2012年8月28日火曜日

まだ若手なんだからさ、と思うのよ


こんにちは。千葉です。

「領土問題」だの国会運営だのACTAだのなんだのと洒落にならない問題山積の中、NHKのニュースがAK以下省略。芸能ニュースをやる番組はヴァラエティですよね、普通。ワイドショウ扱いしてもいいのかなあ、NHKニュースウォッチ9。

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世評の高い、期待される若者を腐すのは気が引ける。それに明らかに自分の方がマイノリティなんだろうな、とは思う。でも今のうちに言わないと後出しになる、それも嫌だ(笑)。自分の予測がハズレならそれに越したことはない、でもけっこう本気で心配してるんだよこれでも。ハズレだとあとでハッキリしたらバカにしてくださってけっこうよ。と前置きして。

番組については一切言及しませんが、先日放送された「ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート」、グスターボ・ドゥダメル指揮の演奏を視聴しました。前半のゴーティエ・カプソン独奏のハイドンについては多くを語りますまい、千葉はロン毛が邪魔そうなゴーティエくん、けっこう嫌いじゃないっすよ。実演で聴いたほうが映えるタイプかなあ、とは思いますが。

後半のね、ベートーヴェンの交響曲第五番 ハ短調 Op.67、これがねえ。その場その場の音楽は自然な起伏をうまく膨らませたものだし、無理にデフォルメしてどうこうしない正攻法はそう悪いものではない。その指揮者の元、出てくる音はベルリン・フィルのものなんだから悪い訳がない。

でもごめんなさい、このくらいでスター扱いされちゃってて、ベルリンにもウィーンにも登場とか、いいのかなあ。

おそらく皆さんご存知だろうエル・システマがどうのこうのとか、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとの熱演がどうのこうのとか、アバドがラトルがアルゲリッチがどうのこうのとか、そうなんですよ、世界的に将来を嘱望されていて、そのキャリアについては千葉なんかが心配してあげる必要はまあ、全くない。あまりにもなさすぎて、ここで異議を申し立てることを申し訳なく思うほどだ(笑)。でもなあ。名前が売れてポストを得て、著名どころに客演するようになるに連れその演奏がどんどんと驚きのないものになってしまうマエストロを何人も見て来たものだから、そんな義理もないのに心配になるんです。

そもそも南米の、中でもクラシック音楽の伝統とは切れている(アルゼンチンやブラジルは二次大戦の際に少なくない音楽家が亡命したこともあって20世紀には十分に欧州とつながっている)ベネズエラ出身、同志とも言えるユース・オーケストラから熱い演奏を引き出したのがその才能を評価された、などなどの彼についての物語は、よくも悪くもバックグラウンドの不在とそれ故の才能の輝きといった要素で飾られています。個人的にはそこに不安も感じつつ、もしそんな「物語」が現代にも可能なのならそれはそれで素晴らしいな、と思い、いくつかの録音を聴いたくらいで静観していました。っていうか来日公演にはお金がなくていけないし(笑)、各種録音を追いかけるほどの興味もまだ感じていない。ファンの方ごめんなさい。

でね。まあ、音楽を力技抜きで聴かせるのは今も上手だと思う、でもそれ以上になってる気がしない。小編成のオーケストラなのに、巨大なSBYOを操っているのと変わらない歌わせ方をしてしまっているし(待って合わせる感じ、せっかくのこのオケの小編成なのにもったいない)、音楽をどう響かせたいのかがいまいち見えない。ベートーヴェンについてのコメントがあったけれど、演奏からは彼の強い個性も手法的なものもあまり感じられず。これからの人なんだから、で済ませてあげてもいいんだけど、こと世界最高のオーケストラを指揮して、世界で放送される演奏会だと考えると、ちょっと。期待の若手の顔見世興行に使っちまっていいんですかい、というか何というか。

このオーケストラのマエストロたちが彼に多くを期待して、以前から目をかけていることは知ってます、それにベネズエラ出身というどちらかと言えばプラスになりにくい出自ながらその音楽の魅力で活躍を続ける若者には千葉も期待したい。でも、まだ早くはありませんかね、ああいう扱い。
個性といえば聞こえはいいんだけど、訓練と経験によって洗練されまたはより強められていなければそれはただの手癖かもしれないのですよ。面白い、刺激的で新鮮な手癖もありうるとは思うけれど、それだけで長く活躍できるほどクラシック音楽の世界は簡単じゃないような気がするんですよ、千葉は。いまのドゥダメルは、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラやポストにあるエーテボリ交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニックとの演奏で自らを鍛えあげるべきではないのかと、終盤に向け明らかに客演指揮者の演奏になっていくベートーヴェンを聴きながらそんなことを思った次第です。特に誰とは申しますが、一時期のダニエル・ハーディングについても同様の心配をして、昨今はなんとかまた軌道に乗りつつあるのかなと思っている千葉としては、このような不遜な心配をしてしまったよ、というお話でした。

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ぜひ、この文章が後の世にて笑いものになりますように、と思いつつ本日はおしまい。ではまた。



カプソン兄弟だとこのラヴェル、けっこう好きですね。兄の美音に弟の突破力、そこに加わるブラレイの脱力(笑)。

2012年8月24日金曜日

生誕150年のその日に(了)


こんにちは。千葉です。

それにしてもあれですね、我が国も相当に愚かだと思っていましたが、以下自粛。こんな流れから武力衝突になったら後世に消えない汚名を残すことになると気が付かないものかしら…

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剣呑な枕はこれでおしまい(笑)。

決定盤主義というのはなかなか難儀なものでございます。好きなモノができたらそれを一心に愛でてりゃいいじゃねえか、なんて外からは思うところ、何故か気に入った曲ができると必死にいろいろな盤を聴いてみてはああじゃないこうじゃない、あそこの音符の扱いがどうのこうのいや楽譜の版そのものが違うのにそういう議論はどうのこうの。本人たちは楽しいからやってるんだからまあ、どうこう言うほどのこともないんでしょうがねえ。

咄ごっこもこの辺りで(笑)。千葉も大学に入ってからはいろいろと録音を漁ったもんです、それまで知らなかった世評の高いものから順に(音楽の評判というものの世評、あることすら知らなかったなあ、だって真面目な受験生でしたから)。アンセルメとかマルティノンとか聴いて、「なぜクリュイタンスはドビュッシーの録音をちゃんと残していないのか」とか「デュトワさんはいつ録音されるんですか?」とか思ってましたなあ…当時の世界にはマイナーレーベルはなかったんですよ、聴くべきは基本、赤青のレーベルのみ(大嘘)。ああ、でもそのレーベルでも聞く価値のない録音も(以下自重)。

Jean Martinon/Orchestral Works - Debussy, Ravel<限定盤> [CZS7044442]


今度非常にお安く出ますね、マルティノンのドビュッシー&ラヴェル。この情報を見て聴きなおしていたりします、これも刷り込み盤のひとつだなあ…


さっきのはさすがに言いすぎなのだけれど、でもその当時の世評には、確かにメジャーレーベルしかなかった、かも。世評というか、それを作っていると千葉が思っていた、「批評」では。基本的には「本場物」、またはそれに準じた演奏中心。どういう演奏なのか、という疑問には定番の紋切り型が並んじゃう感じ、エスプリがどうのこうの精妙なアンサンブルがどうのこうのラテン的な響きがむにゃむにゃむにゃ。正直言って何を示しているのかよくわからない、昔も今も。その頃と比べたら、最近はまだマシになっているのかもしれません、いわゆるレコ芸的な評も。いやあれか、印籠を心待ちにする時代劇と同じで、お決まりを楽しめればよかったのかな。それを初学者がしようというのは無理筋、無茶にもほどがあるけれど。

よくわかっていないままに多くを聴いて、そのうちに知ったマヌエル・ロザンタールの盤は個人的には衝撃でした、自分の知らない/レコ芸とかに載ってない演奏家の音楽がこんなに素晴らしいよ!って思いまして(笑)。ちなみにその時点ではまだ存命でいらしたロザンタール氏、オッフェンバックによるパスティーシュ「パリの喜び」の編者として知っていたものだから、もっと昔の人だと思い込んでいました。まあこの人、「音楽の教科書に載ってるから」という理由でビートルズはみんな物故者だと思っていたような物知らずですから、ご容赦のほど…

そして待望していたデュトワ盤を聴き、それまで存在すら知らなかったアンゲルブレシュトなど「作曲者ゆかりの」録音も聴き、そうこうしているうちにブーレーズ&クリーヴランド管弦楽団による録音が登場するわけですね、考えてみるとたかだか5年とかそれくらいの、意外と短い時間の中でのことだったか…趣味を深めるってのはそういうものかもしれません、いろいろ聴いたとは言っても対象が一曲ですしね。マーラーの交響曲に近づくのにはまた別の、手のかかるやり方が必要だったので、こうして鳥瞰できるようになるとなにか感慨深くさえありますです。しみじみ。

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この話の最後にだいぶ個人的な見解を。
ラヴェルや初期ストラヴィンスキーなどの名録音が好きだったから大いに期待して待っていたシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のドビュッシーですが。率直に申し上げて期待外れでした。その後の彼らのなりゆきを思わせる、とまでは言いませんが表面の磨き上げで終わってしまった感が否めず。
いま考えれば、ドビュッシーをワーグナーからの流れに位置付けるような視点に欠けていたように思われた、のかもしれませぬ。その独自性や透徹したセンスが評価されている作曲家にこういう言い方はないかもしれませんが、ドビュッシーは音響だけには還元し難いところがある、と言えるのかなあ…(では音響的洗練を極北まで極めたようにも思えるブーレーズはどうなのか、という話はどこまでも長くなりますからここではしませんよ)



この件はデュトワへの評価が変わっただけではなく、自分の中の「決定盤」「名盤」志向に対する考え方を動かしたように思います。また、「好きなあの演奏の何がどういいのか」を少しは言語化して考えるようになったきっかけのひとつ、かも。

なお、こんなふうにくさしてはおりますが、シャルル・デュトワとモントリオール響の仕事のいくつかは「決定盤」扱いされるだけの質があると思いますし、今でも好きな演奏もいくつかはあるのです。公共放送交響楽団さんはもっと彼に鍛え上げられるべきだったといまでも思っていますし(いまでも来るじゃん、と思われた方、客演とポストありでは、活動の中身がまったく違いますからね)。


こうして振り返ると若かったなあ、あのころは(笑)。この二回でつらつらと書いてきたことは、自分なりのクラシック事始めから1995年のブーレーズ・フェスティヴァルに至る道程は、いま振り返るとこういうことだった、となるのかもしれません。とは言いながら、この私的回顧にはバーンスタインが登場していないわけで、「自分語り」としてはいささかの不備がある、と感じているのですが、タイトルに偽りを生じさせたままこれ以上続けるのもどうかと思いますので(笑)、今日のところはこれにて。ではまた。


Desire-Emile Inghelbrecht/Debussy: La Mer, Images, Trois Chansons / Inghelbrecht [SBT1213]


昔「DISQUE MONTAIGNE」から出てたボックスはもう手に入らないのかしらねえ…

2012年8月23日木曜日

生誕150年のその日に(起)


こんにちは。千葉です。

まあ、ポーズになる以外のオチはありえない。そう思ってはいましたから今さら落胆も何もありませんが、わが首相の言葉の扱いの酷さには辟易しきり、であります。あ、こっちではこういうのやめるんだった(ワザ、ワザ)。

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今日はドビュッシー150回目のお誕生日だとか。クラシック音楽に深入りするきっかけとなった作曲家の記念日とあらば無視もできませぬ、ちょっとばかし書いておきましょうか。

と思ったけど、そういう話はこのブログの本館のさらに前身、業務ブログだった頃の初々しい奴がかろうじてサルベージ※されてるんですよねえ(リンク先参照)。

インターネット・アーカイヴというサイトでいつでも復元できるなぁ、中身がある奴だけでも拾ってこようかなとか考えてるうちにほとんど見つけられなくなりまして。まあ、今の自分からみればいささか綺麗事感は否めず、消えものとなるのもそれはそれでありかな、と思えなくもない。いやはや。

仕方ない、当時のよそいき風では書きにくかったところだけでも書いておきますか(笑)。

千葉は世界遺産町(笑)の出身です。観光地としては当時から相応に栄えてたと思いますが、そうは言っても人口一万にも満たない程度の田舎町。そこでクラシック音楽に接する機会なんてそんなに多くはありませんで。覚えている最初に興味を持ったクラシック音楽はラヴェルのボレロ(ホンダのテレビCM経由)、そこからベートーヴェンやブラームスに至るには何年もの時間がかかるわけです。マーラーやショスタコーヴィチにたどり着くまで、だと十年単位かな(笑)。

その距離を作りもし、今もクラシック音楽を主に聴くに至るきっかけとなったのは中学校で始めた吹奏楽。その頃のコンクールでの流行が、ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」の編曲版による演奏だったんです。中学一年生の秋に、隣の市の(というか、地元の町にはない)楽器店で吹奏楽コンクールのレコードを買いましたが、これが見事なまでにこの曲ばっかりで。ものによっては半分くらいがこの曲だったりしたんじゃないかなあ…
最初に聴いたのはたぶんコンクール特集のNHK-FM、「ブラスの響き」のエアチェックだったと思います。その流行の曲(笑)を実際聴いてみるといいんですよ、とっても。と言いながら、何がいいと感じたのか、当時の感触はもう思い出せないけど(笑)。素朴な当時の感想を言語化するには自分は聴き方が変わりすぎもうした。こういうのはフィクションとしてなら書けるのかなあ…

さて話を戻して。吹奏楽版でも十分に気に入った、でもこれってオーケストラの曲なんですよね、「本物」はどんな感じなの?とは思っても田舎でお小遣い生活の中学生が簡単にレコードを買えるわけじゃない。それに何がいいのかわかりませんしねえ。
これも余談になるけれど、千葉にも抜き難く「決定版志向」、あると思います。どうせなら良いものから知りたいわかりたい。でもこれって、貧乏性の贅沢志向というか、一点豪華主義的な余裕のない楽しみ方なんですよね。後になって、いろいろな盤を取っ替えひっかえ聴くようになってから気づくことなのだけれど。
何が良いのか知らないし、であれば基準もないから良し悪しなんて判断できないし、それなのに最高の物をまず知りたいと願う。まあ、悪いことではないしついそう思ってしまいがちですけれど、そもそものところで考えると無理のある願望なんだなあ、とか思う最近の千葉であります。だからこそ紹介が大事、とか思うよりむしろ「出会っちゃったそれを、その出会いを大事にしなよ」と思うのだけれど、そういう話もまた別途かな(笑)。


そこで聴くことになるオーケストラ版の、本物のドビュッシーの「海」は、ピエール・ブーレーズ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のもの。何度も再販されているので、興味のある方は入手しやすくて廉価な奴をぜひ。例えばこれとか。



この辺の「再販で安くなっていく海外盤、再販なのに価格帯を守ろうとあの手この手を繰り出す日本盤」の話も少ししたいところです。いつも書きかけては長くなってやめてるお題ですね(苦笑)。

この演奏、テープに落として繰り返し聴きました、それに後にCDになってからも買い、組物になっては買い。「ブーレーズが指揮する海をコンサートで聴いてみたい!」というのはオーケストラの実演ひとつさえ聴いていなかった頃の夢の一つでした。後に1995年の「ブーレーズ・フェスティヴァル」にて、ロンドン交響楽団との演奏という形でその夢は叶うのですけれど。その頃の自分の耳も、明らかに今とは違う初々しいもの。だって、初サントリーホールで最寄りとされる駅で降りては見たもののそこから会場への行き方がわからなくて、チケットに記載されていた電話番号に問合せちゃったような時の話ですもん(笑)。あのときけっこう公共放送様は音声映像などなど収録されていたように思うのだけれど、それらは再び日の目を見るのかしらね…

また話が逸れました。っていうか、長すぎるのでこの話続きます。ではひとまずはここまで。ごきげんよう。



この話の流れだと無視できないブーレーズ新盤も大好きですが、意味合いが違うんですよねえ、自分にとっての。1995年当時の千葉が間違いなく尊敬していた指揮者による一連の録音、その意味合いも考えておきたいのですが、これまたなかなか難しい。マエストロの次なる来日はもう希望しませんから、ご健康でいらしてくださいませ、とのみ。

2012年8月9日木曜日

ショスタコーヴィチの交響曲、どれが好き?

こんにちは。千葉です。

大変ご無沙汰してしまいました、なんとも音楽の話をする気分になれないまま、気がついたらずいぶんと間があきました。こんなことではいけない、書きかけのやつとかさっさと仕上げなさい、と自分に鞭を入れてこっちのブログをそろそろ軌道に乗せようと思います。がんばろっと。

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さて、今日はですね、大好きなショスタコーヴィチの37回目の命日です。ということで、さらっと記事タイトルのような話を。自分でタイトルを書いて「つまんねーこと聞くなよ!」とツッコみたくなったのはナイショです(笑)。

以前から、ショスタコーヴィチの交響曲なら第四、第八、そして第十三番が好きなんです。体制により批判される前の圧倒的な才能の奔流が眩しい第四番、戦争交響曲※とされる三曲の中でも最も陰鬱でありながらまったく古びない第八番、そして詩人は裏切ってもショスタコーヴィチによって高められた詩は今なお示唆的に響く第十三番。昨今の状況下でこのあたりの作品を聴くのはなかなか、重くはあるのですけれど。特に第十三番。

※ワレリー・ゲルギエフは広く第四から第九までの五曲をこのくくりに入れていますが、それはさすがに無理があるのではないかと。ナチスの政権獲得をもって戦争の始まりと見てのことでしょうけれど…

じゃあどの演奏が好き?って聞くとまたつまんねーこと聞くなよ!と言いたくなりますし、紹介するものが定番すぎてちょっと照れもあるけれど、これを挙げないほうがどうかしている。こう断言してしまうほどに、キリル・コンドラシンとモスクワ・フィル他による全集は素晴らしいものです。


Kirill Kondrashin/Shostakovich: The Complete Symphonies - Violin Concertos No.1, No.2 [CDVE04241]

この全集で聴き親しんだから先ほど挙げた三曲が好きなんだ、と言えなくもない。実に充実した演奏が聴けます。レニングラードの伝統あるオーケストラとは違い、モスクワ・フィルは原色の勢いあるアンサンブルが魅力的ですから、ショスタコーヴィチはムラヴーンスキィに限る、なんて言わずにぜひ聴いてくださいませな。

あとはそうですねえ…




ハイティンクによる全集の中では第八番が好きですねえ。作品の文体と演奏者のスタイルが合っているように思います。なお、シカゴ響との第四番、千葉は正直あまり感心しませんでした。四番なら…




ラトルのバーミンガム市響時代を代表する第四番、これも演奏者と作品の相性がいいですね。一定の形式にそって展開するのではないこの作品のアイディアをここまで拾って説得的な音楽にできているのは、当時の彼らの充実を示すものかと。

では第十三番で何か別のオススメできる盤があるか、といえば今のところ決定打を欠く印象です。ハイティンクの充実したサウンドによるものも悪くないし、冷戦後に幾つか登場したバルシャイやキタエンコによる「ソヴィエトを知る指揮者&西側のオーケストラ」の盤もいいでしょう。でも個人的にはコンドラシンの盤を超えないかな、どうだろう…と見ています。

あまりに間を空けてしまったので、今日はリハビリということで、軽めに書かせていただきました。ショスタコーヴィチを聴いて社会に思いを馳せる、ということの困難もそのうち書ければな、と考えておりますが、そっちは軽くならないだろうなあ…では本日はこれにて。ごきげんよう。