2007年7月30日月曜日

オネゲルの交響曲第二番について(旧題:私は帰ってきた!とは言わなかったでしょう(笑)~オネゲル交響曲大会その二)

※過去ブログからサルベージしてきました。昔の私はふざけるのと真面目に書くのと両方好きだったので、どうしてもボケながら真面目に書くスタイルになってしまいます。
今ならもう少しシンプルに書けそうなものだけれど、書き直しちゃうのもどうかという思いもあるもので、一部リンク他の整備以外は基本的にそのまま掲載します。以下本分。

こんにちは。千葉です。
『春の祭典』(エクスタインズの方)は遅々として進まず、いまだにグレート・ウォーの真っ最中です。気が滅入る、というより、これを経験してしまっては厭でも時代が変わるよな、と思わされますね…



それはさておき、アルテュール・オネゲル交響曲大会のそのニ、交響曲第二番(1936-1942、1942初演)です。前回触れたように 、オネゲルは交響曲第一番の後声楽付き作品を中心に多くの作品を作曲します。なかでも、『世界の叫び』(1931)『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1935)『死の踊り』(1938)『ニコラ・ド・フリュー』(1939)の四作はかなり興味深いですね、オネゲルの志向するものが伺えるように思います。

そうですね、ここをスルーしてはなんのための大会か!と喝を入れられそうなので(誰にだ)、交響曲週間が終わったところでおまけとして声楽作品紹介を追加する、ってのはどうかしら?

じゃ決まりね。

ということで。第一番のあと、管弦楽作品では『パシフィック231』『ラグビー』に続く交響的楽章(運動)第三番が1933年に初演され、いよいよ交響曲第二番に入っていくことにいたします。

オネゲル:交響曲全集/デュトワ(シャルル)



第一番から長い間をおいて、オネゲルが交響曲に戻ってきたきっかけはこれまた20世紀の作曲家達を支援した大立者の一人、パウル・ザッハー率いるバーゼル室内管弦楽団の創立十周年のための委嘱でした。1936年のことです。とはいえ、構想中に次なる大戦、第二次世界大戦の勃発もあって完成は1941年末のこと、初演は1942年5月18日バーゼルにて、ザッハー指揮バーゼル室内管によって行われました。(この楽譜を運んだのがエルネスト・アンセルメ!というのは!!)

弦楽オーケストラのための、と称されることもあるこの交響曲には、終楽章のみトランペットが入ります(任意に、ということで入らない録音もあるそうです、ちょっと驚きですが※)。前回書きました通り、この交響曲も三つの楽章で構成されています。

※追記。ミシェル・プラッソンの録音はトランペットなし版の代表的なものです。興味のある方はいっそ全集でお買い上げください(笑)



第一楽章はどこかリストの『ファウスト交響曲』を想起させる、躊躇うような雰囲気が印象的なヴィオラのフレーズではじまる序奏もつかの間、考える間もなくどこかに連れ去られるようなアレグロの音楽が展開します。弦楽のみ、とは思い難い激しさに驚かされていると音楽はまた冒頭の序奏を展開した音楽(煩悶するかのように感じられる)へたどり着き、そこからまたアレグロへ・・・対比的に二つのセクションを往還するけれども結論は出されず、この楽章は静かに終わります。

第二楽章、アダージョはまさに沈思ともいうべき重い音楽。何だろう、ここまで先の見えないアダージョには、水底へと沈み込むような息苦しさを感じますし、閉塞感が絶望感にさえ到ってしまいそう。ここにも答えはない、あるのは祈りだけなのです・・・

一転、第三楽章はヴィヴァーチェ。闇雲に感じられるほどアクセルを開けていくこの音楽、それまでの流れに身を委ねていると振り落とされそうなほど。確かに光は見える(ような気がする)、しかしそれは何なのか?を考える暇もなく音楽は展開します。一度目の高揚は答えを導かず、また冒頭からやり直し、とはいえその推進力は全く衰えず。そして展開の果てに「外部」から訪れる救済のように、コラールが高らかに鳴り響いて、その終わりを持って(いささか潔すぎるほどに)この交響曲は幕を閉じます。

この終楽章、最後のコラールにだけ(任意の)トランペットが付与されているのですが、千葉には初めて聴いた時からTuba Mirumにしか聴こえませんでした。宗教的意味あいを可能な限り排除して考えても、全く異なる音色のトランペットを結論的に導入することで、別次元の結論を実現した、オネゲルの音楽的アクロバットにいつも驚嘆するものであります。このように主張するのは、この曲もまた一つの戦争交響曲である 、と考えるが故です(プロコフィエフ週間参照いただけると嬉しいです)。グレート・ウォーを生き抜いてなお、さらなる大戦争が待っていたこの時代の思考というのはどのように動いたのでしょうか・・・千葉は、超越的音響に象徴される何ものかの到来を、オネゲルは信じたいと切望したのだ、と考えております。そのためにさえ論理的展開を用いるオネゲル、大好きです。

さてさて、演奏の話に移ります。
今回全曲を参照するデュトワ&バイエルン放送響の演奏ですが、実に手堅い。彼はこんなに構成をきっちりやる指揮者であったか、と再認識させられる出来ですね。デッカでの管弦楽曲路線で彼の演奏に親しんできた千葉には意外の感さえあることを、恥ずかしながら告白いたします。
でもでも、トランペットを外部的に(または超越的に)鳴らさないで、第一ヴァイオリンの補強のように演奏させるのはちょっと・・・二十分もの間、先の見えない思索的泥沼(失礼)を彷徨った後にこのように控えめに救済されるのか、と少しばかりの拍子抜けを感じた、と告白いたします。

では、他に誰が?といった時、やはりシャルル・ミュンシュを引き合いに出させていただきます。なんか千葉、すっごくミュンシュのファンみたいに見えますね(好きな指揮者であるのは確かなのですが、ここまでか・・・みたいな感慨あり)。

千葉の手元には1953年ボストン響とのスタジオ録音、1957年チェコ・フィルとのライヴ録音がありますが、いま入手容易なのはボストン響との演奏。何でしょうね、この圧倒的なアクチュアリティ。作曲者の友人だから、なんてお為ごかしは言いたくないのですが、圧倒的な演奏です。一、ニ楽章は確かに煩悶の色が濃いのですが「全力で」煩悶していますので(笑)屈託のなささえも感じるほど。終楽章のトランペットの扱いについては、「これを待っていたなり!」と申し上げておきます。音色的に非常に明るいトランペットであることも大きいポイントですが、この明確な入りは見事。一瞬の幻でもいい、このヴィジョンを信じよう・・・そんな気になる音楽を聴くことが出来ます。今回はこちらを特にオススメ。
なお。ミュンシュにはパリ管弦楽団との最後のステレオ録音もあるのですが、個人的には録音に立体感がなさ過ぎて(不躾ですみません←三本和彦さんの声で読んでください)あまり評価できませんでした、残念。

※追記。さらに前の録音、もしかすると初演前後のものがすでにパブリック・ドメインなのでここに貼っておきましょう。



もう一つ、この人も録音してたんだ、と思った一枚。カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏 が、異様に上手な弦セクションのサウンド、そしてカラヤンの生み出す激しいコントラストに感心はするのですがちょっと千葉がこの曲に求めるものとは違うかな、と。バイエルンもそうですが、トランペットの音色がマイルドなのも、少し・・・カップリングの第三番は比較的好感したんですが、という微妙な紹介になってしまいました、変だな・・・(笑)

この作品、実演で聴いてみたいです。すっごく。ワインヤード型のホールで、ステージの上からラッパが鳴り響くと劇的で良さそう・・・なんて夢想をしつつ、第二回はこのあたりで。ではまた。



モノラルですが鮮明な録音、そして何よりこの音色が魅力的です。大好き。

2007年7月22日日曜日

フランス六人組、というエピソード、なのかな

※過去の「はい、クラシックを聴いてます」からの再録です。ほぼ無編集、一部修正による転載


こんにちは。千葉です。今日のグランプリの話は後ほど。(再録にあたり註:2007年7月22日にはドイツ・ニュルブルクリンクでヨーロッパ・グランプリが開催されています)

ではオネゲル交響曲週間へのプロローグ第二回(微妙な・・・)、第一次世界大戦の後に現れた若者たち(仮題)、です。よくまとまった本を紹介し、このユニークなグループの話とします。残念ながら、千葉はそのうちの三人しか良く知らないもので・・・

◆フランス六人組 20年代パリ音楽家群像  エヴリン・ユラール=ヴィルタール(飛幡祐規 訳)



>翻訳された飛幡祐規さんのサイト(本書のあとがきが全文読めます)

もし彼らの活動に興味をもたれましたら、本書を一読されることをお薦めします。絶版みたいですが、きっと図書館にはあるかと・・・いや、こんな時こそ復刊ドットコムの出番かな?

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第一次世界大戦がはじまってしまった直後の混乱から落ち着きを取り戻しはじめたフランス。そこに現れた若い作曲家達を、まとめてしまいたくなったアンリ・コレを誰が責められましょう。前回も触れた、前世紀からのフランス音楽の流れを受けて登場したルイ・デュレ、ジェルメンヌ・タイユフェール、ダリウス・ミヨー、アルテュール・オネゲル、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック。前世紀の終わりに生まれた六人は、ともに演奏会を開き、そしてピアノ曲集を出版します。そのうちに、コレの「五人のロシア人と六人のフランス人」という批評により、彼らはグループとみなされるようになります。共通する主義主張がことさらに存在した訳ではなく※、ただ友情により活動を共にしていただけ、と本人たちは後に繰り返し語ることになるのですが・・・

※コクトーの「雄鶏とアルルカン」は彼らのマニフェストとなっている、とは言えるのかな?(代弁にしかなりませんが)あえて言うならば、反ロマン主義(特にワーグナー)、反ドビュッシー主義(反ドビュッシー、ではありません。御注意のほど)、あたりが明確な特性でしょうか。グループを束ねるにはあまりにも大きすぎる、茫漠とした「主義」ではあるのですが。そうそう、ラヴェルのことは明らかに嫌いだったようですね、少し意外でした。

彼らをグループとして世界に認識させたのは、スウェーデン・バレエの公演「エッフェル塔の花嫁花婿」(1921)のための音楽でしょう。とはいえ、今となってはその舞台を知る術がないのですが・・・
(彼らは多くの舞台音楽を作っていますが「消えもの」と思っていたような印象を受けます。一期一会、でしょうか・・・)サティの音楽による「パラード」同様、このグループ(と言って良いか、知るほどに疑問符がつきます)の活動は、以下のコクトーのラディゲの死に寄せたコメントに要約されているように思います。

(上記「フランス六人組」より、引用始め)
「エリック・サティのもとで、ある音楽家のグループと私とがフランス音楽を魔法から解き放った長い時代は、この不幸をもって幕を閉じる。
フランス音楽は(外国の音楽に)魅了されきっていた。サティは、音楽の聖者としての見本を示したコレージュ・ド・フランスで行った私の演説のタイトル、<無秩序と考えられた秩序について>は、1918年から23年までのパリを仰天させた笑い、スキャンダル、ビラ、夕食会、太鼓の音、酒、涙、葬式、出産、夢・・・・・・流れ星のようなそれらすべてのエスプリを一言で言いあらわしたようなものである」
(引用終わり)

とはいえ、六人組のメンバからは、あらためてグループの終わりは宣言されません。そう、もともと「批評の気紛れ」によってまとめられたに過ぎない、というのが彼らの認識ですからね。

この時期以降の彼らは明確にそれぞれの道を行きます。次回以降いよいよ紹介するオネゲルが最初の交響曲を作曲するのが1932年、この「エピソード」から十年近く後のことになります。そこに、この時代の影響がない、とは言いませんがもともと「あまり六人組的ではない」音楽をつくっていたオネゲルの、この時期の作品としては交響詩「夏の牧歌」(1920)、オラトリオ「ダヴィデ王」(1921-23)、交響的マイム(黙劇)「勝利のオラース」(1920-21)、そして交響的楽章(運動)第1番「パシフィック231」を挙げるといたしましょう。素朴に美しい「夏の牧歌」、独特なオーケストレーションが刺激的な「オラース」「パシフィック231」は大戦間の音楽の傑作に挙げられると思います。「ダヴィデ王」は、言葉がわかれば少しは言及できるんですが・・・(苦笑)ここでは、オネゲルの創作においてキリスト教との関わりは見逃せないものであることだけ指摘しておきましょう。

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一通り学習した上で。フランス六人組と言われたうちの三人(デュレ、タイユフェール、オーリック)の音楽を知らないのですが、という情けない注釈を付した上で、彼らのことを千葉なりに、以下のように整理してみました。

・六人の若き作曲家達が友情により集ったものを、便宜的理由によりグループとしてまとめたもの。しかしながら、そのように名付けられることで内実も発生した。彼らに言葉を与えるジャン・コクトー、先行する世代とは違う音楽観を提示したエリック・サティに導かれ、1918年から1923年までの一時期に、音楽家集団として活動した、と言うこともできるだろう。
(なお、ルイ・デュレはラヴェルについての認識の違いから、早期にこの「グループ」を離れている)

・グループとは言うものの、彼らに共通する作曲上のメソッドのようなものは存在しない。一般に、彼らの明解で線的な音楽は先行する音楽へのアンチ・テーゼと考えることもできる(当時のフランス音楽は前世紀末からのワーグナーの影響、そして「ドビュッシー主義」が色濃いものだった)。
しかしながら、そのような括り方もあくまでもこの時期については、と言う注釈の元でのみ有効であろう。

・時代背景として、第一次世界大戦前後のフランスに注目する必要があるだろう。ベル・エポックの終焉、そして民間人と兵士を区別しない絶対戦争の時代の幕開け、しかしその戦争の戦勝国民たちの音楽としての、彼らの活動を意識すべきだろう(特にも、プロイセン帝国→ワイマール共和国からナチス・ドイツへ、という変遷が敗戦国にはあるのだから)

え~、上手くまとまっていたら良いのですが。まず知っている後二人について、そして知らない三人については自分への宿題にしよう、と日記には書いておこう。ということで、プロローグは終了です。では次回、交響曲第一番をお楽しみに。ここからは少しペースをあげるつもりです。では。


2007年7月16日月曜日

オネゲル少年の、その前にあった時代を見てみよう~二十世紀への道、かな?

※過去の「はい、クラシックを聴いてます」からの再録です。ほぼ無編集、一部修正による転載

こんにちは。千葉です。

今回からアルテュール・オネゲルの交響曲全曲紹介シリーズをはじめます。全五曲なので五回で終わるかな、と考えていましたが、それでは彼の立ち位置もわからないし、彼の活動は交響曲を中心とはしていないし、また彼につきまとう「フランス六人組」のことも書かないといけない。彼の生きた時代についても考えたいし。

ということで、今回はフランス六人組が登場する以前の、フランスの音楽についてまずは書いていきます。ちょうどオネゲルの生年は1892年、そこを起点としてこのシリーズをはじめましょう。あの曲の年ですね、ちょうど・・・
えっと、時代の状況を文章で書くと物凄く長くなっちゃうので(そういう本だってあるのですから)、ここでは非常に簡単な見取り図を。なお、参考にした本は最後に挙げます。

◆普仏戦争の敗北をうけて、フランス音楽(器楽音楽)を見直す動き

「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を創ろう」という目的(岡田暁生「西洋音楽史」)のもと、自国の音楽を捉え直す動きがでてきます。それまでは、巨大な消費地として栄えるパリで、海外の音楽家が活躍する街でしたが、この頃からある種のナショナリズムも相まって、「フランス音楽」が再生しはじめます。代表的な作曲家として、サン=サーンス、ショーソンを挙げましょう。

◆ワーグナー(1813-1883)の影響

ボードレールのような文学者にも大きな影響を与えたワーグナー。その作品(リブレット含めて)はまさにロマン派の象徴、巨大な潮流として甚大な影響をフランスにも与えています。とはいえ上述の通り「普仏戦争→ドイツ嫌い」という時代の流れもあり、なかなかに複雑な影響のあり方だった模様で。とはいえ、1890年代からは「バイロイト詣で」もはじまり、1913年には生誕百年祭も祝われたとか。ドビュッシーもワーグナーについては深く魅了されながらも嫌悪する、アンヴィバレントな姿勢を著作などで見せています。

これまで書く機会がなかったのでワーグナーについてちょっとだけ。千葉はあのリブレットが好きじゃなくて、あまり簡単に好きとも言えません。が、その音楽の巨大さは理解できるし、本当に好きな作品もいくつかあります。そうね、厭な奴が何人も登場する、説教の少ない「ジークフリート」は特に好きかも(笑)。ちょっと「世界を語り尽くしてみせよう」とでも言うかのごとき饒舌に付き合えないことがままあるもので・・・なお、オペラについては同時代の人ならヴェルディ(奇しくもワーグナーと同年生まれ)の方が好きな千葉ではありますが、影響力と云う点でワーグナーを高く評価するものでもあります。

◆そして、ドビュッシー登場

印象派というレーベル(商標っていうか、名札?)で知られる、千葉も大好きな作曲家。上述したあの曲、オネゲルが誕生した年から作曲された「牧神の午後への前奏曲」の作曲家、です。
彼が十九世紀のうちに取りかかっていた歌劇「ペレアスとメリザンド」が初演されるのは1902年。二十世紀の到来を告げる傑作と呼ぶに相応しいタイミングですね(余談ですが。1901年にマーラーの交響曲第五番が、R.シュトラウスの楽劇「サロメ」は1904-05年に作曲されます。これは、時代が変わるな・・・なんて、同時代に生きていたら絶対に言えなかっただろうことを言ってみる)。

多くの人が指摘している通り、ドビュッシーの音楽は良く考えられた楽曲の構成、洗練された楽器法、などによって際立った美しさを創りあげたのであって、うすぼんやりとした響きの綺麗さによってその名が今に残っているのではありません(もちろん、独自の美しい響きをつくり出したことは評価されるでしょうけれど)。
千葉はその昔吹奏楽少年だった頃からのドビュッシー好きデス。ピアノより、オケ派です、皆様お察しの通り。

◆セルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団登場

これは詳述しません。彼らによって初演される、有名な曲を挙げるだけでもけっこうな数になりますので。そうね、例によってWikipediaで見てもらうってのはどうかしら?     決まりね(誰が答えたのか)。

こんなに端折ってしまっても触れておかなければいけないのは、実り多き1910-1913年のプロダクション。「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」(ストラヴィンスキー)「牧神の午後」「遊戯」(ドビュッシー)「ダフニスとクロエ」(ラヴェル)などなど、オーケストラ音楽の視点から見た彼らのレパートリィはまさに宝の山、ですね。そういえば、「ヨゼフの伝説」(R.シュトラウス)が1914年かな、聴いておかなくちゃ。最近気になる新譜も出ましたし、ね。

◆第一次世界大戦(1914-1918)

ちょっと相手が悪すぎます、こんな大物について何かを書くのは控えます。Wikipedia はなかなか充実しているのでご参照くださるとよろしいかも知れません、お嬢様(執事喫茶か!)

え~、千葉からは、巨大な分水嶺のひとつとコメントするところでとどめます。戦争が、もはやいかなる意味でも騎士道的なものではあり得ず、圧倒的な大量死をもたらすものに変容した、その分水嶺として。または、ベル・エポックと云う永い夢の終わりを告げるラッパの音、かも。

そして、フランスは戦勝国であった、ということだけを付記します。


さてさて、おそらくはここまでの前提があって、フランス六人組が登場できるのかな、という風に今は理解しています。正直に申し上げて、ブログでこの話を書くのはどうかな?という疑念もあります。対象が大きすぎるのでこれではメモにしかなっておらず、千葉自身のためにしかならないかも、とも思います(おそらくは、後から見る、今とは少し違う千葉のために)。ですが数限り無い舌足らず、そして誤認などは覚悟の上で、ここにまず、そう、前奏曲のようなものとして、千葉が認識している十九世紀から二十世紀への見取り図を置きます。

後もうひとつ、オネゲルの交響曲を見る前に、彼につきまとうレーベル「フランス六人組」について次回書いてから、本題に入りたいと思います。前にも書きました通り、オーリックとデュレ、タイユフェールについては文献でしか知らないことがもどかしいですが・・・

いやはや。前説が長いですね、お恥ずかしい。ではまた。

◆読んだり聴いたり

えっと、今回いろいろと調べものをしたのでその資料の皆さんに登場していただきました。絶版なのが、「春の祭典」をタイトルに持つ、左後方の二冊。片や、バレエ・リュッスの1905年から1917年、ロシアを失うまでの時期について主要なメンバを中心に紹介してくれる「春の祭典 ロシア・バレー団の人々」(藤野幸雄、晶文社)。片や、第一次世界大戦からの、世界の変容(といってよいと思う)を描く、「春の祭典 第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生」(モードリス・エクスタインズ、TBSブリタニカ)。後者はまだ戦争が始まったばかり(・・・)。バレエの「春の祭典」初演時のスキャンダルについての論考が面白いデス。(再録にあたり注釈:千葉がガラケーで撮った写真は割愛します。以下リンクのほか、いくつかのCDを入れて写真を撮ったものでした)



そして右側の新書二冊は、こちらにリンクを貼りますので、ぜひご一読をオススメしますデス。なお、音源はアンゲルブレシュトの「ペレアスとメリザンド」、そしてモントゥーの「ペトルーシュカ&春の祭典」にご登場いただきました。
あと、直接にではないのですが、時代認識の仕方において千葉は笠井潔氏の著作に少なからぬ影響を受けている自覚があります。



一人の著者による、まさに音楽の歴史の流れそのものを一望する試み、でしょうか。勉強になります。



もはやおなじみ(微笑)の本書、二十世紀への流れから現在へと音楽の歴史が流れている、ということを認識させてくれた一冊です(音楽の歴史、というものがあるとして、ですが)。この本にはまた後ほど、登場していただきます。お楽しみに!