2017年2月17日金曜日

書きました:笈田ヨシ演出「蝶々夫人」高崎公演レヴュー

こんにちは。千葉です。

寄稿した記事のご紹介です。

●賭けて、すべてを失った。一人の女性の生き方を描くドラマ———高崎の創造舞台芸術 自主制作オペラ《蝶々夫人》

”これはあまり同意してもらえない意見かな”と感じていた「蝶々夫人」観を、笈田ヨシによる演出にかこつけて書いた部分もあります。すみません。

でもこのオペラ、一途な純愛ものとかシンプルな悲恋ものとして読むよりは、一つの可能性に賭けた少女ながら意志の強い女性のドラマと見るほうが筋が通ると思うんです。第一幕で明かされていく彼女の行動を追っていくとこうなります。

・一度面通しをしただけのアメリカ人との結婚を承諾する
・その未来に不要なものを捨てていく、最終的には一族をも捨てて社会から切り離される
・ピンカートンと二人だけの夫婦として生きていくと歌う(もちろんスズキは一緒にいてくれるけれど)

恋の夢とは異なる水準の行動をしているように見えるんです、私には。もちろん、演出によってはピンカートンに気に入ってもらいたくてトクントクンしてる(古、とまぜっかえすことでマクロスFを参照していないことがわかる←どうでもいい)蝶々さんもありでしょうけれど、私には「合衆国に連れて行ってもらってアメリカ人として暮らす」未来を視野に入れていた蝶々さんの方が作品から読み取れる存在のように思えるのです。ただこう読んだ場合には、恋愛の可能性よりも無理な願いを抱いてしまったことが、彼女をさらに追い詰め絶望させる現実となるのですが…
このプロセスを描く中で、この舞台では「何かを捨てる」動作が印象に残ります。彼が不快感を示したお歯黒、そして仏像。その所作を印象的に見せる舞台で最後に彼女が投げ捨てるもの、それがこの舞台のキーである、というのが私のレヴューのキーです。さて扉は開きますかどうか、既にこの舞台をご覧になった方はぜひお読みいただければ幸いですし、これからご覧になる方も終演後にでもぜひご一読くださいませ。


観劇前には情報を入れすぎないため見ておりませんでしたこのメッセージ、深く頷ける部分多数なのです。ぜひご覧ください、笈田ヨシが今回の舞台について、「蝶々夫人」について語っています(約五分、芸劇チャンネルより)

こう考えてくると、市川森一氏のようなヴェテランの脚本家が晩年の仕事として、蝶々さんにせめてもう少しましな可能性をあげたいと願って小説とドラマを作られたのも、理解できるものです(少なくとも私はあのドラマをそのように拝見しました。おそらくは八千草薫以来の、日本人が視覚的に納得する可憐な蝶々さんでしたね宮﨑あおい)。しみじみ。


こんなの見つけちゃいました。名高いオペラ映画撮影のためイタリア入りする八千草薫以下ご一行。かわいい(直球)。

なお当日の話を少し。文中にも書いた、第二幕の有名すぎるアリア「ある日私たちは見るでしょう」(最近こう表記する運動を密かにしています)での感情表現あたりから、周りの皆さんがすすり泣く声が聞こえはじめましてですね。ええもう私ももらい泣きしちゃいますよそりゃあ泣きますって※。目から水が出る程度ですけどね、とめどなく!(呼吸さえコントロールできれば演奏会中に咳き込むこともないくらいには呼吸を鍛えた過去がありますので、嗚咽まではなかなか至りません)
第二幕では”三度の打撃で場面が変わる”仮説を持っているのですが、これはちょっと検証しないとお出しできません。ロイヤル・オペラ・ハウスの上映の頃(4~5月頃と予想)にはお出しできるといいのですが、スコアを確認しないと…

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そうそう、スコアと言えば、プッチーニのスコアは聴くとすぐにそれとわかるのに譜面上はびっくりするほど普通なんですよね(除「トスカ」。あれはかなり緩急も細かく指示があるし、執拗に煽り立てるようなシンコペーションがドラマの性格が違うことを示している、のかも。これは東京二期会「トスカ」を観劇したらまた考えます)。美しいオーケストレーション、八つもの日本の音楽の引用がありながらも自然に聴かせるその技などについて、なにか学ぶすべはないものだろうか、などと考えてしまいます。スコア眺めて演奏を体験して、あとは何をしたらいいだろうか…こんな風に刺激を受けた舞台でありました。これも文中で少し書いていますが、先日公演が終わった新国立劇場の舞台をご覧になった方はそのアプローチの違いを興味深く楽しめるでしょうし、ミラノ・スカラ座が復活させて話題を呼んだ初演版はこの舞台と通底する厳しさがあるように感じました(感想他は後日。今は白塗りや過剰にも思えるオリエンタリズムには、ちゃんと表現意図があると思いますよ、とのみ)。
この先「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン」でも上映がありますから、今さらながら「蝶々夫人」の人気というのは大きいのですわ。その人気は、エキゾティシズムやお涙頂戴によるものではない、とこの舞台は教えてくれていると愚考する次第であります。詳しくはレヴューをぜひ、ご一読くださいませ、と重ねて申し上げます。


この絵面に、ちょっとこの件を思い出して、こちらはアリで向こうはナシであることについて考えてしまう部分もなくはないのですが、どちらも興味深い舞台です。なにせ指揮がシャイーとパッパーノですもん!要チェックですよ。

なお文中でも少し触れましたが群馬音楽センターの建築としての佇まいも素敵で、それだけでも高崎まで足を伸ばした価値は間違いなくありました。また機会があればお伺いしたいものです。

外観からしてかっこいい。ガラス張りの前面、五角形の存在感がたまりません。

休憩中のロビーはこんな感じ。壁画も独特で、この造形が生み出す雰囲気が実にいいんです。

そして一階エントランスには彼が鎮座していました。きっと池袋で目が入るのでしょう。

そう、この週末に東京芸術劇場でこのプロダクションの巡演も終わります。その準備の模様はこんな感じ、高崎とはまた違う印象の舞台になることでしょう。

好演でこのプロダクションのフィナーレが飾られますことをお祈り申し上げてこの記事はおしまい。ではまた、ごきげんよう。

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