こんにちは。千葉です。今日のグランプリの話は後ほど。(再録にあたり註:2007年7月22日にはドイツ・ニュルブルクリンクでヨーロッパ・グランプリが開催されています)
ではオネゲル交響曲週間へのプロローグ第二回(微妙な・・・)、第一次世界大戦の後に現れた若者たち(仮題)、です。よくまとまった本を紹介し、このユニークなグループの話とします。残念ながら、千葉はそのうちの三人しか良く知らないもので・・・
◆フランス六人組 20年代パリ音楽家群像 エヴリン・ユラール=ヴィルタール(飛幡祐規 訳)
>翻訳された飛幡祐規さんのサイト(本書のあとがきが全文読めます)
もし彼らの活動に興味をもたれましたら、本書を一読されることをお薦めします。絶版みたいですが、きっと図書館にはあるかと・・・いや、こんな時こそ復刊ドットコムの出番かな?
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第一次世界大戦がはじまってしまった直後の混乱から落ち着きを取り戻しはじめたフランス。そこに現れた若い作曲家達を、まとめてしまいたくなったアンリ・コレを誰が責められましょう。前回も触れた、前世紀からのフランス音楽の流れを受けて登場したルイ・デュレ、ジェルメンヌ・タイユフェール、ダリウス・ミヨー、アルテュール・オネゲル、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック。前世紀の終わりに生まれた六人は、ともに演奏会を開き、そしてピアノ曲集を出版します。そのうちに、コレの「五人のロシア人と六人のフランス人」という批評により、彼らはグループとみなされるようになります。共通する主義主張がことさらに存在した訳ではなく※、ただ友情により活動を共にしていただけ、と本人たちは後に繰り返し語ることになるのですが・・・
※コクトーの「雄鶏とアルルカン」は彼らのマニフェストとなっている、とは言えるのかな?(代弁にしかなりませんが)あえて言うならば、反ロマン主義(特にワーグナー)、反ドビュッシー主義(反ドビュッシー、ではありません。御注意のほど)、あたりが明確な特性でしょうか。グループを束ねるにはあまりにも大きすぎる、茫漠とした「主義」ではあるのですが。そうそう、ラヴェルのことは明らかに嫌いだったようですね、少し意外でした。
彼らをグループとして世界に認識させたのは、スウェーデン・バレエの公演「エッフェル塔の花嫁花婿」(1921)のための音楽でしょう。とはいえ、今となってはその舞台を知る術がないのですが・・・
(彼らは多くの舞台音楽を作っていますが「消えもの」と思っていたような印象を受けます。一期一会、でしょうか・・・)サティの音楽による「パラード」同様、このグループ(と言って良いか、知るほどに疑問符がつきます)の活動は、以下のコクトーのラディゲの死に寄せたコメントに要約されているように思います。
(上記「フランス六人組」より、引用始め)
「エリック・サティのもとで、ある音楽家のグループと私とがフランス音楽を魔法から解き放った長い時代は、この不幸をもって幕を閉じる。
フランス音楽は(外国の音楽に)魅了されきっていた。サティは、音楽の聖者としての見本を示したコレージュ・ド・フランスで行った私の演説のタイトル、<無秩序と考えられた秩序について>は、1918年から23年までのパリを仰天させた笑い、スキャンダル、ビラ、夕食会、太鼓の音、酒、涙、葬式、出産、夢・・・・・・流れ星のようなそれらすべてのエスプリを一言で言いあらわしたようなものである」
(引用終わり)
とはいえ、六人組のメンバからは、あらためてグループの終わりは宣言されません。そう、もともと「批評の気紛れ」によってまとめられたに過ぎない、というのが彼らの認識ですからね。
この時期以降の彼らは明確にそれぞれの道を行きます。次回以降いよいよ紹介するオネゲルが最初の交響曲を作曲するのが1932年、この「エピソード」から十年近く後のことになります。そこに、この時代の影響がない、とは言いませんがもともと「あまり六人組的ではない」音楽をつくっていたオネゲルの、この時期の作品としては交響詩「夏の牧歌」(1920)、オラトリオ「ダヴィデ王」(1921-23)、交響的マイム(黙劇)「勝利のオラース」(1920-21)、そして交響的楽章(運動)第1番「パシフィック231」を挙げるといたしましょう。素朴に美しい「夏の牧歌」、独特なオーケストレーションが刺激的な「オラース」「パシフィック231」は大戦間の音楽の傑作に挙げられると思います。「ダヴィデ王」は、言葉がわかれば少しは言及できるんですが・・・(苦笑)ここでは、オネゲルの創作においてキリスト教との関わりは見逃せないものであることだけ指摘しておきましょう。
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一通り学習した上で。フランス六人組と言われたうちの三人(デュレ、タイユフェール、オーリック)の音楽を知らないのですが、という情けない注釈を付した上で、彼らのことを千葉なりに、以下のように整理してみました。
・六人の若き作曲家達が友情により集ったものを、便宜的理由によりグループとしてまとめたもの。しかしながら、そのように名付けられることで内実も発生した。彼らに言葉を与えるジャン・コクトー、先行する世代とは違う音楽観を提示したエリック・サティに導かれ、1918年から1923年までの一時期に、音楽家集団として活動した、と言うこともできるだろう。
(なお、ルイ・デュレはラヴェルについての認識の違いから、早期にこの「グループ」を離れている)
・グループとは言うものの、彼らに共通する作曲上のメソッドのようなものは存在しない。一般に、彼らの明解で線的な音楽は先行する音楽へのアンチ・テーゼと考えることもできる(当時のフランス音楽は前世紀末からのワーグナーの影響、そして「ドビュッシー主義」が色濃いものだった)。
しかしながら、そのような括り方もあくまでもこの時期については、と言う注釈の元でのみ有効であろう。
・時代背景として、第一次世界大戦前後のフランスに注目する必要があるだろう。ベル・エポックの終焉、そして民間人と兵士を区別しない絶対戦争の時代の幕開け、しかしその戦争の戦勝国民たちの音楽としての、彼らの活動を意識すべきだろう(特にも、プロイセン帝国→ワイマール共和国からナチス・ドイツへ、という変遷が敗戦国にはあるのだから)
え~、上手くまとまっていたら良いのですが。まず知っている後二人について、そして知らない三人については自分への宿題にしよう、と日記には書いておこう。ということで、プロローグは終了です。では次回、交響曲第一番をお楽しみに。ここからは少しペースをあげるつもりです。では。
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