2019年11月22日金曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第112回/モーツァルトマチネ 第38回

●東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第112回モーツァルトマチネ 第38回

2019年11月
  23日(土・祝) 14:00開演 会場:東京オペラシティ コンサートホール
  24日(日) 11:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
オーボエ:荒絵理子
管弦楽:東京交響楽団

リゲティ:メロディーエン ※23日のみ
R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調 AV.144
モーツァルト:交響曲第四一番 ハ長調 K.551 「ジュピター」

ノット&東響のモーツァルト、といえばまず思い出されるのはあのダ・ポンテ・オペラだろうか。あれほどのモーツァルトを経験できたことは実に幸福なことで「生涯の記憶になった」と言ってしまっても全く過言ではない。自由自在でちょっとしたフレーズからもドラマが立ち上がるモーツァルトは、スダーン時代の古楽寄りのアプローチから大きく飛躍した演奏で、即興性とドラマの両立、そして何よりそのスリリングな美しさは特筆ものであった。
そしてノット&東響の古典は演奏といえば、この夏に披露されたベートーヴェンの第一番を思い出さないわけにはいかない。作曲家への、作品へのイメージを覆してくれたあのスリリングな体験を、今度はモーツァルトで!しかもK.551!!と、いくら期待したって期待しすぎということはないだろう。

そしてそのモーツァルトへ、第二次世界大戦を経て”回帰”したシュトラウスによる古典的なオーボエ協奏曲は、同時代の「新古典主義」との落差についいろいろと考えてしまうところがある。だがしかし、古典派の作品や彼のオペラを想わせるその音楽はどこまでも美しく、作曲の経緯や時代、作曲者の思いからは少し離れて音楽に身を委ねたい気持ちもある。さてノット監督はどちらの方向からこの作品を聴かせてくれることだろう(全く違う方向かもしれない、と思わせるのが昨今のノット&東響のスリリングなところである)。
独奏は東響が誇る首席奏者、荒絵理子だ。先日の定期、あのマーラーでも存在感を示した彼女の、また違った音楽性を堪能しようではないか。

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そして23日のオペラシティ公演でのみ演奏されるリゲティだが、今年の7月にノット&東響が披露した作品群よりは小さい作品だ。1960年代の「2001年」で使われた作品群や、1980年代の高度に複雑化された作品群とはまた違う、旋律的なリゲティ・サウンドが私たちの耳を鋭敏にしてくれることだろう。








Play Back!フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 東京交響楽団 オープニングコンサート

もはや2019年回顧の季節が近づいてからですみません。ようやくお出しできるようになりました。これから続々お出しします。

●フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 東京交響楽団 オープニングコンサート

2019年7月27日(土) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:タマラ・ステファノヴィッチ
管弦楽:東京交響楽団

バリー・グレイ:「ザ・ベスト・オブ・サンダーバード」〜ジョナサン・ノット スペシャル・セレクション(オリジナル・サウンドトラックより)
リゲティ:ピアノ協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第一番 ハ長調 Op.21

「酷暑の夏を過ごすなら、空調が十分に効いたコンサートホールで」というのは半分冗談で言ってきたことなのだけれど、灼熱の七月も下旬までくればもう冗談にもならなくなってきた、フェスタサマーミューザの開幕はそんな時期だった。
私個人で言えば、先週の凄絶な演奏会を経たから、ようやくお祭りの開幕を喜べる。先の長い話に思いは残るけれど、まずは目の前のフェスタに向き合おう。そう切り替えて開幕公演へと向かった私である。

この数年の恒例となりつつあるノット&東響による開幕公演は、例によってというべきか独特ながら魅力的な作品が並ぶプログラムだが、その読み解きについては予告として書かせてもらったのでここでは割愛。編成は一曲目に演奏された「サンダーバード」がこの日では一番大きく、変則の16型だった。当然ながら、コントラバスが下手に来る対向(両翼)配置だ。

いろいろと注目を集めた「サンダーバード」について、リハーサルが始まった段階でオーケストラがこんな投稿をしていて、はてどんな編成かと思っていた。



オーケストラが入場して着席して得心する、ダブルリード・セクションがそのままサクソフォンで代用されているのである。この編成、聴いてみればなるほど、スタジオのバンドに求められる多彩な音色を表現出来て、加えてクラシカルにポピュラーにと、多様なジャンルに対応できる経済的というか効率のいい編成なのだった。
だがこの曲の演奏についてまず触れなければいけないのは、かつて見たことのないレヴェルだった、ノット監督のノリノリ具合だろう。入場時の笑顔からしていつも以上、冒頭のキュー出しが待ちきれないような指揮台上の素振りは本当に「子供時代の夢、憧れ」を今から音として示すことへの喜びがあふれるようであった。監督が楽しそうで私も幸せである(このコンサートでは何度もそう思ったので、この点についてこれ以降は割愛する)。ある世代の子どもたちが固唾を飲んで見つめたあの映像が蘇る、不協和音からの猛烈なアレグロへの展開も、最近ますます安定感も出てきた東響の厚みのあるサウンドで奏でられ、堂々たるセレクションが開幕を飾ってくれた。

そうそう、事前にシンセサイザーの岡野氏がこんなツイートをしていて気になっていたのだが。



なるほど、あのカウントダウンはシンセサイザーから鳴らして呼応する不協和音がオケから、ということだった。ミューザのリニューアルで新しくなったPAの威力もフェスティヴァル開幕早々に発揮されたわけである。

次に演奏されるリゲティの協奏曲のためのセッティングで動かされる舞台セリに、私の脳内では「サンダーバード」の反芻が止まらない(もっとも私だけかもしれない、ヤシの木が倒れてマスドライヴァー風の滑走路が登場する映像が見えていたのは)。

さてこの独特なピアノ協奏曲の弦セクションは6型、管は各一人、そして打楽器も一人。なのだが、よくあるティンパニ一人ではない。そのあたりについては、このツイートも参照してほしい。


この日の独奏者はエマールの共演者としても知られるタマラ・ステファノヴィチ。こう書けば(あっモダンな作品に相当強いひとだ)と伝わることと思うけれど、そんな彼女もまた面白ツイートをしていた。



この日の演奏を体験すればタマラの言うこともわかる、事前に準備を進めてきた東響から、あえて打楽器の話が出てくるのもわかった。この作品ではピアノの打楽器的性格を強めてリズムをより強く示し(それも相当に複雑なそれ!)、そのダブル(影であり分身)として打楽器を用いているのだ。ずれながら呼応し合うピアノと打楽器はもはや二人のソリストとして、どこまでも独自でスリリングな音楽を展開してくれた。これだけの複雑な曲なのに演奏が終わってみれば場内は大喝采、その盛り上がりにむしろ戸惑っているかのようなタマラ、マエストロ、水谷コンマスの姿は微笑ましくもあった(先日の「レクイエム」でもソリストの二人はどこか戸惑っていた、そういえば)。


演奏者各位にももちろんなのだけれど、ノット&東響が関係を深めてきた道のりをともにし、「名曲全集」が多彩な選曲をする中で幅広い音楽を受容してきたミューザ川崎シンフォニーホールの聴衆にも、私から拍手を送りたい。かつてなら、サントリーホールや東京オペラシティでしか体験できなかっただろう積極的な受容がここでは行われている、と感じられる最近のミューザの聴衆の反応は実に喜ばしい。最高の音響に見合った聴衆もまた育っているのだ、と思える瞬間がここにはあった。この日の演奏会からミューザでも「オーケストラの入場時に拍手で迎える」のが定番となってきたように思うけれど、この日は何より「東京交響楽団の皆さん、おかえりなさい」という再会の喜びがあったように感じられた。

そしてメインに置かれたのはノット監督がこよなく愛するベートーヴェンだ。だがしかし、ここにその曲を置くのか?と少なくない聴衆がプログラムを見たときに思ったことだろう。大編成のサウンドトラック、そして20世紀の独特な協奏曲の後に、まさかの第一番なのだから。
師であるハイドンの影響をまだ強く感じさせるこの交響曲は、第三番、第五番のような巨大な革新を成し遂げた作品とは言いにくいし、第七のような人気曲でもない、もちろん第九のように誰もが知る音楽でもない。しかしモーツァルトやハイドンとは明らかに違う個性がある難しい作品、であればコンサートでの”居場所”をなかなか見つけにくい作品とも言える。その作品をメインに置いて、果たしてどのような演奏が行われるものか、その音楽は私達を納得させてくれるのか。もちろんノット&東響への信頼はある、それでも実際に聴いてみなくちゃわからない…そんな期待と迷いが入り混じった休憩を経て、再び客席につく。12型(おそらく)の編成は、広いミューザの舞台には小さく感じられて、先ほどの迷いがまた頭をよぎる…
しかし、である。冒頭のトリッキィな序奏から始まった音楽は、若者の挑戦的な小品というよりは、「ハイドンの第一〇五番」とでも言いたくなるくらいのスケール感があった。雄弁、自由自在、気宇壮大、…そんな言葉が演奏を聴く中で次々と思い浮かぶ、作品への先入観を大きく覆すその音楽は、冒頭から最後の一音まで場内を魅了した。トランペットはロータリー、ティンパニはケトルといういつもの”ベートーヴェン編成”で安定したサウンド、力強さと繊細さが併存し、ときに無作法なまでにアイディアが飛び出してくる作品が内包していた可能性が次々に現れる、どこまでも刺激的な音楽、それがベートーヴェン最初の交響曲だったのだ。もちろん、リスクを恐れないノット&東響なので少々の小傷はあったけれど、緩急自在のテンポ感、変幻する表情はどこまでも魅力的なもの、圧巻の演奏だった。それだけの演奏を称賛する圧倒的な喝采でコンサートは終わった。
そうそう、ノット監督のカーテンコールでのノリノリっぷりは、後世まで語り継がれてもいいだろう。なんなら帰国の便にサンダーバード一号を手配して差し上げたくなるほどにご機嫌なそのカーテンコールで、酷暑の夏祭りの開幕は記憶されていい。マエストロの「Festa is GO!」に力強く背を押され、かくしてミューザの夏祭りは始まった、のである。

ここまでの大団円を予想していたわけではなかったけれど、この楽しさを期待して私はこのプログラムをホモ・ルーデンス、遊戯する人間のプログラムと読んだのだった。またいつもの「予想通り、期待以上」の演奏会に出会えて幸せであった。

かってに予告編 ~東京フィルハーモニー交響楽団 2019シーズン・11月定期演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 2019シーズン・11月定期演奏会

2019年11月
  22日(金) 19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  23日(土・祝) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:ケンショウ・ワタナベ
ピアノ:舘野泉
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調
マーラー:交響曲第一番 ニ長調

東京フィルハーモニー交響楽団は、今年の前半に交響曲第八番から「大地の歌」、そして第九番とマーラー晩年の傑作群を演奏してきた。それもバッティストーニがオペラ的性格の強い第八を演奏し、精緻な管弦楽法が魅力的な歌曲集でもある「大地の歌」はオペラにも新しい作品にも強い沼尻竜典が取り上げた。そしてマーラーの遺した最高の作品と言ってもいいだろう第九をチョン・ミョンフンが凄絶な演奏をしてくれたのは忘れがたいところだ。
チクルスとして特別な機会を作ったわけでもないのにこれらの作品が充実した演奏で披露された後、マーラーを取り上げるのはなかなか度胸のいるところだろう。そこで誰が次にマーラーを、どの作品を取り上げるのか。ひそかに私が注目していた「東京フィルの次なるマーラー」が、この週末演奏される。なにも”恐れを知らぬ若者”を登場させようと誰かが企んだわけではないだろうけれど、指揮は1987年生まれのケンショウ・ワタナベ、選曲は一度最晩年まで進んだ「東京フィルのマーラー」をまたスタートラインに戻すように、交響曲第一番だ。若い世代の指揮者により奏でられる、作曲家若き日の交響曲に期待しよう。

まだ私も実演で聴いたことがないケンショウ・ワタナベについては、アシスタントコンダクターを昨シーズンまで務めたフィラデルフィア管弦楽団がこんな動画で送り出している。こんなに愛された若きマエストロが、世界への雄飛にあたってまずは東京フィルに登場する、そんな流れがちょっといい。



なお、最近ハンス・ロット作品がなぜか連続して取り上げられた後、ということでも今回の演奏会は注目だろう。

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さて、前半に置かれたラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲だが。
ヴィトゲンシュタインの委嘱による左手のためのピアノ作品の中でももっとも演奏される、なにより充実した作品を、現在ヴィトゲンシュタインに負けず劣らず積極的な委嘱・演奏活動で左手のためのピアノ作品を広めている舘野泉が演奏する。これ以上の説明は無用だろう。こちらも好演を期待する。

2019年11月16日土曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 第675回定期演奏会 / 川崎定期演奏会第72回

●東京交響楽団 第675回定期演奏会 / 川崎定期演奏会第72回

2019年11月
  16日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
  17日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
管弦楽:東京交響楽団

ベルク:三つの管弦楽曲 Op.6
マーラー:交響曲第七番 ホ短調

ありがたいことに、2019年は10月から三ヶ月連続で「ノット&東響」の演奏が聴ける。川崎市民である私には東京交響楽団は”我が街のオーケストラ”であり、そして東響は市が誇るミューザ川崎シンフォニーホールが本拠地なのだから、そこに音楽上の責任者が多く登場してくれるのはある意味自然なことではある。だが、この”自然”がなかなかにありがたい、有難いことなのだ。聴き手が願えば多忙なノット監督のスケジュールが開くわけではない…しかし今年、来年とノット監督はこの三ヶ月を東京交響楽団との時間に当ててくれる。それを喜ばないでいることなんて、私にできるわけがないじゃあありませんか。

ともあれ、この有難い三ヶ月も折り返しに来た。その中間点にあたる定期公演では、先月の「グレの歌」からの流れを意識したと思えるプログラムが披露される。シェーンベルクに大きい影響を与えたマーラーの交響曲をメインに、シェーンベルクに師事し、ともに十二音技法を開拓したベルクの、最も”マーラー的”な作品を前に置くプログラムはもはやそれだけでまったくスキのない、ある意味で完成されたものだ。20世紀初頭のウィーン音楽界が開いた”扉”を示し、そしてその道がどこにつながっていったかを一夜で示してくれることだろう。

正直な話、ここまで説明のいらないプログラムである以上、解題はそう必要ではないように思う。来場される皆様が、それぞれに予想し期待して各日の公演を楽しまれるのがよろしいでしょう。私からはただ一言、お聴き逃しなきよう、とのみ。

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とは言ってもそれで「予告」を名乗るのは気が引けますので、少々ここ最近の演奏会を踏まえて書いておきます(過去公演のレヴューが仕上がらない私をこれで許してもらおうとか、そういうことでは…)。

「現在東京交響楽団に所属している楽団員全員が舞台に乗った」というミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を見事な演奏で飾った「グレの歌」体験を経て、ノット&東響のサウンドはまた一段成熟した感がある。先日の台風のため、残念ながら定期公演は開催されなかった「問いを重ね、答えを探す」プログラムの冒頭、アイヴスで冒頭から弦が示した”無表情の表情”や、遅めのテンポでじっくりと問いながらも答えに至れないシューベルトの憂い気味の音色、そして若きブラームス作品の幅広い表現は、明らかに「グレの歌」以前の東響のサウンドから一歩も二歩も進化/深化した、より高められた表現力の賜物だった。

また、これは5月定期のときにも書いたことだが、東響のサウンドは日に日に充実の度合いを高めている。せっかくなので具体例をあげよう。
私は先日の名曲全集を前に、「第一一番の前の曲でもあるし」と思い、ノット&東響のショスタコーヴィチの第一〇番を聴き直してみた。あの欧州ツアーを前に披露されたショスタコーヴィチは少なくともその時点でのノット&東響の達成を示すものとして、価値あるレコーディングだと思ってきた、しかし今年に入って東響が披露してきたショスタコーヴィチ演奏、ウルバンスキとの第四、ノット監督と尾高忠明による第五、そしてつい先日の沼尻竜典との第一一番は、かつての東響の達成を超えている。上田仁以来のショスタコーヴィチ演奏の伝統は伊達ではないのだけれど、その蓄積に加えて明らかに音楽的に充実したショスタコーヴィチは、そのまま現在の東響の充実ぶりを映すものだった。
人が集まった集団のなすことだから、オーケストラの表現の進化/深化は、時には遅滞しときに長足の進歩を遂げたりと一定では進まないものだ。だが今の東京交響楽団は、ノット監督との演奏会のたびに数段飛ばしで階段を駆け上がるように表現を深め、その経験を客演陣ともわかちあって「どの演奏会に行っても興味深い経験ができる」状態にある。これを黄金期と言わずしてなんと言おうか。
そうした変化、成長を示す東響が、このスキのないプログラムを披露するのが11月の定期演奏会だ。幸いなことに、サントリーとミューザの二回も公演があるので、一人でも多くの都合の合う方が聴かれることを私は心から希望している。先ほども書いたとおり20世紀初頭のウィーン音楽のある側面を切り出した興味深いプログラムであり、それはそのままノット&東響のマーラー、新ウィーン楽派演奏の集大成であり、来年の「トリスタンとイゾルデ」に直接つながる演奏会となる。これを聴かないなんて、ありえない。



(なんとなく来日中の彼ら彼女らに敬意を示してみました)

2019年11月7日木曜日

かってに予告編 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第151回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第151回

2019年11月10日(日) 14:00開演

指揮:沼尻竜典
ピアノ:ユッセン兄弟
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:三台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242「ロドロン」(二台ピアノ版)
ショスタコーヴィチ:交響曲第一一番 ト短調 Op.103「1905年」

はい、雑な世界史の授業です。今日はみんな大好き()ロシア革命の話をします。
「ロシア革命」には第一次とされる失敗に終わった1905年の蜂起、そしてソヴィエト社会主義共和国連邦が成立するに至る第二次(1917年)があります。授業終わり。

というのは雑すぎるけれど、今回必要な最低限の、さらに最低限の知識はこれだけじゃないかなあ。そのバックボーンとなった思想や、当時の社会構成、実際の蜂起についてのあれやこれやを知らないといけません、とは私は思っておりません(この辺が相当に雑)。もちろん、ロシア革命とその顛末は知れば知るほどに興味深い世界史上の出来事ですが、その事実関係については山のような書籍が出ております。それを手当たり次第に紐解くのがよろしいかと思いますので、ここでは別のアプローチを提案しますよ。それは「その時代を生きた人たちのお話を聞いてみよう」というもの。とは言っても私たち市井の個々人がソ連時代の証言を聞いて歩けるわけもなし、であればこんな映画でどうだろうか、というのが今回のご提案です。
幸いなことに、セルゲイ・エイゼンシュテインという卓抜した才能がその時代を描いた作品を作ってくれていますから、それを見ていただけばその時代の空気に触れることもできましょう、そしてこれらの映画を見終わった後には立派な”同志”諸君の出来上がりです。あ、最後のは冗談ですよ。

「ストライキ」

「戦艦ポチョムキン」

「十月」


三作を続けてみるのもなんですか、良薬もさすがに取りすぎりゃあ「毒」ってなものですから、ここは「戦艦ポチョムキン」と「十月」だけでもぜひ(それでも二本かい)。前者で権力に撃ち斃される民衆を、後者で勝利するボリシェヴィキを見ておけば、少なくとも雰囲気だけなら掴めましょう。

それでも、映画見るのも大変でしょう?なんて思っているあなたに、たった二時間弱で第一次も第二次もわかっちゃう、秀逸な二つの交響曲があるんですよ。ショスタコーヴィチっていう人の、第一一番と第一二番なんですけどね。はい、ここまでが前ふりです。映画をご覧いただいた皆さんはここにたどり着くまで何時間かかるんでしょうか(笑)。

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今年はなんのご縁なのか、ここまでに数多くのロシア、ソヴィエトの傑作に触れることが出来た。ロシア音楽がフェスタサマーミューザKAWASAKI2019のテーマ的な扱いだったおかげもあるけれど、ムソルグスキーやハチャトゥリアンの秘曲(演奏しにくい編成だってだけですが)からチャイコフスキーやショスタコーヴィチのド名曲の名演まで、あれもこれも本当に刺激的だったなあ…なんて思う私ですら、かなりの聴き逃しがあるくらいには多くの作品が取り上げられてきた(口惜しいので何を「聴き逃した」と感じているかは書かない)。そうした機会を迎えるにあたって、つどつど予告を書いてきた余録がそろそろあってくれるはず…と思ったのだけれど、かなり簡単にしか触れていない。だがそこで書いたことをこの作品について書く前にもう一度書いておこう、「おそらく、プロパガンダを強制された中で達成された最良の作」と。

1953年にスターリンが亡くなって、少しはマシな状況になったのだろうショスタコーヴィチは、それまでのようには交響曲を多作しなくなる。もちろん、年齢的なものや手法的な模索など、それぞれの理由はあると思うけれど、「DSCH」という音による自らの署名をフォルテッシモで叫んだ第一〇番のあと、1957年までショスタコーヴィチは交響曲を発表していない。この空白あって生まれたこの第一次ロシア革命を題材とした作品は、初期の第二、第三番のようなロシア・アヴァンギャルドの最終走者としての挑戦的な作品ではまったくなく、特に”西側”では作曲者の堕落として否定的に評された、という。私自身、作品をまだ知らない段階でいろいろ聴き漁る中でも「映画音楽っぽいかな」なんて、それらしいことを思っていたような気がする。特に第一二番。番号順に聴き進めていけばその後に第一三番「バビ・ヤール」が来るのだから、こういう感想は残念ながら当然、というところではあるんじゃないかな(過去の若気の至りをそれとなく肯定)。
だがしかし、ちゃんとした演奏で聴けばこの革命を描いた二曲は十分に聴きごたえのある作品だとわかる。ちなみに私はキリル・コンドラシンとモスクワ・フィルによる全集の、国内盤を聴いて認識を改めました(輸入盤では決してなく)。希少盤と化して久しいあの全集、再販しないかなあ…

余談はこのくらいで。今回演奏される交響曲第一一番は、残念ながらロマノフ王朝によって斃される、まだ素朴な請願行動である「血の日曜日事件」を軸にして第一次革命の勃発を描き出した、「凍るようなロシアの長編小説」です(井上道義・談←本当です。リンク先参照)。革命歌や自作、同時代の作品などの引用を用いているからとても聴きやすく、そしていつもの(まあ裏があるんですけどね)と感じさせるショスタコーヴィチとは一味違う、凝縮されたひとつのドラマを楽しめることでしょう。あいや、題材を考えると「楽し」くはないのですが。さまざまな形で示される”鐘”の響きが、デモに託された祈りとして響く、もはや神童ではなくなったショスタコーヴィチの充実した作品、実演でぜひ。

こういうところにも縁というのはあるな、と思うことを最後にひとつ。
台風19号の翌日に、多くの困難を乗り越えて開催された前回の名曲全集は、なかなか実演では聴くことのできないアイヴスの「答えられない質問」で始まった。あの響きをご記憶の皆様は少しだけ反芻しておいて、ショスタコーヴィチの交響曲冒頭を聴いてみてほしい。同じように弦楽が美しく、しかし無表情に響く導入からの展開のコントラストの妙をお楽しみいただけよう。


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なお、冒頭で演奏されるモーツァルトについては私もあまり馴染みがないので(正直)、ユッセン兄弟の他作品の演奏でも聴いて準備しておくのはいかがでしょうか。



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公演前夜に少しだけ補足を。
まず、これは個人的な捉え方なので他の方に異を唱えたいわけではありません、と前置きして。私は、最近ショスタコーヴィチ作品を同時代の政治的トピックと結びつけることの有効性に少々の疑念を感じていて、だから文中ではハンガリー動乱の話をしていません。ただし、21世紀になっても民衆蜂起は使われ続ける手法なのだ、と感じている昨今にこの作品が取り上げられる偶然には少しばかり思うところがあります。それについても書いていないのは、ショスタコーヴィチがひとつの出来事を深く直観して作り上げた作品の持つ普遍性を示すものなのではないか、と考える次第。演奏を聴いたらまた考えるべき事柄ではあると思います、でも「予告編」で私が言うことではない、とも思う。このあたりがショスタコーヴィチにまつわる難しさであり、面白さでもありますね。

そしてこれは意識して聴いてほしいポイントです。この作品のライヴでは”伝説の事件”も起きたわけですが、その焦点だった「鐘」の音の変容をたどって聴くのはとても興味深いものになると思います。特にも、今回は世界最高レヴェルの解像度を誇るミューザ川崎シンフォニーホールで、そこを本拠地として鳴らし方を熟知した東響が演奏するのです、簡潔ながら実に効果的なショスタコーヴィチの管弦楽法を聴き取るこれ以上の機会がありましょうか。
ここで言う「鐘」は、スコアにして243ページにようやく登場するベルだけを指すのではありません。この作品では、冒頭で弦楽合奏に輪郭と響きを加えるハープから、チェレスタやシロホンなどの楽器が全曲をつうじて「鐘」を響かせているのです。その鐘がロシアではどのような意味合いを持つかについては、「ロシア・ビヨンド」のこのページが参考になるかと思います※。

※いわゆる共産圏プロパガンダが嫌いな方には、このサイトの閲覧をオススメしません。私はスプートニクでもFOXでも、使える部分は使う主義なのでここにリンクしました。
そんな都合よくいくものかね、と思われる方はこんな番組でもご覧になってはいかがですか、そのうち再放送もありましょうよ、とご案内しておきます(こっちは我らが公共放送のサイトなので注釈しません)

そして最後にもうひとつ。文中で作品評を紹介した井上道義指揮によるショスタコーヴィチの交響曲第一一番が、11/17に放送されます。詳しくはリンク先でご確認くださいませ。