●東京フィルハーモニー交響楽団 2020年2月定期演奏会
2020年2月
19日(水) 19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
21日(金) 19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール
23日(日・祝) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
指揮:チョン・ミョンフン
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平) 杉並児童合唱団(児童合唱指揮・津嶋麻子)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト 役名(声域):歌手名の順
カルメン(メゾ・ソプラノ):マリーナ・コンパラート
ドン・ホセ(テノール):キム・アルフレード
エスカミーリョ(バリトン):チェ・ビョンヒョク
ミカエラ(ソプラノ):アンドレア・キャロル
スニガ(バス):伊藤貴之
モラレス(バリトン):青山貴
ダンカイロ(バリトン):上江隼人
レメンダード(テノール):清水徹太郎
フラスキータ(ソプラノ):伊藤晴
メルセデス(メゾ・ソプラノ):山下牧子
かつてチョン・ミョンフンがバスティーユ・オペラ、パリ・オペラ座の監督として活躍していたことは21世紀も20年経ってしまえばもう昔話だろうか。残念ながら私は当時彼のオペラ上演には触れられなかったけれど、その活躍は当時残されたいくつかの録音からも察せられるわけで、羨まし口惜しい限りである。そして現在の彼は、ご存知のとおりフィレンツェやミラノでヴェルディ作品を任されるほどの世界最高のオペラ指揮者の一人であり、東京フィルハーモニー交響楽団の名誉音楽監督として多くの公演に登場してくれている。
彼が東京フィルの舞台に定期的に登場してくれることのありがたみというものを、どう言い表したらいいのか私はいつも言葉に迷ってしまう。その音楽の作られ方は、様式的にまとめてしまえるようなものではなく、また聴くたびに新たな発見をもたらしてくれるものだから。少ない身振りからも濃密な音楽を導き出し、時に身体を左右に大きく揺さぶりながら音楽をどこまでも力強く展開していくマエストロの、長年の経験・知見のこめられた音楽を通り一遍のフレーズに落とし込むのは失礼に思えて、ひとりその感動を噛み締めてスコアを眺め直したりしてしまうのである。
さてこの2月定期でそんなマエストロが取り上げるのは誰もが知っている、と迷いなく言い切っていいだろうジョルジュ・ビゼーの「カルメン」だ。
プロスペル・メリメの原作によるこのスペインを舞台としたオペラはあまりにも広く知られていて、もはや先入観なしに受け取ることこそ難しい。いわくスペイン、いわくジプシー女(ロマ)とバスク男の、ファム・ファタール、転落していく朴訥な男…演出によっては、さらにそれらのイメージが強化されまたは異化されて、「カルメン」というオペラはもはやある種の人間による”神話”のようにすらなっている。
だがしかし、である。たとえばこの作品を称揚したニーチェはワーグナーの対極にある、あまりに人間的なドラマとして高く評価したはずだ(ワーグナーへのあてつけもこめて)。またこの作品の内容、主題、表現が後のヴェリズモ・オペラに与えた影響も忘れてはいけない、過度のロマン性や観念化からは遠いところにこそこの作品の本質はあるはずなのだ。
「カルメン」という作品について原作も参照しつつ突き詰めて考えるなら、「ある男と女の物語」まで還元されうるだろう。朴訥だが決して弱くない男と、嘘つきで欠点の多い、しかしそれでこそむしろ輝く一人の女の物語。そう、きっとこのオペラの本質は、登場人物たちの強いキャラクターやスペインという魅力的な土地を抜きにしても成り立つ、人間の物語だ。そしてそれを彩るのはビゼーの簡潔ながらよく響くオーケストラによるスペイン風の名旋律の数々だ。
オペラとして上演されるときは演出家の視点が入ってくるから、作曲家が示そうとしたものに少なからぬ要素が付加されてくる。そう、例えばこんなふうに…
だが演奏会形式は違う、そこで示されるのは音楽で示されるドラマ、そのものだけだ。
もちろん、歌手たちは無表情で歌うわけではないし、東京フィルのコンチェルタンテ形式上演はオペラをきちんとドラマとして示してくれる。それでも、焦点が普通の上演より音楽そのものに当てられることは確実である。そして東京フィルの2月定期では、その舞台を完全に取り仕切るのが、もはや並ぶものとてそうはいないチョン・ミョンフンの指揮なのだ。彼が選んだキャストたちによって、何よりドラマに強い東京フィルによって「カルメン」の本質が示されることは疑いようもない。幸いにも三日間の公演が予定されているので、ぜひどこかの公演で”チョン・ミョンフンと東京フィルの「カルメン」”を体験してほしいと切に願う。
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さてこれは先ほど紹介した動画の後半である。カリクスト・ビエイト演出によるこの舞台とは全く違う印象になることは、かってにお約束させていただこうと思う。
今回の公演を前に、東京フィルハーモニー交響楽団はSNSを駆使してかなりの情報を発信してくれているので、会場に向かう道すがらにでもぜひご覧あれ。
・東京フィルハーモニー交響楽団 >Facebook >Twitter
あと私からは、メリメによる原作小説を一読されてみることをオススメしたい。私は読後に映画「羅生門」的なオペラ「カルメン」の舞台を想像するほどに、作品の見方が大きく変わった、と思う。
2020年2月18日火曜日
2019年10月5日土曜日
三人三様、充実の極み ~東京フィルハーモニー交響楽団 2020シーズンプログラム
来年からシーズンを1月に開幕するものとする東京フィルハーモニー交響楽団の、主催公演プログラムが発表された。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
************
首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。
…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。
オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。
そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。
全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。
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首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。
さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。
2018年12月20日木曜日
圧倒的な光に屈する悪魔の物語、として~東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会
アッリーゴ・ボーイトが生涯に完成させたオペラはこれだけ、という「メフィストーフェレ」は自分の過去の音盤に関する記憶を手繰ってもバーンスタインのプロローグ、ムーティの全曲録音くらいしか出てこない。だからレアな作品だ、と言い切ってしまうなら、私はバッティストーニから厳しく反論されることになる。詳しくは東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを見ていただくとして、簡単に言ってしまえばこのオペラはそこまで演奏頻度が低いわけではない、のだ。確かにレコーディングだってちゃんと調べれば少ないとも言えない(パヴァロッティ、ドミンゴのファウストがあるのは、ある意味「彼らなら、ある時期何でも録音されていた」ということかとは思う)。またこの作品は映像映えするからなのか、最近の舞台の映像ソフトだってあるし、この演奏会と同時期にはMETが上演していたりもした。なるほど、この作品はそこまでレアではない。…もっともそれは「日本の外では」という話。我々日本のクラシック音楽好きは、昨今こんなにマーラーの第八番を聴くことができるのに、他の作曲家による「ファウスト」による作品群になかなか触れられない。グノーやボーイトが上演されないのはオペラの作品選択は多すぎるほど多い事柄が関わるものだから一概に良し悪しでは語れないが、そうしたある種の偏重は認識しておこう。
そういう風潮や傾向に挑む勇気が、そして自身が読み込んだ作品の力を信じる強い意志が、アンドレア・バッティストーニにはある(もちろん、その強い意志を受け入れる東京フィルハーモニー交響楽団にも、だ)。有名作を上演するのと並行してマスカーニの「イリス(あやめ)」を演奏会形式ながら上演した彼の、そうした趣向・指向については先日の定期のときにコンサート・レパートリーでも同様、と少し書いたので割愛。ここでも少しだけ書いておくなら、近現代の作品に強いマエストロが耳慣れない曲を取り入れることでコンサートのプログラムを新鮮なものに変化させるように、バッティストーニはイタリアの知られざる作品を取り上げることでよく知られた作品の意外な立ち位置を知らせたり、同時代の作品の近さ遠さを音で示してくれている、と考えている。今回の「メフィストーフェレ」にしても、昨年の「オテロ」、今年の「アイーダ」との歴史的・人間関係的位置関係を思わずにはいられないし、…これ以上は後にしよう、いつまでも本題に入れない。”私はどう聴いたか、この作品をどう体験したか”こそが拙文の本題である。なお、ボーイトの「メフィストーフェレ」、そしてその原作ゲーテの「ファウスト」についても書くとこの文がいつまでも終わらないことになるので過去記事を参照いただくようお願いしたい。
●東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会
2018年11月18日(日)15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ
メフィストーフェレ (バス):マルコ・スポッティ
ファウスト (テノール):アントネッロ・パロンビ
マルゲリータ/エレーナ (ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ/パンターリス(メゾ・ソプラノ):清水華澄
ヴァグネル/ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団 他
ボーイト:歌劇『メフィストーフェレ』(演奏会形式)
最初に総論を手短かに書く。すでにかなり長いけれど。
ゲーテが伝説から汲み取ったファウスト伝説のエッセンスをアッリーゴ・ボーイトがオペラという制約の中でギリギリまで汲み取って作られたオペラが「メフィストーフェレ」、その作品を”原作の抜粋”ではなく”原作から生まれた、凝縮され構成されたひとつの体験”として読み解いたアンドレア・バッティストーニと東京フィル、キャスト各位と演出補のチームが提示してくれた舞台、であった。三時間強の長丁場ながら、弛みや成り行き任せの瞬間はなく一気呵成に終幕までたどり着き、私たち聴き手を圧倒してくれた。こう書くと若さと勢いに任せた演奏だったように見えてしまうがそうではない。作品の多様な性格を表情で、サウンドで示しつつあれよあれよと展開していくドラマ運びに、迷いがなかったことを言いたいのだ。
プロローグとエピローグで作品の外枠を固めたボーイトの創意ゆえ、このオペラでは「ファウスト」が持つ“神と悪魔の遊戯的闘争の物語”としての側面が強められている。エピローグでの福音を改心の支えとするファウストなど、原作とは異なるアプローチに戸惑われる方ももちろんいただろうと思う。しかしこれはあくまでもゲーテの「ファウスト」ではなくボーイトの「メフィストーフェレ」、死を受け入れるその時まで励み努めた一人の人間の物語ではなく、神に挑んだ悪魔の物語なのだ。私はこの演奏を聴いて、そう理解した。ファウストはあくまでも神と悪魔に操られる存在であるのだから、悪魔が敗北した後の「救済されるファウスト」の物語はここには必要がない、ボーイトはそう判断したから、あの有名な「神秘の合唱」は書かれなかった。またひとつ、疑問が解けた気分である。
************
日曜の昼に善男善女が集ったオーチャードホールの客席につけば、ステージはピット上にまで大きく張り出して、前方にはスペースがある。サイズとしてはそれほど大き過ぎもしないオーケストラの後ろに合唱団の席、その上にはスクリーンが用意されている。編成もそこまで大きいわけではない、といってもそれは14型程度の弦セクションの話(16型だったかもしれない。最近年のせいだが目が悪くなって、このあたりいささか自信がない)。大量の管打楽器、少年少女たちも加わる合唱は作曲された時代を考えればかなりの大編成のもの。バンダは舞台裏でもステージでも演奏するため、合唱の横に席がある、と見て取れる。
かつてのオペラ・コンチェルタンテを思い出すまでもなく、東京フィルがこのホールでオペラを演奏するためならば演出がつきものだ。定期演奏会でありながら、そのドラマを存分に表現しようという挑戦的な試みを長年続けていた東京フィルならではの、音楽を、その物語をより客席に伝わりやすくするための最小限ながら考えられた演出だった。パンフレットにある菊池裕美子氏の役職が”演出コーディネーター”とされているのは、バッティストーニとの共同作業だったから、なのだろう(「イリス」では演出もバッティストーニだったことを想起しよう)。
とまず舞台の話を始めたのは、最小限の照明だけが灯されたステージで始まった演奏、この作品ではもっとも有名なプロローグが始まってすぐ稲光を思わせる光の演出が非常に印象的だったからだ。この一つの演出が、この作品は題名が示すとおりの悪魔の物語であるのと同時に、神の物語でもあることが示されたと感じたからだ。ここから「魔笛」の三人の童子を想起した私は、”もしかしてバッティストーニの中ではロッシーニ&シューベルトによるプログラムと「メフィストーフェレ」とはつながっていたのかもしれない”などとも考える。考え過ぎ、気のせいかもしれないけれど。
舞台が進む中で照明の演出のみならず舞台上方のスクリーンに映される映像、会場各所で活躍した助演を交えてこのオペラをより伝わるものにしようと試みた姿勢を、私は積極的に評価したいと思う。「ファウスト」を読んでいたとしても、私たちはみなこの作品の”初心者”だったのだから。なお、助演の古賀豊は鬼火として客席に現れたりマルグレーテの幻影を殺したりと、文字にするといささか物騒な活躍をして(笑)この演奏会をオペラにする、文字通りの一助となっていた。
音楽の話に移る。バッティストーニと東京フィルがこの日聴かせた演奏は、バッティストーニらしい張りのある、よく伸びるサウンドでボーイトの唯一の完成されたオペラの魅力を存分に伝えてくれた。バッティストーニが導けば鳴らしやすいとは言い難いオーチャードホールでも東京フィルは見事に輝いた。あえて難を言うならば、特にプロローグとエピローグがあまりに輝かしかったものだから、悪魔という闇の存在が少々消されてしまった感がなくはない、ということだろうか(笑)。
もっとも。私はこの作品の題が「ファウスト」ではない理由を、ボーイトがスカピリアトゥーラとして挑戦的だった自分の投影としているからではないかと考えるのだが、こうして神のご威光によって敗北するドラマとして「メフィストーフェレ」を体験することで、どうしても後年反抗の対象の一人だったはずのジュゼッペ・ヴェルディと和解・協業したスカピリアトゥーラたちのことを思ってしまう。「アイーダ」でのギスランツォーニ、「シモン・ボッカネグラ」「オテロ」そして「ファルスタッフ」でのボーイト。“父親”としてのヴェルディともども、なにか考えさせられてしまう縁がここに現れた、というのは後付にすぎるのだけれど。
オペラ指揮者・バッティストーニの技はこの日も冴えに冴えた。改訂されたとはいえ短いとは言えないこのオペラが一気呵成に上演されたかのように感じられたのは枠組みを明示した作品の構成の妙もあるだろうけれど、歌手とのやり取りでちょっとした間の悪さが生じない彼の技が大きく貢献していた。まだ発表されていない彼の次のオペラは果たして何か、期待せずにはいられない。
彼の指揮のもとの東京フィルハーモニー交響楽団の充実ぶりは、皆様ご存知のとおりである。このオペラ二日目ということもあっただろうけれど、集中力高く破綻なく、確信に満ちた音で彼らのマエストロに応えきってみせた。
キャストでは、題名役のマルコ・スポッティはこの日体調不良だったとも聞いたが、バスを主役とした数少ない作品での晴れ舞台を見事にこなした。
急な代役にもかかわらず熱唱を聴かせたアントネッロ・パロンビ(ジャンルーカ・テッラノーヴァから変更)のファウストは、”このオペラはファウストの物語ではない”という私の読みを裏切るほどの存在感を示した。ヴェリズモ・オペラにも近いかと思わせる熱い歌唱には、この作品がドイツ由来であることを忘れさせるほどの力があった。
マリア・テレーザ・レーヴァは初来日でのマルゲリータ/エレーナでの出演だったが、特に前者の第三幕のアリアで聴かせた。トラウマ的経験を経た彼女の不安定なあり方を示しながら、キャラクターの芯の強さを同時に表現した歌唱はお見事、19世紀の「ファウスト」が第一部を中心に受容されたことも理解できるほど、だった。
新国立劇場合唱団はプロローグ、エピローグの輝かしさも見事だったが、第一幕の復活祭の群衆の場面でさすがの存在感を示した。世田谷ジュニア合唱団は音楽の流れを任される場面でも臆すことなくよく歌い、公演の成功に大きく寄与した。
最後に。本文の繰り返しになるけれど、作品については以前の記事(その一 その二)を参照いただくようお願いしたい。ゲーテの「ファウスト」について何度も書くなんて底なしの度胸、私にはないもので。本当にね。
…とは思ったが、実演に触れることで喚起される思考というのは間違いなくあるものだから、ボーイトの作品、オペラについてということで最後に記しておく。
先日の記事でこの作品が想起させるものとして「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」の名を挙げたが、実演を聴いてさらにいくつかの作品との関係性が気になった。もしかすると無理筋かもしれないが、先行作として意識された可能性のあるもの、純然たるシンクロニシティ、後世への影響などなどを想像させる作品名をあげたい。
プロローグあとの第一幕の復活祭と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の類似は時代的な近さ、作曲家たちの関係性を嫌でも考えてしまうものだ。また、第二幕と「ラ・ボエーム」第二幕はダブルデートというか、二組のカップルの場というか、場面の提示における手付きの水準で近さを感じた。そして古代の美女たちと関わる第四幕は「ホフマン物語」を思わせるものだった。
このあたりのことも、きっと世界のどこかには論文があるのだろうな、と思いつつ探せていない私であります。たぶん、捜索の果てに見つかる論文はイタリア語で書かれているんじゃあないかなあ…
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この日は、16日にすでに行われたサントリーホールでの公演の好評を知った上で渋谷に向かったのだが、「渋谷は怖いところだ」と直前にニュースで見たので(おい)、護身用に悪魔のコスチュームでもドンキで買おうかと思ったら(嘘)、渋谷のドンキは自分が知っている場所から少し離れたところに移転していて驚いた。もはや浦島太郎である。これからしばらくこのシリーズ続きます(そうなんだ)。
さてこの長い文に最後までお付き合いいただきました皆さまに、そして私にも朗報です。来る12月21日(金)に、NHK FMの番組「オペラ・ファンタスティカ」にて、私が聴いたオーチャードホールの公演の2日前の演奏会、サントリーホール公演が放送されます。若きマエストロは演奏会場によって演奏の仕方を変えるのかどうか、ちょっと気になるところなので確認しなくてはと思う次第。放送は14時からですので、皆さま何らかの手を打ってぜひお聴きくださいませ。
では今日はこのへんでよかろうかい(特に意図はなし←と書くことで何かがにじむスタイル)。
そういう風潮や傾向に挑む勇気が、そして自身が読み込んだ作品の力を信じる強い意志が、アンドレア・バッティストーニにはある(もちろん、その強い意志を受け入れる東京フィルハーモニー交響楽団にも、だ)。有名作を上演するのと並行してマスカーニの「イリス(あやめ)」を演奏会形式ながら上演した彼の、そうした趣向・指向については先日の定期のときにコンサート・レパートリーでも同様、と少し書いたので割愛。ここでも少しだけ書いておくなら、近現代の作品に強いマエストロが耳慣れない曲を取り入れることでコンサートのプログラムを新鮮なものに変化させるように、バッティストーニはイタリアの知られざる作品を取り上げることでよく知られた作品の意外な立ち位置を知らせたり、同時代の作品の近さ遠さを音で示してくれている、と考えている。今回の「メフィストーフェレ」にしても、昨年の「オテロ」、今年の「アイーダ」との歴史的・人間関係的位置関係を思わずにはいられないし、…これ以上は後にしよう、いつまでも本題に入れない。”私はどう聴いたか、この作品をどう体験したか”こそが拙文の本題である。なお、ボーイトの「メフィストーフェレ」、そしてその原作ゲーテの「ファウスト」についても書くとこの文がいつまでも終わらないことになるので過去記事を参照いただくようお願いしたい。
●東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会
2018年11月18日(日)15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ
メフィストーフェレ (バス):マルコ・スポッティ
ファウスト (テノール):アントネッロ・パロンビ
マルゲリータ/エレーナ (ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ/パンターリス(メゾ・ソプラノ):清水華澄
ヴァグネル/ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団 他
ボーイト:歌劇『メフィストーフェレ』(演奏会形式)
最初に総論を手短かに書く。すでにかなり長いけれど。
ゲーテが伝説から汲み取ったファウスト伝説のエッセンスをアッリーゴ・ボーイトがオペラという制約の中でギリギリまで汲み取って作られたオペラが「メフィストーフェレ」、その作品を”原作の抜粋”ではなく”原作から生まれた、凝縮され構成されたひとつの体験”として読み解いたアンドレア・バッティストーニと東京フィル、キャスト各位と演出補のチームが提示してくれた舞台、であった。三時間強の長丁場ながら、弛みや成り行き任せの瞬間はなく一気呵成に終幕までたどり着き、私たち聴き手を圧倒してくれた。こう書くと若さと勢いに任せた演奏だったように見えてしまうがそうではない。作品の多様な性格を表情で、サウンドで示しつつあれよあれよと展開していくドラマ運びに、迷いがなかったことを言いたいのだ。
プロローグとエピローグで作品の外枠を固めたボーイトの創意ゆえ、このオペラでは「ファウスト」が持つ“神と悪魔の遊戯的闘争の物語”としての側面が強められている。エピローグでの福音を改心の支えとするファウストなど、原作とは異なるアプローチに戸惑われる方ももちろんいただろうと思う。しかしこれはあくまでもゲーテの「ファウスト」ではなくボーイトの「メフィストーフェレ」、死を受け入れるその時まで励み努めた一人の人間の物語ではなく、神に挑んだ悪魔の物語なのだ。私はこの演奏を聴いて、そう理解した。ファウストはあくまでも神と悪魔に操られる存在であるのだから、悪魔が敗北した後の「救済されるファウスト」の物語はここには必要がない、ボーイトはそう判断したから、あの有名な「神秘の合唱」は書かれなかった。またひとつ、疑問が解けた気分である。
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日曜の昼に善男善女が集ったオーチャードホールの客席につけば、ステージはピット上にまで大きく張り出して、前方にはスペースがある。サイズとしてはそれほど大き過ぎもしないオーケストラの後ろに合唱団の席、その上にはスクリーンが用意されている。編成もそこまで大きいわけではない、といってもそれは14型程度の弦セクションの話(16型だったかもしれない。最近年のせいだが目が悪くなって、このあたりいささか自信がない)。大量の管打楽器、少年少女たちも加わる合唱は作曲された時代を考えればかなりの大編成のもの。バンダは舞台裏でもステージでも演奏するため、合唱の横に席がある、と見て取れる。
かつてのオペラ・コンチェルタンテを思い出すまでもなく、東京フィルがこのホールでオペラを演奏するためならば演出がつきものだ。定期演奏会でありながら、そのドラマを存分に表現しようという挑戦的な試みを長年続けていた東京フィルならではの、音楽を、その物語をより客席に伝わりやすくするための最小限ながら考えられた演出だった。パンフレットにある菊池裕美子氏の役職が”演出コーディネーター”とされているのは、バッティストーニとの共同作業だったから、なのだろう(「イリス」では演出もバッティストーニだったことを想起しよう)。
とまず舞台の話を始めたのは、最小限の照明だけが灯されたステージで始まった演奏、この作品ではもっとも有名なプロローグが始まってすぐ稲光を思わせる光の演出が非常に印象的だったからだ。この一つの演出が、この作品は題名が示すとおりの悪魔の物語であるのと同時に、神の物語でもあることが示されたと感じたからだ。ここから「魔笛」の三人の童子を想起した私は、”もしかしてバッティストーニの中ではロッシーニ&シューベルトによるプログラムと「メフィストーフェレ」とはつながっていたのかもしれない”などとも考える。考え過ぎ、気のせいかもしれないけれど。
舞台が進む中で照明の演出のみならず舞台上方のスクリーンに映される映像、会場各所で活躍した助演を交えてこのオペラをより伝わるものにしようと試みた姿勢を、私は積極的に評価したいと思う。「ファウスト」を読んでいたとしても、私たちはみなこの作品の”初心者”だったのだから。なお、助演の古賀豊は鬼火として客席に現れたりマルグレーテの幻影を殺したりと、文字にするといささか物騒な活躍をして(笑)この演奏会をオペラにする、文字通りの一助となっていた。
音楽の話に移る。バッティストーニと東京フィルがこの日聴かせた演奏は、バッティストーニらしい張りのある、よく伸びるサウンドでボーイトの唯一の完成されたオペラの魅力を存分に伝えてくれた。バッティストーニが導けば鳴らしやすいとは言い難いオーチャードホールでも東京フィルは見事に輝いた。あえて難を言うならば、特にプロローグとエピローグがあまりに輝かしかったものだから、悪魔という闇の存在が少々消されてしまった感がなくはない、ということだろうか(笑)。
もっとも。私はこの作品の題が「ファウスト」ではない理由を、ボーイトがスカピリアトゥーラとして挑戦的だった自分の投影としているからではないかと考えるのだが、こうして神のご威光によって敗北するドラマとして「メフィストーフェレ」を体験することで、どうしても後年反抗の対象の一人だったはずのジュゼッペ・ヴェルディと和解・協業したスカピリアトゥーラたちのことを思ってしまう。「アイーダ」でのギスランツォーニ、「シモン・ボッカネグラ」「オテロ」そして「ファルスタッフ」でのボーイト。“父親”としてのヴェルディともども、なにか考えさせられてしまう縁がここに現れた、というのは後付にすぎるのだけれど。
オペラ指揮者・バッティストーニの技はこの日も冴えに冴えた。改訂されたとはいえ短いとは言えないこのオペラが一気呵成に上演されたかのように感じられたのは枠組みを明示した作品の構成の妙もあるだろうけれど、歌手とのやり取りでちょっとした間の悪さが生じない彼の技が大きく貢献していた。まだ発表されていない彼の次のオペラは果たして何か、期待せずにはいられない。
彼の指揮のもとの東京フィルハーモニー交響楽団の充実ぶりは、皆様ご存知のとおりである。このオペラ二日目ということもあっただろうけれど、集中力高く破綻なく、確信に満ちた音で彼らのマエストロに応えきってみせた。
キャストでは、題名役のマルコ・スポッティはこの日体調不良だったとも聞いたが、バスを主役とした数少ない作品での晴れ舞台を見事にこなした。
急な代役にもかかわらず熱唱を聴かせたアントネッロ・パロンビ(ジャンルーカ・テッラノーヴァから変更)のファウストは、”このオペラはファウストの物語ではない”という私の読みを裏切るほどの存在感を示した。ヴェリズモ・オペラにも近いかと思わせる熱い歌唱には、この作品がドイツ由来であることを忘れさせるほどの力があった。
マリア・テレーザ・レーヴァは初来日でのマルゲリータ/エレーナでの出演だったが、特に前者の第三幕のアリアで聴かせた。トラウマ的経験を経た彼女の不安定なあり方を示しながら、キャラクターの芯の強さを同時に表現した歌唱はお見事、19世紀の「ファウスト」が第一部を中心に受容されたことも理解できるほど、だった。
新国立劇場合唱団はプロローグ、エピローグの輝かしさも見事だったが、第一幕の復活祭の群衆の場面でさすがの存在感を示した。世田谷ジュニア合唱団は音楽の流れを任される場面でも臆すことなくよく歌い、公演の成功に大きく寄与した。
最後に。本文の繰り返しになるけれど、作品については以前の記事(その一 その二)を参照いただくようお願いしたい。ゲーテの「ファウスト」について何度も書くなんて底なしの度胸、私にはないもので。本当にね。
…とは思ったが、実演に触れることで喚起される思考というのは間違いなくあるものだから、ボーイトの作品、オペラについてということで最後に記しておく。
先日の記事でこの作品が想起させるものとして「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」の名を挙げたが、実演を聴いてさらにいくつかの作品との関係性が気になった。もしかすると無理筋かもしれないが、先行作として意識された可能性のあるもの、純然たるシンクロニシティ、後世への影響などなどを想像させる作品名をあげたい。
プロローグあとの第一幕の復活祭と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の類似は時代的な近さ、作曲家たちの関係性を嫌でも考えてしまうものだ。また、第二幕と「ラ・ボエーム」第二幕はダブルデートというか、二組のカップルの場というか、場面の提示における手付きの水準で近さを感じた。そして古代の美女たちと関わる第四幕は「ホフマン物語」を思わせるものだった。
このあたりのことも、きっと世界のどこかには論文があるのだろうな、と思いつつ探せていない私であります。たぶん、捜索の果てに見つかる論文はイタリア語で書かれているんじゃあないかなあ…
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この日は、16日にすでに行われたサントリーホールでの公演の好評を知った上で渋谷に向かったのだが、「渋谷は怖いところだ」と直前にニュースで見たので(おい)、護身用に悪魔のコスチュームでもドンキで買おうかと思ったら(嘘)、渋谷のドンキは自分が知っている場所から少し離れたところに移転していて驚いた。もはや浦島太郎である。これからしばらくこのシリーズ続きます(そうなんだ)。
さてこの長い文に最後までお付き合いいただきました皆さまに、そして私にも朗報です。来る12月21日(金)に、NHK FMの番組「オペラ・ファンタスティカ」にて、私が聴いたオーチャードホールの公演の2日前の演奏会、サントリーホール公演が放送されます。若きマエストロは演奏会場によって演奏の仕方を変えるのかどうか、ちょっと気になるところなので確認しなくてはと思う次第。放送は14時からですので、皆さま何らかの手を打ってぜひお聴きくださいませ。
では今日はこのへんでよかろうかい(特に意図はなし←と書くことで何かがにじむスタイル)。
2018年11月30日金曜日
「ファウスト」の話の続き
(承前)
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。
さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。
リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)
なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。
さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。
・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」
・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調
※アルファベットはてきとう(嘘)
こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。
さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。
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グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。
まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。
続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。
シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。
グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。
そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。
最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。
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で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。
本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。
東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で。
この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。
来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。
また長くなっちまうといけねえ、簡単に書くといたしましょう(「昭和元禄落語心中」見ている人並みの口調伝染り)。「ファウスト」の話の続きです。今度は音楽の話。いちおう空振りにはならないと思いますよ、ええ。
さまざまに音楽化されているゲーテの作品は、まず第一部が1808年に、そして第二部が1832年に出版されている。その影響は19世紀に特に大きく、なんらかの形で「ファウスト」を音楽化した作曲家は、作品成立順に並べると以下の通り。
リヒャルト・ワーグナー 「ファウスト」序曲(1840/1855改訂)
エクトル・ベルリオーズ 劇的物語「ファウストの刧罰」(1846)
フランツ・リスト ファウスト交響曲(1857)
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景(1862)
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」(1859)
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」(1868/1875/1876/1881)
ここで考察のため、20世紀に入ってからの作品ではあるけれど例外として入れたいのがこの人のこれ。
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調(1911)
なお。フランツ・シューベルトが作中のモティーフに付曲した歌曲がある。また時代を下ってマーラー同様の20世紀枠ではブゾーニの「ファウスト博士」、シニートケ(シュニトケ)の「ファウスト・カンタータ」があるのだが、それらについて何かを語る立場にはない。力不足で申し訳ない。
さて気を取り直して。こう並べてみると「また君たちかあ…(ベルリオーズとワーグナー、そしてリストの三人の関係、なかなか興味深い)」「グノーは文芸作品のオペラ化大好きだねえ(彼は「ロメオとジュリエット」も作曲している。この流れはフランスではマスネが引き継いだのかな…)」「ボーイト、成功するその日を信じてよくがんばった」などなど、ご覧になる人によっていろいろなことが思い浮かぶことだろう。だが私がここで書きたいのは、こう並び替えて読み解こう、というもの。
・グループL
エクトル・ベルリオーズ 「ファウストの刧罰」
シャルル・グノー 歌劇「ファウスト」
アッリーゴ・ボーイト 歌劇「メフィストーフェレ」
・グループD
フランツ・リスト ファウスト交響曲
ローベルト・シューマン 「ファウスト」からの情景
グスタフ・マーラー 交響曲第八番 変ホ長調
※アルファベットはてきとう(嘘)
こう2つのブロックに分けた理由はシンプル、ゲーテが全作の終わりにおいた「神秘の合唱」なし・ありの観点から、である。歌詞もない観念的序曲で、劇としての体裁をなしていない(失礼)ワーグナーはこの場合除外する。なお、これは想像ですが。ワーグナー作品への「ファウスト」の影響の痕跡は、きっと誰か(複数)が論文でも書いているんじゃないかな、と思う。もっともワーグナーはファウスト的存在に対してかなり両義的な思いがありそうに感じるけれど。
さて本題に戻って。
このようにグループ化すると、ドイツ語圏の人(この場合、ゲーテの原作をドイツ語のまま歌唱させている人)は”神秘の合唱”を書いているとわかる。または、翻訳を経由している仏伊では第一部のマルグレーテとの関係性を主軸においてドラマ化されていることがわかる、と言えるだろう。フランスでもドイツ語圏でも活躍したリストが第一部の登場人物たちの描写から神秘の合唱に至る、という折衷的選択なのはなんというか、ちょっと微笑ましい。
思うに、翻訳の問題はおそらく我々が想像する以上に大きかったはずで、この作品が行き渡った時期についても本来はここで考察されるべきだろうけれど、きっと誰か(複数)が論文でも以下略。
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グループ化したことで私としては結論を書いたようなものだけれど、もう一度成立順に個別の作品を見ていこう。
まずは最初に劇的作品として「ファウスト」を音楽したベルリオーズの場合。ここではオリジナル展開多めの、グレートヒェンとの恋愛ものとして描いて、最終的にファウストが(強調)地獄落ち、マルグリートの魂だけが救われる。ここまでゲーテとの乖離が目立つと、「伝承のファウスト博士も考慮して作品化された」と考えるべきかもしれない。
また、かつて「幻想交響曲」で自らの分身とブロッケン山に分け入った文学的個性の強い彼としては、第一部のファウストを許せなかったのかも、なんて想像もできるかもしれない。
続いてオーケストラとテノール、合唱で「ファウスト」の物語を抽象化したリストの場合。彼の得意な交響詩スタイルで第一部の主要キャラクター三人を、「ファウスト、マルグレーテ、メフィストフェレス」の順にオーケストラのみで描写し、最終的にテノールと合唱による神秘の合唱に至るという独特の構成は他に類を見ないものではないか?(もしかするとチャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲が近いのかもしれない。憶測に憶測を重ねてしまったから、説得力皆無であることは自覚している)
原作既読で、かつて初めてこの曲を聴いたときには「終盤、強引すぎませんか」と感じたものだが、このたびの再読を経て聴いてみると「もしかしてファウストが亡くなったあとの、メフィストフェレスが天からの使いに敗北する場面をスケルツォとして描写したかったのかな?」と思わなくもない。…この読みがあたっているとしても、マーラーが一時間を費やす終曲につなぐには苦しいと思わなくはないが。
シューマンは、三つの場面を音楽化することで全編を想起させよう、という若干トリッキーなスタイルでこの大著を音楽化した。
この稿で注目している「神秘の合唱」にいたる終末部分は第三部として作曲され、ここではマーラーと同様に原作をそのまま歌詞として用いているので、比較もまた楽しいだろう。激越に頂点を目指すマーラーと、すでに理想に至った幸福感で静かな音楽を綴ったシューマンの好対照は、作曲家の個性と時代の要請があいまってのことではあろうけれど、同じテキストからここまで違うものが現れるのだ、という好例かと。
グノーは第一部をオペラ化して、マルグリートの救済をもって劇を閉じる、ある意味順当なアプローチだ。この割り切りのおかげで、ファウストのキャラクター造形などにも十分に時間を使えており、ちゃんとファウストが主人公の作品となっている、と思える。そのあたりはオペラ慣れしたスタッフのいい仕事なのだろう(台本はジュール・バルビエとミシェル・カレ)。
でもドイツ人にはあれは「マルグリート」でしょ、とか扱われるんですって。仕方ないなあもう、とは思うのだけれど、まあ、私としてはどちらのお気持ちはわかるからこうした稿を起こしているわけで。
そしてアッリーゴ・ボーイト。第一部も第二部も入れたいと欲張って、さらに主役をファウスト博士ではなくメフィストーフェレにして、と独自色が強い。それについての考察はまあ、すでに書いたということでご容赦を。私の文では食い足りない皆さまは、東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを味読されるといろいろな視点が得られると思う。
最後にグスタフ・マーラーの交響曲。原作への敬意が重すぎたのか、最終盤のドラマをまったく削っていない。この調子でオペラにしたら一日かかってもワルプルギスの夜一回分しか描けないに違いない(断言)。同じ意図で現れる聖人たちの歌唱を一連の歌曲のように構成したこの作品は、オペラというよりもカンタータに近く、それも完全に肯定的である扱いがマーラーの作品群のなかでも本当に独特。彼のキャリアの頂点は、この作品なのだということは、音で聴いてもらえれば誰もが理解するだろう。最近はなぜか演奏頻度も高まっていて、以前に比べたらずーっと接しやすくなったように思う(反比例するように、いわゆる「復活」の実演を以前ほど見かけなくなったような気もするがそこはスルーで)。
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で、こう見ていくとボーイトとマーラーの好対照がなかなか興味深いのである。自ら作品のエッセンスを劇として再構成したボーイト、おそらく「この曲を聴く人の多くは「ファウスト」を精読しているだろう」と信じて終末部分だけを、いっさい手を加えずに音楽化したマーラー(それも交響曲で、リストのように「ファウスト」とは名付けないで!)。シューマンのところでも書いたが、作曲家の個性と時代の要請、その二点だけでもご飯が美味しくいただけそうなお題なので、きっとこれも誰か(複数)が以下。
本稿に興味を持つような皆さんはすでにご存知のとおり、ボーイトのオペラを成功裏に上演したアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団(演奏会形式だけれど、彼が示したのは間違いなくドラマだったので、あえてこう書く)は、2019年1月にマーラーの交響曲第八番を演奏する。「ファウスト」を読み替えて”ある悪魔の物語”として示した彼らが、続けざまに「ファウスト」全冊の終わりを描く格好になることはなかなか面白いめぐり合わせである、興味のある方はリンク先で……と申し上げて本稿を、と思っていたのですが。
東京フィルハーモニー交響楽団の2019シーズンプログラムが、先日発表されています。2020年から、今シーズンまでとは区切りを変えてシーズンを「1月から12月まで」と変更するため、2019年は過渡期的に「4月から11月まで」の短めのシーズンとなるとのこと。バッティストーニ、チョン・ミョンフン、ミハイル・プレトニョフの三本柱と沼尻竜典、尾高忠明、ケンショウ・ワタナベが登場するシーズンについてはリンク先にて詳しく見ていただくとして。その際には本稿にこれを入れ込んだ理由である10月公演をよーく見てみてくださいませ。なんとリストの「ファウスト」交響曲を演奏するんですよ、ミハイル・プレトニョフの指揮で。
この作品、過去のレコーディングを探していただくとわかるのですが、レーベルに対して力が強いというか、好きな作品を録音できているような指揮者たちだけが録音を残している、不思議な曲なんですよ。アンセルメにバーンスタイン、ドラティにショルティ、シャイーにラトルなど、と書き出してみて(あれモノラル録音は…)とか新しい疑問も生まれてきましたし。
その作品をロシアのマエストロが取り上げる、となると先程思いつきで書いておいた「マンフレッド」つながりも割と確度のある見方として妄想できるのかな、とか思ったり。
来年には英国ロイヤル/オペラが来日公演でグノーの作品を取り上げますから、まだしばらく「ファウスト」について考察する機会は続きそうです。やっぱり皆さん、読んだほうがいいっすよ(偉そう)。以上、2018年の「ファウスト」の話はおしまい。ではまた。
2018年11月16日金曜日
「ファウスト」、読んでみた! ~若しくは森鷗外訳「ファウスト」を読みて思ふこと
それはまだ暑かったころのこと、「ああ、11月には「メフィストーフェレ」の全曲が演奏されるのか…」と気づき、ゲーテの「ファウスト」を読むのはどうだろうか、と思い立った。レアなんて表現では足りない、まず実演にはお目にかかれない音に聴けないと思っていた作品を聴くことができる、かもしれない。そんなタイミングでもなければ手が出しにくい大著に、何年ぶりかはもはや思い出せないほどの時を隔てて行った再読を、ついこの前ようやく終わった。公演前に間に合ったのは幸いなことである(笑)。
実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。
大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。
その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。
当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。
鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。
ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。
(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。
そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)
これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。
さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。
もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。
個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。
…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。
役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)
**************
これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。
ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。
私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。
また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。
実は今、メトロポリタン・オペラでもこのオペラが上演されているという。シンクロニシティ(ポリスではない)。
大学生の頃、なんとか最後のページにたどり着いたことは覚えている。その頃は、受験時代の読書不足を取り戻そうとしていたのか、文庫数冊になる名作を意地になって読んだ一連の流れの一つとして読んだはず、たしかそういうことだった(当時はネットもケータイもない世界である。自分にとっては幸いなことだった)。ちなみに当時読了したのは「レ・ミゼラブル」とか、「魅せられたる魂」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、岩波文庫でも数冊になるような大長編、それもまったく系統立てる事なく、不徹底な手の出し方。…もっとも、それらの本でさえも今では細部が頭から抜け落ちて、あらすじしか知らない人レヴェルですけど。
第一部はさらさら読めたこと、第二部のほとんどがよくわからなかったこと(おい)、第二部の最後のくだり(建築というか干拓の大事業あたりから)にはそれなりに強い感銘を受けたこと、有名な最後の最後のあれはこんなに短いのかと拍子抜けしたこと、等などくらいは思い出せる。でもまあ、何分馬鹿な大学生のこと故、そして今のようにデジタルで簡単に読書録を作れる時代でもなかったから、記憶は都合よく書き換えられたものかもしれない(これで都合いいのか俺)。
その程度の読みであっても、戯曲なんてほとんど読んだことないのに、ファウスト伝説に特段の興味があったわけでもなかったのによく読んだよ、と今の私は振り返って思うので、当時の私を褒めてあげます。おかげでその後、マーラーでもリストでもベルリオーズでも戸惑うことなく親しめたのだから。
クラシック音楽好きの皆様ならご存知の通り、ベルリオーズにシューマンにグノー、ボーイトにリスト、マーラーらが程度の差こそあれ付曲しているこの作品、知らないのはあまりに惜しい。というか常識として知っておくことで、ある時代が見えてくるのですよ…とか、偉そうに言えるのはクラシック音楽を聴いていく頃に一応読了済みだったから、です(断言)。
当時読んだのは先ほども名を出した岩波文庫(権威に弱い)、その後第一部を紛失してしまったもので新潮文庫版を買い(だが読んでない←おい)、たしか一度は集英社版にも手を出した、はず。図書館から第一部を借りてほとんど読まずに返しちゃったけど(←おーーーーい)。そんな失敗の記憶がある以上、なにかの新味でもなければ再読などできまいよ、そう考えての電子書籍選択だったわけだったけれど、青空文庫の訳者を見れば森鷗外ときた。それなら読んで見る価値もございましょうぜ。
鷗外の訳は明治期の文学作品相応の日本語に、歌の部分を七五調で揃えたもの。当時「ファウスト」がわかりにくく感じた理由の一つに「台詞と歌の区別がつきにくい」という理由があった私にはむしろ難有いやり方で、これは特にワルプルギスの夜を読み進めるには大いに私を助けるものでした。古文ってほどでもないですが七五調やら古めの文体、当て字の読ませ方を苦にしない人には鷗外版最強なのでは?と思ったくらい。
※ちなみに私は読書尚友というアプリで、縦書き表示にして読みました(タブレット使用)。
ちなみに、だけれど。鷗外が訳出して出版、その後第一部を上演した往時の反応が同じく青空文庫にある「訳本ファウストについて」で読める。曰く。
(以下引用)訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。(引用終わり)
それに対する反応が興味深いからさらに引用。
そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜《おとく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾籠《びろう》の振舞だと云うのである。(中略)これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈何《いか》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。(引用終わり、《》は青空文庫ではルビ)
これだからいつの時代も、とボヤキの一つも出てしまうところだが、まあ同時代の反応というのはそういうものが多いのだ。あえて一般論にしてみました。
汚涜とまできましたか、と思わなくはないが、ベルリオーズ、グノーで本筋として描かれるマルグレーテとの悲恋物語(読み返してみると”悲恋”とさえも言いにくくなるほど成り行き任せなのですがね、我らがファウスト博士)、たしかにわかりやすく俗っぽいので”時代を代表する大傑作””時代精神の体現”などなど、高尚っぽい何ものかを期待した人にはまあ、そういう感想もありうるかな、とは思う。それにほら、評判のいいものって、実際に触れる前の期待値を超えるのは難しいものだし(軽いな)。
さてようやく本題。久しぶりに全巻を読み終えてしみじみと思う、過去の自分は色恋(第一部)やら美醜に振り回される(第二部の)ドクトルに引き気味で読んでいて、それ故に、最後に無私に偉大な事業に挑む老人の意志に感じ入ったのだった、と。そう、若かった頃の私は割と真面目だったのである。読み進めること自体に苦心していた往時とは違って余裕を持って味読できた今回、その事業さえも曇りないものではなく、あらかじめ傷ついた成果となるようメフィストフェレスが仕組んでいることに気付かされたのはちょっとした驚きであった。最期においてすらこれだ、それ以前の恋愛悲劇において、また美をめぐる遍歴、疑似ファミリー・ロマンスにおいておや、なのだ。随所にそうした仕掛けがされているのだろうけれど、残念なことに私ではゲーテの含意を汲み尽くせない。歯がゆいことこの上なし、八つ当たり気味に汚い、さすが悪魔汚い、と口走る私である。
冗談はさておいて。これに気がつくとファウストが時をとどめるにいたる最後のプロセスにすら瑕疵があって、それでもすべてを受け容れる物語だったという認識になる。ということはこの物語で描かれるファウスト博士は学徒としてはなせるだけのすべてを成し遂げているが、その後メフィストフェレスと契約してからは何も満足にはなし得なかった、と読めるのだ。すべての成果は傷物としてのみ手に入る、しかしそれでもその過程そのものを肯定した、その先に救済が待っている。そういう構造だったのかとようやく理解できたのが、今回の私の最大の成果である。もちろん、上記のとおりの傷物の成果なのだけれど。
もちろん、そんな歯がゆさはその部分だけ、では全くない。この作品、とにかく前提となる知識が多すぎて、大学生当時の私ではまったく噛み砕けず消化もできなかったのも当然であった。感銘を受けた老ファウスト最後の挑戦は、文字通りの人事をつくすお話だから比較的わかりやすかったのだ、とも言える。
それでも再読した今回は楽しめましたよ、魔女どもの闊歩する怪しい宴も、美を求めたヘレネーとの生活もその破綻も、有名すぎる第一部の恋愛悲劇も。汲み尽くせない無力感にこだわるほどの歳でもなし、ありのままの私で楽しみましたよええ、ええ。
個人的には、弟子ワグネルをも含めたホムンクルスを巡るエピソードが強く心に残ったように思う。人が創り出した命はどこから命なのか、どうすれば人の技は”自然”になれるのか。手塚先生が生涯「ファウスト」に魅せられ続けたのもこのあたりなのかなあ、なんて思ったりして(あらすじから読み取れる圧縮ぶりがすでに天才的なのが凄いですよ手塚先生)。
…ただ、ですね。昔感銘を受けた、と何度も書いた最後の大事業も、今回心に残ったホムンクルスも、有名どころはまったく音楽化していないという(笑)。だから私の今回のこの文も、ボーイトのオペラの手引きにはまったくならないのだどうだ参ったか、と申し上げなければならないのは誠に申し訳ない限りである。
役に立つ情報は、若きマエストロの明晰で包括的な解説からどうぞ!(丸投げ)
**************
これではさすがに申し訳ないので(笑)、少しだけ考えたことを書く。論拠のない私見はいらない、という方はここでさようなら。ゲーテの大著に戻ってくださってもいいし、ボーイトのオペラ他、楽しめるものはたくさんございましょうから。
ボーイトは後年ヴェルディと作った「オテロ」を「ヤーゴ(イアーゴー)」にしようとした人物だから、「ファウスト」を「メフィストーフェレ」にするのも自然なことかもしれない。
また、作曲当時のスカピリアトゥーラの若造としては、”神に愛されてしかし悪魔に翻弄されて新たな生涯を終える”ファウストよりも、”神に挑んで堂々敗退する悪魔”のほうがより近しい存在と感じられたのかもしれない。実際、ボーイトがそうしたようにマーラーが付曲した場面を除いてみるならば、「ファウスト」全編の大枠を作っているのは主とメフィストフェレスの賭けである。ファウスト博士は神のお気に入りとして悪魔に験される存在でしかない、とも読めるのだから、若きボーイトのやり方はなかなかに説得的だ。
私個人としては、それらの一般的な見解に加えて「ドン・ジョヴァンニ」のイメージを見たように感じている。騎士長の霊により地獄堕ちさせられながら最後までNonを叫ぶドン・ジョヴァンニならぬ、天上の存在に籠絡されてそれでも口笛を吹いて抗うメフィストーフェレ。オペラにおける反抗者の系譜で見るならば、物語の結論としては逆方向ながら「タンホイザー」なども想起されるところだろうか。
また、ボーイトのオペラを知ることで、他の「ファウスト」を題材とした作品について調べるうち興味深いことがわかったように思う。それは…もう長くなっちゃったので別項で書きますね(笑)。ではまた。
2017年6月12日月曜日
ノット指揮 東響によるコンサートオペラ「ドン・ジョヴァンニ」キャスト発表!
こんにちは。千葉です。注目の公演情報ですよ。
昨年末に「コジ・ファン・トゥッテ」が大好評裏に開催されたノット&東響@ミューザ川崎シンフォニーホールのコンサートオペラ第二弾は「ドン・ジョヴァンニ」です。やったね!(この作品も大好きなので)
注目のキャストが15日に発表されました。以下のメンバーがこの12月、ミューザ川崎シンフォニーホールに登場します。
ドン・ジョヴァンニ:ミヒャエル・ナジ
Don Giovanni: Michael Nagy
レポレッロ:シェンヤン(沈羊)
Leporello: Shenyang
ドンナ・アンナ:ローラ・エイキン
Donna Anna: Laura Aikin
ドン・オッターヴィオ:アンドリュー・ステープルズ
Don Ottavio: Andrew Staples
騎士長:リアン・リ
Commendatore: Liang Li
ドンナ・エルヴィーラ:エンジェル・ブルー
Donna Elvira: Angel Blue
マゼット:クレシミル・ストラジャナッツ
Masetto: Kresimir Strazanac
ツェルリーナ:カロリーナ・ウルリヒ
Zerlina: Carolina Ullrich
現時点ではドン・ジョヴァンニの彼はラトルの「魔笛」にも出ていたなあ、とかマゼット役のストラジャナッツが「ワルシャワの生き残り」&ドイツ・レクイエムのときに来た彼ですね、くらいしか書けませんし。
※ドン・オッターヴィオ決定につき更新しています。
****************
なおチケットの発売は6月ですが、この公演を含む三公演を「スペシャル・オーケストラ・シリーズ」として3月に先行販売します。大好きなコンセルトヘボウ管がついに新首席指揮者ダニエレ・ガッティとの来日を果たす公演、そしてサー・サイモン・ラトル最後のベルリン・フィルとのツアー、そしてこの「ドン・ジョヴァンニ」を確実に入手する好機ですよ!(垂涎のあまり涙目で書いています)
※追記。ベルリン・フィル完売しました(あたりまえですが、いちおうね)
ということで12月10日(日)は今から予定を開けておいてくださいね!というご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
※今年はなんと一回しかステージがない!という悲しい現実がございます。昨年は二回だったから、初日ミューザの感想を受けて池袋に行かれた方もいらしたことでしょうに…
であれば仕方がないのです、ぜひ12月10日に!チケットはこちらで!
注目のキャストが15日に発表されました。以下のメンバーがこの12月、ミューザ川崎シンフォニーホールに登場します。
ドン・ジョヴァンニ:ミヒャエル・ナジ
Don Giovanni: Michael Nagy
レポレッロ:シェンヤン(沈羊)
Leporello: Shenyang
ドンナ・アンナ:ローラ・エイキン
Donna Anna: Laura Aikin
ドン・オッターヴィオ:アンドリュー・ステープルズ
Don Ottavio: Andrew Staples
騎士長:リアン・リ
Commendatore: Liang Li
ドンナ・エルヴィーラ:エンジェル・ブルー
Donna Elvira: Angel Blue
マゼット:クレシミル・ストラジャナッツ
Masetto: Kresimir Strazanac
ツェルリーナ:カロリーナ・ウルリヒ
Zerlina: Carolina Ullrich
現時点ではドン・ジョヴァンニの彼はラトルの「魔笛」にも出ていたなあ、とかマゼット役のストラジャナッツが「ワルシャワの生き残り」&ドイツ・レクイエムのときに来た彼ですね、くらいしか書けませんし。
※ドン・オッターヴィオ決定につき更新しています。
****************
なおチケットの発売は6月ですが、この公演を含む三公演を「スペシャル・オーケストラ・シリーズ」として3月に先行販売します。大好きなコンセルトヘボウ管がついに新首席指揮者ダニエレ・ガッティとの来日を果たす公演、そしてサー・サイモン・ラトル最後のベルリン・フィルとのツアー、そしてこの「ドン・ジョヴァンニ」を確実に入手する好機ですよ!(垂涎のあまり涙目で書いています)
※追記。ベルリン・フィル完売しました(あたりまえですが、いちおうね)
ということで12月10日(日)は今から予定を開けておいてくださいね!というご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
※今年はなんと一回しかステージがない!という悲しい現実がございます。昨年は二回だったから、初日ミューザの感想を受けて池袋に行かれた方もいらしたことでしょうに…
であれば仕方がないのです、ぜひ12月10日に!チケットはこちらで!
2017年6月11日日曜日
6/11(12)「ドキュメンタリー『カラヤンのフェスティバル』/ザルツブルク復活祭音楽祭2017 楽劇『ワルキューレ』」放送
こんにちは。千葉です。
6月のNHK BS「プレミアムシアター」は11日深夜24時から、この番組でスタートです。
●ドキュメンタリー『カラヤンのフェスティバル』/ザルツブルク復活祭音楽祭2017 楽劇『ワルキューレ』
4月に開催された、50年目のザルツブルク復活祭音楽祭から、目玉公演として話題となった「ヴァルキューレ」が早速登場です。昨年日本でも「ラインの黄金」を披露したティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの演奏は大好評でしたから、この放送を心待ちにされていた方も多いのでは。
ザルツブルク復活祭音楽祭の50周年を記念して、そのオリジンに遡るプロジェクトとしてカラヤン肝いりで取り上げられた最初の演目「ヴァルキューレ」を、当時のデザイン、演出で上演するプロジェクトは、もちろん指揮者も違うし、再演とはいえ往時のスタッフもいない、リ=プロダクションとでも言うべきものなのでしょう。
そして近年再評価というより「歴史化」が進むヘルベルト・フォン・カラヤンとこの音楽祭についてのドキュメンタリーも併せて放送されます。そのキャリアを考えればまずは何よりもオペラのマエストロだったはずのヘルベルト・フォン・カラヤンについて知る、いい機会となるのではないでしょうか。
近年なにかと「リング」づいてる日本向け、ということもないでしょうけれど(笑)、タイミング的にはバッチリです。ぜひ。
ということでご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
6月のNHK BS「プレミアムシアター」は11日深夜24時から、この番組でスタートです。
●ドキュメンタリー『カラヤンのフェスティバル』/ザルツブルク復活祭音楽祭2017 楽劇『ワルキューレ』
4月に開催された、50年目のザルツブルク復活祭音楽祭から、目玉公演として話題となった「ヴァルキューレ」が早速登場です。昨年日本でも「ラインの黄金」を披露したティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの演奏は大好評でしたから、この放送を心待ちにされていた方も多いのでは。
ザルツブルク復活祭音楽祭の50周年を記念して、そのオリジンに遡るプロジェクトとしてカラヤン肝いりで取り上げられた最初の演目「ヴァルキューレ」を、当時のデザイン、演出で上演するプロジェクトは、もちろん指揮者も違うし、再演とはいえ往時のスタッフもいない、リ=プロダクションとでも言うべきものなのでしょう。
近年なにかと「リング」づいてる日本向け、ということもないでしょうけれど(笑)、タイミング的にはバッチリです。ぜひ。
ということでご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
2017年6月1日木曜日
書きました:ファビオ・ルイージ オペラ・アリア公開マスタークラス(昭和音楽大学)
こんにちは。千葉です。
寄稿した記事のご紹介、遅くなってしまいましたがぜひ!
●「ギリギリまで自分の演奏を追い込んで。その先にあなたの表現が見えてくるでしょう。」―――ファビオ・ルイージ オペラアリア・マスタークラス
昭和音楽大学のテアトロ・ジーリオ・ショウワで開催された、ファビオ・ルイージによるオペラアリアの公開マスタークラス、レポートを寄稿しました。
お一人だけ具体的にどうレクチャーが進められたかを書いていますが、それはどの受講者にも基本的にやり方が同じだったというのが一つめの理由。そこから杉山さんを選んだのはレクチャーの中での反応の良さ(記事参照ください)、そして写真を見ていただけるとおり、彼が自らピアノに座った場面などを紹介できるのもポイントが高かったです(笑)。
うーんこれだけだとわかんないよ、と思われる方にはマスタークラスの雰囲気だけでも伝わればと思います、こんな感じなんです。
こちらはジュリアード音楽院での似た趣向のマスタークラスですね。もっとも、新百合ヶ丘でのファビオ・ルイージは質問を投げかけて受講生自身に考えさせて、そこからアリアをよりドラマティックにしていったものですからこれはまだまだ序盤、ほんの入口という感じがします。「コジ・ファン・トゥッテ」の頭の方をレクチャーしているけれど、きっとこの先でどんどんとキャラクターたちの関係性をどう示すのか、そこにどのような工夫がこめられているのか、モーツァルトを歌うとはどういうことか、どんどんと深められていったのだろうな、と昭和音楽大学でのレクチャーを拝見した私は思う次第であります。興味のある方はMedici.tvで探してみるといいかもしれません。
こうした公開講座は、もちろん音楽家の皆さまへの刺激となるためのものでしょうけれど、私たち聴き手は「音楽家はどう作品にアプローチし、表現を生み出すのか」を知る機会ともなります。記事中にも書きましたが、またこうした機会があればぜひ拝見したいものです。そうそう、記事に書いたと言えばオーケストラの公開リハーサルなんかもいいですよね…
と、夢が広がりますが最近はちゃんと取材できない状態でなんとも申し訳ない感じです。また機会があればいくらでも行きたい気持ちはありますので、またの機会を、とのみ申し上げておきますね。
ではまた、ごきげんよう。
寄稿した記事のご紹介、遅くなってしまいましたがぜひ!
●「ギリギリまで自分の演奏を追い込んで。その先にあなたの表現が見えてくるでしょう。」―――ファビオ・ルイージ オペラアリア・マスタークラス
昭和音楽大学のテアトロ・ジーリオ・ショウワで開催された、ファビオ・ルイージによるオペラアリアの公開マスタークラス、レポートを寄稿しました。
お一人だけ具体的にどうレクチャーが進められたかを書いていますが、それはどの受講者にも基本的にやり方が同じだったというのが一つめの理由。そこから杉山さんを選んだのはレクチャーの中での反応の良さ(記事参照ください)、そして写真を見ていただけるとおり、彼が自らピアノに座った場面などを紹介できるのもポイントが高かったです(笑)。
うーんこれだけだとわかんないよ、と思われる方にはマスタークラスの雰囲気だけでも伝わればと思います、こんな感じなんです。
こちらはジュリアード音楽院での似た趣向のマスタークラスですね。もっとも、新百合ヶ丘でのファビオ・ルイージは質問を投げかけて受講生自身に考えさせて、そこからアリアをよりドラマティックにしていったものですからこれはまだまだ序盤、ほんの入口という感じがします。「コジ・ファン・トゥッテ」の頭の方をレクチャーしているけれど、きっとこの先でどんどんとキャラクターたちの関係性をどう示すのか、そこにどのような工夫がこめられているのか、モーツァルトを歌うとはどういうことか、どんどんと深められていったのだろうな、と昭和音楽大学でのレクチャーを拝見した私は思う次第であります。興味のある方はMedici.tvで探してみるといいかもしれません。
こうした公開講座は、もちろん音楽家の皆さまへの刺激となるためのものでしょうけれど、私たち聴き手は「音楽家はどう作品にアプローチし、表現を生み出すのか」を知る機会ともなります。記事中にも書きましたが、またこうした機会があればぜひ拝見したいものです。そうそう、記事に書いたと言えばオーケストラの公開リハーサルなんかもいいですよね…
と、夢が広がりますが最近はちゃんと取材できない状態でなんとも申し訳ない感じです。また機会があればいくらでも行きたい気持ちはありますので、またの機会を、とのみ申し上げておきますね。
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月27日土曜日
英国ロイヤル・オペラハウス シネマシーズン「蝶々夫人」5/26より上映
こんにちは。千葉です。
5月26日から各地で上映開始されるオペラのご案内です。遅れてすみません…
●英国ロイヤル・オペラハウス シネマシーズン2016/2017「蝶々夫人」
まだまだたくさんの関連動画がロイヤル・オペラハウスのYouTube公式チャンネルにはあるんですけど、とりあえずここまでにします。
ここ最近多くの注目の舞台が上演、放送されてきた「蝶々夫人」に、今度は音楽監督アントニオ・パッパーノが指揮するロイヤル・オペラハウスの舞台が加わります。「エルモネラ・ヤオの歌唱を聴いて、これを上演しないと」と即断したと語っていた注目の舞台、ぜひご覧ください。
すこし最近の上演や上映、放送を振り返ってみましょうか。
昨年チョン・ミョンフンが演奏会形式で東京フィルと聴かせた「蝶々夫人」はセミステージ形式だからこそ、悲劇そのものを美しく抽出してくれたような舞台でした(感想はこちらに)。
そして笈田ヨシの演出が話題となった公演は各地での巡演、放送ともに注目されましたね。この作品が持つ本来の厳しさを戯画化せずに描き出す、辛く哀しく、なにより切実な舞台でした。
リッカルド・シャイーがミラノ・スカラ座に復活させた初演版は、現在一般に上演される版以上に蝶々さんの置かれた厳しい状況を描くもので、衣装や演出ともあいまって人によっては直視が辛くさえ思えたことでしょう。ピンカートンが去った後に”カリカチュアライズされた白塗りで和装”の蝶々さん、精神状態は如何許かと心配で心配で見通すのが非常に辛いものでした。
それぞれにプッチーニの美しい音楽の魅力を存分に示しながら、それぞれの視点で作品をより切実に描くものだった、と感じました。
ではロイヤル・オペラハウスの舞台はどうだったか。モーシュ・ライザーの舞台は幕末日本を記号的な衣装やメイクを使いながらもオリエンタリズムに傾きすぎない、実に妥当で美しい舞台でした。
※もう少しあとで追記します
ではまた、ごきげんよう。
5月26日から各地で上映開始されるオペラのご案内です。遅れてすみません…
●英国ロイヤル・オペラハウス シネマシーズン2016/2017「蝶々夫人」
まだまだたくさんの関連動画がロイヤル・オペラハウスのYouTube公式チャンネルにはあるんですけど、とりあえずここまでにします。
ここ最近多くの注目の舞台が上演、放送されてきた「蝶々夫人」に、今度は音楽監督アントニオ・パッパーノが指揮するロイヤル・オペラハウスの舞台が加わります。「エルモネラ・ヤオの歌唱を聴いて、これを上演しないと」と即断したと語っていた注目の舞台、ぜひご覧ください。
すこし最近の上演や上映、放送を振り返ってみましょうか。
昨年チョン・ミョンフンが演奏会形式で東京フィルと聴かせた「蝶々夫人」はセミステージ形式だからこそ、悲劇そのものを美しく抽出してくれたような舞台でした(感想はこちらに)。
そして笈田ヨシの演出が話題となった公演は各地での巡演、放送ともに注目されましたね。この作品が持つ本来の厳しさを戯画化せずに描き出す、辛く哀しく、なにより切実な舞台でした。
リッカルド・シャイーがミラノ・スカラ座に復活させた初演版は、現在一般に上演される版以上に蝶々さんの置かれた厳しい状況を描くもので、衣装や演出ともあいまって人によっては直視が辛くさえ思えたことでしょう。ピンカートンが去った後に”カリカチュアライズされた白塗りで和装”の蝶々さん、精神状態は如何許かと心配で心配で見通すのが非常に辛いものでした。
それぞれにプッチーニの美しい音楽の魅力を存分に示しながら、それぞれの視点で作品をより切実に描くものだった、と感じました。
ではロイヤル・オペラハウスの舞台はどうだったか。モーシュ・ライザーの舞台は幕末日本を記号的な衣装やメイクを使いながらもオリエンタリズムに傾きすぎない、実に妥当で美しい舞台でした。
※もう少しあとで追記します
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月25日木曜日
読みました:辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
こんにちは。千葉です。
これも読み終わった本のご紹介です。
●辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
以下に目次を引用します。
第1章 脚本(リブレット)が先か、音楽が先か
第2章 脚本に介入するプッチーニ —《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ
第3章 検閲と闘うヴェルディ —《リゴレット》とピアーヴェ
第4章 ロマン派を予言するドニゼッティ —《愛の妙薬》とロマーニ
第5章 性別を超えるロッシーニ —《チェネレントラ》とフェッレッティ
第6章 挑発を愉しむモーツァルト —《フィガロの結婚》とダ・ポンテ
終章 こうしてオペラは始まった
時代を遡る形で、古くて新しいテーマ「音楽が先か、言葉が先か」を実作にしたがって考える一冊です。プッチーニは「マノン・レスコー」で出会ったルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザとの協力関係を、ヴェルディでは検閲との戦いを「リゴレット」を中心に、…とそれぞれに軸となる作品の例に基づいて台本と作曲の関係を探っていく一冊はなかなかにスリリングです。創作のプロセスが持つ緊張感が持つ独特の面白さは、作曲家と作家の間の往復書簡の形などで知られているところですが(高名なところではリヒャルト・シュトラウスとフーゴ・フォン・ホーフマンスタールのそれは書籍としても知られていますね)、本書は事実関係を整理してコンパクトに教えてくれます。
原作、題材の選択や、作曲との順番などの進め方、それだけでも興味深いのですが、作品を構成するテクストがどのような困難に向き合って生み出されるのか、という創作のドラマとしても面白いですし、それが時代によってどう違うものかと比較するのも興味深いものと思いますので、気になった方にはぜひご一読をお薦めしたく。
なお、モーツァルト以前となると今度はリブレッティスト優位の時代となるのですが、そのあたりの話はまた勉強したときにでも。
ではまた、ごきげんよう。
これも読み終わった本のご紹介です。
●辻昌宏『オペラは脚本(リブレット)から』
以下に目次を引用します。
第1章 脚本(リブレット)が先か、音楽が先か
第2章 脚本に介入するプッチーニ —《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ
第3章 検閲と闘うヴェルディ —《リゴレット》とピアーヴェ
第4章 ロマン派を予言するドニゼッティ —《愛の妙薬》とロマーニ
第5章 性別を超えるロッシーニ —《チェネレントラ》とフェッレッティ
第6章 挑発を愉しむモーツァルト —《フィガロの結婚》とダ・ポンテ
終章 こうしてオペラは始まった
時代を遡る形で、古くて新しいテーマ「音楽が先か、言葉が先か」を実作にしたがって考える一冊です。プッチーニは「マノン・レスコー」で出会ったルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザとの協力関係を、ヴェルディでは検閲との戦いを「リゴレット」を中心に、…とそれぞれに軸となる作品の例に基づいて台本と作曲の関係を探っていく一冊はなかなかにスリリングです。創作のプロセスが持つ緊張感が持つ独特の面白さは、作曲家と作家の間の往復書簡の形などで知られているところですが(高名なところではリヒャルト・シュトラウスとフーゴ・フォン・ホーフマンスタールのそれは書籍としても知られていますね)、本書は事実関係を整理してコンパクトに教えてくれます。
原作、題材の選択や、作曲との順番などの進め方、それだけでも興味深いのですが、作品を構成するテクストがどのような困難に向き合って生み出されるのか、という創作のドラマとしても面白いですし、それが時代によってどう違うものかと比較するのも興味深いものと思いますので、気になった方にはぜひご一読をお薦めしたく。
なお、モーツァルト以前となると今度はリブレッティスト優位の時代となるのですが、そのあたりの話はまた勉強したときにでも。
ではまた、ごきげんよう。
2017年5月14日日曜日
5/14(15)「フランクフルト歌劇場公演 歌劇『クセルクセス』」放送
こんにちは。千葉です。
放送予定のご案内、日曜深夜の人気番組「プレミアムシアター」(少し盛った)、14日深夜24時20分(15日未明0時20分)からの放送はこちら。
●フランクフルト歌劇場公演 歌劇『クセルクセス』
フランクフルト歌劇場の「クセルクセス(セルセ)」がこの日の番組です。
バロックピッチによる演奏、気になって少し調べてみると、ここのオーケストラはバロックから現代まで、幅広く対応する模様。バロックオペラを異化したスタイルで上演するのがもう長く続く”伝統”のようになっているドイツの歌劇場らしく、作品の時代に応じてやり方を変えているのかもしれません(もっともFrankfurter Opern- und Museumsorchesterという名称から読み取れるものはそう多くないのですが)。ちなみにDVDもリリースされている「リング」はこんな感じ。
…並べてもあまり察しようがないので(笑)、とりあえず先入観をもたずに視聴させていただこうと思います。以下、キャストとスタッフです。
キャスト:
セルセ(クセルクセス/ペルシャ王):ガエル・アルケス
アルサメーネ(セルセの弟):ローレンス・ザゾ
ロミルダ(アルサメーネの恋人):エリザベス・サトフェン
アマストレ (セルセの婚約者):ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー ほか
指揮:コンスタンティノス・カリディス
演出:ティルマン・ケーラー
美術:カロリ・リズ
衣装:ズザンネ・ウール
照明:ヨアヒム・クライン
管弦楽:フランクフルト・ムゼウム管弦楽団
2017年1月12、15日にフランクフルト歌劇場で上演されたものです。ではご案内はここまで。
海外のものも小さいタイムラグで放送されるようになって喜ばしいことです。
…と書いてから「往年の演奏とかはもうどこでも放送できない感じでしょうか…」とも思ってしまう私でありました。ではまた、ごきげんよう。
放送予定のご案内、日曜深夜の人気番組「プレミアムシアター」(少し盛った)、14日深夜24時20分(15日未明0時20分)からの放送はこちら。
●フランクフルト歌劇場公演 歌劇『クセルクセス』
フランクフルト歌劇場の「クセルクセス(セルセ)」がこの日の番組です。
バロックピッチによる演奏、気になって少し調べてみると、ここのオーケストラはバロックから現代まで、幅広く対応する模様。バロックオペラを異化したスタイルで上演するのがもう長く続く”伝統”のようになっているドイツの歌劇場らしく、作品の時代に応じてやり方を変えているのかもしれません(もっともFrankfurter Opern- und Museumsorchesterという名称から読み取れるものはそう多くないのですが)。ちなみにDVDもリリースされている「リング」はこんな感じ。
…並べてもあまり察しようがないので(笑)、とりあえず先入観をもたずに視聴させていただこうと思います。以下、キャストとスタッフです。
キャスト:
セルセ(クセルクセス/ペルシャ王):ガエル・アルケス
アルサメーネ(セルセの弟):ローレンス・ザゾ
ロミルダ(アルサメーネの恋人):エリザベス・サトフェン
アマストレ (セルセの婚約者):ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー ほか
指揮:コンスタンティノス・カリディス
演出:ティルマン・ケーラー
美術:カロリ・リズ
衣装:ズザンネ・ウール
照明:ヨアヒム・クライン
管弦楽:フランクフルト・ムゼウム管弦楽団
海外のものも小さいタイムラグで放送されるようになって喜ばしいことです。
…と書いてから「往年の演奏とかはもうどこでも放送できない感じでしょうか…」とも思ってしまう私でありました。ではまた、ごきげんよう。
2017年5月11日木曜日
METライブビューイング「イドメネオ」 5/12より上映
こんにちは。千葉です。
オペラの劇場上映のご案内、おなじみのMETライブビューイングの次作です。5月12日から上映が開始されるのはこちらの作品。
●METライブビューイング「イドメネオ」
>海外評1 >海外評2 >海外評3
モーツァルトの最も有名な幾つかのオペラに比べれば知名度は落ちるけれど、オペラセリアの傑作として再評価が進み近年は上演も増えている「イドメネオ」が、ジェイムズ・レヴァインの長きにわたるメト時代の集大成となります。ジャン=ピエール・ポネルの演出は今やオットー・シェンクやフランコ・ゼッフィレッリのそれと同じ、メトの歴史の一部でしょう。
オペラの劇場上映のご案内、おなじみのMETライブビューイングの次作です。5月12日から上映が開始されるのはこちらの作品。
●METライブビューイング「イドメネオ」
>海外評1 >海外評2 >海外評3
モーツァルトの最も有名な幾つかのオペラに比べれば知名度は落ちるけれど、オペラセリアの傑作として再評価が進み近年は上演も増えている「イドメネオ」が、ジェイムズ・レヴァインの長きにわたるメト時代の集大成となります。ジャン=ピエール・ポネルの演出は今やオットー・シェンクやフランコ・ゼッフィレッリのそれと同じ、メトの歴史の一部でしょう。
ギリシャ神話の時代、トロイア戦争後の物語はモーツァルトの生涯に大きく影響した父子ものでもありますので、この機会にぜひ、と申し上げておきますね。
ではまた、ごきげんよう。
ではまた、ごきげんよう。
2017年4月16日日曜日
4/16(17)「笈田ヨシ演出 歌劇『蝶々夫人』/ロサンゼルス・オペラ ウディ・アレン演出 歌劇『ジャンニ・スキッキ』」放送
こんにちは。千葉です。
放送予定のご案内ですよ。4月最初のNHK BSプレミアムシアターは、プッチーニのオペラを二本立て。放送時間は4月16日(日)※ 24:00からです。
※放送局としては17日(月)表記が優先の模様ですが、私としてはまだ眠ってない時間なものですみません。
●笈田ヨシ演出 歌劇『蝶々夫人』/ロサンゼルス・オペラ ウディ・アレン演出 歌劇『ジャンニ・スキッキ』
前半は既に高崎での公演レポートをお届けし、巡演終了後の講演会もご案内した笈田ヨシ演出による「蝶々夫人」の最終公演、東京芸術劇場での2月19日公演の模様が放送されます。16日も日程に入っているのは、おそらくゲネプロも収録していて部分的に編集している、ということでしょうね。楽しみです、あの舞台を皆さまがどう見られるのか。
公演データは以下のとおりです。
指揮:ミヒャエル・バルケ
演出:笈田ヨシ
舞台美術:トム・シェンク
衣装:アントワーヌ・クルック
照明:ルッツ・デッペ
合唱:東京音楽大学
管弦楽:読売日本交響楽団
キャスト:
蝶々夫人:中嶋彰子
スズキ:鳥木弥生
ピンカートン:ロレンツォ・デカーロ
シャープレス:ピーター・サヴィッジ ほか
後半は、ドミンゴの変貌ぶり(笑)が楽しい「ジャンニ・スキッキ」です。再放送なので詳しくは書きませんが、英雄的なテノールを降りたプラシド・ドミンゴという人の魅力が満載ですし、なにより演出はウディ・アレンですので。お楽しみに。
プッチーニの傾向の違う二作、どちらも楽しめることうけあいです。ぜひご覧くださいませ。
ということでご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
放送予定のご案内ですよ。4月最初のNHK BSプレミアムシアターは、プッチーニのオペラを二本立て。放送時間は4月16日(日)※ 24:00からです。
※放送局としては17日(月)表記が優先の模様ですが、私としてはまだ眠ってない時間なものですみません。
●笈田ヨシ演出 歌劇『蝶々夫人』/ロサンゼルス・オペラ ウディ・アレン演出 歌劇『ジャンニ・スキッキ』
前半は既に高崎での公演レポートをお届けし、巡演終了後の講演会もご案内した笈田ヨシ演出による「蝶々夫人」の最終公演、東京芸術劇場での2月19日公演の模様が放送されます。16日も日程に入っているのは、おそらくゲネプロも収録していて部分的に編集している、ということでしょうね。楽しみです、あの舞台を皆さまがどう見られるのか。
公演データは以下のとおりです。
指揮:ミヒャエル・バルケ
演出:笈田ヨシ
舞台美術:トム・シェンク
衣装:アントワーヌ・クルック
照明:ルッツ・デッペ
管弦楽:読売日本交響楽団
蝶々夫人:中嶋彰子
スズキ:鳥木弥生
ピンカートン:ロレンツォ・デカーロ
シャープレス:ピーター・サヴィッジ ほか
後半は、ドミンゴの変貌ぶり(笑)が楽しい「ジャンニ・スキッキ」です。再放送なので詳しくは書きませんが、英雄的なテノールを降りたプラシド・ドミンゴという人の魅力が満載ですし、なにより演出はウディ・アレンですので。お楽しみに。
プッチーニの傾向の違う二作、どちらも楽しめることうけあいです。ぜひご覧くださいませ。
ということでご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。
2017年4月11日火曜日
METライブビューイング「椿姫」
こんにちは。千葉です。
毎度おなじみオペラの劇場上映のご案内です。
●METライブビューイング 「椿姫」
4月8日からの上映ですが、詳しくはリンク先にてご確認くださいませ。
この舞台は見覚えのある方も多いでしょう、ヴィリー・デッカーの演出はザルツブルクでも上演されて、ネトレプコとヴィリャゾンのコンビで収録もされていますね。それに、METでの上演も2010年からなのでここの舞台でもご覧になられた方もいらっしゃるでしょう。
今回のキャストはヴィオレッタにソニア・ヨンチェヴァ、アルフレードにマイケル・ファビアーノ、ジェルモンにトーマス・ハンプソンほか。この三人について、私は「歌が上手いやつが正しい、歌が下手なやつのせいでこんなことになった」という酷い評価の仕方で見てしまうのですが、果たして今回の悪役は誰になるでしょうか(笑)。
そして指揮は二コラ・ルイゾッティ、東京交響楽団の客演指揮者としても活躍してくれた彼が大舞台に登場です。
>海外評1 >海外評2 >海外評3
****************
さて拝見しましたMETの「椿姫」。
ヴィリー・デッカーの演出はとにかく三人の心理に迫るもの、他の社会的要素はあくまでも環境、背景にすぎないものとして類型化、記号化されて示されます。有名な、あまりにも有名な作品でしかもヴィオレッタとジェルモン親子さえ描ければ十分にドラマが成立する作品だからできる力技ではありますが、これはこれで説得的です。
その力技を成立させるために舞台に持ち込まれた数少ない大道具の時計はヴィオレッタに残された時間を否応なく意識させるもの(だから第三幕のカーニヴァルの群衆とともに持ち去られ、彼女にいつ終わりが訪れても仕方のない状態であることがわかる)。もう一つ、これを大道具扱いは申し訳ないところだけれど、第一幕から黙役として姿を見せるグランヴィル医師はその容姿をヴェルディに似せることで、メタ的な構図を持たせられているように感じました(ちょっとお髭は少ないけど)。ヴィオレッタがこの作品の結末を知る彼に懇願し、ときにその”物語”を覆せたかのように喜ぶ姿により哀しみが増したように思います。造物主に挑む被造物の物語とも、もしくはヴェルディのライフワークであった「リア王」的父娘関係のヴァリエーションのようにも感じられる仕掛けは、よく知られた作品を新鮮に見せてくれるものでした。なるほど、2005年のザルツブルク初演以来各地で繰り返し上演されるわけです。そうそう、第一幕で休憩を入れてそのあとは続けて上演することで、「蝶々夫人」にも似た構成として、後半の悲劇にどんどんと感情的に巻き込んでいく仕掛けは歌い手には大変でしょうけれど、上手く行っていると思います。
…もっとも、フローラやドビニー、ガストーネあたりの役どころがその他大勢に埋没するのは、キャスティングされた皆さんには悪夢なんじゃないかなあ、って思ったことは書いておきますね(笑)。
さて注目のメインキャスト三人の出来についてです。やはりソニア・ヨンチェヴァのヴィオレッタがオペラを駆動し、ドラマをより深く示してくれたのは素晴らしかった。精一杯に生きて、そして死んでいくヴィオレッタの美しさは心に残るものです。そしてなにより多くを求められるこの役でありながら歌に不安がなく、強い声を最後まで維持してくれたので、必要以上に哀れっぽくなってしまわなかったのは特筆ものでしょう。ヨンチェヴァの実演に触れられる機会がありますように。
ジェルモン家の男二人については、それぞれに良し悪しがでたかな、という印象です。アルフレードのマイケル・ファビアーノは、甘く愛を歌うところで旋律線が崩れるのが気になる。旋律が歌い崩されることでこの舞台のアルフレードの性格を少々悪漢に寄せた、とかそういうことではなさそうでしたので、ちょっとそこはどうかな、と(ルックスや振舞いがどこか洋ドラに出てくるタイプの悪い子っぽいから、そういう味付けでもよかったのに、とか思わなくもない)。ジェルモンのトーマス・ハンプソンは、ちょっと調子が悪かったでしょうか、声が軽く響いてしまったのが惜しまれます。容姿と演技は文句なしなのですけれど。
そして特筆すべきは指揮のニコラ・ルイゾッティの充実でしょう。東京交響楽団の客演指揮者だった彼もサンフランシスコ・オペラの音楽監督として充実した活動をしているのでしょう、随所で雄弁な表情を示すオーケストラに感心させられました。耳慣れない響きもちょっとしたデフォルメもドラマをより深め、それでいて不自然に感じられることがないのはお見事です。また客演してくれませんかね、彼。シンフォニーの領分でもお聴きしてみたくなりました。
そんなわけで、この舞台は水準以上の「椿姫」としてオススメできるものでした。都合のつく方はぜひ劇場でご覧くださいませ。
ではまた、ごきげんよう。
毎度おなじみオペラの劇場上映のご案内です。
●METライブビューイング 「椿姫」
4月8日からの上映ですが、詳しくはリンク先にてご確認くださいませ。
この舞台は見覚えのある方も多いでしょう、ヴィリー・デッカーの演出はザルツブルクでも上演されて、ネトレプコとヴィリャゾンのコンビで収録もされていますね。それに、METでの上演も2010年からなのでここの舞台でもご覧になられた方もいらっしゃるでしょう。
今回のキャストはヴィオレッタにソニア・ヨンチェヴァ、アルフレードにマイケル・ファビアーノ、ジェルモンにトーマス・ハンプソンほか。この三人について、私は「歌が上手いやつが正しい、歌が下手なやつのせいでこんなことになった」という酷い評価の仕方で見てしまうのですが、果たして今回の悪役は誰になるでしょうか(笑)。
>海外評1 >海外評2 >海外評3
****************
さて拝見しましたMETの「椿姫」。
ヴィリー・デッカーの演出はとにかく三人の心理に迫るもの、他の社会的要素はあくまでも環境、背景にすぎないものとして類型化、記号化されて示されます。有名な、あまりにも有名な作品でしかもヴィオレッタとジェルモン親子さえ描ければ十分にドラマが成立する作品だからできる力技ではありますが、これはこれで説得的です。
その力技を成立させるために舞台に持ち込まれた数少ない大道具の時計はヴィオレッタに残された時間を否応なく意識させるもの(だから第三幕のカーニヴァルの群衆とともに持ち去られ、彼女にいつ終わりが訪れても仕方のない状態であることがわかる)。もう一つ、これを大道具扱いは申し訳ないところだけれど、第一幕から黙役として姿を見せるグランヴィル医師はその容姿をヴェルディに似せることで、メタ的な構図を持たせられているように感じました(ちょっとお髭は少ないけど)。ヴィオレッタがこの作品の結末を知る彼に懇願し、ときにその”物語”を覆せたかのように喜ぶ姿により哀しみが増したように思います。造物主に挑む被造物の物語とも、もしくはヴェルディのライフワークであった「リア王」的父娘関係のヴァリエーションのようにも感じられる仕掛けは、よく知られた作品を新鮮に見せてくれるものでした。なるほど、2005年のザルツブルク初演以来各地で繰り返し上演されるわけです。そうそう、第一幕で休憩を入れてそのあとは続けて上演することで、「蝶々夫人」にも似た構成として、後半の悲劇にどんどんと感情的に巻き込んでいく仕掛けは歌い手には大変でしょうけれど、上手く行っていると思います。
…もっとも、フローラやドビニー、ガストーネあたりの役どころがその他大勢に埋没するのは、キャスティングされた皆さんには悪夢なんじゃないかなあ、って思ったことは書いておきますね(笑)。
さて注目のメインキャスト三人の出来についてです。やはりソニア・ヨンチェヴァのヴィオレッタがオペラを駆動し、ドラマをより深く示してくれたのは素晴らしかった。精一杯に生きて、そして死んでいくヴィオレッタの美しさは心に残るものです。そしてなにより多くを求められるこの役でありながら歌に不安がなく、強い声を最後まで維持してくれたので、必要以上に哀れっぽくなってしまわなかったのは特筆ものでしょう。ヨンチェヴァの実演に触れられる機会がありますように。
ジェルモン家の男二人については、それぞれに良し悪しがでたかな、という印象です。アルフレードのマイケル・ファビアーノは、甘く愛を歌うところで旋律線が崩れるのが気になる。旋律が歌い崩されることでこの舞台のアルフレードの性格を少々悪漢に寄せた、とかそういうことではなさそうでしたので、ちょっとそこはどうかな、と(ルックスや振舞いがどこか洋ドラに出てくるタイプの悪い子っぽいから、そういう味付けでもよかったのに、とか思わなくもない)。ジェルモンのトーマス・ハンプソンは、ちょっと調子が悪かったでしょうか、声が軽く響いてしまったのが惜しまれます。容姿と演技は文句なしなのですけれど。
そして特筆すべきは指揮のニコラ・ルイゾッティの充実でしょう。東京交響楽団の客演指揮者だった彼もサンフランシスコ・オペラの音楽監督として充実した活動をしているのでしょう、随所で雄弁な表情を示すオーケストラに感心させられました。耳慣れない響きもちょっとしたデフォルメもドラマをより深め、それでいて不自然に感じられることがないのはお見事です。また客演してくれませんかね、彼。シンフォニーの領分でもお聴きしてみたくなりました。
そんなわけで、この舞台は水準以上の「椿姫」としてオススメできるものでした。都合のつく方はぜひ劇場でご覧くださいませ。
ではまた、ごきげんよう。
2017年4月7日金曜日
鈴木優人&BCJ、森麻季、小林沙羅他による「ポッペアの戴冠」開催決定
こんにちは。千葉です。
注目公演の情報、第一報ですが「これは!」と思いましてご紹介。
※公演詳細、チケット販売情報など確定しましたので以下大幅に改稿しました。
●モンテヴェルディ作曲 歌劇「ポッペアの戴冠」
演奏会形式/アラン・カーティス版全三幕/イタリア語上演・日本語字幕付
東京:2017年11月23日(木・祝) 会場:東京オペラシティ コンサートホール
横浜:2017年11月25日(土) 会場:神奈川県立音楽堂
両日とも16:00開演
指揮:鈴木優人
管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
舞台構成:田尾下哲
キャスト:
ポッペア:森麻季
ネローネ:レイチェル・ニコルズ
オットーネ:クリント・ファン・デア・リンデ
オッターヴィア:波多野睦美
フォルトゥナ/ドゥルジッラ:森谷真理
アモーレ:小林沙羅
アルナルタ/乳母:藤木大地
ルカーノ:櫻田亮
セネカ:ディングル・ヤンデル
メルクーリオ:加耒徹
ダミジェッラ:松井亜希
パッラーデ:清水梢
兵士II:谷口洋介
2009年に新国立劇場 中劇場で鈴木雅明の指揮のもと上演したモンテヴェルディ後期の大作「ポッペアの戴冠」を、今度は鈴木優人が取り上げるわけですね。近年世俗作品にも積極的に取り組んでいる印象の強いバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は注目です。
****************
楽譜の書法の関係で、この作品はまずどのようにリアライゼーションするかがポイントになりますけれど、今回はチェンバリスト、指揮者として活躍したアラン・カーティス版(1989)を採用とのことです。
1993年のルネ・ヤーコプスによるプロダクションの抜粋です。短いですが、音のイメージだけでも感じていただければ。
チケットの一般発売は東京公演が4月22日(土)、横浜公演が6月3日(土)とのことです。
以上ご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
注目公演の情報、第一報ですが「これは!」と思いましてご紹介。
※公演詳細、チケット販売情報など確定しましたので以下大幅に改稿しました。
●モンテヴェルディ作曲 歌劇「ポッペアの戴冠」
演奏会形式/アラン・カーティス版全三幕/イタリア語上演・日本語字幕付
東京:2017年11月23日(木・祝) 会場:東京オペラシティ コンサートホール
横浜:2017年11月25日(土) 会場:神奈川県立音楽堂
両日とも16:00開演
指揮:鈴木優人
管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
舞台構成:田尾下哲
キャスト:
ポッペア:森麻季
ネローネ:レイチェル・ニコルズ
オットーネ:クリント・ファン・デア・リンデ
オッターヴィア:波多野睦美
フォルトゥナ/ドゥルジッラ:森谷真理
アモーレ:小林沙羅
アルナルタ/乳母:藤木大地
ルカーノ:櫻田亮
セネカ:ディングル・ヤンデル
メルクーリオ:加耒徹
ダミジェッラ:松井亜希
パッラーデ:清水梢
兵士II:谷口洋介
2009年に新国立劇場 中劇場で鈴木雅明の指揮のもと上演したモンテヴェルディ後期の大作「ポッペアの戴冠」を、今度は鈴木優人が取り上げるわけですね。近年世俗作品にも積極的に取り組んでいる印象の強いバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は注目です。
****************
楽譜の書法の関係で、この作品はまずどのようにリアライゼーションするかがポイントになりますけれど、今回はチェンバリスト、指揮者として活躍したアラン・カーティス版(1989)を採用とのことです。
1993年のルネ・ヤーコプスによるプロダクションの抜粋です。短いですが、音のイメージだけでも感じていただければ。
チケットの一般発売は東京公演が4月22日(土)、横浜公演が6月3日(土)とのことです。
以上ご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
2017年4月3日月曜日
書きました:オペラ「眠れる美女」レビュー
こんにちは。千葉です。
寄稿した記事の紹介です。
●川端康成のオブセッションを共有。視覚、聴覚を常に刺激してくる舞台―――オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」
昨年12月に行われた公演のレヴューを、遅まきながらお出しできました。書くべきことは書いたと思いますので、できましたら記事をお読みいただけましたら幸いです。…せめて写真だけでも!
なお、それだけでは取っ掛かりがなさすぎる、と思われる方はまずこちらの、作曲のクリス・デフォートがアップした初演版の抜粋をご覧いただけましたら、と思います。
川端康成の原作以外にはこれしか手がかりがない中で、できることはさせていただいた公演でした。記事にも書きましたが、叶うならば再演も期待したく思う刺激的な舞台でしたけれど、この演目は難しいということならばLODのプロダクションでもいいので見てみたいです。…こういうつきっぱなし系の、説明ではなく表現で満たされた舞台はなかなか難しいところがある、というのは理解しているのですけれど。
ともあれ、よろしければ記事をご覧くださいませ、というお願いでした。
ではまた、ごきげんよう。
寄稿した記事の紹介です。
●川端康成のオブセッションを共有。視覚、聴覚を常に刺激してくる舞台―――オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」
昨年12月に行われた公演のレヴューを、遅まきながらお出しできました。書くべきことは書いたと思いますので、できましたら記事をお読みいただけましたら幸いです。…せめて写真だけでも!
なお、それだけでは取っ掛かりがなさすぎる、と思われる方はまずこちらの、作曲のクリス・デフォートがアップした初演版の抜粋をご覧いただけましたら、と思います。
川端康成の原作以外にはこれしか手がかりがない中で、できることはさせていただいた公演でした。記事にも書きましたが、叶うならば再演も期待したく思う刺激的な舞台でしたけれど、この演目は難しいということならばLODのプロダクションでもいいので見てみたいです。…こういうつきっぱなし系の、説明ではなく表現で満たされた舞台はなかなか難しいところがある、というのは理解しているのですけれど。
ともあれ、よろしければ記事をご覧くださいませ、というお願いでした。
ではまた、ごきげんよう。
2017年3月29日水曜日
東京・春・音楽祭「神々の黄昏」出演者変更
こんにちは。千葉です。
出演者変更は、起きてほしくはないけれど、人間の事ゆえ残念ながら起きうることでございます。であればそのすべてを追うことも難しく、私が個人で情報を集めるのも困難ですが、この春注目の音楽祭の、目玉公演でございます故ここにご案内します。
●東京春祭ワーグナー・シリーズvol.8《神々の黄昏》出演者変更のお知らせ
ここで告知のあった変更により、4月1日、4日に上演される東京・春・音楽祭の「神々の黄昏」は以下の布陣となりました。
指揮:マレク・ヤノフスキ
管弦楽:NHK交響楽団
ゲストコンサートマスター:ライナー・キュッヒル
合唱:東京オペラシンガーズ(合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀)
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
キャスト:
ジークフリート:アーノルド・ベズイエン ※ロバート・ディーン・スミスから変更されました
グンター:マルクス・アイヒェ
ハーゲン:アイン・アンガー
アルベリヒ:トマス・コニエチュニー
ブリュンヒルデ:レベッカ・ティーム(4月1日)/クリスティアーネ・リボール(4月4日) ※両日ともクリスティアーネ・リボールの予定でした
グートルーネ:レジーネ・ハングラー
ヴァルトラウテ:エリーザベト・クールマン
第1のノルン:金子美香
第2のノルン: 秋本悠希
第3のノルン:藤谷佳奈枝
ヴォークリンデ:小川里美
ヴェルグンデ:秋本悠希
フロースヒルデ:金子美香
映像:田尾下哲
メインキャストの変更は残念ではありますが、チクルス最終年度として熱のこもったリハーサルが日々続いている旨、東京・春・音楽祭は発信しています。ワーグナーシリーズの他にも数多くの公演が連日開催されている”上野の音楽祭”、絶賛開催中です。詳しいスケジュールはリンク先でご覧くださいませ。
以上ご案内のみにて。ではまた、ごきげんよう。
出演者変更は、起きてほしくはないけれど、人間の事ゆえ残念ながら起きうることでございます。であればそのすべてを追うことも難しく、私が個人で情報を集めるのも困難ですが、この春注目の音楽祭の、目玉公演でございます故ここにご案内します。
●東京春祭ワーグナー・シリーズvol.8《神々の黄昏》出演者変更のお知らせ
ここで告知のあった変更により、4月1日、4日に上演される東京・春・音楽祭の「神々の黄昏」は以下の布陣となりました。
指揮:マレク・ヤノフスキ
管弦楽:NHK交響楽団
ゲストコンサートマスター:ライナー・キュッヒル
合唱:東京オペラシンガーズ(合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀)
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
キャスト:
ジークフリート:アーノルド・ベズイエン ※ロバート・ディーン・スミスから変更されました
グンター:マルクス・アイヒェ
ハーゲン:アイン・アンガー
アルベリヒ:トマス・コニエチュニー
ブリュンヒルデ:レベッカ・ティーム(4月1日)/クリスティアーネ・リボール(4月4日) ※両日ともクリスティアーネ・リボールの予定でした
グートルーネ:レジーネ・ハングラー
ヴァルトラウテ:エリーザベト・クールマン
第1のノルン:金子美香
第2のノルン: 秋本悠希
第3のノルン:藤谷佳奈枝
ヴォークリンデ:小川里美
ヴェルグンデ:秋本悠希
フロースヒルデ:金子美香
映像:田尾下哲
メインキャストの変更は残念ではありますが、チクルス最終年度として熱のこもったリハーサルが日々続いている旨、東京・春・音楽祭は発信しています。ワーグナーシリーズの他にも数多くの公演が連日開催されている”上野の音楽祭”、絶賛開催中です。詳しいスケジュールはリンク先でご覧くださいませ。
以上ご案内のみにて。ではまた、ごきげんよう。
2017年3月17日金曜日
速報! パーヴォ・ヤルヴィ指揮|モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》日程決定
こんにちは。千葉です。公演情報のお知らせです。
●速報! パーヴォ・ヤルヴィ指揮|モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》日程決定
昨年もいろいろな作品が近い時期で重なったことで知られるパーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団。いえ、演目が重なるのは誰も狙っているわけではないんです(笑)、それぞれに面白い企画を!と考えた結果なのです。昨年のマーラーの第八番も、今年の「ドン・ジョヴァンニ」も!(笑)
であれば、私の如きはそれをより楽しめる状況にするためにほんの少しばかりも貢献したく思うわけです。これからもこういう状況に際しては紹介を心がけますので、ぜひという方は情報提供くださいませ。
さて、現在公式に発表されている日程は9月11日(月) 14:00開演の横浜みなとみらいホールでの公演のみ。なんでも未発表だけれどキャスト情報から他日公演もありそう、なんて情報もありますがそのあたりは公式発表を待ってこの記事を更新します。
※追記。NHK音楽祭公演での上演が発表されました。9月9日(土) 15時開演とのこと。この音楽祭なら放送も期待できるでしょうけれど、他の公演も錚々たる面々が揃っていますので、これはセットで買っちゃうのが正解かも、です。私は買えないけどね!
なおキャストは以下の面々です。
ドン・ジョヴァンニ:ヴィート・プリアンテ
騎士長:アレクサンドル・ツィムバリュク
ドンナ・アンナ:ジョージア・ジャーマン
ドン・オッターヴィオ:ベルナール・リヒター
ドンナ・エルヴィーラ:アネット・フリッチュ
レポレッロ:カイル・ケテルセン
マゼット:久保和範
ツェルリーナ:三宅理恵
合唱:東京オペラシンガーズ
****************
なお、先日キャストの発表があったノット&東響@ミューザ川崎シンフォニーホールの「ドン・ジョヴァンニ」は12月10日(日)。昨年は日程がデュトワ指揮N響の「カルメン」と完全にかぶり、今年は演目がかぶるという謎の因縁を感じます(笑)。パーヴォ・ヤルヴィはあまりオペラの印象がないマエストロですが、リリースによれば今年の5月からミラノ・スカラ座で指揮をされるとか、”先攻”となる彼らの演奏にまずは期待しましょう。
ではひとまずはこれにて、ごきげんよう。
※追記。ミラノ・スカラ座での「ドン・ジョヴァンニ」、トレイラーが出ております。日本での上演は演奏会形式ですがご参考にぜひ。
●速報! パーヴォ・ヤルヴィ指揮|モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》日程決定
昨年もいろいろな作品が近い時期で重なったことで知られるパーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団。いえ、演目が重なるのは誰も狙っているわけではないんです(笑)、それぞれに面白い企画を!と考えた結果なのです。昨年のマーラーの第八番も、今年の「ドン・ジョヴァンニ」も!(笑)
であれば、私の如きはそれをより楽しめる状況にするためにほんの少しばかりも貢献したく思うわけです。これからもこういう状況に際しては紹介を心がけますので、ぜひという方は情報提供くださいませ。
さて、現在公式に発表されている日程は9月11日(月) 14:00開演の横浜みなとみらいホールでの公演のみ。なんでも未発表だけれどキャスト情報から他日公演もありそう、なんて情報もありますがそのあたりは公式発表を待ってこの記事を更新します。
※追記。NHK音楽祭公演での上演が発表されました。9月9日(土) 15時開演とのこと。この音楽祭なら放送も期待できるでしょうけれど、他の公演も錚々たる面々が揃っていますので、これはセットで買っちゃうのが正解かも、です。私は買えないけどね!
なおキャストは以下の面々です。
ドン・ジョヴァンニ:ヴィート・プリアンテ
騎士長:アレクサンドル・ツィムバリュク
ドンナ・アンナ:ジョージア・ジャーマン
ドン・オッターヴィオ:ベルナール・リヒター
ドンナ・エルヴィーラ:アネット・フリッチュ
レポレッロ:カイル・ケテルセン
マゼット:久保和範
ツェルリーナ:三宅理恵
合唱:東京オペラシンガーズ
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なお、先日キャストの発表があったノット&東響@ミューザ川崎シンフォニーホールの「ドン・ジョヴァンニ」は12月10日(日)。昨年は日程がデュトワ指揮N響の「カルメン」と完全にかぶり、今年は演目がかぶるという謎の因縁を感じます(笑)。パーヴォ・ヤルヴィはあまりオペラの印象がないマエストロですが、リリースによれば今年の5月からミラノ・スカラ座で指揮をされるとか、”先攻”となる彼らの演奏にまずは期待しましょう。
ではひとまずはこれにて、ごきげんよう。
※追記。ミラノ・スカラ座での「ドン・ジョヴァンニ」、トレイラーが出ております。日本での上演は演奏会形式ですがご参考にぜひ。
バイエルン国立歌劇場「アンドレア・シェニエ」配信
こんにちは。千葉です。
ライヴ配信のご案内をひとつ。
●バイエルン国立歌劇場「アンドレア・シェニエ」
配信日:3月19日(日)19:00~(公演日:3月18日)
演出:フィリップ・シュテルツェル(新演出)
指揮:オメール・メイア・ヴェルバー
合唱・管弦楽:バイエルン国立歌劇場
キャスト:
アンドレア・シェニエ:ヨナス・カウフマン
マッダレーナ:アニヤ・ハルテロス
カルロ・ジェラール:ルカ・サルシ
ベルシ:ジェイナイ・ブリッジズ
コワニー伯爵夫人:ドリス・ゾッフェル
マデロン:エレナ・ジーリョ
ルーシェ:アンドレア・ボルギーニ 他
3月12日にプレミエを迎えたばかりのプロダクションが公式に配信されます。某Tubeとか漁って見つけてしまうより、こういう配信のほうがありがたいですよね(割と切実)。ただし、オンデマンド配信ではなくライヴ配信、たとえで言うなら"YouTubeじゃなくてabemaTV"なので、3月19日の19時からこちらのサイトにアクセスする必要があります(それまではこのページは何も表示されません)。
※ウチだけかもしれないんですが、Google Chromeだと映像部分が表示されないので仕方なくMicrosoft Edgeを起動してなんとか見ました。Chromeユーザの皆さまはこの先もちょっと意識しておかれると、私のように冒頭数分欠けで見るなんて、悲しい目には逢わないで済むでしょう…
「アンドレア・シェニエ」は昨年4月に新国立劇場で上演されており、その舞台稽古を取材した際に書いた記事で作品の話をしていますので、興味のある方はそちらもご参照ください。この作品を上演する際に直面させられる「フランス革命をめぐる物語をどのように演出するか」という問いについては、こちらの動画で演出家が話をしています(英語字幕あり)。
何処かで見たようなジョーカーさんがいたりしますが、基本的にセットの分割で社会階層を示すタイプの舞台とお見受けしました。第一幕におけるそのまま上下関係を示す舞台はダイレクトにこの作品の本質を示すものではないかと愚考しますよ。
この秋の来日が予定されているバイエルン国立歌劇場の配信で、指揮が”彼”でないのは残念だけれど(正直)、カウフマンとハルテロスの現代の黄金コンビによる「アンドレア・シェニエ」、一見一聴の価値あると思います。如何でしょう、日曜夜のお楽しみに。
ということで配信のご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
ライヴ配信のご案内をひとつ。
●バイエルン国立歌劇場「アンドレア・シェニエ」
配信日:3月19日(日)19:00~(公演日:3月18日)
演出:フィリップ・シュテルツェル(新演出)
指揮:オメール・メイア・ヴェルバー
合唱・管弦楽:バイエルン国立歌劇場
キャスト:
アンドレア・シェニエ:ヨナス・カウフマン
マッダレーナ:アニヤ・ハルテロス
カルロ・ジェラール:ルカ・サルシ
ベルシ:ジェイナイ・ブリッジズ
コワニー伯爵夫人:ドリス・ゾッフェル
マデロン:エレナ・ジーリョ
ルーシェ:アンドレア・ボルギーニ 他
3月12日にプレミエを迎えたばかりのプロダクションが公式に配信されます。某Tubeとか漁って見つけてしまうより、こういう配信のほうがありがたいですよね(割と切実)。ただし、オンデマンド配信ではなくライヴ配信、たとえで言うなら"YouTubeじゃなくてabemaTV"なので、3月19日の19時からこちらのサイトにアクセスする必要があります(それまではこのページは何も表示されません)。
※ウチだけかもしれないんですが、Google Chromeだと映像部分が表示されないので仕方なくMicrosoft Edgeを起動してなんとか見ました。Chromeユーザの皆さまはこの先もちょっと意識しておかれると、私のように冒頭数分欠けで見るなんて、悲しい目には逢わないで済むでしょう…
「アンドレア・シェニエ」は昨年4月に新国立劇場で上演されており、その舞台稽古を取材した際に書いた記事で作品の話をしていますので、興味のある方はそちらもご参照ください。この作品を上演する際に直面させられる「フランス革命をめぐる物語をどのように演出するか」という問いについては、こちらの動画で演出家が話をしています(英語字幕あり)。
何処かで見たようなジョーカーさんがいたりしますが、基本的にセットの分割で社会階層を示すタイプの舞台とお見受けしました。第一幕におけるそのまま上下関係を示す舞台はダイレクトにこの作品の本質を示すものではないかと愚考しますよ。
この秋の来日が予定されているバイエルン国立歌劇場の配信で、指揮が”彼”でないのは残念だけれど(正直)、カウフマンとハルテロスの現代の黄金コンビによる「アンドレア・シェニエ」、一見一聴の価値あると思います。如何でしょう、日曜夜のお楽しみに。
ということで配信のご案内でした。ではまた、ごきげんよう。
2017年3月14日火曜日
METライブビューイング「ルサルカ」
こんにちは。千葉です。
恒例の劇場上映オペラの新作情報です。上映は3月18日(土)からです。
●METライブビューイング「ルサルカ」
今をときめいていらっしゃるマエストロのパートナーでもあるクリスティーヌ・オポライスがタイトルロールを務めるドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」の新演出がMETライブビューイングの次作です。すでに25日には現地での公演が行われていますので、海外評もで始めています。
>海外評1 >海外評2 >海外評3
(今回は伺えませんでしたので、コメントなしです。すみません)
現時点では以上。ではまた、ごきげんよう。
恒例の劇場上映オペラの新作情報です。上映は3月18日(土)からです。
●METライブビューイング「ルサルカ」
今をときめいていらっしゃるマエストロのパートナーでもあるクリスティーヌ・オポライスがタイトルロールを務めるドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」の新演出がMETライブビューイングの次作です。すでに25日には現地での公演が行われていますので、海外評もで始めています。
>海外評1 >海外評2 >海外評3
(今回は伺えませんでしたので、コメントなしです。すみません)
現時点では以上。ではまた、ごきげんよう。
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