面に穴が開いて地獄に落とされるかのような勢いのある展開です。これを可能にするために、もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない。そうなった結果、すべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが消えてしまうので、そうなるとマルグリートとの間で子をなしてしまう(その上で逃げる)のはちょっと若気の至りにすぎないかな…

●構成が少し見えたかも

冒頭で(ハンガリーで!)ファウストの独白に続いて聴こえる合唱が主の復活を喜ぶ合唱なのは、クライマックスの地獄落ちに対応している。ということは、もしかするともう少し照応させられるように作品を構成している可能性がある、ような気がする。これはただの思いつき。

●「劫罰」はこの時点の集大成

過去の作品でも印象に残るベルリオーズ音楽の特徴を随所で感じることができる。このメンバーで聴きたいです、レクイエムとか。

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ああ、また長くなってしまった。反省はしていませんが(おい)、今回の記事はここまで。ではまた。