2019年12月19日木曜日

かってに予告編 ~東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別「第九」演奏会

2019年12月
  19日(木)19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  20日(金)19:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
  21日(土)19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:チョン・ミョンフン
独唱:吉田珠代(ソプラノ)、中島郁子(アルト)清水徹太郎(テノール)、上江隼人(バリトン)
合唱:新国立劇場合唱団、多摩ファミリーシンガーズ(児童合唱)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」
エルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」

間もなく迎える2020年1月から新たなシーズンを迎える東京フィルハーモニー交響楽団は、昨年から今年にかけてシーズンの区切りを変更するにあたり、この一年を平成から令和への改元を祝う、変化の一年を寿ぐシーズンとして位置づけるかのように演奏会を行ってきた。そんな”一連のシリーズ”を締めくくるためだろうか、年末の第九公演もまたその一環として独自のプログラムで開催される。

新シーズンも見据えれば、チョン・ミョンフンが東京フィルとオーケストラの中核的なレパートリィをあらためて取り上げることでさらなる高みを目指していることは容易に察せられよう。2020年シーズンには「カルメン」、ベートーヴェンとマーラーの第三番を演奏するチョン・ミョンフンと東京フィルがその直前に披露する「第九」が、通例通りの年末イヴェントに収まるだろうか、いやない。SNSで東京フィルが伝えてくれているリハーサルからの言葉からも、その見識、意気込みのほどが伝わってくる。


(コメント全文はFacebookでご覧ください)


さて、先日私が秋山と東響の第九について書いた際に言及したことを今一度思い出してほしい。「今年は、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演がある」、「過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない」。そう、この公演もその意味合いから見逃すことのできない公演のひとつ、なのだ。

チョン・ミョンフンは、かつて東京フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音しているが、それはある意味でオーケストラの”統合の象徴”のような意味合いがあった。今となっては「彼の指揮だから、当時の合併直後のオーケストラでもここまで登ることが出来た」という記録にも思える。バッティストーニと首席指揮者に迎え、プレトニョフや自身との演奏会でより充実を見せるオーケストラとなら、果たしてどこまで行けるのか。そんな私たちの期待は、そのままマエストロと東京フィルのものでもあるだろう。
東京フィルの演奏は、第九のあとにも恒例の東急ジルベスターコンサートやニューイヤーコンサート、そしてNHKニューイヤーオペラなどで聴くこともできるのだけれど、まずはこの機会を逃す手はない、と私は思う。10年以上も前のレコーディングとは比べようもない、今のチョン・ミョンフンと東京フィルだからできる「第九」を、どれだけ高い期待で迎えても裏切られることはない。そう私から断言しておこう

なお、今回第九のあとに演奏されるエルガー:「戴冠式頌歌」より 第六曲「希望と栄光の国」は、みなさんもよくご存知の作品の原曲である。そうそう、開幕公演のバッティストーニのコンサートではアンコールに演奏していたことを思い出すなら、チョン・ミョンフンがシーズンの締めくくりにこの曲を演奏することに一層の感慨があるだろう。加えて言及しておくならば、今年退位した、マエストロの音楽的友人である上皇ご夫妻への思いもここにはあるのだろう。この一年だけではなく、この何十年かへの思いを乗せた、特別な演奏会を私も気合を入れて聴かせていただこうと思う。


(余計なお世話とは思うけれど、今回演奏されるのはこの曲の原曲)

ということで、私にとってこれまで経験のない年末二回目の「第九」に向けて、期待は高まる一方である。先日の秋山と東響は14型だったが、チョン・ミョンフンと東京フィルはこの顔合わせのことだから大編成のモダン編成だと推測していいだろう。で、私の三回目の「第九」は…という話はまた次回に。ではまた。

※12/20のオーチャードホールでの公演は僅少ながらまだ残席があるとのことなので、この機会を逃したくない方は、ぜひ。

追記。
「第九のあとに別の曲を演奏する機会はもうないでしょう」とマエストロが語られた、という話をSNSでみました。さもありなん、とは思いますが、初日の好演を聴いたあとに私が「それなら」という思いでこれを聴いておりました。今年だからこそのプログラムに、この季節だから許されることとして。


2019年12月13日金曜日

かってに予告編 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

なにも、日本での「楽団のモチ代稼ぎ」というスタートにケチをつけたいわけでもなければ(諸説あります)、年中行事になってしまったことに批判的なのだよ、なんて強めの意志表示でも何でもなく、と前置きして。私には、年末に”第九”ことルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」を聴く習慣が、ない。たまに気が向いて録音を聴いたなら、その後はしばらく積極的に聴かないようにする、例年ならそのくらいの付き合い方をしている作品なのだ。なにせ扱いが難しい、ちゃんと聴いたら大変だし雑に聴くのは申し訳ない。

だが今年はそんなことを言っていられない。宗旨替えか、貴様ノンポリめ!…そんな罵倒を覚悟してでも(ないない)聴かねばならない、東京のオーケストラにポストを持つマエストロたちによる、期待せざるを得ない公演があるから、だ。過去にいくつもの演奏会で強い印象を残してくれたマエストロと楽団の顔合わせで、この作品を体験できる機会はそう多くない。こんな機会を前に、少しくらい日程が近いからなんだというのか。その最初の公演が、こちら。

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第152回

2019年12月14日(日) 14:00開演

指揮:秋山和慶
ヴァイオリン:シャノン・リー(第7回仙台国際音楽コンクール第2位 ※最高位)
独唱:吉田珠代(ソプラノ) 中島郁子(メゾソプラノ) 宮里直樹(テノール) 伊藤貴之(バリトン)
合唱:東響コーラス(合唱指揮・冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団

ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第一番 ト短調 Op.26
ベートーヴェン:交響曲第九番 ニ短調 Op.125 「合唱」

秋山和慶と東京交響楽団の恒例イヴェント、「第九と四季」は昨年をもって終了した。だが今年も東響との第九は演奏される、それもミューザ川崎シンフォニーホールで。

この夏に、「フェスタサマーミューザKAWASAKI」の出張サマーミューザ@しんゆりで聴いたブラームスの第一番は、休館明け直後の「ミューザの日」で演奏されたサン・サーンスの抜粋は、秋山和慶の端正な造形を超える何かの一端を感じさせてくれたように、私は思っている。それが何なのか、きっと「名曲全集」でもう少し示されるのではないか。長年の結びつき、だけでは収まらない秋山と東響の現在、多くの方が体験してくれますように。

なお、この公演では前半にブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番が演奏される。ソリストは第7回仙台国際音楽コンクール最高位のシャノン・リー、招かれてミューザの舞台に初登場だ。



この動画で彼女の演奏をまず聴いてみるのもいいだろう。選曲がちょっとコンサートの前に聴くには向かない気もするけれど。


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あと一回は、いわゆる第九を聴くのが決まっているのでその予告も書くことになります。どうもチケットは完売した模様なのですけれど。ではまた。

竹中亨「明治のワーグナー・ブーム ~近代日本の音楽移転」の話、と

さて読んだ本の話を。



ちょっとタイトルからの予想とは違った。もっとドタバタした感じを予想していたし、もっと無理やりな受容史をどこか想像していたのだなあ、とこの肩透かし感から思い当たるけれど、そんな先入観も仕方のないものなんですよう、と少し言い訳から始めたい。

たとえば。「モオツァルト」という有名な評論がある。まあ、名著と他人の評価に乗ってしまってもいいんですけど、今の目ではちょっと厳しいところも多い。”上演されてもモーツァルトのオペラを音だけで聴くわ”とかのくだりは本当にキツい。もっとも当時、戦後日本で良いオペラの上演を期待するほうが確かに夢想しすぎではあるので、気持ちは汲んであげられなくもない、とも思うけれど、ここまで評価されている本でも時代には囚われざるを得ないのだ、ということは指摘したい。
そう、時代の制約というのはいつでも誰にでもあるのである。私だって今のYouTubeやスポーティファイの、またはオンラインラジオ配信時代の人から見れば(なんであの人これ聴いてないの不勉強だよね)と思われていることだろう。そう、CD世代なんてもう時代遅れで情報量勝負なんかしたら勝ち目がないのである。もっともそんな勝ち負けなんてどうでもいいのだけれど。

え〜つまりですね、戦後ですら、冷戦期ですら、21世紀になってすら…どの時代だってそれぞれの制約あって音楽を受容している、そういう認識をまず前提に置きたい。そういう話です、回りくどくてすみませんね。技術が発達した今も時代の制約はある、ましてや明治期においておや。文明が開化する前の時代からの洋楽受容、ドタバタしないほうがおかしいと思うのですよ。まして、モオツァルトですらオペラ体験は諦められていた時代の「ワーグナーブーム」ですよ?ドタバタだったり無理やりじゃないと考えるほうが難しくないですか?(正当化)タイトルからは、そんな面白おかしい本なのかなって想像したんですよね。

ですが本書はそういうドタバタなエピソードや、明治期の”ざんぎり頭を叩いてみれば”的風刺を集めたものではなく、まっとうな研究成果でした。副題の「近代日本の音楽移転」をていねいに追い、歴史的経緯をきちんと読み手に認識させるものです。その中で紹介されるエピソードも悲喜こもごものドラマを感じさせるもので、個人的には大河ドラマ「いだてん」のスタイルでドラマにしてほしいくらいに興味深い。欧州文化との対峙ということであれば、スポーツより音楽のほうが先行しているわけですし。
そうですね、前半は考えるとして、後半の主人公は小澤征爾さんで「ボクの音楽武者修行」をベースにするのはどうですか。なにより映像化されれば音楽もつくから映えると思います。コンクールをクライマックスにできるから「のだめカンタービレ」「蜜蜂と遠雷」に続け!ってなもんですよ!!…もっとも、考証がすっごく大変になりますけど…(えっ本気だったの)

ちなみに。本書のタイトルが示す「ワーグナーブーム」、なんと音はほとんど聴かないで、それでも流行ったというなかなか味わい深い現象なのでした。気になった方は本書を、ぜひ。


そしてクレメンス・クラウスのワーグナーが私の最近のマイブーム(©みうらじゅん)。クラウスがあと数年でも生きていたら、いろいろ違ったんじゃあないか、なんて思う今日このごろ。

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さて。せっかく名前を出したので、ここでいよいよ最終回を迎える「いだてん ~東京オリンピック噺~」の話をします。傑作です。

いつも書いている通り、私は来年の世界的大運動会をスルーします。ここでは何も書きませんし、Twitterなどでも言及しない、できるだけ開催期間には都内にも行きません(なぜならフェスタサマーミューザKAWASAKI 2020があるから←運動会関係ないじゃんねえ!)。
そんな私はこのドラマにどう向き合ったかといえば、初期の「タイトルロゴのトリスケルが気持ち悪い」(横尾忠則のデザインでそう反応できる初さがちょっとうらやましい)だの「来年のための広告かよったく」「この視聴率…」なんて世評とは無縁に、初回から今に至るまでずーっと楽しく見てきました。もっとも初回を見るまでは私も(実際のオリンピックのためのもんだったら引くなあ…)と思ってました。しかし凝りまくった初回の構成に魅了されて、それ以降は録画してでも見逃さずここまで伴走してきました。楽しかったなあ…

大河ドラマについて、私はそんなに熱心な視聴者ではなかったのですが「龍馬伝」以降はたぶんほとんどのエピソードを見ているはず、です。その前だと仲間由紀恵見たさに…いやその話はいいか。それ以降だと「平清盛」は本当に、最高に面白かったですよね(再放送されてほしい。ちゃんと見ればわかってもらえると思うので)。
一年かけてひとつの大きいドラマを描ける大河ドラマという枠は、うまく使えば凄まじいものにもなりうるし、まあそれほどではなくても長く見ていればそれなりの愛着は湧くものです。そんな私でも無理だった作品は(自重)。余談の余談はこのへんで。

ここで紹介した本もそうですが、そもそも開拓者の話は先が見通せずに苦労することの連続でございます。そのドラマが現在進行形で描かれるなら、成功物語の中の過去のエピソードとして語られるそれとは違い、上手く進まない試行錯誤の繰り返しだってありましょう。
たとえば本作、前半の金栗四三時代を「よく知らない人の、あまり楽しくもない話」と見る人もいたでしょう。だがしかし彼の、また天狗倶楽部たちの時代になされた苦闘があったからこそ、ドラマは1964東京オリンピックに到れる、そう宮藤官九郎はじめ制作陣は考えた、のだろう。
実際のオリンピックはまだ知らないが高邁な理想を世界と共有する国際人(で何より面白い人)嘉納治五郎、走ることだけが得意な金栗四三、その二人を軸としつつ有名無名の人々を虚実ないまぜにしながら(壮絶なほどに”実”の分量が多いのが「いだてん」の凄いところで困ったところでもあるだろう)、狂言回しに後の古今亭志ん生を配して時代を活写しつつ明治から大正へ、そして第二部の主人公、田畑政治が激動の昭和を生き抜いて1964年に至る遠い道の、その始まりをまず用意した。
初参加のストックホルムから戦後の復帰まで、先行者たちの苦労と成功と巨大な失敗があって1964があり、それとどう関係するかはよく知らないが2020が待っている。来年のそれが、「いだてん」に描かれた先行者たちの苦闘を無に帰してしまわなければいいと思う気持ちはあるが、大運動会そのものの回避を決めている私には関係のないことである。諸行無常。

一年見てきた中でも、忘れがたい場面はカイロでのIOCでなんとか東京開催を取り付けたあとの帰路、船中でまだ外交官の平沢和重と嘉納治五郎が「一番面白かったこと」を語りあったところだ。私の中では完全に「神々の黄昏」の終盤、ジークフリートの昔語りに重なってしまって、もう楽しげな話を笑顔でしている二人を見ながら泣けて泣けて仕方がなかった。
このエピソードの前、嘉納先生は多忙に過ぎて”いだてん”のことすらすぐには思い出せない状態で、ある意味で自分の過去を裏切っていた。また田畑が問うとおり開催に向けて活動するオリムピックを「これがあなたが世界に見せたい日本なのか」と信頼する身内に否定されてしまっている、恐ろしいほどの孤独の中にあった。それでも恐れず前進を続けた英雄は、裏切り者に刺されたのではないけれど前を向いたままに亡くなってしまった。宮藤官九郎が描出し役所広司が演じ、スタッフが作り上げた嘉納治五郎は最後の瞬間まで楽しさを基準に物事を捉える痛快児のまま退場していった。こんな英雄の、最後の回顧を死亡フラグなんて安い言葉で収めたくはない。



さて、少しだけ音楽的思いつきも書いておきましょう。まずはこの場面を御覧ください。



開会宣言に続いて演奏される、公募で採用された今井光也によるこのファンファーレ、映画では強調されませんけれど「東京オリンピック ファンファーレ マーチ」とかで検索すればもっと鮮明に全曲聴くことができます。適当なものがなかったのですみません。

で、ですね、このファンファーレのあとに古関裕而作曲のマーチが続く、というのが演奏会などでは一般的なものなんですけれど。
どうだろう、このファンファーレのあとに「いだてん」テーマ曲を演奏するのは。行進なんかじゃあ収まらない、大好きなものへと駆け出す思いが意外にハマるんじゃないかなあ。最終回を前に、そんなことを考えている私なのでした。

2019年12月9日月曜日

BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」

●BS世界のドキュメンタリー 「トマト畑のワーグナー」 (12/10 18:00~ 再放送予定)

ワーグナーを聴かせてトマト作り、と言われるとまずは信憑性に疑問を感じる「モーツァルトを聴かせて熟成させた」的なものを想起する。だからこの番組も疑似科学的な、半分ネタ的な話なんだと思って見始めた。まあ、ワーグナーが流れるなら守備範囲でもありましょうし。
だが見終わって言えるのは、このドキュメンタリーは高齢化日本でこそ広く見られてほしい、ということだ。過疎の地元を離れて大学で学んだ男が、地元に戻ってトマトを作り、そのトマトでソースを作り…と、この番組はそんなチャレンジの物語だった。そしてここで描かれていたのは高齢化の先に見える希望がない地域でどうやって未来を作るのか、ということだ。タイトルの含意は、そのどこにでもあり普遍性あるのエピソードの中に、ワーグナーの音楽もあった、というだけの話だった※。そして流れた音楽はワーグナーだけではなく、プッチーニやギリシャ音楽も流れるし、トマトを育てることと音楽との関係も語られている。なんでも、「味を求めるならワーグナーだが、収量を求めるならギリシャ音楽」なのだとか…(笑)



※しかしタイトルは原題も「When Tomates Met Wagner」なので、この邦題がツカミ狙いのものではないことを付記しておく。

ワーグナーを聴かせて無農薬トマトを育て、そのトマトでオーガニックフードを作って販売していく過疎の、高齢化の村。手作りの素朴で味のいいトマトソースは、その過程でビジネスに出会い、試行錯誤する。差別化のためチアシード入りソースを求められて試行錯誤する終盤はなかなか味わい深い。いい味の品を作れている自信はある、だがそれだけではニーズに応えられない。高齢化の村が現代のグローバルなビジネスに出会って戸惑うさまも、普遍性のある出来事だろう。そして何より、少子高齢化のこの国では、この村が示すものは決して絵空事ではありえない。劇場上映であればちょっと見に行きにくいかもしれないが、せっかく我れらが公共放送が放送してくれているので、ぜひ見てみていただきたい。その先の思考は、視聴した私たち、それぞれの仕事である。

>NHKオンライン BS世界のドキュメンタリー

2020-2021年度 ミューザ主催公演 ラインアップ発表

ミューザ川崎シンフォニーホールの次年度主催公演ラインナップが12月6日、発表された。すでに東京交響楽団の新シーズン公演として発表済みの「名曲全集」「モーツァルトマチネ」については別記事で詳報するため本稿では割愛(必要に応じて参照)する。最終日の「ほぼ日刊サマーミューザ」で告知済みの「フェスタサマーミューザKAWASAKI2020」(7月23日〜8月10日)も同様。

各公演について詳しくはリンク先でご覧いただくとして、やはりひとつ取り出して語られるべき焦点は秋の「スペシャルオーケストラシリーズ」になるだろうと思う。今年は10月にノット&東響の「グレの歌」を、そして11月にパーヴォ・ヤルヴィとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、アンドレス・オロスコ・エストラーダとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ズービン・メータとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が立て続けに登場する、これ以上はなかなか想像できない程の濃密さであったが2020年はどうか。結論を言ってしまえば喜ぶべし、来年もいずれ劣らぬ三つのオーケストラがミューザの舞台に登場してくれる。10月3日にサー・サイモン・ラトルとロンドン交響楽団、11月に入ってワレリー・ゲルギエフとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とバイエルン放送交響楽団(指揮者未定)のコンサートが予定されている。

ここでまず触れなければいけないのはバイエルン放送交響楽団について、だろう。印刷されたパンフレットや、リンク先でご覧になった方もお気づきのとおり、この公演はマリス・ヤンソンスの指揮で予定されていたものだ。聴衆からも音楽家の同僚たちからもますます尊敬を集めていたマエストロの訃報は多くの方がご存知のことと思う。ミューザ川崎シンフォニーホールのサウンドをこよなく愛してくれた、かつて「アルヴィド・ヤンソンスの息子」として、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団を率いる注目の若手として現れ、昨今では押しも押されもせぬ巨匠となった彼が、このホールに次に登場することはない。

12/7に訪れたミューザ川崎シンフォニーホールでは、彼の生前の写真を掲出してその死を悼んでいた。

「ミューザのような素晴らしいホールをこのオーケストラのために」と尽力していたさなかの死は無念であろうと想像する。また、PDFデータ版からマエストロの写真と予定されていた曲目を削除しなかったことからも察せられる、ミューザ川崎シンフォニーホールの無念も如何ばかりか。バイエルン放送交響楽団とコンセルトヘボウ管、ふたつのオーケストラと見事な演奏を、最高のホールで披露してくれた相思相愛とも言えたヤンソンスとミューザ川崎シンフォニーホールの関係は、予定されていた来年には続かなかった。もう彼のブラームスは聴くことが出来ない。奇しくも彼の亡くなった日の、一年後が公演予定日だった。


ヤンソンスと同様にこのホールを愛してくれている(そして地元にミューザのようなホールを作ろうと奔走している)サー・サイモン・ラトルが現在率いるロンドン交響楽団との初のミューザ公演に、マーラーの交響曲第二番を用意していたことに、なんとも言えない感慨を覚えるのは私だけではないだろう。ラトルにとって指揮者を目指すきっかけの一曲であり、愛するホールの聴衆に自らのパートナーを紹介するために選んだのがこの作品であることは想像に難くない。ラトルにとってもマーラーの第二番は特別な作品であるし、それを東京公演ではなくミューザに持ってきてくれることの意味はそれだけでも十分に重いものだ。ラトルとロンドン響の新時代が活気あることは前回の来日公演を会場で聴いて、また放送や録音などで見知っている方も多いことと思うので、この公演への期待はそれだけでも高いものとなる。長年のファンとしても、来年の最大の注目公演としてフォントを大きくして書いておきたい。
だが、このタイミングでこのプログラムが発表されることに、ついヤンソンスのことも考えてしまう。ベルリンを退任後にバイエルン放送響との録音もしているラトルが、彼の死を悼むために用意したプログラムではない、そんなことはわかっていてもつい考えてしまう。これはラトルとヤンソンス、現代を代表するマエストロたちがミューザに寄せてくれる愛がなせるめぐり逢わせ、なのだろうか。


今年はサマーミューザにPMFオーケストラと登場したゲルギエフがウィーン・フィルと何を聴かせてくれるかは調整中とのことだが、現在マリインスキー劇場管と素晴らしいチャイコフスキーを披露しているというマエストロがどんなプログラムで私たちを驚かせてくれるか、期待しよう。

なお、前述したとおりロンドン響(10月)からウィーン・フィルとバイエルン放送響(11月)の間には短くない空白があるように見えるが、この間にはノット&東響の「ペレアス」・「トリスタン」定期やモーツァルトマチネ(リゲティまで演奏!)、名曲全集(矢代秋雄!!ブルックナーの第六番!!!)もあるので、否応もなく充実した演奏会が二ヶ月も続いてしまうのである。サマーミューザと並ぶもう一つの”高峰”は、来年も相当な高みに私たちを導くことだろう。

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恒例のシリーズ公演の中で、大きめの変更が行われるのはランチタイム/ナイトコンサートだ。同じアーティストが趣向を凝らしたプログラムで昼・夜の二回公演で(しかも廉価で!)楽しませてくれていたこのシリーズは、新年度には基本的にランチタイムコンサートのみのシリーズとなり、一部の公演で別シリーズとして行われてきた「ワインBAR」シリーズとして併催される。また、ミューザ自慢のオルガンを披露する機会となるランチタイムコンサート(4、7、11、翌年3月)ではオルガンツアーも新設されて、日頃は見られないミューザの舞台裏を回れるということなので、ミューザファンの皆様には続報をお待ちいただきたい(来年1月に詳報予定とのこと)。

また、年明けて2020年1月から始まる「MUZAスペシャル・ナイトコンサート」の新シーズン(2020年6月~)も発表されている。スライド・モンスターズにナベサダのビッグバンド、ザ・キングズ・シンガーズと、日頃のミューザに登場する顔ぶれとは一味違う面々のサウンドがこのホールにどう響くか、注目しよう。

他にもいくつもスペシャル・コンサートが発表されたが、中でも注目したいのは聖金曜日の翌日にバッハ・コレギウム・ジャパンが披露してくれる「マタイ受難曲」だろう。残念ながらミューザ公演はないのだが、鈴木優人が東響とメンデルスゾーン版を披露した直後のタイミングで鈴木雅明がBCJとオリジナルのマタイを、ミューザで披露してくれる。あの劇的にすぎるとまで当時は評された作品がミューザでどのように響くものか、大いに期待したい。

そんなわけで、新シーズンもミューザ川崎シンフォニーホールはその響きに見合う、素晴らしい音楽家たちが続々と登場してくれる。一人でも多くの人に、その最高のサウンドを体験してほしいものだ、といつものように感じた私である。今シーズンの公演もまだまだ続くので、ぜひ川崎駅前のミューザ川崎シンフォニーホールに足をお運びいただきたい、と一人の市民として申し上げよう。

追記。公開後にバイエルン放送協会のこの動画を見つけた。冒頭メータ、ラトルと続くのがまた、何かのめぐり合わせに思えてしまうのだった。



2019年12月6日金曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第73回 / 第676回定期演奏会

2019年12月
  7日(土)14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
  8日(日)14:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:マーク・ウィグルスワース
ピアノ:マーティン・ジェームズ・バートレット
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第二四番 ハ短調 K.491
マーラー:交響曲第一番 ニ長調

個人的な話で恐縮だが、12月定期に登場する二人の音楽家とはタイミングなど合わず、今回ようやく実演に触れられるだろう、という運びであることを申し上げておく。好評を受けての再登場、それ故に私もこうして”新しい”音楽家に出会えるわけである。皆さまのお声があって、東響がそれに応えてくれているおかげである。有難いありがたい。

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指揮のマーク・ウィグルスワースだが、私が彼の名を知ったのはあるディスクを新譜情報の中に見つけたときだったと思う。その盤はマーラーの「大地の歌」、しかしシェーンベルク/リーンの編曲による室内楽版、というもの。まだ男声二人による録音もそれほど多くはない頃に、このような謎の版※を選ぶ彼は何者なのか。そう思ってはみたけれど、その音を聴くには先立つものがなかったその頃のこと、私は名前のみ記憶して現在に至っている。

※ウィグルスワースの録音は1995年、それに先行してフィリップ・ヘレヴェッヘとアンサンブル・ミュジック・オブリークが録音していたことは後になって知り、その盤は今も愛聴している…という話は前にも書いた気がする。

そんな昔のことを思い出し、彼のサイトでディスコグラフィを確認してみれば何ということでしょう、実に私向きの曲ばかり録音していらっしゃる。東響への来演も五回目になるというのに何をしていたのか、と反省頻り、である。いや、いよいよ聴く機会が来たのだと、ポジティヴに捉えておこうか…



そしてもう一人、ピアニストのマーティン・ジェームズ・バートレットは、私がウィグルスワースという指揮者の名を知った頃に生まれたという、若き才能だ。もっぱら「オーケストラに客演してくれることでしか新しい独奏者に出会っていない」タイプの人間が、2018年3月に登場した際に聴き逃したのは実に惜しいことだった。場合によってはこれが生涯の痛恨時ともなりかねないほどに、彼はキャリアを順調に進めているようだ。アンドラーシュ・シフにマスタークラスに招かれ※、今年は初のCDもリリースし…と順風満帆で東響の公演に再登場してくれるわけだ。アーティスト写真として使われている写真と、CDジャケットの写真で相当に雰囲気が変わっているから、きっと今回登場する彼もより大人びた感じになっているのかな、などと想像する次第だ。

※ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでのマスタークラスはYouTubeで視聴できる。コミュニケーションの中で音楽が作られていくさまは実に興味深い。


…と、私にしては珍しく公演の紹介を人の話ばかりしているが、それもそのはず今回のプログラムはもはや王道ともいうべき「モーツァルトのピアノ協奏曲とマーラーの第一番」というもの、私ごときが掘り下げるまでもなく演奏会が楽しめよう、と思ってしまうからである。
もちろん、ここにも当然”企み”は存在している。まず「モーツァルト晩年の協奏曲を若き才能が」演奏し、「マーラー若き日の意欲作を円熟のマエストロが」演奏するという、あえてのミスマッチがここにはあらかじめ組み込まれている。そして、先日のノット監督とのマーラー、モーツァルトを経験した後でのこの二人の作品を東響がどう響かせるか、そして客演する二人の音楽家の個性は。幸い、12月定期は本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールとサントリーホールでの二公演が予定されているので、「初日だが本拠地」もしくは「二日目目のサントリー」、お好みでお選びいただくのもいいし、いっそ両日を聴き比べるのも楽しいだろう。昨今の東響は同じプログラムを重ねて演奏するたびに表現を深め、その都度新鮮な演奏を聴かせてくれることは約束されているのだから。

2019年11月22日金曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第112回/モーツァルトマチネ 第38回

●東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第112回モーツァルトマチネ 第38回

2019年11月
  23日(土・祝) 14:00開演 会場:東京オペラシティ コンサートホール
  24日(日) 11:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
オーボエ:荒絵理子
管弦楽:東京交響楽団

リゲティ:メロディーエン ※23日のみ
R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調 AV.144
モーツァルト:交響曲第四一番 ハ長調 K.551 「ジュピター」

ノット&東響のモーツァルト、といえばまず思い出されるのはあのダ・ポンテ・オペラだろうか。あれほどのモーツァルトを経験できたことは実に幸福なことで「生涯の記憶になった」と言ってしまっても全く過言ではない。自由自在でちょっとしたフレーズからもドラマが立ち上がるモーツァルトは、スダーン時代の古楽寄りのアプローチから大きく飛躍した演奏で、即興性とドラマの両立、そして何よりそのスリリングな美しさは特筆ものであった。
そしてノット&東響の古典は演奏といえば、この夏に披露されたベートーヴェンの第一番を思い出さないわけにはいかない。作曲家への、作品へのイメージを覆してくれたあのスリリングな体験を、今度はモーツァルトで!しかもK.551!!と、いくら期待したって期待しすぎということはないだろう。

そしてそのモーツァルトへ、第二次世界大戦を経て”回帰”したシュトラウスによる古典的なオーボエ協奏曲は、同時代の「新古典主義」との落差についいろいろと考えてしまうところがある。だがしかし、古典派の作品や彼のオペラを想わせるその音楽はどこまでも美しく、作曲の経緯や時代、作曲者の思いからは少し離れて音楽に身を委ねたい気持ちもある。さてノット監督はどちらの方向からこの作品を聴かせてくれることだろう(全く違う方向かもしれない、と思わせるのが昨今のノット&東響のスリリングなところである)。
独奏は東響が誇る首席奏者、荒絵理子だ。先日の定期、あのマーラーでも存在感を示した彼女の、また違った音楽性を堪能しようではないか。

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そして23日のオペラシティ公演でのみ演奏されるリゲティだが、今年の7月にノット&東響が披露した作品群よりは小さい作品だ。1960年代の「2001年」で使われた作品群や、1980年代の高度に複雑化された作品群とはまた違う、旋律的なリゲティ・サウンドが私たちの耳を鋭敏にしてくれることだろう。








Play Back!フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 東京交響楽団 オープニングコンサート

もはや2019年回顧の季節が近づいてからですみません。ようやくお出しできるようになりました。これから続々お出しします。

●フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 東京交響楽団 オープニングコンサート

2019年7月27日(土) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:タマラ・ステファノヴィッチ
管弦楽:東京交響楽団

バリー・グレイ:「ザ・ベスト・オブ・サンダーバード」〜ジョナサン・ノット スペシャル・セレクション(オリジナル・サウンドトラックより)
リゲティ:ピアノ協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第一番 ハ長調 Op.21

「酷暑の夏を過ごすなら、空調が十分に効いたコンサートホールで」というのは半分冗談で言ってきたことなのだけれど、灼熱の七月も下旬までくればもう冗談にもならなくなってきた、フェスタサマーミューザの開幕はそんな時期だった。
私個人で言えば、先週の凄絶な演奏会を経たから、ようやくお祭りの開幕を喜べる。先の長い話に思いは残るけれど、まずは目の前のフェスタに向き合おう。そう切り替えて開幕公演へと向かった私である。

この数年の恒例となりつつあるノット&東響による開幕公演は、例によってというべきか独特ながら魅力的な作品が並ぶプログラムだが、その読み解きについては予告として書かせてもらったのでここでは割愛。編成は一曲目に演奏された「サンダーバード」がこの日では一番大きく、変則の16型だった。当然ながら、コントラバスが下手に来る対向(両翼)配置だ。

いろいろと注目を集めた「サンダーバード」について、リハーサルが始まった段階でオーケストラがこんな投稿をしていて、はてどんな編成かと思っていた。



オーケストラが入場して着席して得心する、ダブルリード・セクションがそのままサクソフォンで代用されているのである。この編成、聴いてみればなるほど、スタジオのバンドに求められる多彩な音色を表現出来て、加えてクラシカルにポピュラーにと、多様なジャンルに対応できる経済的というか効率のいい編成なのだった。
だがこの曲の演奏についてまず触れなければいけないのは、かつて見たことのないレヴェルだった、ノット監督のノリノリ具合だろう。入場時の笑顔からしていつも以上、冒頭のキュー出しが待ちきれないような指揮台上の素振りは本当に「子供時代の夢、憧れ」を今から音として示すことへの喜びがあふれるようであった。監督が楽しそうで私も幸せである(このコンサートでは何度もそう思ったので、この点についてこれ以降は割愛する)。ある世代の子どもたちが固唾を飲んで見つめたあの映像が蘇る、不協和音からの猛烈なアレグロへの展開も、最近ますます安定感も出てきた東響の厚みのあるサウンドで奏でられ、堂々たるセレクションが開幕を飾ってくれた。

そうそう、事前にシンセサイザーの岡野氏がこんなツイートをしていて気になっていたのだが。



なるほど、あのカウントダウンはシンセサイザーから鳴らして呼応する不協和音がオケから、ということだった。ミューザのリニューアルで新しくなったPAの威力もフェスティヴァル開幕早々に発揮されたわけである。

次に演奏されるリゲティの協奏曲のためのセッティングで動かされる舞台セリに、私の脳内では「サンダーバード」の反芻が止まらない(もっとも私だけかもしれない、ヤシの木が倒れてマスドライヴァー風の滑走路が登場する映像が見えていたのは)。

さてこの独特なピアノ協奏曲の弦セクションは6型、管は各一人、そして打楽器も一人。なのだが、よくあるティンパニ一人ではない。そのあたりについては、このツイートも参照してほしい。


この日の独奏者はエマールの共演者としても知られるタマラ・ステファノヴィチ。こう書けば(あっモダンな作品に相当強いひとだ)と伝わることと思うけれど、そんな彼女もまた面白ツイートをしていた。



この日の演奏を体験すればタマラの言うこともわかる、事前に準備を進めてきた東響から、あえて打楽器の話が出てくるのもわかった。この作品ではピアノの打楽器的性格を強めてリズムをより強く示し(それも相当に複雑なそれ!)、そのダブル(影であり分身)として打楽器を用いているのだ。ずれながら呼応し合うピアノと打楽器はもはや二人のソリストとして、どこまでも独自でスリリングな音楽を展開してくれた。これだけの複雑な曲なのに演奏が終わってみれば場内は大喝采、その盛り上がりにむしろ戸惑っているかのようなタマラ、マエストロ、水谷コンマスの姿は微笑ましくもあった(先日の「レクイエム」でもソリストの二人はどこか戸惑っていた、そういえば)。


演奏者各位にももちろんなのだけれど、ノット&東響が関係を深めてきた道のりをともにし、「名曲全集」が多彩な選曲をする中で幅広い音楽を受容してきたミューザ川崎シンフォニーホールの聴衆にも、私から拍手を送りたい。かつてなら、サントリーホールや東京オペラシティでしか体験できなかっただろう積極的な受容がここでは行われている、と感じられる最近のミューザの聴衆の反応は実に喜ばしい。最高の音響に見合った聴衆もまた育っているのだ、と思える瞬間がここにはあった。この日の演奏会からミューザでも「オーケストラの入場時に拍手で迎える」のが定番となってきたように思うけれど、この日は何より「東京交響楽団の皆さん、おかえりなさい」という再会の喜びがあったように感じられた。

そしてメインに置かれたのはノット監督がこよなく愛するベートーヴェンだ。だがしかし、ここにその曲を置くのか?と少なくない聴衆がプログラムを見たときに思ったことだろう。大編成のサウンドトラック、そして20世紀の独特な協奏曲の後に、まさかの第一番なのだから。
師であるハイドンの影響をまだ強く感じさせるこの交響曲は、第三番、第五番のような巨大な革新を成し遂げた作品とは言いにくいし、第七のような人気曲でもない、もちろん第九のように誰もが知る音楽でもない。しかしモーツァルトやハイドンとは明らかに違う個性がある難しい作品、であればコンサートでの”居場所”をなかなか見つけにくい作品とも言える。その作品をメインに置いて、果たしてどのような演奏が行われるものか、その音楽は私達を納得させてくれるのか。もちろんノット&東響への信頼はある、それでも実際に聴いてみなくちゃわからない…そんな期待と迷いが入り混じった休憩を経て、再び客席につく。12型(おそらく)の編成は、広いミューザの舞台には小さく感じられて、先ほどの迷いがまた頭をよぎる…
しかし、である。冒頭のトリッキィな序奏から始まった音楽は、若者の挑戦的な小品というよりは、「ハイドンの第一〇五番」とでも言いたくなるくらいのスケール感があった。雄弁、自由自在、気宇壮大、…そんな言葉が演奏を聴く中で次々と思い浮かぶ、作品への先入観を大きく覆すその音楽は、冒頭から最後の一音まで場内を魅了した。トランペットはロータリー、ティンパニはケトルといういつもの”ベートーヴェン編成”で安定したサウンド、力強さと繊細さが併存し、ときに無作法なまでにアイディアが飛び出してくる作品が内包していた可能性が次々に現れる、どこまでも刺激的な音楽、それがベートーヴェン最初の交響曲だったのだ。もちろん、リスクを恐れないノット&東響なので少々の小傷はあったけれど、緩急自在のテンポ感、変幻する表情はどこまでも魅力的なもの、圧巻の演奏だった。それだけの演奏を称賛する圧倒的な喝采でコンサートは終わった。
そうそう、ノット監督のカーテンコールでのノリノリっぷりは、後世まで語り継がれてもいいだろう。なんなら帰国の便にサンダーバード一号を手配して差し上げたくなるほどにご機嫌なそのカーテンコールで、酷暑の夏祭りの開幕は記憶されていい。マエストロの「Festa is GO!」に力強く背を押され、かくしてミューザの夏祭りは始まった、のである。

ここまでの大団円を予想していたわけではなかったけれど、この楽しさを期待して私はこのプログラムをホモ・ルーデンス、遊戯する人間のプログラムと読んだのだった。またいつもの「予想通り、期待以上」の演奏会に出会えて幸せであった。

かってに予告編 ~東京フィルハーモニー交響楽団 2019シーズン・11月定期演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 2019シーズン・11月定期演奏会

2019年11月
  22日(金) 19:00開演 会場:東京オペラシティコンサートホール
  23日(土・祝) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:ケンショウ・ワタナベ
ピアノ:舘野泉
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調
マーラー:交響曲第一番 ニ長調

東京フィルハーモニー交響楽団は、今年の前半に交響曲第八番から「大地の歌」、そして第九番とマーラー晩年の傑作群を演奏してきた。それもバッティストーニがオペラ的性格の強い第八を演奏し、精緻な管弦楽法が魅力的な歌曲集でもある「大地の歌」はオペラにも新しい作品にも強い沼尻竜典が取り上げた。そしてマーラーの遺した最高の作品と言ってもいいだろう第九をチョン・ミョンフンが凄絶な演奏をしてくれたのは忘れがたいところだ。
チクルスとして特別な機会を作ったわけでもないのにこれらの作品が充実した演奏で披露された後、マーラーを取り上げるのはなかなか度胸のいるところだろう。そこで誰が次にマーラーを、どの作品を取り上げるのか。ひそかに私が注目していた「東京フィルの次なるマーラー」が、この週末演奏される。なにも”恐れを知らぬ若者”を登場させようと誰かが企んだわけではないだろうけれど、指揮は1987年生まれのケンショウ・ワタナベ、選曲は一度最晩年まで進んだ「東京フィルのマーラー」をまたスタートラインに戻すように、交響曲第一番だ。若い世代の指揮者により奏でられる、作曲家若き日の交響曲に期待しよう。

まだ私も実演で聴いたことがないケンショウ・ワタナベについては、アシスタントコンダクターを昨シーズンまで務めたフィラデルフィア管弦楽団がこんな動画で送り出している。こんなに愛された若きマエストロが、世界への雄飛にあたってまずは東京フィルに登場する、そんな流れがちょっといい。



なお、最近ハンス・ロット作品がなぜか連続して取り上げられた後、ということでも今回の演奏会は注目だろう。

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さて、前半に置かれたラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲だが。
ヴィトゲンシュタインの委嘱による左手のためのピアノ作品の中でももっとも演奏される、なにより充実した作品を、現在ヴィトゲンシュタインに負けず劣らず積極的な委嘱・演奏活動で左手のためのピアノ作品を広めている舘野泉が演奏する。これ以上の説明は無用だろう。こちらも好演を期待する。

2019年11月16日土曜日

かってに予告編 ~東京交響楽団 第675回定期演奏会 / 川崎定期演奏会第72回

●東京交響楽団 第675回定期演奏会 / 川崎定期演奏会第72回

2019年11月
  16日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
  17日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
管弦楽:東京交響楽団

ベルク:三つの管弦楽曲 Op.6
マーラー:交響曲第七番 ホ短調

ありがたいことに、2019年は10月から三ヶ月連続で「ノット&東響」の演奏が聴ける。川崎市民である私には東京交響楽団は”我が街のオーケストラ”であり、そして東響は市が誇るミューザ川崎シンフォニーホールが本拠地なのだから、そこに音楽上の責任者が多く登場してくれるのはある意味自然なことではある。だが、この”自然”がなかなかにありがたい、有難いことなのだ。聴き手が願えば多忙なノット監督のスケジュールが開くわけではない…しかし今年、来年とノット監督はこの三ヶ月を東京交響楽団との時間に当ててくれる。それを喜ばないでいることなんて、私にできるわけがないじゃあありませんか。

ともあれ、この有難い三ヶ月も折り返しに来た。その中間点にあたる定期公演では、先月の「グレの歌」からの流れを意識したと思えるプログラムが披露される。シェーンベルクに大きい影響を与えたマーラーの交響曲をメインに、シェーンベルクに師事し、ともに十二音技法を開拓したベルクの、最も”マーラー的”な作品を前に置くプログラムはもはやそれだけでまったくスキのない、ある意味で完成されたものだ。20世紀初頭のウィーン音楽界が開いた”扉”を示し、そしてその道がどこにつながっていったかを一夜で示してくれることだろう。

正直な話、ここまで説明のいらないプログラムである以上、解題はそう必要ではないように思う。来場される皆様が、それぞれに予想し期待して各日の公演を楽しまれるのがよろしいでしょう。私からはただ一言、お聴き逃しなきよう、とのみ。

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とは言ってもそれで「予告」を名乗るのは気が引けますので、少々ここ最近の演奏会を踏まえて書いておきます(過去公演のレヴューが仕上がらない私をこれで許してもらおうとか、そういうことでは…)。

「現在東京交響楽団に所属している楽団員全員が舞台に乗った」というミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を見事な演奏で飾った「グレの歌」体験を経て、ノット&東響のサウンドはまた一段成熟した感がある。先日の台風のため、残念ながら定期公演は開催されなかった「問いを重ね、答えを探す」プログラムの冒頭、アイヴスで冒頭から弦が示した”無表情の表情”や、遅めのテンポでじっくりと問いながらも答えに至れないシューベルトの憂い気味の音色、そして若きブラームス作品の幅広い表現は、明らかに「グレの歌」以前の東響のサウンドから一歩も二歩も進化/深化した、より高められた表現力の賜物だった。

また、これは5月定期のときにも書いたことだが、東響のサウンドは日に日に充実の度合いを高めている。せっかくなので具体例をあげよう。
私は先日の名曲全集を前に、「第一一番の前の曲でもあるし」と思い、ノット&東響のショスタコーヴィチの第一〇番を聴き直してみた。あの欧州ツアーを前に披露されたショスタコーヴィチは少なくともその時点でのノット&東響の達成を示すものとして、価値あるレコーディングだと思ってきた、しかし今年に入って東響が披露してきたショスタコーヴィチ演奏、ウルバンスキとの第四、ノット監督と尾高忠明による第五、そしてつい先日の沼尻竜典との第一一番は、かつての東響の達成を超えている。上田仁以来のショスタコーヴィチ演奏の伝統は伊達ではないのだけれど、その蓄積に加えて明らかに音楽的に充実したショスタコーヴィチは、そのまま現在の東響の充実ぶりを映すものだった。
人が集まった集団のなすことだから、オーケストラの表現の進化/深化は、時には遅滞しときに長足の進歩を遂げたりと一定では進まないものだ。だが今の東京交響楽団は、ノット監督との演奏会のたびに数段飛ばしで階段を駆け上がるように表現を深め、その経験を客演陣ともわかちあって「どの演奏会に行っても興味深い経験ができる」状態にある。これを黄金期と言わずしてなんと言おうか。
そうした変化、成長を示す東響が、このスキのないプログラムを披露するのが11月の定期演奏会だ。幸いなことに、サントリーとミューザの二回も公演があるので、一人でも多くの都合の合う方が聴かれることを私は心から希望している。先ほども書いたとおり20世紀初頭のウィーン音楽のある側面を切り出した興味深いプログラムであり、それはそのままノット&東響のマーラー、新ウィーン楽派演奏の集大成であり、来年の「トリスタンとイゾルデ」に直接つながる演奏会となる。これを聴かないなんて、ありえない。



(なんとなく来日中の彼ら彼女らに敬意を示してみました)

2019年11月7日木曜日

かってに予告編 ~ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第151回

●ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第151回

2019年11月10日(日) 14:00開演

指揮:沼尻竜典
ピアノ:ユッセン兄弟
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:三台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242「ロドロン」(二台ピアノ版)
ショスタコーヴィチ:交響曲第一一番 ト短調 Op.103「1905年」

はい、雑な世界史の授業です。今日はみんな大好き()ロシア革命の話をします。
「ロシア革命」には第一次とされる失敗に終わった1905年の蜂起、そしてソヴィエト社会主義共和国連邦が成立するに至る第二次(1917年)があります。授業終わり。

というのは雑すぎるけれど、今回必要な最低限の、さらに最低限の知識はこれだけじゃないかなあ。そのバックボーンとなった思想や、当時の社会構成、実際の蜂起についてのあれやこれやを知らないといけません、とは私は思っておりません(この辺が相当に雑)。もちろん、ロシア革命とその顛末は知れば知るほどに興味深い世界史上の出来事ですが、その事実関係については山のような書籍が出ております。それを手当たり次第に紐解くのがよろしいかと思いますので、ここでは別のアプローチを提案しますよ。それは「その時代を生きた人たちのお話を聞いてみよう」というもの。とは言っても私たち市井の個々人がソ連時代の証言を聞いて歩けるわけもなし、であればこんな映画でどうだろうか、というのが今回のご提案です。
幸いなことに、セルゲイ・エイゼンシュテインという卓抜した才能がその時代を描いた作品を作ってくれていますから、それを見ていただけばその時代の空気に触れることもできましょう、そしてこれらの映画を見終わった後には立派な”同志”諸君の出来上がりです。あ、最後のは冗談ですよ。

「ストライキ」

「戦艦ポチョムキン」

「十月」


三作を続けてみるのもなんですか、良薬もさすがに取りすぎりゃあ「毒」ってなものですから、ここは「戦艦ポチョムキン」と「十月」だけでもぜひ(それでも二本かい)。前者で権力に撃ち斃される民衆を、後者で勝利するボリシェヴィキを見ておけば、少なくとも雰囲気だけなら掴めましょう。

それでも、映画見るのも大変でしょう?なんて思っているあなたに、たった二時間弱で第一次も第二次もわかっちゃう、秀逸な二つの交響曲があるんですよ。ショスタコーヴィチっていう人の、第一一番と第一二番なんですけどね。はい、ここまでが前ふりです。映画をご覧いただいた皆さんはここにたどり着くまで何時間かかるんでしょうか(笑)。

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今年はなんのご縁なのか、ここまでに数多くのロシア、ソヴィエトの傑作に触れることが出来た。ロシア音楽がフェスタサマーミューザKAWASAKI2019のテーマ的な扱いだったおかげもあるけれど、ムソルグスキーやハチャトゥリアンの秘曲(演奏しにくい編成だってだけですが)からチャイコフスキーやショスタコーヴィチのド名曲の名演まで、あれもこれも本当に刺激的だったなあ…なんて思う私ですら、かなりの聴き逃しがあるくらいには多くの作品が取り上げられてきた(口惜しいので何を「聴き逃した」と感じているかは書かない)。そうした機会を迎えるにあたって、つどつど予告を書いてきた余録がそろそろあってくれるはず…と思ったのだけれど、かなり簡単にしか触れていない。だがそこで書いたことをこの作品について書く前にもう一度書いておこう、「おそらく、プロパガンダを強制された中で達成された最良の作」と。

1953年にスターリンが亡くなって、少しはマシな状況になったのだろうショスタコーヴィチは、それまでのようには交響曲を多作しなくなる。もちろん、年齢的なものや手法的な模索など、それぞれの理由はあると思うけれど、「DSCH」という音による自らの署名をフォルテッシモで叫んだ第一〇番のあと、1957年までショスタコーヴィチは交響曲を発表していない。この空白あって生まれたこの第一次ロシア革命を題材とした作品は、初期の第二、第三番のようなロシア・アヴァンギャルドの最終走者としての挑戦的な作品ではまったくなく、特に”西側”では作曲者の堕落として否定的に評された、という。私自身、作品をまだ知らない段階でいろいろ聴き漁る中でも「映画音楽っぽいかな」なんて、それらしいことを思っていたような気がする。特に第一二番。番号順に聴き進めていけばその後に第一三番「バビ・ヤール」が来るのだから、こういう感想は残念ながら当然、というところではあるんじゃないかな(過去の若気の至りをそれとなく肯定)。
だがしかし、ちゃんとした演奏で聴けばこの革命を描いた二曲は十分に聴きごたえのある作品だとわかる。ちなみに私はキリル・コンドラシンとモスクワ・フィルによる全集の、国内盤を聴いて認識を改めました(輸入盤では決してなく)。希少盤と化して久しいあの全集、再販しないかなあ…

余談はこのくらいで。今回演奏される交響曲第一一番は、残念ながらロマノフ王朝によって斃される、まだ素朴な請願行動である「血の日曜日事件」を軸にして第一次革命の勃発を描き出した、「凍るようなロシアの長編小説」です(井上道義・談←本当です。リンク先参照)。革命歌や自作、同時代の作品などの引用を用いているからとても聴きやすく、そしていつもの(まあ裏があるんですけどね)と感じさせるショスタコーヴィチとは一味違う、凝縮されたひとつのドラマを楽しめることでしょう。あいや、題材を考えると「楽し」くはないのですが。さまざまな形で示される”鐘”の響きが、デモに託された祈りとして響く、もはや神童ではなくなったショスタコーヴィチの充実した作品、実演でぜひ。

こういうところにも縁というのはあるな、と思うことを最後にひとつ。
台風19号の翌日に、多くの困難を乗り越えて開催された前回の名曲全集は、なかなか実演では聴くことのできないアイヴスの「答えられない質問」で始まった。あの響きをご記憶の皆様は少しだけ反芻しておいて、ショスタコーヴィチの交響曲冒頭を聴いてみてほしい。同じように弦楽が美しく、しかし無表情に響く導入からの展開のコントラストの妙をお楽しみいただけよう。


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なお、冒頭で演奏されるモーツァルトについては私もあまり馴染みがないので(正直)、ユッセン兄弟の他作品の演奏でも聴いて準備しておくのはいかがでしょうか。



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公演前夜に少しだけ補足を。
まず、これは個人的な捉え方なので他の方に異を唱えたいわけではありません、と前置きして。私は、最近ショスタコーヴィチ作品を同時代の政治的トピックと結びつけることの有効性に少々の疑念を感じていて、だから文中ではハンガリー動乱の話をしていません。ただし、21世紀になっても民衆蜂起は使われ続ける手法なのだ、と感じている昨今にこの作品が取り上げられる偶然には少しばかり思うところがあります。それについても書いていないのは、ショスタコーヴィチがひとつの出来事を深く直観して作り上げた作品の持つ普遍性を示すものなのではないか、と考える次第。演奏を聴いたらまた考えるべき事柄ではあると思います、でも「予告編」で私が言うことではない、とも思う。このあたりがショスタコーヴィチにまつわる難しさであり、面白さでもありますね。

そしてこれは意識して聴いてほしいポイントです。この作品のライヴでは”伝説の事件”も起きたわけですが、その焦点だった「鐘」の音の変容をたどって聴くのはとても興味深いものになると思います。特にも、今回は世界最高レヴェルの解像度を誇るミューザ川崎シンフォニーホールで、そこを本拠地として鳴らし方を熟知した東響が演奏するのです、簡潔ながら実に効果的なショスタコーヴィチの管弦楽法を聴き取るこれ以上の機会がありましょうか。
ここで言う「鐘」は、スコアにして243ページにようやく登場するベルだけを指すのではありません。この作品では、冒頭で弦楽合奏に輪郭と響きを加えるハープから、チェレスタやシロホンなどの楽器が全曲をつうじて「鐘」を響かせているのです。その鐘がロシアではどのような意味合いを持つかについては、「ロシア・ビヨンド」のこのページが参考になるかと思います※。

※いわゆる共産圏プロパガンダが嫌いな方には、このサイトの閲覧をオススメしません。私はスプートニクでもFOXでも、使える部分は使う主義なのでここにリンクしました。
そんな都合よくいくものかね、と思われる方はこんな番組でもご覧になってはいかがですか、そのうち再放送もありましょうよ、とご案内しておきます(こっちは我らが公共放送のサイトなので注釈しません)

そして最後にもうひとつ。文中で作品評を紹介した井上道義指揮によるショスタコーヴィチの交響曲第一一番が、11/17に放送されます。詳しくはリンク先でご確認くださいませ。

2019年10月20日日曜日

かってに予告篇 ~東京フィルハーモニー交響楽団 10月定期公演

●東京フィルハーモニー交響楽団 10月定期公演

2019年10月
  17日(木)19:00開演 会場:東京オペラシティ コンサートホール
  20日(日)15:00開演 会場:Bunkamura オーチャードホール
  21日(月)19:00開演 会場:サントリーホール 大ホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ

テノール:イルカー・アルカユーリック
男声合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ビゼー:交響曲 ハ長調
リスト:ファウスト交響曲 S.108

ゲーテの「ファウスト」をめぐる音楽作品の話は、これまで何度もしてきた。マーラー、ベルリオーズ、そして残念ながらグノーの歌劇には触れられなかったけれど、この秋にはまだもう一つの大作が待っていた※。それがリストによる管弦楽と男声合唱、声楽、そしてオルガンを用いた「ファウスト交響曲」である。取り上げるのは数々の秘曲を実際の音として我々に示してくれた、そしてピアニストととしてリスト作品を深く理解するミハイル・プレトニョフ、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団だ。独唱はイルカー・アルカユーリック、合唱は新国立劇場合唱団と、作品の真価を示してくれるだろう布陣は整っている。初日の公演も好評だった模様で期待も高まるばかり、残り二公演を楽しむ準備はできている、こと私に関しては。

※歌曲のリサイタルなどをきちんと見ていけば、もっともっと多くの演奏会があっただろう、ということは触れておくけれど、最近はそこまで情報をチェックできていないのである。ご容赦のほど。

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だが、率直に言ってしまうならばこの曲の実演を体験できるとは思っていなかった、という個人的な告白をしておこう。というのは…

そもそも管弦楽曲ではリストの人気はそう高いとは言えず(ベルリオーズやワーグナー受容において、この凹みはけっこうなマイナス要素ではないかと思っている※)、数多くの交響詩の中で有名な「前奏曲」は歴史的な扱いにくさもあってか今は”往年の名曲”としてときどき取り上げられるに過ぎない、数多あるオーケストラのための小品のひとつでしかない。歴史的な経緯はもちろん、リストが悪いわけではないのだけれど…


2005年のマエストロとロシアナショナル響による同曲。今聴いてみて、もう少し演奏されてもいいような気がするけれど、ラマルティーヌの詩とかチェックするのも大変だから、仕方ないのかな。文学が絡むと、私のような者もひと作業増えるし、とは思います。ものぐさですみません…

そんな「あまり人気のない作曲家(ごめんなさいあくまでもオーケストラでの話です)」の大編成作品、しかも有名だけれど大部で読了するのもたいへんな原作付き、しかもその原作へのアプローチは「三人の登場人物の描写」で長大な戯曲を描き出そうという非常に独特なもの。この作品が人気になるにはそうですね、ディ●ニーがSFX使いまくって「ファウスト」第二部までをきちんと魅力的な映画に仕立て上げて、そこで使われるくらいでしょうか…それでも大人気作品になってどこのオーケストラも取り上げるような作品には、ならないかなあ…

※せっかくの機会なのでどうですか、こんな動画でリストの交響詩をまとめて聴いてみては。
ありがとうブリリアントクラシックス。


ここまで言いよどんでしまうようなところがある曲なのに、実はこの作品は録音なら意外になされているのでした。今ではもういくら分厚くしても出版できないだろう、私が昔愛読したCDカタログには、ショルティにバーンスタイン、バレンボイムにムーティなどステレオ録音からデジタルに移行するくらいの頃のものが載っていたので、自分にとっては一音も聴いていないのになんとなく知っている曲のひとつ、だったくらいには存在感があった。その後もインバル、ラトル、シャイーにイヴァン・フィッシャーなどの著名指揮者はこの作品を取り上げたから、そのうちに録音では聴くようになって今に至っている。
ちなみにこの人はベルリン・フィルの定期に呼ばれてまでこの曲を演奏している。好きなんだねえ…


この作品は、第一部の三人の登場人物を三つの楽章でそれぞれに描写し、第三楽章の終盤にスケルツォからの移行部を経て全巻の幕切れにあたる神秘の合唱を歌い上げて終わる、本当に独特な交響曲だ。だから仮にあなたがあらすじだけで「ファウスト」を知っていて、それぞれの登場人物像を持っていないならば、この作品は何をしたいのかわからないかもしれない。
だが、キャラクター描写においてはベルリオーズやワーグナーの影響が明瞭だから(特にも合唱の入りの直前の部分、きっとどなたもよくご存知の響きに気づくだろう)、プレトニョフと東京フィルが奏でる響きに耳を澄ますなら何かしらの貴重な認識が得られよう。
また、この作品は同じ題材を取り上げたマーラー(第八番との対比はなかなか興味深いが、マーラーはこの作品を演奏してはいないようだ)、ショスタコーヴィチなど後世への影響でも知られている※。「交響詩作曲家による交響曲」という捉え方をするならリヒャルト・シュトラウスの前身として見ることもできよう。音楽史的にも相当に独特な位置を占める作品だ、と言えるだろうか。

※ショスタコーヴィチの第一〇番は、DSCHモティーフによる自画像とほか二人の人物描写だ、とする説があります。

そんな独特な作品を、録音や楽譜のみで理解するのはなかなか容易ではない、音楽家ならぬ我が身であればなおのこと。それなりの時間録音を聴く形で付き合ってきた作品だけれど、未だに芯を捉えられた気がしていない。だからこうして、実演で体験できる機会が訪れることはまさに望外の喜び、想定外の好機、なのだ。

私のこんな思いは、ここまで書いてきたとおり非常に個人的なものなのでどなたかに共有していただこうとは思わないのですけれど、この作品のユニークさは本物ですし、コンサートで取り上げられることは本当に希少なのです。ですから残り二回の公演、ここまでの文中に少しでも気になるポイントがあった方にはこの機会を逃されませぬよう、とご案内させていただきます。

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なお。前半に演奏されるビゼーの交響曲は、NYCBの演目としても有名な、ジョージ・バランシン振付の「シンフォニー・イン・C」でも知られる作品です。「カルメン」「アルルの女」ほどのポピュラリティはないけれど、古典的な四楽章形式の交響曲として非常に親しみやすい作品です。

現在も初期の習作的扱いがされているし、そもそも作曲されてもビゼー生前には演奏されなかった作品であることを思い出してみれば、この日のプログラムでもプレトニョフは「十分にその価値を知られていない作品をきちんとプレゼンテーションする」いつもの姿勢を貫いているのだ、と気づくわけです。今回もまた、勉強させていただきます。と、そんな落語家の弟子のような気持ちで私は会場に伺おうと思っております。皆様も、ぜひ。

2019年10月11日金曜日

東京交響楽団 2020年シーズンラインナップ記者会見開催!

本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年を祝って演奏された「グレの歌」の記念碑的な演奏の記憶も冷めぬ10月8日(火)、ホールの市民交流室を会場に来る2020年シーズン、ノット&東響のシーズン7、2020年主催公演ラインナップを発表する会見が行われた。

いくらでも語ってくれそうな勢いのノット監督。

すでに多くの音楽ファンが注目しているところではあるけれど、この日も冒頭に大野順二 楽団長が「現役時代、ワーグナーの全幕演奏はぜひ取り組みたい、しかしなかなか実現できないものだった」と語り始めたところから、やはり定期公演で取り上げるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が中心的な話題となった。もちろん、現在は新国立劇場での上演を担当することもあるわけだが、演奏会形式などで多くのオペラ作品を上演する中で「いつかワーグナーを、万全の形で」という思いが楽団にあったことは強く伝わった。
続いて話し始めたノット監督は「まだ「グレの歌」が抜けていない」と笑いながらも、来る「トリスタンとイゾルデ」上演について多面的に語ってくれた。ダ・ポンテ三部作以来となるコンサート形式での上演については「ドラマを言葉で紡いでくれる歌手が近くにいるコンチェルタンテ上演は好きです。以前取り上げた作品、たとえば「ジークフリート」では題名役の歌手がオーケストラに向かって歌い出し、その場が歌手とオーケストラの対話のようになったこともありました」として、演奏会形式で音楽家同士が近い距離で上演することのメリットを語る。
シェーンベルク作品にも色濃く残るワーグナーの影響を示せること、東響と「グレの歌」を経験する中で、mf、mpのような音量で歌手を支えながら音楽的に表現することを学べたこと、監督が語ったそれらは音として私たち聴衆にも届けられることだろう。
ノット監督とのプログラミングに大きな役割を果たす辻 事務室長からも「ノット監督はご子息にトリスタンと名付けるほどこの作品を愛している」というエピソードが紹介され、「トリスタン」はノット&東響がいつかは取り上げなければいけない作品だと考えていたことが明かされる。ノット監督との長期契約のち折返しに差し掛かる来年取り上げるこの作品への、楽団全体の期待、高揚感が強く感じられた。「浄夜」「グレの歌」を経験したノット&東響が取り組む「ペレアスとメリザンド」と、ノット監督最愛の作品の一つ「トリスタンとイゾルデ」のコラボは、これまでの7シーズンの蓄積が響き合う一つの頂点を形作ることだろう。

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それ以外の演奏会については、チャイコフスキーの交響曲第六番、そして日本人作曲家の作品について興味深いエピソードが語られたので紹介しよう。

東響ファン、ミューザ川崎シンフォニーホールのファンの間で話題の「Take a Risk!」Tシャツに何度も何度もサインしながらノット監督はこう思ったのだという。「こんなにも多くの人たちが自分たちの演奏を聴いて、こんなに喜んでくれているのに自分は来場してくれる皆さんのことを何も知らないな…」と。そこでファンとのちょっとした懇親会を開いて、生の聴き手からリクエストを求めたのだという。そこで聞かれた「マエストロのロシア音楽が聴きたい」という声に答えて、けっして短くはないキャリアの中で一度も演奏したことがなかった(!)チャイコフスキーの「悲愴」を取り上げることにしたというのだ。もちろんノット監督だから、プログラムはオール・チャイコフスキーのようなものにはならず、ムソルグスキーからベリオを経てチャイコフスキーに至る、という民族性を軸にした独特で興味深いものになったわけだが。
また同じ懇親会では辻氏からもう一つ興味深い話があった。ノット監督と日本人作曲家の作品を取り上げること自体は以前にも行っているし(細川俊夫、藤倉大)、酒井健治は「コンポージアム」の際に審査員としてノット監督が見出した面もあるからすぐに提案は受け入れられた。しかし矢代秋雄のピアノ協奏曲についてはノット監督も知らない曲であり、はじめは乗り気ではなかったのだそうだ。しかしその会で直接話す機会を持てたファン各位が矢代作品を熱くプッシュしてくれたこともあって、来シーズンの演奏が決まったのだという。どなたかは存じ上げないけれど、そのノット&東響ファンの方々に感謝と、連帯の挨拶をさせていただきたい。「新しい作品もいいけれど、日本クラシック音楽の歴史を作ってきた、礎となる方の作品をノット監督の指揮で取り上げられることはとてもありがたく思っている」と語る辻氏に、まったくもって心の底から同意である。矢代秋雄とブルックナーがノット監督の元で出会うとき、果たしてそれはどのように響くのか。期待しかない、と申し上げよう。

この日の会見場には、記念碑的演奏が終わってどこか抜けたような雰囲気もあったけれど(いや私だけかもしれない)、もちろん第6シーズンはまだまだ進行中だ。会見の翌日からは週末の定期演奏会&名曲全集のリハーサルも始まる、という。ノット監督の三ヶ月連続登場はまだ始まったばかり、これからもアイヴス&シューベルト、ベルク+マーラー、そして第九と注目の公演が連続する。「東響2019」もまだまだ目が離せないし、 #東響2020 はノット&東響の黄金時代の到来を更に多くの聴衆に知らしめるものになる。本日の会見を受けて私はそう感じている。

(後日、写真の追加、若干の追記を予定しています)

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いくつか余録。
#東響2020」はもっと皆さんで使って国内のオーケストラ、クラシック音楽仲間でもっと盛り上がっていければ、とのことでした。私もこれからは積極的に使っていこうと思います。

また、この会見で「明日からリハーサル開始」と語っていた週末の演奏会については、10/12(土)定期公演の中止が東京交響楽団からアナウンスされています日曜日の公演については現時点では開催の予定とのことですが、来場を予定されている皆様におかれましては、ホームページやSNSで情報収集されることをお勧めします。もちろん、何よりもまずご自身とご家族の安全に配慮なさってくださいませ。

今度こそ最後に、追加の主催公演として、「サエグサシゲアキ80s」が発表された。「逆襲のシャア」!!!!!!!!!!!!!と、私からはエクスクラメーションマーク連打で反応させていただく。

2019年10月5日土曜日

かってに予告編 ノット&東響 シェーンベルク:「グレの歌」

●ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年記念公演 シェーンベルク:グレの歌

2019年10月5日(土)、6日(日) 15:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット

ヴァルデマール:トルステン・ケール
トーヴェ:ドロテア・レシュマン
山鳩:オッカ・フォン・デア・ダムラウ
農夫:アルベルト・ドーメン
道化師クラウス:ノルベルト・エルンスト
語り:サー・トーマス・アレン

合唱:東響コーラス(合唱指揮 冨平恭平)
管弦楽:東京交響楽団

ジョナサン・ノットと東京交響楽団がこれまで演奏してきた作品の一つの集大成であり、また未来へもつながる選曲となる作品が、彼らが本拠地として日々音楽を作り、披露しているミューザ川崎シンフォニーホールの開館15周年記念として演奏される、特別な機会である。そんな側面から少し書いてみよう。

まずはノット&東響が初期の共演から演奏してきているマーラー作品、シュトラウス作品との関係を一つの視点として示そう。オーケストラの可能性は時代を追ってどんどんと拡張されて、第一次世界大戦前にいくつかの頂点となる作品を生み出している。「グレの歌」の成立時期を見れば、否応なくマーラーの第二番、第八番と同時期の作品として見ることになるだろう。※

※初演は1913年だからマーラーなら第八番以降の作品となるが、着手事態は世紀の転換期なので先行する「声楽入り管弦楽大作」となると第二番を参照しないわけにはいかない。「グレの歌」はその成立からして扱いが難しい曲なのである。

今回の公演はミューザ川崎シンフォニーホールの15周年を祝うものではあるのだが、これまでの記念公演ではマーラー作品を取り上げてきた流れから、離れることになったわけだ。だがこれは来シーズン以降に向けて大きな可能性を開き、未来へと続いていくものになっていると私見している。

マーラー、シュトラウスなどの後期ロマン派作品と同様にノット&東響が注力してきたのは、新ウィーン楽派の作品群だ。ノット監督が得意とする現代の作品まで届く視野を、東響は以前から持っていたけれど、そのスタンスは彼の就任、そして積極的な演奏活動によってより鮮明になった。これまでの「ワルシャワの生き残り」「ルル」組曲、そして今年演奏予定の「三つの管弦楽曲」と、時代的にも音響的にも響き合う「グレの歌」は、現在のノット&東響の最良の美点を示してくれるものになるだろう。(もちろん、東響コーラスの充実も見逃せないところだ)

そして題材的にも、結果として未来への可能性を示している。来年演奏される”「トリスタンとイゾルデ」+「ペレアスとメリザンド」”は「グレの歌」とも共通する、伝説的物語を題材にした不幸な愛、そして救済の物語だ。ノット監督がこれを意識していないわけもなく、彼による謎掛けが、数年がかりで披露されるのだと言えなくもない(個人的には、夜の歌(セレナーデ)故に誤った愛称で呼ばれる第七番をこれから、「愛の妙薬」的に展開する「トリスタン」的なプロットを感じる第五番を来年演奏することも併せて考えたい)。

太陽讃歌で圧倒的に終わる作品が呼び込んでしまっただろうか、今年最後の暑さの中で開幕する「グレの歌」、様々な観点から注目なのである。

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そしてこれは個人的な意見。ここで挙げてきた作品群の源流には、間違いなくベルリオーズの大作群があるだろう。オペラならありえる大編成に大仕掛け、また「レクイエム」のような機会音楽ならば(また革命の時代だからこそ)許された巨大な編成、それらを交響作品に持ち込んでしまった彼の存在がなければ、「グレの歌」もない。
…来シーズンの予定にはないけれど、その先にはもしかしてノット&東響のベルリオーズも展開されるのだろうか。っていうか聴きたいなあ。きっと、この二年がかりの大企画の先に、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」がありうると思うのですけれど。古典派とロマン派をつなぐリンクとして。個人的リクエストで本稿はおしまい。

※追記。
10/5の初日公演を聴いてまいりました。この文章で挙げた作品群との関係が強く感じられましたが、実演で聴いたらいくつか書き足しておきたくなりました。
シェーンベルクの自作では「五つの管弦楽曲」を聴いておくと、この作品の繊細なのに過剰すぎる音色の追求も理解しやすく思えます。また、第一部の輝かしさからは、ノット&東響の出会いの作品、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」が聴こえたように思います。二人の作曲家の個性の違いも含めて。画家シェーンベルクと、デザイナーのラヴェル、とでも言いますか。もし二度目三度目を聴けるならば、さらに理解が深まりましょうに、どうにも惜しいことです。

こんな後悔をしないためにぜひ、明日時間を作れる皆様はミューザ川崎シンフォニーホールに行くべきです。迷う時間なんてもうありませんよ。

三人三様、充実の極み ~東京フィルハーモニー交響楽団 2020シーズンプログラム

来年からシーズンを1月に開幕するものとする東京フィルハーモニー交響楽団の、主催公演プログラムが発表された。
すでに発表されていた1〜3月も首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ、名誉音楽監督のチョン・ミョンフン、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフの三人の公演だったが、定期公演の全貌が見えてみればなんと驚くべし、年間8回の定期のうち、7回の定期をこの三人が指揮する。これだけで音楽的クオリティの高さは保証されたようなものだし、三人がそれぞれに明確に個性を示してくれることは確実なのだからプログラムの多彩さもお墨付き、東京フィルハーモニー交響楽団の2020シーズンも充実したコンサートが存分に楽しめることが約束されました。会員の皆様にはおめでとうございます。

…なんて気の早い振る舞いはさておいて、三人それぞれに趣向を凝らしてくれたプログラムを紹介しよう。登場順の紹介ということで、まずは首席指揮者のアンドレア・バッティストーニから。彼が1月に登場して幻想交響曲を演奏することはすでに予告されていたけれど、考えてみるとこれほど彼のような「語り上手」のための作品も他にはないかもしれない。作曲もするマエストロであればこそ、この独特な作品により深く踏み込める面もあるだろう。そしてもう一曲は、彼がイタリア音楽に負けず愛しているロシア音楽からラフマニノフの第三協奏曲を取り上げる。近年活躍が際立つ阪田知樹をソリストに迎えて演奏されるこの難曲は、これまでのバッティストーニと東京フィルのラフマニノフ演奏を踏まえれば期待しかないところだ。
そしてもう一つ、今回発表された公演はさらに注目を集めることだろう。近年彼がその知られざる作品の魅力に光を当てているザンドナーイの代表作、オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏会形式上演で取り上げる、というのだから(9月)。東京フィルの主催公演に限定しない形で見ていくと、これまでデビューとなった「ナブッコ」から近日上演の「蝶々夫人」まで、多くの作品を日本で演奏してきたバッティストーニ。彼は以前、オペラの取り上げ方について「有名な作品と知られざる作品を交互に取り上げたい」と以前話していた。今年「蝶々夫人」を取り上げる翌年は知られざる作品の年、そこで彼が”再発見”に力を入れるザンドナーイの代表作を披露してくれるわけだ。「ロメオとジュリエット」、「白雪姫」でもザンドナーイ独自の世界を示してくれたバッティストーニ、入魂の演奏が期待できよう。

オーケストラを支える三人が、三人ともオペラでもシンフォニーでも活躍しているのは東京フィルの強みだけれど(そしてもちろん、その両方で活躍できるのは東京フィルもなのである)、中でも最多回数登場予定のチョン・ミョンフンの活躍は心強い。なにせ、すでに発表済みだった「カルメン」(2月)のほか、オール・ベートーヴェン・プログラム(7月)、そしてマーラーの交響曲第三番(10月)と力の入ったプログラムが並ぶのだから。年間三度の最多登場回数であることに加えて、説明がいらぬほどの名曲、それも彼の得意曲が並ぶこれだけの内容的充実を考えれば、来年の東京フィルの主役はチョン・ミョンフンなのかもしれない。そんなふうに思って見直すと、今年の第九をチョン・ミョンフンが指揮することも意味深に思えてくる。

そして特別客演指揮者のプレトニョフはスメタナの交響詩「わが祖国」(3月)、シチェドリンとチャイコフスキー(6月)と見事に我が道を行く格好だが、このプログラムでさえ(彼にしては…)と言えなくもない安心感もある。だがしかし、名曲コンサートなどでよく演奏される「モルダウ(ヴルタヴァ)」しか知らないのではあまりに惜しい「わが祖国」、妻マイヤ・プリセツカヤのために編曲された「カルメン」組曲、交響曲にも劣らない充実ぶりが知られていないチャイコフスキーの組曲と、知られざる名曲の魅力を教えてくれるのは変わらない彼のプログラミングだ。

全八回のうち七回の定期公演がオーケストラにポストを持つマエストロたちの公演が居並ぶ充実したプログラムで送る新シーズンには、これまでと違い三つの会場ですべて同じプログラムが披露されるので、日によって会場によって聴き比べる楽しみも生まれるだろう。オペラでもシンフォニーでもその楽しみは格別なので、ぜひ検討してみてほしい。きっとフランチャイズとして多くの公演を開催しているBunkamuraオーチャードホールを、東京フィルが見事に鳴らす様に驚かれることだろう。

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首席指揮者が自らのアイディアを全力でぶつけ、脂の乗り切ったマエストロが惜しげなくその奥義を示し、それにオーケストラが全力で応えることが約束された”三本柱”でここまで固められた2020シーズンの予定を見せられると、現在のシーズンに機会を掴めたチョン・ミン、ケンショウ・ワタナベは幸運だった、と思えてくる。若幅広い作品に対応してくれる東京フィルの定期で自らのアイディアを試せる機会があったことを、その経験が彼に教えることの意味を、いつか彼らは捉え直すことだろう。

さて、この貴重な最後のひと枠を獲得した客演指揮者は佐渡裕(4月)、師匠バーンスタインの作品のみのプログラムだ。バーンスタイン生誕100年を超えて、きっと20世紀の名曲として扱われていくのだろう作品群を、現在ウィーンで活躍する佐渡裕がどう示してくれるか、期待しよう。

2019年10月4日金曜日

メメント・モリ ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第70回

2019年7月21日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ジョナサン・ノット
独唱:サラ・ウェゲナー(ソプラノ) ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
合唱:東響コーラス
管弦楽:東京交響楽団

J.シュトラウスII:芸術家の生涯 Op.316
リゲティ:レクイエム
タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
R.シュトラウス:死と変容 Op.24

とにかく振幅の大きいプログラムである。作曲年代はタリスからリゲティまで、つまり16世紀から20世紀後半まで。編成もアカペラの合唱から大小編成のオーケストラ、そして独唱と合唱を加えた編成までと、質量、時代までも幅広い。そんな巨大な距離のある作品同士をつなげるのは、作品が描き出す生活や信仰、そしてその向こう側である死と、人間の生涯だ。そのプログラムの意図についてはインタビューや解題記事が東京交響楽団のサイトに掲載されているので、わざわざ私が小さな屋上屋をかけることもあるまい、とも思う。

演奏会を聴く前に自分が興味深く感じていたのは、リゲティが「レクイエム」の音色について語ったという言葉だった。パンフレットから引用しよう。
”リゲティは(中略)電話で「ジョナサン、イギリス的な灰色はダメだよ。白か黒かだ!」と言われました(笑)”(引用終わり。東京交響楽団 Symphony7月号 P.23より)
この話を聞いたノットは、ベルリン・フィルとのレコーディングに臨むわけだが、その録音を聴けばたしかに黒い、玄い。力強いフォルテッシモで咆哮する合唱とオーケストラは、それぞれに豊かな色彩を描いているのだろうに、厚く塗りすぎた油絵のように濃い色で塗り込められていてなんの色なのかわからない。その一方で不協和音でありながら繊細に響く声もあり、果たしてこの作品が単体で示す振幅のほどは如何ばかりなのか、そんなことを予習しながら思っていた。唯一スコアを確認できなかった作品なので、こちらとしては最低限の準備として録音から「音」だけを頭に入れて、あとはミューザ川崎シンフォニーホールの助けを借りてこれらの作品を受け取れれば。そんな気持ちで準備していたのだが、私事ながらしばし多忙につき予告も何もできなかったことをお詫びしたい。

なお、ネット社会などと言われる現在(もう少ししたらそれが全世代的にデフォルトになるので言われなくなる)、今回の四作については権利的に問題のない動画がYouTubeにあるので(ありがたい時代!)、このプログラムを公演後に知った方やコンサートの復習をされたい方には参照していただけるよう、文末に動画を貼っておくことにする。

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個人的にはさきほど書いたとおり、幾多の振幅の中でも音色的なそれが気になっていた。明朗とも評せようシュトラウスから上述のとおり白と黒のリゲティ、清澄な声が重なりゆくタリス、そしてロマン派らしさ極まるシュトラウス。このコントラストがどう響くものか、この並びはどんな体験となるのか。それもまた、ジョナサン・ノットという名のスフィンクスがこのプログラムに託した謎の一つ、なのだろう。

「死と変容」において、シュトラウスの音楽とリッターの詩は相互補完的な立ち位置にある。いかに哲学的な思考が裏にあったとしても音楽が示せるのはその外枠としての形式、そして感情的細部だ。であれば単独ではこの作品が示すものも、本来求められたなにか、言葉では語りえた何かにはなりえない、何より語りつくそうと挑むには、この曲はあまりに短い…
そこで、と逆算したわけではないと思うが、ノット監督はこの作品の前に三つの作品を置くことで、作品が描く世界を大きく拡張してみせた。生前の活躍を「芸術家の生活」で描き、その死と救いが約束されないままの死をリゲティのレクイエムで示す(この作品は「涙の日(ラクリモサ)」で終わるため、ここに救済はない)。救済を求める祈り、その基盤である信仰をタリスで示し、とここまで手のこんだ”前段”を置くことで、シュトラウスとリッターが描き出した、若者が夢想する(どこか図式的な)生と死のドラマがより説得的になる。
このプログラムは、その構想によってすでに勝利が約束されていた、私はそう考える。だがその勝利をもたらすのは結局のところ当日鳴り響く音だ。もたらされるのはほどほどの勝利なのか、それとも圧倒的な大勝利なのか。

結論から書く。シュトラウス作品のメッセージを時代を超えた作品群と並べることでより説得的に示したこのプログラムを、見事に音楽として提示したノット&東響、二人の独唱と東響コーラスの大勝利である。特にも、これだけの困難なプログラムを音楽として提示した東響コーラスの皆さんの、リゲティの成功をもたらした貢献にはいくら拍手をしても足りないように思える。今年はこれからもいくつもの作品に登場する東響コーラス、この大きい山を超えてもノット監督とは「グレの歌」「ノット監督の第九」という高峰が待っています。今後とも期待させていただきます。

オーケストラについて書くには、演奏がどうだったかを描かねばなるまい。最近は私の興味があまり向かわない(すみません)ウィンナワルツが、さてノット&東響でどう響くのかと思ったら、意外なほど憂いを含んだ表現で驚かされた。作品そのものは明朗なワルツ、しかもその成立は祝福を受ける機会のものなのだから、この曲に影を見ることはまあ、ないはずだ。しかしこの日の演奏では物憂げな表情がどこか倦怠感をも感じさせ、このプログラムには屈託のない時間はないのだ、と予感させることになる。
続いて演奏されたリゲティの「レクイエム」。これは独唱、合唱の貢献の大きさもさりながら、ミューザ川崎シンフォニーホールを立体的に鳴らすことに長けたオーケストラが描き出してみせた「黒」の色調の多彩さによって、記憶に長く残るだろう名演となった。救いのない作品で、作曲者自ら「黒」い曲だとしているわけだけれど、それは単色で塗りつぶされたものではない、多彩で多様な色の重なりが作り出す、この作品にだけ表現されうる「黒」なのだった。この作品が救いなく終わったあとの喝采、そしてそれをどこか意外そうに受ける独唱二人の表情は印象的なものだったが、この会場にひびいいたリゲティのサウンドは不可解だが魅力的なものだったのだ、どれだけの拍手が贈られてもよかっただろう。
休憩を挟んで演奏された、タリスの「スペム・イン・アリウム」の清澄さはリゲティが丹念に塗り潰した闇にていねいに光を当てていくように響き、我々聴き手のざわついた心も落ち着いていく。これらの音楽を前段として、充実したシュトラウスの交響詩が鳴り響いたわけだから、その説得力は否応なく大きいものとなった。「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」と演奏してきたノット&東響は、それらに先行する若書きの作品を私の先入観の数倍もの密度で語ってくれて、結果としてこの日の演奏会は一つの巨大なレクイエムとして私に届いた。私はそのめぐり合わせを、心から感謝している。

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この演奏会の直前に、どうしようもなく不幸な事件があったことをまだ多くの方はご記憶だろう。そのことについては稿を改めて書くけれど、あの不幸な事件の後にメメント・モリそのものとも言えるこのプログラムを体験したことは、貴重な出来事となったことは本稿の最後に書いておく。







ケーススタディ、のようなもの:「クローズアップ現代+」の話

情報すべてを知りうる立場に立ちうる、と思ってしまうのが現代の怖いところで。何かのニュースを見て、自分で手持ちの知識や情報と照らして作り上げたストーリィが真である、と信憑することはとても容易い。フォローする/される関係で作られるSNSでの情報に多く触れていれば尚さらだ、基本的に自分が選んだ情報だけが入ってくるように作られたソースでしかない、そんな制約は思い出さないのが日常なのだから。
ただし。そういう場所を”戦場”に変えたがっている人は少なくない。選挙戦くらいならまだかわいいもんだ、その目的もなさんとすることもわかっているのだから。それが歴史…まあいいや、前提はこのくらい。

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こんな前振りをしてからでもないと、ニュースの検証というのもしにくいのである。自分が出向いて取材をする話ではないから(それができる、とは申し上げません)、いわゆる”大使館”方式、公開された情報を積み上げるのが、市井の個人としては手堅いやり方になるだろう。

●NHK報道巡り異例「注意」 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期
スクープに敬意を表して毎日新聞にリンクしてあります。こういうときに有料記事なのは痛いのですけれど。

記事をきちんと読んでいただいてもいいし(有料ですが)、ニュースを追われている方はとっくにご理解されているものと思うけれど、この件を整理するとこうなる。

「クローズアップ現代+」2018年4月24日に「郵便局が保険を“押し売り”!? ~郵便局員たちの告白~」という回を放送する
→8月放送を目指して続編制作のため、情報提供を求める動画を7月に掲載
→日本郵政から7/11にNHK会長あてに「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」として削除を申し入れ
「クローズアップ現代+」、日本郵政からの協力が得られないことから続編制作を延期、動画を削除。日本郵政には「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と説明、しかし郵政側はこの発言を「ガバナンスに問題」として問題視
→10月、日本郵政はNHK経営委員会に接触、日本郵政の意を汲んで会長に厳重注意、文書を送付
→11月、NHK会長、事実上の謝罪文を日本郵政に提出

つまり、番組の内容を「犯罪的営業を組織ぐるみでやっている印象を与える」と感じた日本郵政が、番組宛てではなく会長にまず抗議したことから始まっている。この時点ですでにやり方がおかしいのだけれど、それを番組は正当に拒否している(しかし続編の制作は延期された)。この時点で日本郵政が事実関係をきちんと確認して内情を精査、あり方を正していればよかったのに、会長からの”謝罪”を引き出すことに注力して経営委員会というNHKの中でも局の外側にある集団に接触して会長に圧力をかけた、というのが今回報じられた件だ。

これについて「圧力によって番組が、報道が捻じ曲げられた、公共放送なにやってんだ」という話を多く見かけているのだが、こう整理すると批判の順番がおかしく感じられる。
まずは今は広く問題として理解されているかんぽ生命の問題があり、それを報じた番組を(内容の否定によってではない形で)撤回させようとした運営の日本郵政の問題がある。もし昨年4月の「クローズアップ現代+」が事実でない内容だったのであれば、そこできちんと否定すればよかった話だった、しかしそうではなく経営側に”働きかける”(今でも圧力だとは思っていないそうだ、日本郵政)ことで謝罪のようなものを勝ち取った。それが今回、日本郵政が勝ち取った唯一の勝点だ。
しかしそんなもので事実関係が覆るわけもなく、今年の6月以降はかんぽ生命の強引な”不適切”契約が広く報じられ、問題視されるに至って事態は現在も進行中だ。そして被害者が増えたことを思えば遅れ馳せにはなってしまったが、番組はこの件をきちんと追い続けていた。

→「クローズアップ現代+」、「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」として今年の7月31日に”続編”を放送

取材不十分で取り上げられるテーマではない、という認識があったからこそ昨年の続編放送は見送られたのだろう、この「検証1年」の内容を見るとそう理解できる。このページでは番組内容に加えて関連記事などもきちんと公開しているので、もし昨年4月の番組の時点で「クローズアップ現代+」に問題があったと思われる方はご一読して判断してほしい。いくら面倒に思われても、その面倒くさい手順を踏まないで行われる番組に対するすべての批判は、まったくの無意味なので。

と、経緯を見てきたところで私なりの現時点での認識を。
この件で、「経営委員会さえ味方につけられればNHKの報道を捻じ曲げられる」ような話はもちろん大問題だ。だからまず批判されるべきは自らの信頼を悪用して異常な契約を結ばせていた、そしてそれを糊塗せんと経営委員会に接触した日本郵政、次にはそれに同調したNHKの経営委員会の無思慮が批判を受けるべきだろう(毎日新聞の報道を受けて発表されたコメントは、如何にも問題を理解していない者の言だ)。
こう理解した上で番組を批判するならば、「続編が遅かったばかりに、悪質な契約を結ばせられた被害者が増えてしまった」くらいしか思いつかない。その無力感は番組制作者が一番認識しているだろうに、と思う私にとっては、こんなことを書くのは気が重いところなのだけれど。


この会見、YouTubeには全体もありました。さすがにそこまでは…

最後にひとつ、あまり言及されていないように思うので私からひとつ指摘を。日本郵政とNHKは、ラジオ体操をつうじて長年の協力関係があります。だからこそ、日本郵政は番組を黙らせたかったのでしょう、まるで”スポンサー”であるかのように。

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「いじめられる側にも問題が」「騙される奴が悪い」「扇情的な服でも着てたんでしょ」などなど、なにか事あれば捻ったつもりで本筋を捉えそこねたご高説を見かけてはげんなりする昨今、私からはひとつだけお願いしてこの記事を終わろうと思う。続報は各自追ってくださいませな。

この記事で書きたかったことは、実はひとつだけ。
お願いだから、順番を間違えないでほしい、問題を捉え損ねないでほしい。頼むからいじめとかする奴を正当化しないで、詐欺的行為をうっかり認めてしまわないで、性的犯罪をした側に立って被害者を責めないで。
これが普通になってくれればいい、そう希望しなければならないことが、実は一番残念な私だ。

2019年9月26日木曜日

これは「生きものの記録」なのか

ここは自分のブログなので、クラシック以外のことも気の向くまま書くことにしました。「なんだこいつ」と思ったらすぐ閉じてくれて結構ですよ。

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あっ先を越された、なんてこの方に対して言うと僭越なのだけれど、この数日私もこれを感じていました。


私はもう中年男性で、この先たぶん”未来”と言えるほどの時間もないだろうから、気候変動※は我慢してやり過ごすうちに命のほうが先に終わるだろうな、と思っている。その昔、受験に地学を使った私としては、地球科学のタイムスケールは人間の一生が瞬間でしかなくなるようなものだと理解しているつもりなので。

※「地球温暖化」という言い回しは、たとえば昨今偏西風がうまく仕事をしてくれないことなどを説明しないので自分の文としては使えません。寒期の前の変動でしかない、かもしれませんし。

あと何十年か、夏は道路の熱さに耐えかねながらかろうじて生き延びているうちに、体の感覚が衰えて気候のきつさとかに気づかない(うちに落命している)とかそういう可能性も受け入れてしまうだろう、とでも言いますか。世界に影響力もなければ、この程度の認識だから危機感も薄い、であれば気候変動がいかに大きくてもなんとかやり過ごす方法を考えてるので手一杯。先がそんなに長くもなければそれでもいいか、という感じ。

ですが、自分がまだ10代でまだまだ長生きするつもりがあって、大人には子供扱いされるけれどそれなり以上に気候変動について認識していて、責任ある大人が現在の科学的知見とかけ離れた施策をし続けている、とする。どうしただろう自分、そんなことを最近は思う。大洋を渡って国際的舞台で可能な限り学んだ(と思う)なかで培った自説を述べる、そんな行動力(も資金)もない私にはできないよなあ、しようとも思わなかったろうなあ。グレタ・トゥーンベリのニュースを最初に見たときにはそう思っただけだった。

この数日のニュースを見て、それに対する反応を見て思うのは、町山智浩氏と同じ、これは映画「生きものの記録」だなあ、ということに尽きる。あの映画の中で、三船敏郎が演じる富豪の老人(実は当時30代の三船。昭和の名画はこれだから怖い…)は、核実験への恐怖からブラジルへの移住を敢行しようとして、周囲から疎んじられた挙げ句正気を失って映画は終わる。
311と起きた日付によって呼ばれるようになったあの大地震のあとに、本来なら再評価されても良かったように思うけれど、なぜかそうはならなかったまま、今に至っている。ある種のSFともいえるこの作品を、筒井康隆的戯画だと捉えるべきか、同じ東宝の「ゴジラ」の双子として核兵器へのメッセージを正面から受け取るべきか、受け手が問われる作品だから、なのかもしれない。雑に言ってしまいますけど、両義性ある作品は受けませんからね。

こんなふうに彼女をめぐるニュースを受け取っている私が思うのは唯一つ、「映画で三船を責めた”常識人”にならないで、できることはあるのかどうか」、それだけです。それについて考えて、今すぐに思いつくのは「こういうことを前にして、黙らないこと」だけだったので、久しぶりにこういう私見を書かせていただきました。では。

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2019年9月21日土曜日

かってに予告篇 ~東京交響楽団 第673回定期演奏会/川崎定期演奏会 第71回

●東京交響楽団 第673回定期演奏会川崎定期演奏会 第71回

2019年9月
  21日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール
  22日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ
管弦楽:東京交響楽団

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
プロコフィエフ:交響曲第四番 ハ長調 Op.112

交響曲第三番、そしてOp.47までのプロコフィエフの「交響曲」は、なんとも評し難い作品群だ。簡単に説明すれば、ハイドン風の第一番、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの構成を模したとも言われる第二番(音響的には似ても似つかない)、そして先行する自作の素材を転用した第三番(歌劇「炎の天使」)、第四番(バレエ「放蕩息子」)と癖のある作品ばかりだ。これらの作品から時間を隔てて、ソヴィエトで作曲された第五番以降の作品群は明確に「ソヴィエトの交響曲」としてロシアの伝統も踏まえつつ、プロコフィエフの個性が光る仕上がりになっているので、いかにも「前期/後期」で対照的に仕上がっているのだ。

今回演奏される交響曲第四番については、今年の前半にいろいろ仕込んだ、ハチャトゥリアン(第三番)、ショスタコーヴィチ(第四番)に負けず劣らず、なかなか厄介な曲なのである。上述の通り、バレエ音楽の素材を転用したこともそうだが(肝心のバレエにはめったにお目にかかれない、NYCBでも来てくれなければ)、第四番とは言いながら今回演奏されるOp.112はいわゆる改訂版、その改作は第五、第六番という傑作を書いたあとで行われているから若い番号の作品とはまったく感じられない。作曲経緯に加えて、ジダーノフ批判の影響で「改訂されたけれど初演は生前行われなかった」という曰くまで付いた作品なので話はなかなか複雑だ。

簡単にその成立史をまとめればこうなる。なお、以下の文では最初に作られた交響曲をOp.47、改訂された作品をOp.112と表記する。

●前史
1929・バレエ音楽「放蕩息子」作曲され、ディアギレフの「バレエ・リュス」で初演



●成立史
1930・クーセヴィツキーの委嘱でバレエの素材を使用した交響曲として作曲されてOp.47はボストン響が初演(このとき、ボストン交響楽団創立記念としてクーセヴィツキーがこの機会に委嘱した作品としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第一番などがある)

聴いてもらえばすぐわかるほどに、Op.112とは違う音楽だ。

1936・ソヴィエト帰国(1933から住居は用意している。この正式な移住までの間に書かれた傑作としては、映画音楽「キージェ中尉」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」などが挙げられる)

1945・交響曲第五番作曲・初演/第二次世界大戦 終了
1947・交響曲第六番作曲・初演、大成功/改訂版・交響曲第四番 Op.112作曲

1948・ジダーノフ批判の対象となる
1952・交響曲第七番作曲
1953・プロコフィエフ没(スターリンと同じ日)

1957・Op.112初演※

※放送初演は1950年に、サー・エイドリアン・ボールトとBBC交響楽団によって行われているという。プロコフィエフがこれを聴けたのかどうか、それはわからない。

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プロコフィエフの生涯とソヴィエトの関係は、演奏旅行などを除いてソヴィエトを離れなかったショスタコーヴィチのそれとはまったく違うものだ。だから「ソヴィエトを代表する天才作曲家」として似たような生涯を想像すると完全に的外れになる。革命を避けて日本を経由してアメリカに渡り、欧州を経て変わってしまった祖国に帰還して生涯を終えたプロコフィエフを、簡単に「ロシアの」「ソヴィエトの」音楽家、と評するのにはどこか抵抗さえある。
とは言いながら、その行動を率直に見ればその時どきに「なすべきことをなそう」と即断して行動したものと思える、しかしその結果は多くの場合空回りになる…明らかに天才なのに、なにか不憫なのだ。体制の変動に巻き込まれたくないとロシアを離れ、たどり着いたアメリカではラフマニノフに負けない最高のコンポーザー・ピアニストとして活躍したかった、欧州に移ってからはストラヴィンスキーに伍する存在でありたかった、帰還後はソヴィエトが最も求める作曲家でありたかった。その時どきに切に願いながら、そうはありえなかった、しかし疑いなく天才であるという、なんとも形容し難い存在なのだ。

いくつかのよく知られた作品だけでも彼の才能は明らかだ、天才であることを私だって疑わない。しかし、なのだ。近い先人の後を追って先人ほどの成功を得られず、という残念なケースをこう繰り返すのは何なんだろう。そしておそらくは多くの人が生き方としては失敗とみなすだろうソヴィエトへの帰還。だが、彼の残した作品を見ていくと、ソヴィエト時代の作品のほうがより評価されている面は否めないわけで、音楽家としての彼にとっての正解がなんだったのか、それは誰にも断言はできない。体制との関係の中で苦しみはしたがそこで生み出された作品群が評価されているのだからそれでいいとも言える、きつい枷を負わされた状態で作曲していなければもっと…という可能性だってあったのかもしれない、と考えることもできる。手法的に固定されない多彩な作風が示すように、彼の生涯もまた素朴で簡単な評価を拒むのである。
そんな彼の、晩年に改めて捉え直された「交響曲」の完成形かもしれないOp.112、この機会にぜひ耳にしておきたい作品だ。第六番にも負けない充実に見合わぬ演奏頻度の低さ、今回の演奏から変わってくれないだろうか…プロコフィエフ音楽のファンとしてそう感じている。

※もしかするとプロコフィエフの交響曲では一番の完成度かもしれない第六は、作曲者生前には初演直後だけ評価を受けるという、悲しいほどに短い栄光で終わってしまった。ジダーノフの野郎。
ちなみに、ジダーノフの名前はレニングラード包囲戦でも出てくる。なかなか再放送されないNHK BSプレミアム「玉木宏 音楽サスペンス紀行」では踏み込んで描かれなかったが、そんな苦難のときにも彼は嫌な奴でしかなかったらしい。いつでもどこでもそういう奴はいるもので、そういうのに限って出世したりするものである。困ったものだ。

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なお、今回参照したWeb上で読める記事として、中田麗奈氏による千葉フィルの曲目解説を紹介したい。いちおう昔、交響曲全曲について書いたこともある私ですが、当時の文章は使い物にならず(まあ、何年も前のものなので)書籍やこの解説で頭の中が整理できました。交響曲作曲における前後半の断絶についての指摘も興味深いものです。
私見として書いておきますが、プロコフィエフは「ロマン派抜きで古典と現代をつなげてしまった」人なのではないかなあ、と今回聴き込んで感じたことを書いておきますね。

追記。聴きに行かなかったので、私見の補足を少しだけ。
中田氏も指摘している通り、Op.47までの交響曲は本当に独特の作風なのだけれど、自分には「古典志向、もしくはハイドン、ベートーヴェン帰り」が根底にあるように思えます。ハイドン的古典のスタイルを明らかに模倣した第一番ならまだしも、と思われるかもしれませんが、ここで思い出してほしいのは「転用」というアプローチです。古典派以前ならいくらでも例がある自作の転用、プロコフィエフはなぜか好んで行っています。有名なところでは交響曲第一番の第三楽章が「ロメオとジュリエット」のガヴォットに転用されていますね。

交響曲第三番についてプロコフィエフは「素材は転用しているが、別の曲だ」と話しているのですけれど、それが彼の意図通りに届くことは稀だろうと思われます、あまりにも強烈な表現がどうしてもオペラを想起させますので(一度聴いたら忘れようがないレヴェルの強い音楽なのです、「炎の天使」)。

これはなかなか映像も強烈。見てみたいな全幕。

ですが、バレエ「放蕩息子」ならどうでしょう。音楽的個性は明確だけれど、題材と音楽の結びつきはそれほど強くない、かもしれない(視覚的表現抜きでバレエ音楽を語ることの困難についてここで考えてもいい)。そしてあまりに多くの素材を使ってしまって、どこか収集つかぬまま終わる感のあるOp.47は、もしかするとプロコフィエフの心残りのひとつだった、のではないか。そんなことも聴きこむうち考えました。
交響曲第五番を経て変化した交響曲観、そして第六番前後からの困難を超えて創作され直したOp.112は、「自作の転用」でありながら「転用元の作品とは別個の作品として成立する」かつての目標を実現させた作品だった。そんなふうに私は考えました、というのが今回自分なりに勉強した上での結論でした。

2019年9月3日火曜日

もはや新時代の”召喚” ~東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

●東京フィルハーモニー交響楽団 第921回オーチャード定期演奏会

2019年4月21日(日) 15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:小山実稚恵
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ウォルトン:戴冠式行進曲『王冠』
モーツァルト:ピアノ協奏曲第二六番 ニ長調 K.537 『戴冠式』
チャイコフスキー:交響曲第四番 ヘ短調 Op.36

曲目を見れば、王冠→戴冠→「闘争」(最後のものだけ私見)と並び、わかりやすく新時代を勝ち抜くプログラム。その読みはあまりに直球じゃないのか、と思われるかもしれないけれど、広告でも「時代は〜」と銘打っていたのだから、新シーズンの開幕と「新王の時代」の始まりを一どきに祝おう、というのがコンサート全体を通しての趣意と見るべきだろう。もちろん、そんな「あらすじ」の範疇に収まらないのがバッティストーニと東京フィルの演奏会なのだけれど。

冒頭に演奏されたウォルトンの行進曲はジョン・ウィリアムズ作品にも通じるきらびやかさ、この演奏なら「スター・ウォーズ」一作目の最後に流れても違和感がないほどで、このアプローチはバッティストーニ特有の「後世にこう影響したのでは?」という指摘含みに思える。この定形を守りつつも意外な転調が印象的な作品では、バッティストー二が指揮するときの東京フィル独特のクリアなサウンドがよく映えた。

モーツァルトでのバッティストーニは、なめらかに歌うピアニストにつけた、共演者としてのアプローチだったように思う。だがそこにも随所にバッティストーニのアイディアは活かされていた。オーケストラと言うよりも「指揮者付きの室内楽」にまで編成を絞ったり、ヴィブラートをきっちりかけた弦楽器によく歌わせたりとあまり”今風”ではない音はなかなか興味深いものだったので、願わくば今度は協奏曲や序曲じゃなく、交響曲でお願いしたい。一曲じっくり、バッティストーニのモーツァルトを聴いてみたくないですか皆様(そうか、モーツァルトならオペラって手があるか…←気づいちゃった人)。

メインのチャイコフスキーだが。これはバッティストー二が今までで一番、彼自身を投影した演奏だったのではないか。どこをとっても彼自身を感じさせる、パーソナルな感情が爆発した音楽だった。Bravo.

彼のオペラ演奏や協奏曲での伴奏ぶりを一度でも経験した方なら、彼のバランス感覚がとても強いものであることを知っているだろう。いかに音楽が熱を持ってもサウンドや様式感、構成への配慮を失うことはない。たとえば同じチャイコフスキーでも「悲愴」がそうだったように、どれだけ熱い演奏をしていても、そこでは知性が適切なハンドリングを行っている。もしかすると彼の身振りだって、没入したように見えるパフォーマンスかもしれない(いやそれは勘ぐりすぎなのだけれど)。
だが今回の第四番ではそうした配慮さえも乗り越えて、何よりも強く彼の施した「刻印」が感じられる演奏となった。どの一音を取り出しても彼の解釈が込められた、かつてこの曲で聴いたことがないほどに劇的な演奏だった。1月の「シェエラザード」よりも濃厚な表情付が徹底していた、といえば1月定期を聴かれた方にも想像いただけるだろうか。一楽章冒頭、あのファンファーレの重さから気乗りしないワルツの足取りの重さ、その繰り返しで高揚していく音楽と、言葉にすれば作品通りのことをきちんとしているわけなのだけれど、音楽は十分に配慮された響きを超えてなによりも感情を、ドラマを伝えてくるのだ。暴風吹き荒れるかのごとき第一楽章のあとは物憂げな第二楽章、例によって管楽器のソロが見事なのである。個人的には「快速のピチカート・スケルツォ」にするのかな、と予想していた第三楽章は意外と落ち着いたテンポ設定で、オーケストラのアンサンブルを誇示するようには響かず、むしろバレエの一場面のように表情豊かな演奏が繰り広げられる。
「三楽章がああならどうするんだ、終楽章?」とか思うスキもなく全力疾走で始まるフィナーレの激しさたるや、まさに炎のごとし。「これがイタリア人がこの表情記号から感じるアレグロ・コン・フオコか!」とその場で得心できるわけもなく、激流に翻弄された私である。民謡を用いた第二主題はどこか鄙びた雰囲気もあるはずなのに、それ以上の切迫感が聴き手を煽り続け、その緊張の頂点で第一楽章のファンファーレが帰ってきてしまう。嗚呼。しばしの落胆のあとの狂乱をどう受け取ったものか、混乱したまま全力疾走で駆け抜けるコーダは言葉にはならないが圧巻(言葉にしないほうがいいのだと今は思っている)、場内を圧倒して交響曲は終わった。これが、バッティストーニが愛するチャイコフスキーなのだ。

※あとでスコアを確認しておいたが、第三楽章は「Allegro」、ここでそれほど極端な表現は求められていないのである。なるほど。アレグロの第三楽章と、フィナーレの疾走感の対比は楽譜どおりのものと、いくら自己を投入していても、そこに明確な根拠があるあたりがバッティストーニだなあ、と思う私だ。

大喝采に答えてのアンコールに「威風堂々」第一番の短縮版、(もしかしてこのオーケストラだから、名曲アルバムヴァージョン?)なんてことは終演後に思いついたことです(笑)。あまりに激しいチャイコフスキーに翻弄されて、コンサートの「あらすじ」を忘れかけていた私たちに本筋を思い出させてくれる「ドラマのエンドロール」のようでもあったけれど、私としては今シーズンのバッティストーニが「イギリス音楽、やる気なんです」という意思表示と受け取りたい。9月の定期では「惑星」を演奏することももちろんだが、恒例となりつつある新宿文化センターでの1月公演で取り上げるのもウォルトンの「ベルシャザルの饗宴」なので!
この展開をみて、まずは本丸を押さえて進めるのがバッティストーニ流のレパートリィ拡張法なのかな…なんてことをぼんやり思い、次にまた彼の演奏を聴く機会を楽しみに思いながら帰路につく、幸せなコンサートだった。

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さてまもなく始まるバッティストーニと東京フィルの9月は、まずKバレエとの「カルミナ・ブラーナ」で始まる。まる一ヶ月以上にわたり、彼らは何かしらの舞台に登場してくれるので、ここで簡単にその日程をまとめてみよう(詳細はそれぞれのリンク先でどうぞ)。

●Kバレエ「カルミナ・ブラーナ」 (9/4、5)

●東京フィルハーモニー交響楽団 長岡特別演奏会(9/7)

●休日の午後のコンサート 「バッティストーニの感謝祭」(9/8)

●第925回サントリー定期(9/13)

●響きの森クラシック・シリーズ Vol.69(9/14)会場:文京シビックホール 

●横浜音祭り2019 オープニング・コンサート(9/15)

●第926回 オーチャード定期演奏会(9/22)

そして月が明けるとこの公演が待っている。このリハーサルが始まるためなのだろう、9月中旬からの公演数減少は。

●東京二期会 プッチーニ「蝶々夫人」(新制作 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場との共同制作) 10/3〜6(東京・上野)10/13(横須賀)


と、言うわけでバッティストーニと東京フィルの、8つもの会場を渡り歩いて一ヶ月半も続く、熱すぎる残暑が始まろうとしています。間もなく始まる「カルミナ・ブラーナ」から東京二期会の「蝶々夫人」横須賀まで、皆勤される猛者はいらっしゃるのでしょうか…(どこかが密着取材して映像ドキュメンタリーとか作ればいいのに)などと思いつつ本稿はおしまい。

2019年9月2日月曜日

認識が改まる喜びを ~東京交響楽団 第670回定期演奏会

●東京交響楽団 第670回定期演奏会

2019年5月25日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ
管弦楽:東京交響楽団

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.15
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番 ニ短調 Op.47

これは私事ゆえにどうにもできなかったのだけれど、昨シーズンはノット&東響の演奏をほぼ聴けず、ようやく昨年12月のヴァレーズ、R.シュトラウス公演で復帰できたばかりであることをはじめにおことわりさせてもらう。以前のように「このコンビはリハでこんな感じで、ゲネプロでこう、それなのにコンサートでは!」と取材に基づいて書けるわけではないのです。そうして間が入ってしまっているうちに、いくつかの録音もリリースされ、テレビでも演奏会が放送されて、私ごときの出番はなくなったので、今はそうですね…あえて言うなら「心の友」って感じでしょうか…(ジャイアニズム)。

もちろん、過去拝見したリハーサルは今も鮮明に思い出せるし(なんなら過去の記事も読んでください、どうぞ)、そこから作品によって、暗譜かどうかによって、などの要素からの類推はできるかもしれない。リハーサル開始早々に流れを整え、音色やフレーズ、リズムへの配慮を徹底させ、互いに聴きあうよう促す数日の濃密なコミュニケーション(こんなリハーサルを作業とは言いたくない、そんな思いがあるので何度も取材させていただいたのですね。その意図が伝わっていなければそれは私が悪いので、今更ですがお詫びします)。そして出来上がりを確認するはずの、通し演奏で終わるはずのゲネプロでまた新たな刺激をオーケストラに与えるマエストロ、全力で応えるオーケストラ。このプロセスを経てコンサートを迎える、場合によっては複数回違う演奏を繰り広げる…そんな関係がもはや短くもない時間続いているのだから、ある意味では安定してきたのだろうけれど、いつでも新たな可能性を開き続けているノット&東響に「安定」の言葉は似合わない。私たち聴き手が期待して高揚感をもってホールに向かうように、ノット&東響の各位も緊張感と期待感をもってコンサートに臨んでくれている。事前に取材していなくてもそう確信できるくらいに、今回の演奏会でも貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

…いやまだ文章を終わらせてはいけません、まったく今回の演奏会の話をしていない。

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私が今シーズンの東響定期で一番の注目と期待をしていたこのコンサートは、まず簡単に結論だけ書くならば一言、圧巻、であった。前後半それぞれに聴きどころがあり、新鮮な発見があり、今後への期待があった。

前半に演奏されたブリテンの協奏曲で、独奏者は多彩な表現を尽くし、オーケストラは端正に作品の姿を示す、協奏曲演奏の理想形のひとつだっただろう。そのサウンドの充実ぶりは、録音だけではなかなか感じ取れないブリテン作品の色彩を明確に示すものとなった。
以前録音で聴いたダニエル・ホープはどこか線の細い音が気になる、手放しではほめにくいヴァイオリニストだったが、実演で聴く彼は美音より表現を追究する音楽家だった。楽器の特性やアーティキュレーションを積極的に攻めるので、結果として響きそのものが不安定に聴こえる、録音ではそれがどこか技量の不安定に感じられてしまっていたのだった。こういうことがあるので音楽家を録音だけで評価してはいけないのである(自戒)。
スコアを用意して指揮したノット監督のもと、東響の作り出したサウンドの充実は感心するしかないものだった。即興性控えめ(=リスク少なめ)のノット&東響の実力は、もはやここまで来ているのだ。弦や木管の繊細な表現には十分すぎるほど評価を受けている東響だけれど、力強さが求められる局面でももう不足感はない。であれば後半は…と期待は高まる。

そして後半のショスタコーヴィチは、これまでのノット&東響のアプローチがそうだったように、この作曲家を呪縛し続ける「大きな物語」の見立てによるドラマ、時代に即した解釈から解き放って、より実存的、パーソナルなドラマとして示してくれた。
ノット監督の積極的なコミュニケーションはいつものことだが、そのアイディアは豊富でかつ楽譜からのものだから妥当なアプローチだ。そしてこの日驚かされたのは、なにより監督からの挑発を受けた東京交響楽団の内声、低弦の充実ぶりだ。以前に聴いたノット&東響の演奏よりも格段にコミュニケーションが濃厚に、しかし自然に行われるようになっていて、その結果定評のある木管セクション同様に各声部がそれぞれに主張するようになり、アンサンブルはより音楽的説得力を持つようになっている。これを成長と言わずしてなんと言おうか。

2ヶ月前にウルバンスキと第四番を演奏したばかりの東響は、第五番でも聴き手の、いや私のショスタコーヴィチ観を揺さぶってきた。これらの演奏を受けてなら、「ショスタコーヴィチはマーラーに大きく影響を受けている」と、私だって思う。得心、である。

今後私がこの曲を、ショスタコーヴィチ作品を聴くとき、プラウダ批判や革命20年のこと、映画「戦艦ポチョムキン」から少し離れて自由になれる、ような気がしている。旧ソヴィエトの歴史に左右された天才、そんな作曲家の物語から離れたところで成立しうる音楽としてのショスタコーヴィチ作品。つい日頃成立史や時代から作品を捉えてしまうところがある私としては、こういう予想外は大歓迎である。こうして自分のそれまでの認識とは違うアプローチによって、自分自身も新たな作品像をイメージできるようになるのだから。


(と言いながら、ここで「戦艦ポチョムキン」を貼る私である)

そんなわけでこの日、演奏された両曲ともに作品への、演奏された音楽家の皆さんへの認識が改められるという、貴重な経験となった。本当にありがたいことである。こうなると、なんですかね、5>10>15だけではなく、ノット&東響のショスタコーヴィチ全集なんて考えてしまうんですけど、どうなんでしょう名案じゃないですかね(提案ではなく要求)。

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なお。最初に紹介したときに書いたとおり、この演奏会は首都圏では一度しかなくチケットも完売していた(新潟定期でも披露されているが、きっとよかったのだろう…二日目のノット&東響…りゅーとぴあ…)。私も脳内でリピートはできるのだが、言葉であの演奏を描くことはちょっと遠慮したい(ここまで無理筋だと挑む気も起きないので)。

だが幸いなことに、この演奏会は東京交響楽団の配信サーヴィス「TSO MUSIC & VIDEO SUBSCRIPTION」ですでに配信されている。数多くのマイクも立てられていたこの日の演奏はCD(SACDハイブリッド)としてもリリースされる。どちらを選んでも正解です、ぜひ、とだけ申し上げておく。



ああそうそう、私事ですが、ひとつご案内。リハーサルの取材などはオファーいただるなら調整の上対応したいと思っております(宣伝か)。ではまた。

これぞ、真髄 ~東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

●東京交響楽団 川崎定期演奏会第69回

2019年3月23日(土) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ
管弦楽:東京交響楽団

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番 イ長調 K.219
ショスタコーヴィチ:交響曲第四番 ハ短調 Op.43

かつて首席客演指揮者として東響でも活躍してくれたウルバンスキだけれど、実は私はタイミングが合わず今回初めてその演奏に触れた。才能ある若い指揮者が特に欧州でポストを得ると、なかなか日本に来られなくなるというのは皆様もよく感じていらっしゃるでしょうけれど、ええ、私の場合彼がそのタイミングで聴きそびれていた一人なのです。NDRオケとの来日も行けませんでしたし…
録音などでは聴いていても、いろいろとお話はうかがっていても(過去の共演の際の興味深いエピソードなど、教えていただいたのは、もしかすると「早く聴いておけって」というアオリだったろうか(笑)。いや考え過ぎかもしれませんが)、やはり実演でないとわからないことは多いものです。終演後、早々に団の方に「早く次呼んでくださいね」とお願いに行ったことを最初に書いておきます。返事がどうだったかは、…ご想像におまかせします。なお、この日は三階席で聴きました。

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まず前半に置かれたモーツァルトの協奏曲から。編成は8型で意外にも弦は向かって左からVn1>Vn2>Vc>Vaと並ぶ通常(または20世紀)配置。ザルツブルク時代の曲なので管楽器はオーボエとホルンしかなく、この小編成で、しかも三階席でどんな音がするものか、十分に楽しめるだけの音が来てくれるか不安がなかったわけではない。しかしチューニングが始まってみれば音はちゃんと届くし、音の伸びも感じられる。これなら、と思ううちソリストと指揮者が入場、オーケストラの序奏のワンフレーズで杞憂は解消され、ありがたいことに残響感も十分だ。ソリストの音も、フレーズにアーティキュレーションにテンポにと、多彩なアイディアがきちんと聴き届けられるのだから文句のあるはずがない。このホール、席によってかなり印象が異なりますね、というのがミューザ不在の数カ月の経験からのアドヴァイスです。まあ、次がいつになるのか、まったくわかりませんけど…

さて演奏の話に戻ります。10代でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれたというヴェロニカ・エーベルレ、さてその腕前のほどは?なんて様子見めいた気持ちは、演奏開始早々になくなってしまった。その音楽は鮮やかであり、自在である。アーティキュレーションを鋭く立てて語る部分と、レガートで存分に歌う部分とのコントラストも見事なものだし、技術的にも非常に高いレヴェルで安定している。小編成で聴かせる東響のモーツァルトが悪いはずもないのだが、指揮台に乗らずソリストとオーケストラをそそのかすように刺激するウルバンスキのもと、エーベルレはくるくると表情が変わる見事な「若きモーツァルト」を聴かせてくれた。特に感心したのはフィナーレ。ロンドをただの繰り返しにしないアイディアの多彩さももちろん素晴らしいのだけれど、この作品の愛称をもたらした「トルコ風」の部分、コル・レーニョの打楽器的効果にソリストの奔放な歌い回しが上手く噛み合って、モーツァルトがこんなにもロマ風に聴こえたのは収穫だった。愛称の由来を超えていく演奏なんてなかなか出会えるものじゃあない。彼女なら弾き振りでもいけるんじゃないか…?モーツァルト・マチネとか来ません?などと思ったりもしたけれど、軽やかに歩きながら指揮したウルバンスキの存在感もまたよし。良いモーツァルトを堪能した。

アンコールに演奏されたプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからの第二楽章は、モーツァルトとはまた違う、濃厚な表現が実に魅力的なもの。そう遠くない時期にまた東響に来てほしいものだ、それこそスケジュールが取れなくなる前に、定期的に来演するパターンができるまで。そうそう、次は是非、ソリストに優しく、何より音楽家の可能性を増大させるミューザ川崎シンフォニーホールで。

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休憩を挟んでステージを眺めればみつしりと並んだ大編成管弦楽。思えば私の2019年はここまで東響のモーツァルト以外は16型ばっかりである(笑)。変則の四管、打楽器9人、壮観である。しかし問題は編成ではなく音楽だ、表現だ。当たり前の話である。
ということで例によって結論を書く。もしかするとオペラと定期と連日の公演で若干徹底しきれなかった部分はあったかもしれない(この時期の東響のスケジュールをみるだけで私は気が遠くなる)。しかしそれでも、しなやかで強い音楽としてショスタコーヴィチの問題作が提示された。この演奏ならば先日の予告で書いた「天才が無邪気なまでにその才能を披瀝した作品」と評することができる。ありがたいことだ。

実はこの作品を”マーラー的”と評することに、私は長いこと違和感を持っていた。たしかに”長編”でコントラストが鮮烈である点に近さがあっても、求心的でシーケンシャルなマーラーと発散的でコラージュ的なショスタコーヴィチのヴェクトルの違いがより気になるからだ。第一から第三までのショスタコーヴィチの交響曲を追っていればなおのこと、マーラーとは語り方が違いすぎる、のではないのか。成立に諸説ある作品だが※1936年に成立したままの作品が現状演奏されているものだとするならば、直前の大成功作である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になるべき作品だったのではないか、とこの日の演奏を聴くことで思い当たった。女性のドラマとして示された「マクベス夫人」、男性のドラマとして示されるはずだった交響曲第四番。

※陰謀論に近い説があります。復活蘇演の時期の作風に近いので、パート譜からスコアに起こす際に手を入れたのではないか、とかいう。その補強にかつては現行版とはまったく別の序奏が挙げられていましたが、それは今回の解説にもあったとおり「破棄された草稿」と見るべきだと思うので、まあ、ネタということで。

交響曲第四番が、その後名誉回復の一作となった「第五番とそうかけ離れた内容の作品ではない」という指摘は昨今よくされる。なるほど、過剰な部分を抑えて形式を整えて、四楽章形式でフォルテッシモで終われば…なんて口では言えても、具体的な想像はそう簡単ではないのだけれど、ときどき作曲家の手癖故か直接に似たような雰囲気を醸すところはある。だがしかし、第五番は”本筋”が誰にも聴き取れるように書かれているのに対し、第四番は交響曲第三番までの、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」までの初期ショスタコーヴィチの集大成として、もはや”本筋”があるのかどうかすら疑問に感じるほどに過剰な脇筋が展開される音楽だ。だがしかし喜ぶべし、この日の演奏ではいくら脇道を全力で疾走したり、迷子になったように立ち止まったりしていても、この曲は第三楽章のクライマックス、音響的頂点に至るためにある、そう本筋が示された。敗北して終わるドラマ、ということではマーラーの交響曲第六番にも通じるドラマを想定して捉え直してみるべきなのか。そんなふうに思わせてくれたウルバンスキと東響に感謝したい。

足元も軽やかにこの複雑な作品を捌いていくウルバンスキ、それに応える東響のコンビネーションは彼がポストにある/ないなど関係なく密接なもので、印象的な場面はいくつもあった。たとえばこの日の演奏は冒頭から高い集中を見せていたが、第一楽章のあの狂乱のフーガは最初の頂点となった。トップスピードで始まって、その速度を全力でキープするオーケストラ、そして気を緩めずそれ以上を求め続ける指揮者の姿にはどこか異様な気配すらあった。その整然とした狂気あってこそこの作品だ、ショスタコーヴィチ音楽の愛好者として演奏を聴きながら内心ガッツポーズしていた私である。第二楽章の普通のスケルツォ風に始まりながら、どうにも収まりの悪い(けど楽しい)拍子が変わり続ける展開もむしろ楽しむように演奏するウルバンスキと東響。そして前述のフィナーレだ。民謡風の鄙びた雰囲気から始まって、その多彩すぎるアイディア、オーケストレーション、展開の目まぐるしさがこうも力強く表現されるこの演奏であれば、ショスタコーヴィチがかつてどれだけ「危険な天才」だったかがわかろうというものだ。その危険さは形を変えて残っていくのだけれど、「マクベス夫人」と第四番で見せるそのヤバさは別格である。ロシア革命が生み出した最強の天才は、しかしこの路線を突き詰めることはなかった。それがよかったかどうかはもう誰にもわからないけれど、現在の私たちはこの作品があってそれ以降の作品があることをよく知っている。第五番以降の作品を聴くとき、どこかにこの作品の残響を探してみる、そんなショスタコーヴィチの楽しみ方もあるだろう、そんなふうに思わされたウルバンスキと東響の見事な第四番だった。

…そうだ、昔新国立劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を聴いたとき、オーケストラは東京交響楽団だったのではなかったか。また上演してくれないだろうか、それこそウルバンスキを招いて(無理です、スケジュール的に←オチ)。

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ウルバンスキが次にいつまた来てくれるものか、それはスケジュールを差配するエージェントのみぞ知ることなので(哀しいけどこれが現実です)ここで書けることは何もないのだけれど、この日見事なモーツァルトを聴かせたヴェロニカ・エーベルレは9月に再度来日します。東京都交響楽団札幌交響楽団との共演にリサイタル武生国際音楽祭2019に、と存分にその魅力を示してくれることでしょう。詳しくは招聘元のサイトで日程をご覧くださいませ。

2019年8月21日水曜日

「交響詩曲」に溺れた ~東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会

予告編を書いておいてアレなのですが、今年前半の積み残しがたくさんあります。なんとかまとまってきたので並行してこちらも公開させていただく関係で、サマーミューザの進行があまり早くならないことはご容赦くださいませ…

●東京フィルハーモニー交響楽団 3月定期演奏会 | 2018-2019シーズン

3月13日(水)19:00開演 サントリーホール
3月15日(金)19:00開演 東京オペラシティコンサートホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
ヴァイオリン:ユーチン・ツェン (2015年チャイコフスキー国際コンクール ヴァイオリン部門最高位)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:
  スラヴ行進曲 変ロ短調 Op.31
  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ハチャトゥリアン:
  バレエ音楽「スパルタクス」より アダージョ
  交響曲第三番 ハ長調 Op.67 「交響詩曲」

オーチャードの公演が日曜なら、私はまたこのプログラムを聴きに渋谷を訪れていたかもしれない。もはや私は「交響詩曲」のジャンキーである。…不穏な時事ジョークはこのへんで(※3月のネタだから微妙に古いし、なにかの作品で彼は復帰したようだ)。

前半にチャイコフスキー、後半にはハチャトゥリアンとロシア・ソヴィエトのメロディメイカー・プログラム(以前の記事参照)。指揮はピアニストとしても活躍を続けるミハイル・プレトニョフ。東京フィルハーモニー交響楽団とは特別客演指揮者として、ロシア・ソヴィエトの名曲秘曲、なんでもありの趣あるプログラミングを展開しているのはみなさんもご存知のとおりだ。今回は一曲目に短い管弦楽曲、そして協奏曲を挟んで交響曲をメインに据えた、一見するとオーソドックスなプログラムだが、…という絵解きは前に書きましたのでそちらを参照してください。

チャイコフスキーの作品の中でも国歌や民謡をそのまま取り込んだ、野趣あふれる「スラヴ行進曲」が、果たしてプレトニョフの元でどう響くのか?少々の疑問符を抱えたままの私に関係なく、力みなく始まった演奏は、低弦のイントロからして飾らない、自然な入りがそれだけで魅力的。引用される民謡をそれぞれに表情付け、多彩な音色で自然に音楽を高揚させて帝政ロシア国歌で頂点に導く運びもまた自然なもの、この作曲家の音がどれだけマエストロの手に馴染んだものであるかがそれだけで示されたと感じた。また、彼と東京フィルほどの関係ともなると音楽を大きく動かすにも音色を変えていくにも大きな動作はいらないようで、ちょっとした指示で歌い回しに強弱にテンポにと、自然に音楽が動いていくのが実に心地良い。旧ソヴィエト時代の演奏を自らの体験として知っていて、しかしそれとはまた異なるアプローチで作品の持つ可能性を示すマエストロに、一曲目でもう感服である。

二曲目に演奏されたヴァイオリン協奏曲のソリストとしてに招かれたユーチン・ツェンは前回(2015年)のチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門第2位(1位なし・最高位)の若き才能だ。なるほど、確実な技巧、フレーズの一つ一つへの創意で楽しませようという意志はよく伝わってきた。だがいかんせん今回聴いた演奏からは、彼がこの曲をどう捉えているのか、その全体像がまだ見えてこない感が惜しい。美音で技巧は万全、だがそれに加える何かがほしい。そう感じるのはわがままな希望かもしれないが、彼がチャイコフスキー・コンクールから世界に羽ばたいている最中なのだから、高望みを許してほしい。今回はまたプレトニョフと東京フィルが作り出した舞台で踊っただけに聴こえてしまったけれど、彼の音楽にはまたいつかまた触れられるだろうから、そのときに成長を感じさせてくれるなら、と思う。
オーケストラの音色は、一曲目より色彩感高くその美しさに聴き惚れてしまうものとなった。一曲目のロシアの、セルビアの土の色なのかどこか黒っぽい音に対して、中間色を上手く使った絵画のごとき落ち着きある響きは”西欧派”チャイコフスキーの演奏としては理想的なサウンドだったのではないだろうか。この音で交響曲もバレエも聴きたい、などと思う、なんのかんの言ってもチャイコフスキーの音楽が好きな私の感想でした。

さて後半は作曲者が変わってハチャトゥリアンだ。「スパルタクス」(1954-56)は、ジダーノフ批判のあとでの最大の成功作と言えるだろうバレエ音楽だ。剣奴スパルタクスの物語はスタンリー・キューブリックの(というか、カーク・ダグラスの)映画でご存知の方も多いだろうから詳しくは書かない。ここで演奏されるアダージョはスパルタクスとフリギアの愛の場面、勇壮な物語の中でもっとも印象的な場面の一つだろう。
ただ、プレトニョフと東京フィルの演奏ではおそらくバレエには向かないだろう、とは言わなければなるまい。指揮者の解釈や「舞台慣れしたオーケストラなのに!」などという批判ではもちろんなく、趣向を凝らされた細部、たとえばフレーズの伸縮や濃厚な表情付けが踊りとは合わなかっただろうから、という意味でのこと。指揮者とオーケストラが創り出した充実した音楽は、それだけで一場のドラマを描き出した。中間色の響きが美しかったチャイコフスキーと対比するように、ハチャトゥリアンはよりシャープな線と輝かしい光沢で、愛の場面を飾った。
強めに奏された低弦のピチカートとピアノの一打で愛の余韻を断ち切るようにアダージョが終わって、いよいよ交響曲第三番である。16型のオーケストラからバスクラリネットが退場、第3トランペット、さらに15人のトランペットが入場すると場内には不思議な高揚感が…いや、私は着席してすぐ(そうか、15人はステージ奥か…)と高まりまくっていたのですが。

短いクレッシェンドの序奏のあと、すぐに轟く15人のトランペッターの音は録音で聴くような暴力的なものとはならず(ある時代のある演奏を聴きすぎの感想)、今の若手世代の奏者たちの明るい響きが真っ直ぐに客席に届いてくる。細かくパート割されたトランペットは、ステレオ効果も面白く、抑えたテンポで端正にアンサンブルが形作られていく。その整った造形に油断していたわけではないのだけれど、トランペットの提示が一段落したところからはオルガンの大活躍が始まるのである。度肝を抜かれるのである。
ホール上部に大量のパイプを配したオルガンは、会場そのものを楽器として音の範疇にとどまらない振動を伝えてくる、ということは経験からも理屈としても知っている。だが、そのサウンドを会場の残響や家鳴りを効果として活かした数々の先行する作品のそれとは違う形で用いたのがこの作品だ。なにせいきなり猛烈な速度のパッセージから登場するのだから、その衝撃のほどはなお大きい。ちなみに、かなりの時間続くオルガン独奏のため非常に横長の楽譜を用意していたようなのだが、数ページにも及ぶ長大なソロを、それも連続する高速六連符なのだから、演奏するのが大変でないわけがない、しかし石丸由佳の後ろ姿からは苦労のほどが伝わらず、あたかも淡々と弾いているようだ。もちろんそんなはずはない、と思うが背中はそう語らない。なにせ、出てきた音を私が評するならばひとこと、「轟音の奔流」で済んでしまうほどの音が延々と続くのだから、無駄のない動きとの落差は相当のものなのだった。
聴き手がそんなオルガンに圧倒されているというのにトランペットも呼応してしばしトランペットとオルガンの大音量のアンサンブルが展開するのだから、この曲は本当に異形の作だと思う。速弾きのオルガンとトランペットのファンファーレ、二つのの音群はまとまるわけでも譲り合うわけでもない、力強いふた柱の音としてホールを埋めていく。
…王を象徴する楽器として用いられたトランペットと、「楽器の王」とも称されるパイプオルガンを並立させて独特なアンサンブルを作り上げた共産圏の作曲者、というのははたして何を考えていたのか、そんなことを轟音の中で思う私である…とは言いながらそんな物思いに浸れるような時間が長くあるわけもなく(あんなに音が多いのに、この曲は演奏時間30分もないのだ)、通常のオーケストラ(よくわからない物言い)が新たな主題を提示、オルガンとトランペットは一休みとなる。ここで弦楽器によって示される旋律が「スパルタクス」で示されるそれによく似ていることは、明らかにプレトニョフが仕掛けたことなのだろう。「スパルタクス」の時点ではまだ封印された作品だった「交響詩曲」を作曲者が大事にしていたことに気づかせてくれようと、マエストロはこのプログラミングしたのだろうか…ハチャトゥリアンが自作引用を意味付けに使うタイプではないからなおさら、この配慮は心に響く。オーソドックスに見えて選曲に表現にと、大技小技さまざまに織り込まれたプログラムなのだ。

交響曲に戻ろう。バレエのいち場面や民族色をも感じさせる旋律が高揚し、また沈静化していくと遠くにあのファンファーレが聞こえ、クラリネットの長大な速弾きのソロから始まる展開部、その先に五拍子の新たなリズム・モティーフが示されて音楽は新たな顔を見せてくる。とはいえ30分かからない作品はここからはまっすぐゴールへと向かう。提示された要素が編成を変え組合せを変えて連続して現れたその先に、たどり着くのは12/8拍子の異形のマーチ、そしてファンファーレが乱舞するコーダ、である。最後の長い長いクレッシェンドまで、マエストロはコントロールを失わず、しかし大きい起伏ある音楽を聴かせてくれた。感情移入によらない外在的な音作りということで、ピアニストらしい(最良の意味で)指揮だったと感じたのだが、今にして思えばロジデーストヴェンスキーにも通じるものがあった、かもしれない。相当にコントロールの効いた演奏ながら、最後のコーダで大きくテンポを落として明確に駄目を押すところに、マエストロの明確な個性が刻印されて、演奏は終わった。轟音の余韻の中、ついにこの曲を聴いたな、という充実感に浸らせていただいた。私には感謝の気持ちしかない。

事前にけっこう頑張って準備して(過去記事参照)、「交響詩曲」こと交響曲第三番が終わった時点で個人的にはもうお腹いっぱいだったのだけれど(実際帰り始めるお客様も少なくない。これは定期ならいつものこととも思うが…)、マエストロはきっと「いやいや皆さんの知らない曲で申し訳ない」とでも思ってくれたのだろう、アンコールとして同じ作曲家の「仮面舞踏会」から、ワルツを演奏してくれた。今ではおそらく日本で一番知られているハチャトゥリアン作品の一つと思われるこの作品を、ちょっとフィギュアスケートには合いにくいだろうトリッキィなテンポ・ルバートも交えて聴かせてくれて、初日は終わった。コース料理の最後にはデザートが必要なんだな、と理解して帰路につける幸せ。実演ならでは、ですよね。もう一度書いておこう、幸せでした、ありがとうございました。

さて、この日の演奏を聴くことで、この作品について以前私が示した二択、「失敗したプロパガンダ」と「再びのロシア・アヴァンギャルドの可能性」が、選択ではなく両方そのとおりなんだなと体感できたものだから、私はこのあと東京オペラシティでのコンサートにも行きました。すみません本当にジャンキーだったんです。それもダウナー系ではなくアッパー系のこの作品の中毒者ですから、それはもうきちんとあれもこれも認識して帰ってきたんですよ、ええ。

オペラシティでは配置が少し変わって、ステージ上にはオーケストラ、トランペットはオルガン奏者を挟んでいわゆるP席に左右の二群として並ぶ。二度目の演奏でより練れたアンサンブルはサントリーでの公演以上に積極的で、トランペット部隊にはここの音響を楽しんでいるような余裕すら感じられた。
この配置によって、音響的には一番上からオルガン(パイプの位置から音が来ますからね)、正面からはトランペット、そしてステージのオーケストラからと、音はより立体的に分離され、明瞭に聴き取れるようになる。天井が高いオペラシティの設計者に感謝しなくてはいけない。とは言いながら、会場のサイズとしては一回り以上小さくなるし、比較的残響の長いこの会場での演奏だから解像度優先の演奏にはならない。というか、そういう音楽ではない(笑)。長めの残響ながら音楽は聴き取れる、しかしその絡み具合が実に秀逸で、このホールでサウンドを作ることに長けた東京フィルの面目躍如と言えた。サントリーホールの少し余裕がある音もいいけれど、この曲の圧倒的な存在感という意味でならこちらの演奏が上だったかもしれない。

果たして次に聴く機会が訪れるものかどうか、正直に申し上げて疑問しかないわけだけれど、こうして私の「交響詩曲」月間は終了しました。…本当に、日程さえ合うならオーチャードホールと文京シビックホール、おそらくは電子オルガンでこの曲が奏でられたのだろう後半戦もお聴きしとうございました。…あと、叶うならミューザ川崎シンフォニーホールでも聴きとうございました…

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ミハイル・プレトニョフが次に東京フィルの指揮台に登場するのは10月。今度はロシア、ソヴィエトではなくフランスとハンガリーの(というか、リストの場合、あえて言うなら汎欧州だと思うが)二人の作曲家の交響曲を並べたプログラムだ。それにつきましてはまた、公演が近づいてからなにか書きましょう。とりあえず今の時点で言っておきたいのはただひとつ、「そろそろ「ファウスト」全部読んでもいい頃だと思いますよ!」ということだけです(笑)。ではまた。

2019年8月18日日曜日

PLAYBACK フェスタサマーミューザKAWASAKI2019…の予告

数日のご無沙汰でした。

さて。フェスタサマーミューザKAWASAKI2019の初日から最終日まで、連日予告編を書きました。すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょうけれど、私が予告を書くのは基本的に「自分が聴きに行く」ことが前提です。ですが今回、地元のお祭り(おい)のため禁を破っていくつか伺えない公演について書いています(時間がかぶっていた、所用など事情あったのだから仕方がないのですが)、それでも休演日と音大の皆さんの公演を除いて、連日なにかしら聴きました。二つの音大の皆さんにはテアトロジーリオ・ショウワと前田ホールで会えるから許してください。あと、しんゆりからでは移動不可だったため聴けなかった我らが公共放送響とは、テレビで会えますので(おーい)。

ええ、そんなわけですから期間中毎日のように川崎駅にほど近いミューザ川崎シンフォニーホールまで通っていました。通いましたとも。終わった今はもうヘロヘロです。暑さの中でも足裏から伝わる地熱が本当に辛くて、心底ホールに住みたかったのですが(切望)、もちろんそんなわけにもいかないので路線を乗り継いで連日通いました、ノット&東響のオープニングから、尾高忠明と東響によるクロージングまで。ただし今回、さすがにリハーサルは行けませんでしたし一日一公演限定でした、それ以上の体力は私にはなかった(笑)。

初日の終演後、なかなか帰る気になれずにこんな時間になってから撮りました。
実は私もこれを船の舳先のように感じて、二週間ちょっとの航海の安全を祈ったことでしたわ…

楽ではなかったけれど、一時期に同じ会場で、複数の音楽家の演奏を聴くことには大きなメリットがあったな、と感じています。ちなみにデメリットは「さすがにこれだけ聴くと心底疲れるっす」くらいなので、あえて言うまでもないでしょう(笑)。
演奏における条件が揃うことで、それぞれの音楽家が持っている音のイメージの違いが際立つものだ、と日々感じておりました。コミュニケーションスタイルの違い、身振り、表情…etc等など、それらすべてが同じ場に並ぶことで、比較する気がなくとも違いとして伝わってくる。
そうそう、ステージマナーもそうだ。入場から終演まで、これは無心に比べていました。書く機会もない話なのでここで書いておきますね。個人的にはコンサートマスターの入場タイミングで拍手するだけで良いんじゃないかな、と普段は思っているのですが、今回はメンバーが出揃うまで拍手が続く歓迎ムードで、私も抗わずにそれに参加しておりました。その出迎え方は、今回のフェスタサマーミューザの雰囲気を良いものにしていたと感じておりますよ。休館明けということもあったのでしょう、このホールで音楽を連日楽しめることのありがたみはいつも以上に感じていましたし。

本題に戻ります。もちろん、たとえばオーケストラそれぞれの音の違いは、複数の会場で、長い間を空けて聴いたとしてもわかるけれど(その程度のことなら放送でもわかる)、これだけの音響のホールで続けざまに聴くことは、嫌でも聴き比べの性格を持ってしまう。考えていなくても「昨日は…おとといはこうだったな」と頭をよぎる。そのときに聴いている個々の音楽はそれぞれに愉しんだ、そのうえで、どうしてもそういう感慨が残る、という話です。

自分としては、たとえ同じ曲を近い期間で聴くとしてもそういう比較を第一義とすることはありません。そんな私でも、こうも連日眼の前で力の入った演奏が展開されれば、厭でも思いますよ、「この指揮者とはこうなるのか」「その指揮にそう反応するの?」「そこで…」「あれは…」等など。そんなちょっとした発見や思いつき、感じ方が、いつかまた別の演奏をより面白く楽しませてくれる、私はこれまでの経験からそう信じている。今年のフェスタサマーミューザKAWASAKIは、そんな自分だけの“抽斗”をたくさん増やしてくれた。心から感謝します。
このメリットは、毎年変わらぬサマーミューザの魅力の一つと思えるので、来年も川向こうの世界的大運動会よりこっちのほうが楽しいですよ、と言っておこう。だって、こっちは冷房効いてますから、安全ですよ(おい)。

という冗談はさておき(よかった冗談なんだ)、イヴェント全体を振り返ったときの感想はこんな感じです。ではこれから、個別のコンサートについてのレヴューも書いていきます。結果として何故か今年多く聴いてきたロシア・ソヴィエト音楽の聴体験を深め、次につなげるもの※になったなと感じていますので、今年前半に聴いた演奏会のレヴューも並行して仕上げていきます。ご存知ですか皆さん、〆切のない文章って完成しないんですよ(怪談)。

※このあと、東京交響楽団はプロコフィエフの交響曲第四番(改訂版、9月にリオネル・ブランギエと)ショスタコーヴィチの第一一番(11月に沼尻竜典と)など、注目の演奏会を控えています。年明けてからになりますが、チャイコフスキーの第五番(2020年1月、ベン・グラスバーグと)もありますし。そのあたりはまた別途…

来年に向けてはそうですね、コンサートの映像配信とか放送とか検討されると面白いかなあ、と思い始めています。それこそ公共放送様が4K用のコンテンツとするのもよし、地元tvkが配信込みで担当するもよし、三方一両得なのでは。…なんて、ただの思いつきですけれど、仙台フィルの登場でひとつあり方が変わったフェスタサマーミューザ、どんどん攻めて成長してくれたらこんなに嬉しいことはありません。

さてPLAYBACKの本編は、聴いた公演のレヴューの形になります。もっとも、そのうち二つは公式に「ほぼ日刊フェスタサマーミューザ」に寄稿していますので、どう扱ったものか考え中ですが。そうそう、どちらも裏面掲載なので皆さんお手元の裏面もチェックしてね!(今さらか)。開幕公演がアレなので(いい意味で)、ちょっと手はかかると思いますが気長にお待ちいただければ幸いです(サマーミューザ以前の公演もいい加減お出ししたいので…)。
では予告はおしまい、また近日お会いしましょう。